西郷南洲遺訓集  インタネットより編集

西郷隆盛 

静寂な杉林のなかで「静かなる細い_」が、自国と世界のために豊かな結果をもたらす使命を帯びて西郷の地上に遣わせられたことを、しきりとことがあったのであります。そのような「天」の声の訪れがなかったなら、どうして西郷の文章や会話のなかで、あれほど(しき)りに「天」のことが語られたのでありましょうか。のろまで無口で無邪気な西郷は、自分の内なる心の世界に(こも)りがちでありましたが、そこに自己と全宇宙にまさる「存在」を見いだし、それとのひそかな会話を交わしていたのだと信じます。

「天の道をおこなう者は、天下こぞってそしっても屈しない。その名を天下こぞって褒めても奢らない」 

「天を相手にせよ。人を相手にするな。すべてを天のためになせ。人をとがめず、ただ自分の誠の不足をかえりみよ」 

「法は宇宙のものであり白然である。ゆえに天を畏れ、これに仕えることをもって目的とする名のみが法を実行することができる。……天はあらゆる人を同一に愛する。ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない(我を愛する心をもって人を愛すべし)

西郷はここに引いた言葉や、それに近い言葉をたくさん語っています。私は、西郷がこのすべてを、「天」から直接に聞いたものであると信じます。

 それにもかかわらず、西郷なくして革命が可能であったかとなると疑問であります。木戸や三条を欠いたとしても、革命は、それほど上首尾ではないにせよ、たぶん実現をみたでありましょう。必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、「天」の全能の法にもとづき運動の方向を定める精神でありました。

 

西郷の生活は、このように地味で簡素でありましたが、その思想は、これまで紹介してきましたように、聖者か哲学者の思想でありました。

敬天愛人」の言葉が西郷の人生観をよく要約しています。それはまさに知の最高極致であり、反対の無知は自己愛であります。西郷が「天」をどのようなものとして把握していたか、それを「力」とみたか「人格」とみたか、日ごろの実践は別として「天」をどういうふうに崇拝したか、いずれも確認するすべはありません。しかし西郷が、「天」は全能であり、不変であり、きわめて慈悲深い存在であり、「天」の法は、だれもの守るべき、堅固にしてきわめて恵みゆたかなものとして埋解していたことは、その言動により十分知ることができます。「天」とその法に関する西郷の言明は、すでにいくつか触れてきました。西郷の文章はそれに充ちているので、改めておおく付け足す必要はないでしょう。

天はあらゆる人を同一に愛する。ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない

西郷のこの言葉は「律法」と預言者の思想の集約であります。いったい西郷がそのような壮人な教えをどこから得たのか、知りたい人がいるかもしれません。

「天」には真心をこめて接しなければならず、さもなければ、その道について知ることはできません。西郷は人間の知恵を嫌い、すべての知恵は、人の心と志の誠によって得られるとみました。心が清く志が高ければ、たとえ議場でも戦場でも、必要に応じて道は手近に得られるのです。常に策動をはかるものは、危機が迫るとき無策です。

 世人は言う。「取れば富み、与えれば失う」と。なんという間違いか! 農業にたとえよう。けちな農夫は種を惜しんで蒔き、座して秋の収穫を待つ。もたらされるものは餓死のみである。良い農夫は良い種を蒔き、全力をつくして育てる。穀物は百倍の実りをもたらし、農夫の収穫はあり余る。ただ集めることを図るものは、収穫することを知るだけで、植え育てることを知らない。賢者は植え育てることに精をだすので、収穫は求めなくても訪れる。

徳に励む者には、財は求めなくても生じる。したがって、世の人が損と呼ぶものは損ではなく、得と呼ぶものは得ではない。いにしえの聖人は、民を恵み、与えることを得とみて、民から取ることを損とみた。今は、まるで反対だ。

 賢者はほどこすために節約する。自分の困苦を気にせず、ひとの困苦を気にする。こうして財は、泉から水が湧き出るように、自分のもとに流れ込む。恵みが降り注ぎ、人々はその恩沢に浴する。これはみな、賢者が、徳と財との正しい関係を知り、結果でなく原因を求めるからである。

 今日の近代的な、べンサム主義( _
)
なら、「古くさい経済学だ」というかもしれません。しかし、それはソロモンの経済学であり、ソロモンより偉大な「存在」の経済学でありました。宇宙がこれまで一九世紀にもわたって存在してきたように、けっして古くはないものです。

 「ほどこし散らして、かえりて増す者あり、与うべきものを惜しみて、かえりて貧しきにいたる者あり」

 「まず神の国と神の義とを求めよ。さらばすべての物は、汝らに加えらるべし

 西郷の文章は、この神の言葉に適した注解ではありませんか。

もしわが国の歴史から、もっとも偉大な人物を二人あげるとするならば、私は、ためらわずに太閤と西郷との名をあげます。二人とも大陸方面に野望をもち、世界を活動の舞台とみていました。ともに同国人とはくらべものにならないほど偉大でしたが、二人の偉大さはまったく相反していました。

 
西郷南州遺訓(要約抜粋)


第一条 
立派な政治家が、多くの役人達を一つにまとめ、政権が一つの体制にまとまらなければ、
たとえ立派な人を用い、発言出来る場を開いて、多くの人の意見を取入れるにしても、
どれを取り、どれを捨てるか、一定の方針が無く、仕事が雑になり成功するはずがないであろう。
昨日出された命令が、今日またすぐに、変更になるというような事も、皆バラバラで一つにまと
まる事がなく、政治を行う方向が一つに決まっていないからである。 


第十六ケ条

道義を守り、恥を知る心を失うようなことがあれば国家を維持することは決して出来ない。
西洋各国でも皆同じである。上に立つ者が下の者に対して利益のみを争い求め、正しい
道を忘れるとき、下の者もまたこれに習うようになって、人の心は皆財欲にはしり、
卑しくケチな心が日に日に増し、道義を守り、恥を知る心を失って親子兄弟の間も
財産を争い互いに敵視するのである。このようになったら何をもって国を維持する
ことが出来ようか。徳川氏は将兵の勇猛な心を抑えて世の中を治めたが、今は昔の
戦国時代の武士よりもなお一層勇猛心を奮い起さなければ、世界のあらゆる国々と
対峙することは出来無いであろう。普、仏戦争のとき、フランスが三十万の兵と三
ケ月の食糧が在ったにもかかわらず降伏したのは、余り金銭のソロバン勘定に詳し
かったが為であるといって笑われた。


第二十一ケ条

道というものは、天地自然の道理であるから、学問の道は『敬天愛人』を目的とし、
自分を修には、己れに克つという事を心がけねばならない。己れに克つという事の
真の目的は「意なし、必なし、固なし、我なし」我がままをしない。無理押しを
しない。固執しない。我を通さない。という事だ。一般的に人は自分に克つ事に
よって成功し、自分を愛する(自分本位に考える)事によって失敗するものだ。
よく昔からの歴史上の人物をみるが良い。事業を始める人が、その事業の七、
八割までは大抵良く出来るが、残りの二、三割を終りまで成しとげる人の少いのは、
始めはよく自分を謹んで事を慎重にするから成功し有名にもなる。ところが、
成功して有名になるに従っていつのまにか自分を愛する心がおこり、畏れ慎むと
いう精神がゆるんで、おごり高ぶる気分が多くなり、その成し得た仕事を見て何
でも出来るという過信のもとに、まずい仕事をするようになり、ついに失敗する
ものである。これらはすべて自分が招いた結果である。だから、常に自分にうち
克って、人が見ていない時も、聞いていない時も、自分を慎み戒めることが大事な事だ。

第二十五ケ条

人を相手にしないで、天を相手にするようにせよ。天を相手にして自分の誠をつくし、
人の非をとがめるような事をせず、自分の真心の足らない事を反省せよ。
動揺するような事は無いだろう。それだけは実に幸だ。

第三十ケ条
命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬ、というような人は始末に困るものである。
このような始末に困る人でなければ、困難を共にして、一緒に国家の大きな仕事を大成する事は
出来ない。しかしながら、このような人は一般の人の眼では見ぬく事が出来ない、と言われるので、
それでは孟子(古い中国の聖人)の書に『人は天下の広々とした所におり、天下の正しい位置に
立って、天下の正しい道を行うものだ。もし、志を得て用いられたら一般国民と共にその道を
行い、もし志を得ないで用いられないときは、独りで道を行えばよい。
そういう人はどんな富や身分もこれをおかす事は出来ないし、貧しく卑しい事もこれによって
心が挫ける事はない。また力をもって、これを屈服させようとしても決してそれは出来ない』
と言っておるのは、今、仰せられたような人物の事ですかと尋ねたら、いかにもそのとおりで、
真に道を行う人でなければ、そのような精神は得難い事だと答えられた。

第三十六ヶ条
聖人賢者になろうとする気持ちがなく、昔の人が行なった史実をみて、自分にはとてもまねる事
が出来ないと思うような気持ちであったら、戦いに臨んで逃げるより、なお卑怯なことだ。
朱子は抜いた刀を見て逃げる者はどうしようもないと言われた。誠意をもって聖人賢者の書
を読み、その一生をかけて培われた精神を、心身に体験するような修業をしないで、ただ
このような言葉を言われ、このような事業をされたという事を知るばかりでは何の役にも立たぬ。
私は今、人の言う事を聞くに、何程もっともらしく論じようとも、その行いに精神が行き渡らず、
ただ口先だけの事であったら少しも感心しない。本当にその行いの出来た人を見れば、実に
立派だと感じるのである。聖人賢者の書をただ上辺だけ読むのであったら、ちょうど他人の
剣術を傍から見るのと同じで、少しも自分の身に付かない。自分の身に付かなければ、万一
『刀を持って立ち会え』と言われた時、逃げるよりほかないであろう。

第三十八ヶ条
世の中の人の言うチャンスとは、多くはたまたま得た偶然の幸せの事を指している。
しかし、本当のチャンスというのは道理を尽くして行い、時の勢いをよく見きわめて動くと
いう場合のことだ。つね日頃、国や世の中のことを憂える真心がなくて、ただ時のはずみに
のって成功した事業は、決して長続きしないものである。

三十九ヶ条
今の人は、才能や知識だけあれば、どんな事業でも思うままに出来ると思っているが、
才能に任せてする事は、危なかしくて見てはおられないものだ。しっかりした内容が
あってこそ物事は立派に行われるものだ。肥後の長岡先生(長岡監物、熊本藩家老、
勤皇家)のような立派な人物は、今は見る事が出来ないようになったといって嘆かれ、
昔の言葉を書いて与えられた。
『世の中のことは真心がない限り動かす事は出来ない。才能と識見がない限り治める
事は出来ない。真心に撤するとその動きも速い。才識があまねく行渡っていると、
その治めるところも広い。才識と真心と一緒になった時、すべての事は立派に出来
あがるであろう

第四十一ヶ条
修行して心を正して、君子の心身を備えても、事にあたってその処理の出来ない人は、
ちょうど木で作った人形と同じ事である。たとえば数十人のお客が突然おしかけて来
た場合、どんなに接待しようと思っても、食器や道具の準備が出来ていなければ、
ただおろおろと心配するだけで、接待のしようもないであろう。いつも道具の準備が
あれば、たとえ何人であろうとも、数に応じて接待する事が出来るのである。だから、
普段の準備が何よりも大事な事であると古語を書いて下さった。

『学問というものはただ文筆の業のことをいうのではない。
必ず事に当ってこれをさばくことのできる才能のある事である。武道というものは
剣や楯をうまく使いこなす事を言うのでは無い。必ず敵を知ってこれに処する知恵の
ある事である。才能と知恵のあるところはただ一つである』

西郷南洲翁遺訓の編纂は、薩摩人の手によってではなく、旧庄内藩の藩士達によって
刊行されたものである。庄内藩では明治22年憲法発布に伴い先生の賊名が除かれ、
正三位を追贈されると、翌年1月に遺訓集を作成して、4月から6人の藩士達がこの
遺訓集を携えて全国を行脚して、広く頒布したと伝えられている。それではなぜ南洲
翁遺訓集が庄内(現在、山形県鶴岡)から出版されたのでしょうか。明治維新の前夜、
三田の薩摩屋敷を焼き払い、多くの死傷者を出した。そして最期まで抵抗した庄内藩の
降丈処理として、どんなひどい目に合わされるかと、心配する処、西郷の慈愛を持った
寛大な処置に感謝した藩主が家老を伴い七十数名が、政府の要職を去って鹿児島に引退
していた、西郷を訪れて親しく教えを受け、その後も庄内藩士が引き続いて先生を訪ね、
先生が生前語られた言葉や教訓を記録した手記を、持ち帰って遺訓集を作成したと伝え
られている。  https://www.keiten-aijin.com/ikun

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