一色 宏 | プロフィール |
昭和12年9月9日、愛媛県松山市に生まれ。詩人シラーの「青春の夢に忠実であれ」 をモットーに、洋画・日本画を学び、デザインの制作に携わる。美学・哲学の師に学び ながら、人間がなぜ、真・善・美・利を求めるのかを追求し、デザインは単なる意匠や、 コミュニケーションの手段にとどまらず、生活文化としての役割や、企業文化の創造の ために、「Human Heart First」をモットーに、万象の共感を呼ぶデザインを探求している。 現在、デザインオフィス創美庵・未来創庵の庵主としてデザイン制作に専念。 デザインの制作活動は、シンボルマーク(C.I)をはじめ、多方面のデザインを手がけ ている。朝日広告賞、毎日デザイン賞。NPO法人YDM Association理事長/NPO 知恵の輪理事長/NPO日本伝統芸術文化協会理事/NPO徳育と人間力育成研究 所理事/NPOライフバランスリサーチセンター理事/ローマニアン・ネットワセンター 副会長/ミスアジアパシフィック・ビューティーコンテスト本部理事審査員。山田養蜂場 のメッセージ広告は、朝日広告賞/毎日デザイン賞(両準グランプリ)を受賞。 シンボルマークのデザインは、世界192カ国に広がっている。 HP: 著書:『美の実学』 |
Life-Heart Message 2016.02.29.
ある日、ブラームスは友人に一通の手紙を書き送った。「モーツァルトの歌曲<フィガロの結婚>の
曲はすべて、私には奇蹟だ。これほど完璧なものを生み出す人間がいるなんて、絶対に理解
できない。このような作品は誰も書けなかった。ベートーヴェンにも」精緻な譜読みをし、楽曲
分析を試みな大作曲家が洩らした本音であると、音楽学者は言う。モーツァルトは幼くして
鍵盤楽器、弦楽器の演奏に長じ、僅か6 歳にして当時権勢並ぶものなきハプスブルク帝国
(神聖ローマ帝国)の女帝マリア・テレジアのもとに同候、宮中で妙技を披露した。人間離れ
した才能を、丹精こめて磨き上げて史上最高の音楽家に仕立て上げた父親レオポルトは、
その成果を自らの老後の幸せに生かすこと叶わぬままに、息子モーツァルトの手紙を手に
淋しくこの世を去る。享年67。偉大な教育者、孤独な人生の幕切れであった。
父親の病死を境に、モーツァルトの悲劇は、持って生まれた才能が勝手に独り歩きを
始めた時点から始まった。生計窮乏に瀕し、借金生活を余儀なくし舞踏会用の音楽や行
進曲などを量産していた。とにかくお金が欲しかったのである。妻のコンスタンツェは、
絶え間なく妊娠し、6 人の子供に恵まれたが、4 人まで幼くして死亡してしまった。体
調を崩し、精神が不安定になっている妻のために薬代と湯治の療養費用を稼ぎ出さなけ
ればならなかった。妻としても、母としても責務を十分に果たせなかったが、モーツァ
ルトは、死ぬまで妻を愛し続けていた。彼が旅先から出した手紙、妻の療養先のバーデ
ンに送り続けた書簡に「お前のところに帰るのが、子供みたいに嬉しい」「ぼくがお前
を愛し、いつまでも愛するであろうように、ぼくを愛すること」「お前が2 日もぼくに
書いてくれないのは、許せないね。今日は間違いなくお前からの便りを受け取りたいも
のだ。そして明日は直接会って話をし、心をこめてキスをしよう。いつまでもお前のモー
ツァルト」彼は全身で妻を愛していた。彼女は心の支えであった。経済的な逼迫や妻子
への心配に加え、心の内においては、語るのも辛い悲痛な経験が彼の音楽を高みへと導
いたが、長期間続いて蓄積された精神的疲労と肉体の疲労によって、1791 年12 月5 日
死去。享年35。
最後まで彼の理解者であり続けたウィーンの貴族ヴァン・スヴィーテン男爵が、真夜
中にもかかわらずかけつけ、コンスタンツェとともに泣いた。未亡人になった彼女は亡
くなった夫のベットにもぐりこみ、同じ病気にかかって死のうとした。だが独り身で子
供を養い、食べて行かなければならない状況に立ち至った時、それまで眠っていた商才
が目を覚ました。モーツァルトの作品を整理し、楽譜出版に精力を注いだ。その結果、
譜面の散逸が抑えられ、人類の宝の多くが遺されたのである。また書簡300 通が守られ
て、モーツァルトと研究第一級の史料として遺されている。保存に果した彼女の功績は
大きい。再婚した相手、デンマークの枢密顧問官ゲオルク・ニッセンは、彼女の助力を
得て「モーツァルト伝」を書き、死後それが未亡人コンスタンツェの手によって刊行さ
れた。
Life-Heart Message 201112.05.
サイモン・ポッター教授は、あまり知られていない逸話や引用を用いて、また著名人を巧み
にもちだし、人生の重要なテーマについてドラマチックに語った。「もし、私たちが自分自
身のことを失敗と自己憐憫の監獄に閉じこめてしまっているなら、私たちこそ唯一の看守で
あり……自分を自由にする唯一の鍵をもっていること」「私たちはチャンスをものにするこ
とを恐れ、未知の企てや領域にあえて踏みこんでいくことを怖がっている」と語った。ひと
たび決定したら、背後の橋を焼き払ってしまったほうが良いと教授は考えていた。そうすれ
ば、いやおうなく、前進せざるをえないからだ。アレキサンダー大王も、自分たちの船をす
べて焼き払い、部下たちにむかってこう宣言した。「おまえたちの船が燃え尽き、灰と化し
て海に浮かんでいるのが見えるだろう?あれこそ、われらが勝利を収めることの証だ。なぜ
なら、われらが戦闘に勝たなければ、この卑しむべき土地から誰も去れないからだ。いいか、
家に帰るときは敵の船で帰るぞ!」
サイモン教授は、経験が過大評価されるのを懸念して、マーク・トウェインを引きあい
に出し「一つの体験からすべての知恵を引き出さんように注意すべきだ。……熱いレン
ジの蓋に坐った猫にならないようにな。その猫は2度と再び熱いレンジの蓋には坐らんだ
ろう。それはいい……しかし、冷たいレンジの蓋にも2度と坐らんだろう。」教授は、自
らの苦境や不運、肉体的なハンディキャップや環境の悪さに挑戦した人たちについて話
した。ミルトンは目が見えなかったことや、ベートーヴェンの耳が聞こえなかったこと、
ルーズベルトがポリオを患い、リンカーンが貧困だったことに彼は注意を促した。チャ
イコフスキーの悲劇的な結婚、幼い頃、生きるのさえやっとだったソール・ミュージシャ
ンのアイザック・ヘーズの貧困、目も見えず耳も聞こえなかったヘレン・ケラーの苦悩。
また、獄中で「天路歴程」を書いたジョン・バニヤン、黒塗のポットのラベル貼りをし
ていたチャールズ・ディケンズ、アルコール依存症の地獄と戦ったスコットランドの詩
人ロバート・バーンズの生き方を通して語った。
また愛について、インディアナポリスのレースで腕利きのレーサーがスリップして、壁
に激突し炎上、その時もう1台のレーシングカーがスリップしつつ、炎上する壊れた車の
脇に停まった。ほかの車が轟音をたてて通りすぎていくなか、一人の若者が車から這いだ
し、炎の中からレーサーを助け出したのである。この若者は、自分が莫大なお金をつぎこ
み、何ヶ月も準備してきたレースの最中にいるということを完全に忘れていたのである。
教授はこのような行為こそ、愛と呼ぶにふさわしいものだ。と……「人間は失敗するため
ではなく、成功するために生まれる」とソローは言う。サイモン教授は「人間は代価さえ
支払う気があれば、どんな目標でも達成できる」指でVサインを作ると、チャーチルが言
った6語からなる言葉こそ成功の秘訣だと語った。 ?Never,Never,Never,Never give up!
″「決して、決して、決して、決してあきらめてはならない!」「英偉」の美学
Life-Heart Message 2013.02.18.フランスの中部地方に生まれた少年は、たびたびの充血、
気管支炎、のどの病気、止めにくい鼻血を繰返し、生命の死におびやかされていた。「僕
は死ぬのはいやだ!と、その時母は泣きながら接し、神様はお前まで私から奪おうとはな
さるまいよ」と、母の情愛につつまれていた。生まれつきまじめで勉強に精を出した一人
息子の前途にひたすら希望を託した母の励ましによって、学業の成績は群を抜きいつも学
級の首席を占めていた。パリに移住した 1880 年、彼は「3 つの閃光」を経験する。その
一つは、アルプスの自然に接して受けた衝撃であった。第二の閃光は、16 歳と18 歳の間
に訪れた。首席を占めていたものの、かたくるしいデカルト哲学の講義には敵意を感じて
いた。その彼をみちびき救いだしてくれたのは、スピノザであった。秀でた頭脳をもち、
たくましい理性的思考力にめぐまれ、しかも自然にとけ入り帰依するような気持ちと、幼
い頃からつちかわれた宗教的信念をいだく人間にとって、スピノザの哲学思想にまさる救
いはなかったのであろう。彼はシェイクスピアに心酔し、ユゴーを耽読していた。1889
年の春の日曜日、国立音楽学校でベートーヴェンの「荘厳ミサ」を聴き、その閃光に燃え
上り沸き立った。この青年こそローマン・ロランであった。 初
恋は不幸にもとげられず、ロランはそのために悩んだが、ローマに留学した彼は、たちまち
イタリア・ルネサンスの美と力に心を強くとらえられた。帰省中に、最大の芸術家として仰
ぎみていたトルストイに2 度目の手紙を書き送ったところ、フランス語で記した長文の返事
がロランに届いた。「親しい兄弟よ!あなたの最初のお手紙を受取りました。それは私の心
を動かしました。私は眼に涙を浮べながら読みました……」という言葉の手紙を読んだロラ
ンの感激はたとえようがなかった。その後、七度トルストイに手紙を書き送り、彼の著書
「ミケランジェロの生涯」を寄贈するに当って「この天才がトルストイに等しい惑乱や懐疑
や苦悩を経験した」と書いていた。「偉大な芸術家たちの物語に奥深く入れば入るほど、人
は彼らの生活にふくまれる苦悩がおびただしいことに心を打たれる……」ベートーヴェン、
ミケランジェロ、トルストイの伝記を執筆し、そのうち終生限りなく傾倒し、また自身がこ
の上なく沈痛で孤独な精神状況の底に生きていた時に筆を取った「ベートーヴェンの生涯」
が最も個性的で格調が高く、いつまでも読者を感動させる迫力をそなえている。これは、傷
ついた魂から生まれた讃歌であり、感謝の歌であった。そしてロランは、自身のうちにある
願望やあこがれ、生活経験を通して現代の英傑を創造したのが「ジャン・クリストフ・クラ
フト」である。巻末に、「……その重い任務とは、世界の一・総体
・・
を、一つの道徳を、一つの美学を、一つの信仰を、一つの新しい人間性を作り直そうとする
仕事であった。……」と記している。ロランは言う。「思想もしくは力によって勝った人々
を私は英傑と呼ばない。私が英傑と呼ぶのは心によって偉大であった人々だけである。」ま
た、「私は、善意以外には卓越の証拠を認めない。」とつけ加えている。
Life-Heart Message 2013.02.18
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フランスの中部地方に生まれた少年は、たびたびの充血、気管支炎、のどの病気、止めにく
い鼻血を繰返し、生命の死におびやかされていた。「僕は死ぬのはいやだ!と、その時母は
泣きながら接し、神様はお前まで私から奪おうとはなさるまいよ」と、母の情愛につつまれ
ていた。生まれつきまじめで勉強に精を出した一人息子の前途にひたすら希望を託した母の
励ましによって、学業の成績は群を抜きいつも学級の首席を占めていた。パリに移住した
1880 年、彼は「3 つの閃光」を経験する。その一つは、アルプスの自然に接して受けた衝撃
であった。第二の閃光は、16 歳と18 歳の間に訪れた。首席を占めていたものの、かたくる
しいデカルト哲学の講義には敵意を感じていた。その彼をみちびき救いだしてくれたのは、
スピノザであった。秀でた頭脳をもち、たくましい理性的思考力にめぐまれ、しかも自然に
とけ入り帰依するような気持ちと、幼い頃からつちかわれた宗教的信念をいだく人間にとっ
て、スピノザの哲学思想にまさる救いはなかったのであろう。彼はシェイクスピアに心酔し、
ユゴーを耽読たんどくしていた。1889 年の春の日曜日、国立音楽学校でベートーヴェンの
「荘厳ミサ」を聴き、その閃光に燃え上り沸き立った。この青年こそローマン・ロランであっ
た。
初恋は不幸にもとげられず、ロランはそのために悩んだが、ローマに留学した彼は、たち
まちイタリア・ルネサンスの美と力に心を強くとらえられた。帰省中に、最大の芸術家とし
て仰ぎみていたトルストイに2 度目の手紙を書き送ったところ、フランス語で記した長文の
返事がロランに届いた。「親しい兄弟よ!あなたの最初のお手紙を受取りました。それは私
の心を動かしました。私は眼に涙を浮べながら読みました……」という言葉の手紙を読んだ
ロランの感激はたとえようがなかった。その後、七度トルストイに手紙を書き送り、彼の著
書「ミケランジェロの生涯」を寄贈するに当って「この天才がトルストイに等しい惑乱や懐
疑や苦悩を経験した」と書いていた。「偉大な芸術家たちの物語に奥深く入れば入るほど、
人は彼らの生活にふくまれる苦悩がおびただしいことに心を打たれる……」
ベートーヴェン、ミケランジェロ、トルストイの伝記を執筆し、そのうち終生限りなく傾
倒し、また自身がこの上なく沈痛で孤独な精神状況の底に生きていた時に筆を取った「ベー
トーヴェンの生涯」が最も個性的で格調が高く、いつまでも読者を感動させる迫力をそなえ
ている。これは、傷ついた魂から生まれた讃歌であり、感謝の歌であった。そしてロランは、
自身のうちにある願望やあこがれ、生活経験を通して現代の英傑を創造したのが「ジャン・
クリストフ・クラフト」である。巻末に、「……その重い任務とは、世界の一・総体・・を、
一つの道徳を、一つの美学を、一つの信仰を、一つの新しい人間性を作り直そうとする仕事
であった。……」初恋と記している。ロランは言う。「思想もしくは力によって勝った人々
を私は英傑と呼ばない。私が英傑と呼ぶのは心によって偉大であった人々だけである。」ま
た、「私は、善意以外には卓越の証拠を認めない。」とつけ加えている。
Life-Heart Message 2014.04.03.24
1904 年、ロマン・ロランはクロチルドと離婚し、モンパルナス大通りの古ぼけた住居に移
り住んでいた頃、壁にはベートーヴェンとシュトラウスの肖像がかかっているだけの飾り
のない部屋で、「ジャン・クリストフ」を起稿していた。一切の安楽を否定した彼の生活
は、孤独で不如意なものであり、友達もなく、喜びといえば、仕事を通じて作り出す喜び
しかなく、その生活は、パリ大学音楽史講座を担当する教授の職務と、殺到する数々の勤
めを担っていた。あらゆる社交を断ち切った生活と精神の沈潜のなかで、10 年にわたって
書き続けたのが「ジャン・クリストフ」10 巻である。
この時代小説は、文化批評へと拡がりゆく教養小説であり、ヨーロッパ大陸のあらゆる精
神的な力を糧とした一フランス人が、彼の生活信仰と人道観とを一ドイツ音楽家の生涯の叙
事詩に盛ったものである。ロランが目ざしたのは「フランスの精神的なまた社会的な崩壊の
一時代に灰の下に眠っていた魂の火をふたたび目ざますことであった。ジャン・クリストフ
は、そうした使命を果すために創りだされた現代の英傑であり、作者にとって理想の人間像
を意味していた。ロランは、ドイツとフランスとが敵対しあわないで、兄弟として和解し、
親善の交わりを結ぶことがヨーロッパの将来に幸福をもたらすという希願を、クリストフと
オリヴィエとの親交の描写に託している。ロランは38 歳から心血をそそいで創り上げた現代
の英傑は、あとに続く世代の青年たちに自分の運命であるかのように感じて多くの読者が涙
を流し、感激と興奮を呼びおこした。哲学者アランは「私は「ジャン・クリストフ」という
偉大な詩篇に、かずかずの思想と美しいいく時間かを負うている」と。「君は我々に生きる
ことを助けてくれた。クリストフよ、君はけっしてくずれおれない勇気を模範に示してくれ
た……」と。
著名人や無名の読者、民族や年齢や職業をこえた幾百万の読者にあたえた感銘の証左は計
り知れない。この書籍の巻末に記した告別の辞でロランは次のように述べている。「いまや
過ぎ去ろうとしている一世代の悲劇を私は書いた。その世代のさまざまの悪徳と美徳、重苦
しい悲哀、混沌たる自負心、超人的な一つの任務のあまりにも重い荷におしつけられながら
なされた雄々しいいろいろの努力、それらすべてを私は、なにひとつ隠しだてしようとはし
なかった。その重い任務とは、世界の一・総体・・、一つの道徳を、一つの美学を、一つの
信仰を、一つの新しい人間性を作り直そうとする仕事であった。……………」いくたびかの
あやまちと失敗を重ねても、クリストフは常に起きあがり、前進してやまなかった人間であっ
た。ロランは言った「思想もしくは力によって勝った人々を私は英傑とは呼ばない。私が英
傑と呼ぶのは心によって偉大であった人々だけである。」と説いたのち、「私は、善意以外
に卓越の証拠を認めない。」とつけ加えていた。
未来創庵 一色宏
Life Heart Message2016.01.23
東京美術学校の校長の職を追はれ、官立学校の地位によって、自身の抱懐する日本美術の
理想を実現しようとした野心が挫折した岡倉覚三(天心)は、ただちに志を同じくする美術
学校の同僚有志と日本美術院を創設し、在野の浪人学者として理想の実現をめざして征く。
この時、天心41歳であった。そして「内からの勝利か、しからずんば、外からの強大な力に
よる死あるのみ」の一文をもって「東洋の理想」を脱稿する。以後、天心は大正2年51歳で
病歿するまで在野の浪人でありつづけた。
昭和15年といえば、大東亜戦争の前年、皇紀二千六百年を祝う国家的行事がおこなわれた
年で、“日本”という主題が国家的規模で意識さられた時局に、師天心亡き後、橋本雅邦を
はじめ日本美術院の僚友たちも泉下の人となり、ひとり生き残った老画家横山大観は東京芸
術大学付属美術館に於て、「海山十題展」を公開する。一気呵成に描かれたうねる波頭のつ
らなる大海原を旭日が照らしている「黒潮」を冒頭に、富士山の春夏秋冬を描いた「霊峰四
趣」で終る20点に、大観の日本への祈りがこめられていた。
「アジアは一つである」と「東洋の理想」の冒頭に天心が書いたこの言葉は、戦争中に
“大東亜共栄圏”の聖戦目的に利用されて有名になったが、天心が抱いた壮大な理想を歪曲
している。「アジアは一つである。二つの強力な文明の共同主義をもつ中国と、ヴェーダの
個人主義をもつインド人とを、ヒマラヤ山脈がわけ隔ててゐるといふのも、両者それぞれの
特色を強調しようがためにすぎない。雪を頂く障壁といへども、すべてのアジア民族にとっ
ての共通の思想遺産というべき窮極的なもの、普遍的なものに対する広やかな愛情を、一瞬
たりとも妨げることは出来ない。かうした愛情こそ、アジア民族をして世界の偉大な宗教の
一切を生み出さしめたものであり、地中海とバルト海の海洋的民族がひたすら個別的なもの
に執着して、人生の目的ならぬ手段の探求にいそしむのとは、はっきり異なってゐる」。
明治維新後、過去の思想的遺産を捨てて、自衛のためとはいへ、文明開化日本が採用した
西欧文明は人生の目的たりえなのである。この自意識は、漱石、鴎外、内村鑑三ら心ある明
治の知識人が抱いていたが、天心は生来の浪漫的気質にもとづく壮大なヴィジョンをもって
いた。ベートーヴェンの第五交響曲を聴いたとき、「これだけは日本にない」と叫んだとい
う。
ユダヤ・キリスト教徒のアメリカ人にむかって「より高い理想のためには死に至るも堪へ
うるやうな、俗世を超越できるような信念を、我々は宗教と理解するのである」と、語った
天心は、「偉大な芸術とは、その前でわれわれが死にたいと願ひさへするものである。芸術
は、かくて、宗教のつかの間の休息であり、また無限を求めて遍歴の旅に上らんとする人間
の愛が、半ば無意識にふと足をとめて、すでに達成された過去を見遣(みや)り、漠然たる未
来に眼を向ける一瞬にも似ている。」
地球問題群を多く抱えている今、「アジアは一つ」から「世界は一つ」とした「人類共生」
のための思想と新しき「自然環境科学技術」が、世界が希求しているといえる。
未来創庵 一色宏
Life-Heart Message 2010.08.23.
芸術のひとつの目的は、そしてその生みの親である美の目的は、人間の無意味感を中和する
ことであった。芸術は暴力からその毒を抜き取る効用があり、暴力を予防する力をもってい
る。それは、浄化という形態のなかに芸術の不思議な力があった。アルメニア人を大量虐殺
し、餓死に追い込んだとき、人は「恐ろしいトルコ人」と言った。ヒトラーの狂気のなかで
ヨーロッパを震撼させたナチスドイツだが、ベートーヴェンやゲーテからヘーゲルをあげつ
くすことはできない。色彩豊かなトルコやペルシャのじゅうたんは、あらゆる国の何万、何
十万という家庭の床を飾っている。これらは、人間に共通の美の遺産であり、人類に貢献し
ている。芸術は、美が現実化される道具であり、芸術は、美を現実化しようとする永遠の努
力とも言える。美を愛するところから起こる芸術は、人間存在の質を高めるものであり、生
活を充実したものにし、生き生きとしたものにして、私たちに欠くことのできない人生の喜
びと、静穏の感覚を与える力があるといえる。
「私たちはだれでも死の宣告を受けている。ただ、いわば不定の執行猶予がついているだけ
である。その間に時間があるだけで、あとは、何も残らない」とウォルター・ペーターは言っ
たように、生と死は常に私たちとともにある。―あたかも、ベートーヴェンの交響曲の重要
な部分をなす不協音に耳を傾けているようなものかもしれない。暗黒が光明とともにあり、
苦痛が快楽とともにある如く、プラトンが述べたように、その真実がわかったとき真の快楽
をもつことができるのである。また、醜さと対置されてはじめて美を認めることができる。
生が尊いわけではなく、善き生が尊いのである。貴い生き方は、まず何よりも美しい生なの
である。美は、人間の心情と精神のなかに奥深く入り込むことのできるものであり、美は、
人間のあらゆる気分を、だれでもが理解できるような感情や洞察や感覚的体験にいざなって
くれるものである。美のなかでは他人というものはいない。人間の魂に深く入り込むほど、
それが自分自身の魂であろうと隣人の魂であろうと、自分が他の国の人びととも、ひとつに
なっていることに気づくのである。美によってこそ私たちは、人類のすべての人びとと理解
し合うことができるのである。そこには自由が必要であり、制約があっても、精神の自由が
必要である。これは存在の自由であって、ただものを所有する自由ではない。真の自由は、
考える自由、感ずる自由、言論の自由、思想の自由、観賞の自由、創造の自由、美を体験す
る自由でありたいものである。ロバート・ネイサンは謳った。「美しいものはすぐに手のと
どかないところに行ってしまう/だから幸せの住み家であるところに蓄えておきなさい/どこ
へ行こうと、美はこころのなかを歩きまわるのです/そして静かな海に日が沈む夕焼けの絵
を描くのです」ドストエフスキーの謎の一句「美は世界を救う」と……
一色 宏
かのプラトンは死の直前まで筆を執り続け、モーツアルトは病に侵されやつれ果てるも
なお「レクエイム」を書きつつ逝いた。
ベートーヴェンは聞こえぬ耳で曲をつづり、ヘンデルは見えぬ目でオペラを書いた。
俳人・芭蕉は真実の法を求め さすらいを続ける、旅に病むも 歌い歌いて生涯を閉じ
画狂人・北斎は七十半ばにして、「百有十歳にしては一点一格生くる如くあらん」と
ますます壮んなり。
「生きる喜びは、純粋さ、美、善など、あらゆるものから生まれてくる。生きる喜びは、
長く困難な過程から生じる。
「生きる喜びは、人間が自分自身に対して持っているもっとも高潔で、
もっとも熱烈たる義務、すなわち「愛すること」が結実したものである。
生きる喜びをもつということは………--みずからのなすべきことを愛し --みずからの持つ
ものを愛し---自身と集団のために創造することを愛し、 --他者を愛し、----人生を愛する
ことである。生きる喜びをもつということは、愛する喜びをもつということであり、幸せ
になり、他の人々の役に立つ人間になるということである。結局、生きる喜びをもつとい
うことは、見返りを求めず微笑みを与えることである」 心ある人々よ、青年よ 乙女た
ちよ 感性によって 美しくあれ! 理性によって 自由であれ!法則によって 強くあ
れ!忍耐によって 偉大となれ!勇気によって 永遠たれ! 」 ミシェル・バロン
一色 宏
Life-Heart Message. 2007.11.12
オスカー・ワイルドは「人生において、おそらくひとつだけ不変の愛がある。それは自己愛
だ」と書いている。これに対して、ある人は「多くの人は自分以外は愛せないという。しか
し、私は本当に自分自身が愛せるか疑問だ」といい、また、「自己愛は嫉妬心、恐怖心、不
安を起こさせ、他人の不幸を喜ぶようにさせる・・・・宗教を通じてのみ、我々は自己愛を
取り除くことができる」と述べ、パスカルも「真の、そして唯一の徳とは自己を憎むこと
(われわれは欲望に満ちた憎むべきものであるから)、そして、真に愛すべき存在を求める
ことである」と言った。
自己愛は、「自己剪定(せんてい)」をも必要とする。桃の木は花を咲かせ、そして小
さな実をたくさんつける。これらの実が全部育つと互いに成長をはばみよい実がひとつも
ならないのである。そこで、まだ実の小さいうちに全体の3分の2ほどの実を切り取って
しまわなければならない。そうすれば、残った実は大きく美しく成長するのである。同じ
ことが人間にもいえる。ひとりの人間には、あらゆる可能性をうちに秘めている。しかし、
あるひとつの可能性を開発するために、ほかのいろいろな自分を切り捨てなければならな
い。自分を犠牲にする苦しみに耐えなければならないのである。自分をよいものにする創
造的な愛であるといえる。裕福な家庭に生まれながら、なんの役にも立たない美のために、
すべてを捨てたヴァン・ゴッホ。もちろん、自分の絵を売って金を得えたこともあったが、
彼が死ぬまでに得た売り上げの合計はたったの5万円であった。彼はあきらかに金のため
に絵を描いたのではなかった。ベートーヴェンも、結婚もせずに全生涯を音楽に捧げた人
である。彼もまた、この芸術のために、貧困と孤独のうちに精神的苦悩と戦ったのである。
美はそれ自身は役に立たないが、役に立たないものであるからこそ、美はそれ自身のために
愛され、絶対的な価値をもつのである。本能の性質が「取る」ことであるのに対して、創造
の性質は「与える」ことである。本能は個体や種を保存するために存在するが、芸術にはそ
のような働きはない。芸術とは純粋な贈り物である。ゴッホやベートーヴェンが、芸術のた
めにこれほどまで身を捧げたのはなぜだろうか。彼らにとって、芸術とは愛の表現であり、
それは第一に自己愛(⇒自己実現※)であり、第二に隣人愛であった。
愛は深さ、広さ、持続、純粋、表現の5次元があり、愛は精神、心、人格の結婚でもあ
る。純なる愛は他人の運命をより善くせんとする願いである。人間は清らかなものと交わ
ることによって、自分も清められる。私たちは、自然のなかにも、そして仕事のなかにも、
その美の暗号を解き、愛の言葉を読み取り、日常の仕事がたんに生計を立てるための手段
ではなく、美の創造、愛のわざであることを自覚しなければならない。人生は、人間をは
じめとする、命あるものへの愛によって定義づけられているのだから・・・・・
未来創庵 一色 宏 璽
※ 自己実現 応答 神への感謝、献身。
Life-Heart Message.2008.01.21
古代の人間にとって、音楽とは魔術であった。そして、魔術は、すべての事柄を解決す
る特効薬でもあった。すなわち、この音楽という魔術を使えば、病気を治すこともできる
し、生命の誕生から死に至るすべての儀式を取り仕切るものであった。人間の生活のすべ
てを支配した『音楽』は、社会の権威でもあり『幸せ』でもあったのである。歌の目的は、
神への祈り、自然との対話、悪霊を追い払う、戦闘意欲を鼓舞する、自己の心情を吐露す
る。病気を治す、存在の誇示、愛の告白・・・神への祈り(賛美歌)、心の吐露・愛の告白
(イタリア・オペラ)戦闘意欲は(マーチ)に、病気を治す(音楽療法)に、存在の誇示は(カ
ラオケ)なのかもしれない。音楽文化人類学者クルト・ザックスによれば、人間は幸せな
状況だから歌うだけではなく、ある種、絶望の淵にあるような状況の方が『ウタを歌いた
くなる』。たとえば、アメリカの黒人奴隷達が歌う、黒人霊歌やブルースなど、何として
でも未来へ明るい希望を捨てまいとする願望がそうさせたのではなかろうか。詩人ハイネ
は言った。『音楽というものは、不思議なものだ。それはほとんど、奇跡と言ってもいい
だろう。なぜなら、音楽は、思考と現象のあいだ。そして、精神と事物のあいだにあって、
双方を漠然と仲介する存在だからだ。音楽とは何なのか、結局私たちにはわからないのだ。』
と・・・
『音楽を聴くとき、危険を感じることなどない。傷つくこともなければ、敵もいない。そ
の時わたしは時間を越え、遠い過去とも、そして現在ともつながっているのだ。』といっ
たのは、ヘンリー・デビット・ソローである。有名な『ボレロ』を作曲したラヴェルは、
晩年、脳の病気で廃人同然の生活を送っていた。失語症、読み書きの能力を失い、ピアノ
は片手でしか弾くことができなかった。しかし、暗譜した曲は歌ったり演奏することはで
きた。ベートーヴェンも、晩年聴力を失っていたが、心の中に『音楽』は最後まで失って
はいなかった。「ラヴェルの記憶の中に、ベートーヴェンの記憶の中に音楽は響きわたっ
ていた」のである。その記憶も、その人が経験的に蓄積した記憶だけでなく、遺伝情報や
環境情報として先祖から受け継いだものまで含まれ、また地球上で生活してきた『人類と
しての記憶』も含まれているはずであろう。
五感を通して刺激や感動を人間は得るのは、その先にある人間としての『幸福感』を得
ようとするためである。人間が創造したものはその現実的な使い方が何であれそのそもそ
もの目的はすべて人間が自分自身を幸福に導くためにあったとも言える。果てのある限定
された『生』という時間と空間の中に、音楽は、恐れの「異空間」にも喜びの「異空間」
へも自由に行き来することのできるスイッチかもしれない。『歌うことは、愛し、認める
こと。飛び立ち舞い上がり、聴く人の心のなかにスッと入りこむこと。歌は語る、人生と
は生きるためにあること、愛もそこにあること、何も約束などないということを、でも、
美もそこにあり、それを探し求め、見つけ出さなければならないということを。』・・・
ジョーン・バエズ 未来創庵 一色 宏
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