近代日本の預言者・内村鑑三(宗教新聞2016年6月5日号〜17年11月20日号) 伊藤武司 宗教研究者  1 預言者的な言行と気質  どちかかといえば預言者  内村鑑三の研究家やその作品にふれたことのある人たちに、彼の特徴を一つあげよと問えば、おそらく、同じイメージが返ってくるにちがいない。預言者的気質である。  内村の魅力はもちろんいろいろな視点から語ることができる。深い造詣に裏打ちされた思想の独創性や創意あふれる思索には抜きん出た特徴がみられる。  しかし、彼の性格や思想の闊達さ、几帳面、繊細、深み、行動力などの中で、預言者的心性が彼を一番表徴しているとすることに異論はないだろう。彼自身この点をどう意識していたか、興味ある言葉が残されている。  人を祭司的と預言者的とにわければ、「余は生まれながらにして儀式の人ではない。……どちらかといえば預言者階級に属する」といっている(『日記』1921・大正10年5月26日)。  この言葉をまつまでもなく、預言者的資質の濃厚な人物と規定することは正解といえるだろう。彼の一生はその名称にふさわしい言動であふれていた。  それでは預言者の第一条件とはなにかといえば、神の前における独立と自由の魂であろう。彼ほど独立と自由の精神を愛した人物は他にみられない。なにものにも支配されずいかなる権威にも屈せず、ひたすら神とキリストをみすえて生きた人であった。信仰の自由と独立を熱烈に希求する一文がある。  「私は私の信仰の絶対的自由を獲んがために、教会なるものとは、いづれの教会を問わず、何の関係をも持ちません。また私はかならずしも聖書がこの信仰を伝うればとて、その権威に伏して私の理性にそむいてこの信仰を抱くのではありません。圧制はいづれの方面より来るも、 吾人の断じて受くべからざるものであります。偉人も英雄も聖書も、自由意志を有する吾人の霊魂にいかなる信仰をもしうることはできません。信仰は内より外に向つて発するものでありまして、外より内に向かってつみこまれるべきものではありません」(『キリスト教問答』第二編キリストの神性)  一九〇三年(明治三十六)から翌年まで書きつがれた『キリスト教問答』は、非戦論が唱えられる以前の作品である。自己の信仰の絶対的自由を愛する情熱と、読む者を圧倒する強靭な意志の放出がこの文章の特徴であろう。それは教会ばかりでなく、「偉人も英雄も聖書も」彼の信仰の自由と独立をいかんともできないという決然たる意志の表徴なのである。  誤解のないように付け加えると、預言者的資質をもっている彼が完璧ということではない。むしろ欠点と思える性格でもある。預言者的資質とは、つまり、独立自存の強固な精神のことで、人間の力に拘束されない、ひたすら神のみに聞きしたがう鋭敏な気質のことなのである。神につながり、キリストの弟子であることを誇りとすること、それが預言者の心意気といえるだろう。  「自由とは人より何の束縛をも受けることなくしてわが身を神の自由にゆだぬることなり。独立とは 人によらずして直ちに神と相対して立つことなり。神に使役せられんための自由なり」(「自由と独立」1913・大正2年2月)  この短文も神とキリスト以外のなにものにもとらわれない、自由と独立を信奉する精神が際立っている。彼の人格と信仰を躍動させる本体がこの独立と自由の精神であって、彼の身辺はつねに活気にあふれていた。凛とした性格、また重厚な文章の筆致からも、神とキリストにゆだねて生きている熱気が放出されていた。  世俗の権勢に屈服しなかっただけではない。同じ意気込みを宗教界のカリスマに向けても投げつけた。火のように奔流する預言者的エネルギーが人格と文章に沸き立っている。  「法王何者ぞ、監督何者ぞ。しかり、ペテロ何者ぞ、パウロ何者ぞ。彼らは皆罪の人にしてキリストの救いに与かりしまたは与かるべき者にあらずや。彼も人なりわれも人なり、神は彼らによらずして直ちに余輩を救い給うなり。余輩は人として彼らを尊敬す。しかれども彼らはおのが信仰をもって教権を装うて、余輩に臨むべからずなり」(「戦闘の人にあらず平和の人なり」1912・大正元年)  内村一流の名言である。なんという鮮烈なバイタリティであろう。たった数行の文章から、ほとばしり出る迫力満点の主体的熱気に驚きを禁じえない。  彼に向けられるいかなる批判ばった言葉など、瞬時に吹き飛ばしてしまうすごさがここにある。垂直に突き抜ける表現、はりつめた緊張感、純粋で大胆な論理の脈動、透明感あふれる高質な思想的輪郭、そして圧倒的に白熱した主体的自我の凝縮、これらはどれもこれも彼のものなのである。  彼の人格や人柄の一端はこうしたさまざまな文章鑑賞から描写できる。「われはわれたり」の一文も、独立の自己をみせつける典型である。世俗的権力はもちろん、宗教の権威にも服従しないという、孤高の自尊心と堅固な一念がストレートに放射されている。  「パウロはパウロたり、われはわれたり。ペテロはペテロたり、われはわれたり。ヨハネはヨハネたり、われはわれたり。ルーテルはルーテルたり、われはわれたり。カルビンはカルビンたり、われはわれたり。ウェスレーはウェスレーたり、われはわれたり」(「われはわれたり」1910年6月)  自分は自分自身であってそのほかのなにものでもないという気迫と精気にみちたトーンの中に、預言者的気質が表出される。  「われはわが主イエス・キリストの弟子なり。彼の弟子の弟子にあらざるなり。われは他の弟子によりて多く学ぶところあらん。されども、われは主については直ちに主より学ぶなり。  われに、主が直ちにわれに示したまいしわれのキリスト観あり。われはわれの立場よりわが主を仰ぐなり」(同文)  彼には「主については直ちに主より学ぶ」ときっぱりといいきれるだけの預言者的自己意識があったといえる(『日記』1923・大正12年3月7日)。  信仰の世界において、人間的な仲介をいっさいおかないで、神の声をみじかに聞きとり、キリストの言葉を直接学ぼうとする器量こそ預言者の魂なのである。  つぎに紹介する思索は「われの要求」(1903・明治36年)である。  「神よ、われにみことばを賜え。人を生かすに足るの言辞を賜え。われはただ紙をふさぐに足るの言をもって満足せず。われは神の活ける言辞を要求するなり。ただ一言にて足れり。人の霊魂をいかすに足るなんじの活ける真理の言辞をわれに賜え」  こうした自由と独立の精神を人格と信仰にひそませ、思想の基調に据え付けているものが内村の主宰した無教会主義キリスト教であった。  生前、彼に対するキリスト教聖職者たちの姿勢は、かなり否定的でかんばしいものではなかった。しかし無教会につらなった一般の人びとは、彼の預言者的性向と信仰と思想に大きくひかれるものがあったのである。  預言者のパトス  旧約・新約聖書を学んだ彼には、エレミヤ、イザヤなどの預言者のパトスが色濃く取り込まれている。その傾倒ぶりは、アメリカ遊学の間、預言書の研究に没頭していたことにすでに始まっていた。  「預言者イザヤをして今日あらしめば」(1917・大正6年8月)では、旧約の預言者の眼をとおして現代社会や文明世界の腐敗・堕落を糾弾した内容で、あたかも旧約からよみがえった現代の預言者の風采をみせつけている。  彼は、社会や国家の動態をつらぬいて、未来の鼓動を鋭く感知できる人であった。その預言者的心性は、いまだだれも気にもとめない時代の深層部に、未来を左右する重要な萌芽を発見し取り出すことができた。  この傾向が世俗の社会や文明世界に向かうと、鋭い批判的精神として放光され、ときとして攻撃的ともいえるほどの強烈な激しさをみせた。人格の内部に預言者的天性をためこんで、神とキリストのみに絶対臣従する姿勢を貫いたのである。  預言者的イメージは、『聖書之研究』誌のなにげない一節からも浮かび上がってくる。  「私は本誌の主筆であり、編集人であり、発行人であります。……しかし神と天国の言葉をもって言いますならば、この誌の主筆は私ではないのであります。  本誌の主筆は神であります。キリストであります。聖霊であります。上よりの能力が私なる機関を使って作ったものが本誌であります」(「余と『聖書之研究』誌」1908・明治41年6月)  内村は、神とキリストと聖霊が雑誌『聖書之研究』の主筆だ、と躊躇なく断言できる人なのである。  預言者の資質を感じさせるもう一例が、『宗教座談』に記されている。聖書の本質を述べている部分である。  「……聖書をほんとうに読もうと思えば、われわれは直接に神の感化を受けねばなりません。神は聖書よりも大なるものであります。ゆえに聖書に書いてないことも、神はわれわれの心に告げたもうことがございます。われわれはまず直接に神より聞かねばなりません。われわれの真正の教師は、イザヤやヨハネやパウロではなくして、天の神彼自身であります」(『宗教座談』)  ここでの要点は、「神は聖書よりも大なる」ものであるという真理観であり、その認識のうえに立って、神から直接真理を学ぼうという預言者的志向がみえる。  彼の真理のとらえ方は、聖書という書物を神の啓示と認めながらも、それだけが真理のすべてであるとは考えていない。  真理をまさぐる主要な源泉はもちろん聖書にある。しかし聖書の言葉のみに限定したのではなかった。さまざまな手段をとおして真理の内奥に迫るのがキリスト者内村の真理探究の方針であった。こうした真理観と、さらに天性的な預言者的資質が、聖書の真理を包み込む絶対的な真理の実存者・神自身に接近させる衝動をかきたてたといえる。  彼の思想と思索が自由に発想されて、あたかも聖書の枠組みから逸脱するかのように感じさせるのもこの真理観に基づいていたからである。  文章の預言性  人物としての預言者的気質にくわえて、文章がまた預言的精神を強く表徴している。繰り出す文章は彼の存在感がそうであるように強烈で、キリスト教信仰によって、多彩な思索を精力的にこなした人である。  キリスト教信仰を基点としたその興味と関心はいたるところにあった。それらを思索し創作した論文は膨大な量である。選んだテーマはきわめて多岐にわたり豊富な資料が蓄積された。当時のキリスト教社会で一番多産な著述活動をこなしたのがキリスト教思想家内村であった。  彼の著述は長編はまれで長くても中篇どまり、体系的な著作や概説的な作品が多いとはいえない。多様な素材を論究テーマとしてとりあげながら、高度な学識を土台とした雄勁な文体と、これとはまったく異なる、あたかも詩文のように詩情的香りを放つ文章表現から成り立っていることは注目される。理論的・理知的な文章と、簡潔で詩的な文章という二つの流れに、彼の主体的意志が織り込まれて、きわめて説得力のある文体となった。  合理精神に基づく近代教育をうけた彼は、非常に頭脳明晰な人物であったから、論理的・合理的な思考による文章を繰り出す能力は当然のことあった。あふれる知性はだれにも負けるものではない。しかしそれを超えるものをみなぎらせ、底流させていた。  文章の陰影をカラーで表現すれば、強烈な極彩色で彩られて、かつ水晶のように透明性を保つ純度の高い文章ということになるだろうか。理論的に整合された精緻な文章と簡潔で気迫に満ちた文章がある場合、まず後者に親しみを覚えていたろうと考えられる。  文筆活動では、長編の著作や思索の少ないこととは対照的に、圧倒的といえるものが短評や断想の豊饒さである。端的な印象として、理論性や細密さ、あるいは体系的なものをめざしたというよりも、心の琴線に触れた事象の核心を鋭角的に切り取り、短く表出させている、という思いにさせられる。独立した長編の作品もまれで、一論文に収められた一つ一つの文章がまた簡潔・明快さを特徴としている。  「悪とは神を離れて存在することなり。神とともにありて万事万行一つとして善ならざるはなし。  我らは悪を避けんとするよりはむしろ神とともならんことを努むべし。しかれば我らは自づから善をなすをえて悔改の苦痛を感ずることなきにいたらん」(「善をなすの途」1903・明治36年2月)  「艱難を避けんとするなかれ。これに勝たんとせよ。独りみずからそれに勝たんとするなかれ、神によりて勝たんとせよ。神が艱難を下し給うはわれらによりてその能力と恩恵とを顕わさんためなり」(「勝利の生涯」1903・明治36年)  こんな短言がとにかく多く目立つ。  日本が近代国家になると、国語界にも言語表現の改革の波が押し寄せた。内村の文章は、初期のころの漢語の目立つ文語的特徴が、次第に口語文の文章で占められていった。もちろんここには国字や国字改革の時代的反映があったのである。  彼には講演にそなえた草稿文に基づいた著作や会話形式による作品もある。ためしに内村の文章を口ずさんでみるとよい。まずわかることは、一種独特な響きとリズム感が文章の流れにあることである。短かい文節が次々にたち現われては、思索の内容と溶けあい読者を豊かな志操の世界へといざなうのである。  英文で書きあげた作品や論文もかなりある。音楽にたとえればバッハの旋律の趣があるというヨーロッパの識者の評がある。簡潔な中にも重厚な深い響きが心の律動そのままにこだましているのであろうか。修辞にこだわる美文調ではないが、しかし、高い品位と緊張感に支えられた凛とした文章は美しく、在世中から人びとの注目を浴びた。陶酔という言葉があてはまるくらいに、この特徴的な文章に魅せられて、そのスタイルをまねる人までがいた。  明治時代から現代にいたるまで、彼の人物論や思想・作品についての評論が後を絶たないのは不思議なことではない。明治と大正時代に活躍した評論家の山路愛山は、内村の文章を羨望をこめながら、天才にして書ける「日本文学の一品」と批評した(「我が見たる耶蘇教会の諸先生」)。  文章にむけられた賞賛に対して、内村は、それが自己の技量によるものではなく、聖書自体のもつ真理の実力によると語っている。しかしながら、もって生まれた天性の自我と魂の力量なくして、これほどの鮮烈なメッセージを照射できるものではない。門下生・山本泰次郎が、内村全集に内村の聖書研究の本質と文章の特色をついた解説文を記している。  「本全集は決して聖書学者や注解学者を全面的に満足させるものではないし、一般の利用者さえ本全集の注解書としての形態などに多くの不満や遺憾を覚えるのである。  しかし本全集の価値と使命とはまったく別のところにある。本全集十七巻の全文字は、あたかも生あるもののように、読む者の霊と心とを呼びさまし、ふるい立たせ、学者のごとくならず権威あるもののごとくに読む者を教え、さとし、天来の露のように悩める者をなぐさめ、はげまさずにはおかない」(『内村鑑三聖書注解全集』「解説」)    短文に思想を圧縮  彼の執筆活動は短い思索や短文や小作品を書き続けた人生であったといえなくもない。センテンスが短く簡潔であることは、簡略であるということを意味しない。彼の場合、多様な思想的内容が濃密に圧縮されているということになる。  内村研究のポイントは、凝縮された密度の高い文章から、どれだけ思想的核心を取り出せるかということにかかってくる。というのは、言葉の簡潔さがときとして読者の理解をはばむ一因になってきたからである。したがって、どうしても彼独自の文章スタイルに親しまなければならないのである。  ある人の感懐では、深い思想を表現するためには、あまりにも直感的であり、詩的すぎるということになってしまう。たしかに一つの論考の文脈、あるいは一つの短文を比較する中で、論理の飛躍や断絶があると思ったとたん、読み進むことが難しくなるかもしれない。長所と欠点をあわせもった彼の文体の特徴が、鋭く心に感応する反面、理解を困難にすることにもなる。  しかしながらこの特色ある文に接すると、文章全体からにじみでる躍動する律動と強靭な意志力に魅了されて、欠点と思われることが氷解してしまうこともまた事実なのである。  ちなみに、一時小説家のお手本のようにいわれた白樺派の志賀直哉は、内村に私淑した青春の数年があった。無教会の集いで聖書を学んだ志賀は、キリスト教にはあまり感化されなかったものの、宗教家らしくない恩師の快活さや明るく、きさくな人柄に魅せられ、また文体の影響もあったといわれている。  文章作成上のその動機や精神をさらに探ってみたい。  簡潔にして明快、直裁的、直感的文章は、当然、天賦の才能があったからであり、これには彼の性格も関係しているが、もう一点重要なことがある。聖書を研究する過程で培われた後天的な要素である。彼の文章の特質や人物の実像を切りとるためには、こうした要件までも考慮しなければならない。  掲載文は、初代キリスト教のパウロやヨハネの文を引いて、文章を論じているところである。とくに「理論に頓着せず」「心中に潜む真理」という箇所は注視すべき部分である。  「……注意すべきは、パウロの言が論理的でなくして重畳的であるということである。近代人の文は論理と分析を特色とし、すべて正しき連絡を保ちてしるされる。しかるにパウロやヨハネは理論に頓着せずして、心中に潜む真理を続々として累積的に注ぎ出す」(『ロマ書の研究』)  ここから、いかなる短文の作成にあっても精魂をこめて書きあげるという精神が伝わってくる。文章創作のこの内面的姿勢を確認することによって、思索の内実をつかめるのである。  「人の最も切に求むるものは、理論の純一にあらずして魂の純一である。……われらはもちろん理論を軽蔑するものではない。ただ理論に捕われて心霊の光をにぶらする徒を軽蔑するものである」(同書)  平明すぎる単純な文と思う前に、そう決めつけることのできない思索や思想の盛られているのが彼の文章表現といえる。  ロマ書の注解を進めるうえで、彼はパウロの言葉が文法的に不備であること、たとえば動詞が欠落して主語だけがあったり、完全な成文をなさないことも一度や二度のことではなく、「文法的または論理的には不充分」な文章であることを洞察していた。しかしそれ以上のものが精神や思想における偉大さだと、パウロを強く擁護したのである。  パウロ弁護をもう二篇載せておこう。  「文法は形体のことにして、いずれにしても可なるもの、生ける精神は生命なれば、形体のいかんにかかわらず、ふつふつとして文字の外にあふれ出づるのである」(同書)  「あたかも久しぶりにて会いし親友間の語のごとく、論理的連絡に頓着せずして、きれぎれに、甲より乙、乙より丙と、真理が噴出したのであろう。ゆえに言は短くして意は長い」(同書)  パウロの筆記の精神は、「理論に頓着せずして、心中に潜む真理を続々として累積的に注ぎ出す」精神であった、と内村は述べる。精神に重きをおいたパウロの文章のように、内村の文章もパウロとおなじ精神に立っていたといえるだろう。  彼の創作活動は、この精神を思う存分発揮させながら思想的展開がなされているのである。さらにこの精神を論じてみたい。  「詩人ワルト・ホイットマンが言うたことがある、『私に矛盾が多い。それは私が大きいからである』と。そのごとくに、神は最も大きい方であるから、矛盾の最も多い者である。彼は愛したもう。また憎みたもう。彼は愛であると同時にまた焼き尽くす火でありたもう」(「矛盾について」1924・大正13年8月)  「愛をおこなわんと欲する者は矛盾を恐れない。愛は完全を装うて、人にほめられんと欲しない。完全でもよい。不完全でもよい。矛盾してもよい。矛盾せずともよい。円満可なり。多角可なりである。ただ人を助け人を救うを得ば、足りるのである。……余もまた努めて愛をもって余の意となし、愛をおこなわんがためには、あえて行為の矛盾を恐れないであろう。余はこの世の聖人、君子のごとくに、円満、無謬をもって余の生涯の目的となさぬであろう。矛盾の人たるも愛の人たらんとして、もってキリストの聖意にかなう者となるであろう」(「行為の矛盾」1913・大正2年3月)  これら二つの言葉は、行動や思想表現における言行一致や論理の統一性にことさらこだわっていないことを述べ、善意にもとづく言動であれば矛盾もよしとしている。  誤解をおそれずにいえば、文章の工夫に無頓着なのが彼の文章スタイルということになる。彼の問題意識は、真実を直感的にすくいとってそれに焦点をあわせて論ずるという志向性が著しい。砂をかむような観念的技巧や、純論理の学者的叙述などは彼の文章世界にはないのである。  実際に、言葉の厳密さが要求される論述の中で、不用意と思われるほどの言語を使用しているケースもあって、それは彼の行動様式にまでたち現われたのである。  しかしそうした場合でも、彼の思想や行動に混濁や錯綜があったのではないということを留意する必要がある。  そもそも矛盾の人といわれたように、彼くらい誤解の渦中におかれた人物も珍しい。不敬事件がその代表的なものであろう。日露戦争時に主張した非戦論への転向、再臨運動での言動、既存教会からの偏見、さらには門弟、親族兄弟との不和にからまった誤解と絶えることがなかった。次は彼の日記からの言葉。  「余の真剣の聖書の研究が37年前米国に流浪中預言書の研究をもって始まりしことをいまにいたって神に感謝する。  余と余の信仰とを誤解する多くの日本人あるは彼らが預言書によらずして直にキリスト教に入らんとするからである。キリストご自身が預言者であった。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモス、ホセヤらの精神にふれずしてキリストを解することはできない。  世に骨のない愛情のみのキリスト者多きは彼らがまじめに預言書を研究しないからである。  読めよ、大に読めよ旧約の預言の書を」(『日記』1922・大正11年5月30日)  彼の言動や人生から生み出された誤解や矛盾の原点にあるものは、真理への強烈な憧憬であったと指摘したのが内村の息子の感想である。  しかも彼には矛盾や誤解の中へ自ら飛び込んでいくようなところがあって、批判や困難な状況を恐れることのない強靭な精神、いわゆる預言者的性格をもっていたという結論になる。  一つのエピソードにふれてみよう。あるクリスマス晩餐会の席で、青年男女の会員たちを前に、若さを保つ秘訣を語ったことがあった。ユーモアを込めながら、笑いの多い生活と、強い敵をもつことだといってのけたのである。  ある事象に対して直感的に感じとった真実の想念、それを直截に表現するということ、それが文章作法や行動で重視した精神だった。心の中に拡大する自然な思いそのままを率直に表白しようとする躍動の生命感を第一にしていることになる。パウロの文章の精神とこれら二つの思索の精神は同じことなのである。  こうしたやり方による効果は、文章においても行動においても生き生きとした活力をみせるが、論理を無視している、矛盾的な行動をとっているなどの批判を受けることにもなったのである。  長短両方の特徴をもった彼の文章を、短すぎるという形式論だけで決めつけてしまうことは性急である。適正に評価できるなんらかの方法をとりこむしかない。  2 詩人としての魂と感性  預言的かつ詩的感受性をもちあわせていたのが内村であった。  「秋が来た/涼しき心地よき秋が来た/嗚呼愛すべき秋よ   老(ろう)が来た/静なる黙示(しめし)に富める老が来た   嗚呼楽しき老よ/この後に冬が来る/冷たき死と墓が来る   しかる後に復活の春が来る/しかして最後に永久変らざる清き涼しき神のパラダイスの夏が来る/嗚呼感謝に充(みて)る生涯よ」(「秋の夕」)  彼の文章の多くは短文が中心で、文の一節一節は簡潔・簡明な単語でうずめられていた。そして気迫のみなぎる雄勁な文体で、同時に詩的な雰囲気をだだよわす文章が創作されることもめずらしくない。  「神よ、われにみことばを賜え。/人を生かすに足るのことばを賜え。われはただ紙をふさぐ足るのことばをもって満足せず。/われは神の生けることばを要求するなり。/ただ一言にて足れり、人の霊魂を生かすに足る、なんじの生ける真理のことばをわれに賜え」(「われの要求」1903・明治36年2月)  もう一つは原文そのまま。  「自覚せよ、又自忘せよ、自己の罪を悔いて神に至れよ、又自己の罪を忘れて天然に遊べよ、神の如く聖くなれよ、天然の如く自由なれよ、神の子となれよ、又天然の子供となれよ、衷に省みて又外に伸びよ、汝等に国を予へ給ふ事は汝等の父の喜び給ふ所なりと主は曰ひ給へり、この霊を救はるゝと同時に宇宙を己が有と為せよ」(「宇宙の占領」1907・明治40年7月)  彼の詩的な文章はこうした文のことである。  無数の思索の中には詩歌とも預言の声とも見分けがつかない文はいくらでもある。純粋で高質な論理的思索とともに詩の形式をとった言語表現も巧みであった。つぎの「神の声」はどうか。  「神の声は神の声なり。神より出でて直ちにわが心に響く声なり。国民の声必ずしも神の声にあらず。教会の決議必ずしも神の声にあらず。   法王の声、監督の声、宣教師の声の必ずしも神の声にあらざるは言うまでもない。われらをして心を静かにして神の声を聞かしめよ。しかして謙遜にこれに服従して、大胆にこれを唱えしめよ」(「神の声」1914大正3年2月)  直感的な感性によって自己の思想を詩的に表現している。  では、詩的文体と預言者的人物の相関関係と、彼の預言的性向が起因するところへと、論究を進めよう。  彼は詩人をいたく愛し偉人とみる思想家である。詩の愛好者としての一面は、ワーズワースやホイットマンなどの英詩をそらんじていたことでもわかる。詩人への敬虔な想念、それは政治家、実業家、教育者、学者、小説家、軍人などをはるかに超えた地平で熱くとらえているのである。  「……詩人は偉人中の偉人であります、……詩人の性を備えない者は偉人とはいわれません」(『キリスト教問答』)  彼は偉人の条件として詩人的魂を所有することが不可欠だと説いた。  大正の初め、近代国家と自他ともに認めるようになった時期に、外的に整備された国家にむけて強烈な牽制球を投げた短文がある。国家の質は、詩人の有無によって確定すると評している。   「……世に詩に勝るの宝はないのである。詩人に勝るの人物はないのである。一人のミルトンを得んがためには百千人の政治家または経済学者または法律家を失うてもよい。国に一人のエレミヤをもつは大軍隊をもつに勝るの勢力である」(「不信国の欠乏」1913・大正2年)  一人の詩人の価値は数百数千人以上の重さがあるという。詩人をこれほどまでに賞賛するその理由の一端を、「不信国の欠乏」の後半部で明かしているようである。  「国の生命はその詩歌である、その先導者はその詩人である。詩歌と詩人と無くして国民は盲人である。彼らはくらやみに歩むがゆえについに溝の中に落ちて泥水の中に沈まざるを得ない。   さればわれらは祈らんかな大詩人の出んことを。しこうして大詩人を得んがために、その準備として天国の福音を説かんかな」(「不信国の欠乏」1913・大正2年)  近代化を自負する国家民族に対して、軍事力の強化、警察機構や通信・交通網・法体系の整備がどれほどなされたとしても、彼にしたらそれらはなんら誇るべき実質ではなかった。すべての文物がでそろったような近代日本に、実は、最大の空白の部分があるという。それは「高遠なる詩歌」の欠乏、「偉大なる詩人……預言的詩人」の欠落であり、この嘆息を民族に向けて吐露したのである。  彼の説く詩人とは、この文章に表現されているように、国家と国民を先導し、鼓舞する、詩的・預言者的魂をもった愛国者にほかならなかった。国家にとって絶対不可欠な人物、国の命運までも変えてしまう無私の精神をもちあわせた人物、それが預言的詩人・詩人的預言者なのである。  3 預言者エレミヤを友として  内村が説く預言者的人物の特質についてさらに考察をすすめよう。  『宗教と文学』(1898・明治31年1月)の中で、彼は詩人を別の地平からとらえていた。「詩人の創造すべきものは思想なり、観念なり」と、神が天地を創造したように、天と地を歌いあげ「統一せる新天地を組成する」思想を生みだすのが詩人であると明言した。こうしてみると、彼にとっての詩人とは普通の意味での詩人でないことがはっきりしてくる。  「……神と交わり永遠に生き、隣人を愛し真理を喜ぶ神の子たるの資格を供えたる人あるなし。日本国の大欠乏は人なり。その大危険はこの欠乏なり。われらは今や日本国に人の起こらんことを祈らざるべからず」(「人の欠乏」1912・大正1年)  これは「人の起こらんこと」を祈ると、かつて、ユダヤ民族や英国の国家的危機のとき、預言者や詩人が愛国精神を高揚させたように、国家の未来を見すえる人間、預言者的人物の登場を期待している短文である。つぎの二つの文も同一の観念に基づいて表現している。  「われは詩人たるべし、神学者たらざるべし……預言者たるべし、祭司たらざるべし……。労働者たるべし、いわゆる教役者(聖職者)たらざるべし……われは自由の人たるべし」(「われの祈願」1909・明治42年3月)  「われは固まらんとせず、伸びんとす。われは永久に小児たらんと欲す。われは祭司たらんとせず、預言者たらんとす。神学者たらんとせず、詩人たらんとす。政治家たらんとせず、革命家たらんとす。われは永久に自由の小児として神の宇宙に存在せんと欲す」(「永久の小児」1906・明治39年)  全文にわたり詩人でありたい、預言者でありたいという熱望であふれかえっているではないか。  彼は生涯をとおして旧約の預言者に特別な思いこめ、一キリスト教徒として信仰の先輩や友を旧約の預言者の一群に求めていた。入信以来預言書を熟読し、彼の作成する文章にエレミヤやイザヤの言葉がひんぱんに引用された。つまり、彼の人格と精神の源泉に預言者の心性が深く刻みこまれいったのである。  こうした個性であるから、己の直感にはきわめて忠実であったと考えられる。以前に掲げた論文、「不信国の欠乏」にエレミヤやミルトンの名を挙げているのは、ユダヤ民族の危急存亡に際したとき、エレミヤは神のメッセージを同胞に伝えた憂国の預言者であり、ピューリタン革命が進行中の英国で愛国心を高揚させた詩人がピューリタンのミルトンであったからにほかならない。とくにエレミヤは特愛の預言者であり、「キリスト者は模範を預言者エレミヤにとるべきである。最も不幸なる人、しこうして最も恵まれたる人、愛すべきかなエレミヤ! 慕うべきかなエレミヤ!」(『日記』1919・大正8年10月6日)と高くもちあげている。  ミルトンやエレミヤは愛国精神を詩的・預言的に表白した人物である。旧約の預言者たちは神の霊感を受けて民族同胞に語りだすのを特徴としていた。霊に満たされた預言者の口からほとばしでる言葉は、燃える火のように力強く、権威に満ち、どこまでも格調高い詩的な霊気に包まれていた。  青年時代から、彼はこうした預言者のもつ精神や言葉になれ親しんできたわけである。かつ、彼自身も預言者的人物といわれながら、詩的・預言的文章をもって民族・国家に対したのである。  かくして、内村をして預言的人物と呼称しうる諸々の要素がでそろったようである。  創作したおびただしい短文の数、そして短編を主要な作品とする傾向は、預言書の詩的・簡潔な文体や預言者的因子とけっして無縁ではないはずだ。  彼の話上手にもふれておこう。明晰な頭脳から吐かれる理性的判断と気迫のこもった言葉は不思議な雰囲気をかもしだした。彼はかなりの雄弁家であった。聖書講義や講演には、品格のある話しぶりに警句が加わり、聞く者を引きつけたという。だからさりげない講話にも強い感銘を受け、長く記憶に留める人がでてくるわけである。  さてもう一つ別の視線から預言者の重要な資質を探ってみたい。神の啓示に従って生涯を送ったのが旧約のユダヤ民族の預言者たちであった。彼ら預言者は、ひとたび神の霊感に触れると大胆に神の言葉を語りだした。社会の不正をあばき、不義と罪悪を断罪する叫びは、雄弁と詩的な調べの中で炎の塊となって噴出した。神の代弁者は、ときとして、王侯貴族・為政者を容赦なく叱責する権威ある審判者ともなった。  内村をこうした預言者たちの生涯と比べると、国家や社会に対峙した自信に満ちた言動や、あるいは冒頭で述べたが、近代文明や近代人に対する徹底した批判精神、列強の植民地争奪や戦争への糾弾の姿勢などには、まさに現代の預言者を彷彿させるものがあったと断定できる。  つまり、詩人的魂を内包させた人生全体が預言者的性向に包まれていた。預言者たちが例外なく獲得していた情念、神からの信頼と愛を彼も確信していたであろうことも、高い確率で推量できる。その傍証はつぎの一節である。  「私どもは、天の神は私どもの父であると信じまする。神とは、天に高くとどまつてただ人間の運命を支配するだけの無情無感覚の者ではありません。……私どもの父母妻子や親友といえども、神の近きがごとくに近い者ではありません。ゆえに私どもはたびたびこの神と談話し、この神に私どもの憂苦を伝え、またあるときには彼の援助を乞い、彼の威徳を頌し、彼の偉業を讃えたく思うのであります」(『宗教座談』)  この言葉が真実であるためには、神の信頼と愛が疑いようもなくあるという不動の自己意識が伴わなければならないだろう。文面に従うかぎり、神とは彼にとってだれよりも身近な人格的存在であったのである。  実に、神のほかには、何者にも頼らなかったのが内村であった(「偽預言者とはなにか」1907・明治40年6月10日)。したがって、預言者的心性とは、親子間の会話が自然なように、「神と談話」できる天賦の才能のことである。預言者や詩人をこよなく愛し、預言的・詩的文章をものした彼は、二つの精神を豊かに持ち合わせた稀有なキリスト教思想家であった。  さらにいうならば、いかなる権威・権勢にも屈しない性向のゆえに、しばしば聖書の教えをも超える大胆な発言を辞さなかった。教会のかわりに聖書を重視し、それ以上に重いポイントをおいたのが生きた神とキリストであった。  つまり聖書の言葉のみにではなく、神に直接尋ね求めて真理を探索した。彼の注釈では、権威ある聖書も、人間によって記録された書物とみなされてしまうのである。神とは聖書の言葉や教義をも包含した真理の本体そのものであり、「聖書をほんとうに読もうと思えば、われわれは直接に神の感化を受けねばなりません、神は聖書よりも大なるものであります」(『宗教座談』)という帰結になる。「神の感化」という言葉を霊感という一語に差し替えると、そこに浮かびあがるイメージは、まさしく預言者のたたずまいである。  こうして、聖書の枠組み超えて神や真理を希求しようとした内村の志向には、預言者的気質が濃厚にあったということを了解できるだろう。  4 預言者たちに学んだイエス  内村がその円熟期に「イエスの先生」という論文を掲げたのは、実に象徴的であった。イエスを預言者の地平から論じたこの一文は、彼が預言者に格別な思いをよせていたことを示す好例である。  テーマから連想できるように、キリストにも先生がいたという見解である。キリスト教の歴史は、パウロやペテロなど弟子たちの視点からイエス像にせまる傾向が目立つ。本論文は、イエスの先生からの研究はあまりなされていないというユニークな問題提起となっている。ではだれがイエスの師匠かというと、旧約の預言者たちなのだという。  「彼(イエス)の唯一の教科書が旧約聖書であったことは疑いないところである。しかして旧約人物の中で彼が最も学んだ者は預言者であったことは、これまた疑いないところである。  ……イザヤ、エレミヤ、ホセヤ、ミカ、ダニエルらは彼の得愛の預言者であったらしく見える。彼は彼らの言によって、神の聖旨を知り、おのれの天職を認めたのである」(「イエスの先生」1910・明治43年9月)  そしてイエスの先生である預言者たちからその事績を学んだことが、新しいイエス像を浮き彫りにしていくといっている。  「預言者が人でありしごとくに、イエスも人である。預言者が革命者でありしごとくにイエスも革命者である。……しかしてイエスが預言者以上の人であったことは何人も疑わないところである。  師について師以上に達する者が、よくその師に学んだ者である。  イエスは預言者に学び、よくその精神をくみ、ついに預言者中の最大預言者となったのである」(「イエスの先生」)  イエスは預言者を師とすることによって「革命者」となり、「ついに預言者中の最大預言者となった」というのが彼の思索であった。  この文章を読んで感ずるのは、預言者は預言者の心をよくつかんでいることだ。内村は、「偉人は偉人を知る、しかり、偉人のみよく偉人を知る」(「詩人 ワルト・ホイットマン」1909・明治42年1月)という言葉を残している。神に召命された預言者の信仰を深く学び、預言書を熟読することによって、いつのまにか彼自身が現代の預言者と称されるほどの器に近づいていったと思える。  ところで、預言者的は未来の事象を語るばかりではない。預言者の資質とは、普通の人間が知りえないことを感知し、その根底に流れる真実を本能的に見抜く、特殊な才能のことなのである。そしてこの才能は、日本と世界の趨勢を見すえて思索した多数の文明評論に結実していった。  自己の行動に確信的になれる強靭な自己観念も、また預言者的心性の重要な要素の一つである。内村の生涯を一言でいえば、真実の言葉を率直に発信し、その行動によって正義を訴えた人生である。そうした生は、いかなる迫害や危機に遭遇しても妥協のない不屈の性格を形成するであろう。  不敬事件が問題化したのは、内村が天皇の写真に敬礼を捧げなかったからである。敬礼が儀礼的・形式的なものでしかなかった時代、彼の預言的直感は、その行事に反キリスト教と偶像礼拝の匂いをかぎとったのである。  竹をわったような性格の彼に、人生をビジネスマンのように切り抜ける柔軟さはなかった。それゆえに、問題が生ずると衝突してしまうのである。しかし、この気質があったからこそ無教会主義の基軸が立てられたということになる。  神の見えない意志や摂理を、鋭敏に感じとる資質が預言者的なのである。彼はそのような特質をもっていた。近代化を弾劾し、外国宣教師を批判し、欧米文明とキリスト教を指弾する彼は、そうした精神を豊かに所有していた。  預言者的特性には、時代を超えて働く神の摂理に対応して、実践に移す主体性もなければならない。ひとたび神の波動に共振すると、強烈な預言者の叫びとなり、直線的な行為に発展するからである。  そして預言者といわれるのにもっともふさわしいときが、再臨運動で彼のとった行動である。彼の預言者的光芒は、そのときひときわ輝きわたった。再臨運動が、それまでの伝道の原則を離れて社会全体に向けられたのは、再臨の本質が人類救済の普遍的問題であるという自覚があったからである。再臨以降の彼は、神の経綸が人間社会や歴史に直接働いていることを痛切に意識する人生になったといえる。  再臨問題で彼の捕捉した決定的な核心は、キリストの顕現であり天国到来という一事であった。まちがいなくその時期には、世俗的なことに幻惑されない、豊かな霊性をたたえた、預言者的高まりの中にあったはずで、その特質を底流させながら思索したことはもちろんであろう。  ここで大切な一点は、ほかならぬ彼本人が、預言ということに繊細な感性をもっていたことである。預言であればなんでもよいと考えたのではなかった。真の預言と偽の預言を見極めなければならないとの指摘がある。大正時代の社会に、急速に人びとに浸透した神がかり的な大本教などの動きがあったことを念頭に、『ロマ書の研究』の言葉を読んでほしい。  「預言に何の標準もなく、何をいうてもよいというはずはない。正しき信仰は聖書にしるされている。聖書の範囲においての預言ならずしては真の預言ではない。神の示すところは漸次的であって、神の啓示は前進的である。神は突発的に、全然既往と関係なしに、新真理を啓示したまわない。  それは旧約時代より新約時代への過程がよく説明している。されば今までに示されたる教えの基礎に立てる新真理の提唱が預言である」(『ロマ書の研究』)  この本文を待つまでもなく、旧約と新約の間に密接な関係のあることは神学上の常識である。これを基礎に、預言の性質が突如として人間のくちびるをとおして吐かれるものではないとしている。  神の啓示には一定の基準がある。「聖書の範囲において」、一段階ずつ「漸次的」「前進的」になされるものが正しい「新真理」としての預言だと説いた。  5 ニーチェに魅せられた内村  内村鑑三とフリードリヒ・ニーチェを並べてみると連想されることがある。まず第一にいえることは、両者の外貌からの印象である。壮年期の内村の写真や肖像画で眼をひかれるのは、口元にたくわえたひげや眼光鋭い相貌で、不屈の意志をみなぎらせて天空を見すえているかのような風姿は、まさに背広を着た現代のサムライの趣がある。一方、ニーチェの横顔には鋭気いっぱいのエネルギーにあふれ、二人はなんとも似ているではないか。  こうした外形上の類似性から、思想や生涯にもなんらか共通する要素があるのではないかと興味をそそられる。ヨーロッパの近代思想界に現れた風雲児・無神論者のニーチェと無教会キリスト教を標榜した内村の接点はなんで、どこにそれが求められるのかという関心である。  牧師の家庭に生まれ育ったニーチェは一時、神学を学んだが、結局、キリスト教に反旗を掲げ、終いには戦闘的無神論を唱える強烈なアンチ・キリストになった。対照的に、自らを「キリストの奴隷」と公言し、神とキリストに絶大な心腹をよせる革新的なキリスト者となったのが内村である。両者の思想的遍歴にはこうした歴然とした差異がある。ところが、さらに比較検証をすすめると不思議なくらいの一致点にでくわすのである。  内村とニーチェはそれぞれ異なる時代と国家に生きた。ニーチェの誕生は、一八六一年生まれの内村の十七年前、当時のヨーロッパは鉄血宰相ビスマルクの全盛期であった。内村は一九三〇年に亡くなり、ニーチェは一九〇〇年に精神病で病死している。内村の死因は長年の聖書講義による心臓疾患といわれている。  ニーチェは一説によれば、脳を冒す進行性の梅毒死であったという。一八八九年に発症し、思想家としての概念で計れば、ニーチェは四十四歳の一生であった。その間に旺盛な著作活動によって、『悲劇の誕生』『反時代的考察』『人間的な、あまりにも人間的な』『悦ばしき知識』『ツァラトゥストラはかく語りき』『善悪の彼岸』『道徳の系譜』『アンチクリスト』『この人を見よ』などの一連の作品群を世に出した。『アンチクリスト』を一読すると、彼の攻撃的な闘争精神がキリスト教会とキリストに先鋭的に向けられている。  そうした激烈な志向性は、内村のキリスト教会批判の多数の論文にもみられ、両者の意識構造がきわめて相似していることに驚かされる。しかしながら、内村は反教会という座標軸に立脚しながらも、反キリストにはならなかった。それどころか、どこまでもキリストを信奉し、イエスとの堅固な一体化をめざしたのである。  内村には真のキリスト教を高く賞賛している短文がある。  「キリスト教に高価なると安価なるとがある。まず安価なるものについて言わんか、外国宣教師に付き、その補給を仰ぎながら神学校に入り、神学書を読みて学び得しキリスト教、これ安価なるキリスト教である」(「高価なるキリスト教」1915・大正4年)  「信仰獲得のために苦しみ、多くを憂え、多く泣き、幾たびか神を恨み、彼を疑い、幾たびかエリ・エリ・ラマ・サバクタニの声を掲げ、血と涙とをもって得しキリスト教、これ高価なるキリスト教である。……しかり、貧と飢と孤独と侮辱とは高価なるキリスト教に伴う。実にしかり、苦痛をもって贖うより他に獲るみちなきがゆえに高価たるなり」(同文)  「高価なるキリスト教」、「血と涙とをもって得しキリスト教」の中枢にあるものはキリスト本体にほかならない。文脈中にキリストへの不動の信条が鮮明に刻印されている。つまり、既存教会の堕落を反キリスト・反宗教の立場から攻撃したニーチェに対して、プロテスタントの信仰観を護持し、信仰の中核を起点に弾劾したのが内村であった。  内村の教会批判の主要な要点は、キリストの精神にもとづく生きた信仰を打ち出せない既成教会の形式的信仰の脆弱さや聖職者・信徒たちの偽善的生き方にあった。排撃の対象は日本ばかりでなく、欧米の宣教師や教派的キリスト教会全体である。  ニーチェのキリスト教観は、この世についてなんらの有効性をもたない弱者の宗教であり、零落したキリスト教が人間の道徳心を劣化させ、生命力を腐敗させている元凶であると決めつけたのである。「神は死んだ」というニーチェの有名なメッセージは、そうした病弱なキリスト教を完全に葬り去る決別の宣言となった。彼の思考の中では、神や救済や罪といった観念は、塵あくたのように想像の産物でしかなかった。こうしてニーチェは、完全な無神論者・徹底した戦闘的ニヒリストとして、ヨーロッパ思想界に憤然と出現したのである。  西洋の伝統的キリスト教を拒絶したニーチェが逢着した先には、永劫回帰の思想が屹立していた。神とキリストに敵対し、反旗を翻した彼は、永劫回帰の理念を唱えることによって、精神界の王者になろうと画策したのである。  しかし、彼の魂がこの思想で救われることはなかった。救いようのない悲劇的な運命ばかりが彼を待ち受け、平安はついに訪れなかったのである。  なぜなら、永劫回帰の世界は、意味も目的もなく無目的に永遠に繰り返されるという、あまりにも凄惨で無情にみちた運命論だからである。神を葬り、キリストを闇の中に閉じ込めてからのニーチェは、『この人を見よ』にあるように、なおもキリストの幻影にとりすがる狂気の境界へ落ちていった。信仰の中枢を極め、キリストを神聖視した内村とは違い、キリストに挑戦しつつも、抗しきれなかったのがニーチェの悲運であった。  ニーチェの根本的誤謬はどこにあったのであろうか。とどのつまりは、彼の攻撃したキリスト教が世俗の世界のキリスト教であったことに尽きる。ヨーロッパの退廃し形骸化した世俗的キリスト教を論難しながら、その土壌から脱出できなかったニーチェであったという意味である。  考えてみれば、いかなる思想や文化や組織、人間や国家にいたるまで、世俗の影響圏から完全に自由なものはない。唯一神のキリスト教も例外ではなく、イエスを教祖とするキリスト教が、イエスの教えた精神そのままを、忠実純粋に維持した事実は、まずない。むしろキリスト教史は、数えきれない過誤と罪過をつみ重ね、不信仰・不名誉きわまりない事跡をつくってきたのである。  歴史的な地上のキリスト教とは、聖と俗とを併せもつ世俗的な宗教なのである。ニーチェの根本的誤りは、この世俗化したキリスト教を本来のキリスト教と信じ込み、それを排撃したことにあったといわざるをえない。  キリスト教は、ニーチェが「乞食道徳」「奴隷道徳」と形容したように、本当に、弱者の思想・教えだったのであろうか。こうした疑問に明快に回答を与え、本質的な思索をしたのが内村であった。  ニーチェは愛すべき異端児  内村とニーチェとの出会いは一九一六年(大正五)のころであったらしい。日本でニーチェの思想が一つのブームになったのは一九〇一年(明治三十四)で、評論家・高山樗牛のニーチェ論議に端を発している。もっとも、その時点で内村がニーチェに興味をもった様子はみられない。前年には「聖書之研究」誌が発行され、日本伝道の意気に燃えていた時期でもあったから、反キリストでニヒリストのニーチェには関心を示さなかったのかもしれない。  知的好奇心の塊のような内村が、それから十年以上もニーチェに接近しなかったことはなんとも不思議である。それだけに、ニーチェに着目し始めると、強い反応をみせたこともまた納得できる。徹底したクリスチャンの内村が、徹底したニヒリスト・ニーチェに心引かれていったのである。一九一七年(大正六)、アメリカの友人ベル宛の書簡の話題はまさにニーチェであった。  「最近フリードリッヒ・ニイチェの生涯について読みました。なんと不思議な人ではありませんか! 彼がキリスト教をば、彼の深刻な心にふさわしいだけ深刻に解し得なかった事は同情に堪えません。彼は鉄槌をもって、教会をキリスト教を粉砕してしまいました。思うに神は、この一事をなさしむべく彼を遣わし給うたのでしょう。それはちょうど第七世紀の老衰したキリスト教を打ちこわすために、神はマホメットを遣わし給うたのと同じです」(「ベル宛書簡」1917・大正6年2月7日)  ニーチェへの関心ぶりが印象的である。ニーチェは天才であると紹介したのが「ニーチェを読んで」(同年2月10日)の記載である。その視線が批判的な嫌悪の感情ではなく、同情と好意と憐憫の思いに満ちていることに注目したい。翌月の書簡にも、ニーチェへの感想が親近感をこめてしたためられている。  「私は自分をまもるために彼を知る必要に迫られたのでした。そしてニーチェは私に、西洋の衰退したキリスト教を見せてくれました。彼は、彼がキリスト教なりと教えられたものを打ちたたいているのです。―気の毒な人です! そして全世界を通じて、信者の間になんと大きな混乱を与えたことでしょう! しかし、近代教会の誤りの方が、彼の誤りよりも大きい、と私は思います。彼その人は実に愛すべき人で、誠実の点では彼に及ぶ者はありません。こんな人がキリスト教の最大の敵とならざるを得なかったということが、そのままキリスト教国の実状を物語るものであり、これこそ悲しむべき点です」(ベル宛書簡」同年3月6日)  口をついて出た言葉は、「気の毒な人です!」という一言であった。内村は、キリスト教やキリスト教会批判によって教会から排撃され敵視されたニーチェの孤独な生に、自己を投影していたのかもしれない。手紙を書いた時期は、キリスト教諸国を中心とした世界大戦の真っただ中、伝統的キリスト教や近代文明に懐疑の念を募らせていたころである。  「自分をまもるために」というくだりには補足がいるだろう。内村の下で聖書を学んだ青年たちの中で、ニーチェの思想に感化され、棄教する者が現われた。ニーチェへの接近には護教的な一面もあったわけである。  しかしそうした事態に遭遇しても、内村はニーチェの教会批判や精神に共感を捨てきれずにいた。たとえば、自著『ロマ書の研究』のキリスト像の説明に超人の一語が出てくるのは、ニーチェの超人思想に触発されたからではないだろうか。  比較論考をとおして想起されることは、キリスト教批判という顕著な共通項をもつ二人でありながら、ニーチェは反キリストに内村は強靭なキリスト者になった事実である。両者の思想的信条が正反対の極に帰着したわけである。  ニーチェは二千年の西欧キリスト教世界の懐で生を受けた人である。牧師の子息としてキリスト教は既定の事実であり、その精神や素養は骨の髄まで染みついていた。他方、内村をとりかこむ環境はニーチェとはまったく異質のものであった。日本という異教の土壌で西洋の一神教に回心したのがクリスチャン内村なのである。そうした状況下の内村が、反キリストのニーチェに魅せられたことを指摘しなければならない。  デモクラシーが華やかな大正時代、微温的な空気に酔いしれる日本人の精神性をニーチェのそれと対比しながら、内村は次のように日記に書いた。  「人は何人もエホバの神に深くして戴くまでは浅い民である。欧州にニーチェのような基督教に激越に反対する思想家の起こった理由はここにあるのである。彼等は基督教に由って深くせられて、その深みを以って基督教を嘲けり又攻撃するのである。東洋の儒教や仏教を以ってしては到底深い人間を作ることは出来ない」(「浅い日本人」1924・大正13年4月10日)  内村にいわせれば、ニーチェのような人物がヨーロッパに出現したのは、西洋キリスト教精神の深さに鍛えられたからこそなのである。それは万事を体よくやりすごし、熱くも冷たくもならない日本人には到底みられない強靭な精神性だという。ことなかれ主義、真理に無関心でいられる淡白な心性。それらはまさにキリスト教の基盤と聖書的伝統のない日本民族のかかえる精神構造だと嘆息しているのである。  異教の国日本で生まれたサムライの子内村のキリスト教観は、初めから外国の宗教・「ヤソ」教であった。偏見や憎悪の響きをしのばせるこの言葉の潜在的心理が、札幌農学校入校時にイエスへの誓約を拒ませたといえる。彼にはキリスト教を拒絶する理由はあっても、入信する動機はまったくなかった。  ところが、ひとたび神とキリストにとらわれると、キリスト教の信仰の神髄・深みへとまっしぐらに突き進んでいった。  神とキリストに対して不変の信仰を誓う立場の内村が、信仰の核心部にふれる過程で、キリスト教や教会内外の真偽を鋭く洞察しえたことには疑問の余地がない。無教会主義とは内村を総帥とするそうした信仰遍歴の結晶なのである。  内村のニーチェ評を総括すると、無神論のニーチェに共鳴する論調が、確実に批判よりも勝っている。それは、ニーチェの妥協のない糾弾や姿勢に真実のあることを認めているわけで、彼自身が日常的にキリスト教の腐敗や堕落を痛感していたからだといえよう。内村にとってニーチェは、キリスト教世界に現われた愛すべき異端児だったのである。  6 内村とキルケゴール  日本のキルケゴールといわれて  北欧デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールと内村を比較してみよう。  男性的で意志堅固な内村と、内も外も深い憂愁と瞑想を秘めたようなキルケゴールでは、違いばかりが目立つようである。二人の類似点は、両者の生き方や思想活動といった内面に求めなければならないだろう。最初に結論を述べると、あふれる豊穣な思想、深い宗教的省察、卓越した文章力や文学的資質、既成教会への批判的姿勢とキリスト教観、そして時代を超越した単独者としての預言者的生涯などに注目したい。  キルケゴールはニーチェと並び実存主義の先駆者とされ、一八一三年にデンマークの首都コペンハーゲンに生まれ、一八五五年四十二歳で没した。内村が生まれたのは彼の死から六年後一八六一年。厳密には同時代の世代とはいえない。  キルケゴールの思想の特色は、実存の主体である単独者の思想である。単独者は神の前における一個の実存者であり、まさに、彼自身の生きる姿が単独者であった。  言い換えれば、合理性をモットーとする時流のヘーゲル哲学に反対の観点から出発したのが彼の哲学的展開である。実存主義思想のさきがけとして、ヘーゲルの客観的真理体系はキルケゴールの関心事にはならなかった。人間の主体性を重要視し、自身を哲学思考の主要なテーマとした彼は、己の生命に直接関わる主体的真理を枢要な研究対象としたのである。  さてキルケゴールの説いた神の前における単独者の思想は、内村の無教会主義の一つの特徴である独立・自由の人間観を思わせる。彼の信仰観の根本には神とキリストを前にした独立と自由の自我の存在があった。そうした核を魂の内奥に取り込むことにより、彼の信仰は揺らぐことのない強固なものとなったのである。  それは神の真理を実証するために、自らを信仰の実験台に置いたことを意味し、両者の接点であると考えていいだろう。ヨーロッパのキルケゴール研究家たちが、内村に「日本のキルケゴール」という名称を与えたこと、あるいはそれに類したイメージをもったことも注目したい。  発端はヨーロッパで大成功した内村の自叙伝の出版にある。まずドイツ語訳が一九〇四年(明治三十七)に出て、さらにデンマーク語、スウェーデン語、フィンランド語など北欧の言語に翻訳され、内村の存在と思想とがヨーロッパ各国で知られるようになった。  キルケゴールは、当初、牧師をめざしていた。ところが神学校で学んだものの、ついに牧師にならなかった。その気になればいつでも牧師職を手にすることができたのに、その道を断ち切ったのは自らの意志であった。この点の内村との対照は興味深い。 無教会の内村の牧師嫌いは有名であったが、聖職者以上に聖書に通暁する専門家となった。  結婚という点では二人は不幸な運命の下にあったように感ずる。三度の結婚・離婚をくり返したのが内村であった。最初の結婚は破綻し悲劇の結末を迎えた。最終的に平安な家庭生活を営むようになった内村に対して、キルケゴールはより悲惨である。彼には将来を約した婚約者がいて、二人の未来は祝福されていたにもかかわらず、婚約を破棄してしまったのである。しかも破婚の理由は不明確で、一方的な破棄であった。  当然のこと、無責任きわまるキルケゴールの行為に対して、社会から多くの非難が集中した。ところが、周囲から陰口や侮蔑の声を受けても、彼はついにその根本的理由を生涯釈明することをしなかったのである。  以降の思想界は、キルケゴールの行動の秘密を様々に解いて哲学的に意味づけようと試みた。それからの彼は、暗鬱な色調に沈んだ隠遁者そのままに、己に浴びせかけられた背信の声を十字架として背負いこむ不可解な人生を送る。彼の複雑さ、不思議さは、自己にとりついた不利益を滋養分として、生涯に多数の哲学的著作を創作したことにある。しかもその著述の大部分は匿名でなされた。謎に包まれた憂愁の哲学者といわれるゆえんである。  複雑・難解な性格のキルケゴールの生き方を内村に当てはめてみると、彼もまた神秘家とか謎の人物といわれた。両者の多作ぶりや思想表現での共通性もふくめて共通項はここにもみえてくる。  匿名で発表された作品の多いキルケゴールの思想の全貌をつかむのはたやすいことではない。内村の思想や思索も体系的に論ずることの難しさがある。多数の論文は端的にいえば、必ずしも論理的に一貫性を伴わず、論理性だけで立ち向かうといきづまってしまうのである。彼の思想を理解するポイントは、文章全体に流れる主流的精神を的確につかむことである。  キルケゴールの代表作としては、『あれか、これか』『不安の概念』『死に至る病』『反復』『キリスト教の修練』などがある。不安と絶望の淵に立たされた人間実存を、克明に心理分析した作品である。その思想的アプローチの中で、神とキリストの前に立つ人間実存を切り取っていくのである。緻密な哲学的な思索の内奥にただようのは、神とキリストに対する従順で真摯な信仰的姿勢である。かくしてキルケゴールは、神を熱愛する実存主義の開拓者となっただけでなく、孤高の宗教的巡礼者ともなったのである。  二人は日記もつづっていた。実名を秘匿するキルケゴールとは対照的に、自らの日記文を公開してしまう開放的な内村との立場の違いはあるが。内村の代表作の自叙伝は日記形式で叙述されている。再臨運動を開始すると、その行動の記録である日記文を書籍として刊行している。彼は自己の内面を記した内容を公にすることに、なんらの躊躇もなかった。隠しだてするものはないというのが本意である。    教会の権威を否定  次に指摘したいのは両者のキリスト教精神に対する鋭い洞察力である。二人は、世俗の世界におかれている有形の教会が、地上の制約を超越することができず、その勢力に押し潰されてしまうことを直感していた。二人ともキリストを純粋に愛し、純なるキリスト教を深く憧憬していた。だからこそ、キリストが本来伝えようとした真の精神が、制度としての歴史の教会の中に実現されていない欺瞞や弊害を見抜けたのである。  西洋のキリスト教が危機を迎える前の、いまだその基盤に亀裂のみられない時代に、伝統的教会の限界を察知したのがキルケゴールである。そうした意味から、キルケゴールは実存主義の先駆にくわえ時代を超えた預言的思想家ともいえる。  しかし、デンマークの同時代の人びとは、彼がその危機感を口に出したとたん、変人扱いし、キリスト教会の敵対者として危険視した。彼の真摯な預言的警告は、時代から歓迎されるところとはならなかった。  ところがである。キルケゴールの先見性は、その後、ヨーロッパのキリスト教会が深刻な危機に襲われることによって確実に実証されていった。  キルケゴールの作品が匿名でなされた根拠の一つがここにあったという説がある。制度的教会の問題点をえぐりだし、真のキリスト教を提言するためには、仮名でなければ十分に語りえないという時代的制約があったという理由である。  キルケゴールから約五十年後の内村の時代はどうであったか。内村の時代、世俗社会でのキリスト教の堕落ぶりは明らかに現実的な問題となっていた。彼は世俗に堕した教会の実態を、無教会主義の視点から積極的に批判の対象にした。そしてキルケゴールのように、その容赦のない言動のゆえに、教会や宣教師から教会破壊者、異端といわれ疎外されつづけたのである。  内村は一九〇六年(明治三十九)六月十日に「大野心」という短い文を書いた。それは、キルケゴールにことよせ、真の信仰者になることを願ったキルケゴールのように、ただ一人になっても、日本の真のキリスト者になろうとの決意を表白した一文であった。  彼の単独者ぶりは一年後の「緑陰独語」(1907・明治40年7月10日)にも誇り高く述べられている。教会の問題を糾弾し、牧師・神学者らの宗教的権威に反発し、本来の意義を喪失してしまった観のある宗教的儀式に疑問を投じたことでも同じであった。  二人をして、制度的、有形の教会に信をおけないという共通の認識が、神やキリストへの直接の接近を促したのは当然のことである。キルケゴールが志したように、内村も真理を神から直接学ぼうとした。  神が真理の根源者、愛の根源者であるかぎり、神を真の師として真理を学ぶことができるとキルケゴールは訴えた。教会の職業的権威を排した内村は、神と対話し、聖書から学ぶことを己の信条としていた。そうした内村の言動や思想には、まさに預言者の響きがあった。    神の前の単独者  人間実存の本質を追求した単独者のキルケゴールと、独立自存の自我の確立に努めた内村は、団体や集団への帰属よりも、個の意義と価値をはっきりと自覚していた。人間の救いは有形のキリスト教会という人為的団体、あるいは牧師という人為的権威に左右されるものではない、という観念が両者の思考の大前提にあった。  つまり、単独者・独立者の概念からは、人間が神の前に立つために教会は絶対要件とはならないのである。救いに与るために、単独の実存体として立ちうるし、また立たなければならないというのが共通点といえる。  キルケゴールの単独者の生き方をみすえながら、内村が自己を励ましている文章がある。  「聖書を読んでますます明白になることはキリストのよき弟子たらんと欲すれば単独の生涯を覚悟せざるべからずということである。キリスト者の生涯は、今の教会信者が思うがごとき社会の人望を博し、多くの同志にかこまれながら安心喜楽の日月を送ることではない。実際的に悪魔と戦い、ある形において独り十字架につけらるることである。……いまやキルケゴールと共にいまのキリスト教会なるものは偽りの教会であるというに躊躇しない。こんな教会に棄てられようと辱しめられようと、少しも恥ではなくしてかえって大なる名誉である」(「日記」1922・大正11年11月27日)  その場合、救いの起点を個人の主体的決断に求めたのがキルケゴール。実体験など人間主体の意志にゆだねたのが内村であった。一個の人間の救済について、二人とも同じような発想をめぐらせたようである。  自己の信ずるところを不屈の精神で貫いた内村と、仮名と実名を使い分けて思想を発表したキルケゴールとの相違は、異なる人格と時代的状況とに起因している。 問題の本質はもちろんここにあるのではない。  キリスト教を生命あるものとしてとらえ、真正のキリスト教を希求し、かつ神とキリストから直接指導される生きたキリスト教を熱望する姿勢は、二人に流れる同質の精神であるといえる。理想と真実を探求した彼らの生涯は、神とキリストへの信服において共鳴するものがあり、深奥には宗教的熱情と理想への渇望が息づいていた。  最後に、ニーチェとキルケゴールに向けられた内村の興味に触れておこう。神に向き合ったキルケゴールと神に反抗したニーチェの二人は、期せずして実存主義哲学の開拓者となったが、彼らに対する内村の接し方には、どこか違うニュアンスを感じさせるのである。教会批判者のキルケゴールは明治の後半、すでに「聖書之研究」誌で話題にしていた。  彼の自叙伝がヨーロッパ各国で出版されたのがこのころで、ヨーロッパの読者は内村とキルケゴールの精神や思想における類似性を認め、その評言は内村も耳にしていた。  内村にとってのキルケゴールは、その外貌の相違点以外は、熱烈な理想主義に燃えるキリスト者というイメージであったろう。既成教会を批判して敵視されたことでも近似していた。同じような問題意識をかかえ、相似性のある思想活動をした同型タイプの思想家と受け止めた可能性が高い。すなわち、思想的、信仰的に安心できる領域圏の人物がキルケゴールということになる。  「イエスの教えがキリスト教という宗教となり、彼の弟子が教会という宗教団体を作りし時に、ここに彼に予期したまわざりしものが現れて、彼のご精神は全然没却されたのである。  その証拠には、後世イエスのご精神を深くくみし者はたいていは教会の外に立ち、イエスのごとくに教会に嫌われて、彼のそしりを身に負いて、門の外に苦しみを受けた(ヘブル13・13)。ミルトン、トルストイ、キルケゴールのごときがその善き代表者である。彼らほど信仰の篤い人はなかった。そして小なる私もまたこれらの信仰の勇者と歩みを共にせんと欲するのである」(「無宗教無教会」1929・昭和4年4月)  一方、ニーチェについては、大正の半ばにようやく彼の伝記を読み、にわかに接近する。ニーチェは、最終的にニヒリストとして反宗教の生涯を終えた、内村とは正反対の生き方をした哲学者である。そうした反キリスト的人物に接する内村の心理には、感慨深い思いがあったろう。  彼は、ニーチェの思想に心酔し、キリスト教を知りもしないでわかったように批評する日本人に向かって手厳しい言葉を投げつけていた。論文「謎の聖書」(1914・大正3年)がそれで、日本人は聖書の探究には冷淡であるが、ニーチェやベルグソンやモーパッサンの研究にはきわめて熱心だと皮肉まじりの批評である。  ニーチェの無神論の思想は、内村の伝道活動に支障をきたすほどの頭痛の種でもあった。青年たちが聖書を学びながら、ニーチェの思想にかぶれ離れていったからである。いわば内村と無教会は、ニーチェの思想面における被害者であり、思想的な敵対者がニーチェであった。それだけに、キルケゴールとはまったく違う特殊な感情をいだいたはずである。  それは、悲愁をただよわせ、瞑想的なキルケゴールの哲学的風姿といったものではない。キリスト教を弱者の思想と断ずる好戦的な姿勢に魅せられたといえるかもしれない。なぜならば、ニーチェの果敢なキリスト教攻撃は、内村の同情とある種の共鳴を勝ち取るくらい、あまりにも誤謬と悲劇にみちていたからである。  さらに別の推察として、内村とニーチェはより近接した時代に生きたという点はどうであろうか。キルケゴールと内村との間に重なる年数はないが、ニーチェとの時代的接点は四十年間もあった。それは時代の内包する諸相に、共通した思想的志向と認識をもち得ることを意味し、ニーチェの問題意識は内村が痛感できる意識でもあったのである。  7 日本の近代化に対する批判  足尾鉱毒事件  内村の一生を回顧すると、日本の近代化に伴う諸問題に立ち向かう苦闘の姿があった。  近代化をイメージする代名詞は多様で、工業化、機械化、都市化、世俗化、大衆化、個人主義などといった言葉で説明される。近代化は、国家の基盤に決定的な変革をもたらすと同時に、人間の生活スタイルや内面の意識をも大きく変貌させる。そうした変化の結実がよいことばかりであればそれにこしたことはないが、必ずしもそうではなかった。  近代化の陰で著しい弊害を噴出させたのが各国の近代史の実相である。内村の真価は、鋭角的な観察眼で、近代化の中の国家や社会の実相、近代人の精神構造、物質主義、世俗化などを取り上げ、大局的な視覚から批判的分析をくだしたことにある。具体例として、足尾銅山鉱毒事件を紹介したい。彼は近代化の狭間で起きた鉱毒問題とその被害者たちをクローズアップした。さらに、鉱毒問題を天皇に直訴して投獄された衆議院議員の田中正造とも深くかかわり、社会正義に生きたかれを支援し生涯の知己となった。  内村が万朝報の記者だったとき、足尾銅山の鉱毒が社会問題化すると、彼はジャーナリストとしてめざましい行動力を見せた。内村は、大企業の無責任な経営を徹底的に糾弾するとともに、政治の対応にも問題があるとして大々的に報道した。彼は被災地を取材し、無教会の会員たちを現地に慰問に行かせたりしながら、鉱毒問題を国家の「大汚点」だと社会に訴えた。キリスト者として、ジャーナリストとしての良心を深くにじませた連載が万朝報紙面を飾ったのは一九〇一年(明治三十四)四月二十五日からである。  「ほとんど全くこの政治と社会とに失望せる余は幾回か沈黙の中に残余の生命を送らんと決心せり。しかれどもここに余の数十万の同胞が家を失い地を失うを見て余は黙し能はざるに至れり」(「鉱毒地巡礼記」1901・明治34年4月)  「この政治と社会とに失望せる」の言葉があぶりだしている事実は、近代国家形成のさなかで絶望的な境遇におとしめられている罪のない被災者へのかぎりない同情であり、無策な政治に対する義憤や幻滅ではないだろうか。彼は鉱毒事件を人為的災害であると規定し、近代化の名の下に公然と行われている不条理きわまりない非人道的仕業だと断罪した。  「最も耐えがたき災いは天のくだせし災いにあらずして人のなせし災いなり。天災的災害は避けることができない。人的災害は避けることができる。そして鉱毒の災害は後者に属し、しかもその最も悲惨なるものである」(同上)  「優勝劣敗は実に人道なるか。新文明とは実にかくのごときものなるか。王政維新の結果は終にここにいたりしかと、…足尾銅山鉱毒事件は大日本帝国の大汚点なり。…これ実に国家問題なり、しかり人類問題なり」(同上)  連載「鉱毒地巡礼記」のかたわら、田中正造と友誼を深めながら社会正義の履行を世に問うている。彼の言動は、正義の公平な裁断を説き、社会的正義の実現、そして、人としての道義心や倫理観にもとづく批判的発言などが中心であった。  足尾銅山事件でみせた公害問題の高い関心と認識は、人生の後半になると、人間の自然破壊や乱用の警鐘へと向けられていった。「堕落せる人類が、自然界を征服すると称して、破壊しつつ来たりしことは、あまりにも明瞭なる事である」という『ロマ書の研究』の一節で、この言葉が欧米先進諸国を指していることは、文明批判の対象から推測できよう。彼の怒りは、あたかも自己の既得権であるかのようにふるまう近代文明国家への倣岸不遜なエゴイズムに向けられた。  「人はいかに地を荒らしたことであろう。今、地を母として人類をその子とせよ。母なる地はいかに豊富なる物資を子のために備えておいたことであろう。…しかるに人類はその利欲のためにこれ(石炭や石油の地下資源)を空費すること激甚にして、…これらはみな、戦争、および平生の戦備、あるいは工業のために用いられるのであるが、善用さるる場合は少なく、多くは人間の愚かなる好戦心、利欲心、企業心のため乱費せられているのである」(『ロマ書の研究』)  この文章などは、現代社会にもそのまま当てはまる警世の言葉ではないか。人間の過度な欲望のままに、自然破壊や天然資源の乱獲がいつまでも許されることはないと、人間のエゴイズムを激しく指弾している。  人類の未来を悲観  青年時代の内村の文明観や歴史認識は時代の潮流の社会進化論に強く影響されていた。社会進化論は、最先端の真理と信じられていたダーウィンの生物学的進化論を歴史発展に応用した学説のことである。  その要点は、人類歴史は漸次進展しながら、やがて世界平和の実現に至るという楽観論に立脚していた。近代科学が急速に発達した十九世紀、人びとは科学の可能性を信頼し、躍進する科学の隆盛によって、幸福な未来社会の到来は近いという感覚が一般的であった。社会進化論が支持された背景にはこうした歴史的な趨勢があった。  青年期の内村も、同時代の人びとが受容していた時代観念を率直に受け入れていた。作品からいえば『地人論』(1896・明治29年)はその思考を土台にした著作といえる。  ところが、ある時点を境に文明観の表現に微妙な変化が現われてきた。光の作用に陰影があるように、文明・文化にも明暗の亀裂や摩擦があり、進化と退化する部分があるという二元的発想である。彼の近代化論は、この二元を拠り所とする所説の考察をとおして把握できる。  もっとも、近代文明を厳しく批判したとしても、文明化や近代化をことごとく拒絶し、時代に背を向ける反動の人でなかったことは明言しておきたい。彼の生き方を調べて感じることは、近代化の取り組みに希望がもてず、次第に危機意識をつのらせてゆく姿であった。少なくとも再臨回心まではそうである。しばらく順をおって進歩・退歩の論点をさぐってみよう。  「霊のためにするは進歩なり。肉のためにするは退歩なり。人のためにするは進歩なり。おのれのためにするは退歩なり。未来のためにするは進歩なり。現在のためにするは退歩なり。進歩は心霊的にして、精神的にして、博愛的にして、また遠望的なり」(「進歩と退歩」1899・明治32年5月)  「進歩と退歩」の一文は日清・日露戦争の間に掲載された三十八歳のときの評論である。ここでいう進歩とは、すなわち「霊のため」「人のため」「未来のため」のもので、「心霊的にして、精神的にして、博愛的にして、また遠望的」なことであった。反対に退歩とは、「肉のため」「おのれのため」「現在のため」にすることと考えた。  本論文が発表された時代は、国内はむろん世界情勢はめまぐるしく変動していた。そんな中にあっても、彼は人類の未来を希望的に眺望し、社会進化論の影響下にあることを感じさせる文章である。明治末の「文明の解」はどうであろう。  「文明は、蒸気にあらず、電気にあらず、憲法にあらず。科学にあらず、哲学にあらず、文学にあらず。演劇にあらず、美術にあらず、人の心の状態なり。人を尊むか、真理を愛するか、主義に忠なるか、正義に勇なるか、責任を重んずるか、義務に服するか。文明の程度はこれらの諸問題によって決せらる。文明は人の霊魂にあり。装飾と器具と便宜とに存せざるなり」(「文明の解」1909・明治42年2月)  「進歩と退歩」の論文と比較してこの批評は一段と具体的な表現をとっているが、その論調は依然おだやかで、近代文明には、尊敬、愛、忠、正義、責任といった精神的な要素が充足されなければならないという言及に留めているようである。翌年に出版された論文「近代に於ける科学的思想の変遷」でも、文明の性善説が支持され、近代文明の危機意識に対する具体的な一言もない。ところが、翌年の日露戦争後は明らかな変化が起きている。  「文明は汽船を供し、汽車を供し、電信を供し、電話を給す。文明は肉体に関する多くの快楽と便利とを供す。しかれども文明は平和を供せず。安心を供せず。天国を供せず。永世を供せず。文明は霊魂の安全に関し何の貢献するところなし」(「文明と福音」1911・明治44年)  「文明は平和を供せず、安心を供せず、天国を供せず、永世を供せず」と、文明観察に明らかに懐疑的な思案が込められている。この傾向は時代とともに強められていった。国家の近代化に対する杞憂が批判的志向を波打つように押し上げている。どうやら日露戦争を転換に、楽観的姿勢が、懐疑的、批判的な方向へと急傾斜していったようである。  国家の急速な近代化や、欧米文明諸国の植民地争奪などの国際情勢の動向を目の当たりにして、近代文明に対する不信の思いが噴き出したのであろう。近代国家の真のあり方とは何かという模索が始まる。それまでは文明やキリスト教への期待感があったが、これ以降、人類歴史の未来を楽観視することができなくなったのである。  文明の退行現象  日清・日露の戦争、植民地主義、帝国主義、政財界の腐敗、偏狭なナショナリズムなどは明治時代の問題意識であった。物質主義の発展が顕著となった明治の末から大正になると関心はさらに多様化した。その素材は、自我、社会倫理、教育問題、国際平和、デモクラシー、社会運動、近代人、芸術論、自由恋愛などを主調に広範囲に論議した。すなわち、国家政策から世俗の事象まで、近代社会に属する人間模様のすべてがテーマとなった。  しかも国際時事については、最新のデータを海外の雑誌や新聞をとおして収集するという力の入れようで関心度の高さがうかがえる。どの問題に焦点をあわせても彼の洞察と分析は鋭かった。  近代化の批判的論考をさらにさぐると、大正社会の外的変貌をさきどりしたような思索が、「文明と福音」と同じ年に発表した「いわゆる進歩」であった。進歩を基調に文明が進んでいるという観念に変化がみられ、国家はいまや退歩の行進をし、正常な状態とはいえないとの先見的論考である。  「世のいわゆる進歩とは富源の進歩なり。快楽の増進なり、ただむこうみずに進む事なり。何に向かって進むかを知らず。…その果たして進歩なるや退歩なるやを知らず。ただ世がこれを進歩と称するがゆえにしか称するなり。あるいは地獄の底に向っての進歩なるやも計られず。多分しからん」(「いわゆる進歩」1911・明治44年)  「静止するあたわざるがゆえに止むを得ず」進むばかりだと明言し、ブレーキが利かず疾走する物質的国家の行く末を直裁に憂えている。  彼は、進歩・退歩の相反する領域の明滅する彼方にやってくるものを黙視できなかった。それどころか不気味な地獄図の到来を直感している箇所もある。この文明の二極性をさらに追求したのが、「世ははたして進歩しつつあるか」の考察である。  「人類全体は一個人のごときものである。…彼は齢のすすむと同時にだんだんと物質的 になった。…老いてますます欲が深くなったのである。人類は今や信仰を去り、政治を濫用し、美術を単にこれを娯楽に供し、哲学をいやしみ、一意専心をもって肉欲の増進を計りつつある。しこうして今時のいわゆる進歩なるものはこの進歩である。物質の進歩である。快楽の進歩である」(「世は果たして進歩しつつあるか」1911・明治44年9月)  近代社会は科学の長足の進歩と発見によって劇的に変化した。交通機関の発達、石油、ガス、電気、食物、衣類、建築などあらゆる点で便利な生活ができるようになった。文明はそうした形での成功を人間社会にもたらしたといえる。しかしながら、「進歩はこの世の特性であって、その終わるところは完全であるという。まことにそうであるか」と、進歩とせめぎあうかのように退歩の現象が急迫していると疑問をぶつけている。  「しかしながら吾人は今の世の進歩に幻惑せられて、人類に大なる退歩のありしことを忘れてはならない。…人類の退歩もまた著しき事実である」(同上)  注視すべきは、こうした論点が再臨信仰以前であるにもかかわらず、黙示的終末を暗示する想念をのぞかせている点である。  こうした事態を深刻にうけとめた「制度と生命」も文明に対する違和感や懐疑であふれている。「二十世紀は機械の時代である」と規定したあと、この世紀に顧みられなくなったものが「活ける信仰」や「生命制度」であると唱えている。  「政治家、教育家、宗教家、みなことごとく事業家すなわち機関士である。人格の事、霊魂の事信仰の事に関しては彼らは全然没交渉である。彼らは機械として国家と教会とを扱うのである。彼らの眼中には機械制度があるのみであって生命制度は無いのである」(「制度と生命」1916・大正5年5月)  「機械制度」とは物質主義による外的体制のことで、近代化を表徴している。描写によれば、二十世紀の近代日本は、政治家という機関士が国家を統治しながら、国民を物として扱う制度なのである。さらにこの仕組みは、政治の世界ばかりか、体制下のすべてをビジネスに取り込み、生命の枯渇した制度になりさがっているという。文明と文化の退行は、人間の人格面や宗教的側面ばかりではない。政治はもちろん、学問の世界も芸術もしかりで、これらのすべてが「肉欲の増進」と「快楽の進歩」を増幅させていると分析している。  政府が力を入れた新教育についても、不良学生が続出した大正の半ばになると、国の教育政策を辛辣に論難している。  「わが国において教育制度発布以来満50年であるという。…しかしながら過去半百年の間にわが国において本当の教育が行われしや甚だ疑わしくある。文字を知り、学術を学ぶ意味の教育は行われしも、人物をつくり、真理を愛する意味の教育は行われない。日本の諸学校はよく金を稼ぐ人間をだせしも、本当に国と真理と人類を愛する人物を産まない」(「日記」1922・大正11年10月31日)  近代教育にたずさわる教育者を批評した日記でも、外的な近代化を推し進めるだけでは健全な社会がつくられないことを見透かしていた。  「近頃毎日思わせらるることは今日の日本に教育らしい教育のないことである。文部省は教育の何たるかを知らず、また国民を教育するの能力も権威もない。教育は中学校になし、高等学校になし、大学になし。…殊に大学の教育ときたらば、それは教育ではない、人格の破壊である。日本においては教育は専門家の製造である。人を作るということのごときは、日本の教育家はこれを念頭におかず、またなすことも出来ない」(「日記」1924・大正13年5月14日)  彼にあっては、一般社会でいう進歩は、実は外的な快楽や肉欲の増大、事実上の退歩でしかないという結論になる。こうした判断基準がキリスト教の倫理観を座標軸にしていることはいうまでもない。文明の健全な面を進歩・プラスとするなら、その対極が退歩・マイナスである。マイナスの最大は戦争で、物質偏重、過度な快楽の追求、さらには外的・皮相的な現象への耽溺などであろう。  8 近代化批判から再臨信仰へ  近代日本の脆弱な土台  内村は、日本の近代化がひどくアンバランスな土台の上に立っていることを実感していた。彼の心の眼に映る国家や人びとの様相は、あまりに脆弱なものであった。もちろん、近代化の恩恵がないということではない。外的繁栄はもたらされたが、物質の豊かさが人間の幸福のすべてでないことも真実で、その点を突いたのである。  内村が願望したのは、足元のしっかりした近代国家の伸張である。物と心・肉と霊のバランスのとれた国と人びとの、内外面における拡充であった。彼の人間観の核心は魂の変革にあったから、精神的充足が備わることによって、物質的価値の恩恵を正しく消化するとの確信があった。物質文明の豊穣にまさる生の高貴さである。こうした過程をへることで、真の近代化がなると信じていたから、物質中心の世界に埋没する社会と人びとに対して、批判的姿勢を貫く覚悟を固めたのである。  「自分には近代人とその思想とはいかにしてもわからない。道徳の根底が変わり、宇宙の基礎が動きだしたように感ずる。しかし古い宇宙はのこって近代人が粉砕せらるるのであると信ずる。いまや全国はむろんのこと、全世界を相手に独り闘うの覚悟あるを要する」(「日記」1923・大正12年4月22日)  彼の文明批判は、日本一国に対してだけではない。日本に近代文明と文化をもたらした欧米諸国も批判の対象とした。物質主義に染まり、肉の奴隷になり下がった近代文明への攻撃は激しかった(「ノアの大洪水を思う」1915・大正4年12月10日)。第一次世界大戦の勃発で文明への危機意識がピークに達し、彼自身も信仰の脅威にさらされた。大戦を契機に、内村は再臨信仰に開眼し、黙示的な終末観と救済観をいだくようになる。社会進化論の楽観論から出発した歴史認識が、聖書の黙示的終末に導かれたわけである。この時点から、文明の二元的思考、進歩と退歩の二極の省察はいよいよ際立っていった。二極思考の叙述は、再臨信仰以後の論考「東洋文明『新秋の期待』」にも語られている。  「西洋文明根本の精神は個人主義である。…個人中心主義は分立主義であって、これにのっとりて、競争、戦争はまぬかれない。国は国と争い、教会は教会と争う。これ西洋文明の自然の趨勢である。…西洋文明がその終極に達する時は世界が破滅する時である。そしてわれらは日に日に進歩と共に破滅を目撃しつつある」(「東洋文明『新秋の期待』」1927年・昭和2年9月)  文明の進歩と退歩の現象を、「われらは日に日に進歩と共に破滅を目撃しつつある」と同列に並べて考察している。このように、近代文明の趨勢をプラスとマイナスでみる見解は、歴史認識や聖書的終末観の両方に援用され、彼の文明思想を理解するうえで重要な点である。  宗教は文明の基盤  内村の近代文明評論でとりわけ特徴的なことは、これまでの論述で示してきたように強烈な批判精神である。その圧倒的なエネルギーを支えているのが強固な主体的自我であった。また後天的とはいえ、聖書にもとづく謹厳なピューリタン信仰をも所有していたのである。  彼は近代国家形成期の国や人びとに向けて膨大なメッセージを発信し続け、文明の本質をついた鋭利な思索は、ひときわ特色ある光芒を放った。  彼の日本近代化批判の要点を把握する早道は、宗教の文明にかかわる役割を考察した諸論文の比較検討に求められるであろう。たとえば、「文化の基礎」の一文はその最適な入り口であり、文明の根幹を切り取って論じた本質論といえる。そこには彼の護持する宗教観が簡潔・明瞭に表現されているのである。  「文化の基礎は何であるか。政治であるか。経済であるか。文学であるか。芸術であるか。そうでないと思う。これらは文化の諸方面であって、その基礎でない。文化の基礎は文化を生むものでなくてはならぬ。木があって実があるのである。文化は実であって、これを結ぶ木ではない」(「文化の基礎」1924・大正13年1月)  「文化の基礎」の一文は、文明と文化を同義語としてあつかい、ハードな部分を文明、そして文化をソフトとしてとらえた文明観である。論文の書かれた一九二四年の大正の社会では、近代思想、近代小説、近代音楽、近代絵画などさまざまな文化現象が胚胎、爛熟していた。  しかし、そうした事象はあくまでも結果であって、文化を生みだす「木」とはなりえないというのである。日ごろから物質主義的偏重と文化現象の氾濫に、困惑と抵抗感をもち、急速な近代化に疑念を抱いていた彼であった。  近代文明の内因を論考したこの文で、彼は「文化の基礎は文化を生むものでなくてはならぬ」と文明・文化論の核心に迫る発言をくりだした。さらに文脈をたどってみよう。  「文化の基礎は宗教である。宗教は、見えざる神に対する人の霊魂の態度である。そして人のなすすべての事はこの態度によって定まるのである。ギリシャ人の神の見方によってギリシャ文明が起こったのである。キリスト教の信仰があってキリスト教文明が生まれたのである。…エジプト文明、バビロン文明、ペルシャ文明、インド文明、日本文明、一としてしからざるはなし。深い強い宗教のない所に大文明の起こったためしはない。無神論と物質主義は、何を作りえても、文明だけは産じえない」(「同文」1924・大正13年1月)  宗教こそが文明・文化を生みだす根源にほかならないとの明晰な趣旨は、「深い強い宗教の無い所に大文化の起こったためしはない」と唱えてやまない。近代文明の中核には、キリスト教が必須であることを主張しているのである。  この規定は、かつて短文「西洋文明の心髄」(1896・明治29年7月25日)の中で、「西洋文明はキリスト教文明である」とし、西洋の文学や美術や哲学や科学の進歩などはキリスト教を離れて存在しえない、と説いていたのと同じである。  欧米世界に文明と文化が興隆したのは、キリスト教が木となり精神となったからである。それゆえに、日本の近代化推進の原動力に、一神教のキリスト教の導入を不可欠な条件として定め、国家の興隆に努めるべきだという論旨なのである。  ところが実際の日本人は、西洋の外皮だけを追い求め、肝心なキリスト教という果実には無関心である、という慨嘆が秘められているだろう。  「日本に凡ての文明を与えて聖書を与えざるは身体を与えて霊魂を与えざるに均しい。西洋文明は枝である、聖書は根である。…良心なき国家は動物的国家である。日本国をして良心ある国家たらしめよ。貴き聖書をして日本全国民の書たらしめよ」(「聖書研究の話」1911・明治44年8月10日)  ここでも「西洋文明は枝である、聖書は根である」と西洋世界の文明・文化の源泉と原動力としての宗教を強調し、キリスト教のかわりに聖書という言葉で表現している。  こうした持論は「日本国の大困難」でも展開した。日露戦争勃発の前年に掲載されたこの文章は、「文化の基礎」の考察と同じく、宗教と文明の関係を究明した本質的な文明論である。冒頭部分に、日本が直面している危機的状況に対して、「それは日本人がキリスト教を採用せずしてキリスト教文明を採用したことであります」と切り出している。外的な文物ばかりを求めた結果が、ついに国家的困難を招いているではないかという論評である。  明治の日本は、新しい秩序と体制に切り替えながら、欧米先進文明の知識や科学技術とともに芸術や哲学思想などを貪欲に吸収してきた。しかし、残念ながらそれらはキリスト教そのものではなかった。宗教に啓発された副次的な産物ばかりであった。内村は、文明の外層・外皮ばかりを摂取する風潮と、空洞化の拡大する国家への危惧を訴えた。  「今より直ちに進んで西洋文明の真髄なるキリスト教その物を採用するのみであります。これ日本国の取る最も明白なる方針であります。この事は実に難事であります。…純正のキリスト教をわが国に伝うるに至りますれば日本国の将来は少しも心配するに足りません。日本国の愛国者よ、今はキリストのため、日本国のため全身をキリスト教の伝播に注ぐべき時であります」(「同文」1903・明治36年)  この論文と「聖書の研究の話」は、キリスト教という近代文明と文化の源泉を受容すべしとの直言である。近代化の進捗は、日本人から神を崇敬する精神を日々奪い、民族の精神的劣化が着実に進んでいるとしている。教育や政治においてキリスト教を柱にしない国家は危うい。学術や産業も例外ではない。キリスト教を植えこまない国家はやがて自壊するかもしれない、と深い杞憂に包まれた考察である。    国家・国民への警鐘  内村の焦燥感をよそに、日露戦争の勝利は近代日本の外的構築をさらに強化する方向へと向かわせた。韓半島を手中にした日本は、アジア大陸へ乗り出す絶好の名目を得た。明治国家の政治的野心は大いに刺激され、民族精神は最高潮に押し上げられていった。  こうした風潮の中でも、日本福音化の願望をあきらめるような内村ではなかった。「精神的大革命」がもたらされなければならないと力説している。  「今は実に経済発展の時代である。わが国においてのみならず、世界各国においてそうである。人類は今はその肉体の快楽を増すために全力を注ぎつつある。…しかしこの状況は永く続くべきではない。神もし神であり、人もし人であるならば、この経済的大発展に精神的大革命が伴うべきである。余は過去の歴史に省みて、また神の特性に考えあわせてこの事のあるべきを信じて疑わない。そうしてこの精神的大革命は聖書の新研究をもって世に臨むべきものである」(「教会に対する余輩の態度」1906・明治39年)  明治末は近代化への驀進が不文律とされていた時代である。人びとが歓迎するのは外的な「経済発展」や、「肉体の快楽を増すため」の数々であった。欧米の新しい文物を移入することは善だという時代的空気、それが近代化に他ならないといわれるさ中で、こうした発言がされていることに留意してほしい。  日本の近代化は特殊な形態で進捗したと言えばそれまでだが、「精神的大革命が伴うべきである」という一節などは、欧米文明の移植と模倣が近代化の早道と信じられていた時代に特別に異彩を放っている。  人間の精神性や霊性を説く彼の社会論評は、物質主義に支配されて肥大化していく国家や国民への警鐘であった。しかし、彼の喚起の声がどれほど人びとに伝わったであろうか。    キリスト教の土着化  内村はキリスト教の理想の成就が「難中の難」であるという現実的な問題を、よくわきまえていたと思う。そのことを簡明に評した文を、日露戦争が勃発し愛国精神が日本中を沸き立たせていた高揚期に発表している。  「日本国は文明国ではありまするが、しかしその社会組織は全く東洋的であります。そうして東洋の精神はその多くの点においてはキリスト教をもって築き上げられたる西洋の精神とは反対でありますから、したがって西洋の精神なるキリスト教の理想をこの日本において行なわんとするのは実に難中の難であります」(「信仰維持の困難」1904・明治37年)  キリスト教の土着化を妨げているのが、東洋的な民族の精神性にあると解釈している。キリスト教伝道と民族性に関するテーマは、これ以降も彼の関心を集め、伝道を語るときにしばしば触れている。大正中期の短文は、それが情的で詩的な日本人の精神にあると素描している。  「日本人は特に情の民である。日本語は情を表わすに最も適している。日本人は義理と人情とを区別することが出来ない。日本人の間にありては不人情は不義である。忠孝道徳は情的道徳である。日本人は情に勝つことの偉大なるを知らない。多くの日本人は毎年情のために命を棄てる。しかれども学理のために、または信仰のために、死する者はめったにいない」(「義理と人情」1922・大正11年)  キリスト教信仰を国内に推し進めることが、どれほど多難なことであるかを彼は冷静に見ていたのである。独立伝道者として、その点は嫌というほど知り抜いていた。  そうした難点を前提にしながらも、日本の近代化に要請されるものはあくまでもキリスト教であると説いてやまない。それゆえに、そのキリスト教は、既存の教会や伝統的教義に依存するものではない。聖書に基礎をすえた「深い強い」キリスト教でなければならない。すなわち、内村鑑三が唱道する無教会主義的キリスト教ということになるのである。  再臨信仰への道  彼の近代文明批判は、初期には文明のあり方に向けられていた。それが時代の潮流の変化とともに文明・文化の全領域へと拡大していった。さらに再臨回心直前になると、それまでの所見を一気に粉砕してしまうほどの厳しい言葉を突きつけていったのである。  「キリスト教は文明ではない。文明は人が自分のために作り上げしものであって、その大部分は明白にキリスト教の敵である。見よ、キリスト教なくして日本国において過去50年間に文明の著しく進みしことを。英国において、ドイツにおいて、米国において、最近50年間において文明は確かにキリスト教に逆行して進んだ」(「時のしるし」1916・大正5年11月)  近代文明とキリスト教とを分断し、二つは異なるものとして、近代国家や近代文明への根本的疑義を打ち出した究極的な表現といえる。文明は「明白にキリスト教の敵である」とする、激越で挑発的な語調は、近代文明をキリスト教から完全に突き放した感がする。  しかしこうした形容のし方で、新生日本の歩みそのものを否定しさったのではない。明治国家がたどった選択肢、近代化の行程はもちろんのこと是認している。思えば、内村の学んだ学問や知識ばかりでなく、プロテスタント信仰や強靭な自我意識などのことごとくがキリスト教や近代文明・文化からの産物であった。つきつめれば、彼の全人格は幼少のときから近代化の渦中ではぐくまれたものなのである。  そのきわめつきは内村が創始した無教会の顕現だといえる。個の尊厳性と救いを単位とした無教会は、近代精神を強固に取り込んだ個人的集合体なのである。それゆえに、彼の糾弾がどれほど戦闘的、尖鋭的なものとなったとしても、その思想は近代化の恩恵の側面をはっきりと容認した地平からなされていると断定できる。その一点から、彼の問題提起の真意を推し量れるのである。  彼が攻撃したのは、近代諸工業の勃興による大量生産や機械化、社会の世俗化など物質的に偏重した国家形成であった。さらには、人びとの倫理観など、人間の精神面での脆弱さや劣化に対してであり、批判の根底にはキリスト教の精神が激しく脈打っていた。この論考から数カ月後、内村は、神だけが人類にとって唯一の希望であるという再臨信仰のピークに立つのである。  9 外圧と戦争で歪んだ近代化  外圧と三度の戦争  近代日本の形成は、欧米列強の外圧という切迫した状況で着手された。日本をとりまく国際情勢が近代化への道を急がせたのである。当時日本が直面した時代は、世界中が力ですべてを決定するような弱肉強食のさ中にあった。まかり間違えば、日本は植民地争奪戦の餌食とされて、民族・国家の存立さえも危うくなるという危機感があった。  アジア諸国が連鎖的に植民地化されていった時代に、日本は欧米列強をモデルとして国家の未来像を探っていた。日本の開国も、民族の自発的な意志で行ったという以上に、強大な先進諸国の厳しい圧迫を受けてなされたというのが実情に近い。  当時の新政府のリーダーや有識者の間には、欧米国家の外圧が共通の危機意識となって、一種の民族的連帯感が造成されていた。明治国家が打ち出したスローガン「富国強兵」は、外圧に対する危機意識の裏返しにほかならない。日本の近代は、最初のステップから必死の覚悟で近代諸国に対処し、追従し、追い着くしかないという運命にあった。  近代日本の形成過程で遭遇した国民の最大の体験は対外戦争であった。明治の日本は戦争によって始まり、戦争のたびごとに変貌した。最初は日清戦争、それから日露戦争へと続いた。近代化を始めたばかりの、弱小で非力な新興国が、二度の対外戦争に勝ったことは、ほぼ奇跡であった。  対中国、対ロシアとの戦に勝利した日本は、それを踏み台として、アジア大陸に植民地を拡大する帝国主義の道をたどり始めた。武力を進捗させる国家政策は、戦争を罪悪とし、平和を志向する彼にとって懸念の種となっていく。(「平和なる」1905・明治38年10月10日)  さらに第一次世界大戦が勃発すると、国家の様相と国民生活に一段と変化が生じた。日本の近代化はこうして、明治から大正時代のおよそ半世紀の間の戦争を経ての大変貌であった。  内村はこれらの戦争すべてに直面し、欧米の文明移入の草創期から大正の完成段階までを実体験した。この間、彼が見聞したことはあまりにも劇的で、そのことが彼を、日本近代化の生き証人としたのである。文筆活動により、文明思想家としての役割がクローズアップされたが、戦争がおきるたびに彼の期待感はみごとに裏切られ、人生の非情をいやというほど味わった。  彼の文明論や近代化への批判は、こうした災禍を目撃した人間でなければ語りえない実相が投影されている。時としてその言葉が炸裂して人々を驚かせたのも、近代化の激動の渦中に常に身を置き、鮮烈な自意識を奮い立たせていたからである。  夏目漱石の近代化批判  時代の変転や国家の急速な変貌を冷静に注視していた人物はほかにもいた。作家の夏目漱石がその一人である。内村は一八六一年、夏目は一八六八年の生まれであるから同世代で、漱石の冷厳な眼は、日本の特殊な近代化を、国際社会の圧力による「外発的開化」だととらえていた。「現代日本の開化」(1911明治44年8月)と題する有名な講演は、欧米諸国のように民族自体の自発性・自主性による近代化ではないという論旨である。  欧米の勢力に押されながら、やむをえずなされているのが日本の近代化であると、漱石は宿命的な日本近代化の様相を見抜いていた。偶然だが、漱石の講演と同じ年に、内村の近代化批判の文章「いわゆる進歩」も公表されていた。  内村の文明論が「前にひかれ後より押されてやむをえず」進む近代化と形容したことに対して、夏目漱石は、「外発的」で「上滑りの開化」だとした。それぞれアメリカとイギリス生活し、近代化の実際を見聞した陰影がここに表出されている。ともに英米の近代化との相似的な局面から日本の近代化をとらえ、国家や国民が欧米の新しい文明に興奮し、無批判的であることに抵抗を感じていた。  もっとも、キリスト教の導入をはかり、近代化を積極的に評価しようとした内村に対して、漱石は多難な近代化を甘んじて受けねばならないとする、姿勢の違いはあった。漱石の『三四郎』は、明治四十年頃の東京を舞台にした小説で、急速に文明化されていく都会生活で戸惑う人間の心理を描いている。  主人公・三四郎は、九州の片田舎から勉学のために上京してきて、日露戦争後の活況を呈している東京で数々の驚きに直面する。行き交う電車や人びと、建築ラッシュはすさまじく流動する都会生活の実相であった。人間関係も同様で、あまりにも様変わりの激しい都会に圧倒される自己が、また不快でたまらないのである。  三四郎が抱いた感情は、恐ろしいスピードで突き進む近代社会から取り残されてしまうかもしれない不安や孤独であり、その勢いに追いたてられる焦燥感であった。そこには漱石の感情が投影されていた。イギリスに留学し、大都会のロンドンに住んだ漱石は、三四郎のような憂鬱で不愉快な感情を味わったのである。一方、内村の近代化論は、文明の源流を溯上しながらの奥の深い思索であった。  試練のキリスト教  内村はキリスト教との関連で日本の近代化を検討していた。日本の近代キリスト教には、かつて徳川政権による過酷な弾圧にあっても不屈の信仰を貫いたキリシタンの勢いは見られなかった。キリスト教が民族の精神に浸透できなかった理由をどこに求めることができるであろうか。  日本が受けた近代化の洗礼は、悠久の歴史を通じて蓄積された膨大な西洋の文明と文化の、まさに激流であった。その総体は、ギリシャ・ローマの古典から始まり、キリスト教、啓蒙思想、近代科学や技術、進化論、共産主義思想、文化・芸術などをふくむ多様にしてかつ多彩なものである。  本家のヨーロッパでは、近世になって啓蒙思想が出現した。それは合理精神をモットーとし、宗教の価値を軽視する無宗教的な思想である。この趨勢はやがてニーチェのような過激な反キリスト教思想家を生み、他方、マルクスの共産主義思想やダーウィンの進化論により、キリスト教は科学的・合理的な思考の脅威にさらされるようになる。  キリスト教も科学的検証や方法論の対象とされることによって、宗教と科学の衝突が生じ、そうしたキリスト教の危機は、人びとの宗教意識にも大きな衝撃を与えた。このような変動に際し、欧米には耐えられるだけの時間的余裕があったが、日本にはそれがなかった。  アジア諸国のうち最初に近代化に着手した日本は、この激流を乗り切るため、官と民が一丸となって突き進んだ。国をあげて西洋の新文物と制度を求め、移入と摂取と順応にやっきになったのである。その結果、明治の日本は強烈なナショナリズム一色に染まり、富国強兵を合言葉に必死に進むようになる。  その典型が鹿鳴館の時代で、内村の人生では二十三歳、農務省水産科の専門家として魚類調査に従事した頃である。その後、不敬事件に巻き込まれ、貧苦の中で『キリスト信徒の慰め』『求安録』などの名作を次々と世に出した時期へと続く。  日本プロテスタントの最盛期は、鹿鳴館の落成から明治憲法の発布までの十年間であったとされるが、同時にキリスト教の命運を左右する火種がくすぶり始めていた。鹿鳴館に象徴される、欧米諸国と対等の関係をつくろうとする政府の姿勢は、欧米の外面をコピーすることに終始していた。いわゆる西洋かぶれの一時期で、人生を創造的に歩んだ内村の最も嫌うところであったろう。  彼が近代の日本や日本人に批判的だったのは、本質をみないで外的模倣に熱中する風潮に対してであった。外面的・皮相的模倣に堕したのでは、キリスト教の振興もおぼつかなかった。  低調なキリスト教の背景には、旧体制の反キリシタン的風土のあったことも否定できない。慶応四年(一八六八)の浦上キリシタン流罪事件のように、すでに新政府の下にあるにもかかわらず、政権はキリシタン弾圧の過酷な方針を打ち出した。信者に対する無慈悲な宗教迫害に対して、諸外国から激しい抗議の声が相次いだことで、明治政府はその宗教政策を変更せざるを得なくなる。  憲法と教育勅語の影響  明治二十二年(一八八九)は、明治憲法の発布によって信仰と宗教の自由が明文化された年である。外来のキリスト教にも信仰と伝道の法的根拠が与えられた。岩倉使節団が明治四年(一八七一)末から欧米諸国を歴訪した折、悪名高いキリシタン弾圧が批判されたことが内因となって条文化されたのである。キリスト教にとっては歓迎すべきことであった、と表層的にはいえる。  その翌年には教育勅語が発表された。民族をリードする道徳的指針で、天皇を支え国家へ忠誠を尽くす儒教的な忠君愛国の教育を目ざし、太平洋戦争終結まで、国民の愛国精神を高揚する規範となった。しかし教育勅語は、日本のキリスト教徒にとって踏み絵にも等しい危険な素地となったのである。憲法で承認された宗教の自由は、キリスト教に対しては名目的にしか機能しないことが、時代の推移とともに明らかになっていく。  開国以来、明治政府は近代文明や科学技術を積極的に吸収しながらも、キリスト教には冷遇的処置をとっていた。国家のこうした差別的政策が、欧米のキリスト教を禁忌する民族の心理を払拭できなかったともいえよう。キリスト教に向けられた不利益な環境が改善されないまま、日本の近代化が進められたのである。  キリスト教伝道が振るわなくなったことを、憲法と教育勅語の出現に重ねてみると、その時代と一致している。憲法と勅語の発布をピリオドに、欧化主義に代わる国粋主義や民族主義が急速に高まり、キリスト教への圧迫が開始されたのである。  クリスチャンで初代文部大臣森有礼(ありのり)が暗殺されたのが憲法発布の当日であった。さらに、内村の天皇不敬事件が引き起こされたのは、勅語の方針に従わなかったからで、その後、内村は反キリスト教的国家のあり方を批判するようになる。  内村の評論「日本人とキリスト教」は現代の預言者を思わせるような痛烈さである。  「それは西洋の宗教である。ヤソは要らない、キリスト教は要らない。道徳は日本道徳で充分である。邪蘇は国を売り、忠孝にさからう宗教である。ゆえにこれを全然排斥すべきものであ。…官吏、鉱山師、政法学者、農学者ことごとく可なり。されども汝ら日本国の有望の青年よ、汝らはヤソに成るべからず、いな、断じて成るべからずと。日本人は今日までかくいい来ったのである。しこうして彼らの政治家はこの方針によりて国を治め、彼らの教育はこの主義に則って施されたのである」(「日本人とキリスト」1914・大正3)  西洋の文物を貪欲に摂取した近代日本にあって、唯一の例外がキリスト教という外来の宗教である。日本社会をおおう数々の問題の出現は、キリスト教を軽んじてきた当然の帰結だとした。  「日本人は西洋文明の外殻を採用するに汲々としてその核実は全然これをしりぞけたのである。まかぬ種は生えぬ。日本人は国家としてまた国民として生命の主なるイエスキリストを嫌悪排斥してみずからに大なる損害を招いたのである」(同上文)  国家が直面している窮状を憂えながら、評論の最後は、「今や大なる試練はこの国に臨みつつある。生命の主をぬきさりし西洋文明は果たしてこの国を救うに足るか」と結んでいる。日本は一体どこまでキリスト教をさげすみ、回避しようとするのか、と無念な思いがこめられているだろう。  日本の行く末を危ぶむ文章からわずか四カ月後には、キリスト教文明の本拠地ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した。彼は西洋キリスト教社会からも大きな痛撃を被る羽目になった。  10 近代日本人とキリスト教信仰  利己主義が蔓延  近代国家は近代的個人によって支えられる。一部の先駆者によって近代化を始めた明治の日本においても、教育や実務によって多くの近代人を育成することが重要な課題であった。自身、近代的個人であった内村は、日本の近代人をどう見ていたのであろうか。  内村の近代人観は、近代国家への批判から必然的に批判的論調になった。社会に世俗的な人生観があふれだすと、自由や自我を主な論点に精力的な近代人批判を展開した。彼の近代人批判は、物質主義からもたらされる弊害を取り上げたことはもちろんだが、それ以上に、日本人の精神性の崩壊を危惧していたように思える。  自由の概念や自我の自覚は、歴史的にはキリスト教の宗教的伝統からの離脱によってもたらされたものである。神と教会の束縛から解き放たれ、合理精神と現実主義に立ったのが近代人ということになる。  内村の近代人論、人間の自我が途方もなく氾濫することへの警鐘となって現れた。神を絶対視する彼の人格の主柱には個の観念が屹立し、主体としての神がその精神と思想を揺るぎなく支えていた。  「信者と不信者の異なるの点は、その隷属する主人にあるのである。不信者は罪の奴隷であるのに、信者は神の奴隷である。人は何びとも全然自由たるあたわず、何ものにか仕えざるを得ないのである。神に仕えざれば悪魔に仕え、神に仕えて初めて悪魔に仕えざるに至る」(『ロマ書の研究』)  「不信者」とは近代合理精神に啓蒙され、神に依存しない近代人のことである。 彼のメッセージは、人間中心のヒューマニズムや合理主義の人生観を糾弾する。人間中心主義の人生観は、内村の信ずる生き方とは正反対だったからである。自己の利益を真っ先に考えるのが利己的生き方で、近代社会の人間中心の人生観はあまりにも自己中心的で、欲望を押し通す無責任な姿として映ったのである。  そうした世俗的個人主義に対抗して、内村は神の下における真の個人主義を提示した。大正デモクラシーが最高潮に達したときの批評、『ロマ書の研究』の近代人観を引用してみよう。  「しかるに今の日本人の考うるところは何か。その望むところは何か。その最大の問題は、物質問題、経済問題である。その最も望むところは自己の収入の些少の増加である。また自己中心の小さき恋愛問題である。その最も好んで読むものは、遊戯的の愛欲を題材とした片々たる駄小説の類である。自己の小利害―これが現代の日本人を支配しているすべてである」  彼にいわせれば近代人の多くは、ちっぽけな慰安を求め、小さな安息に安住する俗物的小市民であった。人一倍公的意識の強かった彼にとって、社会の一員としての責務が希薄で、身勝手なふるまいは容認できなかった。自己主義は利己的でしかないと断じている一文をみてみよう。  「自己主義は自己本位である。すべてを他人より要求して他人の要求にはなるべく応ぜざらんとする。自分に絶対的自由を要求しながら、他人の自由はこれを顧みない。自分、自分、…自分が全宇宙の内で最も大切な者である。…自己主義は悪魔の精神である。神ならざるに神として自分を万物の中心におき、これを統御せんとする心の状態である」(「個人主義と自己主義」1924・大正13年)  自分を押し出さなければ気の収まらない近代人、自己を優先させ、あらゆる伝統や社会的束縛からの解放を叫ぶ近代人の性根は「悪魔の精神である」といってはばからなかった。 昭和初頭の日記文では、近代人を激烈に「文化されたる野蛮人」であると痛罵した。目を引くのは「米国化されたる日本人」という一文である。  「時に米国化されたる日本人をみて身震いするほどいやになる。傲慢で、ずうずうしくて、浅薄で、何事でも自身のおもうところを押し通すのが成功であると思うところは、彼らが『文化されたる野蛮人』たるを証しえてあまりがある」(「日記」1928・昭和3年4月25日)  彼はこのように、罪からの救済には無関心をきめこむ近代人にいぶかしい思いを抱かざるをえなかったのである(「開放」1920・大正9年)。      神不在の自由  自由の観念から近代人批判を試みた論文も数多い。  「自由は、気まま勝手をおこなうの意にあらず。自由は自ら、おのれを治むる意なり。自由は、おのれを神にゆだぬ。されども強いられてゆだぬるにあらず。自ら求めてゆだぬるなり。自由は、自ら選んで人のしもべたるも、しかも終わりまで自主たるを失わず」(「自由の尊厳」1910・明治43年1月)  キリスト者の自由と対極にあるものが近代人の自由である。利己的に生きることが本当の自由ではない、真の自由は放縦や自己固執からは絶対に生まれないと説く。なぜならば、近代人の生は、ままならない「罪の奴隷」の状態に放置されているからだという。 キリスト教の人間観は神の前における善悪の基準にそって定められるが、近代人にはそうした基軸はない。近代人は信仰に引かれるわけでも、その反対でもない。未分離の「原始の自我」がむきだしのまま、ただ場当たり的に浮遊している。自分本位の生では自由の真の価値はつかめず、信仰の中でこそ重さが分かるという。  しかも自己を神にゆだねる姿勢が伴うときに、本当の自由が生みだされる。キリスト者の自由は、それでいて「自主たるを」失わない自律的な性質があるというのが彼の説く自由なのである。  内村は神不在の自由を批判する。  「自由は自由のために貴からず。神のために尊し。自由は勝手に我意をおこなうために貴からず。神をして、人の何らの干渉なくして、われにありて働かしめたもうがために尊し。自由の観念より神を分離して、自由は卑しむべくして、かつ危険なるものと化するなり。神を目的とせずして、自由はこれを求むべからざるなり」(「自由の貴尊」1911・明治44年3月)  神不在の近代人の自由の生き方は、頼りなく危険なものというのである。近代人が賛美する自由は危機や不安をはらんでおり、旧時代のよき伝統や精神が時代遅れな代物として忘れさられた大正は、この懸念が的中していた。  大正の時代的雰囲気は自由への欲望の奔流であった。「勝手に我意をおこなう」無放縦な生を押し進め、欲望が無制限に発散されると、破滅へと突き進む誘惑が推測される。 彼の述べる「自由の観念より神を分離して、自由は卑しむべくして、かつ危険なるものと化する」とは、そうした危険を警告している。  「近代人とはいかに? 自己を信ずるの強きがその特徴ではないか。教えられんと欲して師を求めず、自己の思想の実現を期してかにいたる。…彼らは自分の理想の実現を他において見んと欲して、失望悲憤の中にその一生を終わる。彼らは自分を信ずる事あまりに強くして、他人の思想の自由を重んずるの余裕さえない。万事を自分の思想によって行なわんとする、故に事にあたって砕けるのである」(『十字架の道』)  彼の主張する自我と世俗社会の自我は正反対であった。  大正三年に書いた「近代人」は、欲望丸出しの近代人をストレートに糾弾していた。  「彼(注・近代人)に多少の知識はある。多少の理想はある。彼は芸術を愛し、現世を尊ぶ。彼はいはゆる『尊むべき紳士』である。しかし彼の中心は自己である。近代人は自己中心の人である。自己の発達、自己の修養、自己の実現と、自己、自己、自己、何事も自己である。ゆえに近代人は実は初代人である。原始の人である。猿が初めて人と成りし者である。自我を発達して今日に至った者である。…近代人とは、シルクハットをいただき、フロックコートを着け、哲学と芸術と社会進歩とを説く原始的野蛮人と見て多くまちがいはないのである」(「近代人」1914・大正3年1月)  彼の問題意識は大正時代における自我の拡散にあった。世界大戦の勃発は大正三年六月。それまで国内経済は長く沈滞していたが、大戦がきっかけで好景気になると、自己中心の生き方が一気に爆発した。  「『自己に覚めよ』と近代人は言う。しこうして彼らは自己に覚めて何を発見せしやと問うに、自己の価値ある事、自己に権利ある事、自己の自由なる事、無限に発展して宇宙をわがものとするの資格ある事を発見したりと答う」(「近代人とキリスト信者」1925・大正14年)  この批判文は、自我に目覚めた人間中心の価値観に向けられたものである。「近代人は自己主張者であるのに対してキリスト信者は自己放棄者で、「自己に生きんとする者と自己に死せんとする者とである」と対照的に記している。 自己覚醒は彼の容認するところだが、問題は自我の拡張が成り行き次第で破壊的、破滅的になることである。利己的観念が自我に凝固すると、功利的な人生観の蔓延となる。さらにエゴイズムの浸潤は、人間のモラルを破壊し、不健康な人間関係や歪んだ社会を現出させるのである。  彼の憂慮は個人的な思い込みではなかった。大正時代を通じて自我拡張の波紋はさまざまに広がり、時代は末期的症状を呈してきたのである。  彼の願いは、神を信仰する普通の人間としての生活であった。興味を引かれるのは、小市民的な人生に否定的な彼の目標が、普通の人生を理想としていたことである。といっても、それはいわゆる俗物的生き方ではない。外的な装いよりも精神や内面性を重視する、「人たるの価値を有する」「人らしき人」の生き方である。史上最大の平民がイエスであったとし、イエスのような人物こそ人類の規範とすべき本物の人間、「大平民」であると断言する。  「名誉に憧れ利欲にひかるる者は名は平民たるも実は貴族である。…人たるの名誉以外になんらの名誉をも求めざる者、霊魂の深き所に神に接するの特権以外になんら特権にもあずからんと欲せざる者、その者が真個の平民である」(「真個の平民」1921・大正10年)  「平凡の道」では、上質な平凡が凡俗と異なるとしている。  「天然自然の道をとることである。この意味において神のなし給うことはすべて平凡である。神は容易に奇蹟をおこない給わない。四季の循環、草木の生長などすべてが平凡である。われらもまた神にならいておこなうべきである。人はキリスト者となりたればとて異様の人となったのではない。あたりまえの人となったのである」(「平凡の道」1923・大正12年)    低い市民モラル  次のエピソードから、大正の人々を見る内村の心象を探ってみよう。大正八年の春たけなわの季節、内村ファミリーはそろって桜見物に繰り出した。彼は季節ごとに咲く草花をこよなく愛し、桜も好きであった。ところが花見ではなく人間を観察するはめになったようである。  「月の十五日のことなりければ、東京市民が総出となって、花見に出掛けたようである。その陋態を見ては、人種差別の撤廃もはなはだおぼつかないように見えた。歓楽はなはだ可なりといえども、ことさらに狂するには及ばない。明治政府五十年の教育事業の、わが国民を文明化するあたわざりしを見て悲しんだ」(「日記」1919・大正8年4月15日、注・「人種問題の撤廃」は一月に始まったパリ講和会議のことで、日本全権団は人種差別撤廃の案件を提出していた)  「ことさらに狂するに及ばない」とあるのは、花見の人たちが泥酔し騒いでいたのであろうか。そこに、市民モラルの低さを見ていた。 政府への期待外れは、近代社会に対する失望につながり、近代化途上の人々の生き方にも幻滅するところが多かった。 大正時代は明治にまさって欧米世界に憧れ、外遊が盛んであった。  「今や猫も杓子も欧米視察にでかける。そして欧米を視察して故国にかえるも少しもかしこくなってかえらない。彼らの視察は読んで字のとおり視察である。すなわち表皮の視察である。彼らは欧米をして今日にいたらしめしその深き原因を見透かす眼をもたない。いずれも浅薄きわまる欧米視察である」(「日記」1923・大正12年2月21日)  外遊とは名ばかりの、「浅薄きわまる」旅行だというのである。 彼は民主主義や近代国家のあり方に懐疑的、批判的であったが、民主主義の理想までも否定しているわけではない。その根拠は、自己を神の名の下に近代日本社会に確立しようとする試みに求められる。  無教会主義の照準の一つとして、一人一人が神のもとへ立ち戻り、真の近代人として民主主義の理想を社会に実現することがあったと考えられる。五十九歳の日記には、古代ギリシャ思想史を研究し、真正の民主主義が古代ギリシャにあったとの感銘を書きこんでいる。    自由主義神学の潮流  世俗的な人生観が近代社会から生みだされたように、神学界においては自由主義神学の新しい潮流が盛んであった。福音派保守主義を護持する彼は、これとは反対の自由主義神学の動きから目を離すことはなかった。  それは、再臨運動に立ち上がった彼に、最大の攻撃の矢を射たのが、自由主義の神学者や牧師たちであることを予感したからかもしれない。近代の合理精神を支柱とする自由主義神学は、再臨や復活などの教えを非科学的あるいは迷信として排斥していた。こうした自由主義神学に対して、内村は再臨信仰の正当性を正面に立てて対抗した。「近代人は再臨を信ずることはできない」で始まる一文は、合理的視点から再臨思想を否定する自由主義者の矛盾性を痛烈に批評している。  「近代人に関し最もふしぎなる事は、彼らがかくも公然と明白に、すでに信ずるの価値なき思想を伝うると称するその聖書を、世界第一の書、または人類最上の経典として仰ぎ戴くことである。これ信ずるに最も難いことであって、これを明白なる偽善と称して何ゆえに悪いか。余輩ははなはだその解明に苦しむのである」(「近代人の聖書観」1920・大正9年11月)  聖書の無謬性を打ち出す彼らが、聖書に記されている再臨を誹謗すること自体が「偽善」ではないかと批判している。  彼の近代観や人間認識は、明治の末頃からより具体的で明確な批判的スタンスになったといえる。それまでも近代人批判はあったが、それはキリスト教の精髄を教えることに主眼をおいたものが主で、教義の解釈や論考であった。それにはそれだけの理由があったのである。  古い徳川時代から革新の社会に飛び込んでいった明治の人々は、旧社会の精神と苦楽を共存した変革の世代であった。ところが時代の移行により、世代が交代すると、その変化は日本人の精神的面までも変えていった。愛国精神で包まれていた民族的意識が後退し、自己を中心とする個の時代に移行していった。個の時代に生きる新世代の人々は、近代化を進む社会に自動的に乗った温室育ちの二世たちなのである。  さらに内村の個人的事情も影響していた。キリスト教個人雑誌「聖書之研究」の創刊は明治三十三年(一九〇〇)であった。雑誌の発行のかたわら、彼は聖書の定例講義によって青年たちの教育に集中する。今井館とよばれた聖書講義所の整備されたのが明治四十一年(一九〇八)のことで、このとき以来、彼の聖書講義には日曜ごとに青年・学生たちが集い盛況をきわめた。時代の変遷の中で多くの青年が無教会の門を叩いたが、また同じように多くが去っていった。  初期の門下生であった有島武郎や志賀直哉、小山内薫のように、手塩にかけた有能な青年たちが離教したのもこうした時期である。内村は近代教育を受けた青年たちから大いに裏切られたともいえる。  大正時代には、しばしば青年たちへの失望を書きとめている。大正十二年(一九二三)、門下生の面接日の日記がある。  「今日もまたある青年の訪問を受けた。用事の趣きは?と聞けば例によりて例のとおり結婚の問題である。実にいやになってしまう。今や日本青年の最大問題といえばこの問題である。国家、人類、神、霊魂、救、真理というような大問題をもって訪問する者はほとんどいない。…日本においては、今や青年の問題といえば恋愛問題、大人の問題といえば事業問題、実は金もうけの問題である」(「日記」1923・大正12年1月19日)  この年には、有島武郎の情死事件があり、関東大震災が発生していた。近代国家の第二世代は、近代の合理精神や無神的啓蒙思想に啓発された自我をもった近代的人間であった。覚醒された自己といえば聞こえはいいが、自己ばかりを主張する人が世の中に増えたのである。  キリスト教への興味も、近代合理主義の影響を受けた彼らは、知識優先で聖書に接する傾向が強かった。彼らに向け、知識以上に大切なのが信ずることにあると語っている。  「近代人は信仰を知識の上に築かんと欲す。その事それ自身が背理的である。ゆえに失敗に終わるは当然である。知識をもって解し得ないから信ずるのである。…人は神にあらず。ゆえに彼が解し得ないことがたくさんある。ゆえに彼は信ずるのである。…近代人が信仰を拒んで知識に走りて、何の得るところなくして迷うは怪しむに足りない」(「知識と信仰」1926・昭和元年4月)  この論文は、精神世界を知識だけで知ろうとすることへの批判である。知識の力で信仰や神までも獲得しようとする不遜な近代人の思い上がりを戒めた言葉といえる。知識による真理の探究は彼の否定するところではないが、合理的精神と知性によって信仰に決着をつけようとする姿勢に疑問符を突き付けているのである。  若い二世たちとの日常的なやりとりから、近代人一般の精神構造を見ていた内村の観察眼は、より研ぎ澄まされていく。  11 正義の戦争から非戦論へ  日清戦争は正義の戦争  日本的風土にキリスト教を適合させるにはどうすればいいか―無教会主義を主唱した内村は、この課題の実現のために生涯歩んだ。欧米型キリスト教とは一線を画し、その模倣ではないキリスト教の構築、聖書の精髄を民族の固有性に接合する試みが無教会の立場であった。日本的キリスト教や武士道的キリスト教という表現を彼がしたのは、思想の根底が民族精神と結ばれていたからだろう。  民族精神が旺盛な内村は、西洋諸国だけでなくアジアへの興味も非常に強いものがあった。ただ、その傾向は、欧米社会に対しては一種の警戒心となり、中国や韓国などには友好的・好意的という温度差があった。結果的に、無教会が海を越えてアジアに上陸し、特に韓国で開始された事実は注目すべきことである。  世界市民の意識をもっていた内村の人的交流は、無教会の同志や雑誌の誌友たちをはじめ、キリスト教牧師、外国宣教師、仏教僧、教育関係者、政府役人、事業家、主婦、学生らとあらゆる層に及んだ。アメリカ、ドイツ、スイス、スウェーデンなどの宣教師、神学者、教育者らと頻繁に接触した。  アジアの人々との関係では、韓国の興亡を見ながらの歩みが大きい。彼がアジアへの思いを高めたきっかけは、日清戦争と日露戦争であった。朝鮮半島と中国東北部を舞台とした二度の戦争体験が、彼の信仰と思想活動に大きな刺激と変化を与えたのである。  今日では内村は反戦思想家・平和主義者としても認知されているが、初期の立場は戦争肯定論者であった。武士の家庭で育ち、戦うことを魂に刻印されていたから、戦争に疑念をはさまなかったのである(「余が非戦論者となりし由来」1904・明治37年9月22日)。ところが、突然戦争否定を説き始めた。彼はなぜ非戦論者になったのか。  その複雑な事情を解明するには、日本の天職という彼独自の召命観に触れなければならない。日清戦争の時の彼の戦争観は、正義の戦争もありうるという信条であった。旧約聖書に学んだ戦争観で、神が異民族と対峙するイスラエル民族を守りながら、勝利へと導く歴史的事跡の検証による。それをより所に日清戦争では開戦を積極的に支持する主戦論の論陣を張った。  英文時評「Justification of the Korean war」(日清戦争の義)は、欧米世界に向けて戦争の正当性を訴えたものである。  「吾人は信ず、日清戦争は吾人にとりては実に義戦なりと。その義たるの、法律的にのみ義なるにあらずして、倫理的にまたしかり。…吾人は朝鮮戦争をもって義戦なりと論定せり。その、しかるは、戦争局を結びて後に最も明白なるべし。吾人は貧困に迫りし吾人の隣邦の味方となりたり。その物質的に吾人を利するところなきはもちろんなり。また、シナといえども、壊滅は吾人の目的にあらず。…吾人の目的はシナを警醒するにあり。その天職を知らしむるにあり。彼をして吾人と協力して東洋の改革に従事せしむるにあり。吾人は永久の平和を目的として戦うものなり」(1894・明治27年9月)  日清戦争を「永久の平和を目的として戦うもの」として、中国の侵略から韓国を保護するための正義の戦いであると位置づけたのである。日本民族には、韓国に対する中国の圧迫を取り除き、文明世界から取り残されている隣国を導く道義的責任があるとの提言で、それはイスラエル民族の戦争史を下敷きにしていた。アジアで最初に近代化に着手した国として、欧米文明とキリスト教をたずさえた日本が隣国を教導する使命があると考えたのである。  さらに、彼の戦争観には日本天職論が反映している。日本の天職論や文明の進歩史観は、翌一八九五年の著作『地人論』で本格的に論述した。東西世界の文明の精華が日本に結実して新文明を生みだすという、ナショナリズムと理想主義のみなぎる論文であった。この論文と前後して発表された、「日清戦争の目的如何」も主戦論でつらぬかれていた。  日清戦争勃発の時期の日本は、国を挙げて戦争賛成ムードだった。ただ、彼の重要な論点は、韓国の独立と保全を力説したことにある。主戦論を積極的に打ち出したこの時期の内村は、キリスト教の博愛精神と民族精神を同時に募らせていたのであろう。日本は国際信義を誠実に遂行する道義的国家で、正義の戦争を行う国家であると固く信じていた。彼にとって、キリスト教の博愛と民族愛とが矛盾なく同居できた幸福な一時期であったといえる。  いざ戦争が始まってみると、眠れる獅子といわれた清国は、大方の予想に反してもろさをさらけだした。日本の勝利がほぼ固まった段階で、彼はもう一つの注目すべき評論を発表した。戦後処理の具体策を述べ、戦後のアジアに平和を取り戻す基本案として韓国の独立権を唱え、さらに日本の責任として、清国の尊厳を保持しながら、世界に門戸を開くよう指導すべきことを添えている。アジアにおける平和の実現を、キリスト教的倫理と正義の原則から提起していた。  「ああ理想なるかな、理想なるかな。仁愛的大理想なくして大国民の起こりし例はいまだかつてあらざるなり。…しかり、吾人の理想はアジアに独立と文化を供せんとするにあり。朝鮮半島は吾人の慈悲心を満たすに足らず。満州政府の下に迷う黄河、揚子江の水域に住する四億の民なり。…シナを救わんとするが日清戦争の目的なりとせば、この戦争において吾人の取るべき方針は最も簡単にして最も明瞭なり」(「日清戦争の目的如何」1894・明治27年10月)  日本の帝国主義化  しかし、日清戦争の戦後処理は、内村の期待に大きく背くものとなった。信義の履行は反故にされ、敗者に対する寛大さはいささかもみられなかった。戦争の代償として膨大な賠償金と遼東半島や台湾など領土の割譲を強要した日本は、勝者の驕りに満ちていた。その後、遼東半島はロシアなどの干渉を受けて放棄したが、それが日露戦争の萌芽となった。さらに朝鮮に関しては主権の保全を約していた前言を翻し、独立を与えないばかりか、通商と産業に介入して保護国化の動きをみせた。  これは当時の国際社会で黙認されていた帝国主義的な植民地争奪の模倣で、日本はこの段階から、その最後列に加わったことになる。事態のなりゆきを注視していたイギリスやフランス、ドイツは、清国の敗北を待ちかねていたかのように、中国大陸へ相次ぎ進出していった。  日清戦争は正義の戦争だと喧伝してきた内村は、国際社会の政治力学の非情さに打ちのめされたのである。彼の民族愛も自尊心も戦争観も踏みにじられてしまった。ベル宛ての手紙で彼は、「シナとの戦争は終わりました。いな、終わらなければならぬ、と言われています。義戦は掠奪戦に近きものと化し、その「正義」を唱えた預言者は、今や恥辱のうちにおります」(「ベル宛封書」1895・明治28年5月22日)と大いに恥じいっている。内心をさらけだした文面は、おそらく、預言者エレミヤの悲哀と屈辱の生に重ねて、義の戦いになると信じ込んだ無知と悔しさを比喩的に表現したのであろう。それ以降、心に深い傷を受けた彼は、帝国主義的な国家の武断外交を警戒し、批判的スタンスをとるようになった。  評論「時勢の観察」を掲げた『国民之友』(1896・明治29年8月)では、主戦論の愚かさを反省しながら、清国や韓国の名誉を顧みない政府の偽善を指弾している。それは一切の戦争は悪であるとするもので、聖書全体の精神からくみとった帰結であり、内村の非戦論や平和主義思想はこうした体験から生まれたのである。  日露戦争の勃発はそれから約十年後のことで、開戦を前に彼は「戦争絶対的廃止論者」で非戦論を論じた。  「余は日露非開戦論者である許りでない、戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。…世には戦争の利益を説く者がある。然り、余も一時は掛かる愚を唱へた者である。然しながら今に至て其愚の極なりしを表白する。戦争の利益は其害毒を贖うに足りない、戦争の利益は強盗の利益である。これは盗みし者の一時の利益であつて、彼と盗まれし者との永久の不利益である」(「戦争廃止論」1903・明治36年6月30日)  日清戦争で戦争の罪悪をはっきりと悟った彼は、人間同士が殺し合うことを恥辱とし、心から戦争を憎んでいた。日露戦争の死傷者は両国合わせて二十万人という膨大な数になり、「戦争は人を殺すことである」という言葉通りになったのである。ロシアは列強の一角を形成する専制帝国。強大なその軍事力は陸軍は世界最強といわれ、海軍も日本の二倍以上の勢力であった。日本の過酷な運命は、維新から三十年しかたっていない段階で、ロシアという軍事強国と戦うはめになったことである。ヨーロッパ諸国は大国ロシアの必勝を疑わなかった。  明治政府は対露戦に早くから危機意識を募らせていたが、日清戦争後の軍備の整備はままならなかった。次の戦争に備えるだけの財政が圧倒的に足りない深刻な事態に直面していた。そうした中で、戦争謳歌の熱気は日増しに強まるばかりであった。  内村はこうした流れと正反対の思想的活動をした。一連の論文に共通しているのは、非戦主義に基づく平和思想の表明であった。  「余は今次日露の戦争を悲しむ。これはある意味にて兄弟同士の戦争であると信ずるからである。…ロシア人は半東洋人であり、日本人は半西洋人ではないか。ロシア人と日本人とのアジアにおける使命は、矛盾せずして相補足するものではないか。かくのごとき共働者が相互に戦はざるをえないのは何故であるか。人生の体験にして朋友間、兄弟間の誤解にまさりて悲しきことはない。そして今次日露の衝突はかかる体験の一つである」(「戦争に関する思考」1904・明治37年2月18日)  非戦論への転向には第一に聖書の中の発見があったとしている。聖書の精神、とくに新約を解釈する中で、戦争を容認できなくなったというのである。内村は戦争と闘争はさらなる戦争と闘争を生むことを認識していた。  さらに日清戦争後、韓国の主権は不安定となり、日本民族の道徳的腐敗はますますひどくなった。戦争は決して利益にならないことを思いしらされたのである。  12 韓国問題が内村の転機に    日本人の為せる罪悪  日本の朝鮮支配をめぐって起きた日清・日露戦争の中で、内村は韓国問題にどうかかわったのであろうか。  「義の戦争」を唱えていた時期から反転して「非戦論者」になると、彼は戦争の悲惨さと不条理を訴え、戦争と武断政治に終始反対の姿勢をとるようになった。帝国主義による植民地政策に根本的な拒絶をつきつけたのである。同時代のキリスト教会のリーダーである海老名弾正や植村正久が韓国併合を肯定したのとは正反対の立場である。  内村は日本が韓国を保護国とした一九〇五年(明治三十八)の段階で、両国間に歴史的な禍根が残るかもしれないと憂慮していた。同年締結の第二次日韓協約(日韓保護条約、韓国では乙己保護条約)、〇七年の第三次日韓協約(丁未七条約)の実質は、韓国に対する不平等条約そのものであった。  時代を支配する国際社会の政治的潮流は、強者が弱者を制覇する帝国主義であった。それを根拠として、韓半島の植民地化は正当な行動とも言える。しかし神を信ずる者として彼は固く拒んだのである。  すでにこの時点で、「日本人の朝鮮人に為せる罪悪」という発言をし、それに続き、隣邦を侵食する不法行為に対して、「一滴の涙をそそぐ」国民やジャーナリストのいない「日本人の無情」を心から慨嘆した(「内村鑑三談話」鳴浜村夏期懇話会1907・明治40年8月)。この嘆きを一時の感傷だとは決していえないだろう。  なぜといえば、条約締結により外交権を喪失した韓国は、日本の植民地政策に確実に組み込まれていったからである。一九〇五年になり、朝鮮総督府が京城(ソウル)に設置されると直接統治が施行された。  内村は、絶対平和主義の地平から、政治力や軍事力に頼る国家のあり方に終始懐疑的で、帝国主義的政策を糾弾した。生涯をとおして偽善や不正と戦い、人間の心の痛みや差別など弱者に共鳴できる豊かな心性の持ち主であった。日本の近代化の過程でその最大の犠牲となったのが韓国や中国であり、彼はこれら民族の悲運・衰亡を目の当たりにした。異なる民族間の平和的共存ははたして可能であろうか。今日でも難しい課題に内村は誠実に取り組んだのである。  彼を懐疑的にさせたのは、国家と民族を興奮の渦に巻きこんだ物質中心主義の近代化である。欧米国家の帝国主義自体にも、初期のころから批判的であった。日本の近代化の軌跡は、先進諸国がアジアやアフリカ、中南米で展開した帝国主義的政策を踏襲するものであったから、内村の失望と反発も大きかった。こうした傾向は、韓国併合の論議と同じように、功利主義を推奨した福沢諭吉の脱亜論を継承したかのようなキリスト教主流の人々と比べ少数の見解であった。  彼が国家に期待したのは、近代化に着手した同胞が神と聖書の言葉を受容し、キリスト教を主軸とするアジアの平和国家となることに他ならなかった。個人の救いを起点として、国家レベルまで視野に入れた平和で宗教的な社会の創設を理想としている。  彼の説く救済観の特徴は、個の救いを求めるだけの狭い観念ではない。それどころか、民族国家からさらに世界へ広がる志向性を具備しているのである。そうした救済観を説く目前で、独立を侵犯された韓国は、苦渋の深淵に引き込まれていった。彼は隣国の窮状に沈黙を決め込むことはできなかった。社会的正義を高く掲げながら、悲哀の隣国に格別な感情を抱くようになるのは極めて自然なことであった。  内村は一九〇七年(明治四十)に印象的な一文を書いている。韓半島にキリスト教の興隆が進捗していることを題材にした「幸福なる朝鮮国」で、韓民族に対する感じ方や信仰を考えるうえで貴重である。  日本の植民地政策に圧迫されている韓国に、急速にキリスト教が広まっている事実に着目して、韓国民を称賛する言葉を記していた。さらに韓国がアジアのキリスト教伝道の拠点になることを予感し、神にとりなしまでする内容である。神の驚くべき摂理が韓半島に働いているから、「朝鮮国は失望するに及ばず」というのである。  「聞く、朝鮮国に著しき精霊の降臨ありしと。  幸福なる朝鮮国、彼女は今やその政治的自由と独立とを失いて、その心霊的自由と独立をえつつあるがごとし。願う、かつては東洋文化の中心となり、これを海東の島帝国にまで及ぼせし彼女が、今や再び東洋福音の中心となり、その光輝を四方に放たんことを。  神は朝鮮国をかろしめたまわず、神は朝鮮人を愛したもう。彼らに軍隊と軍艦とを賜わざるも、これにまさりてさらに力強き精霊を下したもう。  朝鮮国は失望するに及ばず。昔、ユダヤがその政治的自由を失いてより、その新宗教をもって西洋諸邦を教化せしごとくに、朝鮮国もまたその政治的独立を失いし今日、新たに神の福音に接して、これをもって東洋諸国を教化するを得るなり。余は朝鮮国に新たに精霊の下りしを聞いて、東洋の将来に大いなる希望をつなぎ、あわせて神の摂理の、人の思いに過ぎて宏かつ大なるに驚かざるを得ず」(「同文」1907・明治40年10 月)  それから二年後の一九〇九年(明治四十二)は、「−東洋平和の夢−」のサブタイトルのついた「朝鮮国と日本国」という預言的評論を掲げた。韓国が日本に併合され、朝鮮の国号が消滅する八カ月前のことである。  その冒頭で、韓国で布教中のアメリカ人宣教師からの書簡を紹介している。宣教師たちは、韓半島は日本よりも早くキリスト教化されるだろうということを話題にしていた。この最新情報が日本天職論に火をつけたのではないか。つまりアジアのキリスト教の運勢が韓半島に集まりつつあるという感触が、オリジナルの天職論にインスピレーションを巻き起こしたということになる。  十九世紀末に韓国で始まったアメリカの宣教師たちによる宣教は、二十世紀に入ってその勢いを増していた。本文に沿えば、主権を喪失した韓国民族は、神からの「力強き精霊」の恩恵によってキリスト教の福音の恵みにあずかったと論じ、その波は特に半島北部で顕著であった。  韓国と日本の比較  興味をそそられるのは、評論「朝鮮国と日本国」が霊と肉という基軸から二つの国家を比較していることである。まず日本については、「物において獲し日本国は、霊において多くを失った。その士気は日々に衰えつつある。その道徳は日々に堕ちつつある。その社会は日々に壊れつつある」とし、国土を失った韓民族については、「悲しみだけで終わるわけはない」と主張している。  「余輩は朝鮮国のためにこの事あるを喜んだ。かの国は今や実際的に国土を失い、政府を失い、独立を失い、最もあわれむべき状態においてある。そうして恩恵ある神が、地上における彼ら朝鮮人のこの損失に対して、霊のたからをもって彼らに報いたもうとは、さもあるべしことである。…神は必ず何ものかをもって、朝鮮人の地上の損失を償いたもうに相違ない」(「朝鮮国と日本国」1909・明治42年12 月)  神が正義の神であるならば、どこかで必ず平等にされるという論法なのである。この論文は悲運の中におとしめられた民に対する慰めといたわりの想念が濃厚で、隣国に向けられた声援の声はこれ以降も軽減することはなかった。  物質を獲得した日本は霊を失い、物を失った韓国は霊において恵まれつつあると述べる。そして将来、二つの国は、共に新しいキリスト教に変貌していくだろうとの希望の賛歌である。  「神は人よりも大である。神は人のいかんにかかわらず、その選びたまいし人を起こし、その定めたまいし道に従い、必ずこの国を救いたもう。そうして、朝鮮国も救われ、日本国も救われて、両国、救拯の神に相和し、平和の富士山の頂より長白山(白頭山)のそれにまでわたり、彼も喜び、われも喜びて、共に声を合わせて賛美の歌を唄うるであろう」(「同文」1909・明治42年12 月)  富士山から白頭山まで、神の下に両国が喜びの讃美を共に奏でる預言的一篇を書き上げたわけである。彼の信奉する世界観は、キリスト教の神あっての民族であり、その信仰を基盤としない国家は、水の上に漂う浮草のように不安定なものでしかないのである。また平等な神であるからには、単なる見かけで状況を即断できないとした。すなわち現時点での国家の位相は、あくまでも流動的であり、歴史という長いスパンではからなければならないと考えたのである。こうした思考を通じて明らかな点は、宗教的理想主義の横溢する性情である。  「朝鮮と日本国」は、日本と韓国の民族を同列にならべて思索している。両民族を一つの場に乗せて摂理や救済を語る手法には率直に新鮮な感慨を覚える。いわば神の目線で国家をみつめているわけで、神という共通の親をいただく国家間の友好的きずなを模索する民族論といえるだろう。  こうした経緯により彼が描いた新たな天職論は、日本に加えてアジアの国にも及んだ。韓民族の存在は一段と重要な意味をもつことになった。  一九一〇年(明治四十三)八月、日本政府は韓国を併合した。すでに形式的であった大韓民国の名称は、この時をもって地上から消失した。韓国は日本の統治下に完全に置かれた。  韓国併合の翌月、内村は、打ち沈む民族と狂喜する民族に向けて、哀調あふれる思いのたけを吐いている。  「国を獲たりとて喜ぶ民あり、国を失いたりとて悲しむ民あり。されども喜ぶ者は一時にして、悲しむ者も一時なり。ひさしからずして、二者同じく主の台前に立たん。  しかしてその身にありてなせしところによりて、さばかれん。人もし全世界を獲るとも、その霊魂を失なわば、何の益あらんや。もしわが領土膨張して全世界を含有するに至るも、わが霊魂を失なわば、われはいかにせん。ああ、われいかにせん」(「領土と霊魂」1910・明治43年9月)  陽の当たる上向きの日本、日陰者のように沈鬱な韓国、これら両民族の未来に、必ずや神の公平な采配の来ることを心のひだに深く刻みつけているのである。  13 韓国人の霊性に注目  金貞植との友情 日露戦争の終結から一年後の一九〇六年(明治三十九)、韓国YMCAの金貞植(キム・ジョンシク)が東京でYMCA(現・在日本韓国YMCA)創設のため来日した。彼は東京朝鮮基督教青年会初代幹事となり内村に面会を求めてきた。内村より二歳年下で、無教会の教えに興味を持っていた。金貞植は無教会を韓国に持ち込んだ人物といわれ、これ以後、二人の間に長い友誼が始まることになる。  金貞植は内村の信仰と思想を理解する得難い人物であった。彼との出会いから、内村の韓国についての知識や信仰観は、より実りある方向へと進んでいく。内村の日記に、しばしば韓国や韓国人の話題が記されるようになり、深い友情で結ばれていたことが推察できる。内村が金貞植から学ぶところも多く、信仰の兄弟として親交していたのである。 霊性に敏感な内村は、金貞植の人格に韓民族の豊かな宗教性を感得していたことがうかがえる。かつて彼は、日本民族の欠点として霊性の欠乏を指摘していたが、韓国人はそれと対照的だと述べている(「農民救済策としてのキリスト教伝道」1903・明治36年9月20日)。  最初に知り合ってから六年後の札幌独立教会の講演で、「私の知人に、東京で有名な一人の朝鮮人がありました」と触れているのは金貞植のことであろう。  「この人は日本語はあまり達者ではなく、ちょうど私のギリシャ語ぐらいの程度のものであります。毎週土曜日に来て私の聖書講義を聞き始めましたが、私の驚いたことには、二、三カ月たちますと、今まで来ておられた教友諸君よりも深い質問を出すのです。かくのごとき質問はわが国人に見ることははなはだまれなもんであります」(「ロマ書講演第三回『ロマ書9−11章』」1912・大正1年10月17日)」  さらに興味あることを語っている。  「朝鮮が一たび宣教師の手によって開かれますと福音は非常なる勢いをもってひろまりました。…私の万朝報の記者時代の同僚であって今は朝鮮のシウール・プレッスの主筆をしております山県五十雄君の話によりますと、朝鮮で見るような信者は日本では見ることができない。日本の教師は知識の点においてまさっているけれども、信仰に至ってははるかに及ばないということであります」(同文)  文中に、キリスト教は発祥地のユダヤでは不振であったが、異教のローマ帝国で爆発的に伝播した歴史をふまえ、伝道の低調な日本民族の救いは韓国で布教が進んだ後になされるのではないか、という暗示的な文言が見出せる。それは、友人山県から教えられた韓国キリスト教の躍進ぶりに啓発された言葉である。事実としても、無教会の聖書研究会に加わった韓国人留学生たちや韓国の誌友の手紙などから彼らの霊性の高さを目の当たりにすることになった。  つまり、「東西両洋の仲裁人、器械的な欧米を理想的なアジアに紹介しようとし、進取的な西洋を以って保守的な東洋を開こうとする。これが日本帝国の天職と信ずる」(「日本国の天職」1892・明治25年)という当初の日本天職論の理念は後退したとしても、朝鮮半島を含む東アジアを基盤とする新文明胚胎の想念が彼を突き上げていたといえる。 この発言は日韓併合からわずか二年後のことであった。  およそ十年のちのベル宛の書簡にも、韓国人の心霊の優位さを「精神的には、原則通り、日本のクリスチャンよりはるかにすぐれています」と賞賛している。彼はいつのまにか、韓国民族の優れた霊性に魅せられていった。  信仰が民族問題を解決  一九一五年(大正四)、朝鮮基督教青年会に招かれた内村は、韓国の青年たちに向けて講演した。内村はまず、日本人と韓国人との間には民族問題が大きく横たわっていることを率直に語り、こじれた関係を解決するためには、よき信仰心をもち、聖書を深く学ぶことにより、自己と家族と民族を救う志を養うべきと説いた。さらに、日本・韓国の両民族が儒教をとりいれた歴史的事実から、韓国民族のキリスト教受容の意義を預言的に語っている。  「すでに経書(注・儒教の経典)によりて儒者となり得たわれらが、生命の書たる聖書によりてクリスチャンとなり得ないわけがない。もしも朝鮮人が、かつて孔子の書に接しがごとくに聖書に接するに至らば、朝鮮は恐るべき国となるであろう」(「朝鮮人に聖書研究を勧むるの辞」1915・大正4年7月)  留意すべきは、この講演をなした時点で、第一次世界大戦がすでに勃発していたこと、それに日本も加わっていた点である。すなわち、現在進行中の最悪の国際情勢を眼前に、異民族間の理解に聖書の教えや信仰を共有することの重要性をひたすらに訴えているのである。  翌年にも相互理解の構築の大切さを、今度はアメリカの友人ベルへ書き送っている。 「私は朝鮮の貴族出の一クリスチャンと親しい友人関係を結びましたが、私どもはお互いにこう告げました。『もし日本人と朝鮮人とが、われわれ二人のように、お互いに理解し合えば、朝鮮問題なぞは消えてしまうだろう』と」(「ベル宛封書」1916・大正5年8月24日)  大戦が長期化し世界中に暗雲がたちこめている一九一七年(大正六)の春。内村は再び朝鮮基督教青年会に招かれた。箱根で開催された集会でのテーマは、ずばり「相互の了解」であった。  「四海みな兄弟であるというに、人は今なお人の敵である。同人種にして同宗教なる英国人とドイツ人とは、今や不倶戴天の讐敵である。日人は鮮人を解せず、鮮人は日人を知らず、誤解に加うるにうらみ、憎悪に加うるに復讐、そして、いかにしてこれを除かんかとは、政治家、外交家を悩ます大問題である」(「相互の了解」1917・大正6年4月2日)  彼は人間が理解し合える道は共通の目的を持つこと、中でもキリストという「信仰上の目的」を共有することに最大の鍵があると力説した。そして「同じ理想の実現を目的として進む者」は実の兄弟以上の兄弟となりうるし、憎悪や復讐心や闘争はなくなると結んだ。 この講演はアメリカが参戦する数日前のことであった。彼は人類がキリストという全き人格につながれば、戦争の根絶も平和の実現もなされるとの信念を披瀝していたのである。ベルへの書簡には「かわいそうな朝鮮人たちは、彼らの国を失いました。何ものも彼らのこの損失を慰めることはできません」(1917・大正6年4月19日)と深い哀憐の情をしたためていた。  以上一連の文章から感じられるように、内村の再臨回心がいまだ顕現していない段階に、平和の志向を必死に希求している姿に感銘を覚える。  14  韓国で三・一運動が勃発  韓国人への同情  一九一九年(大正八)、日本統治下の韓国で三・一運動が勃発した。諸宗教の代表者三十三人が独立宣言文を読み上げたことに端を発した民族独立運動は、当初は平和運動の性格をもっていた。しかし、学生や一般大衆を巻き込みつつ、都市部から農村部へと拡大しながら過激な様相へと変貌していった。韓国民衆の熱気が一気に噴出した大規模なデモとなったのである。今日、抗日運動とも万歳事件ともいわれている三・一運動は、抑圧されてきた韓国民族全体を総和した民族独立へのたぎりたつエネルギーの爆発となった。  三・一運動の導火線となったのが日本留学中の韓国学生たちであった。一九一九(大正八)年二月九日、東京・神田のYMCA会館で青年たちは集会を開き、歴史的な「独立宣言文」を採択している。  万歳を叫びながら独立を訴える民衆の行動に対して、日本総督府は警官隊に加えて軍隊を出動させ厳しい方針で臨んだ。両民族にわだかまっていた憎悪と侮蔑と猜疑が、血と闘争の修羅場を招いたのである。暴動の背後にキリスト教徒による主導があったとにらんで、官憲のキリスト教に対する弾圧には過酷なものがあった。  内村は、同年八月四日のベルへの書簡で、「わが国人が朝鮮でした事を、心から申しわけなく思っています」と心痛な心持を吐露していた。延べ二百万人が参加した運動の犠牲者は七千五百人を超えると推察され、半島を嵐のように吹き荒れたデモが終息するのに一年を要した。  半島での当時の正確な状況は、内地にはなかなか伝わってこなかった。独立運動がピークを迎えるそのころ、久々にソウルから金貞植が来日した。そして内村と再会したのである。会えば親しく交わり談笑する二人であったが、喜びにひたる間もなく、事件の真相を直に知ることで内村を愕然とさせた。  「朝、信仰の友なる、朝鮮京城(現在のソウル)、金貞植氏の訪問があった。三年ぶりにて彼と相会して、はなはだ、なつかしく感じた。彼が組合教会に働くも、その信仰に染まざるを知って喜んだ。彼が故国の事を語るにあたって、眼に涙を浮かべるを見て、余ももらい泣きをなさざるを得なかった。二人祈祷を共にし、再会を約して別れた」(「日記」1919・大正8年5月29日)  内村は金貞植から韓国内の最新情報とキリスト教の動向などを克明に聞いた様子である。金貞植は半島でのすさまじい事件のあらましを臨場感をもって語ったことであろう。涙で訴える深刻な話に、「もらい泣きをなさざるを得なかった」と内村は記している。  元来が植民地政策に批判的で韓国人に同情的であった立場からすれば、日本官憲と軍隊の矛先が、とくに韓国キリスト教徒に向けられたことに、同情以上の哀切な感情をもったことが十分に推測される。  キリストにありて兄弟  韓国の独立運動が沈静化しても、日本本土で学ぶ韓国留学生たちにとってはそれで終わりとはならない。むしろ独立運動の心理的陰影は、日本にいる分だけより複雑な感情の波紋を拡散させたはずである。  一九二二(大正十一)年三月のYMCA会館での内村の講演の所感が、そのことを物語っているように思える。韓国留学生たちの反応をいまひとつつかめないでいるのである。彼は韓国人の宗教的資質をいち早く注目していたが、この時には独立運動の残影が未だあって、福音の核心が伝わったかもしれないが、またそうでないかもしれないという感想にとどめた。  「朝鮮青年にむかって演説した。一同謹聴するようにみえた。しかしながらどれだけわかったか我らにはわからなかった。朝鮮人は福音の真髄が日本人よりよくわかるようにもみえ、またわからないようにもみえる。いずれにしろ目下の彼らにとりては独立問題のほうが信仰問題よりもはるかに重要であるらしくみえた。余自身にとりては朝鮮人はまだ不可解的問題である」(「日記」1922・大正11年3月30日)  二つの民族間の溝が埋まらない中、青年たちの印象はこのように明確なものではなかった。一方、金貞植との個人的関係はいよいよ良好であった。それから半年後の出会いは、二人の友情と信義を再確認する場となった。日韓に横たわる悪感情など、「真の兄弟」の間では吹き飛んでしまうと日記に記している。  「前にかわらざる信仰の光に輝く君の容貌にせっして楽しかった。君に会うごとに思うはキリストにありてなる日鮮合同の確実なることである。政治家や軍人や実業家はしらず。余は日本人であり金君は朝鮮人であるが、我らはキリストにありて真の兄弟である」(「日記」1922・大正11年11月7日)  さらに一年が経過した。内村鑑三と金貞植の交友、その友諠と信頼の絆は、どこまでも深い誠実さで貫かれていることを、日記文が如実に証している。  「朝鮮、金貞植君の訪問を受けて、おもしろかった。君と共に種々の問題について談ずるは、多大の愉楽である。君は自分の信仰を解してくれる少数者の一人である。君と会うごとに、神に感謝する」(「日記」1923・大正12年2月15日)  15 韓国に移植された無教会運動  留学生・誌友の反応  内村の韓国人の弟子で一番といえるのが金教臣(キム・ギョシン)である。来日は第一次世界大戦が終結した翌一九一九年(大正八)のこと。韓国が併合されると、職を求めて韓半島から日本に移住する労働者が急増した。学生たちも日本本土をめざして留学した。彼らは、当時の日本社会でおしなべて差別され、苦痛の生活をしいられるようになった。金教臣も、当初は敵国に潜入したスパイのような心境で過ごしていたという。  そうした彼があるとき内村の『求安録』を一読して感動し、これを機に聖書研究会に参加するようになった。以降、一九二七(昭和二)年に帰国するまでの七年間を聴講生として過ごし、内村の忠実な弟子の一人となった。やがて、彼をはじめ数人の留学生たちの真剣に学ぶ姿が内村の眼にとまっていったのである。  金教臣と金貞植の間には面識はなかった。講演の場で内村が二人を引き合わせたといういきさつがある。そして金貞植のときのように、金教臣も内村の記憶に残る人物となった。  内村は一九二一年(大正十)一月から翌年十月まで、ロマ書の連続講義に集中していた。この時期は再臨運動も終息し、聖書の研究を主要な活動の場として講義に力を入れていた。今日、内村の全著作をとおした最高峰は、『ロマ書の研究』といわれ、自他ともに認めたこの作品は、出版当初から名著の誉れが高かった。本書の元になったものが六十回におよぶロマ書の手紙の解釈であったのである。  二年間に近い講義が完結すると、聴講者たちから感謝の言葉が寄せられてきた。日記には、心に一番記憶される感想が韓国の一留学生のものであったとある。引用してみよう。  「内村先生、六十余回にわたるロマ書講義を、何らの倦怠も覚えずに、歓喜より歓喜の中に学ぶことができましたことを喜びます。…いよいよ本日の『大観』をもって、天下の大書を講了なさるるに当りまして、その計らざりし暁運のうれしさの余りに、覚えず感涙の眼底を洗うを認めまして、ひそかに恥じ入りました。…先生、よくも、全国人の迫害と、耐えがたき国賊の誹謗との中にも、極東の一角に踏みとどまってくださいまして、十字架の聖旗を空高く守ってくださいましたことを、ありがたく感謝します」(「日記」1922・大正11年10月24日)  それは、聖書講義に参席を許された身にあまる恩恵に、感きわまった自己を表白した韓国青年からの手紙であった。内村もこれに応えて、「この言葉を朝鮮人よりうけて余も『覚えず感涙の眼底を洗うを認』むる。将来余をもっともよく解してくれる者はあるいは朝鮮人某の中よりでるのかもしれない」としたためていた。  ところで、この「朝鮮人某」とは金教臣のことではなかったろうか。というのは金教臣が深い感銘をうけた『求安録』とロマ書の手紙の中心的テーマは、罪とその救いの問題であり、金教臣自身にとってきわめて切実な課題であったからである。  このように、内村が留学生たちにおよぼした感化は明白であった。と同時に、青年たちも清冽な印象を内村に与えていたわけである。「パウロの愛国心」という主要なテーマで第九章を講義したときの出来事がある。内村は、講義中涙を浮かべながら聴講している彼らの真摯な姿を見逃さなかった。日本人の弟子たちを育成するかたわらも、少数の留学生たちとの関係にも浅からぬものがあったのである。  韓国キリスト教の興隆  内村が心底願ってきた日本のキリスト教伝道の不振は、大正になっても続いていた。再臨運動が開始された一九一八年(大正七)前後は、宗教的社会事業や文化活動での動きがあった。文壇では青年たちを熱狂させた倉田百三の戯曲『出家とその弟子』が出版されたり、賀川豊彦の自伝的小説『死線を越えて』は百万部を超える大ベストセラーになった。当時の大正社会には、たしかに、ある種の宗教的ムードやキリスト教的情緒が漂っていたといえる。内村も社会のこうした雰囲気に心をとめている。  日記には、中国大陸の伝道事情を牧師から聞いたインスピレーションが書き込まれていた。  「支那山東省孔子廟参詣の実見談を聞きはなはだ有益であった。『宗教の起源地にその宗教なし』との歴史上の法則は儒教の場合においても事実である。インドに仏教なし、パレスチナにキリスト教なし、しこうして今やドイツに新教なし、米国に清教なからんとしつつある。あるいはすべての宗教が日本国におちあうのであるかもしれない。いずれにしろ日本は宗教的にみて最もおもしろい国である」(「日記」1920・大正9年2月12日)  しかしながら、国民の間に実質的な信仰の実りの少ない点はまぎれもない事実として、彼が実感しているところであった。キリスト教的なムードが社会に広がっても、依然、福音伝道の実際は低迷していたわけである。  外面や表層ばかりを求める日本人の浅い信仰を憂慮しつづけた彼であったのである。内村の再臨運動が、こうした空気の中で一年以上も続いたことが不思議でさえある。  一方、韓国キリスト教の成長はきわめて目覚ましかった。国内のキリスト教を嘆き、うっとうしい気分になりがちな彼の意識を引きたてたのは韓国のキリスト教にほかならなかったといえる。  韓国キリスト教の隆盛を探るには、韓国民族のもつ宗教的資質をとりあげなければならない。すでにこの点は考察しているところであり、内村をして韓国に接近させた有力な要素の一つである。彼は金貞植や留学生らと接しながら、豊かな宗教的スピリットをもつ彼らに着目したのである。  苦難の韓民族  一九二四年(大正十三)以後から、金教臣ら留学生はグループを形成した。帰国後、無教会運動を興す顔ぶれであった。  再臨運動の唱道によって、内村の名声は全国的に知れわたり、聖書講義には地方から聴講者も現われた。人があふれ、立ったまま傍聴する者が出たのも一回や二回のことではない。金教臣ら留学生たちは、内村の信仰の最も円熟した時期の最高の講義を受講したといえるだろう。  韓国の青年たちは、植民地統治下の民族問題や人生問題に悩んで聖書講義に加わったようである。真剣に人生と対峙し、民族の運命に心を痛めつつ未来を背負おうとしていたのである。そうした観点からみれば、日本人一般と比較して、人生と国家に対する意気込みにおいて基本的な差があった。  青春時代の内村も、アメリカ留学中に信仰問題で苦悩し、白人社会での人種差別を幾度となく体験していた。そうした領域だけでも韓国の青年たちと相通ずる接点があっただろう。もちろん、留学生らの最大の感動は、いうまでもなく、内村の聖書解釈の深さに求められる。旧約の預言書の解釈やパウロの書簡の愛国の精神の講義に啓発され魅了されたのである。  内村の説く愛国心は、旧約聖書の預言書に負うところが大きい。その召命観の性格は、個人の召命を説きおこし、それを踏まえて民族・国家へと拡大・伸長するところにある。個々人を総和した日本民族が神から選ばれているという、すなわち、日本天職観の自覚の上に固く立っていた。さらにくわえれば、彼の教える民族愛には、世界に通ずる普遍的な響きがこめられていた。  愛国精神という感情においては日本人も韓国人も異なるところはない。つまり内村の愛国精神の講義が、若き聴講生たちの祖国愛を燃えたたせたのである。留学生たちは、イスラエル民族に苦難の歴史があったように、韓民族にも忍ぶべき受難の路程のあることを主体的に受けとめた。  やがて帰国した金教臣は、友人たちと雑誌「聖書朝鮮」を創刊し、一九二八年に自ら主幹となった。祖国で無教会主義運動を興したのは彼らであった。  これまでみてきたように、長い歳月をとおした内村と韓国人たちの交流は、多様な因縁で彩られ途絶えることがなかった。この細流が、結果的に、内村の信仰観に影響を与えるまでになったことを考慮すると、たしかに運命的な出会いであったといえるのではないだろうか。    師弟の交わり  外国伝道に関心をいだく内村のもとには、中国奥地や韓半島で宣教に励む外国宣教師や日本の友人たちから情報が寄せられていた。雑誌『聖書之研究』の読者からも近況が届けられた。雑誌の誌友には韓国人や中国人もいたのである。 ある日、朝鮮半島から次のようなハガキが届いた。  「内村先生。是非御一読願います。小生は毎朝、神の愛と主の平安、先生と共に有らんことを神に祈り上げます。一九二〇年夏、ある機会をもって、先生の『研究』誌を七月号が小生の手に入ったのでありました。これは神が初めて小生に直接に授けた機会でございました。それから今日まで、先生の著書全部を六次拝読いたしました…ああ先生、先生の御恩に感謝の涙を禁ずることができません。小生の讐の日本にでも先生在りて平和の日本、愛の日本にと変わって来るのでございます」(「日記」1922・大正11年4月26日)  恩讐の日本ではあるが、内村鑑三がいるので「平和の日本、愛の日本に変わって来る」と書いてよこしたのである。  内村も「喜んでよいか悲しんでよいか、わからない。ああ日本が朝鮮の讐であって欲しくない。兄弟であって欲しい。そうして讐もキリストに在りて兄弟となることができる」のだと哀切の思いをつづった。  当時の韓国本土では、キリスト教会の間で「朝鮮人びいき」の内村と喧伝されていたらしい(「日記」1922・大正11年9月22日)。その言葉には賞賛や讃美の響きはない。が、彼は、軽蔑や侮蔑の意味合いのこもる言葉や世間のうわさなど問題にもしなかった。 さらに翌年早々にも見知らぬ韓国人からの手紙である。日記文には、「毎日達する多数の年賀状のうちにもっとも真剣なるものは朝鮮人よりきたる」とある。差出人は、政治犯として入獄し、不治の病のために自殺まで思いつめ、天を怨み人生に憤る絶望的な人生を送っていた人物である。  ところが、そのような悲惨な境遇に落とされた彼が、『聖書之研究』を一読して涙の復活をし、人生に一条の光を発見したという意味深い文面であった。  「先生、小生は先だってまで、日本国を『不倶戴天』の敵として、排日党の一人でありました。鉄石のごとき堅い心を鎔かすべき何ものもなかったのです。しかるに、先生のその深い信仰に感動され、先生をもって、極東のエレミヤとして敬慕いたします。そして小生の日本観は一変したのです」(「日記」1923・大正12年1月5日)  日頃、日韓両民族の相克に心を痛めている内村の元へ、この言葉である。「極東のエレミヤ」とまで慕われて、心臓を突かれるような気にさせられたことであろう。日本が韓国を実質的に植民地化しているさ中に、韓国の人々との間にはこうした親密な子弟の関係や友情が維持されていたのである。  内村は個としての自己を大切にしたが、また他者の人格も尊重する人であった。こうした生き方を、真正の個人主義(「個人主義と自己主義」1924・大正13年)という言葉で表現していた。    大きな刺激を受ける  韓国に対する内村の感慨は、人生の後半になるにつれて格別なものへと推移してゆく。日本伝道の希望が退潮していく反面、韓国のキリスト教の興隆や韓民族の精神性に啓発された想念をふくらませていったのである。  「今日もまた、ある青年の訪問をうけた。用事の趣は? と聞けば、例によって例のとおり、結婚問題である。実にいやになってしまう。今や日本青年の最大問題と言えば、この問題である。国家、人類、神、霊魂、救い、真理というような大問題をもって訪問する者はほとんどいない。その点において朝鮮人の方が、日本人よりもはるかに上である」(「日記」1923・大正12年1月19日)  この一節は、関東大震災が発生した年の記載である。恋愛や金銭、就職などの外的事象にとらわれている日本人に比して、韓国人のほうがはるかに真剣に人生をみつめているととらえているのである。  さらに日韓の批評文がある。ある日、自宅に日本人と韓国人の牧師が訪ねてきた。日本人牧師が「政略に長け、最もたやすく、最も多くの信者を作らんと欲して、その手段、方法を聞かんと」するのに対して、韓国の牧師は「今日まで自分の著書より受けし利益について感謝し、あわせて将来の友誼的指導を求めた」のだった。「二者の間に雲泥の差あり」、と韓国人に軍配を上げざるをえない実感が伝わってくる(「日記」1926・昭和1年10月5日)。  それから三年の後の内村の死の前年に、韓国の一誌友から書簡が送られてきた。書面には、日本人は嫌いだが、内村のように神とキリストの名の下に働く少数の真の日本人のいることが感謝で、二つの民族をへだてる高い境界は、おなじ信仰をもつ数少ない友人のゆえに壁を突き破ることができると書かれていた。  大陸でよき果を結ぶ  韓国に向けた内村の嘱望を、本稿のしめくくりとしてもう一例とりあげておこう。ある留学生の帰国にまつわる話で、かつて金教臣のときにもたらされた感動が、再び再現されたのである。  「朝鮮の学生某が帰国に際していとまごいに来てくれた。彼は東京在留九年間ただの一回も、わが聖書研究会への出席を怠らなかったという。そして大なる決心をもって朝鮮に帰って、信仰のために戦わんとしていた。彼を送って、自分は喜びの涙を禁じ得なかった」(「日記」1929・昭和4年4月1日)  この青年のいだく大志とは、同胞に対するキリスト教伝道の情熱にほかならない。内村の喜びようは、「少数の朝鮮学生を教えるためだけに聖書研究会を起こす価値があった」との一句に十分に言い表されている。  この年には、無教会的キリスト教が韓半島で広められていることを、「自分の説きし福音は日本内地においてよりも大陸方面においてより善き果を結ぶであろうとは自分の常に期待しているところである」というコメントを記録している(「日記」1929・昭和4年9月9日)。  強調するが、内村の関心は、彼らの宗教的霊性にある。民族の資質ともいえるこの豊かな心性によって、韓国キリスト教のさらなる伸張を予感し、それに大きな期待をかけていたのである。  晩年の内村が、再考された天職論を基軸にアジア発の精神文明の創生に意欲を燃やしたのも、韓半島のキリスト教の躍進に、大きく、深く、強く触発されたものであることは疑いえない。  16 再臨運動の要因と時代環境  娘ルツ子の死  再臨運動に着手するまでの内村は、聖書の解釈と講義に専心する静寂の時代を過ごしていた。対照的に再臨運動以降は、動の時代といえるだろう。かつては、ジャーナリストとして足尾銅山の公害事件にかかわったり、非戦論の論陣を張ったりと非常に活発な時期があった。  内村が再臨信仰に覚醒し、本気になったのはいつごろからであろうか。初期にあっては、積極的な肯定はしないが無視や否定もしていなかったようである。『キリスト教問答』の中での、「神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」という黙示録の引用などは、迫害を受けたときのやすらぎの言葉という趣がある。つまり思弁的な表現や慰謝の言葉以上の重さはみいだされない。  来世や永遠の世界に希望をつなぐ記述もある。しかしこれもその表明にもかかわらず、なにか淡い望みの域を出るものではないだろう。「私より来世の希望を奪うものは私の生命を奪うものであります。これなくして人生は私には無意味のものとなります。私の「存在の理由」は、確かに、「来世の存在」にあります」(同書)。  これが確信的でないという論拠として、数年後の「来世の信仰」(1909・明治42年6月)の短文で、科学的には証明できないもののそれでも来世を信じる、と足元の定まらない言い回しをしている点がある。友人宮部への手紙に、「現世はどこまでも予備校とみなし」て、と書き送っているのも同じだろう(「宮部金吾宛封書」1911・明治44年3月14日)。いわゆる彼の来世観は、うわすべりするばかりで、終末や再臨をはっきりと自己の思念として確信しているものではないように感ぜられる。  その点は著作『宗教座談』でも同じことがいえる。天国を憧憬する理想主義的想念が、空想にかきたてられながら飛翔している。つまり、信仰獲得におけるある種の限界や盲点があったわけで、再臨教義の特殊性が理解を妨げていたと推測できるのである。  ともあれ真の意味で再臨を感得したのは、再臨信仰の回心をへて天国への志向が確かなものとなってからといえる。元来、聖書研究における彼の基本的姿勢は、聖書を一面のみでみず、多様なアプローチによる統一的な方法論をとっていた。彼が再臨の教えを実感できなかったのは、トータルなこの方法論をもってしても、有効ではなかったことを示している。  科学者の魂をもつ内村にとって、象徴的、観念的、幻想的な字句のならぶ黙示的終末を受け入れるには難しいハードルであったわけで、再臨の観念的な記憶だけが脳髄の片隅にしまい込まれていたといえる。  それゆえに、再臨の教義は彼の信仰の一生の後半に直面する最大のテーマとなった。換言すれば、再臨信仰を手中にするためには、長い人生の熟成期が必要だったともいえようか。以下、内村が不動の再臨観に至るまでの分析と時代的省察を試みてみよう。  内村の再臨運動は、娘ルツの死が重要な鍵をにぎっていると通常いわれてきた。その点は、彼女の死をきっかけに再臨信仰の予感を波打たせる思考からも感じとれることだが、はたしてそうであろうか。  結論を先にすれば、本稿の論述は、内村は当初から復活信仰を携えていたとの通説にそっている。彼は生涯に三度の回心体験があったと告白している。一神教の神を知ったことが第一、二番目は贖罪信仰の体験、そして再臨の回心である。  ところで、復活信仰が娘の死にともなって獲得されたのであれば、これについてなんらかの説明があってしかるべきなのに一言も触れてはいない。わが子の亡くなることを契機に、復活信仰を獲得したとする論拠は説得力に乏しいのである。  人生半ばの『宗教座談』には復活の章が独立して設けられている。キリストや人間の死後の復活についての論証である。  「キリスト教は実に大胆なる宗教であります」という書きだしの第七章は、キリストの十字架の死からの復活が記され、信者にも復活のキリストの恩恵のあることの解釈が施されている。  復活が信じられることの例証として列挙したことは、神は何事をもなしうる全能者であること、復活の力を自身が感じていること、そして人類の希望が永世であることなどである。いずれも復活を証明するために、聖書を多面的にとらえていることがわかる。  また次の二例から明らかなことは、復活の信仰をいだくことで、キリストの復活と生命力が信じる者に与えられるとしていることである。  「…キリスト教の教うる復活なるものは、この肉体が肉体のままで蘇ると申すのではございません、復活の真意は厚生でありまして、生命がさらに肉体に加えらるることであります」(『同書』)。  「私はすでに私の復活の力を感じましたゆえに、同じ力のはたらきによって、また私の肉体も復活するものであると信じます」(『同書』)。  ところがこうした語り口にもかかわらず、彼らしい強靭さに欠ける心象を受けることもまた一面の事実である。たとえば、「私は白状いたします、私もまた人の復活したのを見たことはございません」といった形容で、それはある点での弱さとはいえないであろうか。少なくとも一人娘の死に遭遇するまでの彼はそうであろう。  内村家の一人娘、ルツ子が病死したのは一九一二年(明治四十五)一月十二日。十七歳と九カ月という短い人生であった。彼女の誕生は一八九四年(明治二十七)年春の京都。三年前のいまわしい天皇不敬事件から内村はまだ完全には立ち直っていないころに重なっている。  娘の生まれた翌年には、彼の家族はいよいよ餓死を覚悟するほどの窮乏に陥り、北海道から九州まであてのない彷徨を続けている。その期間、ひたすらに耐え忍び、悲哀きわまる境遇の中で、唯一彼の心の慰めとなったのが、あどけないわが子の愛らしい姿であった。  アメリカのベルへの当時の手紙には、幼子との情愛のやりとりをこまやかに書きそえている。ところが、忽然と、成人もしていない最愛の娘が逝ってしまったのである。こうしてルツ子の死の記憶は、生涯を通じて彼の心の奥深くで生き続けることになった。  まず教友の一人に、「小生の心に今や断腸の思いあり」と悲痛の面持ちを書きこんだ(「青木義雄宛封書」1912・明治45年1月12日)。宮部への便りにも、「人生悲痛のきわみとはじつにこのことにあり」という一節がある。彼の悲しみは一通りではなく、地上に生きながらえる執着はもはやないと思えるほどにうちひしがれてしまったのである。  内村の内心を推し量ると、彼女の死をただの幻影や感傷で終わらせてはならない、永遠の決別などあってはならないという必死なる心境に駆り立てられたはずである。そうした痛切な喪失感にうちのめされた感覚が、彼女は「Creed」(信条)ではなく、「fact」(事実)として別の世界へ移されたのだと告白させたといえるだろう(「宮部金吾宛封書」1912・明治45年1月23日)。韓国京城基督教青年会への手紙にも、「神はその一人子をさえ惜しまず」との聖書の言葉に感じ入っている心境がにじみでている。  その死は疑いえない現実であるとしても、どれほど時を経ても消えることのない寂寞たる悲哀が脳裏をかけめぐったことは疑いえない。    モー往きます  ルツの死の報が『聖書之研究』誌に掲げられたのは翌月号と翌々月号である。二回にわたる追悼文「内村ルツ子」の重要な点は、亡くなるまぎわのルツ子の言葉「モー往きます」から、霊魂不滅の情念を引き取ったことにある。肉体の死とともに跡形もなくすべてが消滅したのではない。彼の魂を揺さぶった情感は、「『往きます』なり、『死にます』にあらず」という、わが子への深い愛惜の一念であった。  「『モー往きます』と、どこへ? 悪しきところは往きしには非ざるべし。彼女の死に顔がその口元に微笑をとどめしをみて、もって彼女の善きところへ往きしをしるなり。…ルツ子の口びるより発せしこの貴き一言、しかも苦痛の調子を帯びず、少女らしき自然の声、ああ年は来たり、年はさり、世は移り、ものは変わるとも、われらはこの一言をわすれざるべし」(「同文」1912・明治45年2月)  おそらく、父親として、娘の最後の一言「モー往きます」の彼方に、霊魂不滅の世界を探らなければならないという強烈な衝動が起きたのではないだろうか。その切迫感は内村の周辺に生起した状況、無教会の会員のあいつぐ死に思い合わせるといっそう現実感をもって迫ってくる。  内村のファミリーと固いきずなで結ばれていた二人の女性が、わずか二カ月の間に亡くなるという不幸の事柄である。二十七歳と二十一歳そして十七歳のルツ子を加えれば三人の女性で、「われは一時に三人の子を失いしなり」という耐えがたい心痛が彼の心を占領した(「同文」)。  三年の後に、悲嘆をこりこえた彼は一論文を公にした。一読して明瞭なことは、人生にとって大切なことは来世であり、来世こそが実体の世界である、という論究に情熱を傾けていたことである。  「われらは今世において永遠の来世の投射図を見るのであります。…そうして薄き幕一枚が、今世を来世より分かつのであります。幕のかなたに、永遠の真実の来世があるのであります。…永遠の来世が確実になるに至りまして、価値のない今世に真個の価値が付いて来るのであります。…まことに来世に存在の根拠を置かずして今世は全然無意味であります」(「福音と来世」1915・大正4年5月)。  この文章が示唆しているポイントは、永遠の世界をめざして地上の生を歩むという点にある。今生と来世を隔てるのはわずか「薄き幕一枚」だという表現、この文章は、読者へ語られているだけでなく、内村個人へ投げられている言葉といえるだろう。  「福音と来世」以前に発表した短文「キリストの来世観」(1908・明治41年12月10日)は、現世と来世は分離したものではなく連結しているとある。彼は娘の死でこの内容を意識していたかもしれない。この時期の内村が、来世や死後のこと、また復活の思索に真正面から取り組むようになったきっかけが、わが子の死につながっていることは間違いない。  一つのエピソードがある。内村の聖書集会に加わって間もない学生の矢内原忠雄が、ルツ子の葬儀に参席した。棺を前にした内村が、一握りの土をつかんで空高く差し上げ、「ルツ子さん、万歳!」と叫んだ鮮烈な情景を、矢内原は回想記『続余の尊敬する人物』に活写している。矢内原は、このときを境により真剣にキリスト教に取り組むようになったという。  それからの内村は、ルツ子と一緒に過ごした懐かしい思い出が折に触れよみがえり、五年たち十年たっても決してしぼむことのない記憶となった。    われらの希望  宗教的理想に情熱を打ちこむ内村にとって、再臨信仰はその信仰の熱気が最高に昂進したことはいうまでもない。日露戦争が始まった一九〇四年に「聖書にいわゆる希望」の文がある。日本中に愛国精神が渦巻く中、欧米からもたらされたキリスト教の伝道は不振にあえいでいた。そうした中にあってさえ、内村は「希望」という一語によって、信仰的情念を未来につないでいた。  ルツ子の死はそうした理想主義者に新境地とひらめきをもたらしたのである。彼女の死の直後に発表した小論は、神の国を地上にきたらせたまえ、と哀切きわまりない言葉でうづめられていた。彼は、永世の国に娘がいるのなら、その世界をぜひとも体感してみたいという思いにつまされていた。彼は述べる。  「この地は元より汚れたる所ではない。人類の犯したる罪のゆえに、のろわれたる所たるにとどまる。その罪にして除かれんか、この地はまことに神の造りたまいし楽園である。悲惨とは、楽園たるべきこの地が涙の谷と化したることである。ゆえに希望とは、この地が元の楽園に化し、聖徒がその中に聖き義しき生涯を送らんことである」(「われらの希望」1912・明治45年1月)。  地上が悪なのは人間に罪があるからで、人間の罪悪によって地が呪われてしまったのである。人間の罪の一切が消え去れば、地上はそのままで天国になるという熱烈な切望感である。彼の想念はさらにふくらみ、楽園と天国が渾然一体化した情景を熱っぽく描き出した。すなわち、彼にとって身もだえしながら渇望する世界とは、地上天国のことに他ならない。  「天国はこの地以外に求むるに及ばない。その中より罪を除いて、この地は天国であるのである。しかしてキリストの再来といい、信者の復活といい、万物の復興といい、みな地上における天国の建設に伴う事柄であるのである。この最美なる地球は、一たび完全なる聖徒のすみかとなるまでは消え失せないのである」 (「同文」)。  天国と永遠の世界への憧憬と希求、思いのたけを吐き出した抒情的響きは、息を呑むほどの誌的な美しさである。  「ああ、さらばわが愛する山よ、愛する川よ、愛する国よ、愛する家よ、われらは死して永久になんじと別るるのではない。われらは再びなんじと相会するのである。…その時にはまた死あらず、悲しみ嘆き痛み、あることなしである。涙をぬぐわれて山を見て、山はいかに美くしあるであろう。痛みなき心をもってながめて、海はいかにうるわしくあるであろう。しかしてその時のわが国はいかに美しくあるであろう。真個の愛国者のみ、その中にあるであろう。その時においてこそ、初めて真個の神国をこの国において見るのであろう」(「同文」)。  ここに顕現する光景は、山や川や国土のすべてが愛の邂逅によって輝きわたる壮麗な神の国の様相であり、この愛すべき地に、ルツ子は確実にいるのである。    復活と来世  『復活と来世』は、娘の死から再臨回心までを含めた論考集である。  「この書は過去数年間、余が死について考え、またこれについて人を慰めんとして語りし言をあつめてつくりしものである。もし死を慰むるの一助となるを得ば幸いである」(「復活と来世」(1917・大正6年8月)。  ゆかりある人の死を悼む慰めのためとあり、ルツ子の名はないものの、彼女をも含んでの論文集と理解したほうがわかりやすいだろう。題名は「祝すべき死」「未来の裁判」「復活とその状態」「いかにして復活するか」そして、再臨回心後の「われらは来世についていくばくを示されしか」を加えた五部作からなっている。発表順にみると題材は未来の審判、イエス・キリストの復活、クリスチャンの復活、復活体という流れとなり、論文全体の中心的考察は、人間の復活と救済に集約されている。  さらにキリストとの関係も模索しているが、復活や救いを釈義的に解説したものではない。内村が教えた贖罪論と同じように伝統的な福音派の観点から論考したた論文である。  ところで娘の死に直面した段階で、内村はどの程度に復活や永遠の世界に接してていたのだろうか、という事柄に興味がわく。四年間、復活と救済のテーマを追い求めたことにどなん意味があったのであろうか。それはともかく、神とキリストに属する人間の死を聖書観に照らしあわせつつ、そのことがどのような効果をもたらすのかを熟慮し、彼の信仰と思想を深化させる期間となったことは確かであろう。  たとえば、論文集の「復活とその状態」や「いかにして復活するか」は、復活のキリストを根底にすえた復活や永世を深く掘り下げた思索である。ねばり強い彼の努力は、十字架上から復活したキリストの意義を再確認し、復活の普遍性をより本質的にとらえることになったといえる。  そうした延長線上に劇的な再臨回心があったのである。さらに加えて、再臨以降になると、復活と再臨の関係性を本格的に取り組むことになる。    彼方に天国を望見  再臨運動を進めているさ中、壇上にのぼった内村は次のように語っている。  「余はキリストの再臨を信じて、死の苦痛を根本的に癒やされた。…安心立命とはこの事をいうのである。この確実なる信仰なくして、宗教は有って無きがごときものである。ああ未来は 暗黒ではない。光明である。再会は疑問ではない。確実である。わが祈祷が聞かれずして、われよりもぎ取られしわが愛する者、われは彼らを永久に失うたのではない。再会の日は定められたのである」(「キリスト再臨を信ずるより来たりし余の思想上の変化」1918・大正7年12月)  文中にある「われよりもぎ取られしわが愛する者」の一人に愛娘がいるのは疑う余地はない。それから一カ月後がルツ子の命日であったのである。年ごとにめぐってくるこの日を、「ルツ子デー」とし格別に追憶していた。遺影に花を供え、万感の思いにひたる彼があった。日記文には、多忙な再臨運動の間も、胸中にあるものがはっきりとつづられている。それはまぎれもなくルツ子への熱い思慕であった。  「ルツコ決別の第八年である。美しき花輪を贖い、彼女の肖像を飾った。朝より幾たびか胸が一ぱいになった。しかし彼女の逝きしは善きことであった。これありしがゆえに、われらに再臨の信仰が起こり、自分も覚め、他人もまた醒めたのである。今になりて考えて、彼女の十八年の生涯の意味慎重なるものなりしことが明白にわかる。しかし生みの父母にとりては値い高き犠牲であった」(「日記」1919・大正8年1月12日)。  彼女を葬り去った運命と内村家の悲劇。しかし、彼はそれを単なる感傷とも不慮の事故ともとらえなかった。「これありしがゆえに、われらに再臨の信仰が起こり、自分も覚め、他人もまた醒めたのである」という感慨が読者の心を打つ。  人間の一生には、ある重要な一事をなすために思いがけない犠牲の伴うことがあるかと思う。内村の生涯にそれを引き合わせると、再臨がそれであったといえる。娘の生命とひきかえに再臨信仰を獲得したという自覚が彼にはあった。  彼はルツ子の面影を抱きながら再臨講演の会場に臨み、自己の魂を励ましていたわけである。わが子の死は再臨信仰をつかみとるための「意味慎重」な供え物・犠牲であり、「善きこと」であったと、澄みわたる心境をつづっていたのである。そしてルツ子の死が、再臨信仰という深遠な天恵を、内村の信仰の世界にもたらしたのである。彼はその彼方に、輝きわたる神の国を望見していた。  17 再臨運動と大正時代  「大義の国」へ   日本に対して正義の国家であってほしいと願望していた内村は、大正時代をどうとらえていたのか。端的にいえば、大正を迎えるまでの半世紀は、旧体制の瓦解と新国家の成立という激動期であった。そして、日清・日露の戦争の危機をのり越えながら、日本は近代国家の体裁を整備していったのである。  新生日本がアジアの諸国に食指を伸ばしたのは明治中期のことである。それは弱肉強食が幅を利かせていた帝国主義が世界中を跋扈していた時期の行動といえる。その間、日本を開国に導いたアメリカとの関係はかならずしも友好的とはいえなかった。アメリカ本土では、早くから日本人移民の排斥運動が芽生えていた。  外面的にいえば、日本人移民が、アメリカ人から仕事を奪っているという理由があげられるが、その根底には黄色人種に対する差別意識が色濃くあった。内村も在米中、ジャップ、ジャップと蔑まれた経験を記録している。  大正時代の世界の趨勢をみると、アジア大陸では、大正初めに清朝の滅亡と中華民国の誕生があった。第一次大戦中の一九一七年(大正六)にはロシア革命が勃発した。世界で最初の社会主義国家が出現したのである。これに刺激されて、各国の民衆は過激な政治運動に走り、日本でも社会主義運動や労働運動が盛んになった。  スペイン風邪が世界中で猛威を振るったのも大正のことである。二千万人以上が病没し、日本だけでも十五万人の犠牲者が出た。内村の再臨運動は、こうした大激動・大変動の数々を目の当たりにし、そうした危機意識から顕現した「真理の直撃」ととらえることもできるだろう。  一九一二年(明治四十五)末、明治天皇が六十三歳で崩御し、元号は明治から大正に改められた。大正元年十月、内村は「明治と大正」という小文に新時代への抱負を力強く語っている。  「明治、これをとけば文明の治世である。しかしてわが国の場合においては、文明は泰西の文明であった。主としてその物質的文明であった。物質的に日本を欧化することが明治の事業であった。しかして日本は著しくその事業において成功した」(「同文」)  と一定の評価を与えた上で、物質的な成功だけでは不均衡であり、あるべき真の国家の姿に近づかなければならないと提案している。  「…物資的文明だけでは国は立たない。殖産と、工業と、軍備と、法律との下には、強き道義がなくてはならない。大正、これをとけば大なる正義である。そうして明治の後に来たりし大正の時代において、日本人は正義の建設に従事すべきである」(同文)  ここでいう「道義」や「正義」の国とは、豊かな精神性の充溢した内的に富める国のことである。その際、「正義の建設」にふさわしい人々として思い描いたのは、ルターやカント、ミルトン、バニヤンといった宗教・思想・芸術界で活躍した精神的偉人たちであった。政治家や軍人はだれも挙げられていない。正義の実現という点に関していえば、内村はすでに、作品『代表的日本人』の中で明治国家にそれがなければならないと訴えていた。それだけに、大正の新時代にあっては、今度こそ、「大義の国家」の建設がなされるべきという格別な期待をもっていたのである。  翌年には小作品『デンマルク国の話』を発刊した。サブタイトルは「信仰と樹木とをもって国を救いし話」とあり、これは戦争に敗れた小国デンマークが、植樹活動によって国家の再建に成功した実話を素材にした著述である。国家の繁栄は、軍事力に頼らなくても方法・手段はいくらでもあると、日本国民に訴えているのである。  さらに大正末の文中にも、義の国家の建設を懇願する心性が一貫して記述されている。  「日本を世界第一の国となさんと欲するのが私の祈願であるが、しかしながら武力をもって世界を統御し金力をもってこれを支配せんと欲するがごとき祈願は私の心に起こらない。私は日本を正義において世界第一の国となさんと欲する。『義は国を高くし、罪は民を辱かしむ』とあるがごとくに、私は日本が義をもって起ち、義をもって世界を率いんことを欲する」(「私の愛国心について」1926・大正15年)  大正デモクラシー  世界大戦は一九一八年(大正八)、大正時代の中期に終結した。戦後処理のベルサイユ講話条約が締結された翌年には世界の平和を志向する国際連盟が発足した。  ヨーロッパ中心部を戦場とした大戦の反省と反動から、民主主義や平和主義を希求する世界的潮流が急速に動き出した。人々は長い戦争に疲れ切り平和の到来を心から渇望していたのである。  日本は国際連盟の常任理事国に、そして新渡戸稲造は事務局次長に選任される。いつのまにか日本は世界の五大国の一つに数えられるようになった。日英同盟の関係で参戦した日本は、ほとんど無傷のまま大国の肩書きを獲得した。富国強兵を国是としていた国が、欧米列強の仲間入りを果たしたことで、国民が狂喜陶酔したことはいうまでもない。 さて、世界大戦の勃発によって日本が通過した時代的状況を概観しておきたい。戦争の長期化は、結果として戦争特需につながった。すなわち好景気が日本に到来し、社会の構造的変化も促進されていった。  ヨーロッパで戦争が継続している期間、各国から莫大な戦時物資の注文が日本にあいついだのである。それゆえ、日露戦争後の慢性的な財政難にあえいでいた国家は、またたくまに債権国の道をたどりはじめた。それを具体的に示せば、繊維製品や船舶・製鉄などの輸出が急進し、産業と経済界の躍進には著しいものがあった。特需の効果は、たとえば、日本を世界三位の造船量へ押し上げたことでも了解できる。人々は、各種産業の急成長に伴い、労働力の需要に応えるために大企業の集中する都会へと流入していった。  この時期には、成金という言葉が流行語となった。船成金や米成金、繊維成金、鉱山成金、株成金などといった多様な成金が社会の話題をさらった。上昇する景気の波は人々の消費意欲をいやがうえにも刺激し、貨幣経済の発達につながった。この勢いは、東京や大阪などの都会で暮らす人々、労働者、知識人、青年たちをとりこんでゆく。やがて開放的で華やかなムードを下地に、多彩な文化現象や享楽的な風俗が大正の社会に登場してくるのである。いわゆる大正デモクラシーの胚胎である。  大戦中の一九一六年(大正五)一月、吉野作造の論文が「中央公論」に連載された。それが大正デモクラシーをリードする理論的根拠とされたのである。吉野は自由主義神学を信奉するクリスチャンである。この論文でデモクラシーを「民本主義」と訳した彼は、明治以来、内閣が藩閥で固められている体制を批判し、護憲運動を展開した。天皇を主権者とする明治憲法の下では、国民は民主主義の直接的主権者とはなりえないという理由から、民本主義の用語を採用したわけである。  政党内閣や普通選挙制度の実現を掲げた吉野の論文は、国民と言論界から大きな支持を得、民主化をめざすさまざまな運動、たとえば、社会運動、労働運動、農民運動、教育運動、女性解放運動をたばねながら、思想、言論、文化、芸術、教育、科学などはば広く時代の潮流を形成していった。このように民主的で自由な気風に彩色された運動の総称が、のちに「大正デモクラシー」といわれるようになったのである。  大正は、明治の富国強兵の緊張感が一時的に緩んだ時代である。近代化は加速され、都会を中心に電灯やガスや鉄道といったインフラの整備が進められた。東京では三越などの百貨店が新築され、映画や演劇、新劇など大衆芸能の進出があり、文化活動にあっては文芸、絵画、音楽などが盛んになった。出版ブームも興り多数の雑誌が創刊された。それらを貪欲に吸収したのは急激に増加した読書人口であった。  まさに大正時代は、文明のソフトの隆盛の時期に合致していた。あらゆる階層を包含する大衆社会を誕生させたのである。近代文明論を論ずるときに内村が話題にした近代人とは、このような社会の主役として正面にたち現れた、合理精神をモットーとする新タイプの人間、すなわち、近代的な知識人のことであった。  民主化や自由を求める近代人は、第一に自我の拡張を重視した。個人主義を掲げる一群には、平塚雷鳥の「青鞜」のグループのように、儒教的家の束縛からの解放を唱える新しい女性群像もあった。白樺派は、自我の全面的な伸長による楽観的な人生観に支えられていた。彼らの近代的教養と都会的センスにつつまれた作風は、大正文壇を華やかなものとした。武者小路実篤が主導した「新しき村運動」などは、大正の時代的エネルギーの突出といえようか。  旧制高校生やインテリ青年たちの間では、世界の教養を身につけ人格の陶冶に励もうとの自意識が高まった。彼らの必読書となった『三太郎の日記』『古寺巡礼』『愛と認識との出発』『善の研究』などは、いずれも個の覚醒を目指した人生観や近代的感覚につつまれている。  ところで、こうした近代人や知識人の生き方や有り様に、懐疑の視線を注いでいたのが内村であった。神に立脚する人生が彼の堅持する道であったから、近代人が頼みとする人間中心の自我とは正反対の立場にあった。彼は、ルネサンス以降、神から遠く離れてしまった近代社会に、神中心の個の観念と人生観を定着させることに腐心したのである。  神中心の自我確立を  日本資本主義の黎明期にあたる大正時代を鳥瞰すれば、激動と混乱と無秩序とが逆巻き、文明の明と暗、光と闇の両極がきわだつ時代であったと分析できる。戦争がもたらした景気は、一過性の現象であったといわざるをえない。堅固な資本主義の基盤を確定するには至らなかったのである。逆に、近代化の負の側面・暗い部分があからさまになってくる。すなわち、一見華やかな装いをした大正デモクラシーは、流動する国際情勢の影響から発生したもので、堅実な社会の成長を通じて築かれたものではなかったということになる。  富山で米騒動が起きたのは、吉野作造の論文の発表の二年後、一九一八年(大正七)である。戦争の好景気は物価の上昇をもたらした。家賃の値上がりは都会の労働者を苦しめ、生活物資の高騰は暮らしを重く圧迫した。なかでも米価の急騰はすさまじく、いやがうえにも社会不安を募らせた。  翌年になると、本格的な労働組合・友愛会や教員組合の結成があった。また、富める者と貧しい者との格差が拡大した。都会では賃上げを要求する労働争議やストライキが頻発し、農村部でも小作争議が起きた。争議の件数は、内村が再臨運動に乗り出す一九一八年(大正七)から翌年にかけて記録的な数字を残している。一九二〇年(大正九)には、日本最初のメーデーが上野公園で執り行われた。一方、死の病と怖れられた結核がある。結核は、近代的な繊維工場で働く女性工員の職業病として全国に蔓延した。近代社会に出現したこの病は、長く死亡原因のトップを占めたのである。  さて意外と思えるのは、内村がデモクラシーに批判的であった点である。しかもその論難は、世界に向けても発信され、一九二〇年(大正九)四月の英文評論「Democracy and Christ(デモクラシーとキリスト)」は、「デモクラシーでは世界は救済されない」と断定的に述べている。  イギリスのベンサムは「最大多数の最大幸福」という尺度で民主主義を唱えたが、この原理を彼はあまり評価していない。何事も多数の力で決定しようとするシステムと、それを支える近代人に対して明らかに懐疑的であった。  日露戦争を境として、内村は帝国主義的な政策に反対であった。さらに、軍国主義や国家主義など、個人の独立と自由を束縛するいかなる主義にもくみしない立場を護持した。民主主義にも肯定しがたい気持ちが働いていたのである。  民主主義が健全に機能するためには、社会を構成する人間の道義的責任や義務の観念が不可欠であろう。そして、それは個々人の意志に委ねられている。国民に社会の一員としての自覚が薄いと、自己の利益や幸福に傾きすぎて利己主義に陥るおそれもある。要するに、制度としての民主主義はさまざまなもろさや欠陥を内包しているわけである。  内村が強調したことは神中心の自我のことであった。彼が民主主義を論ずる根底には、人間中心の近代的人生観と神に基づく宗教的人生観の区別が明確になされていた。その志向する自我は、神とキリストに自分を委ねきった場から出発し、この基軸が、民主主義の欠点をカバーできると考えていたのである。  自分の言動に責任をとる人間は、よく己を律し、かつ独立・自由の人格を所有できると彼はいう。それを「真正の自我」と呼んだ。このように真の自我の覚醒がない限り、民主主義に信をおくことはできないというのが彼の主張である。  「多数によらざれば事なすあたわずと言う。しかり、多数によらざれば議会に勢力を振るうあたわず。選ばれて教会の監督たるあたわず。法律を出すあたわず。教義を定むるあたわず。世には多数によらずしてなすあたわざる事少なからず。…多数、多数、多数と」(「多数と単独」1908・明治41年2月)  この一文には、多数に対抗する強烈な一個の意識がうちだされている。文章の末尾に、「今のキリスト信者は、多数の奴隷となりつつあり」と、多数に寄りかかる信者の甘い姿勢を辛辣に批判している。  デモクラシーに関する認識をさらに深めるには、内村の救済の構造を知らなければならない。それは個人的キリスト教といわれ、自認もしていた無教会の教えの基礎でもある。集団の強さと弱さ、恐さまで洞察していた彼は、デモクラシーの多数決原理に対して、個のあり方を執拗に思索した。その持論に従えば、自己中心的意識にとりつかれている限り、心の平安はありえないのである。  内村の贖罪観は、古い自分中心の自我を覆して神とキリストに全てを任せれば、そこから新しい自己が蘇生するとするものである。彼が少数の伝道に情熱を注いだのは、その信仰観が、集団よりも個により深い意味をおいていたからに他ならない。  しかし誤解してならないことは、集団や社会との隔絶を図ったわけではない。個を出発点として、社会や国家・世界とのかかわりを深く熟考したのが彼であった。責任と義務の観念にしっかりたった個人が定立すれば、次に健全な家庭が成り立ち、さらに民族や国家、世界への救済が見えてくるという論法なのである。  民主主義は全能ではない。限界と欠点があるとする観点は、彼の社会思想を考えるうえで重要なポイントである。次の日記文は、大正の政治的風潮を念頭にした言葉である。彼はいう。自我意識の定かでない社会で、はたして理想的な選挙はありうるだろうかと。さらに「個人の権利の重んぜられないところに普通選挙はおこなわれない」と明言した。  「普通選挙が叫ばるるのは個人主義をして国家主義または家族主義にかわらしめよとの意思にいづるのである。個人の権利の重んぜられないところに普通選挙はおこなわれない。…個人の権利の中に最も尊きは信仰の権利である。たとえ国家たり、または家族たりとも、その信仰を個人のうえに課するあたわずというのが自由主義の根本である」(「日記」1920年・大正9年2月24日)  内村の言葉を待つまでもなく、大正デモクラシーたけなわの社会で、民衆の声がどれほど為政者に届いたであろうか。否、為政者のいかほどが民主主義の本質を理解し実践していたであろうか。大正の政治世界の実状は、民衆不在の派閥政争に終始し、民主的議論が十分でなかったといえなくもない。内村の慧眼はその点を鋭くついているといえる。  大正時代の終焉  大正の新時代から受けた内村の危機意識は、物質を中心にする国家や人間のあり方に集中していた。大正の資本主義経済の進捗は、人間の価値観を金銭中心に変えた。それはなにごともまず国が第一、とした明治人の気概とは大違いであった。彼がデモクラシーを積極的に容認できなかったのは、自由を謳歌する中で、放縦で無責任な人生観が広がっていったからである。さらにくわえるならば、こうした利己的で欲望のおもむくままに行動する生というものが、欧米の物質文明の導入によりもたらされたという確信が彼にあったのである。  神により創造された人間には生まれながらの責任観念が既得されている、というのが内村の根本的な人間観である。そうした彼が、自由をはきちがえて自己喧伝する人々の言いぐさなどを認めるはずはない。  これまで述べてきた本稿の結論として、再臨運動の背景には、大正をとおして生み出された時代的な諸相が大きくからんでいることがわかるであろう。  大正時代は意外な短さで終息した。二十年にもみたないこの時代の終焉を、文芸史では、文壇の寵児芥川龍之介の自殺をもって区切りとしている。かねてから内村が予想していたように、過熱した喧噪とデモクラシーの落日も忍び足でやってきた。  内村が関心をもったデモクラシーや自我の問題は、今日的なテーマであることはいうまでもない。健全な市民社会の建設には、「真正の自我」と彼が指摘したように、主体的な人格の確立がなによりも要請されるのである。  18 再臨奔流  世界大戦が勃発  二十世紀は戦争と革命の世紀であった。内村はその幕開けともいうべき史上初の世界戦争の衝撃の中から、再臨信仰の光を見いだした。彼が再臨運動に立ち上がった直接の原因は第一次世界大戦にあったといわれている。厳密には、アメリカの参戦が契機となった。  一九一四年(大正三)に勃発した第一次大戦の規模と形態は、それまでの戦争のイメージを完全にくつがえした。連合国側と同盟国側に分かれ、三十カ国以上を巻き込んだ未曾有の大戦争で際立っていた点は、イギリス、ドイツ、イタリア、フランスなどのキリスト教国家の多さである。  この戦争を欧州戦争と呼ぶのは、主戦場が中部ヨーロッパだったからだが、戦いは四年以上に及び、戦線は中東、東アジア、アフリカ、太平洋へと拡大した。両陣営は、飛行機、戦車、潜水艦、毒ガスなどの近代的殺戮兵器を次々に投入し、その爪痕は凄惨であった。八百万人もの死傷者を出し、壮絶な攻防戦で都市は廃墟と化した。戦争は、文明人と自負するキリスト教の人々が築き上げた文明の栄華を徹底的に破壊し、人の心までも変えたのである。  大戦前、ダーウィンの進化論が自然科学だけでなく社会や文明にも大きな影響を与えていた。内村の考えにも、人類の平和は文明の推移によって実現するという明るい一面があった。単純にいえば文明や人類への信頼感であろう。ところが予想に反して、戦争は終息するどころか、全面戦争の様相を呈してきた。戦争が膠着状態となり、連合国と同盟国のいずれが勝利するかは誰にも分からなかった。  戦争勃発から四カ月後、内村は「欧州の戦乱とキリスト教」というテーマで講演している。  「ドイツも英国も、その他の欧州諸国も、みな神を信ずると称しながら、明らかに神の律法にそむき、聖書をあざけり、キリストを度外視して、公然と神をあなどりきたったのである。…戦争は刑罰である。そして刑罰は懲らしめである。今回の大戦争は愛の神が欧州人を再び天の光に導かんとして降し給える恩恵のムチである」(「同文」1914・大正3年11月)  帰結は、キリスト教国家は滅んでも、真のキリスト教は滅びないという点であった。翌年の一文、「戦争の止むとき」は預言者イザヤの平和思想をひき、神の名を唱えない民主政治では平和は勝ち取れないと論じている。この年に再臨回心があったのである。  大戦の主戦場はヨーロッパであり、遠く離れた日本には戦争景気が到来した。戦闘がヨーロッパを駆け巡っている間、安逸なムードが日本社会に広がっていったのである。一方、透徹した彼の眼は欧州の大戦に向けられ、キリスト教会の動きと国内の人々を凝視していた。内村は愛敵の精神を声高に叫んでいたキリスト教会が戦争が勃発した途端、自国のために勝利を祈り敵国を呪う背信的行為に対して怒りをこめて糾弾した。  再臨回心  内村の通過してきた心の苦渋を知ることから、彼が到達した再臨運動の性格や再臨信仰の本質を正しくとらえることができると思う。キリスト教の教えをさまざまに説き語ってきた彼に、再臨を信仰として覚醒させたのは一九一六年(大正五)、友人ベルから送られてきた一冊の雑誌であった。日記や書簡、講演によれば、この年の夏に再臨信仰を獲得したことがわかる。したがって、ルツ子の死からの四年間は、再臨が封印され、再臨開眼がなされるまでの真空地帯であったといえるだろう。  さらにこの信仰を自覚する以前には、内外の二つの問題と苦闘していたとの表白がある。まずこの点を検証してみよう。第一の問題は世界大戦である。戦争勃発後の「数日間は、余の信仰に関する大なる試練の時であった」と悲壮感を露わにしている。「聖書研究者の立場より見たるキリストの再来」は、再臨運動に立ち上がったときの最初の講演であった。それまでの彼の心境が、長びく戦争に対する悲痛さで鬱積していたことを聴衆に向かって率直に語っている。  「イエス・キリストを信ずる者にとりては、世界の苦痛はイエスの苦痛であって、またわが苦痛である。幾億の同胞が戦争の渦中に苦しみつつある世界の原状は、真正のキリスト信者の心を昼となく夜となく悩ましむる大問題である」(「同文」1918・大正7年1月6日」)  いくら思いをめぐらしても戦争の解決策は見いだせず、重い焦燥感が魂を押さえつけていただけに、再臨信仰の獲得によって、人類の平和はひとえにキリストの再臨にかかっているとの絶対的な確信が伝わってくる内容である。  次に聖書の研鑽にそそいできた人生を回顧している。  「じらい余は聖書の研究をもって余の『天職』となし、(アメリカからの)帰国後、今日に至るまで、余の全力を傾注してこの事に当たりつつあるのである。余が最後の一円をなげうつまで排する能わざるもっとも完全なる仕事は、これを置いてほかにないのである」(「同文」)  彼にとって聖書は、まさしく真理の書で、人間の魂を救済する神の福音そのものであったのである。ところが、天職となった聖書研究の道程は決して順調なものではなかった。驚かされることは、「聖書の考究から苦悶が生じた」という告白で、真理の一粒一粒を選びとる作業に熱中するさ中、聖書の厚い壁が立ちはだかったのである。これが第二の煩悶となった。  彼が逢着したこの二番目の閉塞状態は、一年や二年のことではない。何十年もの間、回答の得られない苦痛が続いた。おそらく手つかずの事項として、予定論や再臨論があったろう。そして、聖書は謎の書物のままで終わってしまうのだろうかという挫折感が執拗に湧き上がってき、『聖書之研究』の廃刊まで思いめぐらしていたことがあったのである。  このように、再臨回心までの彼は、世界平和と聖書問題の二つの難問を抱え込み、「死ぬほどの苦痛」と「絶望の深淵」に追い込まれていたわけである。それでは、回心を体験した結果、いかなる新しい世界が開けたのであろうか。  出口のない迷路で逡巡しているところに、天啓が臨んだ。憔悴しきっていた心霊に光がさしこんだのは、一九一六年(大正五)夏であることは既に触れている。宗教雑誌「サンデー・スクール・タイムズ」(The Sunday School Times )を読むことで再臨の熱い思いが忽然と湧き出したという。  彼は以前からこの雑誌の購読をしていたが、あまりにも熱狂的な内容に閉口し、この時分には読まないでいたのである。ところが運命のこの日、なにげなくページをくくっていたところ、再臨論文の巻頭文にくぎづけとなった。それは「キリストの再臨ははたして実際的問題ならざるか」というテーマで、世界の平和と改善は再臨によってなされるという趣旨であった。読み進むうちに、全身が感動と興奮の渦で熱くなったというのである。  「しかしてこれを読んで余は驚喜した。余の人生問題、宗教問題、世界問題は再臨の信仰によってことごとく解決することのできることを知ったのである」(「再臨信仰の実験」1918・大正7年11月10日)  ここには手放しの喜びようが証しされている。あたかも砂漠でさ迷う旅人が、一口の水でみるまに蘇生したとでもいおうか。無上の感激と陶酔感に包まれ、これまでの信仰生活で至高の体験をしたのである。彼の心は一気に解き放たれ、人類の未来に大いなる希望と活路を見いだすことができたのである。  内村の心を「驚喜」で占領した本源の力は、後に弟子に語ったところによると、「聖霊の賜物」であったという。聖霊の圧倒的な力が臨んだというのである。再臨の回心体験は、贖罪回心が理性的で静謐な性情であったのと対照的に、一回限りの劇的回心となったようである。  雑誌を再読してみると、再臨に間違いはなく、再臨をふまえて聖書を検証すると、聖書の難問が見事に解かれていった。鮮烈な興奮の冷めやらない中、内村は、いよいよキリストの再臨を強く確信するようになった。  それからの日々は、数限りなくひもといてきた聖書のテキストを裏づける作業、聖書全体を再臨を土台に徹底的に洗い直すことに費やされた。再臨信仰に固く立った次の一文では、「余輩の信仰はこの戦争によってうごかされない」と論断している。ヨーロッパのキリスト教には打撃になっても、再臨を信奉する者の信仰はいささかも揺るがないというのである。  「余輩ははじめより、ドイツ、英国、フランス、オーストリヤなどがキリスト教国であるとは信じてはいなかった。…余輩の信仰は今回の戦争によってこぼたれないのである。これによってこぼたれたるものは教会のキリスト教であって、聖書のキリスト教ではない。しかり聖書のキリスト教ではない。しかり聖書のキリスト教はこの戦争によってさらに固くたてられるのである」(「欧州戦争とキリスト教」1916・大正5年9月)  平和と聖書の二大問題が解決されてゆく心地よさ、かつ、実社会や国際問題における事柄に対して明快に回答をくだすことのできる爽快さに、彼の魂は高鳴った。  このときの体験こそ、自らが「新時期を画する大事件」(「キリスト再臨を信ずるより来たりし余の思想上の変化」1918・大正7年12月)と記載した第三回の回心、再臨信仰覚醒に関するあらましである。これ以降、彼は神の摂理の内奥へといっきに突入していったのである。    聖霊の恩恵で回心  再臨信仰は内村の究極の信仰となった。再臨への思いは自信に満ち、絶対的・確信的なものとなった。彼は語っている。  「人生の大幸福は、これがためにわが生命を捨てても惜しからずと思う主義または信仰を与えらるることである。しかして今や余にもこの恩恵が下ったように思われる」(「再臨信仰の実験」1919・大正8年1月)  想像をたくましくすれば、劇的回心のただ中で、彼は人類歴史の最奥で営まれてきた神の摂理の鼓動を感じる地点に立ったのかもしれない。  ここで、回心と聖霊との関係を検討しておこう。内村の回心で明白なことは、二回目と三回目の回心に至るまでに、それぞれ重い心の十字架を背負っていた事実である。彼が贖罪や再臨信仰に到達したのは、聖霊の恩恵を受けた結果といえる。  贖罪の回心は、内村が苦悩の絶頂にいたとき、聖霊の働きでもたらされたものであった。再臨信仰も長年の霊魂の苦悶を通過した末に、聖霊の働きで劇的な回心につながったのである。とくに再臨回心は、まちがいなく特別な意味を与えたであろう。愛娘ルツ子の死を犠牲に再臨につながったという実感が彼にあった。回心と苦難、犠牲は強く連携していたといえる。そのことは、苦難や犠牲を試練の言葉に言い換えると明瞭になってくるのである。信仰の世界では、ある恵みを受けるためにはそれに相応する試練があるということを意味する。神から一方的にもたらされる聖霊の作用も、人間が受ける試練によって呼び込まれることを暗示しているのである。  また、もう一つ感銘深い事柄がある。内村が再臨信仰に目覚めるまでの三十年間、ベルは一日たりとも祈祷を欠かさなかったという。アメリカの友人に対する深い感謝を、内村は、「余の信仰はまことに祈祷の産物である」(「同文」「友人の祈祷」1916・大正5年12月10日)と明記していた。  再臨の信仰を中枢に、世界大戦の最中、彼が再臨への熱い思いを多くの論文で預言的に発信していったのは必然的であった。一例を次に掲げておく。  「今や人と国とに希望は絶えて、神を待ち望むべき時が来た。人の窮地が神の機会である。天国はすでに近づけりとは今のことである。人の子のしるし、天に現わる。欧州の戦乱、米国の堕落、これ、あけぼのの前の真暗である」(「時のしるし」1916・大正5年11月)  アメリカが参戦  あけて一九一七年(大正六)の春、朝鮮基督教青年会主催による内村の講演がなされた。  「キリスト・イエスにありて、日本人も、朝鮮人も、シナ人も、英国人も、ドイツも、オーストリア人も、露国人も、一体、しかり、一人であるのである。…これを除いて他に世界平和の道はないのである。そして神の供えたまいしこの道を取るまでは、世界に闘争は絶えないのである。…目前におこなわるる悲惨の戦争は、人類がこの道を取らざる必然の結果として生じ来たりしものである。人はキリストにありて相和らぐまでは、兄弟なお仇敵である。いわんや異邦人をや。いわんや異人種をや」(「相互の了解」1917・大正6年4月2日)  世界平和につながる手段がキリスト教とはしていないことが注目される。彼が強調したのはキリストという救世主、人類を平和へと導く特定の人物である。この人物を通して、恩讐関係にある日本・韓国の両民族や、戦争中の敵同士が一つになれることを訴えた。それは未来において再臨するというキリストである。  世界平和を説きながら、内村が戦争の終焉に一条の望みをつないでいたのはアメリカの存在であった。大戦が膠着状態の中、アメリカ一国だけは中立を守っていたのである。かつて日露戦争の終結に、アメリカが仲介役として活躍したことを意識していたのかもしれない。  ところが、青年たちへの平和と希望の講演からわずか四日後、アメリカが参戦に踏み切った。一縷の望みは一瞬のうちについえてしまったのである。大戦勃発以上に衝撃を受けた内村は覚悟をするしかなかった。再臨信仰を唱えそれを行動にうつすことである。  再臨運動を始動  再臨の信仰と教えは、無教会キリスト教に堅固な存在感をもって付け加えられた。苦しめ続けられた聖書の謎も解決し、平和への糸口も見えた。鬱積した拘束の縄目から解放された魂は、どれほど軽やかに飛翔したことであろうか。  ところで、再臨運動を開始する直前に、彼はある意志を心深く秘めていた。再臨回心で獲得した結実を、いつの日か公の場で訴えたいという願望である。一九一七年(大正六)「聖書之研究』誌十二月号に、「感謝のかずかず」という印象的な一篇が掲載されている。  「すべてが吉である。彼は神なる最大善を求め得て、彼の生命そのものが大吉となったのである。生きていること、そのことがすでに感謝の種である。そうして宇宙何ものも、この感謝を彼よりとり去ることはできない」  「今や世界の活動的中心が太平洋岸に移りつつあるこの時、神がわれらをもって第二の宗教改革を起こしたまわんことを祈る…」  ここでの「第二の宗教改革」とは、再臨運動にほかならない。同じころのベルへの書簡にも、再臨運動につながる興味ある出来事を記している。  「十月三十一日のルーテル講演会は大成功で、キリスト教青年会の大講堂は満員でした。聞くところによれば、この講堂始まって以来の最大、最良の聴衆であったとのことです。私はめったに講演せず、決して広告しませんが、しかし私が演説すれば、大聴衆を得ることは先ず間違いありません。古なじみの信頼する友人に申上げることですから、どうか少々の自慢をお許し願います」(「ベル宛書簡」1917・大正6年11月26日)  マルチン・ルターが宗教改革を起こしたのが一五一七年十月三十一日である。それから四百年目の記念の夕べに、内村は単独講演を試みたわけである。会場におもむく途中、何度も神に祈りながら集会の成功を期したという。  「神よ、願わくは今夜の集会をしてなんじの栄えをあらわさしめたまえ。これをもって恵みに充ちたるものたらしめたまえ。なんじ、もしこの願いを聞きたまわば、そは、なんじが余をして書斎を出でて市中の講壇に立たしめたまわんとの証微なることを信ず。余は謹んでその命に従わん」(「再臨信仰の実験」1918・大正7年11月10日)  内村が第二の宗教改革を願っていたことは間違いないだろう。要するに、この瞬間、再臨運動への内的な姿勢が文字通り固められた。神との約束をなんとしてでも果たさねばならないという使命感もこめながら。  再臨運動の火ぶたが切られたのは一九一八年(大正七)一月六日。会場は神田の東京基督教青年会館(現・東京YMCA)である。日本で初めての再臨運動の公開講演会の場に、内村と共に登壇したのは、日本ホーリネス教会牧師の中田重治と組合教会牧師の木村清松らであった。再臨待望の教派がホーリネスで、中田重治は日本ホーリネスの中心的指導者。組合教会は日本の有力なキリスト教会で、再臨運動は超教派的次元でもって開始されたのである。その時の心境を、ベルへ「キリストの顕れを慕う」「大希望」とつづっている。  「戦争を憎む心とともに彼(注・キリスト)の顕れを慕う心が私のすべての注意を奪っています。米国がこの戦争に参加したことに対する私のいうべからざる絶望こそ、私をついにこのキリスト教の大希望においやったのです」(「ベル宛書簡」1918・大正7年1月30日)  初日の大会は千二百人の聴衆でうまる大盛況であった。その後、公開講演は北海道から大阪、京都、神戸、岡山にまで及び、毎回、多数の人々を引き付けた。  内村の研究者は無教会主義の象徴を彼の預言性に見ようとする。そうした性向の、思想と信仰のうねりを最高度に極めたのが再臨運動であったといえる。内村本人も、人類歴史にクライマックスがあるとすれば、まさに再臨がそれであると述懐している。このとき内村五十八歳、人生の円熟期を迎えていた。  再臨唱導後、内村は、聖書研究の最大の仕事といわれるロマ書の研究に専心する。大正デモクラシーの華々しい時期に、信仰の頂点である 再臨唱導とロマ書の連続講義が行われたのは単なる偶然ではないだろう。  19 再臨論の展開  黙示的終末観  再臨信仰を獲得してからの内村は、再臨が聖書の最重要の教義であることを自覚し、その様態をさまざまな角度から考察した。その根底にあるのは、人類歴史の救済の完結が神により約束されているという確信的信仰である。まず聖書自体がキリストの再臨を有力に証明していると説く。再臨講演で全国を奔走している最中の一文で、再臨の教えは自己の主張ではなく、あくまでも「聖書の信仰である」と述べている。  「キリストの再臨は余輩の信仰ではない。聖書の信仰である。余輩はこれを高唱して、聖書の高唱するところを反響するにすぎない」(「聖書の証明」1918・大正7年5月)  この中で、新約聖書には四百十八カ所に再臨の記述があることから、一貫して流れている真理が再臨であると明示した。この考証に基づき、再臨は平和にかかわれば平和問題となり、社会とのかかわりでは社会問題となり、また人類史の観点からは歴史問題となり、自然界の改造という意味では宇宙的事件になるとした。  次に救いを基軸とすると、死からの解放、霊魂にかかわる救済問題に連なるとし、結局、再臨は神から下された至高な恩寵そのものと受けとめたのである。そして彼が最も関心を示したのは、再臨から派生する多様なテーマの核心部に、鍵となるキリストとその顕現をおくことである。次の短文は、それを端的に表記している。  「キリスト再臨は宇宙問題であり、人類問題であり、世界問題である。ゆえに万人に訴えてその注意を喚起すべき問題である」(「再臨の目的」1919・大正8年2月)  内村が再臨運動を公開の場で推し進めた背景には、教義を土台に熟考した認識があった。    再臨は最大の希望  再臨運動を唱える際、まずキリストの再臨そのものが最大の希望であることを訴えた。続いて、再臨が世界平和の実現と天国実現の希望になっていることを主張した。すなわち、国家と人類と歴史の未来をキリストの再臨に結びつけたのである。  聖書の研究方法もそうで、旧約と新約の両方が、キリストの来臨と再臨を記録した「約束の書」という共通の観念で貫かれていると解釈した。したがって、来るべき将来にかかわる現象を予示しているのが新約聖書ということになる。  「聖書の大意はこれである。すなわち『主来たりたまわん』とは旧約の主旨である。これと相対して『主再び来たりたまわん』とは新約の主旨である。『来たりたまわん』、『再び来たりたまわん』、これ聖書のキーノートである」(「聖書の大意」1918・大正7年11月)  元来、再臨信仰回心までの彼の終末観は、キリストの再臨とともに世の終末が到来するという教義に準じていた。明治時代に掲げた預言色の濃い評論を引用してみよう。  「この世は今や物質的に急速の進歩をなして、知らず知らずの間に主の再来を招きつつあるのである。われらはこの明白なる時の兆候を読み誤りてはならない」(「世ははたして進歩しつつあるか」1911・明治44年9月)  再臨があるかどうかは、「時の兆候」を慎重に見分けなければならないと考えていた。そして終末がくるとすれば、物質文明の進展と思想の成熟度からして、現代こそ「主の再来を招きつつある」時にふさわしいと発信していたのである。  すでに明治の末に、こうした終末観を提示していたから、再臨回心を経てからはなおさら聖書に約束されたことの成就、世の終わりと再臨が近いという逼迫感を抱くようになったのである。熱心な再臨待望論者へと変貌した彼は、『ロマ書の研究』で、原始キリスト教時代の信者は、再臨を熱望しながら信仰の火を燃え立たせていたと注解している。  世界大戦終結の前年の印象として内村は、「この大戦の終わるところはキリストの再臨か、しからずばこれに類するさいわいの到来である」(「預言者イザヤをして今日あらしめば」1917・大正6年8月)と、かなり高揚した調子で語っている。さらに、国際連盟発足三年後の「キリスト再臨の兆し」(1920・大正9年9月)になると、終末の確かさと再臨の時が迫っていると省察している。  この時期の国際社会の趨勢を振り返ってみよう。前年には韓半島と中国で独立運動や反日運動が勃発していた。共産主義インターナショナルがソ連で創立され、共産主義運動が世界へ拡散し国内にも影響が出てきた。スペイン風邪は、それ以前から世界中で猛威を振るっていた。その犠牲者は四千万人以上、日本でも十五万の死者が出ている。再臨運動に内村が取り組んだ一九一八年(大正七)には富山で米騒動が勃発、ストライキも頻発した。国際社会では各国からシベリヤへの出兵があった。世界は様々な問題や事件が錯綜し流動する、きわめて不安定な状況下にあったといえよう。  こうした推移の渦中で、内村は現代を終末と規定する三つの要点を挙げた。民主主義の発達、教会の腐敗、そしてイスラエルの再建である。なぜ民主主義なのか。神が摂理する歴史の最終段階に登場する現象が、人間中心の民主主義にほかならず、それを極端に推し進めた究極の思想が共産主義なのだという。つまり、これらの主義や思想の到来をもって終末期の一大特徴と考えたのである。彼の言葉によれば、人類は終末に至りついに神を否定する無神論を生み、無神的共産主義の胚胎が再臨の「前兆」であるととらえた。  第二点はキリスト教会の腐敗堕落である。無教会主義を立ち上げた彼が、既存のキリスト教と一線を画し批判的なスタンスをとったことは無論のことであった。国内の教会と共に、欧米世界の俗化した教会の実状を徹底的に排撃したわけである。注目すべきは、教会の淪落を嘆息しながらも、再臨信仰の基軸から、それを聖書に預言された避けられない終末現象と認識していた点である。  「彼ら(注・キリスト教会)は知らず知らずの間に聖書の預言を実現しつつあるのである。…世の光たる教会がやみとなり、暗黒その極に達して、しかる後に黎明は近づき、義の太陽はのぼるのである」(「キリスト再臨の兆」1920・大正9年9月10日)  三番目の要件はユダヤ国家の再興である。聖書には終末の現象としてユダヤの再建の預言が記されている。論文の発表された一九二〇年(大正九)には、大戦の敗戦国オスマントルコ帝国の領土分割が行われた。その結果、パレスチナ地域の管轄がイギリスに委ねられ、イギリスがユダヤ国家の再興を画策していたことから、一気にユダヤ国建国の機運が高まったのである。  イスラエルの独立宣言がなされたのは、その年から20年以上後の一九四八年(昭和二十三)だが、内村がユダヤ国回復を信じるだけの環境が整っていた。『ロマ書の研究』には、押し迫る終末現象を緊迫感を込めて語っている箇所がある。  「世の終わりを信ずるははたして迷愚であるか。今や世は終末に近づきつつありとは識者をもってせずしても何となく感ぜらるることではないか。世界の荒乱、全世界に満つる陰暗な空気、すべてのものが病的に過度におちいれるごとき現状、いかなる放恣邪行も何かの美名をもって是認せらるる今日―このすべてははたして終末の予感を人に与えないであろうか」(『同書』)  ここからうける感触は、信仰で固められた再臨の確信である。歴史に終末が到来するという情念は、再臨を信奉する過程で高められたといえよう。根拠はないが、このような信仰的高まりの中で、「再臨の信仰と聖書無謬説、これ同一の信仰の両面にすぎない」(「再臨の信仰と聖書」1918・大正7年10月)という聖書の無謬性が唱えられたのかもしれない。というのは、聖書無謬などの発言から、彼が文字通りに聖書を信じるようになったと見る人々が出てきたからである。  しかし、内村が聖書無謬説者となったと判断するのは乱暴すぎる。なぜなら、矛盾の人といわれた内村らしく、聖書の黙示的終末をそのままには受け止めていなかった。熱心な再臨論者ではあるが、奇跡現象を歓迎したり奇跡に熱狂する人ではなかった。  確かに矛盾であり、彼の言行は不可解ではあるが、この問題を説明できるヒントがないわけではない。聖書の言葉や真理の究明に当たって、多様な視点からアプローチを試みるのが彼の基本精神であった。したがって、異なる角度の思索によって違う内容がもたらされることもある。  「世の終末である。その破壊でない。神はご自身が造りたまいしものをさげすみたまわない。世の終末は『死と陰府(よみ)と火の池』とではない。『新しき天と新しき地』とである。罪人の存在を許さざる正義の世界である」(『ロマ書の研究』)  この引用文の重要なところは、物理的な災害を容認していない点である。もう一節を読みこんでみよう。  「世の終末とよ! しかり、その時は、今まで貴ばれしものがすべて卑しきものとなり、今まで卑しまれしものがすべて貴くなる時である。しかり、価値転倒の時、これすなわち世の終わりである。その時は、人の貴べる財宝のごとき、何の価値すら持たない」(『同書』)  すなわち、終末は確かにあるが、終末現象は聖書の文字通りの破壊を意味せず、それに代わる価値の転倒がなされる時だと示唆している。人間社会の罪悪が一掃された後に、正義の光が輝きわたる真の世界が出現するという解釈をしたわけである。黙示的終末観に立脚しながらも、こうした結論は少なくない。  歴史に働く神  神により創造された大自然を純真に憧憬する心性は、内村の天性的な資質であった。『キリスト教問答』で「天然は神の恒久性の一面をあらわす」と説いた彼は、自然界に神の意志と愛の深淵を感知できる天分に恵まれていた。それと同様に、人類歴史に働く神の摂理を知覚する預言者的感性も、きわめて鋭敏であった。こうした独特なカリスマ性は、再臨講演の会場でいかんなく証明された。神や摂理を雄弁に語る演説は聴衆を圧倒し、再臨運動は一年以上たっても衰えなかった。  ところで彼は、神は人間社会から超絶した存在ではなく、人類の歴史をめぐる能動的、意志的な実存という神観を護持していた。神が人類歴史を摂理するという神学的解釈を論じたのはアウグスティヌスが最初である。内村も同じ座標軸から、歴史の内奥に働く神の意志と摂理を思考し、日本の思想界にユニークな座を占めるようになった。  旧約聖書の預言者の研究は、青年期から内村のきわめて大切な作業であった。なぜなら、人類に対する神の意志を、ユダヤ民族史から読み解こうとしたからである。その論究の結果、神の救いの手はユダヤ民族のみでなく、人類全体に差し出されていると確信したのである。彼がキリスト教を「今の宗教」だと説いた真意はここにあったといえないか。  その探索は、人間個々人にかかわる生きている神を出発として、かつ現代社会と人類歴史に顕現してきた多くの事象に及んでいる。歴史と社会に働く神に再臨がプラスされれば、次に興味の対象が人類の普遍的救いのテーマに行きつくことは自然であろう。  その場合、真理は聖書よりも大であるという内村の真理観から、一キリスト教の教義にこだわらない発言が予想される。彼の聖書の探求法が多面的で、聖書の枠組みを超えて真理に迫ろうとする姿勢も、彼を理解する上で参考になる。  内村の人間観は、聖書の予定の教えに沿って、人間には明確な使命と目的があるというものである。キリスト教の神をいただく人間の救済は贖罪による救いで、個人の救いがなによりも重要であり、無教会が個人的キリスト教といわれた理由がここにある。  それでいて、彼の探求した救いは個人に留まらなかった。聖書に書き込んだ、個人から国家へ、国家から世界へ、さらに神へと飛翔する内村の座右の銘が、そのことを示している。  自分の救いを考えるとき、内村は全体の救いも意識しないではいられなかったのである。『ロマ書の研究』には、「万人の救われん事は神の聖旨であって、世界歴史はこれに達するの道たるにすぎない」とある。アメリカで学び、贖罪による救いに覚醒した当初から、個人の救いに安住する姿勢には批判的な立場をとるようになった。  人類全体を包み込む内村の天国観は、再臨を契機に一段と鮮明な方向へ向かう。福音派保守主義とされる内村が、万人救済の可能性を熱心に模索しだしたのである。彼が意図した救いの解明は、そこがポイントになるだろう。  万人救済説とは、キリスト教の信仰がなくても、すべての人に救いが及ぶという思想である。この説はキリスト教の初期から唱えられ、ヨーロッパ中世や十八世紀のアメリカにも出現した。主流のカトリックやプロテスタントから拒絶されてきた万人救済に、内村は強い関心をもち、多様な視点から発言している。  もちろん、彼の信仰の根本には贖罪信仰が厳然としてあり、万人救済を無批判的に論じていたのではない。要は、個と全体の救いの調和を理想に近づける試みである。次の引用文から彼の胸中がわかるであろう。  「罪人のかしらたる余を救い得る愛は、いかなる罪人をも救い得てなお余りあるべし。余は余を救いたまいし神の愛をもって救い得ざる罪人の場合を思惟するあたわず。神が世に先んじて余を救いたまいしは、余をして万民に神の救済の約束を伝えしめんがためならざるべからず。余は万民救済の希望を余自身の救済の上に置く者なり」(「万民救済の希望」1902・明治35年5月)  一九〇六年(明治三十九)の「罪人のかしら」はどうであろうか。  「…もし万人が救われなければ、われは第一に滅ぼされるべし。されども、もし私のような者でも救われるなら、世に救われざる者一人もなかるべし。われの救いは神の恩恵の試金石なり。われみずから救われて、万民の救済を確かめんと欲す」(「同文」)  一読しての印象は、仏教思想に共鳴している彼の仏教的な文章に思えるが、この文を「万民救済の希望」と対比するとアプローチが逆である。理性では予定の教義が分かっていても、救われる者とそうでない者とがはっきり区分されるキリスト教の峻厳さに、逡巡しているようにもとれる。  一九一〇年(明治四十三)の熟考では、伝道の義務と責任という道義的角度から全体救済を唱えている。  「伝道は義務である。おのれ一人救われて他人の救いを努めざる者は、人たるの責任を尽くさざる者である。まことに救わるるとは、おのれ一人救わるることではない。万人と共に救わるることである。おのれ一人救われて、救いは全きものでない。万人と共に救われて、われは初めて全く救われるのである。伝道を努めざる者は、おのれ自身もいまだ全く救われざる者である」(「生命と伝道」)  独立伝道者の矜持をもつ彼の心の奥底には、「万人と共に」救われたいという熱望が秘められている。この短文には、自分の救いの次には家族の救いがなければならず、さらに同胞や社会などの救いを目指そうという、一貫した志向性が見られる。愛の神は一人の人間の救いだけを望んでいるのではない。すべての人が救われてこそ自己の救いにも意味があるとしているのである。  万人救済の論議は、個と全体の関係をいかにつなぐかという息の長い道程をたどった。その成果はともかく、既成概念にとらわれずに自由に発想する内村の努力は敬服に値する。  20 贖罪と再臨による救い  原罪とは何か  再臨回心までの内村は原罪問題をどうとらえていたのであろうか。原罪の解明は彼にとって極めて重要な課題であった、というか、難問中の難問であった。『キリスト教問答』で、いくつもの原罪説を紹介し人類始祖の「堕落の道筋」を必死に究明しているところがある。「実に哲学上の最大問題であります」という見解を彼は吐いているのである。  「人類に罪の自覚があります、これは打消すべからざる事実であります。この自覚は何から来たか、これ彼が自身のこの世で犯した罪の結果がここに出たものであるか。しかしながら彼は何故に生まれながらにして罪人なるか。アアこれ深遠より深遠にひびきわたる問題であります」(同書)  彼の鋭敏な感性は、聖書の人類始祖の堕落の物語に深い秘密が隠されていることを嗅ぎ取っていた。が、堕落の原因の内奥を根本的、かつ論理的に解釈できずにいるジレンマに思わず悲痛な叫びを上げている。  「私は白状いたします。私にはこのことはわかりません、ここに人生問題のスフィンクスがあります。これを解かなければなりません、しかしながら解き得ません。この問題に対して、我らは堅き岩にむかって我らの頭蓋骨をつきたてるの感がいたします」(同書)  原罪について「宗教ならびに哲学上の大問題なり」と自覚しながらも、手応えの感じられないジレンマが伝わってくる。再臨信仰回心までこうした内心の苦境に圧迫されていたのである。  再臨信仰を得てからの彼は、原罪問題を『ロマ書の研究』の第二十七講「アダムとキリスト」で再び考察している。もっとも、そこでの論考は原罪の解明を自己の省察ではなく、ミルトンの『失楽園』の引用に自己の観点を添えたものであった。小説『失楽園』は、人類始祖アダムとエバの堕落が恋愛を動機としているという視点を、深い心理的分析によって描写したイギリス文学の一大叙事詩である。  内村は、まず『失楽園』のアダムとエバの叙述を、人類始祖の堕落のいきさつを説明する「詩的注解」とした。ミルトンの説く愛に起因した堕落説に、「始祖堕落の最も深き説明と称すべきものである」と同感を示している。  これで原罪問題に決着をつけようとしたのではないが、人間の堕落に愛の要素がかかわっていることを、「最も深き説明」という形で肯定しているのである。その共鳴には、自由恋愛の潮流が大手をふるっていた大正の風潮が投影されていることを見逃してはならないだろう。  「ミルトンは人類堕落の心理的解剖をなした。人類堕落の動機、および恋愛のためにはすべてを捨ててもいとわずという堕落せる人間の心は遺憾なくえがかれている。実に人間はーことに現代の人間はー恋愛のためにはあらゆる罪を是認せんとするのである」(同書)  男女間の愛についてメスを入れた論考は、遺稿論文の一つでもされている。その論文は、人間始祖の堕落からヒントを得たもので、人類社会に与えた最大の不幸が結婚問題であったと明示している。すなわち、男と女の結婚が理想通りにいかないのは、人間始祖アダムとエバの堕落に起源があり、堕落の痕跡が現代社会の家庭内にも忍び込み、家庭崩壊を引き起こしているとみていたのである。  「人が神の誠命にそむき信仰を棄て知恵によりし結果として混乱は、社会全体に起こりしといえども、その最もはなはだしきは家庭の基礎をこぼったのである。人は自らその夫または妻を選んで、ここに家庭はその発端において乱されたのである」(「結婚問題の困難」1930・昭和5年)  つまりこの文章の主意は、人類始祖の男女が神の戒めに反して愛の因縁を結んだことが、今日の家庭の破綻の内因になっているという言辞である。  パウロの嘆きに同調  次に再臨回心後の贖罪に対する考えをたどろう。ロマ書七章後半の、神と悪魔が対立闘争する自己分裂を告白する「パウロの嘆き」は、神学上、長く論争されてきた。パウロを悩ませた善悪の葛藤を内村はどう受け止めたのであろうか。  まず、告白がパウロの体験から発せられている以上、この告白は真実であるとした。そして、人生の実際に則してと述べながら、内村自己の内面を言い添えている。彼は自分自身こそ自己分裂で悩んだと証言したのである。  「この事を述ぶるにあたって、余は他人の実験を幾つも紹介することができる。しかし実はその必要がない。なぜというに、余はここに余自身を、この実験を味わえる者として提出し得るからである」(『ロマ書の研究』)  三十代初めの名著『求安録』の一節には、「贖罪の目的は我を完全なる人となすにあり」とある。続いて、「完全なる人を作らんと欲せばまず人を不完全ならしむる罪を除かざるべからず。なんとなれば人その罪より脱せざれば罪を犯さざるに到らざればなり」と論述していた。  つまり、完全な人間をつくるのが贖罪の目的であり、罪から解放された人間は罪を犯すことはないということになる。ところが、『ロマ書の研究』になると、「余自身を、この実験を味わえる者として提出し得る」という言葉を吐き出した。これが再臨回心を経た後の証言である点を付言したい。自身を実験台に乗せてみると、パウロと同じ「魂のうめき」を実感すると、六十一歳の内村が赤裸々に告白しているのである。  「すなわちクリスチャンとなりてのちこの苦悶あり、キリストにある平安を得し後とても、多かれ少なかれこの苦悶は存したのである」(同書)  この告白は、贖罪から劇的な再臨信仰を獲得した後も、依然として、魂と肉体の相克、神を目指す心と肉の欲望の二律背反の思いを「多かれ少なかれ」舐めてきている、という深刻な供述ではないか。その苦悶は「今も存する」とし、「キリスト信者特有の苦悩である」と形容している。  文章から感じとれるのは、贖罪信仰によって救済されたはずのキリスト教信者が、再臨信仰に立っても、いまだ救いの真の内実に浴していない悲痛な叫びである。  「人はいかなる人といえども二重人格者である。人には神の律法を喜ぶ半面と喜ばざる半面とがある。自己と自己とが戦いつつあるのが人である。自己の中にて光と闇とが争いつつあるゆえに、上よりの光が人に臨めば臨むほど、かえってこの心中の矛盾苦悶は激烈深刻となるのである」(同書)  この告白を記した『ロマ書の研究』の講義のころの彼は、再臨信仰の新境地の最高の高まりの中にあった。八年後には亡くなるという彼が、自己の善悪の苦悶をあからさまにした率直さに驚かされるのである。その講義を受講した人びと一同が、粛然としている様子が日記にしたためられている。  「余は自己の実験に照らして彼(注・パウロ)の言を説明した。ああ、われなやめる人なるかな、この死の体よりわれを救わん者は誰ぞや、これわが主イエス・キリストなるがゆえに神に感謝す。しかり、しかりである。この事をのぶるは最大の歓喜である。これ真の福音である。聴衆も感に打たれたりと見え、一時は水を打ちたるがごとき静粛であった。すすり泣きの声は所々に聞えた」(「日記」1921・大正10年12月11日)  内村は雄弁家であったが、持論を押し付けるような人柄ではなかった。あふれるパッションを抑制し、静謐かつ率直に説く人であった。そうした熱情を納めた彼が、静寂な雰囲気の中で語ると聴衆の心を魅了し感動を与えたのである。  彼の一連の記述は、贖罪が全き救済をもたらすものではなく、限定的であることの声明である。直裁ではないものの、十字架の贖罪の救いにある種の限界があるのを認めたことになる。内村の人となりは、パウロの嘆きを自己の問題として引き受ける感性を持ち、かつ、真実の前に誠実であろうとする真摯さである。  内村の弟子たちはなぜ、彼を無教会主義の統帥として仰ぎ見、終始つき従ったのであろうか。その理由の一つは、このパウロの嘆きでみせた清廉・高潔さにある。自己の心に正直に生きる姿に、弟子たちも深く共感したということがいえるかと思う。  パウロの嘆きを自分の問題ととらえた彼は、罪を抱えた人類の永遠のテーマ、原罪問題を心のひだ奥深くにかかえながら生きてきたのである。罪人の救いの切り札として、再臨が決定的な意味を帯びてくるのは、実に、ここに求められる。救済の完成図を端的に表現した引用文が次である。  「希望なくしてキリスト教はない。しかしてクリスチャンの希望は、キリストの再臨とこれにともなう救いの完成の希望である。…キリスト再臨の希望なくして新約聖書は書かれなかったということができる」(『ロマ書の研究』)  再臨信仰によって内村が確信した世界は、「キリストの再臨とこれにともなう救いの完成の希望」であった。パウロや内村が克服できずにいる人類の罪の問題・原罪の根本的解決が、再臨のキリストの顕現によってなることを固く信じ疑っていないのである。    贖罪・復活・再臨を統合  贖罪信仰は、いうまでもなく無教会主義の中枢的教義・信仰上の必須要件であった。それゆえ、生前中の内村は異端とされながらも、この信仰を固持することで福音派キリスト教の範疇に座を占めていたのである。そうした贖罪観の土台に新たな地平が切り開かれた。再臨の教えとその信仰の登場である。  人間の罪からの解放は、内村の問題意識の中で常に最大のテーマで、この難問の限界線を突き抜ける糸口となったのが再臨回心の体験であった。彼が再臨運動に立ち上がると、無教会の弟子、教友、誌友たちは一様に驚き、彼の信仰が変質したのではないかといぶかった。なぜならば、贖罪と再臨の教義はあまりにも異質な様相で占められ、科学者の精神をもつ内村には受け入れがたい、と考えられていたからである。  以前に繰り返したように、まさに再臨回心は彼の信仰観を一新し絶大なインパクトを与えた。インパクトとは、贖罪と再臨の共通の要素が救いにあるという新境地である。キリストはその中枢に屹立している。つまり彼は、二つの基軸がキリストを中点に相互に深く抵触している事実を、身をもって発見した。それでいながら注目すべきは、彼の信仰基盤にいささかの亀裂もみられなかったことである。  信仰のこの再発見によって、聖書の究明に大きく立ちはだかっていた壁に新しい光が照射されたわけで、最大の題材であった救いのテーマが徹底的に吟味された。それを要約すれば、贖罪と復活と再臨の教えの方向が融和・整理され、総合的・統一的な救済の概念が抽出された。  福音派保守主義の救済観では、人間が救われるためには必ずキリストの贖罪を通過しなければならない。したがって、検証の関心の比重は再臨との関係に集中し、贖罪と再臨とその中間にある復活の教えの三つをつなげる考察をした。彼は、それらの間隙を補完する克明な試みを積み重ね、キリストの再臨を必然的なものととらえたのである。むろんこれには鋭い直観力の支えもあった。こうして、贖罪信仰の限界を突破しつつ、自己の信仰を深化させながら、その頂点を極めていった。すなわち、キリスト教信仰の総決算を迎えていったのである。  まず、贖罪と再臨にかかわる論点である。  彼は贖罪と再臨を因果律でとらえ、それら二つは同一の根に発し連鎖していることを検分し、総合的かつ整合性のある救済観の確立を目指した。両方の領域を束ねる思索の結果として、その後の救済観に絶妙な相乗効果を与えることになった。  「罪の強き自覚とこれに伴う十字架の救済を実験せずして、キリストの再臨はわからない」(「再臨と贖罪」1918・大正7年4月)は、再臨信仰を獲得した時点で贖罪にふれた内容である。明白な点は、贖罪観が不変のまま受け継がれていることである。同論文には、再臨の地平に立って述べた興味深い記載もある。彼はいう「主は再臨によって、彼が十字架上において遂げたまいし大なる救いの実を収めんとしたまいつつあるのである。再臨なくして、贖罪は半成の業である」(同文)  ここでは罪の自覚や十字架の経験がなければ再臨はわからないと言及し、同時に贖罪は再臨がなければ「半成の業」であると断じている。贖罪と再臨を「説くべきはこの二大教義である」と両者の相互性を強調している。「再臨なくして、贖罪は半成の業である」という文節から、贖罪の完成には再臨が絶対的な必須の要件であることが読み取れる。両者の相互関係をさらに探ってみよう。  「贖罪と再臨との間に密接なる関係がある。再臨は贖罪の結果であると言うことができる。主は御自身があがないたまいし者の救いを完成せんがために再びきたりたもう」(「贖罪と再臨」1918・大正7年4月)  「再臨は救いの結末である。これなくしてわれらの救いは完成せられない」(「ホエルホメノス」(1918・大正7年8月6日)   「霊の救いは今おこなわれて、身体の救いはキリストの再臨の時におこなわるる」(「身体の救い」1918・大正7年8月)  いずれの文章も、贖罪と再臨が片方に偏らないで説かれていて、同様の表現は遺稿文「再臨高唱の必要」でも唱えられた。  「再臨を否んで、聖書はわからない。もし十字架が聖書の心臓であるならば再臨はその脳髄であろう。再臨なくして、十字架は意味をなさない。それゆえに、われらクリスチャンは再臨の立場に立ちて聖書を通覧するの必要がある」(同文1930・昭和5年4月)  聖書を「再臨の立場」から見る必要があるというのは、救済の完成を再臨に設定しているからといえる。こうして、十分に説得力のあるトータルで重層的な救済論が組み立てられていったのである。  贖罪と再臨の関係  次に考えたい論点は、原因・結果からの贖罪と再臨の関係である。前に掲げた「贖罪と再臨」の論文には、贖罪の「救いの実」を収めるものが再臨であるという箇所がある。こうした内容から、救いの本質をそれらの関連性から見極めようとする意図がうかがえる。  内村の信仰の道程を調べると、再臨回心に至る前に復活信仰があり、さらに遡上すると贖罪にいきあたる。贖罪と復活と再臨の三つが連動して信仰と救済を造成しているのである。彼が「再臨の信仰は贖罪の信仰と密接なる関係を有し、後者を信ぜずして前者を了得することはできない」(「贖罪と再臨」)としたり、「再臨信仰をもたなければ、聖書はその始めより終わりまで不可解の書となる」(「キリスト再臨の信仰」1916・大正5年9月)と説くのは連結性と連続性を前提にしているのである。  しかも、「再臨なくして、贖罪は半成の業である」「再臨は贖罪の結果である」(「贖罪と再臨」)との言及の意味するところは、救済の成就としての再臨の教えの是認である。死後に公表された「再臨再唱の必要」の一節「再臨は聖書の中心真理と言わんよりはむしろその最終真理と称すべきである」の言葉も了解できよう。  このように、贖罪を根とし、キリストの復活に縁を結びながら、最後に再臨信仰へ至る一種の動態的救済観を彫像した。内村の志向する信仰と救済の論理によって、贖罪から再臨までの領域は分離できない関係になったといえる。両者を一本の大河の流れにたとえてみれば、その源泉は創造の神で、上流に贖罪があり、そして復活は中流、下流は再臨となる。やがて贖罪と復活と再臨の入り混じった大奔流は、河口から大洋へと一気に注ぎ出す。そして、広大な大海原の彼方には無限の神の国が息づいているのである。  再臨による救済の完成  キリスト教の再臨観の一つの特徴は、キリストが肉体をもって顕現するという教えにある。内村はこの問題を人間の霊肉の救いの考察から始めている。復活については、人間の内なる実体を「霊体」または「復活体」と呼び、地上に生きている人間の復活と、死んでしまった信者の復活の論議を同時的に進めた。彼は人間の復活、つまり人間の内なる「霊体」・「復活体」の復活は、神を信仰した段階からすでに開始されているという神学的な解釈をした。  人間に復活があると説く根拠を、彼は第一に復活したキリストに求め、キリスト教信者はキリストの種子を引き継いで復活し続けると唱えたのである。言い換えれば、復活のキリストが、各信者の「霊体」に内在することをもって復活しうるという論法である。  「信者が復活するのではない。彼の内に住みたもうイエスが復活したもうのである。彼は義によりて生きたもうのである。…信者はイエスの復活の同伴にあずかるのである」(「復活とその状態」1914・大正3年7月)  「信者はその肉体においてすでに復活体の種子とその核心とを持つ者である。彼は今すでに復活されつつある者である」(「いかにして復活するか」1915・大正4年8月)  内村のこうした認識はそのまま再臨後の復活観へと継承されていった。  「復活は実にクリスチャンを生かしむる原動力である。クリスチャンの信仰を今日まで維持せしめたるもの、ことにその生気を失なわざらしめたるものはキリスト復活の事実である。キリストもし復活したまず、従って現在したまわざるにおいては、信者はいかにしてその信仰を維持し得べきや」(「エマオの出来事」1917・大正6年5月)  「キリストは復活せりというは単に過去の事実ではない。目前の事実である。信者は日々の生涯において、復活せる生けるキリストを実見する」(「復活祭の意義」1928・昭和3年5月)  復活を述べる神学的見地は、贖罪観と同じく福音派の伝統的な教義に基づいている。いわゆるキリストの十字架とその死に打ち勝ったキリストの蘇りがあり、そして、復活のキリストをとおして信者の復活が成るという保守主義の教義のことである。  ところで彼の興味は、復活の教義的な注釈にはなかったようである。「われらは今日いかなる復活体を作りつつあるか」という一点に焦点をあわせ、生きた信仰の確立を目指していたのである。彼によれば、復活の論究というものは、復活の事実を明かしそれが生きた人間に働きかけているという考証にほかならなかった。ということは、復活体験がなければ、本物の信者とはなりえないという意味で、信者各々の信仰的努力と奮起が期待されていたといえるだろう。  「再臨問題は復活問題にかかわる」(「復活と再臨」1918・大正7年4月)という表現もみられる。救いの連続性の角度から、再臨問題が復活を講ずることにもつながるのである。「キリストの復活を否定してキリスト教が維持されようとは私には思えない」(「復活祭の意義」1928・昭和3年5月)という記述は、救いが復活から再臨へ連続していることを明示している。    全宇宙が完成する日  内村の衷心からの願いは、人間の復活の継続によって罪人の霊肉の救いがなることであった。  「生命は霊と肉とであり、宇宙は天と地とである。余の救わるるは、余の霊と共に肉の救わるることであって、また余の救いは宇宙の完成と共におこなわるるものである」(「キリスト再臨を信ずるより来たりし余の思想上の変化」1918・大正7年12月)  「人は体と霊とである。体のみを救われて人は救われない。霊のみを救われて彼は救われない。体と霊の二つながら救われて、彼は完全に救わるるのである。…身体の復活は霊魂の救いを完成するために必要である」(「完全なる救い」1918・大正7年3月)  「霊の救いは今おこなわれて、身体の救いはキリストの再臨の時におこなわるるのである」(「身体の救い」1918・大正7年8月)  「体まで救われて、全部救われるのである。われらの苦しみ、われらの歎くことの最大原因は、この弱き肉体の中に霊魂が閉じこめられていることである。…この体まできよめられずしては救いは完成したのではない」(『ロマ書の研究』)  引用した四つの論文は、霊と肉・心と体からなる人間の復活と救いを推し進めながら、最終的にキリストの再臨をもって完全に救済される統一的人間像を描きだしている。  「かくして信者の復活は半ば未来の希望に属し、半ば既成の事実である。信者はすでに復活の元質を握る者にして、同時にまた主と共にその栄光をもって現われんことを待つ者である」(「いかにして復活するか」1924・大正13年7月)  救いの半分は、「既成の事実」としてある。あとの半分も「未来の希望」としてキリストの再臨の時に完成するというのである。彼の意図する救いの完成とは、堕落という「変態」の状態から人類が救出されて、人間本来の「常態」に立ち戻ることであった(「堕落の教義」1925・大正14年12月)。  彼の確信は、霊肉の完全復活があり、「体を含む生命全部の復活」(「三分性と復活」1924・大正13年7月)が、再臨のキリストを中心に成就するという点におかれていた。さらに、その勢いは人間の救済だけに留まらない。大自然から無限の大宇宙へと拡散し、無窮の神の国へ連なる、雄渾にして壮大な生命力のみなぎるビジョンを飛翔させたのである。  「神の御眼よりみて救いは霊魂にかぎらない。神の救いのご計画のうちには国家あり、人類あり、世界あり、宇宙ありである。神は万有の救いの一部分としてわれ等に霊魂の救いを命じ給うのである。…神が人を救い給うは人のために人を救うのではない。人をもって世界を救い、世界をもって万物を完成し給わんがためである」(「救いの範囲」1924・大正13年7月)  「地は天にかない、肉は霊にかない、しかして完成されたる人が完成されたる地を占領して、しかして後に初めて神が人を造りてこれを地に置きたまいしその目的が達せらるるのであると言う。偉大なるかな、この天然観、この救丞観、信仰もここに至ってその絶頂に達するのである」(「キリストを信ずるより来たりし余の思想上の変化」1918・大正7年12月)  見逃せない重大な一言がこの文中に記録されていた。地上天国の出現の件である。「完成されたる人が完成されたる地を占領」する時が到来すると、人間の救済が地上でなることを預言的に述べているのである。  彼の救済観・復活観は、完全な救いと復活に向けて邁進すべきことを端的に示し、きたるべき神の国を確認する躍動的な信仰観となったのである。  内村は真理を聖書のみに求める人ではなかった。真理は聖書よりも大きいというのが彼の真理観で、それゆえ神とキリストによる神の国・真理の国が打ち立てられたあかつきには、聖書の使命が終焉するという大胆な発想もできたのである。  「世にこれ(注・神とキリスト)よりも尊いものはない、然し聖書は永遠に尊いものではない。聖書が不用になる時は必ず来るのである…」(「新約聖書に現われたる思想の系統」1910・明治43年12月)  『ロマ書の研究』では、神の国・真理の国が、全宇宙の完成する日であるとしている。  「必ず成就すべき大完成の日を、宇宙と信徒と聖霊とが、うめきつつ待望しているのである。…大完成の日、しかり、大完成の日、宇宙の完成、人類の完成、新天新地の日、その日を、全天然とクリスチャンと聖霊とが、確信をもって、うめきつつ待望するのである」  21 地上に天国を求める信仰  天国を郷愁する人  内村の天国願望は、再臨信仰を獲得する以前からきわだっていた。まさに天国を郷愁する人が彼であった。  神の国や天国の観念が、確かな存在として脳裏を占めるようになるのは、再臨回心を経てからである。しかし、終末について記した明治中期の文章の中に、ひたすらに天国を慕っている姿が望見できる。再臨回心前とその後の考え方を比較してみなければならないのである。  「…これ(注・人間の考えだした主義、思想)皆瞬間的のものでありまして、我等人類も我等の棲息するこの地球も遠からずして消え失するものでありまするから、我等はこの世のことについては左程に心配するに 及ばないというのがその大体の教義であります…」(「基督教と社会主義」1903・明治36年)  終末論的なこの論調からは、再臨を確信する心境はうかがえないものの、現世に信をおかず、きたるべき未来を夢物語のように慕っている様子が印象として残る。  著作『宗教座談』の天国の章になると、天国をイメージする心象風景を自由奔放に繰り出している。この時期は、天国を妄想としたり、黙示録をたとえ話のたぐいにとらえていた頃に該当し、清浄な混じり気のない空間の広がり、あるいは、純なる世界というのが彼のいう天国のようなのである。  ところが細かく吟味するとこうした一面の想念は例外的で、地的な世界をある種の期待感をもって志向している論考が主調であることがわかる。『宗教座談』で説く天国論の要点に接すると不思議なくらい具象的な様態の開示となっている。  天国を音楽や美術などの審美の目で見ただけでなく、神を中枢とする政治体制によって営まれ、義務や責任観念の具備した秩序整然たる世界であることが素描されている。いうならば、現実的な部分と非現実的な要素がミックスされているといえようか。  加えて思想的に重要なのは、天国を「地球の改造されたもの」と形容し、変革された地球を「一つとして欠点を見出すことはできません」と認識していた点である。すなわち、その理想の性情は、人間の罪悪が消え去った状態、換言すれば、精神の革新された場が天国であるという考えで、どこか別の世界の話ではない。再臨信仰を獲得していないにもかかわらず、地的天国を標的に、その道筋をあたかもわかっているかのようなストレートな表現は目を見張るほど魅惑的である。  「恵みのつゆ、富士山頂にくだり、したたりてそのふもとをうるおし、あふれて東西の二流となる。その西の流れは海をわたり、白頭を洗い、クルルンを浸し、テンシャン、ヒマラヤのふもとに水注ぎ、ユダの荒野に至ってつきる。その東の流れは太平洋を横断し、ロッキーに黄金崇拝の火をほろぼし、ミシシッピィー、ハドソンの岸に神の聖殿をきよめ、大西洋の水に合してきえる。…こうして水が大洋をおおうごとく、エホバを知る知識が全地にみち、この世の王国は化してキリストの王国となる。私は眠りよりさめ、ひとり大声で叫んだ、『アーメン、そのように成りますように。み心が天に成るように地にも成らせて下さい』」(「初夢」1907・明治40年1月)  生気あふれる詩的余韻を奏でながら、全地あまねく神の懐に抱かれ神の王国に変貌する壮麗な情景ではないか。翌年に掲げた「キリストの王国」(1908・明治41年1月 )も地上を基盤とした断想である。そこでの興味の対象が地上的な天国や永世であることが確認でき、幻想的な彼岸のイメージはない。社会との現実的な接点がしっかりと確保され、天国への意識と結びあう感性を呼び覚ましている。  地的天国に関して補足するならば、再臨信仰以前の内村は、『地人論』で、人類文明史の行進が平和的な統一世界へと完結することを謳っていた。文中では、人類の統一世界という文明史観が指し示す様相と、再臨信仰による天国の具体的位相が限りなく近接しているのである。地的世界を憧憬する心性は、再臨を中核にすえた段階で不動の信念となり、来るべき国の実像はここに至って絶対的になったと想定できる。  このような道程を長く踏めば、この世の事象と無関係ではいられなくなるであろう。彼は一新されたまったき視線をとおし、地上の営みや社会の動静に向き合うことになる。そして第一に最大の関心が聖書に注がれた。  聖書の見方は、「新しき生きたる書として」(「キリスト再臨を信ずるより来たりし余の思想上の変化」1918・大正7年12月)新鮮な装いをもって立ち現れた。同様に、政治や教育や平和や文化や世俗のことどもも鋭角的に省察するようになった。すなわち、諸々の社会的事象を再臨につなげて取りあつかったわけである。いわゆる再臨は歴史的問題、人類問題である、平和問題、世界問題である、かつ、人生問題、宇宙問題であると断言できたのは、これらが再臨の座標軸から解決できることを実感したからに他ならない。  再臨信仰によって神の国を視野にした内村が、地上への情感をより強めたという事実は、彼の信仰観を総括する上で興味の尽きないところなのである。  神の国到来を預言  論文「マタイ伝に現われたるキリストの再来」(1918・大正7年3月)は、地的天国の概念を山上の垂訓の注解によって引き出そうとしている。イエスの言葉、「柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう」に着目した内村は、これは天国が霊的な状態をいっているのではなく、地上的な国家であると注釈した。その拠り所をギリシャ語の原典に求め、群衆を前にしたイエスの天国の話は、地上に建てられるべき実際的な国だと指摘した箇所を引用してみる。  「『天国』はすなわち人の子、雲に乗りて来たる時に実現すべきその具体的の国である。…ゆえに聖書は始めより地的天国の実現を教うるのである」(「同文」)  空想的な天国の輪郭に、キリストによって成就される具体的な国のコンセプトを加えたわけである。一種の概念ともいえるこの新規定に、さらに、初臨と再臨のキリストの使命・目的が同一であるとする考察が添えられることで、地的天国論は一段と具体性をともなう内容へと練り上げられていった。  彼の独創性は、地上を足場に天国が建設されると洞察した点にあるが、それと同じくらい、否、それ以上の斬新さで迫ってくるのは、再臨のキリストを、地上に顕現する実体的な人物として彫像したことにある。  そこで、二千年前のユダヤ民族に思いをはせた内村は、地的天国は、ユダヤ民族の不信仰によりイエスの在世中に建てられなかったのだと明言している。  「神はついに人の間にくだりたもうた。イエス・キリストをもって来たりたもうた。…彼をもってエデンの園は回復せられ、人類はその定められし栄光の運命に達すべくあった。イエスをもって、真正の意味においての黄金時代は地上に現わるはずであった。そうして彼はこれを成就するに足る充分の能力を自己に備えたもうた」(「聖書の大意」1918・大正7年11月)  同論文では、イエスは黄金時代をもたらす「充分の能力」を備えた人物であったとしている。そうした卓越したイエスを迎えて地的天国がなされるはずであったという感慨なのである。  ところがユダヤ人の不信によって、「神の人類の救いにかかわる御計画は見事に失敗に終わった」と結ぶ。この要旨の伏線にこめられた要件は、いうまでもなくキリストの再臨問題であった。再臨運動を全国各地で展開していた最中、キリストの再臨とそれに連なる地的天国の二つの概念は、彼の不動の信条となって脳裏に深く刻まれていた。その帰結の意味は、イエス時代に失敗した神の計画を取り戻すために、再臨のキリストの出現に必然性のあることを暗に示唆したことである。  彼の天国観で注目すべき特色は、未来の天国・神の国に座標軸を据えて、その次元にたって現世を見るところにあるだろう。再臨回心を経て彼が目指した約束の地は、まさに地上に建てられるべき天国のことなのである。消え去るような夢想でも、現実社会から遊離した幻想の世界でもない。きたるべき未来世界こそ、実体的な実像の世界であり、現世は虚像の姿でしかないと判断しているのである。神の国は既得の事実として顕在化し、目標とする未来の神の国は「来たりつつある現在」(「再来の意義」1918・大正7年3月)であるという意識の大転換を果たしたのである。  こうして、再臨講演の内村の声明は、完結した神の国の地平から発される預言の声となった。彼が預言者的人物と評価されるのは、この内的確信の炎が強靭に放射されたからに違いない。  天国は永遠なる現在  神の国を永遠なる現在ととらえる思想は、彼の天国論を考えるうえで非常に大切である。天国を永遠の実体の世界と自覚した時点から、その生き方は一元的な世界観で押し進められるようになった。壮年期に、地上の人生は永遠の未来世界を前にした「習練所」であるとの、いわゆる、訓練の場ととらえた感想がある。  「人生五十年間は永遠の未来に入るの習練所としてのみ無上の価値を有するなり。現世は人霊の教育所として見るべきも、これを永住の家として見るべからざるなり」(「未来観念の現世における事業に及ぼす勢力」1891・明治24年)  キリスト教は死者のための宗教ではなく、今に働く生きた宗教だと唱えたことにも一元的論理の発想があるだろう。彼が世俗的キリスト教に批判的であったのは、信仰の純粋さを探求し、キリスト教が本来もっている信仰の強靭さを渇望し、その定立に向け突き進んだからである。  再臨信仰とは、探求し続けた信仰の純一性がその頂点を極めた時のものだったのである。それに従えば、実体としての天国は、再臨主を基点に具現化されることになる。天国建設の礎石はあくまでも地上にあり、キリストの顕現をもって一元的な天国の建設が始まるというわけである。  これまでの論考から、生来、地的なものに愛着をいだく内村は、再臨回心により、その傾斜を決定的にした。論文「われらは来世について、いくばくを示されしか」(1916・大正5年12月)、「余がキリスト再臨について信ぜざる事ども」(1918・大正7年2月)、「ヨハネ伝におけるキリストの再来」(同年3月)、「聖書の大意」(同年11月)は、ことごとく地的天国・地的神の国にしっかりと基礎をおいている。ここで、地的天国と地上の実際の世界との関係を、彼がどのように実感していたかを調べておこう。  『ロマ書の研究』には、自然を破壊する人間の蛮行を批判している一節がある。神は人間のために豊かな自然環境と資源を与えられたが、堕落社会はそれらを乱用しているとし、とくに近代文明諸国がその元凶であると厳しく糾弾していた。  「実に人類の堕落は地の堕落を引き起こした。人はいかに地を荒らしたことであろう。…豊富なる物資…石炭…石油…これらはみな、戦争、および平生の戦備、あるいは工業のために用いられるのであるが、さる場合は少なく、多くは人間の愚かなる好奇心、利欲心、企業心のために爛費せられているのである。堕落せる人間が、自然界を征服すると称して、破壊しつつ来たりしことは、あまりにも明瞭なる事である」(『同書』)  天然資源の採掘が環境破壊やエネルギー枯渇をもたらすと、まだ環境問題など議論の対象にもされていなかった時代に、その乱獲を訴え、無制限な人間の欲望や国家的エゴに警鐘を鳴らしたのである。大自然の神秘と美に憧れ、理想の世界を地上に熱望した彼にとって、地球の自然破壊や無責任な乱獲は耐えがたかったに違いない。聖書的にいうなら、人間の堕落のゆえに自然界が損なわれ、万物世界が救われていないということになる。  では、仮に人間の罪が清算され、社会から罪悪がことごとく一掃されたらその世界はどうなるであろうか。明瞭に推理できることは、罪や悪から解放された人間社会の出現であり、加えて、自然環境との共存・共生である。地上に理想世界を願う発想には、こうした深層心理もあったといえるだろう。  さらに考察を加えれば、創世記の人間始祖の描写からも、その思念がはっきりと読みとれる。  「そもそも神が初めてこの地を造りたまいしや、彼は園としてこれを造りたもうたのである。彼が人類の始祖アダムとエバとを置きたまいしというエデンの園とはこの全地にほかならないのである。全地これエデンである。…地は彼(注・人間)にすべて必需物を豊かに供して、彼は不足を感ずることがなかった」(「再臨と豊稔」1918・大正7年10月)  堕落人間が神と再臨のキリストに立ち返りさえすれば、以前にも増して豊穣な大自然、「全地これエデン」の園が出現するという一文を掲げているのである。  ロマ書の万物の嘆きの注解でも同じ視点から思索していた。「人と天然との間に切っても切れぬ関係がある。一は他を離れて栄えの自由に入ることができない」(「キリスト再臨を信ずるより来たりし余の思想上の変化」)というところで、人間と万物が救いの希望を共通にしているとの指摘である。これは、人間の罪が清算されることから自然界が蘇生するという解釈で、地上や自然界に向き合う特別なこだわりがあるだろう。  こうした地的なものや自然世界への濃密な意識をよりどころに、地球的スケールでの自然改造を構想することにもなった(「聖書の預言とパレスチナの回復」1918・大正7年5月、「天然的現象として見たるキリストの再来」同年4月)。以上を結論づければ、真実・純粋な世界をひたすらに追い求めた彼は、大自然を無垢な心で愛することのできる稀有な資質の所有者ということになる。  生命への責任感  内村の人生観からも、地的天国やキリストの地上顕現を語れるのではないだろうか。罪の苦悩で人生のどん底につき落とされたときも、不敬事件で人生の辛酸をなめたときも、最愛の娘ルツ子の死のときも、大戦の勃発で信仰の危機に際会したときも、そこから決まって立ち直った人が彼であった。与えられた自己の生命に全責任をもって臨んだ人であったのである。  聖書の「肉欲」という語句を、『ロマ書の研究』では次のように解釈していた。  「道徳的に見たる肉とは肉欲であるとは何びとも思うところである。食欲、性欲、その他すべて生きんと欲する欲、それが肉欲すなわち肉であるとは何びとも気の付くところである。…しかしながら、肉欲すなわち肉なりといいて、肉を罪と同視することはできない。食う事は決して罪ではない。生命は神より出でしものであって、これを維持しまた継続することが罪であるはずはない」 (『同書』)  このように、内村は自己の生も含めて、神の創造された生命活動を善なるものと肯定し、人生を投げ出さない強い意志力をもっていた。この精神が人格の根底にあったから、多くの教訓を取り込んだ『後世への最大遺物』のような爽快な著作が生まれたといえるだろう。  その再臨観を鳥瞰すると、自分でも信じ難いものを受け入れたという感慨があったものの、結果的にみると、きわめて実際的で客観的な判断を下していたといえまいか。地的天国の概念や実体を伴ったキリスト像などが実例である。では、なぜそういう思考方法になったのであろうか。  この世の苦悩から逃れたいあまり、人によっては清浄な彼岸の世界に救いを求めるケースがあるが、内村にはそうした志向性はない。再臨回心によって、天国に対する観念は強固となり、その憧憬のゆえに地的世界の軽減や空想への逃避などはもたらされなかった。神の国を地上に奉じる信仰に、漠然としたイメージの入り込む間隙のないことは既に触れてきた。  再臨回心後の日記や著述には、社会や時事問題、教育や文化などについての感想や寸評が、以前と同じように変わりなく記載されている。これはかつて一ジャーナリストとして活躍したことと無関係ではないであろうが、論点はそこではない。  彼が地的な世界に強く引き付けられたのは、地上の人生に意味をまさぐり、どこまでも積極的・意欲的に生きる主体的人生観をもちえたからである。美質ともいえるこの人生観は、たとえこの地が汚濁と罪悪に満ちた偽善の世界であろうとも、それに優る永遠の世界を見いだしたいという強烈なエネルギーを蓄えるものであった。  22 再臨のキリストによる万民救済  キリスト再臨の目的  再臨回心によって、内村はキリストの初臨と再臨の目的は同一であると考えた。   「彼(注・イエス)の天職は霊魂の救い主たることでありまして、彼のなされし仕事の性質から申しても、彼は人類中に比類のない者でございました。霊魂を救う者とは、人の犯せし罪をゆるし、その良心に満足を与える者でございます。こういう人物は、道徳家でもなければまた哲学者でもありません。いかなる君子、大学者なりとも、人の罪を贖うてこれをゆるすことはできません」(『宗教座談』)  イエスは「霊魂の救い主」として、その目的が人間の罪を贖い罪人を救済することにあるという解釈は、福音派保守主義の枢要な贖罪観である。そのことを再臨信仰を得てより明確に理解したのである。  「キリスト再臨の目的は初臨のそれと異なるところはない。彼、初めてきたりたまいしや、世をさばかんためにあるあらずして、これを救わんためであった。彼、再びきたりたもう時、また同じであるに相違ない」(「再臨の目的」1919・大正8年2月) これを推進力に、キリスト再臨についての興味ある検証を試みている。再臨は人類にとって重要であることに変わりはないが、キリスト自身にとっても格別な意味がこめられているというのである。その手がかりを、イエスがたどった十字架の道を探索し、特に、ユダヤの宗教審問に対するイエスの対応に着目した。  「イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、『あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ』。イエスは彼に言われた。『あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗ってくるのを見るであろう』。  すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った。『彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた』」(「マタイ伝」26章)  イエスの死が決定的となったのは自己をキリストであると公言したこと、かつ、再びキリストが来るという言葉をもって定まったという評言である。  「知るべし、イエスの死を決定したるものは実にこの一語にありしことを。さればこの事たる、イエスにとりては彼の生命を賭したる最大問題であったのである。人その生命を賭するの問題より重大なるものなし。再来は、イエスの死をもって守りたる真理中の大真理であった」(「マタイ伝に現われたるキリストの再来」1918・大正7年3月)  内村の俊敏な洞察力は、生命よりも深遠な重さが、キリストという名称にあることを見抜いた。すなわち、再び来られる人物も生命よりも尊い方であり、必然的に、再臨問題ほど重要事項はないと結論付けた。    キリストは最大の人物  政治も経済も宗教も外交も結局は人物の問題に尽きる、と彼はいう。人選次第で事態は良くもなり悪くもなるとし、能力や力量以上に人格や人柄を優先した人間観といえる。  こうした観念をもった彼が、その最高の理想にかなった人物と目したのが、善と義を体現したキリストの存在であった。さて、贖罪信仰は内村の信仰の基礎であり、無教会主義が際立ったのはこの信仰のゆえであった。彼は贖罪を執行する権能を一人のキリストに認め、キリストを至上の人物ととらえたのである。  つぎは、キリスト以外に、罪の世界と完全に無縁な人物はいないことを示した内容である。  「比較的の善人は比較的の悪人とひとしく、人間世界に多い。しかし絶対的に善なる者、義なる人が一人でもあるであろうか。…いかなる人にも不善不義の分子が混入している。外にこれが現われなくとも、心には必ずこれが潜んでいる。…ああ、すべての人は罪人である。義人は一人もいない。かつて一人もなかった。今も一人もいないー至聖なりし彼ナザレの人を除いては」(『ロマ書の研究』) イエスの人格や生涯を顧み、人類史を通じてイエスこそが「世界の最大人物」であることの力説である。同時にこれは再臨主の評定ともなっているだろう。   「世界の最大問題とは何であるか。…世界の最大問題は、世界を統御しこれを統一するに足る完全の人物はいかにして出現するかにおいてあるのである」(「世界の最大問題」1918・大正7年4月)  この評論の一節は、「完全な人物」といえる要件を列挙している。宇宙の勢力が付帯していること、その権能を正しく使用する器量のあること、さらに、平和を実現する能力をあわせもっていることなどで、英明・高潔な人柄と高邁な理想をいだく人物を想定している。  同論文では、聖人たちとの対比からもキリスト像を素描していた。  「古今東西を尋ぬるに、少数なりとも聖者賢哲なる者がある。シナにもインドにもあった。彼らはたしかに明哲の士であり、また神を求むる者であった。道と義とに対しての彼らの熱愛は、その一生を通じてあざやかであった。…」(「同文」)さらに、「しかしながら」と言葉を継いで、キリスト以外の人物たちからは「あるものの欠けたるを感ぜざるを得ない」と印象的な言葉を吐露している。  「しかしながら、問題は、彼らが真に悟れる者なるか、真に神を求めし人なるか、いかんに存する。…われらは彼らに、何かしら、あるものの欠けたるを感ぜざるを得ない。…彼らは神を知らぬではないが、その知り方は充分ではない。彼らは真の神を知った人ではなかった。すなわち神を真に知った人ではなかった」(同文)  こうした連続の思索から、偉人・英雄たちの頂点に立つ人物がイエスであり、さらに、再臨のキリストなのだという帰結にたどりついたわけである。   内村の再臨信仰は、神の人によって世界の刷新と平和がもたらされることはもとより、加えて、人類の完全な救済にともなって天国が実現するという信念の上に立っていた。それは宗教の目的が人類の救いにあり、罪と死からの全面的な解放がなされることを意味し、それを成就する鍵に、キリストの顕現があるという確信的な信仰なのである。  「宗教の目的は死の撤去にある。…死が生にのまるるまで、宗教の目的は達せられないのである。しかしてキリスト再臨は宗教最後の目的の実現である」(「万民にかかわる大なる福音」1919・大正8年1月17日)      終末における大審判  聖書に預言されたキリストの再臨には最後の審判が付随している。内村の審判論には、地球の物理的な破滅とか人類の滅亡といった過激な発言はほとんどみられない。キリスト教の一般的通念からする最後の審判は、すさまじい神の怒りの告知である。人類社会の壊滅だけではない。大音響とともに天地が崩れ落ちる宇宙的恐怖の大破壊なのである。   そうした中で、クリスチャンのみが救済され、天国へ昇る特権をもっていると信じてきたのが伝統的なキリスト教である。しかも、救われるのは自分の属する一教派の信者だけという。内村の在世中の再臨信者は、そのような狭量な信仰をよりどころに最後の審判に処していた者が少なくなかった。  再臨運動を始動した大正時代、教派神道の大本教が、世直しの教えをもって世の終わりを喧伝していた。しかしながら、大本教は国家の激しい弾圧を受け壊滅してしまう。内村の終末観は、恐怖を煽り立てる終末的宗教や少数のみの救いに執着する救済とは根本的に異なっていた。  無教会の贖罪観は、最愛の弟子をも破門にするほど峻厳であった。贖罪と再臨は本来一致することの難しい教義である。しかし逆説のようであるが、贖罪への強固なこだわりがあったため、いったん再臨と結び付くと、新たなインスピレーションが蘇生したといえる。贖罪を核とする救済観は、再臨信仰が深まる過程で飛躍的な広がりをみせたと了解できるのである。  その救済観の全容を知るには、贖罪の義と許しの関係や再臨教義の両面にわたる吟味が必要となる。ロマ書のテキストには、信仰者とは信仰によって神に義とされた罪人であると記されている。そして、信仰の義人として生まれ変わるのに不可避的なのが神の裁きであった。  内村は、愛と義の両性を備えた神が、どうすれば本性を損なうことなく罪人に救いをもたらすことができるかを慎重に模索した。彼の功績は、信仰による義認を、合理性をもって熟視したところにあるといえる。  信仰上の重要な問いを彼は投げかけている。愛なる神は罪人を救おうとされるはずだが、果たして愛でただちに救済されるであろうかと。この設問に対して、いかに全愛の神であっても「軽々しく罪ある者をゆるし得ない」、正義の神がやみくもに救済を施すことなどはない、という厳粛で鋭利な分析と向き合ったのが内村であった。  「神は軽々しく罪ある者をゆるし得ない。彼もし罪人を無条件にしてゆるすならば、彼の威厳は失せ、彼の公義の権威は落ち、彼の宇宙の秩序は破るるに至る。すなわち神は神ならぬ者となってしまうのである。…彼の宇宙の秩序はぜひとも保たれねばならぬ。神はぜひとも神でなくてはならぬ」(『ロマ書の研究』)  この論理性をおしだした省察の要点は「神はぜひとも神でなくてはならぬ」という言葉に表れている。神の義が罪の許しに大きくかかわり、公義の神が宇宙の秩序を自ら破壊することなどはありえない。罪人の救いにおいて妥協も譲歩もないという強い解釈を表明したのである。  では許されざる者の許しと救いは、どのような方法でなされるのであろうか。ここに彼の苦慮があった。神が罪や不義を審判するという考えは、贖罪の性格を根底から探索する過程で導かれたのである。罪人が神に立ち戻るためには、刑罰の理論のように、ある種の償いがなければならないというのである。そして、最後の審判を万民に対する最終的究極の裁きであると断定した。    神の愛と裁き  内村には、徹底して贖罪観を堅持する方針とは対照的に、信仰の人生の初期から、愛と許し、死にうち勝つ愛の本性、神の愛の普遍性などの研究にも情熱を傾けていた。短評「最大の異端」は、彼自身が教会側から一方的に異端視され、非難・中傷をうけた体験を踏まえての言説であろう。  「最大の異端はキリストの神性を拒み、贖罪、復活、昇天を拒むことではない。最大の異端は兄弟を憎むことである。聖書は明白にいっている、愛なき者は神をしらない。神はすなわち愛だからである、と。信仰の正邪は行為の善悪によって定むべきである。その表白の文字によって断ずべきではない」(「最大の異端」1908・明治41年6月)  とかく宗教人は、信仰に執心するあまり必要以上に情熱を燃え立たせてしまうものである。そして過度の熱気が妨げとなって、信仰の本質を見失ってしまう場合がある。異端をテーマにしたこの短文は、人を愛することの重要さがキリストの教えの核心にあることを見事に言いえているのではないだろうか。  最愛の娘・ルツ子を亡くした年の文章になると、以前に発表した「姦淫罪に対するイエスの態度」の内容を一段階前にすすめて熟思している。  「彼(注・イエス)の審判は神学者ならびに教会信者の審判とは全く違っておった。彼らは法をもって、さばかんとしたるに対して、彼は愛をもって、さばきたもうた。彼は女の悔い改めのゆえをもって、その罪を問いたまわなかった」(「未来の裁判」1912・大正1年7月)  姦淫の女は、ユダヤの厳格な律法に基づく石打の刑罰を受ける運命にあった。が、イエスの一言がその女を救ったのである。憐みによる愛の審判がそれであった。聖書のこの記録を拠り所に、終末時の最後の審判も同じようになるだろうと読み取っていた。 続いての考察は愛の視点から見た文章で、終末とともに生起する最後の審判を、「愛の裁判である」と予感している。  「いけにえを好みたまわざるキリストは、人をさばきたもうにあたって、重きをその人のあわれみに置きたもうのである。あわれみは、キリストが人をさばきたもう時の標準である。…人の永遠の運命は主としてこれによって決せらるるのである。最後の審判は愛の裁判である。愛せしか、愛せざりしか、これによって、限りなき刑罰か、限りない生命かの別が定まるのである」(「同文」)  彼の心の中に終始伏流していた心象がこのあわれみの愛の心性であった。この愛の賜物のゆえに、審判をむやみに怖れることはないと明示した理由がわかるのである。  確かに、彼の示唆した愛を基準に救いを再考してみると、峻厳な贖罪の教えも一変してしまうことに気づく。償いを果たすことから、それがついには恩恵ともなり、裁きから一転して希望の道が開かれるのである。そのことを『ロマ書の研究』では、神の「あわれみ」という用語で補足説明している。  「審判はもとよりなくてはならぬ。しかし、あわれみは審判以上にある。審判は三、四代に及び、恩恵は千代に及ぶ。怒りは暫時にして、あわれみは永久である。…神は…あわれみと恵みについては、真の燃ゆるがごとき熱心を起こしたもうのである。これ旧約時代よりの明らかなる教えである」(『ロマ書の研究』)  罰すること自体が神本来の目的ではない。審判論議の中心ポイントがここに集約されている。 驚かされるのは、明治三十年代の初期の論文に、こうした思考が目につくことである。  終末現象の注釈として物理的破壊を説くこともあったが、それ以上の論調が明らかに流れをリードしている。 回心後のキリストの目的・役割を探索した論文には、再臨の目的が罪の世界の救済であるとしつつ、神の本意は物理的審判にないことを確認している。救済は審判よりも大という結句である。  「審判の、再臨に伴うは確かなれども、審判が再臨の目的でないことはさらに確かである。主の来たりたもうは救わんがためであって、さばかんがためではない。…キリストは恩恵を万人に施さんために再び臨りたもう」(「万人にかかわる大なる福音」1919・大正8年9月2日) 再臨信仰が、彼の贖罪観と万人救済の観念に真新しい力ある光を照射していることがわかるのである。  最後の審判と万人救済   内村は、終末のあとに生起する未来社会の出現を強く待望し、そのことを数々の文章でつづっている。  「世の終末の近接は、単に終末の近接ではない。また実に新しき時代の到来、慕いつつ待ちし主の顕現、自己の救いの完成、復活栄化、光明と栄光と生命との満ちあふるる時の来ることである」(『ロマ書の研究』)  関東大震災勃発からわずか2月目、日記文に記したことも未来へのあふれる希望の文面であった。  「黙示録の復習に大なる興味を覚えた。世界が終末に近づきつつあるようにみえる。ドイツのシュペングラー、英国のバートランド・ラッセルらは人間の哲学の方面よりおなじことを唱えている。しかし聖書の教える終末は絶滅ではない。審判と破壊のあとにくる新天新地である」(「日記」1923・大正12年11月7日)  最後の審判とキリスト顕現の神学上の論点においては、彼は再臨が先行する説を支持し、審判がキリストの再臨に連携していることを説いた。理想世界の建設と平和の到来は、再臨顕現が第一で、それに続く審判による罪悪の清算がなされた時点から始動されると認識していたのである。  「神がキリストをもって世をさばきたもうまでは、真の審判はおこなわれない。したがって真の平和は人の間に臨まない。黄金時代は最後の大審判を経て後に来る」(「審判と公義と平和」1918・大正7年5月)  彼の抽出した終末の審判には二種類があった。伝統的終末観に基づく物理的な破壊による審判が第一。第二は、人間の魂の救いに関する内性的審判で、主眼はここにおかれている。 さて、万人救済説が実際的な意味合いを帯びるのは、実際的な問題として終末が叫ばれるときである。  内村の場合、救いは万人救済と深いところで固くつながっていた。この点は以前の評論で、長く生き続けた重要な教義的課題であったことは指摘したところである。具体的には、旧約聖書の解釈を通して万人救済の可能性を模索し、彼の論証によれば、イスラエル民族の生命が生々しく躍動する旧約の記録は、単に一民族の足跡ではなかった。イスラエルの救いばかりか、神は日本民族の救いにも大きくかかわっているという認識にたって、その経綸を発見しようと努めたのが内村であったのである。  「われらの霊魂が神によりて聖めらるる必要があるがごとく、われらの国家もまた神によりて救わるる必要がある。…旧約は主として『いかにして神が国民を救いたもうか』そのことをしるしたる書である。…イスラエルの愛国者に学びて国に真正の愛国者が出るのである」(「モーセの五書」1909・明治42年4月)  「神が個人を導きたもうも、国家を導きたもうも、その取りたもう道は同じである。…神はイスラエルを救いしと同じ方法をもって、わが霊魂を救いたもうのである」(同文) このように、日本民族の救いに意欲を傾けていた内村が、再臨以降になって、一層、民族の救いと万民救済に強い関心をもったことは想像するまでもないだろう。  ところである一つの問題を提供したい。個の救いの色彩の濃い贖罪観の対極にあるのが万人救済説なのである。贖罪がなければキリスト教は無意味になってしまう、と念を押すほどに贖罪信仰に徹した彼が、膨大なエネルギーを投入して万人救済を唱える不思議さはどう説明できるであろうか。  内村は、なにゆえに万人救済にこだわり続けたのか。彼の釈明に耳を傾けてみよう。  「余はこの説(注・万人救済)をいだくおもなる理由は個人的である。余は思う。もし世に救われない人が一人でもあるとするならばその人は余自身である。余は罪びとの首である。ゆえに余が救いに漏れざらんがためには、すべての人が救われなければならない。万人救済は余一人の救済のために必要である、余は普遍的救済を信ずるによってのみ、余自身の救済を確かめることができる」(「戦場ヶ原に友人と語る」1908・明治41年10月)  なんと、自分の救いを確かなものとするためにも万人救済がなければならないと、意表をついた言葉がとびだした。こうした独特な発想は、悪人にも救いの道のあることを説いた親鸞聖人の悪人正機説をどこか彷彿とさせる。確かに、内村の日本的キリスト教の表現には、仏教的思想の反映があったと思える。  大正末の日記文になると、狭い救いに偏った欧米キリスト教を批判的にとらえ、そして、万人救済説の選択によって、キリスト教がより普遍的・宇宙的な可能性をもちうることを記載している。  「万人救済説は、わが救いを保証するためにも必要である。キリストの復活をもって宇宙万物の改造がはじまったとみて、キリスト教の宇宙的意義が明らかになって、ありがたくある。西欧のキリスト教は救いを個人に限るかたむきがあって、それがために信者を偏狭ならしめたことは事実である」(「日記」1926・大正15年9月4日)  神の救いは宇宙にも かくして、内村の信奉する万人救済観は、終末における人類の救いに向けられた最大の媒体になった。  「神はすでにキリストをもって人類全体を救い給うたということである、すなわち世には救われない人とては一人もない」(「人類の神」1913・大正2年4月)という実感をいだいているのである。誤解を恐れずに言えば、あたかも、キリストの贖罪力が、全人類の罪の総和をしのいでいるという感をいだかせる言辞である。  「神は教会をもって世を救いたもうという。しかり、神はまた政府をもって世を救いたもう。学校をもって世を救いたもう。著述をもって世を救いたもう。美術をもって世を救いたもう。神が世を救いたもうみちは一にして足りない。神が世の救済を教会に『のみ』ゆだねたまいしとは、余輩にはどうしても信じ得られないのである。神は人類の神であれば、あまねく人類に臨みたもうに相違ない。聖職と唱えらるる階級の人を経るにあらざれば、われらに臨まざるような神を、われらは信ぜんと欲するもあたわないのである」(「同文」)  宇宙的救済観の論考はまだ続く。  「神は聖められし霊魂をもって、最後に全く聖き社会を造りたまい、もって個人ならびに人類に対して最大最終の恩恵を施したもう。これ真正の救いである」(「キリスト再臨の二方面」1920・大正9年6月)  『ロマ書の研究』には、「われらは主なる着眼点を全人類の救いというところに置かねばならぬ」との記載がある。その文節は予定の教義から救いの事象におよび、「広き視野において」問題の本質をみきわめなければならないとしていた。  やがてこの思念は、人類から万物救済へ拡大しつつ、宇宙的次元での救済の完成図を構築してゆく。  「神の救いの御計画の内には国家あり、人類あり、世界あり、宇宙ありである。神は万有の救いの一部分として、われらに霊魂の救いを命じたもうたのである。そして神と共に働くわれらは、さらに進んで国家、人類、世界の救いに従事するのである」(「救いの範囲」1924・大正13年8月)  また言う。  「神が特別にイスラエルを選び給いしは、彼らをもって全人類を恵まんためであった。…神は部分よりも全体を愛し給う。そして時に部分を愛し給うはこれをもって全体に対しその顕わさんがためである。少数者を救い給うは万人を救い給わんがためである。神が少数の聖者を恵まんがために宇宙と人類とをつくり給えりというは、それこそ大なる異端であるといわざるをえない」(「再び万人救拯説について」1926・大正15年12月)  内村の再臨運動は個人から民族、国家、世界、大宇宙に至るまでの、救いの可能性を一直線に志向するダイナミックな運動であったことを確認しておきたい。  23 再臨はいつ、どこに、どのように  裁きは内面にあり 裁きと救いの問題を前回に引き続いて論じてみたい。内村は実に様々な着想を得ては再臨における審判と救済について説き起こしているのである。  再臨信仰は彼の贖罪観と万人救済の観念に新しい光を照射することになった。本来、そのキリスト教の根幹は十字架から復活したキリストの贖罪信仰であり、復活のキリストに対し絶対的な信仰を堅持していた。再臨回心以降は、この信仰観を土台に万人救済的観念を強めたわけである。  その場合、 終末の接近と審判は神の摂理として回避できないという点で一致していた。さらに審判を二つの種類に見定めて、正義の神という視点から、より内的な方向にシフトした救いを模索したのであった。内的という意味は、例えば、善悪の行為など、人間の内省によびかけて裁きを考えてみるということである。  次の論文はそうした実例で、神の審判は「内なる善人が光明をきせられる」ことであると簡潔に表現している。  「公義のなき所に平和なく、審判のおこなわれざる所に公義はない。そして審判は善悪の判別である。善が公的に賞せられ、悪が公的に罰せらるる事である。内なる善人が光明をきせられ、内なる悪人が幽暗においやらるる事である」(「審判と公義と平和」1918・大正7年5月)  最後の審判の性情を外的・物理的なものではなく、善悪という内的な尺度で分析しているのである。また別の文になると、審判と救いとが同時的にかかわってくるのが再臨なのだという思考もある。  「再臨はただにうるわしき教義ではない。これは救いであると同時に審判である。審判の必要があればこそ再臨の必要があるのである。そうして罪悪のない所に審判はない。そうして審判のない所に再臨はない」(「再臨と闇黒」同年7月)  いうまでもないことだが、この字句の特徴は、審判を人間の内なる世界の問題ととらえているところにある。すなわち、義の神から発せられる正義の鉄槌、それこそが真の審判に他ならないという解釈なのである。人間を殺したり滅亡させることが審判の本質ではない点を間接的に告げているのである。  人生の後半に関東大震災に遭遇したとき、彼が切実に感得したことは、最後の審判の前兆という思いであった。このときの大災害の体験を契機に、日常的な社会現象が神の摂理と裁きの「顕現」であることを感じ取っていった。  「新聞紙に現わるる日々の出来事が、神が世におこないたもう審判である。審判は顕現である。隠れたるものが現われる事である。……善は善として現われ、悪は悪として現わる。……政変、戦争、恐慌、ことごとく顕現であって、歴史である。レベレーションである。黙示である。人はもだすも、神が事実をもって示したもうことである。かくして神の審判は来世を待たずして現世においておこなわるる」(「歴史と審判」1927・昭和2年5月)  さらに著作『十字架の道』の中で、マタイ伝二十五章のヤギと羊の比喩から救済を論じた。そこでの展開は、万人救済をより具体的に検討したもので、審判は全人類的であるとしている。  「神はキリストをもって不信者をも審き給うとは聖書の明らかに示すところである。そして異教の民はことごとく滅ぼさるるのではない。ある者は助かりある者は滅ぶという。しからば審判の標準はなにかというに、神の子キリストに対する各自の態度である。キリストを受くる者は助かり、受けざるものは亡ぶという。……キリストをいかにあつかいしか、それによって運命が定まるのである」(『同書』)  再臨を中心とする人類に対する救いと審判の基準は、宗教や儀式、人種の相違などにあるのではない。「キリストをいかにあつかいしか」にあると説く。  これは審判を人間の内省・内面性にかかわる事柄としているわけで、義や愛や善に関する既述の審判論と近似している。描出しようとした最後の審判の試みは、贖罪による救済の思索と基本的に変わらない。すなわち、姦淫の女が涙の改悛によって救済されたように、神の前における真摯な悔い改めといった内省がポイントになっているだろう。  そのように考えざるをえない文節をここに引いてみたい。  「われらは重き罪人なりといえども、悔い改めの涙をもて、臆せずして彼(注・再臨のキリスト)の恩恵の座に近ずくべきである」(「未来の裁判」1912・大正元年7月)  間違いなく、彼は人間の内面のあり様、内的な精神的要素を一つの条件として、救いの可能性をみいだそうとしたのである。しかも全人類的な規模の救済を意図したのである。  死の前年、昭和四年十月の日記には、キリストを前に選民、非選民、信者、不信者の区別はなく、人類が平等に救いの恩恵にあずかるとつづっていた。結局、内的な審判の論考の結果、人間一人ひとりにかかわる根本的な要件が再臨問題であることをつきとめ、さらに、神の無窮なる救いと普遍的な愛を知らしめるために人類的な救済観を公にしたといえる。    愛がなければ  彼の審判探求は一貫して愛や善など、人間の内的要因に関連するものであった。外的な審判論考はひかえめで、精神性を主調とする思索であったから、心にやましさのないただしい人間には、やたら恐れる事象ではなくなる。もはや滅亡・壊滅といった字義通りの物理的審判ではないからである。  最後の審判の真義は、自己の罪が清算されることであり、「慕うべきもの、……讃美すべきもの、祝福すべきもの」と、それこそ恩恵と感謝の賜物という理解につうじていったわけである。  「再臨はもとより恐るべき事ではない。喜ぶべき感謝すべき事である。その時に信者の救いは完成せらるるのである。……懲罰は再臨の目的にあらず。神の栄光の、天と地とその内にあるすべての物の上に現われんがために、主は再臨したもうのである」(「再臨の恩恵とその時期」1918・大正7年8月)  喜びと感謝と希望の生涯となるように、万事おこたりなく最後の審判に備えよ、と喚起しているのがこの短文の調べであるだろう。  審判問題について、これは当然すぎることではあるが、無教会主義の教えが大きく反映していたことを付言しておきたい。ことにその影響の最大なものは愛という一件である。 彼は罪人の救いとしての贖罪信仰を固持したが、自分の救いにしか興味を示さない自己本位で偽善的な信仰者を激しく嫌悪した。  彼によれば、利己的人間は、どれほど信仰者を装っても、けっして救いに至ることはないという。救済を己のみのものと考え、他者の為、愛や善に意識をはらわない者の救いはないという解釈は、まさしく、無教会の信仰的志向の所産なのである。  内村の生涯を顧みて思うことは、最後の審判における救いの裏付けとして、真の信仰と愛と善の実践だと述べている言葉が心に響くことである。その論拠は、大正半ばの日記文の記載である。聖書のヨハネの手紙の愛の文章に深い感銘を受けて、聖書的キリスト教の中心に愛がすえられていることを改めて確信しているのである。  「我が救われしか救われざるかは愛しえるか愛しえざるかによって定まるのである。まことに明白である、合理的である。……しからば愛せんかな、もっとも愛し難き人を愛せんかな。愛しうるように祈らんかな。我に愛し難き人のあるは彼らを愛しえて我が救いをまっとうせんがためである」(「日記」1920・大正9年6月1日)  三年後の日記でも再び愛の枢要性の表白である。  「もっとも楽しいことは聖書に神の愛をさぐることである。キリストといい、彼の贖罪の死といい、復活といい、昇天といい、すべて神の愛の示顕である。……愛を表わすための信仰にあらざれば神は受けいれ給わない。真の宗教は神と人との愛の関係である。このことを思って我が心は春の日光を浴びるがごとくにあたたかになる」(「日記」1923・大正12年3月23日)  正義をいくら標榜し高度な教義や信条をかざしても、愛の伴わない限りは空疎でしかないというのである。こうした言辞が人生の後半にたびたび出現し、最後の審判の判断に有力な力を添えたことは自然な流れのようにも考えられる。  比較参照してほしいのは、「救済の三段階」という明治時代の論文である。  「行いで救われるのではない、信じて救われるのである。信じて救われるのではない、聖霊をうけて救われるのである。行為は信仰をうながすために必要であり、信仰は聖霊を招くために必要である。行為、信仰、聖霊は救済の三段階である。人はそのすべてを経由しなければ神の天国にはいることはできない」(「救済の三段階」1907・明治40年7月)  再臨回心前のこの趣意が、その後の考え方や心境と大きくかけはなれているとは思えない。彼ほどに、神が愛そのものの実存者であることを個人として体験し実感した者は稀であろう。そうであるから、晩年に至り救いの重要なキーとしての愛が全面的に輝きだしたのである。  雲に乗って来るのか  再臨はイエスのときと同じく地上にあり、空中ではない。神の国とは地上に建設される地上天国であると、彼は論理性と合理性を駆使して探求した。再臨主の顕現は、神の国を建設する上で絶対的要件であり、メシアの再臨のない地的天国などありえないのである。こうして、再臨論の総決算ともいうべきメシヤ顕現の問題が大きくクローズアップされた。  では、再臨はどのような形で起こるのか。内村の解釈は、クリスチャンの既成概念を打ち破るものであった。クリスチャンは一般に、終わりのとき、キリストが雲に乗ってくるという聖句をそのまま信じている。  それに対して大正七年の「乗雲(じょううん)の解」で斬新な解釈を示した。聖書の原典にそって釈義するのが彼の研究の基本姿勢で、再臨を確信した執念の論文と称されるべきものである。ヨハネの黙示録やマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝には、キリストが雲に乗って降りてくるという記載がある。これらを評して彼は、初代キリスト教の聖書記者は、再臨の扱いにきわめて周到な配慮を施し、自由主義神学が非科学的とするものではないとした。すなわち、深い内容がこの字句に隠されているという。  マタイ伝二十四章の「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。……人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」という一節の「乗って」という語句を挙げて、原典ギリシャ語聖書にその該当句のないことをつきとめた。  次に、「乗って」の文字が四つの福音書と黙示録一章七節のいずれにもないことを明らかにする。一方、英語版聖書は「coming on the clouds of heaven」で、やはり「乗って」という字句がみられない。これは英語版のほうが原典により近いという見解からの傍証とした。  原語「EPI」の注解では「統御」あるいは「統率」という意味のあることから、「雲を統率して来たる」の訳がより原典に忠実であると説いた。「雲に乗って来る」の部分を「雲を統率して来たる」と読みこんだのである。  次はマルコ伝十四章六十二節と黙示録の字句である。ギリシャ語の前置詞「META」には、「ともに」とか「その中にありて」の意味がある。またルカ伝の原典の「EN」の前置詞には「まとう」または「着る」との意味合いのあることから、「雲をまとうて来たる」、あるいは「雲を着て来たる」と訳出した。  総合的に検分した末に、「乗って」という字句は意訳にほかならず、聖書記者は「乗って」と述べていたのではないという結論に到達した。  マタイ伝の訳では「雲をひきいて来たる」「雲を統率して来たる」とし、マルコ伝では雲と「ともに」きたる、あるいは、雲の「中にありて」きたるととらえ、さらにルカ伝の文節からは、「雲を着て来たる」「雲をまとうて来たる」という解釈を取りだした。  では日本語聖書「乗って」が意訳とするならば、聖書記者は、実際に、どのような意味をそこに込めていたのであろうか。  彼はさらに挑戦する。「さらば『雲』とは何であるか。雲とは理学上の湯気のかたまりであるか。もし、そうであるとしても、すこしもさしつかえはない。……しかしながら、『雲』とあるがゆえに、ただちに湯気のかたまりであると解するは、あまりにも平凡なる見方である」(「同文」1918・大正7年6月)  「雲」の注釈にあたって、その背後にあるものを内村は目ざとくとらえ、「ほぼその何たるかを推測することができる」と感想を述べている。雲は雲であって、実際は、雲ではないという鑑識眼が働いているのである。  彼はこの回答めざして、ヘブル書簡「わたしたちは、このように多くの証人に雲のように囲まれているのであるから」の箇所と、加えて、ユダ書の「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた」とを引き合わせて特定していったのである。「乗雲の解」の結びの部分を書きくだしてみよう。  「主は聖き万軍に、雲のごとくにかこまれて来たりたもうのではあるまいか。しかしてそのことが、聖書記者らが人の子、雲とともに、あるいは雲を率いて、あるいは雲にまとわれて来たりたもうとしるしたることではあるまいか。天の万軍の聖衆にかこまれて来たりたもうことを、雲にかこまれて来たりたもうと言うといえども、余輩はその間に何らの背理をみとむることができない」(同文)  苦心の解釈は、「主は聖き万軍に、雲のごとくにかこまれて来たりたもう」に凝縮されている。原典探索から出発した「乗雲の解」の試論は、再臨のキリストが聖なる天の大群衆に囲まれ、あたかも雲が天から降り立つように現われるという帰結になった。「雲に乗って」を「雲のごとくにかこまれて」と解読したのは、地上の神の国を希求してきた姿勢と無縁ではない。こうして再臨論は、地上に実体をもって登場するという革新的なメシア像を叙述することで結実した。  どこに来るのか  第一次大戦の終結からユダヤ民族のパレステナ帰還運動が活発になると、内村は相次いで論文を発表した。それらは「聖書の預言とパレスチナの回復」(1918・大正7年5月12日)「エルサレム大学の設置」(同年9月)「地理学的中心としてのエルサレム」(同年11月9日)「万人にかかわる大なる福音」(1919・大正8年2月)などの講演であり、ユダヤ民族問題への関心の高さをうかがわせる。  再臨のキリストがどこに顕現するのかについては、聖書的観点からすればパレスチナが妥当と考えられる。パレスチナはイエス・キリスト生誕の地、そして十字架につけられた歴史上の土地なのである。確かに、再臨がパレスチナであるとの評論があり、そうなると再臨はイエスの生誕地ということになる。  「キリスト再び来たりて世界王国を建設したもう時、彼は必ずエルサレムにくだりたもう」(「地理学的中心としてのエルサレム」)  「キリストは再び地上に現われ、エルサレムを中心として世界を治めたもうとは、聖書の明らかに示すところである」(「万人にかかわる大なる福音」同年2月)」  ところで、こうした一連の考察をしている最中に、大戦の終結後、パレスチナにユダヤ人の大量入植が進められる顕著な動きがあった。思うに、こうした国際情勢が追い風となって、キリスト再臨の地をパレスチナに思いめぐらしたのではないか。だからパレスチナに関心が向けられたからとしても、再臨をその地に結論づけていたかどうかはまた別の事柄といえそうだ。  彼の胸中と思考はそう単純ではない。再臨論議の詳細になると、場所や天国建設など複雑にからみ、場所をめぐる議論には断言的といえる度合いはない。それには譬えや象徴で表記された福音書や黙示録の反映があったろうし、彼の文明史論も深く関与している。独自の文明論の展望は抑え難いエネルギーとなり、再臨の回心後もアジア、ことに朝鮮半島を注視していたことを忘れてはならない。  晩年の内村は、アジア発の精神文明の勃興をしきりに唱えた。人類歴史上に現われたイエスや孔子や釈迦やマホメットといった聖人たちが皆アジアから出現しているという事実から、霊的精神文明の誕生をアジアに嘱望していた。  東西両世界を対比する彼の歴史眼は、明らかに東洋を中心にしていた。しかもその興味がパレスチナに注がれたのと同じくらい、否、それ以上の情熱をもって韓国や中国など極東アジア地域にむけられたことは特筆すべきことである。  いつ来るのか  キリストの再臨を、全人類的規模の大問題と判断して公の場で高唱した内村であった。だが、再臨顕現の日時については、うって変わって寡黙となった。無関心と思えるほどにきわめて消極的で、なんともそっけないのである。  それにはある事情があったようである。再臨運動が活発・盛んになるにつれ、一部の人たちの軌道を逸した行動が彼を閉口させていたのである。再臨狂の突出がそれであった。過激すぎる信仰が信者に入り込むのは、彼の信条としてどうしても承服できなかった。日記には、再臨狂の出現を、自己の「伝道の結果」だと自戒的に書いている。  「余の伝道の結果としてすくなからざる宗教狂を生じたということは実に歎かわしきことである。余の聖書研究の奨励が聖書狂を生じ、キリスト再臨の唱道が再臨狂を産んだ。これを思うて伝道が全くいやになる。実に一人の真の信者を作らんがためには百人の偽信者を産ぜざるを得ない。これ今日に限ったことでない」(「日記」1921・大正10年12月23日)  内村個人の信仰は常に積極的・情熱的であったものの、その心的性状は、理性の力で絶妙なバランスを保っていた。再臨回心は劇的であった。しかし、感情の赴くままの無分別な振る舞いは欲するところではなかった。  彼にはあまりに熱を入れすぎて不本意な講義に終わった失敗談がある。旧約ダニエル書の注解講義を催したとき、北海道、長野など遠方からの聴衆を前に思わず熱演してしまったというのである。  「講演の題目はダニエル書三章であった。……ネブカドネザル王の命を拒んで金像を拝せざりし条を講じて自分の実験を述べつつあるように感じ、言葉は自づと熱烈ならざるをえず聴衆もまた熱化されしように見受けた。しかし講演会においてもとむべきは冷静なる研究的態度である。熱烈は誉めたものでない。余は自己を抑制するの必要を感じた。リバイバル的熱火は力をつくして避くべきである」(「日記」1920・大正9年1月1日)  しかしこの体験はまれで、過熱する信仰の弊害と一過性の熱情で人を感化することを諫めていた。その信仰の本領は、内なる炎を理性で抑制しつつ燃焼させることにあり、穏やかな聖霊の働きを歓迎した。「もとむべきは冷静なる研究的態度である。熱烈は誉めたものでない」には、長年の研究と信仰生活で培った基本的精神がこめられているだろう。  再臨運動の絶頂にあっても黙示的終末を信奉する最中でも適切な采配をふるうことができたのはこの精神があったからである。  ここに動と静の情感が絶妙にコントロールされた内村らしい恰好の一文がある。  「国を愛せよ。しかり、国人に国賊として排斥せらるるまでに深く国を愛せよ。教会を愛せよ。しかり、異端として教会に放逐せらるるまでに強く教会を愛せよ。神を愛せよ。しかり、エリ・エリ・ラマ・サバクタニの声を揚げて神を愛するに至るまでに深く強く神を愛せよ」(「強烈の愛」1916・大正5年)  神を心底愛する激情と理性的な沈着さがともになければ、こうした文章は書けるものではない。  さて、再臨狂の出現は女性に多く目立った。日時や場所などの事象に心を奪われ、信仰の本道から逸脱する大きさに、内村はやりきれない悔悟に襲われた。再臨は、聖書的知識を欠き、心の準備のままならない者にはあまりにも危険な教えであることを悟らされたのである。  死後に公開された「再臨再唱の必要」は遺言にふさわしく意味深長な内容である。  「再臨は聖書の結末である。ゆえに聖書のすべてがわかって後に、少なくともその大体がわかって後に、わかるのが再臨の教義である。しかるに、そのあまりに壮大壮美なる教義であるがゆえに、人は始めてこれに接してその肝をひしがれ判断を乱されやすくある。世にいわゆる『再臨狂』の多きはこれがためである。私はキリストの再臨を説いて、多くの再臨狂の実例に接した。……法は人を見て説くべしであって、再臨の教義を受くる準備なき者にこれを説くは大いに慎むべきであるを知った」(「同文」1930・昭和5年4月)  一読すると再臨狂騒動に向けての反省の弁のようである。彼自身はもちろん再臨の切迫性を認識していた。しかし再臨狂に接してからは、「法は人を見て説くべしであった」「十字架がわからなければ再臨はわからない」と再臨論議にブレーキをかけたのである。『ロマ書の研究』にも述べている。  「すでにキリスト(注・イエス)出現し、その十字架の犠牲成りて、今や旧約時代は去り、新約の時代となった。しかしこの福音宣伝の時代は決して永久に続くものではない。これには必ず終わりがある。しかもその終わりたるや、決して長き未来のことではない。比較的近いうちにこれが来るのである」(『同書』)  世の終わりは「比較的近いうちに」招来されると断じ、再臨が絶対的である以上、この約束を信ずるだけで十分という。日時や場所などの立ち入った詮索に封印をしたのも同じ理由からであった。  終末の到来、近づきつつある再臨の予感はますます不動の意志となった。「預言研究の必要」も死後に発表された遺稿論文である。そこでは、人類歴史の奥底に神の摂理が疑いようもなく働いていることにふれ、世界中で神の業が成就していることを披歴した。  「……歴史はすべて神のみこころの現れである。そして神は何事をなすにもまず預言者をもってこれをあらかじめ告げたもうとのことである。……正当に預言を解して歴史がわかり、歴史において生きたる神のみわざを見る。……キリスト教が真理たる証拠はどこにあるか。世界今日の状態においてある。この破滅に瀕した文明の世界、これは聖書が預言せるとおりであって、信者の救いの希望は、この暗黒と密接の関係を有するものである。……わが霊魂の深所において働きたもうエホバの神は、大世界の舞台の上に、国家の興廃、国民の盛衰に、そのみこころを示したまいつつある」(「預言研究の必要」1930・昭和5年4月)  恣意的に日時の特定を避けながら、再臨の約束が間違いなくなることをもって満足している。そうした心持ちは、「いそしみて待ち望む」という一言に凝固している。  「その日その時は、ただ天父のみこれを知りたもう。……そうして知らざるがさいわいである。知らざるがゆえに、いそしみて待ち望むのである。……余が今特にもとめてやまざるものは、忍んで待ち望むの心である」(「余がキリストの再臨について信ぜざる事ども」1918・大正7年2月)  24 神の国とはどのような国  民主主義ではない政体  キリストの再臨問題を考証した内村は、再臨のメシヤを主体にした神の国の内郭へと踏み込んでゆく。かねてより純粋な世界や神の国を心から憧憬していた彼は、再臨の回心を経た帰結として、「来たりつつある現在」(「再来の意義」(1918・大正7年3月)という観念で未来世界に対峙するようになったのである。  その際、聖書から神の国につながるイメージを取り出し、それらの素材を適時に組み立てながら神の国の構想に励んだ。以下、彼の目論んだ神の国の核心とその内実に迫ってみたい。  世界平和の実現をつねひごろ念願していた彼にあって、神の国の様態が神秘的・観念的な装いではなく、具体的な形をとること、つまり、現実的な統治機構を備えることになったとしても別に驚くことではないだろう。すでにそうした構想は、再臨体験以前に描いていた。著作『宗教座談』で、神の国の支柱に神を仰ぎ、神とキリストによる「神聖なる政治」の機能する神聖国家をうたっていたのである。  文明批評家として、世俗的な民主主義思想に一定の批判的距離をおいていた人が彼であった。大正九年の「キリストの再臨の兆」(1920・大正9年9ー10月)の評論では、デモクラシーを終末に出現する一時的な現象と規定していた。  それだけではない。「世界は帝国主義によりて救われざりしがごとくに平民主義(デモクラシー)によりて救われない」と断じたのが、同年の短文「余輩の立場」(1920・大正9年)である。こうした論考から、デモクラシーに信をおいていないことは一目瞭然である。また、日記文の中にある次のような強い語勢の言葉にも注目しなければならない。  「余の見るところをもってすれば、キリスト教は資本主義でもなければ、また社会主義でもない。キリスト教は神と霊とに活くるの道であって、この世の主義にはどれにも関係しない」(「日記」1923・大正12年6月25日)  この世のどの主義にもくみしないのがキリスト教だというわけである。  さらに、『ロマ書の研究』での叙述もユニークである。流行という一文字で総括して、帝国主義・軍国主義また労働運動や平和運動などと一緒に民主主義を横並べに叙述していた。それに従えば、人間社会で起きては消えてゆく流行のような事象は、民主主義も含めてみな流動的で永遠性はないとした。  「この世の風潮」は、どれほどに威勢を誇っても一過性で、「変転きわまりなく、何の貴さもなく、風のごとくにして、何ら捕まえどころのないものである」と一蹴したのである。それに対して、神を信仰する人間は、流行を追い求める社会にあって、「超然として独自の境を守っていなくてはならぬ」とただした。信ずべきは神であり、この世の俗事ではないというわけである。  「見よ、海中に屹然として立つ岩を。満潮のとき、潮は高鳴りしつつ、陸に向かって押しよせ押しよせ、海のただようすべてのものを共に動かし、岩に向かうていう、『共にかの陸に向かって行かずや』と。しかし岩は海底ふかく根をおろして毅然として動かない。また退潮のとき、岩に向かって『共に沖に出ずや』と誘うも、あえて顧みない。これまさにクリスチャンのこの世の風潮に対する態度でなくてはならない」(『同書』)  彼の信仰上の信条といえば、いうまでもなく神が最優先である。神の下のキリスト主義者を自認する内村は、「キリスト教は人間中心主義でもなければ信者中心主義でもない。神中心主義である」(『同書』)といったり、「キリスト教は信神主義」(「単独の賛美」1922・大正11年)と述べたこともあった。そうした説明からわかるように、君主政治や代議政治にはくみしない。あくまでも神とキリストによる王国の発揚にある(「単独の勢力」1928・昭和3年)。  それゆえに、真理の王国を治める思想は、神を主体とするものでなければならないとした。地的天国のデザインは、キリストを戴く王国であるから、その王国の中心の座を占めるキリストを、最大級の言葉でほめたたえたことはいわずもがなであろう。それらは例えば聖書からの語彙で、「天国の王」「王の王」「平和の君」「義の太陽」「世界平和の実現者」「人類の希望」などである。  ところで神の国が神政政治の統治体裁をとるにしても、それだけで国が機能し治まるわけではない。当然そこに住民がいなければならない。内村は神の国に住むにふさわしく、かつキリストに付き従う一群の人々を高貴な「神の王族」であると形容し、キリストの前に「小キリスト」の立場を保つと解釈していた。    天国は家庭のようなもの  ここでの検証は、天国・神の国と家庭に関連する興味あるトピックである。結論を先に下すと、彼の天国観の内実は終始一貫しているといえる。日露戦争勃発前年のキリスト教の家庭・ホームにまつわる話から始めよう。  「世に欲しきものとて幸福なるホームのごときはありません。これは地上の楽園であります。これのない者は、この世にありてすでに地獄にある者であります。この世は工場であります。競走場であります。戦場であります。そうして家庭のない者は戦場にありて休息所を持たない者であります。ただ戦ってばかりいて休むことを知らない者であります。……私は断言して申します、ホームなるものはキリスト教の顕出を待って初めてこの世に現われたものであります。……ホームは確かにキリスト教の特産物であります」(「家庭の意義」1903・明治36年4ー6月)  つづいての論文には、神の国は愛の団体であるとする言及(「教会と神の国」1908・明治41年12月)で、天国は家庭に類似した形態をもっているとのコメントもある。  二つの文から心ひかれるのは、キリスト教による家庭を「地上の楽園」・「休息所」と称し、また、神の国を「愛の団体」・「家庭に類似」ととらえている点である。  キリスト教の本来は家庭的であったという指摘もある(「キリストの性質」1908・明治41年2月10日)。  神の国は教会以上に家庭的な様相を呈しているというわけである。実をいうと、内村は家庭運の薄い人であった。最初の結婚はいち早く破綻。アメリカへ遊学を決意した理由の一つに、傷心の心をいやすためという側面があったはずである。二度目の結婚も不遇で、不敬事件に巻き込まれ、辛苦な日々の中、妻が病死してしまう。結婚によって幸福をつかもうとしながらも、かなわなかったのが人生の前半であった。  そうした辛酸をへて、家庭のありがたさを実感したのが三度目の妻、静子夫人との出会いであった。静子との結婚は明治二十五年であったから、その点を心にとめて今一度これらの文章に接してみれば、胸中を察することができるだろう。  「家庭とは、神より受けた者がその愛を相互に交換する所であります。これはそれゆえに教会の一種であります。ただ家庭にありては、愛が少数者の間に限られるのと、霊魂の愛に加うるに肉体の天然自然の愛をもってするの差異があるまでであります。教会を縮めたものが家庭でありまして、これをひろげたものが国家であります。家庭は国家の基本であると言いまするのは、これは国家の単位であり、また縮画であり、また小規模であるからであります」(「家庭の意義」)  家庭が神からの愛を互いに交換しあう精神的な場であり、愛の家庭を国家の縮図としている。同時期の著作にも、愛の相関関係に触れて、「愛は単独で存在するものではありません。愛は相互的なものであります」との記載がある(『キリスト教問答』)。  次も、神の国を話題に説き明かしている。  「もし信仰によりてなりし団体を教会と称すべくんば、愛によりて結ばれし団体を家庭と称すべきなり。しかしてキリストの宣べたまいし神の国なるものは、教会に似たるものにあらずして家庭に類したるものなるは明らかなり」(「教会と家庭」1910・明治43年9月)  愛と信仰を比べ、神の国は教会的な国というよりは家庭的な国であるとし、「余輩は教会に入籍せんことを欲せず。愛の家庭に迎えられんことを望む」(「同文」)の一節などは、いかにも無教会の提唱者らしい切り口で、二つのうち愛を選択しているのである。  当短文と同じ頃に撮ったと推定される家族写真が残されている。内村夫妻と高校生の娘、中学生の息子の四人が仲むつまじくおさまった、平安と幸福なたたずまいを感じさせる一枚である。  彼の説く家庭観を誤解してはならない。それはいわゆる儒教的なイエの概念ではないからである。イエを中心とした伝統的家父長的家族関係をイメージしてはいないのである。家族と家庭は別もので、家族は肉体すなわち人間の集合体でしかない。  家庭とは、形のない精神的なつながりの、父母・子女たちが神の愛を因縁に結ばれた神のホームなのである。幼少のときに儒者の父親から薫陶を受けた彼は、無論、儒教道徳の良さをよくわかっていたであろう。しかしこと家庭ということになると、キリスト教的ホームに優るものはないというわけである。こうして、家庭を基底にその拡張された様相こそ、神の愛の薫る無窮の神の国に他ならなかった。    愛のきずなを重視  内村は愛のホームの原点を原始キリスト教時代に求めていた。『ロマ書の研究』の省察では、初代キリスト教のエクレシアを特別にあつかっている。エクレシアを教会の原像ととらえたのは、教会の組織化が不十分であった時代に、信者をつないだ主要な要素に愛による求心力を認めたからであった。  彼はこの愛の一団を理想視した。真の霊的教会とか、あるいは霊的愛の家庭という位置づけをほどこし、この地平をステップに神の国へと駆け登っていったのである。一般論として国家とは、国民をその構成員とする集合体のことをいう。  内村のいう国家の基礎単位は、前述のように神の愛を絆に結ばれた家庭である。そして神中心の家庭を提示したことから、家庭内の各人は相互に助け合う関係でなければならない。自己を律し、神から付与された責務を具備し、それを公正になしうる心の持ち主が神の国にふさわしいのである。こうした人びとを擁する社会や国家が、豊かな精神性をみたさないはずはない。  家庭の重要さを強調した短文は、晩年の「キリスト教と東洋文明」にもある。ユダヤ民族史は、家庭の記録をたどった歴史であるとしている。  「聖書は初めより家庭の歴史であった。アブラハム、イサク、ヤコブ、いわゆる烈祖はいずれも家庭の人であった。イスラエル人が家系を重んじたのは家庭の基礎を固めんが為であった。預言者の理想は国民各自が平和の家庭に宿る事であった。この理想を最も明らかに画いた者がイザヤ書32章15節以下である。その18節にいわく、わが民は平和の家に宿らん、煩いなきすみかに居らん、安らかなる休息所に居らん」(「キリスト教と東洋文明」1927・昭和2年)  どこまでも相互的な愛をはぐくむ拠点が彼のいう家庭であり、「平和の家」であり「安らかな安息所」であった。天国とは、この家庭的愛をたずさえて実践する共同体なのである。古代イスラエルの家庭の伝統と原始キリスト教のエクレシアに理想の姿を洞察した所以である。  愛の家庭観の評言の数々から、天国は信仰のみで行く場ではない、信仰だけで天国に入れるものではないとの論拠はここに明白である。    神から遠い聖職者  クリスチャンは、全般的に、神とキリストへの信仰がそのまま一直線に天国につながると信じてきた。果たしてそうであろうか。内村は神を信ずる一クリスチャンとして、同信の徒に向け仮借のない言葉を投げかけている。キリスト教信者のみの場所とは言明していないのである。  「天国についてなお一つ述べおきたいことがございます。それは私どもが天国に行きましたときに、その市民の中に思いがけない人のかならず多いことについてであります。多分かような人は決して天国にはおるまいと思う人が沢山におりましょうし、この人はかならずおるであろうと思うていた人がおりますまいと思います」(『宗教座談』)  文脈をおしはかると、天国論の精神として再臨後の視点と基本的に違いのないことがわかる。しかもきわめて現実的な指摘である。  天国にかなう者、かなわない者を書きならべると次のようになる。@富や位階や勲章は天国にはいる資格とはなりえない。A学者の集合所ではない。B世俗の道徳家がいく所でもない。C宗教家・神学者のすみ家ではない。D慈善家といえども天国にはいれるとはかぎらない。  そのほか、宗教を功利的にとらえる功利主義者やジャーナリスト、教育者、僧侶、神官なども批判の対象となった。くわえて、富や位階や勲章を象徴する職種として、藩閥政治を占有する為政者、偉ぶる役人、虚名を求める華族、倣岸な軍人たちにも容赦ない。財産や地位や肩書きが天国と没関係であることを率直に述べている。  そうした外的な要件で天国は保障されず、人びとがうらやむ華やかな世俗的成功などはなんらの条件にもならないのである。  ジャーナリストがあるのは、一部の新聞記者たちの時代的イメージが反映しているのだろう。反面、先鋭的な文学批判をくりだした小説家がない。これは文芸活動が盛んになるのが明治末になってからだったからだろうか。  目を見張らされるのは、天国は「宗教家・神学者のすみ家ではない」と、キリスト教の専門家、牧師や神学者たちを手厳しく否定的範疇に組みこんでいることである。  この言葉は、正義と反骨の人生を身上とした無教会の精神を強く思わせる。彼は信仰の世界に不純な要素が混入する生半可な生を許さなかった。クリスチャンは、信仰の自覚が不明でも信者でありうる。形ばかりの信者を装うこともできる。また、信じてもいない教えを前面におしたてる議論はいくらでも可能である。極端な話、無神論者が神を語り、宗教者然として振るまうこともできる。  しかしそれは、神に仕え聖職に従事する者の誠実なあり方ではないと主張する。神とキリストに奉仕する者を特に厳しく見つめたのである。こうした傾向は、スウェーデンボルグに熱中した青春期の思想遍歴とかかわり、彼の人格や思想形成の有力な素材になったといえる。天国にふさわしい者とは、道徳家や学者ではない、慈善家、聖職者とも限らないといった具合で、こうなると一般信徒は、一層影が薄くなってしまう。  それでは、天国に歓迎されるのはどのような人なのか。基本は「自己の罪を悔い、これを神の前に白状し、ついに神の救済にあずかって新しき人となった」「ゆるされし罪人」ということになる。十字架から復活したキリストの贖罪が彼の堅持した信仰の核心であるからである。  やがて再臨以降には、神の国と再臨のキリストを基軸としながら万人救済的色彩を強めたわけである。  「信者の救わるるのは神のこの聖目的のため、またキリストの栄えのためである。信者は聖国においてキリストという王の民たるべく救われるのである。すなわちキリストの栄えのために信者は救われるのである」(『ロマ書の研究』)  栄光の王としての再臨のキリストを主体に天国を語り、キリストを信じる人びとは、結果として神の国の「王の民」の栄誉に浴するとした。つまり「キリストの栄えのために」救われる恩恵を唱えた。確かに罪びとの悲願は救いの完成ではあるが、一方のキリストにあっても、神の国の住人が必要不可欠であるという認識なのである。  「自己の救いは自己のためではなく、神はキリスト王国の民を得んために特に罪びとを招きて救うと聞きて、われらの歓喜、安心、感謝はいまやますます高まるのである。……おのれの救われし理由を少しもおのれにおいて発見せずして、神の聖なる目的において見る。かくしてわが救いの絶対性を知る」(『同書』)  さらにキリストの招きにあずかることから、自己の「救いの絶対性」を発見し、「歓喜、安心、感謝」に満たされるのだという。こうして再臨のキリストによる救済論の展開は、罪びとの救いと完成に希望の可能性を大きく指し示した。  それは救いの対象が神とキリストを信奉する者のみならず、世俗の人たちにも注がれていることを意味する。天国や救いを命題に、万人救済を説いた内村の采配は、きわめて公平無私な束ね方であったといえる。  25 再臨運動にキリスト教会が反対  再臨運動の影響  内村の生涯の信仰的総決算というべきものが再臨信仰である。再臨運動はその信仰教義による人生のクライマックスにふさわしい軌跡を描いた。ヨーロッパのキリスト教国家群を巻き込んだ世界大戦の影響で世界は激しくゆれ動いていた。国内事情もけっして安定しているわけではなく、一皮むけば不安定な位相が随所に見え隠れしていた。そうした危機的・閉塞的な状況を打開し、解決の糸口を明快に示した再臨運動は、信仰の覚醒を促す性格も帯びていた。  題材は色々で、聖書を皮切りに教会問題、平和思想、文明論、歴史問題、科学、政治、人生観など多方面にわたる話題を繰り広げた。この再臨運動を一言でいえば、国民に向けたキリスト顕現の宣布と世界平和実現の希望のメッセージであり、かつ、自己の信仰告白でもあった。  一九一八年(大正七)には、くしくも、アメリカやイギリスでもリバイバル集会が開催された。日本の再臨運動はいつしかアメリカのキリスト教社会でも知られることとなった(「日記」1919・大正8年5月1日)。キリスト信者が2%に届かない極東の日本から、人類的なメッセージが世界へ伝達されたのである。内村は、日本の再臨運動が外国で紹介された返礼に、ニューヨークの再臨大会会場へ祝電を打っている。  再臨講演での内村の活躍は実に目覚ましいものがあった。運動始動の一年間に、四回も関西方面へ講演旅行を企てている。その動向にジャーナリズムも着目して、社会一般に広く喧伝されることとなった。  こうして再臨講演の場にはあらゆる階層と職業、年齢の聴衆が集った。牧師やクリスチャンはもとより、仏教僧や学者、実業家、政治家、官吏、教師、学生、主婦などがやってきたのである。当時の日本社会の縮図がその場に再現されたといえよう。  それを受け内村は、宗教的臭いをまったく感じさせない姿勢で、近代思想の該博な知識を縦横に駆使しながら自論を語った。凛とした空気が会場全体に張りつめ、聴衆は終始粛然と彼の言葉に聞き入ったといわれている。内容をどのように受け止めたかはともかく、世に知られた無教会のリーダーに一定の尊敬を払い、その雄弁に耳をそばだてている有様が浮かんでくる。現代の預言者を髣髴とさせる気迫を感じていたのかもしれない。  第一回の講演は大成功を収めた。二回目以降も順調に数百人から千人を超える規模の講演が全国で繰り広げられた。いずれの場でも聴衆が感銘を受けている様子から、再臨運動はひとまず成功したといえる。大正の社会に影響を及ぼしたことは、無教会の雑誌『聖書之研究』の部数が倍化したり、再臨論文集『基督再臨問題講演集』が版を重ねたことからも推察できる。多忙な日々を彼は迎えることになった。  「この号はついにキリスト再臨号となってしまった。人はこの事について、いろいろと批評を下すであろう。しかし、かまわない。余はキリストを信じて満四十年後の今日、この事を信じ得るに至りしことを神に感謝する。これによって、聖書は解しやすき、骨の折れざる書となった。その事だけがすでに大なる恩恵である。余が再臨を信じ得ると否とは別問題として、これを聖書の中心真理として認むるによって聖書が首尾一貫する書となることは、疑う余地なき事実である」(『聖書之研究』(再臨号)1918・大正7年2月)  夏の軽井沢に請われて、四百人ほどの外国宣教師を相手に二度の講演も催した(『聖書之研究』1918・大正7年9月)。  さて、再臨運動の社会性をいち早く認めたのは、学生のとき内村の聖書講義を聴講した京都帝国大学教授の河上肇であった。信仰をもつには至らなかったが、内村の教える利他的精神に強く感化されていたのである。河上は自己の主宰する雑誌に、今後、社会運動と宗教運動とが思想界で大きな動きを見せるであろうと予測した。その後大学を辞し、労働者ら貧困層の救済を目指して労働運動に打ち込んでいった。  新聞、雑誌などのジャーナリズム社会の反応もまずまずであった。東京朝日新聞は、内村の信仰的「信念」を取り上げ、口先だけの言葉には生命力はないが、再臨を唱える彼にはそれがあると賞賛を惜しまなかった。明らかに再臨運動の社会的波紋は確実に広がっていった。  しかしながら、一般聴衆やジャーナリストが、再臨信仰の核心をとらえたわけではない。彼の思想と精神に敬意を払いつつも、再臨の教義や信仰の本質を看破することは容易なことではなかった、というのは酷であろうか。日本はキリスト教の脆弱な異教的土壌である。大正に吹いた宗教ブームの追い風はあっても、キリスト教や聖書になじみの薄い者にとっては、贖罪の教義を自己の問題とすることは中々かなわないように思える。キリスト顕現のテーマともなるとなおさらのことであろう。  大正中期は、各種の運動がデモクラシーを背景に進行していた。政治では、普通選挙法と政党内閣の成立を目標とする動きが活発で、労働運動や社会主義運動、女性解放運動、排娼運動、禁酒運動などが社会を賑わしていた。文学の世界では、武者小路実篤の「新しき村」運動が起こされたのが再臨運動と同じ一九一八年(大正七)、各種大衆芸能もきわめて盛んであった。  現象的にながめると、再臨運動は大正デモクラシーと表裏一体で起きている。その特徴はキリスト教に限定していない点である。キリストの再臨問題を人類的なスケールに押し上げ、万人に共通したテーマとして扱い、救いの普遍性という時点から、完全に宗教や宗派、思想の壁を克服していたのである。  「良心なき国家は動物的国家である。日本国をして良心ある国家たらしめよ。貴き聖書をして日本全国民の書たらしめよ」(「日本に於ける聖書の研究」1916・大正5年6月)は、再臨体験を経たころの文である。救いにおける彼の最終的関心は国家・国民に照準をあわせつつ、個人伝道以上の意識をもって、不特定の一般大衆に対して万民救済的伝道を目指したわけである。  しかし、内村の運動には、急進的な社会改造の意図は微塵もなかった。万人救済を唱えながら、各個人が再臨信仰に目覚めることを願っていた。終末の時代に備えて、一個の魂が神に真摯に向き合うことが最良の道であるという理想主義の志向が強かった。  批判者の出現  各地での再臨講演は盛況を極め、大阪中之島公会堂での連続講演会は連日千六百人以上、最終日には二千三百人の聴衆であふれた。京都は千二百人、神戸では千五百人の聴衆が集まったが、その間、再臨運動を批判する声が上がるようになった。  皮肉なことには、批判は仏教界など他宗からではなく、キリストの再臨に最も関心を寄せるはずのキリスト教界からであった。既成キリスト教会から疎んじられてきた内村に対する、同信の徒から教義や運動への批判であった。保守主義の内村と対極の立場である自由主義の組合教会、メソジスト、聖公会、バプテストなどの教派が、再臨信仰を非科学的、亡国的、迷妄と決めつけたのである。  それが彼の科学者魂を逆なでしたことはいうまでもない。彼は「世界の最大問題」と題する講演で論駁し、再臨の教えを「非科学的」とすることこそ、科学の何たるかを知らない無知無学な人間の言いぐさだと断じた。  「しかしてこの声を発する者は誰なるかというに、科学の何たるかについては知識のはなはだ乏しき神学者、牧師、伝道師その他宗教事業に従事するの輩である。…非科学的呼ばわりをなす者は、実はいまだかつて、かえる一匹を解剖したることなき、いわゆる神学校出の神学者ならびに伝道者輩である」(「同文」1918・大正7年4月)  聖書に通暁した彼は本来は科学者であり、『近代に於ける科学思想の変遷』という著述もある。「非科学的」うんぬんの一事は、歴史上、科学を敬虔に学んだ者は、再臨信仰をやたら迷信呼ばわりしないという点に集約されている。近代科学を学び、科学者の道を歩んだ人間から吐かれた重い言葉なのである。  相対性理論を唱えたアインシュタインや電磁気学のファラデー、ラジウムの発見者キューリー夫妻など、世界の卓越した科学者たちは等しく神を信仰し、霊界の存在を謙虚に探求していた。内村自身も死後の生命について興味をもち、「霊魂不滅の科学的証明」(1898・明治31年11月15日)「不死の生命について」(1924・大正13年6月)などの論評を残している。万有引力の研究をしたニュートンは、その傍ら秘かに膨大な神学論文をしたためていたし、スウェーデンの科学者スウェーデンボルグは、超自然の世界を体験した神秘思想家としても有名である。  しかも内村は、科学者の魂をもっていたからこそ、科学の限界をも知悉していた。その言葉に耳を傾けてみよう。  「科学はもとより、はなはだ貴きものである。これによって人類の幸福の著しく増幅したることは何びとも疑わない。しかしながら科学はある事については何ものをもわれらに教えないのである。…科学はわれらに、神の有る事、霊魂、心意、自由、生命等については何の教うるところがないのである。…科学の立場よりすれば、原因なき結果あるべからずという。しかるに人には自由意思なるものありて、原因なき結果があるのである。科学はいかにこれを説明せんと欲するも、あたわない」(「世界の最大問題」1918・大正7年4月)  彼が再臨講演で語ったのは観念的な理論の喧伝ではない。国内や国際社会そして近代文明の抱える様々な事象に危機意識を募らせ、その解決の道標を示したのである。その確信は、再臨信仰をもつことで、平和や戦争など人類世界が直面している深刻な現状に寄与できるという真摯なメッセージであった。  キリスト教会の妨害  再臨信仰に反対した代表的な人物が、日本組合基督教会の重鎮・海老名弾正牧師である。海老名は自由主義の視点から再臨を論じ、かつて福音主義に立つ日本基督教会の植村正久と、わが国初の本格的な神学論争を展開した論客であった。十九世紀後半から隆盛したのが自由主義神学で、彼はキリストの十字架による贖罪信仰を否定したばかりでなく、原罪も認めなかった。さらに、キリスト教の再臨思想はユダヤ民族に伝わる神話でしかなく、キリスト教信仰とは無関係であると論断した。聖書を合理的・科学的に分析しながら、その基準に合致しない再臨信仰を、「亡国的、非合理的、非科学的、非聖書的、非キリスト教的」(「組合教会の再臨観」1918・大正7年9月)と徹底して糾弾した。  内村の再臨運動についても「非科学的な異端の思想である」と攻撃したのである。当時、聖書の言葉をそのまま受け入れていた内村が、こうした論調の海老名から反対されるのは自明のことかもしれない。キリスト教雑誌に掲げた海老名の論文には次のようにある。  「キリスト教本来のキリスト観は、神の子キリストの清く高き霊においてキリストと結ばるるにあるのであって、そこにすなわち神の国ができるのである。ゆえにキリスト再臨の信仰は異端の信仰にして、すべからくクリスチャンの捨つべき妄説であると主張するに至ったのは一大見識と言わねばならない」(『基督教世界』1918・大正7年4月4日)  再臨などは妄想で、尊いのはクリスチャンの心の中に広がるキリストを愛する精神であるとし、再臨教義と再臨運動を根底から否定している。さらに、キリスト教の再臨説を完全に粉砕したというオーバーなふれこみの書籍を出版して、内村に敵対した学者もいた。  海老名の批判の言葉に接し内村は大いに当惑したであろう。父親の葬儀に参席した海老名を、「神学上においては常に説を異にしますが、心情においては私の長年の友人である海老名弾正君も馳せつけられまして式を助けられました」と記すほどの間柄であったからである(「父の永眠につき謹告す」1907・明治40年5月)。  ところで両者の再臨論議は、かつての海老名と植村の福音神学論争のようには推移しなかった。内村には論争をことさらに複雑にする気持ちはなかったといえる(「ヨハネ伝におけるキリストの再来」1918・大正7年4月21日)。  両者の争点は明瞭で、要は、キリストの再臨を認めるか否かということである。しかしそれが実際にもたらす影響には天地の差があった。海老名はキリストの再臨も含めて再臨思想そのものを空想と断じ、対する内村はキリストの実体顕現がすべてを究明する鍵だとしたからである。  政治や植民地政策の視点をめぐっても両者は意見を異にしていた。日本は欧米列強のあとを追ってアジア大陸に進出したが、内村が植民地政策に異を唱えたことはよく知られているが、大陸膨張論の海老名は植民地政策を肯定した。やがて海老名のキリスト教は、国家主義的、神道的な色彩を帯びてゆく。一人の愛国者として、また、日本天職の理念の護持者として内村も自国を重視することにおいて人一倍であったが、日本のみの栄光を求める偏頗な志向はない。彼の問題意識は来るべき神の国であり、その座標軸から人類歴史の未来と日本国を見すえていた。  当初は黙していたが、静まる様子のない事態に内村は答えざるをえなくなる。「再臨の教義は、人の信仰を試むるための最も良き試金石である」(「信ずる者と信ぜざる者」1918・大正7年5月)と抗弁している。「キリスト再来を信ぜし十偉大人」(1918年4月)、「信ずる者と信ぜざる者」(同年5月)、「嘲笑者」(同年5月)、「まく者と刈る者」(同年8月)、「再臨と伝道」(1919・大正8年1月)などで再臨教義の正当性を主張した。  また聖書の字句を原典に沿って精細に分析し、合理的な解釈に努めた。そうした努力の成果として「乗雲の解」(1918・大正7年6月)のような重要な論文が生まれた。  しかし、誹謗や攻撃はやまず、出版活動をストップしようとの教会側の卑劣な嫌がらせにも遭遇した。教義面ばかりか、悪意にみちた個人攻撃までが繰り出された。再臨運動は「窮余の活路を求めんとする」売名行為だというのである。  「余輩に対して下されたる批評は少なからずといえども、その最も興味あるは、余輩のキリスト再臨をもって、窮余の活路を求めんとするにありとなすところのものである」(「世界の平和はいかにして来たるか」1918・大正7年4月)  「しかしてこの問題(注・再臨運動)が世の注意を喚起すること多きに従い、余輩に対する反対の声もますます大である。あるいは新聞に、あるいは雑誌に、あるいは余輩のもとへの投書において、種々なる悪罵冷評は余輩に向かって浴びせかけらるるのである」(「天然的現象として見たるキリストの再来」同年6月)  攻撃する人は、内村が立ち上がった真の意味を探ろうともしないで、一方的に責めたて、運動を葬り去ろうとした。やがて彼は、大戦の終息を機に運動を打ちきる。それには度重なる各種の妨害行為や個人への暴言なども原因だが、それに対しても新たな批判の声が上がった。再臨運動が単なる思いつきによる、「急に起こった狂瀾、怒涛である」という無責任きわまる邪推であった(「日記」1919・大正8年2月15日)。彼を不快にさせた人身攻撃の渦中でもらした一節から彼の胸中がわかるだろう。  「俗化せる今の教会にきらわれてこそ、われらに救いは臨むなれである。神の真理は人にきらわれる。キリスト再臨が神の真理たる何よりも善き証拠は、今の教会の多数にきらわるることである」(「再臨の高唱」1918・大正7年10月)  つまり迫害や排斥のあること自体が、再臨が真理であることをよく証明しているではないかと、再臨信仰の決意は、どんな批判にさらされても微動だにしなかった。  世論は内村を支持  超教派による再臨運動が一応終了した後、内村単独の講演が聖書研究会と銘うって開かれることとなった。場所は神田のキリスト教青年会館である。日曜になると、会館には無教会の教友や教会クリスチャンら六百名以上の青年男女が詰めかけた。もとより会場使用は了承の上である。  ところが、所有主の教会側が悶着を起こした。組合教会の小崎弘道牧師とメソジスト教会の平岩監督の発言が問題の発端だったという(「日記」1919・大正8年4月2日)。  二人は内村と面識のある仲であったが、キリスト教の会合で会場使用に異議を唱えたのである。単刀直入にいえば、再臨運動の大きな成功に対する嫉妬や妬み以外のなにものでもなかった。内村が最も嫌悪する教会人の不純な体質が露呈したわけである。  やがて、教会の内村排撃がジャーナリズムの知るところとなり、局面は一気に表面化する。まずあらましが「時事新報」(1919・大正8年4月10日)に報道され、会館理事の小崎牧師のコメントとして、会館使用の是非は「要は内村氏が教会を認むるか否かによって決せらるる問題」という一文が寄せられた。教会を批判する者には使用を許さないというスタンスなのである。  次にこの記事に対する内村の所感が紹介された。その意見書では、再臨運動以前からキリスト教会との間に長い友好関係があったこと、また、教会の青年たちに何度も聖書講義や説教をしてきた過去が述べられ、ところが再臨運動に携わると、手を返したような批判的ポーズに接して、「…今日のごとき反対を見るに至って、私はその意外に驚かざるを得ません」と憤慨している。  日記にもこの一件が記された。会館使用禁止騒動を「試練」と受け止め、教会側の姿勢を「自家撞着」であるとした。  「自分たちの便利なる時には、余を招いて事業を助けしめ、そうして今に至りて余の青年会の講壇に立つを非難す。利己主義もはなはだしいではないか。しかし今のキリスト教の牧師とは、たいていは、こんな者である」(「日記」1919・大正8年4月15日)  内村がかつて英文欄主筆を担当した「万朝報」にも論説「内村氏と教会」(1919・大正8年4月16日)が載った。それには、会館での内村の日曜説教が来聴者の記録を作るほどの成功を収めたのに対して、教会側が「卑劣なる妨害」をしてきたことを仔細に明かしている。人々を引き付けるのは、教義を超えて説く人の力量に求められると説き、なぜ教会側はこの事実を理解しないのかと、完全に内村の立場を支持する文面であった。  無教会主義の唱道者であり、教会批判者の内村の名をキリスト信者で知らない者はいない。この論説にもあるように、既存教会に属する青年たちの多くは、こうした内村とわかりながらも、それ以上のカリスマ的な人格と深い聖書講義の解釈に魅せられて、熱心な聴講者になったのである。  「万朝報」と前後した「国民新聞」(1919・大正8年4月18日)の論説「宗教家の本職」は、内村の成功を嫉妬しての教会の不当な仕打ちであるとした。教会側に正当性はなく、むしろ教会のほうが反省しなければならないと、内村に好意的であった。  「神田青年会館における内村鑑三氏の日曜講演が、聴衆つねに堂に満ち、一回一回と霊気の加わり行くに反し、牧師生活の人につかさどらるる多数の教会が百方手を尽くしてなおかつ不振を歎ずるゆえんは知りがたからず。前者がキリスト再臨の信仰を緊握し、全心全力を傾けてこれを高調し、後者がこれをわすれて、いたずらに世間との調和に急なるがためのみ…」(「国民新聞」1919・大正8年4月18日)  彼が無教会主義を起こし、既成のキリスト教会と一線を画したのは、教会の腐敗している体質に一因が求められる。そうした教会の汚点がジャーナリズムによってえぐりだされたわけである。当時のジャーナリズムがおしなべて内村に同情的であることは明らかであるが、会館の使用は断念せざるをえなかった。こうしたキリスト教会による反対や妨害行為は彼の眼にどう映ったであろうか。  日本で批判された再臨信仰や思想は、世界のキリスト教では特異ではなかった。初めに触れたように、同じ時期にニューヨークで再臨大会が開催され、フィラデルフィアでは一万人を超える再臨大会が開かれていたのである(「万国の霊」1918・大正7年8月)。内村は神の約束の言葉を確信し、キリストの顕現をひたすらに熱望した。日本のキリスト教会から疎外されても、その信仰的意欲はますます旺盛であった。  「信者にそしられて不信者に誉められる。余輩の運命、奇と言うべし。しかし、毀誉褒貶いずれでもよいのである。余輩は悪名あるも令聞あるも、自分が真理と信ずるところを忠実に謙遜をもって述ぶれば、それで職分は済むのである。余輩をさばく者は人ではない。神である。彼、再び来たりたもう時万事は明白になるのである」(「そしる者と誉める者」1920・大正9年2月)  新たな会場が大手町の丸の内大日本私立衛生会講堂に求められた。一九一九(大正八)年六月一日に再開された講演では、聖書のテキストの解釈をもっぱらとし、再臨を話題にすることはもはやなかった。しかしここでも彼の人気は抜群で、聴衆の数は常時六百から七百、ときには千人を超えた。  関東各県をはじめ、名古屋や関西方面から日曜ごとに上京する者までが現れた。当時、既成キリスト教会の礼拝の低調さと比べ、その盛会ぶりがわかるだろう。聴講する半数以上は青年男女が占め、既成教会の信者も多かった。文字通り教派や性別を超えた活気ある集会となった。あふれでる聴講者を整理するために、やむをえず有料の会員制にしたこともある。聖書講義は、そうした状況下で関東大震災の勃発までの四年間継続されたのである。  再臨運動に専心している間に、ある思いが彼の心をよぎっては消えたこともあっただろう。それは、キリスト教の最重要の教義、再臨について宣教師や牧師たちの多くがなぜ沈黙したままなのかという思惑であった。  「再臨は余等少数者独占の信仰ではない。多数信者共有の信仰である。しかるに余等のみその高唱の任にあたらしめて自身は黙して語らざるの観あるは福音のこの大真理に対して忠実なるみちであるとは思われない」(「日記」1919・大正8年11月8日)  再臨観を批判した牧師たちとの親交は、その後、取り戻されたことを末尾に付け加えておく。  26 第一次大戦の趨勢と内村の平和論  国際連盟の発足  第一次大戦は一九一八年(大正七)十一月十一日にドイツの無条件降伏をもって終結した。軍国主義とデモクラシーにシンボライズされた世界戦争は、デモクラシー側に勝利をもたらし、ようやく世界に平和が戻ってきた。それから数カ月後、内村の再臨運動はキリスト教者たちの妨害もあって中止された。彼は再び再臨運動に立ち上がることはなかった。  一九一九年(大正八)一月、パリに戦勝国が集まり、戦後処理のためのベルサイユ会議が開かれた。大戦終結の段階で日本は世界の五大国の一つに数えられるようになった。アメリカ、イギリス、フランス、イタリアそして日本である。  半年後に締結されたベルサイユ条約によって、莫大な賠償金が敗戦国ドイツに課せられ、その翌年にはアメリカのウィルソン大統領の提唱により国際連盟が設立された。これは、世界から戦争や紛争を未然に防止するための人類初の国際平和機構である。内村はその十五年前に、国際紛争を未然に防ぐための平和組織の誕生を既に促がしていたのである(「平和主義の意義」1905・明治38年8月10日)  八百万人以上の死者をだした凄惨な戦争を教訓として生まれた国際連盟。この成立が世界中から歓迎されたことはいうまでもない。身も心も引き裂かれ疲弊しきった人々の共通の願いは、なによりも平和の到来であったからである。日本はイギリス、フランス、イタリアなどとともに常任理事国に選出され、いわゆるベルサイユ体制がここに出現する。盟友の新渡戸稲造も国際性を買われ、事務次長として連盟に加わった。国際情勢の推移を冷静にみつめていた内村は、ある一文を用意していた。  「平和はすでに来たのではない。今来つつあるのである。今や人類が莫大の代価を払いて、かち得し平和と称するものは平和のまね事である。平和の君の臨みたもうと同時に来たらんとしつつあるところの真個永久の平和の微弱なる予兆にすぎない」(「1918年のクリスマス」1918・大正7年12月)  各国が連盟誕生を手放しで歓迎するムードのさ中、痛烈に「平和のまね事」「微弱なる予兆」と一蹴した。  そもそも内村の終末観に思いを至せば、この発言は至極自明ともいえる。戦争終結の数カ月前に、次の戦争を見透かしているかのような預言的発信をしていたのである。  「歴史の終局は平和ではない。戦争である。黄金時代ではない。艱難時代である。この戦争の後にさらなる戦争が起こる」(「戦後の世界」1918・大正7年)。確信にあふれた主張である。  連盟への一定の評価を忘れたのではない。しかし再臨信仰の立場からその限界を危惧せずにいられなかった。この心境をたずさえて、人生の終焉まで歩んだのである。  確かに、世界平和を志向するこの機構は、人類の未来にある種の明るさをともした。平和はだれでもが望む普遍的心性なのである。しかし、平和の恒久的な維持は容易なことではない。人間の英知で平和を維持することの困難を、いやというほど痛感してきた彼は、真の平和からほど遠い国際関係の現実を透徹していたことになる。  その他の短文や日記文からも、デモクラシーを通じた平和の実現に懐疑と失望の念を抱いている姿が察知できる。  「デモクラシー何物ぞ、民のために民に由て行なわるる政治である、その人の政治たる点においては米国の民主主義もドイツの帝国主義も何の異なる所はない…」(「連盟と暗黒」1919・大正8年)  「対独休戦条約の条件を読み欧州人に愛敵の精神のさらになきをしって悲しんだ。かくて戦争が休止したのであって平和が来たのではない。真個の平和は敵を愛するの心よりきたる。敵をたたきふせて喜ぶようでは平和はけっしてこない。…この点においては英米人もドイツ人もなんの異なるところはない」(「日記」1918・大正7年11月14日)  神を中軸とする思想は堅固で、世界を駆け巡るデモクラシーの潮流に乱されることはなかった。デモクラシーも帝国主義も、人間中心の主義として「何の異なる所はない」と明快な認識をしていた。平和問題の難しさとともに、戦争や紛争の根絶も人間がどうこうできる事柄ではないという感慨が、再臨回心後の彼の胸中深くにあった。  かつて「軍隊と巡査と法律とをもって維持されている平和は実は平和でありません」と説いていた(「聖書の研究と社会改良」1902・明治35年3月20日)。そのごとくに、連盟の平和とは、単に戦争がストップしているだけの、不安定で不確実な様態にすぎないとしているわけである。    神とキリストによる平和  内村の平和論は戦争のない状態や一時的な平和を意味しない。もっと本質的な平和を志向していた。今日まで人類歴史が平和を願いながらも実現され得ないのは、「平和の基をすえずして平和を実現せんとしたからである」と唱える。その「平和の基」とは万民の上に立つべき神の権威であり、平和を目指す者が政治的画策や外交行為以前にもつべき抜本的な精神のことなのである。  「…国際連盟にしてまことにこの目的(注・世界平和実現)を達せんと欲するものならば、そは外交的条約にあらずして信仰的一致でなくてはならない。すなわちその会議は、祈祷と、各国の今日まで犯せるすべての罪の懺悔とをもって始まるべきものでなくてはならない。エホバの聖名のあがめられんことを欲せざる連盟は長く続かない。その目的は必ず達せられない」(「聖書と現世<国際連盟>」1919・大正8年3月)  その提言は、国際連盟が成立した今こそ、神の前に信仰を一致させ、「祈祷」と「懺悔」による会議を開始すべきであり、神を迎え入れない約束事だけでは真の平和は望みえないと警鐘する。連盟の構築をなす際、重要な要件は再臨であるとし神の力による「再創造」を力説した。このように、神の名とキリストの再臨は、彼の平和論を講ずるうえでの要諦とされたのである。  「再臨は、世界の最大の書なる聖書の明示するところにして、神の約束である。必ず実現さるべき事である。ゆえに国際連盟よりははるかに重大にして最も確実なる事である。ゆえに連盟に注意を払う人類はそれ以上の注意を再臨に払うべきである」(「万民にかかわる大なる福音」1919・大正8年2月)  「世界はデモクラシーによって救われない。…デモクラシーはその最善のものなりといえども政治上の主義たるにすぎない。しかして主義という主義はすべて生気なく、機械的にして、霊的に無能である。…世界が救わるる唯一の希望は、死してよみがえり今生きたもうところのキリストにおいてある。…デモクラシーにあらず、キリストである。まさに改造にあらず、再造である」(「デモクラシーとキリスト」1920・大正9年)  続いての評言は六十三歳のときのものである。彼の期待を裏切るような世界情勢の推移に嘆息することしきりである。  「欧州の形勢依然として険悪である。世界の平和はいまだ決して来たらず、大破裂がいつおきるかわからない。…人が人と平和を結ばんと計りつつある間は平和は決して来らない。人びとがすべて人をみることを止めて神を仰ぐにいたって本当の平和が地上に臨むのである。キリスト教の教化を受くること、ここに1500年、欧米人がいまだこの明白なる真理を解することができないとはあきれはてたるしだいである」(「日記」1923・大正12年1月18日)  もう一文は、ドイツが大戦に突入したように、日本も戦争に巻き込まれる予感をほのめかしている。  「排日運動世界いたるところにおこり、日本は経済的にも八方ふさがりなりという。今日の日本の不人望なることは8、9年前のドイツによくにている。あるいは日本もドイツとおなじ運命におちいるのかもしれない。そしてかくのごとくにして日本もドイツとおなじように覚醒して真の幸福にいたるのであろう」(「日記」1923・大正12年6月13日)  昭和二年に調印されたパリ不戦条約に触れたのは、亡くなる二年前のことであった。日本も批准したこの条約は、戦争防止と世界平和のためにアメリカやフランスの発案でなった国際条約である。しかし内村は、国際連盟に対したときと同じく、人間の力による平和の実現に不信感をもち、第一次大戦以上の巨大な戦争の気配を叙述している。  「米国提出の不戦条約により世界に戦争が絶えるであろうとはだれも信じない。いな、その反対に世界戦争以上に惨劇なる大戦争が起こらんとしつつあるは甚だ事実らしくある。次の大戦争は主として空中戦らしくある。飛行機より爆弾を投下する事によって大都市の壊滅を見るのであろうとの事である。戦争はキリスト再臨の時まで止まない…」(「日記」1928・昭和3年8月23日)  しばしば未来の大戦の勃発を警告する内村は、現代の預言者の相貌を掌中にしたといえまいか。  その平和論は、世界中から軍備を撤廃した普遍的平和を志向するものであった。その永久平和の原点は、神とキリストの顕現に固く結びついていた。「戦争はキリストの再臨の時まで止まない」という一節はこの原理に基づく言辞で、晩年の思索に再臨信仰が決定的な影響をあたえていることを顕示している。  国際連盟の運命は、その樹立を提唱したアメリカが加わらなかったことで先行きの不透明さを露呈していた。パリ不戦条約の履行も不徹底であった。連盟の名の下に平和が維持されたのは最初の十年程度。ドイツと日本は十三年後に脱退し、それ以降もイタリアなど脱退国が続出した。国際世界は不幸にも、内村の予感した混沌の世界へと突き進んでいったのである。  27 大正デモクラシーの終焉  大正ロマンと再臨運動  大正デモクラシーの中で派生した大正ロマンといわれている文化現象は、再臨運動の前後からどう推移したであろう。明治時代を代表する文学活動は、浪漫主義とそれに続く自然主義であった。  内村の文学や文学者嫌いは有名で、たとえば、「腐敗文学者」とばっさり切り捨てている(「日記」1923・大正12年7月11日)。「日本現時の文士の筆になるいわゆる『創作』のごとき、いずれも人を地獄に落とす書と見て間違いないと思う」(「修養大意」1926・大正15年)と激しくこき下ろしている一節もある。文学や文学者に対する強い拒絶の反応が際立ち、世俗社会の俗事を「空である」と形容した中にはしっかりと芸術も組みこんでいた。  誤解のないように先に説明しておくと、内村は芸術や観劇自体を悪とはしていない。晩年には、「十戒」「クォ・ヴァディス」などの宗教映画を鑑賞したり、映像の効果が福音伝道の一手段になる可能性を示唆していた。  その芸術批判の概要は、日本の近代化についての評論「日本とキリスト教」に暗示されていると思う。  「日本人は西洋文明の外殻を採用するに汲々としてそのたねは全然これを斥けたのである。…今や大なる試練はこの国に臨みつつある。西洋の主をぬきさりし西洋文明は果たしてこの国を救うに足るか」(「同文」1914・大正3年)  明治の新国家誕生以来、彼は、近代化や文明化などの批判を手始めに、「亡国の徴」としての事柄を多方面にわたりとりあげて評論していた。  「政府はその各部において腐敗をきわめ、内閣腐り、陸軍腐り、海軍腐り、内務腐り、外務腐り、文部までが腐敗の気に襲われて、いまは小学教師までが賄賂を取るのをもって当然のことであるように思うに至りました」(「失望と希望」1903・明治36年)  批判される近代人は、政治家や実業家、教育者、学者とならんで作家もそうであった。無教会主義の理想は、キリスト教精神が近代国家のバックボーンになることであったから、文学志向の一群がキリスト教の信仰をもつことを心から願っていたにちがいない。  ある短評には、日本社会に人材のいないことを落胆し、そのあり様を「芸術家あり、しかれども人あるなし」と記しているところがある。  「今日の日本に政治家あり、しかれども人あるなし。実業家あり、しかれども人あるなし。教育家あり、しかれども人あるなし。学者あり、しかれども人あるなし。芸術家あり、しかれども人あるなし」(「人の欠乏」1912・明治45年)  文中の「人」を「働く人」に置き換えてみると、より確かな意味になる。内村は自身働くことを好み、働くことに生きがいを感じる人であった。  柏木時代の自宅の書斎を労働室と呼んでいたことからもうかがえるように、肉体労働や知的労働の区別なく自己の肉体を使い込み、仕事に打ち込んだ(「労働と報酬」1910・明治43年、「間接の労働」1914・大正3年)  内村家の家訓の第一条は「労働を恥とするなかれ」であった。働くことを喜び誇りとする人生哲学が定まっていたのである(「家訓」1908・明治41年9月)。そうした彼は、社会に真の意味での人物や、真摯に生きる人の少ないことを訴え、「神と交わり永遠に生き、隣人を愛し真理を喜ぶ神の子たるの資格をそなえたる人」がいないと嘆息していた。そして端的に次のように人物論を展開している。  「余輩が嫌う人とてなまけ者のごときはない。余は怠惰は大罪悪であると信ずる。世に最も神聖なるものは講壇にたちて説教することではない。田園にでて働くことである。働かない者は神を知らない。神について最も疎い者とて神学者教役者のやからのごときはない」(「余の好む人物」1905・明治38年)  ちなみに好感をもつ人は労働の人に始まり、常識の人、快活の人、公平の人、ノーブルな人、独立の人だという。一方、当代の小説家の印象や位置づけはかんばしいものではない。大正期になると、作家に対する不快感や批判的芸術論が次第に増えている。  「文士は文士にして労働の子にあらず。したがって多数はまじめなる人にあらず。霊魂の飢渇を感じ砕けたる心をもって救われんためにキリストに来たらんとする人にあらず。…文士は余輩と縁のもっとも遠き者なり」(「知らず知らずの記」1913・大正2年)  「趣味といい、芸術といえば立派に聞ゆれども、実は働かずして遊ぶことである」と裁断し、さらに痛烈に、「働かざる者はついにその存在の理由を失いて亡びる」(「不要人間」1926・大正15年)とまで述べたてた。働かざる者に投げかけられた彼の思いを知るべきである。  彼の説いた天職論は人間が真剣に生きる中で、その人にふさわしい最適の人生に必ず出会えるというものである。そうした召命的職業観と比べれば、学業を放棄し、放蕩三昧の生活を送る文学青年は、「遊び人」と映ったとしてもおかしくはない。  大正の宗教ブームも、宗教を、美術や文学の一種であるかのようにもてあそぶ「宗教道楽」だと叱責している。彼の信仰生活の一端を鮮やかに照射した一文がある。  「聖書研究はややもすれば聖書道楽に変じやすくある。しこうして今日のいわゆる聖書研究は多くは聖書道楽である。聖書の文字的研究。考古学的考証、注解書の蒐集、聖書学者優劣の討議…」(「聖書道楽」1920・大正9年)。つまり、趣味や教養のための聖書の研究は邪道でしかない。勉強するならば、神のため人のためそして己自身の信仰促進のためのものでなければならないという見解である。  内村の芸術論  一部の世評にあるように、内村は本当に芸術を解さない人であったのか、検証してみたい。  音楽については、「余輩の新年の楽しみは蓄音機を通じて世界の大音楽を聞くことである」と、大正七年の『聖書之研究』に記載している。ヘンデルやメンデルスゾーン、アイルランドの哀歌や賛美歌をレコードで鑑賞しながら、新しい想念をめぐらすこともあった。  「音楽の威力またおそるべきである。…ことにヘンデル作『メシヤ』を歌いしもの10余曲は余輩を慰め力づけてつきるところがない。…しかしながら最も貴きものは歌に非ず楽に非ず愛よりでたる活動である、これなくして神の愛をしることはできない。しこうして余輩の場合においては活動といえば書くことか語ることである」(『聖書之研究』1918・大正7年1月)  この独白は音楽の美を感知できる人の言葉であろう。同じことが文学にもあてはまる。殊に文学に関連した思索の多さは注目すべきで、つまり、文学に音痴であるどころか、絶大な関心を払い、深淵な本質を鋭敏につかんでいた。それがゆえの文学批判である。ありのままの大自然に圧倒された彼は、荘厳な造化の世界に純粋に魅せられ、そのごとくに、文学の価値や美をもよく知り、よく感じていた。その実例の一つに、芸術性の香り高い宗教文学の傑作である『キリスト信徒の慰め』がある。  近代化論の基本的認識に立って芸術を推し量った彼は、もっと異なる地平で文学と向き合っていたはずなのである。ではそれは何で、なぜ終始一貫厳格な文学観をいだき続けたのか。そのカギともいえるのが、創作に人為的な要素が加わり、虚偽であるから面白くないという所感である。人間の意志と技巧をもって表現される近代芸術のあり方を否定し、さらに信仰的要素を求めている。  「芸術はもちろん悪いものではない。しかれども芸術によって人は救われない。しかり、高い道徳と強い信仰となくして芸術は起こらない。起こった芸術までが衰える」(「芸術と救い」1928・昭和3年)  思想的に浅く感動の伴わないストーリーはいうまでもなく、とにかく小説一般に興味がわかないというコメントである。また、はたして芸術家自身は、己を救っているだろうかという命題によって、時代を華々しく生きた文化人を糾弾した。  近代日本の作家たちの多くはキリスト教信仰とは無関係であった。内村は、芸術の美は人間の心を強く動かす「意志の美ではない」と言う。芸術家の本領はその理想の実現を目指すことにあり、その創造性が最高に輝くときに傑作が誕生する。まさに、「芸術の美は天才の美」だというのである。  三十三歳のときの一書『後世への最大遺物』には、後世に残せるものとして思想を掲げた。そして、創作活動をとおして練り上げた思想を供する役割のあることを説いていた。  「文学というものはわれわれの心に常に抱いているところの思想を後世に伝える道具に相違ない。それが文学の実用だと思います」、かつ「文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具」であり、「心のありのままをいうもの」だと言及した。  こうした文脈からわかるように、彼の嘱望した小説とは、良質な芸術性と宗教性をたたえた社会を善導できる創作のことに他ならなかった。言い換えれば、純度の濃い信仰を追求した彼らしく、芸術や芸術家に対する視点においても、かなり高いレベルの基準を設定していた。  ところが「日本流の文学者」の実相には、脆弱で「なまけ書生の一つの玩具になっている」との不快感を隠そうとしない。  内村の本心は、「何故に大文学は出ざるか」(1895・明治28年7月13日)を掲げたように、いわゆる「大文学」の出現をひそやかに熱望していた。「如何にして大文学を得んか」(1895・明治28年10月)は、文学を生み出す秘訣を説いた評論である。その中で、高い思想や徳性を育てるために、聖書をはじめ世界文学の古典、『失楽園』『神曲』『マクベス』などを勧めている。  「文の無きを悲しまず、これをもってあらわすべき想のなきを悲しむ。想のなきを悲しまず、想を産むための信のなきを悲しむ。信あらんか、文あらんか。われは文を得んがために筆に至らずして祈祷の座に走らん」(「文を得るの法」1904・明治37年)  「高い道徳と強い信仰」を文章作法の基本要件として、文章力の足りなさを嘆かないという。文章の技巧や修練も必要だが、よりよい文章は、高い精神や深い信仰、思想、品性を具備することから必然的についてくるとした(「美文と名論」1901・明治34年)。こうした信条によって、文章技術の習得などをことさら強調しなかったのである。  大正の社会になると、多くの雑誌が発刊されては廃刊され、出版ブームにのって型破りで奇をてらった詩型が色々と輩出している。彼のいう芸術観はこうしたたぐいの創作とは別次元にあった。芸術家の才能を作品に結晶化させるためには、外面の装いや技巧ではなく、まず精神的養分を土台に培わねばならないと念を押している。  大正の宗教ブーム  天と地の両世界に意識を払うのが信仰者であるとして、芸術や文学を志す原点が著作『ロマ書の研究』でなされている。  「クリスチャンはintensely divine(深刻に神らしく)たらんと欲すると同時にまたintensely human(深刻に人らしく)である。天に関し最大の興味をいだくに至りし彼は、地に関し最も熱心なる者である。ヒューマニティーとは、地と人とに関する熱心である。これを人間味と訳すべきであると思う。DivinityとHumanity 神にかかわる事と人にかかわる事、神学と文学、完全なる人に必ずこの両方面がある」(『同書』)  内村によれば、理想的な文学者とは、神を信じる高邁な理想を抱き、純なる義の心をもつ人物のことであった。キリスト教信仰によって創作精神を養い、思想の源泉が神につながることで真の芸術が創造されるというのである。  そうした基準から評価したのが、同時代のキリスト信徒であった作家・徳富蘆花や、二十五歳で夭逝した詩人で思想家の北村透谷であった。  ところで、内村の聖書講義に参加した青年たちが、近代社会に浸透する新しい時代的空気に染まるのも自然の理で、真理を求める多くの俊英が無教会に集まったが、また多くが離れ去ったのである。主宰者内村の不幸は、聖書を学ぶ青年たちの中から、文学や近代思想に興味を抱くあまり、キリスト教を棄ててしまう者が次々に現われたことである。新劇界のパイオニアとなった小山内薫や白樺派の作家・志賀直哉らがそれであった。  聖書の真理、信仰の真髄を知らしめるために、内村は聖書をとおして世界の文学を紹介し、詩を語り、芸術を論じた。ところが皮肉にも、それが青年たちの文学志向を強烈に刺激してしまったのである。  日本の近代史は近代人の自我の拡張と崩壊の歴史であった。近代人の自我を果敢に取り上げ、深く洞察した思想家が内村であった。近代人は自我の伸張をしきりに叫ぶが、人間中心の個の拡充は、その内部に自壊の運命を内包している、ということに当初から気づいていた。論文「自己の発見」は、自己・自我の発見は大切であるとしながら、神につながらない人間中心の自我の危うさを提示している。  「自己はこれを発見すべきである。しかれども発見されたるそのままの自己は貴むべきものにあらずして卑しむべきものである。…自己はこれを発見してこれを神に献げて貴むべきものとなるのである。自覚といい自己発見というは完全に達する途程に過ぎない。…自己の造主にしてその所有者なる神に対する自己の立場を発見し、彼に知らるるごとく自己を知るに至る事、その事が真の自覚である、真の自己の発見である」(「自己の発見」1916・大正5年)  この忠告のとおり、近代人が自己主張をし始めると同時に、自我の自己破壊も始まったのである。明治の愛国精神は過去のものとなり、己を中心とした自我の時代が到来する。人間中心の生き方との決別を促す内村の声に挑むかのように、執着する自我との葛藤や死に急ぐ文壇人や近代人が出てきた。  夏目漱石の一生は、相克する自我との凄絶な戦いであった。北村透谷の早い死を、内村は「己が内に輝く光に眩惑されてついにその生命を縮むるにいたった」(「日記」1922・大正11年4月25日)と惜しんでいる。作家たちの自我の確執は時代とともに色濃くなり、利己的人生観や主義が際立っていった。  繊細で過敏な神経の所有者であった芥川龍之介は、聖書を読みながらも神の求め方が自分流でありすぎたといえよう。自然主義の正宗白鳥は一時内村に熱狂的に心酔していた。しかし死の間際まで神と救いを懐疑し続けた人生は、あまりに悲哀というしかない。  太宰治は自己の救済をだれよりも渇望していた。しかし、神によりすがり、自我をかなぐり捨てる一念に欠けていた。太宰の親友で最後の無頼派といわれた檀一雄の場合は、激しい自殺志向をもちながら空漠たる生涯を送った。  かねてから日本の近代文学は罪の問題に寛大だといわれているが、それは罪悪に対する日本人の精神構造に関係し、異教的土壌も要因だろう。大正時代には、個人主義的な生き方から自由恋愛の世情が形成され、恋愛や不倫をテーマとする作品が目立った。その一方で、芥川や倉田百三らによって宗教を盛り込んだ文芸作品が発表され、仏教やキリスト教などの宗教ブームが起きた。  倉田百三の戯曲『出家とその弟子』、賀川豊彦の自伝的小説『死線を越えて』、芥川龍之介の『奉教人の死』は、それぞれ大正六年、九年、十年の作品である。京都大学教授で文学者の厨川白村(はくそん)は、恋愛のみが人生の最高の華であり最高の価値をもつという恋愛至上を掲げて物議を醸した。ベストセラーとなった評論『近代の恋愛観』の発刊は、内村のロマ書の連続講義終了の二カ月後である。時代をリードする奔放な恋愛賛美は、堰を切ったように社会全体に拡散していった。    人生こそ芸術  大正社会には不倫や色恋沙汰や自殺が目立った。大正七年、近代演劇の女優松井須磨子は劇作家島村抱月と恋仲になり、妻帯者の島村の死後、後追い自殺した。大正十年、新聞紙上に妻から夫への前代未聞の公開絶縁状が掲載された。女流歌人柳原白蓮の愛欲の逃避行の始まりである。神を抜きにした近代人の愛は、自分の欲望を限りなく成し遂げようとする自己愛にほかならず、悲劇的破局に近接する自壊の愛なのである。極論すれば、内村のとらえた近代人の通念は、神をないがしろにし自己を神の座に据えようとする傲岸な性向といえる。  そして無教会でもいまわしい事件が起きた。有島武郎の自殺、しかも情死であった。門下生として七年間学んだ有島は、内村無教会の後継者ともささやかれた愛弟子であった。しかし棄教のあと、『愛は惜しみなく奪う』というセンセーショナルな評論を発表し、かつての恩師をいたく落胆させた。  「氏もまたわが国多数の文士のごとくになんのおしげもなくキリスト教の福音を棄てた。…最後にその死をもって自分らの説法に答えた。勇まししといわんか、愚かなりといわんか…しかし彼ら文士は神の審判ぐらいを恐るる者ではない。そむくのが彼らの生命である。挑戦また挑戦、神と道徳を嘲りながら死につくのが、彼らの名誉とするところである」(「日記」1923・大正12年7月8日)  神を裏切り、隠微な愛欲の世界にのめりこんだ当然の報いだというのである。有島の死は、キリスト教の内奥に分け入りながらも、神とキリストから一番遠い虚無の地点へ離れた近代人の悲劇的自我を象徴的に見せた事件となった。  宗教ブームに翻弄されている人々と社会に向け、内村はキリスト教の核心的教えを訴えた。  「宗教が流行する今日、多くのキリスト教ならざる信仰がキリスト教として唱えられつつある。人は思う、愛と信と望と、神と霊魂と天国とを説けばそれがキリスト教であると。…まことのキリスト教は義の神を説き、罪に沈める人類を認め、義人なし一人もなしと教え、キリストとその十字架上の死にのみよる罪の赦しを唱え、精霊の降誕、キリストの再臨、死者の復活、万物の復興を説く」(「似て非なるキリスト教」1921・大正10年)  彼にしてみれば、時流にのって人気を博している小説・戯曲のたぐいは、とどのつまり宗教的風采をまとった教養的文学以外のなにものでもなかった。「文学者はキリストをおのが理想と仰いだのみでキリスト信者たることが出来ない」(「似て非なるキリスト教」1921・大正10)というのである。  「今や芸術万能時代である。何事も芸術である。宗教道徳までが芸術化せらる。…ひっきょうするに、芸術の美は天才の美であって意志の美ではない。…そして多くの場合において道徳を離れたる美である。ゆえに芸術の盛んなる時代はたいていは道義の衰えたる時代である。…芸術はもちろん悪いものではない。しかれども芸術によって人は救われない」(「芸術と救い」1928・昭和3年)  「芸術と救い」の一文が公にされた前年、芥川龍之介が自殺した。内村は有島のときほど驚かなかったものの、近代思想が芥川のような近代人を死の淵に追いやる無情さに、憐憫の情を隠さなかった(「日記」1927・昭和2年7月25日)。  小説を虚構とする彼にはとっておきの強みがあった。キリスト教に回心してからの宗教的体験、神と共にある実生活こそ芸術以上の芸術であるという実感である。  「人生また、美術の一つであります。しかり、人生は最も大なる美術であります。美術の目的は自他を喜ばすにあります。人を喜ばしておのれも喜ぶのが、美術の特性であります。そうしてわれらはわれらの生涯をして最大美術となすことが出来ます」(「雨中閑話」1905・明治38年)  「美術の種類は一にして足りない。絵画も美術である。彫刻も美術である。音楽も美術である。しかしながら最大最上の美術は人生である。最も美わしき生涯、それが最大の美術である」(「美術とての人生」1920・大正9年1月)  彼は、いかなる人間にも「勇ましい高尚なる生涯」のあることを前述の『後世への最大遺物』で熱く語っていた。すなわちもっとも魅力ある生き方とは、神と人のための人生であり、それが彼の理想とした最高の生きた芸術作品であったのである。    近代化の負の遺産  賀川豊彦の『死線を越えて』は、二百万部をこえる空前の大ベストセラーとなった。しかし、大正デモクラシーの高揚は長くは続かず、キリスト教も低迷していった。  内村の再臨運動は、時代に潜在する危険な諸相を感知した預言的運動であったといえよう。やがて、近代化に付随する諸問題が噴出した。労働争議が頻発し、過激思想の浸透や疑獄事件などが続いた。文明の病巣はいよいよ肥大化し極限的状況に迫りつつあった。彼は、根なし草のような人びとのあり様を、日記に、「牧者なき羊のごとく」と風刺した。関東大震災一年前の述懐である。  「…旧来の習慣を改むるの勇気をもたない。ただ牧者なき羊のごとくに群集の動くがままに動く。日本人のなすことは、智者も愚者も、信者も不信者もみな一様である。浅薄なると、感情的なると、不規則的なるとにおいてみな一致している」(「日記」1922・大正11年12月29日)  原敬を首班とする本格的な政党内閣が発足したのは、内村が再臨運動に着手した大正七年である。平民宰相の原はカトリック信徒であった。ところが、政党政治も期待したとおりに進捗したとはいえない。政府は普通選挙法の施行に消極的で、独断的な政治運営は国民の反感をかった。  多数が少数を圧倒する政争や汚職事件などが引き金となって、原敬の内閣は民心から大きく逸脱する感があった。原は大正十年、右翼の青年によって暗殺された。 かって、明治の藩閥政治の旧弊を鋭利についた内村の論考が、「日本国の大困難」である。  「日本国には憲法がしかれてあります。その憲法には日本人の権利自由が保証されてあります。しかしながら日本の政治界には自由はほとんど行われていません。…脅迫にあらざれば情実であります。誘惑であります。・・・自由、自由意志、正義の外に何にも屈しない意志、神の外には何者をも恐れない勇気、利欲をいやしみ、名誉を糞土視し、人望を意に介しない独立心、手に一票を握るをもってわれは天下に権者なりと信ずる自尊の心、そんな貴い者は日本今日の政治界にはほとんど痕跡だもないと言わなければなりません」(「同文」1903・明治36年)  そして、大正末には、はばかることなく「砂の上に立てられたる家のごとき」国家と文明だと規定した。  「深い強い宗教の無いところに大文化の起こったためしはない。無神論と物質主義は、何を作り得ても、文明だけは産じ得ない。・・・薩長藩閥政府の政治家らによって築かれし明治、大正の日本文明なるものは、宗教の基礎の上に立たざるがゆえに、文明と称すべからざる文明である。これは、いつ壊るるか知れざる、砂の上に立てられたる家のごとき、危険きわまる文明である」(「文化生活の基礎」1924・大正13年1月)  28 再臨運動と関東大震災    空前の災害に  内村の再臨運動の背景にあるのは、内外の情勢から痛切に感知していた終末的様相であった。その実感は、世界大戦が終結し再臨運動に一区切りをつけた後も消えることはなかった。つまり、再臨運動に終止符が打たれても、彼の信仰はいよいよ再臨への確信を深めていったのである。  再臨顕現を説いてからの彼の日記には、「中央講演会いつものとおり盛会」「沢山の聴衆であった」という感想が頻繁につづられている。東京衛生会講堂での聖書講演は、キリスト教伝道の不振が信じられないくらいの賑わいぶりであった。彼の心身もすこぶる壮健で、毎回のあふれる聴衆が、彼を高揚させたはずである。  その一方で、彼が憂える現実があった。混沌とした社会と人々の心の荒廃は留まることがなかったのである。自己中心の人生観がはびこり、廃頽的文化の流行、乱れた自由恋愛など、弛緩した世俗社会の腐敗現象をみて「堕落の絶下である」(「いきどおりの時」1922・大正11年)と危機意識を募らせていた。  そうした世情の大正十二年九月一日の昼下がり、日本国民を震撼させた関東大震災が勃発した。この日、相模湾を震源地とするマグニチュード7・9の地震が関東地方南部を襲った。その後の二度の余震も強烈であった。  東京・横浜などの人口密集地では、倒壊した家屋の百カ所以上から火災が発生した。折しも関東一円には強風が吹き荒れ、すさまじい火勢は勢いを増し、東京は三日間炎上し続け、被害は悲惨をきわめた。  日本の首府は人口三百万の東洋一の大都会に膨張していた。火炎は広場や公園に逃げまどう人々にも容赦なく襲いかかり、焼死する者、川で溺死する者、建物倒壊による圧死者の山ができ、生き地獄の様相となった。被害は関東をはじめ静岡、山梨など一府九県にまたがり、死者十万人以上、全壊全焼家屋四十六万戸、被災者百九十万人という空前の災害となった。東京や横浜の市街地の半分以上が焦土と化してしまったのである。被害総額は、当時の国内総生産の40%を超えたという。内村の講演会場も焼失し、聖書講義は柏木自宅の聖書講堂に移された。  震災の最中、戦慄すべき事件が起きた。底知れない不安と絶望的なパニックで人々は凶暴化し、その矛先が在日韓国人に向けられたのである。彼らが井戸に毒を投げ込んだなどのデマが飛び交い、六千人もの韓国人が殺戮された。その数は、二百三十一人から六千四百十五人までばらつきがあり、今日も実数は不明。無政府主義者の杉栄夫婦が甘粕憲兵大尉に殺害されたのもこの時で、そのほか多くの社会主義者が抹殺された。近代日本で、デマと群集心理の恐ろしさを見せつけた事件が関東大震災であった。  当時、日本と韓国の関係は韓国併合により最悪になっていた。日本人は韓国人を蔑み、韓国人は日本人を恨んでいた。韓国人への暴挙は、日本人の日頃の被害妄想が狂気に走らせて起きたといえる。  再臨を説きながら終末の接近を訴えてきた内村は、関東大震災は起こるべくして起きた災害であると考えたかもしれない。しかし、韓国人への信じ難い行為を知ったとき、鋭い感受性の彼は、戦慄の惨状に驚愕し、人間の内奥に棲みつく恐るべき悪魔性に激しい衝撃を受けたと推察される。  幸い、内村の家族は全員無事であった。しかし、無教会の会員の一人が、燃える家の下敷きになって焼死し、内村をいたく悲しませた。  「大いなる災害はわが東京をならびにその付近の地を襲うた。何十万という人が死し、何十万という人が傷つき、何十万軒という家が焼け、多分何十億という富が失せたであろう。実に悲惨のきわみ、酸鼻のきわみ、これを言語に尽くすことは出来ない。これがために神の存在を疑う人もあろう。人生の無意味を唱うる人もあろう。しかしあったことはあったのである」(「末日の模型」1923・大正12年)  九月五日の日記には、「呆然として居る。恐ろしき話をたくさんに聞かせらる。東京は一日にして、日本国の首府たるの栄誉を奪われたのである。天使が剣をひっさげて、さばきを全市の上におこのうたように感ずる」と書いている。「恐ろしき話」の中に韓国人虐殺もあったであろう。  日頃、韓国人に親近感を抱き交流してきた内村である。金貞植との友誼が続き、震災の三年前からは韓国の留学生たちが聖書研究会の聴講生になっていた。そこへ降って湧いたような狂気の勃発である。同胞たちの蛮行に、言うべき言葉もないほどの心境になったのも無理はない。  震災の焼け跡を見回ったのは十二日であった。  「柏木に避難する松屋呉服店の自動車に乗せてもらい、市中の被害地を巡視した。その惨状言語に絶せりである。生まれて以来いまだかつてかくのごときものを見たことはない。ソドムとゴモラの覆滅はかくのごときものであったろう。花の都は荒野に化したのである。これを見しわが心は狂わんばかりである」(「日記」1923・大正12年9月12日)    天譴としての大震災  地震は天災だが、関東大震災には人災と思える様相が際立っていた。火災の発生が市街地、下町一帯に集中し、死者の90%近くが火災で亡くなったことである。都会の中心部に人々が密集していたことによる被害である。震災後、天譴論(てんけんろん)や運命論がしきりに論じられた。  渋沢栄一や芥川竜之介、菊池寛、高村光太郎などがそれぞれ活発な意見を公表している。そのほか、北原白秋、正宗白鳥、秋田雨雀、久米正雄、田山花袋などの発言が相次いだ。内村も講演で震災について語り、日記にも記した。雑誌「主婦之友」には、評論「天災と天罰及び天恵」の一文が掲載され、そこで彼は天災を論じながら人災にもふれている。彼の震災観は、キリスト教の信仰観から、人間の罪悪性を見据えた独自のもので、災害に神の意志を読みとろうとする天譴説であった。  「天災とはいうものの、その多分は人災である。低い快楽と虚栄とを追い求めて、三百万の民が、東京湾頭、墨田川河口の一地点に集合した事が、この災禍の因をなしたのである。神は村落を造り、人は都会を造る。虚栄の街たる都会の無き所に、いかなる天災といえども、過大の損害を生ずることはできない。その意味において、今回の天災は確かに天譴である」(「日記」1923・大正12年9月21日)  地震という自然災害は倫理や正義などと没交渉のものだが、人間の感じ方によって恩恵にも刑罰にもなりうる天災という帰結を引き出した。  地震が発生したのは土曜日で、多くの人が歓楽街に繰り出していた。火災が一番猛威を振るったのは下町の繁華街であった。日頃から、都会や都市といった人工の場を信用していなかった内村は、快楽と虚栄を増進する都会という欲望の渦の中に大震災が炸裂したという心象を感じていた。十年前には東京を「東洋のバビロンである」と形容していた。  「東京は今は東洋のバビロンである。夜な夜な、その空に映るガス電気の光は、バビロン王ネブガデネザルが彼の祭りし金の偶像のために夜な夜な焼きしたいまつの輝きのごとくである。…諸政、諸宗、諸派の衝突、軋轢によって乱れをきわめている」(「市外生活」1913・大正2年11月)  では一体、天譴は何に対してなされたのかというと、第一に、建造物など外的な大都会に対しての裁きであった。  「日本国の華をあつめたる東京市は滅びた。しかし何が滅びたのであるか。帝国劇場が滅びた。三越呉服店が滅びた。白木屋、松屋、伊藤呉服店が滅びた。御木本の真珠店が滅びた。天賞堂、大勝堂等の装飾店が滅びた。実に惜しいことである」(「末日の模型」1923・大正12年9月)  近代化のシンボル的建造物だけでなく、旧時代の名所や文化財の多くも焼失した。さらに裁きは、近代文明や人々の本質的な部分、人間の内奥にはびこる不道徳や罪悪に及ぶとした。震災五日目の言葉である。  「東京は一日にして、日本国の首府たるの栄誉を奪われたのである。…東京は今より、宗教、道徳の中心となって、全国を支配するであろう。東京が、つぶれたのではない。『芸術と恋愛』との東京が、つぶれたのである」(「日記」1923・大正12年9月5日)  関東大震災は快楽にふけり虚栄に溺れる不遜な近代人への天譴であったとしている。神をないがしろにし、俗悪な風俗や無節操な恋愛の錯綜する都会が裁かれたというのである。人的犠牲は、そうした罪悪を償うためのあまりにも高価な代償であったと分析していた。それゆえに、奇跡的に生き残った被災者たちは謙虚に目覚めなければならないというのである。  覚醒への期待  それでも内村の立ち直りは早かった。打撃の反面、真に復興するチャンスがめぐってきたという希望があった。震災の教訓が国と人々に生かされなければならないというのである。神の裁きは、虚栄の街の快楽と芸術と恋愛を焼き尽くし、「東京は今より、宗教、道徳の中心となって、全国を支配するであろう」(「日記」1923・大正12年9月5日)と新日本建設の思いを膨らませていた。  これまで彼は、大正の社会に向けて再臨信仰の重要さを唱え、再臨講演を精力的に進めてきていた。キリスト教を信じ、特別な使命感を抱いて以来、エネルギッシュな批判精神で、無数の警鐘のメッセージを発信し続けてきた。現代がまさに終末であり、審判の到来が不可避であることを条理を尽くして検証した。人々に訴えた再臨運動の中心的メッセージは、最後の審判の時のために、各自が心の準備を整えるべきで、それは神の前に悔い改めるという心の内面の営みであった。  語るべきは語り、説くべきは説いた彼である。そうした奮闘は再臨運動の一時期だけではなく、彼の人生全部がそうであった。今回の大惨事を契機として、これまでの努力が報われる時がやっと到来したという期待を抱いたのは極めて自然であった。  地震と火災による破壊は、物的損害に加え大きな精神的苦痛を人々に与えた。そのような苦境に遭遇したがゆえに、国家も国民も心底覚醒し、神に帰るひたすらな祈りがあると思ったのであろう。神の裁きが罪悪の都会に下され、どん底から再生することが国家と国民の責務になったという省察である。  日本は今より平和と正義を志向する本物の国家を一途に目指すべしということになる。一つの指標としたのがデンマークの事例であった。  「丁抹(デンマーク)は 理想の農民国である。大国家は農を以て成立し得べしとは、丁抹が世界に教ふる所である。大国家たらんと欲すれば、英国の如き商業国、又は米国の如き工業国たらざるべからずと思ふは 大なる間違である。丁抹国は我が九州よりも少しく大なる丈けの面積と、僅に三百万の人口とを以て、主として農業を以て全世界の尊敬を惹くに足るの国家的生命を営みつゝある。其文学、美術、哲学、宗教を以て、人類の進歩に貢献せし所多大である。…日本は元来農本国である。今より大に丁抹国に学んで、農を以て強大なる平和的文明国たるべきである」(「西洋の模範国デンマルクに就て」1924・大正13年9月)  しかし震災後の流れをみると、震災で味わった痛手や打撃も、国民にとってはその場限りのものでしかなかったようである。神の前に悔いて祈るといった内省的な変革はついぞみられなかった。    悪徳が溜まる都市  都会は近代文明国家のシンボルであるが、内村は人工的なたたずまいに馴染めきれなかった。都会は居心地が悪く、彼が心の安らぎを覚えるのは自然とつながる場だった。森林や草花の咲く丘陵、神秘の星々がきらめく夜空など、素朴と清澄な大自然の中に神の荘厳な美と創造の巧みを感じる人であった。黙示録の「神の国」の純一性を希求した彼にしてみれば、都会の心象は、物質と流行に心を奪われ、悪徳をためた「虚栄の市」であった(「エルサレムの婦人」1928・昭和3年)。  「今や猫も杓子も洋行する。聞く、虚栄の市、仏国パリには五千の日本人が滞在すると。われらはこの上、西洋文明を輸入する必要はない。すでに輸入せし物を消化して、われら自身の新文明を作るべきである。ことにキリスト教を研究するために欧米に行く必要はない。欧米自身が今や東方より新光明の来たらんことを待ちつつある」(「日記」1926・昭和1年3月25日)  パリやロンドン、ニューヨークを「虚栄の市」という彼にとって、東京や大阪も同じであった。  都会の人間は、物質文明と世俗文化の氾濫の中で飽くことを知らないとの思いは、聖書によるもので、彼には「神は村落を作り、人は市邑を作れり」という特別な感情があった。  「始めて市邑を建てし者(カイン)初めて人を殺せし者(カイン)なりき。よりて知る、都市と殺人罪との間に深き関係の有することを。都市は罪悪の枢府なることは昔も今も変わることなし。…言ありいわく神は村落を作り、人は市邑を作れりと」(「善悪二子の裔」1902・明治35年)  大震災で近代文明のシンボルが裁かれたことを熟視した彼は、その後に真の復活のあることを熱望していた。ところが、物質主義中心の波濤は、関東大震災の手痛い挫折に遭っても留まることはなかった。「新しいバビロンがふたたび興る」と、幻滅の言葉を震災の一月後にもらしている。  「東京市の復興が唯一の問題である。単に商売その他、物質的復興を言うのであって、精神的復興を語る者は一人もいない。旧いバビロンが滅びて、新しいバビロンがふたたび興るのであると思えば、少しもありがたくない」(「日記」1923・大正12年9月27日)  東京の再建プランは道徳や宗教と関係ない、さらなる物質主義優先の外的都市づくりだったので、彼の失望は大きかった。  「日本は依然として不信国である。その政府も人民も、この大災害に会うて、罪を悔い神にたちよりて復興せんと計らんとせず…以前と同様な物質的強国を再び作らんとしている。…彼らはさらに大なる天譴をこうむらなければ目を覚まさぬであろう。神よ、日本をあわれみたまえと、ただ祈るのみである」(「日記」1923・大正12年10月4日)  震災後の東京の復興は驚異的で、外的世俗化が一段と加速され、これまで以上のスピードで物質主義偏重の道を驀進していった。人々を欲望へと誘い、エゴと虚名と虚飾のはびこる都会は、人間の欲心を膨満させ、本能のおもむくままに暴走させる場であった。  凋落するデモクラシー  東京や横浜の再建は急速に進み、景観は一新した。しかし皮肉なことには、外的な回復が進むほど、人間の精神の堕落と荒廃も増幅していった。近代人の生はことごとく欲望の充足を目指しているという表現が否定できないほど、人々は過剰な欲情にとりつかれていった。  デモクラシーの末期には、別系統の社会主義が流行し、大正末から昭和初期には様々な社会現象が爛熟期を迎えていた。成熟したわけではなく、文明の恥部が無秩序な様相をさらけ出すようになったのである。物質主義の歪みは肥大し、国家のあり方を批判してきた内村の憂慮が妄想でないことが明らかになった。近代化に伴う諸問題の噴出である。  大正デモクラシーの落日の亀裂は、またたくまに全体に波及していった。その突出がエロ・グロ・ナンセンスの現象である。若者たちが先駆けた世紀末的・病的な様態は、性や暴力を煽りながら、社会の健全な部分をそぎ取っていった。モボ・モガといわれる、最新の装いの男女は、ダンスホールやカフェーに出没し、性の解放が大手を振るった。大正末から、「文芸市場」「変態」「グロテスク」などという月刊雑誌が発刊され、エロ・グロ・ナンセンスの流行につながった。大正デモクラシーは健全な文化とはいえない、人間の高貴さに背をむけた別物に変身してしまったのである。  内村は、無神的社会の世相の状況と帰趨を、文明の退歩と進歩の概念の考察によって正確に洞察していた。エロ・グロが表面化する前に、政府の青少年に対する教育の失敗や大人たちの堕落、物質的文明の破綻と没落とを次のようにとらえている。  「ここに思うべきは、わが日本国の既往数十年の教育の失敗である。今や明治大正の忠君愛国を基調とせる道徳的教育の失敗に帰せしは、たれも認むるところである。…今や国を挙げて腐敗と不義と荒濫の濁水におぼれんとするがごとき状況にあるではないか。不良少年、不良青年と相競うがごとき不良壮年、不良老年の跋扈をいかに」(『ロマ書の研究』)  長年憂慮してきた近代日本と個人の基盤のもろさが、晩年にはっきり立証されたのである。大正の人々をときめかしたデモクラシーの熱気は何であったのか。その輝きは、線香花火にも似た一時の光芒でしかなかったのである。  大正デモクラシーは、そのエネルギーが極点に達したときが、腐敗と凋落の始まりともなった。時代のシンボルだったデモクラシーも、大正末にはその輝きが見られなくなった。自由な生の発散や個の解放は、その正反対にある軍国主義に取って代わられたのである。  再臨運動の唱道は、大正の人々にキリスト教信仰を覚醒させ、社会や国家のあるべき方向性を示し、健全な国家の形成を促すものであった。しかしながら、心魂を傾けた警醒のメッセージをよそに、大正デモクラシーのうねりは物質主義的人生観や利己的生に呑み込まれてしまった。  近代化批判の先鋒者であった内村は、デモクラシーの時代の到来とその限界、その亀裂から終焉までを知り抜いていた。彼が文明思想家として高く評価され、預言者的人物とされたのは、時代の暗さや崩壊現象を鋭角的に察知し、的確に分析したからにほかならない。  国家形成から自壊現象まで直視し続けた心の痛みは重いものがあった。内外の憂患を引き受けて、自分一人が信仰的ドンキホーテを演じたのではと、落胆と自嘲めく思いをにじませていた(「日記」1929・昭和4年8月18日)。  大正の自由奔放な精神の後にきたものが、その対極にある、個を埋没させた軍国主義と敗戦への道程であったとは、何という歴史のいたずらであろうか。  29 アジア精神文明への夢  期待される新文明  新しい文明の希求は、内村の青春時代から温め続けた問題意識であった。大義の時代の到来を、明治から大正に変わる時期に思いめぐらせたように、二十世紀開幕の際にも新時代の希望の到来を心ひそかに抱いていた。  時代と国家に対する想念は、アメリカ留学中、祖国への望郷の念や愛国の情を募らせていた過程で生まれた淡い情操といえた。それがやがて、明確な思想的輪郭をもつ文明史論『地人論』として著述された。アジアに期待される新文明とは、その中の日本の天職論を中核にすえた理念のことである。  日本の天職論は、文明の流れが欧米キリスト教世界からアジアに移動しつつあるという文明西漸説から、日本の使命・役割を論じたものである。西洋のキリスト教が東洋へ伝播していく中で、まず日本の福音化がなされるのが第一段階。その基盤の上に創生される精神文明がアジア大陸へ進出するのが第二段階。最終的に、日本発祥の新文明が、西洋世界に向け逆伝播され世界をリードするようになるとした。これが日本天職論の原型である。  願望する新文明の軸となる教えはキリスト教に違いないが、アメリカやヨーロッパのそれではなく、アジアに蘇生するキリスト教だとしたのである。  「余自身は世界を救うものはやはりキリストの教えであると思う。しかしそれが欧米とくに米国のキリスト教でないことは明白である。我が日本のためばかりではない。世界人類のためを思うて、浅薄にして廃頽せる米国流のキリスト教は一日も早くいとまを告ぐべきである」(「日記」1925・大正14年8月18日)  こうした発想の背景には、信条としての2J論、イエスと日本の二極の反映があり、キリスト教社会への抵抗や失望もあったであろう。彼は日本人が欧米崇拝にやっきとなっている間、欧米文明のあり方に批判的な立場をとり続けた。そうした観点から、欧米のキリスト教文明に対してアジア発の新文明を構想したと考えられる。  ところで、そのままの日本天職論では機能しえないことを知るには、さほどの時間はかからなかった。何より、鹿鳴館という明治黎明の一時期を除いて、国内のキリスト教の不振は否定できない事実であった。伝道の実りは少なく、閉塞感を打破し心励ますような希望は見えない。しかし日本福音化の願望を放棄することもできなかった。  日本に信仰的復興が見られない現状が、日本天職論の再検討を促したのである。打開策の道として浮上したのがアジアの隣邦、中国や韓国などとの関係であった。天職論の基本的理念や構想を保ちながらも、日本中心の枠組みを拡大し、アジア大陸を視野にいれた方向へとシフトすることであった。  とくに韓民族への関心は高く、それは運命的といっても過言ではなかった。彼の思想的苦衷を救い、新たなインスピレーションを覚醒させたものこそ、韓国キリスト教の鮮烈な活力だったといえる。  論文「日本の天職」  注目すべき評論が『ロマ書の研究』刊行から二カ月後、関東大震災勃発の翌年、一九二四年(大正十三)十一月に公にされた。青春時代に論考した日本の天職にかかわる文明論の詳述「日本の天職」であった。  論文の冒頭は、聖書の使徒行伝(17章26―27)、ヨシュア記(13章33)、詩篇(110篇3)の三篇で飾られていた。発表の時期や題目からして、震災後の国家・社会の復興への提案を開示した趣がある。さらに、不調な国内キリスト教伝道や混乱する社会、政界の現状、国際社会の急変などがあり、そうした時代的ジレンマを打ち破りたい意向もうかがえる。  彼個人の周辺には面倒な問題がくすぶり、憂鬱な環境の中で悩みは倍加していた。前年初めに、劇作家小山内薫の小説『背教者』の新聞連載が始まった。これは角筈時代の内村と聖書研究会の会員の交歓を題材とした実写的小説である。  小山内は内村の下で長く聖書を勉強し、「聖書之研究」誌の編集の手伝いをしていたので、その後疎遠になったが、互いをよく知っていた。かつての弟子に自身の人物像をスケッチされ、無教会の日常が一方的に取沙汰されることに、内村はやりきれない思いがあったろう。近代人批判は内村がいちはやくとりあげたテーマだが、棄教した小山内の行為は近代人の無礼というか、相手の立場を考えない自己主張と嘆息していたかもしれない。  一方、国際社会でも激しい変動が続いていた。第一次世界大戦、ロシア革命、共産主義インターナショナル(コミンテルン)の創設、オスマン帝国の滅亡、国際連盟の発足、イタリア・ファシスト政権の成立などが相次ぐ。秩序の確立を目指すベルサイユ体制下でも、陰鬱な空気が世界を圧していた。アメリカでは、排日問題にからんだ移民法の制定が取沙汰され、日本への圧力が強まっていた。  欧米文明を懐疑的に感じるようになった彼は、アメリカの排日の動きに、一層、反西洋の思念を掻き立てた。世界大戦の勃発以来、欧米世界と文明に対する不信はほぼ決定的になったのである。  六月になると、再びかつての弟子・有島武郎の自殺が社会を騒がせた。有島は、内村のアドバイスにもかかわらず、反キリスト教思想にのめりこみ、美貌の人妻との情死で公然と旧師に背いた。そして最後のとどめを刺すかのような関東大震災の勃発である。震災発生の翌年、論文「日本の天職」の発表された年の所感には、日本社会や日本人への深い失意がつづられている。  「今や日本国の存在にかかわる程度の大問題がいくつもある。その解決法はないではないが、実行はいずれも不可能である。その理由は日本人に信仰がないからである。それはそのはずである。信仰のすこしもなかった薩長の政治家軍人等によって建てられた、いわゆる新日本がここにいたるは当然である。…日に日に細り行く不治の病人をみているように感ずる」(「日記」1924・大正13年10月21日)  日米関係はじめ国際社会においても明るい兆候は一向に見えなかった。ところが、論文「日本の天職」の流れは、こうした混迷を吹き飛ばすほどに、信仰と希望をみなぎらせ、爽快で建設的な提言で終始している。預言者的なパッションで、国家・民族の使命を明晰に説き、日本民族の未来に重要な展望を与えている。  そうなったのには再臨信仰の絶対的な確信を挙げなければならない。さらに、韓国のキリスト教の動向があったこともつけ加えたい。ところで、当論文の主張は、終始日本民族に与えられた「職分」を見極めなければならないという地点から論旨が進められている。  現時点での日本は、一見、武力が際立っている。中国に勝ち、大国ロシアを破り、第一次大戦ではドイツにも勝ち続けて、負けることをしらなかったからである。「しかしながら」と言葉を継いで、武力で日本を評価するようになったのは、維新からの七十年のことにすぎないと分析し、日本の使命・職分をこのわずかな期間に求めることは妥当でないとした(「山上雑話」1919・大正8年)  では、「武をもって支那朝鮮を征服せんとするのではない。またアジア大陸をわが勢力範囲におかんと欲するのでない」のであれば、何によるのか。日本人の多数が理想とするのは、「平和を愛する日本人」としての生き方である。それは徳川三百年の泰平の時代が証明している。日本民族の天職は「宗教の民」であり、人類と世界平和のために精神的な民族として貢献することなのである、という結論を披瀝した。「日本の歴史と日本人の性質を考えてみて」そういわざるをえないと述べていた。  また、日本民族の特徴は、さしたる独創性のない代わりに極めて優れた模倣性をもっている。源信、法然、日蓮、道元ら偉大で高潔な宗教者の輩出により、仏教の伝統が形成されてきた。神道における本居宣長や平田篤胤らも優れた人物であった。こうした宗教的資質による「平和を愛する」伝統精神によってこそ、日本民族の使命は唱えられるべきであるとの省察である。  「仏教がインドにおいて亡びしのちに日本においてこれを保存し、儒教がシナにおいて衰えしのちに日本においてこれを闡明(せんめい)せし日本人が、今回はまた欧米諸国において棄てられしキリスト教を日本において保存し、闡明し、復興して、ふたたびこれをその新らしいかたちにおいて世界に伝播するのではあるまいか」(「日本の天職」1924・大正13年11月10日)  見過ごせないのは、主著『ロマ書の研究』で、韓民族や中国民族が「福音における日本人の師」になりつつあるとの指摘である。  結論として大正末のほぼ同じ時期に、オリジナルの日本天職論と修正された天職論とが書かれたことをどう考えるかであるが、解答は簡単で、内村一流の簡潔化の筆法でなされていると判断できる。  天職論の修正は、すでに一九〇七年(明治四十)の「幸福なる朝鮮国」で明かされていた。それは「聞く、朝鮮国に著しき精霊の降臨ありしと」と、韓半島に目覚ましく躍動するキリスト教にスポットを当てたものである。植民地化された半島でのキリスト教の急速な伸張から、神の意志と摂理を嗅ぎ取っていた。  彼を韓国に接近させた下地は韓国併合問題である。一九〇五年(明治三十八)、日本が韓国を保護国とすると、将来このことが民族間の深刻な火種になるかもしれないとの懸念をもらしていた。さらに預言的一文「朝鮮国と日本国」(1909・明治42年)では、急成長の韓国キリスト教を全面的に褒め、日本と韓国の二カ国が神の意志の中でともに救済されると述べた。韓国キリスト教に対する期待が、韓国が併合されて以来、次第にはっきりした像を結んでいる。新文明創生と日本天職に焦点を合わせてみると、韓民族を抜きにしては語りえない方向に前進していることがわかるだろう。  「日本の天職」の発表には、震災後の日本民族に何とか希望を与え、元気を取り戻してほしいという思いがまずあったろう。しかし本質的な要因は別のところにあるとすべきで、それは朝鮮半島で目覚ましく興隆しているキリスト教からの触発であったといえる。  修正された天職観  『ロマ書の研究』での論議は、修正された天職観に立脚している。二カ所の事例を挙げてみよう。  「日本人の不信は、シナ人、朝鮮人に信仰のあたえらるる機縁となった。しかるのち、福音は彼らより日本につたえられて、ついに全東洋が救われるのであろうと思う」  「日本人は、東洋の兄弟たるシナ人、朝鮮人を蔑視しつつ来た。今も依然として蔑視している。・・・神は高ぶる者を低くして、低き者を高くしたもう。日本人が彼らに先だちて欧米の物質文明を吸収し、そのために一等国の列に入りて、東洋の兄弟を軽しむる時、神はその物質文明を与え置きて、その福音をその手より奪い、これをシナ人、朝鮮人に与え、しかるのち彼らをもって福音における日本人の師となし、ついに生命の光を全東洋にみなぎらしむるの道を取りたまいつつあるかも知れない」  日本の不信仰の事跡から天職論の再考が進められ、それが「ユダヤ人の不信と人類の救い」の論点となった。パウロが聖書で説いた救済観、福音伝播が異邦人に移され最後にイスラエルの救いにつながるという救済の方程式を、日本の救いに援用したのである。キリスト教伝播の先達者としての韓国や中国の後に、日本の救済が始動すると天職論の再構築を試みたのである。  オリジナルの日本天職論が『地人論』で論じられていたことは既述した。近代の物質主義に狂奔する日本が、「東洋の兄弟を軽しむる時」に、神はキリスト教の真理を「シナ人、朝鮮人に与え、しかるのち彼らをもって福音における日本人の師となし」ていく本来の天職論にはなかった。  すなわち、日本福音化の構想は断念されることなく、アジア大陸のキリスト教の動静と連動させた理念が唱えられるようになった。日本を主役に押し上げた「日本の天職」は、理路整然とし堂々たる風格の文章である。  詩篇の解釈を通し、叙述したくだりは群を抜いて印象的で、彼の信仰と思想の悲願ともいえる国家再生の行程を見据えていた。そのときの日本が、再臨のキリストの顕現に伴って神の摂理に連なると、預言的情熱をもって告知している。  「かれキリストが最後に世を治めたまうときに、極東日出る国のかの弟子らがその熱心熱誠をもって彼に仕えまつり、彼の聖旨をしてこの世になさしむべし。・・・キリストは日本人の信仰の奉仕を受くる特権を有し給う。彼の栄光はわれらの名誉である。われらは感謝して彼の召命に応ずるべきである」(「日本の天職」1924・大正13年11月10日)  もとよりここでいう日本人とは、民族の伝統を忘れた同時代の人ではない。宗教性を欠如した世俗的現代人を憂えながら、将来に向けての希望の言辞であった。再臨の希望の光を迎え、その歴史的出発点に立ち会う未来の日本人に託したメッセージと理解できる。  しかも大切な点は、はるかに遠い未来の事象ではない。近未来に起こるべき事柄についての預言的想念なのである。こうした解釈に力を添える詩篇の一節が「日本の天職」の冒頭を飾っていた。  「あなたの民は、あなたがその軍勢を聖なる山々に導く日に心から喜んでおのれをささげるであろう。あなたの若者は朝の胎から出る露のようにあなたに来るであろう」(詩篇第110篇3節)  日本民族への期待は、「日本の天職」の五年後にも触れている。終わりのときには人類社会の罪悪や相克も打開され、恒久的な世界平和が促進される。そうした機運が到来する日本に、「神の言の飢饉を自覚する時が至るであろう」(「社会事業として見たる聖書研究」1929・昭和4年)と民族の霊的覚醒を予見している。  いうまでもないが、内村はキリスト者であると同時に、近代科学の知識に通暁した碩学であった。科学の素晴らしさと限界をわきまえた知性の体現者であり、かつ、預言者の資質を豊かに備えていた。彼は、近代日本の真っ只中でキリスト教の核心的教義、再臨信仰を押し立てた近代人であった。傾聴すべき多様な思想的暗示が内村の一連の言葉から想起される。  韓国への期待  修正された天職論には中国と韓国が登場するが、実質的には韓国一国である。韓国に関する文章や記事の多さ、さらに彼らとの親密な交流がその所以である。  アジア大陸におけるキリスト教の躍進は、韓国のキリスト教の趨勢を見れば明白である。韓半島のキリスト教の伸張は、内村の予期した以上の成果を見せた。日本伝道に無力さを覚えていたところに、一条の希望となったのは、民族的差別に耐えながらも興隆している韓国キリスト教であった。新文明誕生の新境地が復活した要因として、韓国キリスト教の後押しを感じるわけである。  誇張すれば、日本キリスト教の運命は韓国のキリスト教にかかっているとも解釈できよう。日本と韓国を救いの運命共同体とする地平から、アジア発の天職論・文明観を創出したのである。  このように、後発の天職論は日本を中心にしてはいるものの、明らかに韓国と連動した文明論が根底にある。再臨信仰の熱心さがこの論文に熱い霊性を吹きこみ、現代の預言者にふさわしい実感の伴う格調ある文調であることはまぎれもない。  彼はパレスチナにキリストの顕現を示唆する一方で、アジア極東に新文明の創生を模索していた。それは彼の信仰が、思弁的な終末観に留まらなかったことを意味し、神の国の地上的展望と天職論を軸とする、アジア発の新文明の論究が後半生の課題となる。  その際、地上の楽土の到来と再臨の目指す地的天国への道程が交錯している。神の国と新文明の構想は、焦点を地上におくことで一致し、同じ地平上で論考している。  彼の希望は、生きた神、真理と正義を護持する神、人類に働く神がある限り、キリストを通した人類救済は確実であるという点にあった。しかし現実は、いよいよ陰鬱な世界の到来であり、恣意的にでも自己を奮い立たさざるをえない気持ちにもなったのであろう。つまり現実は「希望のとき」ではなく、「忍耐のとき」でもあるとの自省の念が働いていたであろう。  「人類あって以来全世界が今日ほど暗黒であったときはなかったと思う。今日までの暗黒は部分的であったが、今日のそれは全般的である。・・・しかれども光明近きにありである。世界的暗黒は世界的光明の前兆である。今は忍耐のときである、同時にまた希望のときである」(「日記」1923・大正12年4月25日)  ここに、再臨と終末の接近を知覚した者の内的態度が密やかに収められているのではないだろうか。再臨を待望する様態には、希望と忍耐の二文字がついてまわり、かくして「日本の天職」の一文の発表以降、希望と忍耐が生きる指針となった。  既に述べてきたように、彼の期待をあざ笑うかのように、国内のキリスト教の動向は緩慢で、低迷していた。大正デモクラシーの潮流と再臨運動の熱誠によっても、伝道の成果は上がらなかった。日本伝道の失敗を無念の思いでつづった日記がある。  「大体より観察して日本伝道は失敗であったと言わねばならぬ。その点において朝鮮ははるかに成功であった。日本伝道はアジア伝道の糸口とみてのみ意味がある。・・・余の聖書伝道のごときも日本において失敗であった言うべきであろう。近頃失敗の実例を数多く知らされて穴にでも入りたくなるほど辛かった」(「日記」1926・大正15年10月3日)  人生に失意や後悔を残さない生き方を本懐とする彼も、思わず弱音を吐いている。留意すべきは、日本の伝道は韓国に比べ失敗しているという感慨である。関東大震災後も日本人は再臨運動に反応せず、物質偏重の潮流に没入し、内村の再臨に託したメッセージは共有されなかった。神の霊的恩恵は日本に留まらず、「アジア伝道の糸口」としての役目でしかないとし、日本をアジア福音伝道の盟主と唱えてきた覇気がついえ、一種の脱力感に陥ったようである。この前後二、三年には、幻滅や空漠の念の感想が記されている。  「神を知らざる人らのなんと卑しいつまらない者であるかをつくづくと思わせられた。・・・彼らによりて導びかるるこの国が衰退するに何の不思議もない。当然のことである。実に浅ましきは日本今日の社会状態である」(「日記」1925・大正14年)  「余に失望して余をはなれ去つた者はほとんど無数である。彼らは余のもとに来りて久しくキリストの福音を聞いて、余を去ると同時にキリストとその福音を去り、今や福音の示すところとは正反対の生涯を送っている者が少なくない。余の痛心失望、これまた譬うるにものなしである」(「弟子を持つの不幸」1927・昭和2年)    アジア人による新文明  一九二七年(昭和二)になると、二つの論考「東洋文明(新秋の期待)」「キリスト教と日本―霊的文明創始の任務」を発表している。これには、ヨーロッパ文明の凋落を予見したシュペングラーの『西欧の没落』の波紋があったと推量できる。というか、西欧文明没落の衝撃的言葉に反応して、一気に書き上げたと思える。長年にわたって欧米批判の意識を持ち続けた彼は、西欧文明衰亡説に大いに鼓舞されたはずだからである。  この時分の彼は、キリスト教と欧米文明を切り離して思考していた。欧米文明はもはやキリスト教文明ではない、「いわゆるキリスト教国は真のキリスト教ではない。福音を委託せられたる欧米民族は、かえって福音の明白なる教訓にそむいている」(『ロマ書の研究』)とまで言明していた。  最初の一文「東洋文明(新秋の期待)」は、個人主義に基づく西洋文明の限界を突き抜けて、神とキリストを戴く新しい文明の創出を唱えたものである。既存の物質文明に代わって、アジア人の手による新文明を花開かせるべし、という明快な意思表示である。  この論考で、彼は個人主義的色彩の強い西洋文明は、競争・分裂・闘争が本質であって、結局は破滅でしかないと論断した。近代欧米文明は膨張しつつ、破局の道をたどるというのである。対照的に、東洋の優位性を次のように記していた。  「人生の根本義について、東洋人は西洋人に学ぶ必要はない。イエス御自身が東洋人であった。アブラハム、モーセ、イザヤはすべて東洋人であった。われら現代の東洋人は、西洋人によることなく、直ちにこれらの模範的東洋人に教えらるべきである。ここに文明の改造、世界の革新がきざしつつある。西洋文明の没落を耳にする今日、われらは、神がアジア人に授けたまいし、聖書による東洋人の勃興を期待しつつある」  いかにも無教会の主宰者にふさわしく、アジアに「聖書による東洋人の勃興」と、新しい精神文明創生の必要性を文中で説いている。近代の物質文明はヨーロッパ世界からもたらされたが、精神文明と世界宗教はアジアからということを強調した思索である。  ここで本論文と関連したことで、十四年前の世界大戦が勃発する前年に掲げた評論があるので紹介しよう。  「物界は欧州人に属し、霊界はアジア人に属す。・・・欧州人はまことにこの世の大王なり。全地はいまやまさに彼らのものたらんとす。されども世界の宗教はことごとくアジア人の宗教なり。キリスト教はイエスより出でて、彼はユダヤ人にしてアジア人なりし。回教はモハメットより出でて、彼はアラビア人にしてまたアジア人なりし。仏教は釈迦より出でて、彼はインド人にしてまたアジア人なり。・・・アジア人は霊界に王たり。この世が化して、ついにキリストの国成るべしというは、ついにアジア人の霊的感化に服すべしとのいいなり」(「欧亜の領分」1913・大正2年7月)  これは再臨体験以前の評言である。「この世が化して、ついにキリストの国成るというは、ついにアジア人の霊的感化に服すべしとのいいなり」という文節には驚かされる。  彼の天国希求は再臨回心によって自覚された信仰であるはずなのに、すでにその情念がこの一文に明白に込められている。  「東洋文明(新秋の期待)」「欧亜の領分」の要点は、キリスト教は本来東洋的な宗教であると規定していることである。キリスト教の発祥はアジアの一角であり、新しい精神文明の創生も東洋世界にあることを意識した言葉といえる。  「これに代わるに、彼(注・神)がもって、定めたまいし別の文明をもってしたもう。すなわち、その聖子(注・キリスト)をもって、すえたまいし天国の道である。すなわち自己を無きものとして神の聖旨を成就せんとする途である。・・・自己、自家、自国、自教会、これみな聖旨をなすために有用であって、その他に何の用なきものである。自己を殺すが、真に生くる途である。他を殺して自分が生くるののでない。その正反対が真理である」(「東洋文明(新秋の期待)」1927・昭和2年9月)  個人は利己的であるのではなく、あくまでも利他的な人生観に基づいた神とキリストを中心にする文明と人生でなければならないのである。そしてこれまでの日本中心の文明観から、アジアを視野にいれた文明観へとおし広げているのである。  こうしたアジアを基盤とする外に開かれた文明志向は、インドにもおよんだ。再臨運動以降、内村はガンジーのインド独立運動に多大な関心を払い共感していた。大英帝国に立ち向かう非暴力無抵抗運動に、キリストの愛敵の実践を見ていたのである。  「東洋文明(新秋の期待)」と同年の短文「キリスト教と日本―霊的文明創始の任務」では、新文明への願望を膨らませている。西洋文明の欠点が物量の偏重であるとし、石油や石炭など原動力の枯渇するときが近代物質文明の終焉のときだとの見解である。そして本旨が語られる。  「世界と人類とが全滅せざる限りは、今日のいわゆる文明とは全然素質を異にする文明の起こる必要がある。旧い東洋文明はすでに試みられて失敗に終った。西洋にもあらず東洋にもあらず、全然新らしい文明の起こる必要がある」(1927・昭和2年)  西洋も東洋も世界が行き詰まっている今日であるからこそ、今までの人類史上になかった「全然新しい文明」の誕生、いわゆる「神本位の霊的文明」が待望されると唱えている。  「人は神によって生くるの道を学ばねばならぬ。『神によって』である。神より直ちに生命の供給を受け、万事万端において神の指導によって行い、神のちからによって行う。神に問わずして何事もなさず神に許されずして何事も行わない。そして神の命とあれば利害を問わずしてこれを実行す。しかれば神はわれらを助け、その尽きざる富をもってわれらの乏しきを充たし給う」(同文)  内村は、ここで、神は日本民族に神本位の文明を引き受けることを願っていると主張している。「西洋東洋の間に介在する日本がこの困難なる、しかも光輝ある任務を神と人類とのために果たすべき地位に置かれた」という引用文は、「日本の天職」の文明史観の延長線上にある思考なのである。  以上、日本と韓国の救いに関する一連の論述をとおして、彼の意図が、東アジアを起点とする内外ともに刷新された新文明の創生にあることがはっきりした(『ロマ書の研究』第43講 ユダヤ人の不信と人類の救い)。  30 いそしみて待ち望む再臨  再臨は「事実の問題」  内村の墓碑銘に"I for Japan, Japan for the World, The World for Christ, And All for God."と刻まれているように、より大きな目的のために生きようとしたのが彼の志である。「私」という個人の救済が最終目標ではなかった。個人の価値は大切だが、私は日本のために、日本は世界のために、そしてすべては神のためにというのが生涯をかけた信条となったのである。  同時代の人々の人生観と比べるとその落差はあまりにも大きい。自我の解放が吹き荒れた大正時代の人々は、エゴのおもむくままに、退廃的な人生観や自由恋愛の風潮は、近代的・文化的という美名のもと昭和初期まで社会を覆っていた。  この時代相は内村の思いとは正反対で、信仰者としての彼の視線は、人間に内在する罪や不道徳などに向けられ近代人や文明社会を強烈に批判した。再臨運動は、彼の期待を裏切る現象が、世俗社会で進行する頂点で炸裂した信仰の唱道でもあったわけである。彼はこの運動を通して、神の救いと再臨の顕現を訴え、終末期における悔い改めの姿勢を披瀝した。  再臨講演を聞いたクリスチャンはもとより、一般聴衆たちにも深い感動をあたえた。ジャーナリズムでもしばしば紹介され、再臨信仰を告白する一部の外国宣教師たちも現われた。再臨運動の反響は、こうした視点からすれば確かに容認されることだろう。  しかし率直な印象として、国民的な覚醒運動を目指した高みには達しなかった。最終最高の教えと自認する再臨信仰に、人々を喚起させることが内心の欲求だった以上、それが十分に浸透しえなかったことは不本意だったに違いない。結局、再臨運動は直截に述べれば成功したとは言い難い。  もっとも、だから再臨運動はまったく失敗で、内村は悲劇の思想家であったと形容するのは短絡的である。キリスト教的土壌の希薄な国での信仰運動であったという、かなり不利な環境を考慮しなければ不公平というものである。度重なる迫害・妨害も考慮すべき点で、実際、教会側の一方的な仕打ちの故に、運動は頓挫せざるをえなかったのである。  伝道について付け加えれば、彼はどこまでも真理のもつ力を信ずる人であった。黙示論的な教義を中枢にすえた、狂信的なリバイバルを唱えるスタイルには抵抗を覚えたのである。贖罪回心がそうであったように、再臨運動も沈着で健全な内的目覚めを願ったはずである。大衆伝道を目指したとはいえ、この精神に変わりはなかったといえる。  さて再臨運動は終息したが、これをもって再臨問題が終幕したわけではない。再臨の希望と確信は引き続き彼の生を鼓舞し、信仰が風化することは決してなかった。再臨に対する不変の定見から、人類史の最終段階で顕現するメシヤと神の国に圧倒的に傾倒していた。そうした再臨への思い入れは確信に近く、未来世界の光景をはっきりと感得していた。  「キリストは再臨したまわずと言う。されども、たもうも、たまわざるも、議論の問題にあらずして事実の問題である」(「再臨の有無」1918・大正7年7月)と言い放った。  神の約束に全幅の信頼をおく彼は、横やりを入れる人々の言葉などに惑わされるわけもなく、再臨を「事実の問題」と公言できる矜持があった。たとえ誰一人再臨を受け入れなくとも、神から慰労されている充足感が彼の心をみたしていたと思える。     終末の時代に突入  『ロマ書の研究』の記述によれば、人類歴史は福音の時代から再臨主を迎える終末の時代圏に突入しているとしている。  「『われらは時を知れり』。今の時代のいかなるものなるかを知れり。これ、いわゆる『福音の時代』であって、永久に続くべきものにあらず。やがて主キリストの再臨をもって終わるべきものである。しかしてその時は刻々と近づきつつある」(同書)  「世界の荒乱、全世界に満つる陰暗なる空気、すべてのものが病的に過度におちいれるごとき現状、いかなる放恣邪行もなにかの美名を是認せらるる今日―このすべてははたして終末の予感を人に与えないだろうか」(同書)  「キリストはまことにいまだ来たりたまわない。しかしながら、それがために聖書はこわれない。まことにペテロがいいしごとく、神にありては千年も一日のごとしである。永遠の存在者より見て、すべての有限の時は一瞬間である。世の終末は近づきつつある。・・・始めがあって終わりがあるものである。しかして信仰の初めより、さらにわれらの救いは近きにあらずや」(『同書』)  これらの声明の全部が終末到来と再臨顕現を予感し、しかも極めて切迫した筆致で書かれている。聖書を真理の書ととらえ、終末や再臨が「刻々と近づきつつある」ことを寸分も疑わない決定論的な言辞である。どうやら彼の再臨待望は、終末を鋭く直覚したことから定着したようである。  再臨顕現と終末接近の一念は、その後も健在であり続けた。色あせるどころか、晩年の日記にもはっきりとそのことを吐露し、人類は終末の到来において平等であり、選民も非戦民も信者も非信者も無関係ではありえないと述べた(「日記」1929・昭和4年10月2日)。  ここで再臨の核心と特殊性を検証してみたい。内村鑑三の生涯において、信仰と思想の最高の極みが再臨運動であったことは論をまたない。しかし、日本の思想界では、このことに関する正当な評価がなされていない。内村の評伝や関連する評論が多いだけに、なおさらその感を強くするのである。  その最大の理由は、再臨を本格的に議論できるキリスト教の基盤が日本の思想界に不足していることにあるだろう。さらに、特殊な事情が再臨教義に付随していることも考えられる。  そもそも再臨は、内村自身にとっても大きな関門であった。再臨信仰は彼の問題意識の死角にあって、人生の後半にようやく真の意味で覚醒に至ったのである。最終的に、彼は再臨が信仰の頂点・救いの完成と公言してはばからず、その観点では、再臨体験までの信仰の奥深さは未完であったと言えよう。高い霊性に恵まれ、聖書に熟達した内村も、再臨については数十年の人生の積み重ねが要されたのである。  かつ、再臨という事象、メシヤ降臨には重大な問題が内包されている。人類史の終末に、仮に神の意思を体現した人物がイエス・キリストの再臨として出現したとしても、それで万事が完結するわけではない。顕現のその瞬間から、神の新たな救済の業が始動し、救いの完成をもって終結するという点にこそ再臨問題の特殊性があるのである。そのため、キリスト教の再臨教義は、信仰の同志である無教会の門弟、教友においても理解の共有は難しかった。  内村が再臨運動に立ち上がると、弟子たちの多くは驚き当惑した。ところが運動が終息し、彼が再臨問題に口を閉ざすと、いつしか一部の弟子たちの間では、贖罪信仰こそが無教会の最重要の教えだとささやかれ始めたのである。いろいろな思惑が飛び交う中で、一九三〇年(昭和五)年三月二十八日、内村は病死してしまう。そして再び弟子や教友たちを驚かせる事態が発生した。  内村の死後、再臨信仰に不変の姿勢を表明する未発表の自筆原稿が発見されたのである。「私は長らくキリストの再臨を説かなかった。それは再臨を忘れたからでない。もちろん、その信仰を捨てたからでない」という文章で始まる「再臨再唱の必要」(1930・昭和5年4月)の論考は、死の翌月「聖書之研究」誌に公表された。再臨回心以降の人生が、再臨顕現を深く心に焼き付けていることを印象づける内容であった。  文中には、再臨を聖書の「最終真理」と表現し、キリストの贖罪がわからなければ再臨はわからない、さらに、再臨を無視しては贖罪は意味をなさないとある。信仰遍歴の総決算ともいえるこの遺稿文には、無教会の中枢的教義、贖罪の系譜が、再臨をもって至高の真理とする一点に凝結されていた。  「人は初代教会の元気旺盛を語る。それには明白なる理由があった。初代のキリスト信者はただ無意味に信仰に燃えたのではない。彼らが世に勝ったのは、再臨の希望に養われたる信仰によって勝ったのである。今日といえどもおなじである。この希望に養われずして、文化と共に日々に滅び行くこの俗世界に勝つことはできない」(同文)と、再臨信仰が人生に不可欠な要件であることが鮮明に書かれていたのである。    再臨は今日的テーマ  内村は贖罪だけを重視することに一抹の不安を抱いていた。同時に、贖罪を抜きにして再臨に盲従する危険性をも痛感していた。「再臨再唱の必要」は無教会の会員に向けた信仰上のアドバイスであり、晩年にことさら再臨信仰を強調しなかった大きな理由がここにあったといえる。  日本での再臨理解の困難さを先に述べたように、キリスト教精神が浸潤している欧米社会でも、キリストの再臨や神の国の実現など、再臨事項を適正に評定することは難解なテーマであることに差異はない。  内村の再臨のメッセージは、封印されていた神の深奥な啓示が、太陽の光輝がすべてのものを白日のもとに照りだすように、最高の精華を見せつけた。最晩年の彼は、キリストの再臨という事実を誰も無視することはできず、その歴史的瞬間が刻々と近づいているという感触をいだいて過ごしていた。再臨の約束を絶対視する心象に一片の曇りもなく、いかなる世俗の事柄に惑わされることもなかった。  それでは、再臨が万人にかかわる普遍的事象であることを、内村はどのように証明しようとしたのであろうか。彼には、キリスト教教義を証明する方法として、時間の特性に着目しそれを導入した興味をそそられる一考がある。そうした試みは、ロシアの思想家で実存主義哲学者のニコライ・ベルジャーエフもしている。論文「真理の証明者=時」は、歴史を貫く神の啓示や摂理を、時間という神的な概念を基軸に論評した秀逸な一文である。明治の末・再臨回心以前の論究であるにもかかわらず、再臨教義やキリスト顕現と衝突するような不都合さはまったくみられない。  「真理の証明者は理論ではない。また必ずしも経験でもない。・・・真理には理論以上、また経験以上、さらに確かなる証明者がある。それは時である。真理はその永存によってその真理なるを証明せらるるのである。永く続くもの、それが神の真理である。・・・キリスト教はその真理たるを解し得るまでに長き時と多くの忍耐とを要するのである。キリストの福音の真理の尊さは一年や二年これを信じただけでは解らない。これは十年または二十年、しかり、生涯にわたり、多くの迫害に遭い、多くの艱難を経て、始めて解ることである」(「真理の証明者=時」1912・明治45年)  時間と空間の流れが人類歴史を刻み、神の言葉の真理性が必ず実証されるという認知は、啓示宗教であるキリスト教を本質的な深みで熟視した帰結である。歴史も文明も国家も人間も、すべて時空から抜けでることはできないのである。  しかも時間は無為に過ぎ去るものではない。次元を超越した地平で神の言葉を立証してくれる。その実現は一代のスパンであったり、悠久なる人類史的尺度で解明されたりする。再臨の摂理もそうで、かすかな微光が時間的経過をへながら増殖・凝縮されると、やがて、一種の意志をもつ生き物のように歴史全体を一つの奔流へと強烈に牽引する。引用文の一節「真理の尊さは一年や二年これを信じただけでは解らない。…生涯にわたり、多くの迫害に遭い、多くの艱難を経て、始めて解ることである」とあるのは、そうした事柄も包含した省察であろう。  内村的表現を借りれば、時間概念でとらえた再臨の教えは、まさに神の究極の啓示であり、歴史的審判であり、キリストの顕現であり、全人類的救済であり、かつ神の国の顕示であるということになる。こうしてみると、再臨運動で唱えられたメッセージは、運動の終結で終止符が打たれたのではなく、人類歴史を超越して、今なお人類社会に突き付けられている今日的テーマと言えるだろう。    メシヤは歓迎されるか  「余が今特に祈り求めてやまざるものは、忍んで待ち望むの心である。これさえあれば、余は墓に下りて千年万年、余の救い主の再臨とこれに伴う余の身体の復活を待つことができる」(「余がキリストの再臨について信ぜざる事ども」1918・大正7年2月)  この文章は再臨運動の開始期に、再臨を渇望する心の決意を披歴した言葉である。そうした覚悟を、十年後に、さらに「警誠」という一語でまとめたのが論文「十字架の道」である。  「キリスト教の信仰はキリスト再臨の信仰である。彼の来たり給うを待望む信仰である。ゆえに信仰と称するよりもむしろ警誠と称すべきものである。信者に平安はあるがこの世の人の求むる安楽はない。キリスト信者の平安はキリスト再臨に遭うて驚かざる平安である」(「十字架の道」1928・昭和3年)  再臨待望論者が心すべき点は、「キリスト再臨に遭うて驚かざる」「警誠」的な精神だという。再臨を迎えるにしても、ただ漫然と天を仰ぎ見る抽象的な信仰であってはならない。再臨のあることを承服した端然とした姿勢、つまり、世に勝つ不動な平常心の保持、透徹した毅然たる心意気である。約束が成就するまでは、粛々と勤勉・誠実に励むべしということである。  かくして、内村の信仰の心象は「いそしみて待ち望む祈りの日々」となった。ただ忍耐し忍ぶのではない。大いなる希望を抱いての歩みということである。  内村は、キリスト顕現にまつわる警告の言葉も忘れなかった。発言は再臨回心二年前のことで、見事なくらい再臨問題の核心を言い当てている。それは、キリストが再来するとき、果たして人々はどのような反応をとるだろうかという疑念に始まり、マタイ伝には、キリストの誕生を告げられたヘロデ王が不安を感じたとある。そして、「しかしふしぎなるは『またエルサレムの民もみなしかり』とある」のはなぜか、と内村は問う。偽りの王であるヘロデが狼狽したのは理解できるが、エルサレムの人々もまたただならぬ思いに駆られたのである。本来、「ダビデの町なるエルサレムは、ダビデのすえの誕生を聞きてよろこぶべきである」はずなのに、彼らはなぜ不安を感じたのだろうか。内村は次のように解釈する。  「その理由は明白である。エルサレムに神の子を迎うるの準備がなかったからである。その民は世の権門に阿従し、安逸これもとめ、幸福これ追い、きよき神のきよき治世はかえってはなはだしくこれを厭うたのである。・・・ああ、いまもしキリストが再来したもうならばいかに? 教会はこれを聞いてよろこぶであろうか。おどろくであろうか。キリスト教国の君主と称する多くのヘロデ王たちがふるえると同時に、その首府と称せらるるあまたのエルサレムの民らもみな同じく震がいするのではあるまいか」(「王の誕生」1914・大正3年2月)  キリスト顕現に関連するもう一つの警句を挙げよう。再臨運動終了前後に書かれた短文で、イエス・キリストの言葉「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ18:8)を引いている。イエス誕生のとき、エルサレム全市民の中でキリストを証したのはシメオンとアンナの二人のみだった。では、キリスト再臨のときはどうであろう。内村は終末の世には試練が人々を襲うとほのめかす。  「初臨の時にそうであった。再臨の時にそうであろう。きわめて少数者のみが彼を迎えまつるのであろう。初臨の時に、民の学者や祭司らの中に一人として神の子を迎えまつりし者がなかりしように、再臨の時にも、教会の牧師、神学者らの中に一人として彼の降臨を待ちこがるる者はないであろう」(「稀有の信仰」1919・大正8年2月)  「再臨の時にも、教会の牧師、神学者らの中に一人として彼の降臨を待ちこがるる者はないであろう」という。果たして現代人は、そうした試練にあって、メシヤを歓迎する者となるのか、あるいは、不信者の烙印を押される者となるのか。その言葉は重々しく人々に迫っている。  31 心に残る内村の語録    最後は、彼の書きつづった珠玉の文章群をもってしめくくりたい。  内村の言葉は、今も新鮮に現代の私たちの心に響いている。将来の世代にあっても、色あせることのない深い英知にみちた指針になることを確信してやまない。  「悪に勝つの方法」(1901・明治34年2月)  聖書は私たちに教えて言う、あなた方は悪に負けてはいけない。善をもって悪に勝てと(ロマ書12・21)。しかし、悪は強く、善は弱い。ゆえに一つの善は一つの悪に勝つことはできない。もし善をもって悪に勝とうと願うならば、私たちは百の善をもって一つの悪を征服しようとすべきなのである。もし悪が私たちに対して憎しみの小銃を発するときは、私たちはこれに好意の大砲をもってすべきなのである。もし人が、私たちに怨みの毒水一杯を飲まそうとするなら、私たちはそれに愛の洪水をもってすべきなのである。  私たちが多数をもって少数を圧迫しようとするのは私たちが善をもって悪を征服せんとするときにかぎる。  「わが神」(1901・明治34年4月)  悲しき時は貧する時にあらず、国人に捨てらるる時にあらず、孤独この世に存在する時にあらず、無学をもって人にわらわるる時にあらず。  悲しき時はわが心の眼に神が見えずなる時なり。わが霊魂が仰ぎみる者のかおが疑いの雲をもって、おおわるる時なり。  その時、わが蔵は充つるも、われに歓喜なし。わが名は万国の民のほむるところとなるも、われに満足あるなし。わが首の上に太陽は照るも、われはひとり暗夜にたどるがごとき心地するなり。われ、わが神を見失うて、われは死せると同然なる者となるなり。  われの愛する者、われの恋い慕う者、われの生命よりも貴き者はわが神なり。  「勇進」(1903・明治36年)  悪に染まざらんと欲して悪人に遠ざかるはよし。  しかれども善をもって悪を拭わんと欲して彼に近づくはさらによし。われにキリストの愛なからんか。われはただわが潔白の穢されざらんことを努めんのみ。  しかれどもキリストわれとともにありて、われは弱者にあらず強者なれば、われは進んで悪人と交わり、生命を腐食の中に投ぜんと欲す、希望をもって失望の闇夜を駆逐せんと欲す。  「キリストと愛国心」(1903・明治36年5月)  日本人を日本人のために愛そうとするから失望する。人は元来、愛らしき者ではない。  苦きものに甘きものを加味するにあらざれば、これを食うことはできない。  愛すべきキリストによりて、愛すべからざる同胞を愛するにあらざれば、とうてい長らく彼らを愛することはできない。  キリスト無しの愛国心は砂漠の迷景のごときものである。すなわち雲晴れて後、炎熱のいたると同時に消え失するものである。  「クリスチャンたるの確証」(1903・明治36年8月)  敵を愛するとはつとめて敵のために善をはかるということではない。  敵を愛するとは読んで字のごとく敵を愛することである。すなわちわずかの悪意をもさしはさむことなしに、まじりなき好意をもってその人の善を思いかつこれをはかることである。しこうしてこれ、罪に死せる我ら人間がなさんと欲してなすことの出来ることではない。  これは聖霊を身にうけてキリストの救いにあずかるを得てはじめて我らのなし得ることである。  敵に対して好意を懐くことが出来るにおよんで我らははじめて自分のクリスチャンであることを覚るのである。  「戦争の止む時」(1904・明治37年5月)  勝つことかならずしも勝つにあらず。負けることかならずしも負けるにあらず。  愛することこれ勝つことなり。憎むことこれ負けることなり。  愛をもって勝つことのみこれ永久の勝利なり。愛はねたまず、誇らず、たかぶらず、永久に忍ぶのである。  そして永久に勝って永久の平和をもたらす。世に戦闘の止む時は愛が勝利を占めし時のみ。  「愛の十字軍」(1904・明治37年6月)  私はなにをもってこの世を救おうか。  武力をもってではなく、正義の言葉でもない。  天国の喜びをこの世に提供して救いたいと思う。  すなわち新しい愛の力によって、この世の低くいやしい情欲を排除して、これにかわって天の清き性情をもって救いたいのである。  「欲の上進」(1905・明治38年9月)  人の欲は絶つことのできるものではない。欲は彼の固有性であって、彼の欲をまったく絶つことは彼を殺すことである。故に人を無欲にすることは不可能事である。無欲無欲というて世の人はしきりに無欲の人を誉めるがしかしそのような人は広き宇宙に一人もない。  ……欲の量に限りのないように欲の質にも限りがない。世には慈善、愛国よりもさらに高い、さらに聖い、さらに貴い欲がある。それは神を視んと欲する欲である。その子供とならんとする欲である。神の懐にはいり、その愛の奥義を知り、これにはげまされてひろく深く同胞を愛せんとする欲である。これが欲の絶頂である。  欲の昇華せしもの、欲と称すべからざる欲、欲に逆らい、これを全滅せんとする欲である。  「わが愛国心」(1908・明治41年1月)  われはわが愛するこの国を今日直ちに救い得ざるべし。されどもわれは百年または千年の後にこれを救うの基をすえんと欲す。わが小なる事業が救済の功を奏するまでには、わが国は幾回となく滅ぶることもあらん。されどもわれは永久の岩の上に築きて、時の変遷を恐れざるべし。  われはわが国を世々の岩なるわが神に任せん。世の政治家のごとくにあらずして、預言者のごとくに、使徒のごとくに、大詩人のごとくに、大哲学者のごとくに、永遠の真理を講じて、永遠にわが国を救うの道を講ぜん。  「読むべきもの、学ぶべきもの、なすべきこと」(1908・明治41年1月)  学ぶべきものは天然である。人の編みし法律ではない。そのつくりし制度ではない。社会の習慣ではない。教会の教条ではない。ありのままの天然である。山である、河である、樹である、虫である、魚である、鳥である、獣である。これみな直接に神よりいできたりしものである。  天然はただ天然ではない。神の意思である。その意匠である。その中にもっとも深い真理はふくまれている。  「信仰の秘訣」(1909・明治42年10月) 神を信ずるにあらず、神に信ずるにあり。 自己を神に信(まか)しまつるにあり。 自己に死して、キリストをして代わりて生かしめまつるにあり。(ガラテヤ2/20) 信仰の秘訣はこれなり。大なるちからの加えらるるも、聖き思想も与えらるるも、その秘訣はすべてこれなり。  「日本国の祈求」(1910・明治43年)  われかって異郷に在り、緑陰樹下に独りひざまずきて神に祈りて言えり。  神よ、われに日本国を与えたまえ。日本全土を与えたまえ。……  しかるにわれ故国に帰りてよりここに20有余年、わが祈祷は少しも聴かれず。……  われは迷いしか、神の声と想いしは夢なりしかと。時にまた声あり。わが懐疑を打ち消して言う、しからざるなり、われは真に汝の祈祷を聴けり。われは実に日本国を汝に与えんと欲す。  汝の生命をそのために献げよ。しからば日本国は汝のものたるべし、と。  われその声に応えていわく、誠にしかり、われは誤れり。われはいまだ日本国をわれに要求するの資格なし。神よ、願わくはわれを助けたまいて、われをして終わりまでこれを愛し、これがためにわが全生命を献ぐるを得て、これを有となすを得しめたまえ、と。  「失敗と成功」(1910・明治43年7月)  失敗は失敗ではない。失敗は成功にたっする段階である。  花が散ったあと実を結ぶように、またその種が死んで新芽がでるように、失敗を重ねて成功がくるのである。  失敗は成功の順路にほかならない。  完全なものがくる前には不完全なものがきて、それが廃れるのである。それだから、失敗したからといって悲しむことはない。  成功の一歩の近いことを喜び、感謝して働くべきなのである。  「生涯の決勝点」(1912・明治45年)  生は美しくある。しかし死は生よりも美しくある。生のための死ではない、死のための生である。美しく死んだ生を全うしたのである。あたかも競走におけるがごとく生涯の勝敗もまた最後の一分間において決せられるのである。この一分間に後れを取って生涯は失敗に終わるのである。  生涯のこの決勝点において神より特別の力を賜わり、走るべき道のりを尽くした者はさいわいである。  「二個の愛」(1913・大正2年10月)  愛に二つある。愛せられんと欲して愛する愛がある、愛せんと欲して愛する愛がある。すなわち受動的の愛がある、発働的の愛がある。  ……人に愛に対して神の愛がある。これは愛せんと欲して愛するの愛である。愛そのものに歓喜と満足とを有する愛である。愛せざればやまざるの愛である。愛の返報を要求せざる愛である。愛せられざるも冷却せざる愛である、生きたる発働的の愛であって、憎悪をもって殺すことのできない愛である。すなわち愛をもって生命とする愛である。  愛して、愛して、愛して、ついに悪をしてあるあたわざるに至らしむる愛である。  「悪評の幸福」(1915・大正4年9月)  人に善く思わるるは危険である。彼に悪しく思わるる時が来るからである。  人に悪しく思わるるは安全である。われは彼が思うよりも善くなることができるからである。……最も安全にして最も幸福なことは、すべての人の悪評の下に、謙遜なる生涯を送ることである。  「患難と信仰」(1915・大正4年)  患難に遭うてキリストに来る人がある、キリストに来りて患難に遭う人がある。  患難と信仰との間に深き関係のあるのは事実である。しかしながら患難が前にして信仰が後なるは低い信仰である、信仰が前にして患難が後なるは高き信仰である。……しこうして神の求め給う信仰の患難を慰められんための信仰にあらずして、患難をよびおこすほどなる信仰なることは言わずして明らかである。  「強烈の愛」(1916・大正5年)  国を愛せよ。しかり、国人に国賊として排斥せらるるまでに深く国を愛せよ。  教会を愛せよ。しかり、異端として教会に放逐せらるるまでに強く教会を愛せよ。神を愛せよ。しかり、エリ・エリ・ラマ・サバクタニの声を揚げて神を愛する疑わざるを得ざるに至るまでに深く強く神を愛せよ。  「日々の生涯」(1919・大正8年12月12日)  人を信ずるは疑うよりも善くある。信じてだまさるるは疑うて安全なるよりも善くある。余は今日まで多くの信ずべからざる人を信じて多くの苦痛を身に招いた。しかし余をだました人は一人残らず消えてしまってだまされし余は幸いにして今日なお希望の中に神の御事業に携わりつつある。だまさるることは恥辱ではない。これに反して人を信じ得ないことは大なる不幸である。  真の英雄、偉人、聖者はすべて人にだまされた。……しからば信ぜんかな、だまされても信ぜんかな。  「いきどおりの時」(1922・大正11年4月)  今や世界は非常の速度をもって変わりつつある。人類は今や最大最後の革命にとりかかりつつあるようにみえる。  世の識者と称する者が神の存在とそのキリスト教の真理について疑いをいだきしは遠き過去のことに属し、彼等は今や道徳の基礎にすら信頼せざるにいたった。  彼等は問題を設けて言う。「なぜに殺しては悪いか」、「なぜに姦淫しては悪いか」、「なぜに偽りでは悪いか」と、……神の声というがごとき、良心の命令というがごときは真面目に考えられざるにいたった。かくて今や宗教のみならず道徳を説くさえ無益である。これは実に堕落の絶下である。  『ロマ書の研究』(1924・大正13年)  今や世界の壊乱はその極に至ったかと思われる。今や人は善悪という簡単なる道徳的差別をさえ認めない時代である。いっさいを自己と自己の快楽のために用いて、これを恥じざるのみか、これを誇りつつあるが現代人の心理である。そのために人類社会の醜陋堕落は急転直下の勢いを示しているかと思われる。  ……人は今神の法を破りつつあるがごとくであるが、実は神の法は人に破らるるごとき脆弱なるものではない。神の法は厳として千古に立っている。彼は依然として全世界救拯のその聖計画を進めつつある。やがて聖画の成る時は必ず来たる。あたかもわれの罪を通して神はわれを光明の境にまで導き来たりたまいしがごとく、全世界の今の罪悪を通して、彼はこれをその聖目的のあるところまで導き行きたもうであろう。  「われらの味方」(1927・昭和2年)  私ども信仰に生きんとする者に二人の味方があります。その第一は神でありまして、第二は時であります。……時のいたるを待たなければなりません。あるいは十年、あるいは二十年、あるいは三十年、長ければ長いほど、審判は深刻で激烈であります。  正義も罪悪も熟するに時がかかります。  そして熟しきって果は落ちざるを得ません。神とタイムであります。神は無窮の存在者、タイム、時はその聖旨の実現者であります。神はその僕タイムを使いて私どもを彼により頼む者を義とし給います。「おおわれて顕われざるはなし」であります。そして時は世評の判決を破棄して、神の裁判を言い渡す、公平無私の判事であります。  「今日という今日」(1929・昭和4年)  今あるこの状態、これが自分にとり最善の状態である。この状態に善処して自分は神が自分のために備えたまいし最善に達することが出来るのである。  祝福されたる現状、その辛きも苦しきも、悲しき痛みも、すべてが天国に達するみちである。  ここを出発点として、現在という堅き岩の上にふんばりて、よし残るは最後の一日なりといえども、神を信じて勇ましく行ないて、わが前に天国の門の扉は開くのである。  ……今日という今日が成功の生涯のかどでである。 伊藤武司(いとう・たけし) 1944年東京生まれ。青山学院大学法学部私法学科中退。アメリカ統一神学校宗教教育科修士コース修了。世界平和家庭連合世田谷教会長、中央東京教区長、アイザック外国語スクール社長などを歴任。2000年アメリカの家族の元へ帰り、現在に至る。テキサス州州都オースティン在住。 Takeshi Ito 1740 Timber Ridge Rd. ap 120 Austin,TX. 78741  USA メールアドレス  tyito@hotmail.com