高橋是清 プロフィール 1854年9月19日〈嘉永7年閏7月27日〉 - 1936年
〈昭和11年〉2月26日)は、日本の幕末の武士(仙台藩士)、明治、大正、昭和時代初期の官僚、政治家。幼名は和喜次。号は茜庵・秀幸。藩費留学生として渡米後、官界に入り、日本銀行総裁・大蔵大臣・商工大臣・農林大臣・立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣等を歴任。二・二六事件により昭和11年
(1936)歿、83才。。栄典は正二位大勲位子爵財政家として知られ総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。愛称は「ダルマさん」。 【詳細】『ウィキペディア』
経世済民の男 破天荒な人生とは?
留学生専門紙 「向学新聞」 より
「七転び八起き」のダルマ蔵相 国家に尽くす官吏のあり方
第一次世界大戦後から、第二次世界大戦に至る時期の日本は、未曾有の経済危機
に襲われていた。先の見えない袋小路からの脱却という重い課題を背負って登場
したのが、高橋是清である。逆境に負けない彼の強靱な精神力は、留学体験で培
われたものである。
大蔵大臣を7回経験
高橋是清は、明治後期から大正、昭和初期にかけて活躍した日本の政治家であ
る。総理大臣にまで昇りつめたわけであるから、一流の政治家には違いない。
しかし、彼の名声は政治家としてよりも、財政家としてのほうが、はるかに轟
いているのである。
1913年に60歳で初めて政界入りした直後に、山本権兵衛内閣の大蔵大
臣に就任して以来、1936年二・二六事件で軍の青年将校に暗殺されるまで
の間に、実に7回も大蔵大臣を経験した。この時期の日本は未曾有の経済危機
に直面していた。1920年に第一次世界大戦後の経済恐慌に襲われ、27年
には金融恐慌、さらに30年、31年には世界恐慌の荒波に襲われた。この間、
高橋は大蔵大臣として日本の経済、金融政策の舵取りを見事にやってのけた。
高橋は、大蔵大臣としてたまたま何度も経済危機に直面したわけではなかっ
た。経済の破局的局面になると就任要請が舞い込み、彼は救済者として登場し
たのである。危機に対する彼の的確な分析、迅速果敢な対応が、幾度も日本を
危機から救出した。危機に臨むリーダーに求められる資質は強靭な精神力であ
る。批判や罵倒に負けない忍耐力、名利を離れた公共心、また未来を信ずる楽
天主義。高橋にはこれら全てが備わっていた。 これらは天賦の才とばかりは
言えない。彼の苦難に満ちた数奇の運命が彼を育てたのである。ここでは、彼
の生い立ち、留学体験、それと南米体験に焦点を絞って、高橋是清という人物
の人間形成の過程を見てみたい。
私生児として
高橋の数奇の運命は誕生その時から始まった。彼は私生児として生まれたので
ある。母の北原きんは幕府の絵師川村庄右衛門の家の侍女であった。両親が離別
していたので、おばの家に預けられていて、行儀見習いのために川村家に奉公す
るようになったのである。きんは16歳の時、主人である庄右衛門の子を宿して
しまった。こうして生まれた子が高橋是清である。
庄右衛門は是清を自分の子として認知したが、すでに家には6人の子がいたの
で、彼を里子に出すことにした。生後3、4日にして仙台藩の武士・高橋覚治
是忠の家に預けられることになった。
是清が3歳になったばかりの頃、大きな転機がおとずれた。高橋家の知り合
いの裕福な菓子屋から是清を養子にほしいという話があったのである。実家の
川村家には異存はなかったが、これに断固と反対したのが、是清の義理の祖母
にあたる高橋家の喜代子であった。「2年も育ててきたこの可愛い子を武士な
らともかく、町人へやるのはかわいそうだ。自分の家へもらったほうがよい」
と言って菓子屋の申し出を断り、無理やり高橋是忠の実子として届け出をすま
してしまった。
高橋是清は後に自伝の中で、人間の運命の不思議さを述べている。「私が菓
子屋の養子となっていたら、あるいは一生菓子屋で終ったかもしれぬ。少なく
とも今とは全然異なった立場にあったに相違ない」と。
高橋の生涯を見るとき、この祖母喜代子の存在が彼の精神を深いところでど
れほど強く支えていたかと思わざるを得ないのである。喜代子の是清に対する
愛情は生涯変わることはなかった。高橋には私生児にありがちな劣等感や性格
の暗さがまるでないと、彼を知る者は誰もが口を揃えて言う。あけっぴろげで、
思ったことはずばりと語るストレートな性格。しかし、いつもにこにこしてい
るので、憎まれることがない。また無欲であまりものごとにこだわらず、恬淡
としていたという。こうした彼の楽天的性格は祖母喜代子の献身的な愛情によっ
て育まれたものであろう。
丸顔で大柄の風貌のゆえ、ダルマ蔵相と呼ばれて親しまれた。晩年、軍部に
捨て身でものを言うこの老人は大衆から惜しみない喝采を浴びた。ダルマのあ
だ名の通り、彼の人生は「七転び八起き」そのままであった。不屈の精神は、
逆境の中でこそ芽生えるものである。
アメリカ留学へ
幕末、仙台藩は外国の事情を学ばせるため、若い武士をアメリカへ留学させる
ことにした。そのためには、まず横浜で英語の勉強をさせなければならない。そ
こで選ばれたのが、高橋是清と鈴木六之助の二人。共に11歳の少年であった。
横浜で彼らは、英語塾を開いていたヘボン博士や宣教師バラー氏の夫人につ
いて、約2年間英語をみっちり習った。そして彼が13歳になった1867年
7月、ついにアメリカ留学が実現した。しかし彼ら二人はまだ余りにも幼いの
で、同行した米国人ヴァンリードに彼の学費が託されることになる。この米国
人は横浜の商館主で、サンフランシスコに両親が住んでいた。高橋と鈴木は、
サンフランシスコのこの老夫婦の家に住み込むことになっていたのである。
高橋の苦渋の留学生活は、この老夫婦との出会いから始まった。ヴァンリー
ド老夫妻は最初のうちは人が良さそうに見え待遇も悪くはなかった。しかし時
間が経つにつれ、待遇はすっかり変わってしまった。家の料理番や部屋の掃除
など使い走りをさせられたばかりではなく、食物も粗悪になり、そのうえ学校
にも行かせてもらえなくなった。これでは約束がまったく違う。彼は憤慨して、
「こんなにこき使われるために来たのではない。約束が違う」と言って働かな
くなった。夫人はこんな高橋に見切りをつけてしまったのである。
奴隷として売られる
高橋を見限ったヴァンリード夫人は、オークランドに住む知り合いの富豪ブラ
ウン夫妻の家に住んではどうかと高橋に提案した。彼が行ってみると確かに大き
な屋敷で、すでにアイルランド人と中国人の召使がいる。これなら以前のように、
こき使われるようなこともないように思われた。それにブラウン夫妻も親切そう
に見えたので、彼はオークランドに住み替えることにした。
この住み替えのため、彼は一通の書類にサインをさせられた。まだ14歳の
少年である。書類の内容などわかるはずがない。ヴァンリード夫人の「ブラウ
ン家に住み込めば、自由に勉強ができるという内容だ」という説明を鵜呑みに
して喜んでサインしてしまったのである。ところがこの書類は実はとんでもな
い身売りの契約書であることに、後になって気づかされることになり、契約上
ブラウン家から抜け出れないことが判明した。
困り果てた高橋は当時幕府からサンフランシスコの名誉領事を嘱託されてい
たブルークスにことの顛末を話し、契約破棄の調停を依頼した。ブルークスの
はからいで、ブラウン家がヴァンリード家に支払った50ドルを支払うことで
身売りの契約が破棄され、なんとか一件落着した。 その頃、日本は徳川幕府
が倒れ新しい政権が樹立した。その報に接し、高橋をはじめとする留学生たち
は帰国を決意する。サンフランシスコから乗船し、1868年12月横浜港に
到着した。高橋のアメリカ体験は1年数か月という短い期間ではあったが、辛
く苦しい思い出であった。それだけにまた彼の強靭な精神力を養う最良の訓練
であったことも事実なのである。
信念に殉ずる
帰国後、高橋は一時英語の教員となり、後に文部省、続いて農商務省に奉職し
た。しかし順風満帆というわけにはいかなかった。36歳の時、ペルーの銀山を
経営する話が持ち上がった。農商務省の次官の強い薦めがあったのである。彼は
特許局の局長という安定した立場を捨て、ペルーに人生の夢を託すことになる。
ところが、いざペルーに行ってみるとその銀山は数百年間掘り尽くされた廃
坑であった。まんまと一杯食わされたわけである。この失敗で彼は家屋敷を売
却せねばならない羽目に陥ってしまった。
ペルー行きを薦めた農商務省の次官は責任を感じて、彼の就職のため奔走し
た。県知事や郡長などの話があったが、高橋は断った。彼の弁はこうである。
これまで彼は衣食に困っていなかった。それ故、上官の言うことでもし正しく
ないと思ったときは、敢然と異議を申し立てることができた。いつでも官を辞
す覚悟ができていたからだ。しかし、衣食のために苦慮せねばならない身分の
今、到底以前のように精神的に国家に尽くすことはできない。彼は官僚のある
べき姿勢にあくまでこだわっていたのである。
こうした高橋の生き方は生涯変わることがなかった。晩年、軍部の際限のな
い軍備拡張要求に高橋は強く抵抗した。国防のみに専念して、悪性インフレを
引き起こしてしまえば、国家の信用は崩れてしまう。この無形なる信用の崩壊
は、結果的に国防をも危うくするというのが高橋の信念であった。1936年
2月26日、その信念の故に青年将校らに暗殺された。信念に殉じた83年間
の生涯であった。
高橋 是清と明治学院大学、
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明学について入試情報学部?大学院学生生活キャリアボランティア留学?国際交流
研究明治学院大学は、全国に先駆けて設立されたボランティアセンターを中心に、
国内外におけるボランティアプログラムを幅広く展開するとともに、正課授業
における学習とボランティア実践の融合にも取り組んでいます。また、学生団
体によるボランティア活動もさかんです。 社会貢献活動を通じて、教育理念〝
Do for Others” (他者への貢献)を具現化し、その理解と実践を深め、共生社
会の担い手となる学生を育成しています。
日本赤十字社・明治学院大学 ボランティア・パートナーシップ
ともに創設150周年を迎えた2013年に、ボランティアの精神を未来へつなぎ、広
げてゆくことを目指し、協力し合うパートナーシップを結びました。日本赤十字
社との活動に携わる学生メンバー「明学レッドクロス」による救急講習や献血活
動、募金活動のほか、日本赤十字社と経済学部経営学科による講座の開講など教
育面における連携も始まっています。
国連ユースボランティア
国連ボランティア計画:United Nations Volunteers(UNV)と関西学院大学の協定
に基づき、本学をはじめとする国内9大学が連携して学生を開発途上国へ派遣す
るインターンシップです。活動を通じて、異文化理解力・企画力・コミュニケーション力等
を培い、「グローバル社会」に求められる人材育成を目的としています。
■ プログラム内容
UNVのコーディネートにより、主に開発途上国の国連事務所や国際機関に約5ヶ月
間派遣され、派遣先では、情報通信・教育・ボランティア普及・青年活動支援等の
分野で活動します。
教育理念:明治学院大学の建学の精神、教育理念、教育目標について
明治学院初代総理 J.C.ヘボン DO FOR OTHERS
明治学院大は建学の精神「キリスト教による人格教育」のもと、創設者ヘボンが
生涯貫いた精神 “Do for Others(他者への貢献)”を教育理念に掲げています。
ボランティアセンター】設立20周年を迎えて
本学は創設者ヘボン博士が生涯貫いた精神“Do for Others(他者への貢献)”
を教育の理念としています。ボランティアセンターは、1995年の阪神・淡路大震
災発生時に、自発的な救援活動のために本学の多くの学生が被災地に向かったこ
とがきっかけとなり誕生し、その後20年間にわたりさまざまなボランティア活動
を展開してきました。それは、学生達がボランティア活動を通じて他者への貢献
を考える姿勢そのものが、本学の理念“Do for Others”に深く根差したもので
あったからであると考えられます。
しかしまた、ボランティアとは、プログラム化された無償奉仕活動への参加だけ
を指すものではありません。あらゆる職業、研究・勉学、日常生活にボランティ
ア・スピリッツの要素は存在します。そして、社会生活の多様な場面で他者への
貢献を考えることのできる人材育成こそ、本学の教育理念です。
ボランティアセンター開設20周年を迎え、この点をより明確に示すために、また、
“Do for Others”を具現化するために、大学内外のあらゆる関係者が「他者へ
の貢献」にむけて情報を交換し、交流し、考える場を提供していくことが、これ
からのボランティアセンターが果たすべき役割と考えています。
ボランティアセンター長 杉山恵理子
キリスト教活動 明学の理由。
明学について>明学×人>高橋 是清
幕末維新風雲伝 高橋 是清Korekiyo Takahashi 1854-1936
異国で気軽にサインしたばかりに奴隷として売られてしまったり、この銀山は有
望だと持ちかけられ、 信じて全財産を投じた挙げ句に破産したり、お酒好き遊
び好きが高じて仕事を失ったり……失敗を重ねた高橋是清の波瀾万丈の生涯。し
かし、そのたびに救いの手がさしのべられ、その力を求められ、そして必ず成果
を挙げて信頼に報いた。高橋是清の人生は深く心に残ります。
わずか11歳でヘボン塾に入塾。奴隷にも総理大臣にもなった男。
横浜の「ヘボン塾」で英語修行
高橋是清が生まれたのは1854年。ちょうど7隻の黒船が江戸に迫っていた年です。
騒然とした世の中に、幕府の絵師・川村庄右衛門の子供として生まれました。で
も2歳のときに江戸詰の仙台藩士、高橋是忠のところにもらわれていき、やがて
正式に養子になります。是清の名も是忠の一字をもらって名乗ったそうです。そ
の後、仙台藩の命令で、横浜に出て英語の学習塾に入りました。それが、ヘボン
先生が開いた「ヘボン塾」。ヘボン先生と奥さまのクララさんが初めて日本の土
を踏んだのは1859年の10月。「ヘボン塾」はその4年後に横浜山下町の自宅に開
かれました。おさらいをしておけば、この「ヘボン塾」が改称、合併を経て
1886(明治19)年に明治学院になり、翌年には今の白金キャンパスも開かれます。
そういうわけで「ヘボン塾」こそ、明治学院の前身。そしてその塾生だった高橋
是清は、私たちの大々々先輩にあたるというわけです。
一人で集めた9億円
ヘボン塾に通い始めた時、是清はまだ11歳でした。ここで2年間英語を勉強し、
再び藩命で渡米したのが14歳。ホームステイ先の両親にだまされて奴隷として売
られるという悲惨な体験をし、ようやく日本に戻ってみると、明治維新を経て仙
台藩は消滅!書生や教官助手になってなんとか毎日を過ごしていたけれど、生来
お酒が好きで遊び好き。放蕩の果てにその職も失ってしまいました。
それでも、いろいろな人が声を掛け、助けてくれるところが、是清の人徳なので
しょうか。そのつてで文部省や農商務省で仕事をし、その後のペルー銀山経営の
大失敗を挟んで、日銀などに請われて活躍。副総裁にまでなりました。その頃に
依頼されたのが、日露戦争遂行のための戦費を、海外で日本国債を売って稼ぎ出
すという難事業。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』にも書かれた、今もよく知ら
れているエピソードです。
それにしても当時のお金で約9億円という巨額の資金を、開国したばかりで、周
囲の国からまるで信用のない日本の国債を売って集めたというのですからその交
渉力の強さに驚きます。日露戦争が終わった後、日銀総裁として、また蔵相とし
て、持ち前の「積極財政」で日本経済の礎を築き、昭和恐慌後の景気回復にも大
きな力を発揮しましたが、一方でインフレ抑制のために緊縮策を唱え国防費を削
ろうとしたことから、軍部には目の敵にされました。もちろん、彼はそれでひる
むような人ではありません。それが1936年の二・二六の悲劇、高橋是清暗殺につ
ながってしまうのですが……。
〝頼まれ仕事に取り組む
こんなにさまざまな職業に就き、次々と政府の要職を担った是清は、いつも人に
何かを頼まれ、頼まれた以上はそれに応えようと懸命に努力する。そういう「受
け身」の人でした。そしていつも笑顔で「一生懸命に事に当たれば、必ず道は開
ける」と楽天的で、ただ〝頼まれ仕事?に全力で取り組んだ。それが是清的生き
方。
「これ頼む」と声を掛けてもらい、声を掛けてもらった以上はそれに報いようと
全力を注ぎ、「どうもありがとう」という言葉を受け取る――このやりとりって、
もしかしたら人が社会で生きるということの〝原型?なのかもしれません。高橋
是清は、そういう意味で、人生を大切にした人なのだと思います。
▲高橋是清が送ったヘボン博士追悼会を公務のため欠席する旨を伝える手紙
[参考]「高橋是清自伝(上、下)」(中公文庫)[画像出展]国会図書館デジタルアーカイブ
墓参2018.12.25