マハトマ・ガンジーの言葉

インドのグジャラート出身の弁護士、宗教家、政治指導者。インド独立の父。「マハートマー」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされているガンディーの尊称。

南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。その形は民衆暴動の形をとるものではなく、「非暴力、不服従」を提唱した。

この思想はインドを独立させ、イギリス帝国をイギリス連邦へと転換させただけでなく、政治思想として植民地解放運動や人権運動の領域において平和主義的手法として世界中にきな影響を与えた。ガンディーに倣ったと表明している指導者にM. ルーサー・キングJr、ダライ・ラマ14世等がいる。

性格的には自分に厳しく、他人には常に公平で寛大な態度で接した。

ガンディーはヒンドゥー教徒だけでな、くイスラーム教徒にも影響を与えている。1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の前後、宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは何度も断食し、身を挺してこれを防ごうとした。しかし、ヒンドゥー原理主義者からはムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視された。

1948年1月30日、ガンディーはニューデリーのビルラー邸で狂信的なヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人らによって暗殺された。3発のピストルの弾丸を撃ち込まれたとき、ガンディーは自らの額に手を当てた。これはイスラーム教で「あなたを許す」という意味の動作である。そして、ガンディーは「おお、神よ」とつぶやいてこの世を去った。78歳であった。

Mohandas Karamchand Gandhi
1869年10月2日 - 1948.1.30
ガンジーの言葉  
1, 信

人を信じる心をなくしてはいけない。人間性とは広い海のようなもの。数滴
の汚れで、海全体が汚れることはない。


何か信じるものがあるのに、それに従って生きない人間は信用できない。

人は、自らの内面から、自身の平和を見いださねばならない。そして、真の平和は
外界の状況に左右されるものであってはならないのだ。」
 

祈りがなかったら、私はとっくの昔に気が狂っていたであろう。祈りはまさに宗教の
魂であり、精髄である。だから祈りは人生の確信である。宗教心を持たずしては、
何人も生きられないからだ。何か信じるものがあるのにそれに従って生き
ない人間は信用できない。


人はなぜ心に恐れを抱くのか。それは、自分の魂の力を、真理の力を信じて

いないから。しかし、信じる心は理性の力で得られるものではない。それは、
自分自身のためではなく、他人のために働き続けることで、ゆっくりと自分
のものになる。たとえ一人になろうとも、全世界に立ち向かい給え!世界か
ら血走った眼で睨まれようとも、君は真っ向から世界を見すえるのだ。恐れ
てはならない。君の心に響く、小さな声を信じ給え!

重要なのは行為そのものであって、結果ではない。行為が実を結ぶかどうか
は、自分の力でどうなるものではなく、生きているうちにわかるとも限らな
い。だが、正しいと信ずることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何も
しなければ何の結果もないのだ。                

人間はその人の思考の産物にすぎない。人は思っている通りになる。

他人に変わって欲しければ、自ら率先して変化の原動力となるべきだ。

物事は初めはきまって少数の人によって、ときにはただ一人で始められるもの
である。

私は固く信じている。すべての善の行動は、最後は必ず実を結ぶ。

真実はすべて心の中にある。人はそれを探し求め、真実によって導かれ
なければならない。

私は、どこまでも楽観主義者である。正義が栄えるという証拠を示しうるとい
うのではなく、究極において正義が栄えるに違いないという断固たる信念を抱
いているからである。精神性の最大の要素は「恐れない心」である。

我々をとりまく全ての物事は常に変化している。変化の源泉は生きる力にある。
それは不変であり、結果を生んではまた創造する。あなたがこの世で見たいと
願う変化に、あなた自身がなりなさい。

善良さには知識が伴っていなければならない。単なる善良さはたいして役に立
たぬ。人は、精神的な勇気と人格に伴った優れた識別力を備えていなければな
らない。

勇敢な人は、一人闘うことを誇りとする。

我々の信念は、常に燃え続ける灯火でなければならない。それは我々に
光明を与えるだけでなく、周囲をも照らすのだ。友の幸福のためにどれ
だけ尽くしているか、そこに人間の偉大さを測る物差しがある。


恐怖が不信を生むのです。誰か一人でも恐れることをやめたら、我々は
争うことをやめるでしょう。

女性の直感は、しばしば男性の高慢な知識の自負をしのぐ。

恐怖に屈すれば、真実さえも抹殺されてしまう。自らが正しいと信ずる
ことを恐れずに実行する。

偉大な人は常に一人立つ。

世界に変革を求めるならば、自分自身を変えることだ。

見るためだけの目は、世界にたいして盲目となる。

行動の最中には静寂を、そして休息においては活気を学ばなくてはなら
ない。

人間の心の中には、闇の力と光の力の間で永遠の戦いが激しく行われて
います。


目標はつねに、われわれから後ずさりする。

たとえあなたが少数派であろうとも、真実は真実なのです。

恐怖は、マラリアや黒熱病よりも恐ろしい病気である。マラリアや黒熱
病は体を蝕む。しかし、恐怖は精神を蝕む。

土を耕すのを忘れるということは、自分自身を忘れることだ。

たとえあなたが少数派であろうとも、真実は真実なのです。

虚偽の中に真実が存在するのを。闇の中にこそ光が存在するのを。


2 愛と憎しみ

世界の不幸や誤解の四分の三は、敵の懐に入り、彼らの立場を理解したら消え去るであろう。

『もし、ただ一人の人間が最高の愛を成就するならば、それは数百万の
人々の憎しみを打ち消すに十分である』


「敵と相対するときには、その敵を愛で征服しなさい。」

臆病な者は愛を表明することができない。愛を表明するとは勇敢さの現れである。


弱い者のほど相手を許すことができない。許すということは強さの証だ  

私はヒンズー教徒でありイスラム教徒でありキリスト教徒でありユダヤ
教徒です。枝は違っても皆、一つの木なのです。

「イギリス人が敵なのではなく彼らの考え方が敵なのであり、問題さえ
解決すれば必ず良き友人になれる」

私はもっとも大きな愛を、間違ったことへのもっとも大きな反対と結び
けることができる。

過ちを告白することは掃除に似ている。箒で埃を払ったあとは、すっき
りときれいになり、晴れやかな気分になる。告白することは、より強く
なることなのだ。人は欠点に気づいたならば、即座にそれを改めなくて
はならない。改める行為そのものが、人間にとって価値ある正しいこと
なのだ。間違っても、欠点を見て見ぬふりをして、状況を悪化させては
ならない。

人類が絶えず愛の掟に従ってきたかどうか、私は知らない。しかしそれ
は私の邪魔にはならない。愛の掟は ちょうど重力の法則のように働く。
我々がそれを認めるかどうかには関わりがない。愛の掟に気がついた人
は、 我々の今日のどんな科学者よりもはるかに偉大な学者だろう。た
んに我々の探求がそこまで十分に行き届いては いないために、誰にで
も愛の法則が働くのが理解できるようになっていないのだ。 臆病なも
のは愛を表明することができない。愛を表明するとは勇敢さの現れであ
る。

私は失望するといつも思う。歴史を見れば、真実と愛は常に勝利を収めた。暴
君や残忍な為政者もいた。一時は彼らは無敵にさえ見える。だが、結局は亡び
ている。それを思う。

私の行動すべては人類への避けがたい愛のうちに源を持っている。

罪を憎みなさい、罪人を愛しなさい。

あなたが何をするにしても、それは些細なことでしょう。しかし、それ
をするということがとても大切なことなのです。

間違ったことをしている人を見たら、自分だって間違いを犯したことが
あると思い起こそう。欲深い人を見たら、自分もかつてそうだったと思
おう。こうやって世界中のあらゆる人に自分との共通点を見出せば、自
分の幸せと同じように、人々の幸せを願うようになるだろう。

私たちのように未完成な人間に、何もかも完璧にこなせるわけがない。私
たちにできるのは、その時その時の妥協点を探ることである。

愛国心は人類愛と同一である。私は人間であり、人間的なるがゆえに愛国者である。


[国民一人一人が考えることが大切]
政府や政治家を批判するだけではなく自分で考えてみよう。人は往々に
してマスコミの報道に振り回され、優柔不断に考えを変える。時計の振
り子のように決してとどまることがない。弁の立つ人や、根回し上手な
政治家をつい支持してしまう。国民にも政府と同様の責任があることを
しっかりと胸に刻もう。

怒りは酸のようなもので、注ぐものにも増して、その器に大きな害を与
える。


私は、苦い経験を通じて、最高の教訓をひとつ学んだ。怒りをコントロー
ルするということだ。蓄えられた熱がエネルギーに変わるように、抑制
された怒りを、世界を動かす力に変えることができる。


臆病者は決して道徳的にはなれない。


3 死 人生 目標 

私の生き様が、私のメッセージである。
人生そのものが、私の教えです。

亡くなった人の思い出を不滅のものとするために、私たちはいま何をす
べきだろう。涙を流すのはたやすい。しかし、それだけでは彼の身近な
人々にも、彼を深く愛する人々にも、私たちにも、なんの慰めにもなら
ない。私たちがすべきことは、亡き人がそのために生き、全力を傾けた
仕事を引き継ぎ達成することだ。肉体は滅びても、魂は決して滅びない。
亡くなった人の魂はそうして不滅のものとなる。


死は積み重ねてきた努力の終わりを意味するのではない。精一杯生きた
人生は、その次のより良き人生を導く。

死ぬならば散るように、生きるならば枯れることなく。

私はずっと前に死を悲しむことをやめた。もちろん身近な人を亡くし
たらショックを受ける。けれど立ち直るためにこう考える。死は救済
であって、友人を家に招き入れるように受け入れるべきものだと。死
は肉体からの解放であり、そこに宿っていた魂がなくなることはない。

私たちは人生の中で経験したことを、何もかも覚えていられるわけで
はない。むしろほとんど忘れてしまっていいのである。そうでなけれ
ば、後悔や迷いが頭から離れることがないだろう。ある出来事があっ
て、そこから何かを学んだなら、起きたことは忘れてしまおう。


すべてを運命のせいだと諦めてはいけない。これまでの努力を無駄に
しないためにも。

痛々しい前進であっても、この痛みは前向きな喜びだ。なぜなら、
一歩前に踏み出すたびに、私たちは少しずつ強くなり、次に進んで
いけると確信できるからだ。

運命は私たちがつくるものだ。いまからでも遅くない。いまをどう
生きるかで、未来が決まる。目的を見つけよ。手段は後からついて
くる。平和への道はない。平和こそが道なのだ。


努力することは人間の務めである。最善を尽くしてもがいていると

きに、たとえ災いに押し流されそうになっても、決してくじけては
いけない。

理想に近づこうと努力すればするほど、理想は遠ざかっていく。しかし
理想の実現よりもはるかに価値あることは、熱い思いをもって前に進み
続けることである。ときにつまずき、ときに倒れることもあるだろう。
それでも私たちは再び立ち上がる。現実から逃げることさえしなければ、
それで充分である。何かを訴えたい、意志表明したいと思ったときに、
それを話したり書いたりする必要はない。行動し、生き様で示すしかな
い。私たちは一人一人の生き様を、生きた教科書にしよう。誰もがそこ
から学び取ることができるように。

あなたの夢は何か、あなたが目的とするものは何か、それさえしっか
り持っているならば、必ずや道は開かれるだろう。束縛があるからこ
そ、私は飛べるのだ。悲しみがあるからこそ、私は高く舞い上がれる
のだ。逆境がある からこそ、私は走れるのだ。涙があるからこそ、
私は前に進めるのだ。

明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。

ゴールへ到達しようとの試みにこそ、栄光はある。

人間の英知を信用しすぎるのは賢明ではない。強者も弱くなるかもしれ
ないし、賢者も間違うかもしれないと心に留めておくことは健康的であ
る。

もし、私にユーモアがなければ、これほど長く苦しい戦いには耐えられなかったでしょう。

多くの犠牲と苦労を経験しなければ、成功とは何かを決して知ることは
できない。 

毎晩眠りにつくたびに、私は死ぬ。そして翌朝目をさますとき、生まれ変わる。
喜びとは、勝利それ自体にではなく、途中の戦い、努力、苦闘の中にある。
臆病者は数の力を喜ぶ。しかし、勇敢なる精神をもつ者は、一人戦うことを誇りとする。
善いことは、カタツムリの速度で動く。

死ぬ覚悟が出来ていれば、人は自由に生きられる。

報酬を求めない奉仕は、他人を幸福にするのみならず、我々自身をも幸福にする。

満足は努力の中にあって、結果にあるものではない。

良心に関しては、多数決の法則は当てはまらない。

苦闘が多ければ多いほど、勝利は輝かしい。

怠けていることは喜びかもしれないが重苦しい状態である。幸せになる
ためには何かをしていなくてはならない。

万人の福利を願うことが自らの福利につながる。自分や自分の所属する
小社会のみの福利を願う人は利己的であって、そうすることは、けっし
てその人のためにはならない。


近隣のために尽くす人は、同時に、人類のために尽くしている。


私には見える。死の中に生が存在するのを。虚偽の中に真実が存在する
のを。闇の中にこそ光が存在するのを。

未来は、「今、我々が何を為すか」にかかっている。

平和への道はない。平和こそが道なのだ。

私には人に命を捧げる覚悟がある。しかし、人の命を奪う覚悟をさせる
大義はどこにもない

われわれは数量的な力に頼らない。われわれは人格の力に頼るのである。
何か信じるものがあるのに、それに従って生きない人間は信用できない。

目標はつねに、われわれから後ずさりする。

私には見える。死の中に生が存在するのを。

自分の身は自分で守るしかない。政府がいかに努力したところで、あな
た達を救うことはできまい。どれほどの権力があろうとも、国民の支持
が得られない政府など無力だ。だから、明日はもう政府はないと思いな
さい。そのとき、あなた自身が政府となるのだ。

[他力本願にならないことの大切さ]
これまでどおり自分以外の働きに期待し続け、誰かが動けば問題は解決
すると考えている限り、私たちは自分たちの目的を達成してその成果を
手にすることはできない。

最高の道徳とは、不断に他人への奉仕、人類への愛のために働くことである。

『すべての人の目から、あらゆる涙を拭い去ることが私の願いである』

道徳と進歩と改善は、つねに不利不可分の関係にある。

人は何度でも立ち上がる。立ち上がっては倒れ、立ち上がっては倒れ、その
足元はおぼつかないかもしれない。けれども、立ち上がったことは、一
生忘れることのない、かけがえのない記憶となる。

私たちにはもともと困難を乗り越える力が授けられている。心の中から
この恐れを追い出せば、その力が蘇る。恐れるな、道は開ける。

あらゆる改革は、不満を抱くことから始まった。いままで当たり前のように受
け入れられていたものを、嫌悪するようになったとき、人は初めてそれ
を捨てることができる。

[理想に進み続けることに価値]
理想に近づこうと努力すればするほど、理想は遠ざかっていく。しかし理想
の実現よりもはるかに価値あることは、熱い思いをもって前に進み続け
ることである。ときにつまずき、ときに倒れることもあるだろう。それ
でも私たちは再び立ち上がる。現実から逃げることさえしなければ、そ
れで充分である。

誤りを犯すことの自由が認められない自由なら、価値がない。

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4 非暴力、抵抗、NO!

非暴力は私の信念の第一章であり、また私の信条の最終章でもある。

非暴力には敗北などというものはない。
これに対して、暴力の果てはかならず敗北である。

世界の運命を暴力によって蹂躙させない唯一の方法は、私たち一人ひと
りがあらゆる暴力を肯定しないことにある。

暴力によって得た勝利というものは敗北に等しい。それはつかの間のものだからである。

無暴力とは、悪を行う人間の意志におとなしく服従することではなく、暴力者の意志に対して
全霊を投げ打つことである。

「我々人間は、どこへ行こうとも人々の心に平和と非暴力の種を蒔き続けることに命を
捧げなければならない」

私は自分が死ぬ覚悟ならある。しかし、私に人を殺す覚悟をさせる大義はどこにもない。

はじめに彼等は無視し、次に笑い、そして挑みかかるだろう。そうしてわれわれは勝つのだ

善に協力するのは義務である。と同時に、悪への協力を拒否するのも義務なのである。

非暴力が人間の理法であるならば、未来は女性とともにある。

善に協力するのは義務である。と同時に、悪への協力を拒否するのも義務なのである。

「目には目を」という考え方では、世界中の目をつぶしてしまうことになる。

非暴力は暴力よりも無限に優れているし、許すことは処罰するより遥かに男らしい。

非協力運動は、無意識のうちに悪に加担してきたことに対する抗議だ。

率直な意志の相違は、進歩を示す健全な兆候だ。

非暴力は人間に与えられた最大の武器であり、人間が発明した最強の武器よりも強い力を持つ。

きっぱりと、心の底から発した「NO」という言葉は、相手に合わせて、
ましてや面倒を避けるためについ言ってしまった「YES」に比べたら、
はるかに価値のある言葉である。

人は欠点に気づいたならば、即座にそれを改めなくてはならない。改め
る行為そのものが、人間にとって価値ある正しいことなのだ。間違って
も、欠点を見て見ぬふりをして、状況を悪化させてはならない。

自分とは異なる考え方を受け入れられないのも、暴力の一つの形です。
それでは真の民主的精神は、一向に育たない。

はじめに彼等は無視し、次に笑い、そして挑みかかるだろう。そうして
我々は勝つのだ。暴力によって得た勝利というものは敗北に等しい。
それはつかの間のものだからである。

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5 子供 未来

子どもは真実を映し出す鏡である。彼らには驕りも、敵意も、偽善もな
い。もし思いやりに欠け、嘘つきで乱暴な子供がいたなら、罪はその子
にあるのではなく、両親や教師や社会にあるのだ。

過去は私たちのものだが、私たちは過去のものではない。私たちは現在
を生き、未来をつくる。たとえその未来に私たちがいなくても、そこに
は子供たちがいるから。

夫婦は対等であるべきだ。妻は夫に忠誠と献身を示さなければならない
というのなら、夫も妻に対し同じように忠誠と献身を示すべきだ。決し
て夫婦を別々の物差しで計ってはいけない。

自分の身は自分で守るしかない

6 幸福

幸せだけを追い求める心が悲劇を招き寄せる。幸せは悲しみと苦しみを克
服した心が生み出すものです。

幸福とは、あなたが考えることと、あなたが言うことと、あなたがする
ことの調和が取れている状態のことだ。

幸せとは、誰かのために生き、その人の幸せな姿をこの目で見ることです。

いま以上の何か、ここではないどこかにある幸せ、それを追い求めても、
それは蜃気楼です。近づけば近づくほど、遠のいていきます。いまここ
にあるもの、それに満足することが幸せなのです。

努力することは人間の務めである。最善を尽くしてもがいているときに、
たとえ災いに押し流されそうになっても、決してくじけてはいけない。

[不幸は試練]すべてを運命のせいだと諦めてはいけない。これまでの努
力を無駄にしないためにも。不幸は私たちに与えられた試練である。こ
の試練を乗り越えたとき、すべてはきっと好転する。そう信じて、辛抱
強く耐え抜こう。耐え抜いたとき、あなたはとてつもない力を手にして
いることだろう。

[不満は良いこと]
不満は不安の表れである。不満が国中に広がることは、少しも悪いこと
ではない。むしろそこには希望の光がある。現状に甘んじている限り、
人はそこから抜け出そうとしないものだから。

そんなことはこれまでの歴史にはない。だから起こるはずがない。そう
思い込んでいる人は、人間の持つ大きな可能性を見ない人だ。私たちは、
まずそんな思い込みから自由になろう。そして、自分の心が正しいと思
うことを、やってみればいい。するなら、歴史を繰り返すのではなく新
しい歴史をつくろう。私たちの祖先が残した遺産に、新たな良きものを
加えよう。

不幸は私たちに与えられた試練である。この試練を乗り越えたとき、
すべてはきっと好転する。そう信じて、辛抱強く耐え抜こう。耐え抜
いたとき、あなたはとてつもない力を手にしていることだろう。

幸福とは、考えること、言うこと、することが調和している状態である。

7 冨と貧困
あまりにも多くの食料が、裕福な人々によって浪費されている。食料
を切実に必要としているのは、貧しい人や苦しんでいる人たちだ。な
のに、一部の人々の贅沢が、彼らから食料を奪ってしまう。だから裕
福な人は粗食を心がけなさい。それは体調を損なうどころか、むしろ
健やかな体を手に入れることにもなるのだから。

お金の神を崇拝する私たちは、ものがあふれかえった便利な暮らしに溺
れている。しかしこのような暮らしは、精神的に豊かな暮らしとは決し
て両立するものではない。金銭欲や物欲から離れ、品位のある暮らしが
できて、人は初めて、他者を思いやる人生を過ごすことができる。


土地や財産を持つのは重荷である。この思いは私の中にずっとあり、ま
すます膨らんでいる。それはつまり旅に出る前の心得と同じだ。旅人は
自分の荷物をできるだけ少なくして、身軽に旅をしようとする。それと
同じで、私も余分な荷物など持ちたくはない。
私が富める人々に対して言えることは、富を捨てることによって富を享
受せよということです。あなた達はあらゆる方法によって富を得なさい。
しかし、その富はあなたのものではないことを知りなさい。それは人々
のものです。必要なものだけを取り、残ったものは社会のために使いな
さい。私は、あなたが正しい手段で手にした資産を捨てろとは言わない。
しかしその資産は、決してあなた自身のものではない。それは人々のた
めに役立てることができるように、あなたに一時的に預けられているも
のだ。そのことを忘れてはならない。

あなた達資本家の財産は、自分だけのものではない。あなたのいまの地
位と財産は、従業員の勤勉な汗によって得られたものなのだ。彼ら従業
員をあなたの財産の共同所有者とする必要がある。そしてその富は、もっ
ぱら彼らの利益のために捧げげて欲しい。

私たちの体は奉仕に捧げるためのものである。決して自分だけのもので
はない。だから、一人一人が自分の体を守るボディガードとなって、体
調を万全に整える術を身につけよう。いざというときに、この体を差し
出し、役立てることができるように。

簡素に暮らし、豊かに思考する。そんな理想の追求を、人はひとたび日
々の暮らしの中で欲を膨らませた途端捨て去ってしまう。人の本当の幸
せは、満足することにあるのに。

尊厳を保つためには、金は必ずしも必要ではない。

私が生きんがため、奉仕せんがために食べるし、また、たまたま楽しむ
ために食べることがあっても、享楽のために食べるものではない。

[物欲の執着から逃れるには]
この世にあるものはすべて、生成と消滅を繰り返すものと考えれば、人
は物欲の執着から逃れることができる。

本当の富とは、 健康のことであり、 金や銀のことではない。

必要なものだけを得る、シンプルで簡素な暮らしでいい。そんな精神を
持って働く人々の仕事を評価しないのは大いなる損失である。

人は自らの手足を使って働き、日々の糧であるパンを得るべし。額に汗
して働かない人に、どうして食べる権利があるだろう?

暮らしの中に、ある程度の快適さは必要です。しかし、一定レベルを
超えると、それは役立つどころか心の足かせとなります。あれもこれ
もと際限なく欲しいものが増え、その欲求を満たさずにはいられなく
なる。快適さとは、心にとって惑わしであり落とし穴なのです。

人は自らの手足を使って働き、日々の糧であるパンを得るべし。額に
汗して働かない人に、どうして食べる権利があるだろう?



7つの社会的大罪: 

 ① 原則なき政治  ② 道徳なき商業  ③ 労働なき富 ④ 人格なき学識 
 ⑤ 人間性なき科学 ⑥ 良心なき快楽 ⑦ 献身なき信仰    


速度
---------
速度を上げるばかりが、人生ではない。善いことは、カタツムリの速度で動く。

良きことはカタツムリのようにゆっくり進む。だから、自分のためでなく人々のために働く人は、いたすらに急がない。なぜなら、人々が良きことを受け入れるには、多くの時間が必要なことを知っているからだ。

運命は私たちがつくるものだ。いまからでも遅くない。いまをどう生きるかで、
未来が決まる。

私たちは人生の中で経験したことを、何もかも覚えていられるわけではない。むしろほとんど忘れてしまっていいのである。そうでなければ、後悔や迷いが頭から離れることがないだろう。ある出来事があって、そこから何かを学んだなら、起きたことは忘れてしまおう。

西洋文明
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「西洋文明についてどう思いますか」という記者の質問に答えて。
いい考えだったんだろうとは思うね。しかし、「ヨーロッパは、神の、あるいはキリスト教の精神を代表していない、むしろサタンの精神を表している」、というのは私の堅い信念である。そしてサタンの成功が最大のものとなるのは、そ口に神の名をのせて現れるときである。 西洋のキリスト教が実際に行っていることを考えるに、キリストの[実践した]キリスト教の否定だと思う。

日本に対して
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私は、あなたがた日本人に悪意を持っているわけではありません。あなたがた日本人はアジア人のアジアという崇高な希望を持っていました。しかし、今では、それも帝国主義の野望にすぎません。そして、その野望を実現できずにアジアを解体する張本人となってしまうかも知れません。世界の列強と肩を並べたいというのが、あなたがた日本人の野望でした。しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではないはずです。あなたがたは、いかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない。ただ、剣にのみ耳を貸す民族と聞いています。それが大きな誤解でありますように。  
       あなたがたの友 ガンディーより  (1942年7月26日)