平成291129日 於:伊豆市
 食の安全と地球環境 北里大学名誉教授 陽 捷行 氏 (みなみかつゆき
 現代の世界には、「分離の病」があります。専門だけに没頭し、生活のなかでは使われていない言葉を
使う「知と知」の分離、理論を考える人とこれを実践する人、現実とバーチャル(仮想・虚像)の分離に
みられる「知と行」の分離、体と心、知と現実の極端な分離にみられる「知と情」の分離が、それにあた
ります。

  ところで、われわれは新しい科学を必要としています。それは、うえに述べた知の分離を克服した科学
です。そこでは「知と知」の連携のほかに、行動「知と行」と指針「知と情」が提唱されなければなり
ません。この科学の良い例は、現代における生物圏・水圏・土壌圏・地殻圏・人間圏を統合した地球環境
科学にみられます。
  今回のお話しは、「食の安全と地球科学」という演題で「知と知」の連携を試みようとするものです。
考えてみれば、このタイトルはあまりにも大きすぎるのです。「食」と「安全」と「地球科学」について
理解するだけでも、何冊もの本や何年もの歳月が必要です。そのうえ、これらを連携することができるの
でしょうか。

  この演題は、これまで分離してきた「食と農」「食と安全」「食と地球環境」をつなぐことを意味
します。科学で言えば「農学」分野と「医学」分野と「環境科学」の統合で、新しい学問の創生にもかか
わることなのです。多くの過去知、時間、人、科学の成果が必要なのは言を待ちません。今日の講演だけ
で、何かを理解して頂けるのでしょうか。心配ですが、以下の内容を理解して聞いて頂ければ、少しは私
の思いが分かって頂けると思います。
 幼い頃、人間がなぜ何世代にもわたって生きてこられたのかと、子どもながらに疑問を持っていました。
いろいろと考えを巡らせているうちに、あることに気づいたのです。それは、「わたしたちは、土壌から
生育する植物と、それを食べる動物を食べて生きている」ということでした。つまり、人間は土壌がある
から生きられるという、簡単なことでした。土壌は、人間が生きてきたどの時代にもありました。また、
いま人間が生きているどの場所にも通常かならず土壌があります。
 土壌の良し悪しは、わたしたちの健康に直結しているのです。わざわざこんなことを言わなくても、健康
のためには食べ物がだいじで、食べ物を作るには土壌がだいじだということは、農家の人たちは身をもって
知っていることなのです。しかし、原材料のわからない加工食品ばかりを口にして、土壌に触れることも
なく、一日中パーソナルコンピューターの前に座って仕事している人は、このことを感覚的に理解すること
が困難だと思います。
 人間の場合、食べ物から栄養分を吸収する器官はおもに小腸と大腸です。そのうえ、この腸は実は脳より
もずっと賢いと考えられます。こんな例を示せばわかり易いかもしれません。あなたはある食べ物を見て、
腐っているのを知らないで「食べたい」と思って食べます。しかし、その食べ物が腐っていたら、なにが
起こるでしょうか。おそらく、あなたは嘔吐なり下痢なりをするはずです。このことから、脳より腸の
ほうが賢いと言えないでしょうか。腐った食べ物を誤って「食べられる」と判断した人の脳。しかし、
腸はそれを正しく判断し、食べたものを体内から追い出してくれるのです。
 腸が快適なら、大方わたしたちの体は健康といえます。世の中を見ても、このところ「腸内フローラ」
という言葉がはやってきているように、腸内の環境(微生物の生態系)を整えることが健康につながる
という考えが、ようやく浸透しつつあるように思えます。
 昨年、『土と内臓 微生物がつくる世界』という訳本が出版されました(参照:伊豆の国だより16号、
本の紹介13
)。地形学者の夫と生物学者の妻の
作品です。妻が癌に冒されたことと、新居に家庭菜園を作ることをきっかけに、健康と腸内環境の関係、
さらには腸内環境と土壌環境の関係についての研究がはじまりました。その結果と考察を書いた本です。
もっとも、原題は「The Hidden Half of Nature」ですから、「土と内臓」と訳した訳者をも誉めるべき
でしょう。
 この夫婦が導き出した答えとは、「植物の根の裏表をひっくり返したものが、人間の大腸だ」という、
一見、突拍子もない結論だったのです。これは、単に奇をてらって表現したものではありません。
「土壌から養分を吸収する根の外側の微生物の生態系」と「食べ物から養分を吸収する大腸の内側の
微生物の生態系」が似ていることを表現したのです。作物(食べ物)が土壌から養分を吸収し、
それと同じ構造で人間は作物(食べ物)から養分を吸収しているのです。わたしたちは食べ物を
通じて土壌から養分をもらっている。こうした話が理解できれば、土壌はわたしたちの健康に
直結するものだということが分かるはずです。土壌を耕すこととは、つまりわたしたちの腸内
環境を耕すことにつながるのです。
 この本と私の日頃の思いが、「食の安全と地球環境」という演題で話すことを決心させてくれました。
しかし、残念な事に「地球環境」まで話を続ける時間がありません。これらの科学は、
これから発展し
ていく科学であって、今回の話も未完成なものですが、あえて冒険に挑戦することにしました。いつか
時間が許されれば、「地球環境」まで話月をつづけることが出来るでしょう。
 今日は、ここまでにしましょう。
 
 1943年山口県萩市生まれ。1971年東北大学大学院農学研究科博士課程修了、同年農林省入省。1977~1978年米国アイオワ州立大学客員教授、2000年農業環境技術研究所所長、2001年独立
行政法人農業環境技術研究所理事長、2005年北里大学教授、2006年から同副学長。日本土壌
肥料学会賞、環境庁長官賞・優秀賞、日経地球環境技術賞・大賞、日本農学賞・読売農学賞、
国際大気汚染防止団体連合Yuan T. Lee国際賞受賞。IPCCチーフリードオーサーも務めた。

 著書に『土壌圏と大気圏:1994』、『地球環境変動と農林業:1995』、『環境保全と農林業:1995』
(編著・朝倉書店)、『農業と環境―研究の軌跡と進展―共編著:2005』、『現代社会における
食・環境・健康:2006』、『代替医療と代替農業の連携を求めて:2007』、『鳥インフルエンザ―農
と環境と医療の視点から―:2007』、『農と環境と健康に及ぼすカドミウムとヒ素の影響:2008』、
『地球温暖化:農と環境と健康に及ぼす影響評価とその対策・適応技術:2009』(編著・養賢堂)、
『地球の悲鳴:2007』、『農と環境と健康:2007』(アサヒビール・清水弘文堂書房)など。

 陽 捷行(みなみ・かつゆき)