中曽根康弘閣下 追悼文 

 本年5月1日に幕開けした令和元年も間も
なく終わろうとしています。
本年も、戦後日本を支えてきた多くの方々が
次々と逝去されました。
 皆様と共に衷心よりご哀悼申し上げます。

                     ワード形式はこちら⇒
  一昨日、1129日午後1時のTV報道で中曽根元総理の訃報を知った。
その瞬間から、中曽根先生に関連した小生の心の中の波紋は、広がるばかり
で、予定のスケジュールが手につかない。このような状況の中で、中曽根先
生のご逝去について、恩師とお話をした。 90歳を超えた師は、「人生は出
会いだ」と自分の人生に影響を与えた人物をついてお話された
  私の心に衝撃を与えた中曽根総理とは何であったのか、心に浮かんでく
る数々の波紋を整理し、まとめておくことは、中曽根先生への供養にもなる
と思い、今、筆を執っている。
 中曽根先生は、我が国の戦後政治を導き、今日の日本を築き上げた偉大な
政治家であった。与・野党を超えて誰しもが認めるところである。
国家のために身命を投げ打って尽くした人物、正に国士である。その根幹は、
「日本は不沈空母言にも見られるように、第2次大戦中、海軍少佐として戦い、
多くの戦友を失い、国土の荒廃を目のあたりして、再興に取り組んで来た士
の実体験から生まれた確固たるものであった。[i]
 
 士は、また、稀に見る文士でもあった。日本文化の本質とその伝統を追求
し、敗戦により失われ行く民族的伝統を再生することに精誠を尽くされた。
士は、精神的には米国に優るとも劣らない日本文化が、軍国主義再来を恐れる
占領軍によって根絶されようとする占領政策に抗して戦った憂国の士でもあっ
た。憲法改正の叫びや国際日本文化研究所の創設もそのほとばしりであった
と言えよう。


 
また、士は、国家にとって科学技術の重要性を熟知していた人でもあった。
これは先の太平洋戦争において日本が米国に負けたのは、科学技術力の格差
にある
ことを、身をもって敗戦の体験をしたことによるものであろう。
小生1970年代末、
10年後のナショナル・ゴールプロジェクト」を3000人の
有識者の驥尾に伏して手伝ったことがある。 [ii]

 その最終報告書『国際化時代と日本』(790頁)を読まれた士は、「第4
世界平和のための科学技術開発ついて話を聞きたい。」とおっしゃった。そ
のだけ見ても
文化立国、政治立国とともに科学立国、経済発展の原動力で
ある科学技術の振興に
特別な関心を寄せられていたかが分かる。

 氏は、被爆国の日本であるにもかかわらず、原子力基本法を草案し、原発
導入を推進された。しかし、不幸なことに、原子力のエネルギーの誕生は、
当時の劣悪な
社会的状況から、安全性を度外視した破壊力最大を求める核
兵器の解産であった。まさにそれは鬼子であり、パンドラの箱を開けたよう
なものであった。次々に災難がを降り注いできた。原子力の平和利用と銘
打って、いくら安全の衣で覆っても、あちこちからボロが出て人類社会を
悩ませている。

 世界最初に原子炉を造ったU.ウイグナー博士は「ウラン固定燃料ではだめ
で、トリウム熔融塩炉こそ安全原発ある。」と当初から予言していた。
西堀栄三郎、茅誠司、古川和男氏らの遺志を継いで、有志は、福島第一原発
事故が原因で亡くなった吉田昌郎氏の追悼を続ける傍ら、トリウム熔融塩炉
プロジェクトを
推進、日本でも昨年閣議決定され、本年、ようやく調査費が
付くようになった。[iii]

 
 高崎市は、中曽根先生の御膝元である。数年前、某財界人から創造学園
大学の再生
の依頼があり、地元の後輩等の協力を得て、再建に取り組んだ。
中曽根先生にも親書をしたため、下村文部大臣にも松田氏と陳情にお伺い
した。日本の大学総長陣の厳しい意見を背に、韓国へも飛び、韓国の大学
経営者らと折衝し、日韓協力大学構想をも検討した。力及ばず、大学の跡
地は今や、介護施設になって
いる。小生が最後までこれに固執したのは、
「人材輩出の地、群馬、特に中曽根先生の御膝下
である高崎の地を日本文
化を守り、世界へ発信する人材養成の拠点にしたい!」との至情からで
あった。

 この項は、小生の心の波紋であっても「中曽根先生の供養」にはならない
かも知
れない。只、自ら安定した職業を投げ打って、誰もが敬遠する厳しい
大学再建の火中の栗を拾い、郷土のために貢献した、故、松田治男君の供養
にも
なればと思い、あえて拙文を奏上申し上げた次第である。 [iv]

 ナショナル・ゴール研究の成果が自民党政府により高く評価され、70年代
から
80年代、10年以上に渡り、自民党政府の政策のお手伝いをした。特に
中曽根総理
の在任時代は、その提言のいくつかは政策として実行された。
その後ラトガース
大学で総理が記念講演された折には、「大変お世話になり
ました。」との思いがけ
ないお礼の言葉を頂いた。 在米中もっとも印象的
であったことは、中曽根総理
のワシントンでのスピーチに対して米国の有識
者達から高い評価を耳にしたことである
。それは中曽根総理が自分の信念、
思想を英語で語ったことで、中曽根氏を
通じて初めて日本の素顔に触れた
感じを米国国民が受けてからであろう。

 
 当時、毎週のように官邸にタイムリーな政策提言書を届けていたが、
「ゴルフに行かれる折には、必ず月刊『知識』と政策提言書をバックに入れ
てお出かけです。」と秘書官から伺った。レーガン大統領が毎朝『ワシント
ンタイムス』を読むことから始めたということと連動して思い起こされる。
[v]
 岸信介先生がお住いの御殿場に行くことがしばしばあった。新年
のご挨拶
にお伺いした折に、岸先生は滔々と話し始められた。その中に「中曽根が日
米関係を重視する限り、私は、中曽根を支持する。」とおっしゃった。その
カセットテープを総理の秘書官に届けたら「総理は大変喜ばれていました。」
お礼の言葉を頂いた。当時、「田中曽根内閣」と揶揄され弱小派閥であっ
中曽根総理にとっては強い嬉しい激励になったことは充分理解できる。   

 2000年代、(株)日本総研新谷所長等と日本の未来構想を描くシンクタン
ク活動を展開
した。その成果の一つである「国際ボアンティア制度の国策化」
の提言を中曽根先生にご報告する機会があった。先生は満面笑顔を浮かべな
がら励ましの言葉を下さった。 
[ⅵ]
 総じて小生達の歩みは、日本と世界の未来に向けて渾身の力を注がれた
中曽根先生を支援し、原子力問題等、その負を埋め、再生に努めた半生で
あったと思う。
 中曽根先生との最後の出会いは新橋演武場での「仮名手本忠臣蔵」の5時間
の鑑賞、幕間での歓談であった。「東京オリンピックへの提言」は最後の
先生への
親書になってしまった。晩年の中曽根先生に付き添っていた秘書か
ら「親父にお
手紙は渡しましたが、最近だんだん読む気力も薄れ、返事は
難しいと思う。」と
伺い、「いつまでも中曽根先生に頼ってばかりには居ら
れない」との思いを新た
にしたことを思い起こす。[ⅶ]
 中曽根先生は、終生、勉学の人であり、自己修練に努めた人であった。
総理の
座に座って晩節を汚す人も居る中、総理になっても努力を怠らず、
持てる才能を
十二分に発揮され、その位置にふさわしい賞賛を受け続けた
総理であった。  
「巨星、落つ!」と某代議士が慨嘆するように、中曽根先生のご逝去は、
我が国にとっても、また小生に
とっても大きな衝撃であった。中曽根先
生の訃報に接して、自分の心に生じた波紋を、このように記述してみて、
心が多少和らいだような気持ちになった。
 
 中曽根先生のご冥福を衷心よりお祈り申しあげます。 
令和元年12月1日    大脇 準一郎 拝  
 
            注 一覧表

[ii]  『国際化時代と日本』(ナショナル・ゴール報告書)

[ⅶ]  中曽根元総理の思い出   【中曽根元総理への親書】

=====================
  大脇総合研究所: junowaki@able.ocn.ne.jp
  180-0011 武蔵野市八幡町3-8-3-201
  Cel:080-3350-0021 
【カカオ,Line,Skypejunowaki

  大脇HPhttp://www.owaki.info

  【連絡版】 http://www.owaki.info/etc/etc.html

 
               追記:
今朝方(2019年12月27日早朝)、TVのスイッチを入れた途端、NHK100年インタ
ビュ「元総理大臣
中曽根康弘」
の番組の途中からであった。いくつか重要かつ、
感銘深いポイントがあったので中曽根先生の実像に迫る意味で先の追悼文にコメ
ントを追加させていただきます。小生が聞いたインタビューの内容は正確さを保証
するものではないことをお断りして措きます。その大意をご理解いただければ幸甚
です。

小生が視聴を始めたのは「風見鶏」についてのコメントの時であった。「風見鶏は
軸足がしっかりいて、状況に応じて変わる。それは政治家にとって極めて当たり前
のことである。」

 首相になって第1の訪問国に韓国を選んだことについて。「ソウルに着いた時に
は迎えも無く、町の雰囲気も冷やかだった。しかし帰るときには沿道の人々がにこ
やかに手を風てくれた。それは韓国語でスピーチをし、宴会で韓国の歌を韓国語
で歌ったこと、仕草でも絶対に自分から先に座らにように心がけた。 外交の要諦
は人間関係、信頼であり、親しい友達関係である。」と述べ、ウイリアムズバーグ
サミットでレーガン大統領の隣で写真を撮れたのも、話が弾んでそのまま写真に
納まった、自然な流れであった。」「日の出山荘にレーガンやサッチャーさんを招い
たときにもありのままの日本、日本文化を知って只くことに心掛けた。」

 外交においていかにコミュニケーションの道具として言葉が重要であるか、ま
た思いやり、その国の文化に根差した作法の重要性を痛感させられた。

インタビューの最後に中曽根先生は座右の銘「結縁、尊縁、隨縁」を紹介した。

 小生40歳を過ぎてから米国の大学院で、比較思想、文化、神学を学んだが
そこでの悟りは、西洋東京パラダイム思考式)であった
どちらも存在の反面にすぎず、存在の実相はそれを合わせた彼方にあるものある
こと。「存在とは個物である」とする西欧的思考は、近代文明の驚異的発展をもたら
したことは確かである。しかし、現代文明の行き詰まりの主原因にもなっている。
この難局を打開する道は、中曽根先生の座右の銘にあるように「縁」関係性
存在もう重要基盤であであ
哲学、神学上の
数々のアポリア(難問)がいとも簡単に解けるばかりでななく、社会に平和や潤い
を、環境にも調和がもたらされるであろう。

 「人生は出会いである」との恩師の言葉を先に紹介した。「1970年代末、世界
大学総長会議(IAUP)を日本で主催してほしい。」との海外からの要請で、当時
日本の代表世話人であった茅誠司先生は、総会のテーマとして「Encounter :East
and West
」はどうか、人生の出会いは神秘である。」とおっしゃった。先日ハワイ
大学の恩師、吉川宗男からご著書「出会いを哲学する 」を頂いた。」一気に読め
る本である。さすがは長年East West Centerの教授をされただけのことはあると
感銘した。

  すべてを切って分ける西欧の科学的個別思考に対して、すべと結ぶ(繋ぐ)東洋
の連体的ホリスティックな思考、この東西の2つのパラダイムの融合こそ新時代の
ビジョンが生まれる。今こそ小異を超えて大同の理想、人類悲願、恒久平和を
実現する秋が来たと確信する。