相沢英之先生、シベリア抑留について語る

   

世界日報8面 インタビュー 2016/12/26
「抑留問題とロシア外交」
 
元経済企画庁長官(財)全国強制抑留者協会会長 相沢英之氏に聞く


「したたかな国、ロシア」

領土問題、なぜ出ない/まず必要なのは国論統一/ソ連崩壊で抑留問題複雑に/分裂で交渉相手が多様化

 今月中旬、安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領の首脳会談は、北方領土問題で進展があるのではという一部にあった甘い観測は吹き飛んだ。北方領土交渉では、日本はロシアに煮え湯を飲まされ続けてきた経緯があるが、今回も例外ではなかった。終戦を北朝鮮咸鏡南道の咸興で迎え、3年間ソ連タタール自治共和国エラブガでの抑留生活を送り、ロシアを身をもって知る元経済企画庁長官の相沢英之氏に「抑留問題とロシア外交」をテーマに聞いた。97歳になる相沢氏は弁護士活動と同時に(財)全国強制抑留者協会会長としても活躍中だ。
(聞き手=池永達夫)

領土問題、なぜ出ない
 ――今回の安倍晋三首相とプーチン大統領の日露首脳会談の感想は?

 領土問題についての記事が、なぜ出ないか不思議だ。2人だけで話している時間があったが、当然、この問題は話していると思う。ただ、口にすると、どちらか面子(めんつ)がなくなるから領土問題に関してはしゃべらないことにしているのだろう。だが、何のために首脳会談をやったのかと言いたい。
 明らかに千島は、北千島だけでなく千島全体が日本の領土だ。明治8年、日本とロシアの間で締結された樺太・千島交換条約で、日本は樺太の権利一切を放棄する代わりに、それまでロシア領だった千島列島、すなわちウルップ島以北の18島を領有することになった。この条約により、千島列島全域は日本の領土となり、樺太はロシアのものとなった経緯がある。
 これは何の疑いもない事柄だ。それをロシアのものだという。本当をいうと、なぜ1956年の日ソ共同宣言の時に、歯舞、色丹の2島だけ書いて、国後、択捉についてノーコメントだったか分からない。

まず必要なのは国論統一/ 
――鳩山一郎首相(当時)がモスクワを訪問した時、ソ連は2島は返すと約束している。

 ただ詳細を読むと、平和条約を締結したならば、引き渡すと書いてある。
 日本側にも問題があると思うのは、2島だけでも返してもらえとか、あるいは面積で半分、返してもらえなどという人たちがいた。森喜朗元首相なんかそうだ。
 しかし、そんなことを言えば、足元を見透かされる。だから、せめて国論を統一して、全部返せと主張すべきだと思う。今度の会談にしても、経済で一緒にやりましょうという話だけだったら、いいとこ取りだけされて、食い逃げされてしまう懸念がある。
 お互いのためにやりましょうと経済問題に取り組んでも、結局、いつの間にやら、資金だけが向こうに流れ、インフラを整備して、こっちだけが馬鹿な目を見る可能性がある。


――ただ下準備で動いた国家安全保障(NSC)局長の谷内正太郎氏などが、考えているのが、台頭する中国にどう牽制するパワーを持つかということだ。中
国とロシアの連携が進んだ場合には、かなり日本にとっては脅威になってくるわけで、そのためにもロシアを引き寄せて対中カードを持っておく必要性もあるのでは?


 そういう意義もあることは認めるが、だけど、ロシアの国というのはなかなかしたたかな国だ。 僕は谷内さんの考え方というのが、本筋だとは思わない。政府が彼の考えで一本になっているとも思わない。

ソ連崩壊で抑留問題複雑に
――1991年12月25日にソ連崩壊した時こそが、領土返還の歴史的チャンスだった。それを見逃したのは日本の政治家の失敗だったと思う。

 それはいえるかもしれない。ただソ連崩壊は抑留問題を厄介にした。
 抑留問題を50年、やってきているが、結局、それまでは1国で済んだが、分裂したものだから、交渉相手が多様化した。バルト3国なんか抑留地でないからいいが、あとは分かれている。すると、ソビエト時代の条約というのは、分かれた国についてはどうなるかという問題が出てきて一筋縄ではいかなくなった経緯がある。
 抑留者問題ではソ連と三つの協定があった。一つ目は名簿を出す。二つ目は墓を相互に保守管理する。相互にというのはソ連側とすれば日露戦争時のことを言っている。そんなことまで持ち出してきた。
 三つ目は遺留品を返すというものだったが、これをなかなか実行しない。
 毎年、二十数回、外務省や古文書館など交渉に歩いた。私らが出向いて交渉すると、しかるべく対応してくれる。名簿に関しても、出てきた。
 結局、ソ連に対して一番問題にしてきたのは、なぜ戦争が終わってから、われわれをシベリアに連れて行ったかということだ。
 考えられるのは、当時のソ連からすれば、労働力の提供ぐらいのことはやってもらいたかった。しかし、日本側の誰が、労働力提供に関してサインしたかという問題がある。それがなかったら、60万人の兵隊が強制的に連行されることはなかったかもしれない。
 
分裂で交渉相手が多様化/
――瀬島龍三氏がサインしたのか?
 いや断定はできないが、瀬島氏らが書いたのではないかと思われる。関東軍の軍司令官は、拉致されて切り離されてしまっている。トップが抜けている中でサインをさせられた可能性が高い。日本が降伏した1945年8月15日後の8月19日、ジャリコーウォでソ連軍と停戦交渉を行ったのは瀬島氏らだった。

 ――結局、分からない?

 そうだ。彼らは結局、何も言わないまま黄泉(よみ)の国へと旅立っていった。
 私とすれば、サインさせられたかもしれないけれど、それならそれとなぜ言わないのか。そうでしょう。何も知らされないで、凍土のシベリアに連れていかれ60万人のうち6万人も死んだのだから。餓死が一番多かったと思うけど、北朝鮮に十数人が拉致されたどころの問題じゃない。
 歴史を回顧すると日本政府も実に馬鹿なことをした。連合軍の一部であるソ連に仲介を頼もうとしたんだ。そうしたことをしたら、日本が負けることを知らせるようなものだ。
 それでソ連は、乗り遅れてはいけないと戦争の決着がつく前に、何とか実績を作っておく必要があるということで、1945年8月9日に日ソ中立条約を破って侵攻を始めた。自分の軍隊を動かしてやっとかないと、発言権がないと思ってやったんだ。
 私は当時、北朝鮮咸鏡南道の咸興にいた。関東軍から来た命令は、戦って撃退しろではなかった。「抵抗しつつ、漸次、下がってこい」だった。抵抗しようにも旗がない。そんな馬鹿な命令だ。
 ここらあたりのことは、作家の浅田次郎が『終わらざる夏』という小説で占守島を舞台に書いている。

 ――こうした問題について戦後、総理で誰が発言していますか。

 小泉首相が首脳会談でモスクワに行ったことがある。その前に私は総理官邸に1人で行って、小泉首相と会って、ロシア側に抑留者の名簿提出と6万人死なせたことを謝ってほしいと申し出た。それとただで働かされた。その賃金の支払いを求めた。そういう問題を、少なくとも総理として発言してほしいと言った。 小泉首相は黙って聞いていて、結局、モスクワまで行って、この抑留問題に触れたのは小泉首相だけだった。ちゃんと発言している。   音声はこちら⇒

=メモ=
 1919年7月4日、大分県宇佐市生まれ。東大帝国大学法学部卒。大蔵事務次官、衆議院議員(9期)、経済企画庁長官、金融再生委員会委員長などを歴任。東京福祉大学元学長。(財)全国強制抑留者協会会長。勲一等旭日大綬章。妻は女優の司葉子。著書に『タタァルの森から』『予算は夜つくられる』『ボルガは遠く』など多数。




世界へ通じる外交哲学、戦略の確立を!

 12月16日午後、日露首脳共同記者会見を見ていて 、シベリヤ抑留問題が胸をよ
ぎった。シベリア強制抑留者協会協会会長の相澤英之先生は今年97歳、先生に電
話した。先生は即座に何点か挙げられた。さすがは弁護士と感銘した。小生の心
配していた通りなので、急遽時間を取っていただき、記者とともにインタビュー
にお伺いした。1)帰国させるからと行って騙してシベリヤへ抑留したこと。2)
労働賃金を払う文書を交わしながらも未だ未払いの件、3)日ソ不可侵条約の一
方的に破棄、4)56年の日ソ平和共同声明で約束した歯舞、色丹も棚上げ、
5)ロシアを非難するだけでは片手落ちであって、外務省を始め、5省庁高級官
僚の「日本的和の外交」の欠陥が気になるところである。
(参考:http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Sengoshori.html)

 60 万人を超える犠牲者、6万人をはるかに超える死者の訴えを本にして世界へは
発信すべきすべきとの声も聞く。この夏 ロシアは、広島、長崎の原爆を落とし
た米国を非人道的と非難した。そのその意図は 日米離間工作にあることは明白
である。したたかなロシアとの折衝の バーゲニングパワー、交渉のカードの一つ
としてシベリア行く龍問題は、しっかり保持しておく必要性を痛感する。日刊紙
編集委員、月刊雑誌の編集長も同席したので、最も効果的な折に、スクープとし
てでることであろう。