津野幸人氏と農の哲学

自分教の確立に向けて
                            津野 幸人

―農における霊性の探求―(1)      

〇なぜ宗教は戦争の火種となるのか
〇このままでよいのか「日本仏教」
〇既成宗教も宇宙進化に目を向けよ

―農における霊性の探求―(2)
  既成宗教は平和を守れなかった
―平和を守るためには自分教が必要―

〇生命の創造者を神という
〇神仏と一体化できる人生とは


農における霊性の探求―(3)
現代有機農業の真髄―無農薬を決意したとき自分教の主となる―
 
〇道義の確立が望まれる日本農業
〇魔手の善用―相互扶助と不殺生戒
〇見習うべきガンジーの教育思想
〇橘学園の農作業―土光登美の教訓
〇機心を制する「農業の根気」
○有機農業の第一義は不殺生戒

 津野 幸人鳥取大名誉教授  

 農は規模の大小で評価すべきではなく、実践者の心を以ってすべきだと考えておりま
す。「有機農業の心を世界平和の礎とする。」
小さい有機農業を国民全部がやればよいのです。「農工一体で食糧自給を図る」のが
目標です。尾脇さまは、鳥取のご出身ですね。私にとって鳥取は22年間生活したところで、
佐治村の農地開拓で体を鍛えました。草刈先生の事績を世に残したいものです。

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「人すべて大地と関わりを持ち、それを耕さねばならぬのである。」
「小さい稲作、大きい稲作-自由貿易下で日米稲作の共存は可能か-」

「小農本論―だれが地球を守ったか」  (人間選書) 1991/2 津野幸人  
「小さい農業―山間地農村からの探求」 1995/9 津野 幸人 (著)

「農学の思想 」  (人間選書) 1975/11

「農学」にとっての「農業」とは、「人間」にとっての「農業」とはなにか。本書は「農学」
のあり方の根底への批判を通し、「農業」における「近代」を根底から問い直
す。目次は以下の通りである。
序章 農業と農学をみる視点  第一章 現代科学としての農学
第二章 対立する農業観    第三章 「新経験主義農学」の提唱
第四章 小農擁護論

「農業の価値観とはなにか、それを追求し、その視点で農業と農学を見つめ、両
者の結合をはかるために農学を本来の位置におき直すこと、これが本書の課題で
ある」(序章より)

「農学の思想」というタイトルが付された本書であるが、所謂学説史の類ではな
いことが一見してわかるだろう。筆者の「農学観」とは、「農学」を問うことは
「農業」を問うことにであるということに尽きる。注目すべきは、この「農学観」
が豊かな知識と洞察に支えられた「農業観」そして「文明観」へと有機的な形で
結び付けられている点にある。

「農業」と断絶した「農学」、「人間不在」の「農学」への眼差しはまことに
厳しい。これは本書における、農業の「工業化」を決定付けたリービッヒへの
批判、農的物質循環の自己完結性を唱えたテーヤーの擁護、農学における実験
科学主義傾斜への戒めに端的にあらわれている。<br />そして西欧と日本にお
ける農業の歴史を踏まえた上で、「農学」に支えられた「近代農業」のもたら
した「農業の荒廃」、「人間の荒廃」そして「文明の荒廃」への警鐘へと展開
していくが、その結晶として筆者のもっとも独創的な主張ともいえる「小農擁
護論」がある。

筆者は「分業人」「商工民族」に、「農耕民族」「全業人」を対置することで
小農を強力に擁護・鼓舞する。そこには人間の営みとしての「農業」のもつ本
質的価値に対する確信があった。

個人的に印象に残ったのは、「農業」とは楽しく芸術的かつ道義的な営みであ
るから、より多くの人が「結構な仕事」を享受するには小農でなくてはならな
いとの主張である。「大農とは満員電車のなかで横に寝ている酔っ払いのよう
なものだ」とは至言である。現実はこれが杞憂であったことを教えるが、これ
は単なるユーモアでなく真に「農業」の復権を願うものとして深く考えさせら
れる。

日本の農業を取り巻く状況は、無数のイシューの板挟みにあって刻一刻と厳し
さを増している。その中において本書は、人間の営みとしての「農業」を通し、
ひたむきではあるが創造的かつ豊かに生きる意志を持ち続けんとするものにとっ
て大きな示唆を与えてくれるものとなるだろう。
 
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  我々は、現代農業がもたらす環境破壊から目を背けてはならない。あくまで
もこれを見据え、秩序の裂け目を拡大して意識すると同時に、再び好ましい秩
序を創造していかなければならないのである。一時として農の営みを中止する
わけにはいかない。農を営む中で環境を修復する道しか選択の余地がないので
ある。ここにおいて有機農業が輝いてくるのである。

 農業労働は、自然に制約されるがゆえに外なる自然と内なる自然(精神)を開
示する特質を持つ。換言すれば、労働が自らを高めるところの数少ない職業であ
る。それは芸術家の制作活動に似ているといえよう。この働きで以て安全な食品
を作り、同時に環境を守ることができるのだ。こうした行為が輝きをもつ時代は
すぐそこにきている。が、これは大地を耕す者の、精神の発展なしには実現でき
ない。それをヘーゲルのいう世界精神の目覚めに模してもよい。すなわち、漫然
とした感性は、主観的精神から客観的(社会的)精神へ、さらに絶対的精神(宗
教)へと進み、ついには絶対的な知(神の領域)に到達するのである。この発展
するべき世界精神は、常にわれわれの内にあって眠っているが、労働によって徐
々に姿をあらわすという。小さい農業は、このような労働を可能とするのだ。

 労働を通して宗教的境地にいたる過程を明らかに指摘し、それをわれわれに示
してくれたのは鈴木大拙師だと思う。その著書「日本的霊性」(岩波文庫)から
要点を拾うと次のとおりである。「精神と物質との奥に、いま一つ何か(霊性、
筆者注)を見なければならぬのである。p16」、「天は遠い。地は近い。大地は
どうしても母である。愛の大地である。これほど具体的なものはない。宗教は実
にこの具体的なものからでないと発生しない。霊性の奥の院は、実に大地の座に
ある。p43」、「鍬の数、念仏の数で業障をどうこうしよう、こうしようという
のではない、振り上げる一鍬、振り下ろす一鍬が絶対である。弥陀の本願そのも
のに通じていくのである、否、本願そのものである。p96」、「鍬をもたず大地
に寝起きせぬ人たちは、----大地を具体的に認得することができぬ。p131」、
「大地に親しむとは大地の苦しみを嘗めることである。ただ鍬の上げ下げでは、
大地はその秘密を打ち明けてはくれぬ。大地は言挙げせぬが、それに働きかける
人が、その誠を尽くし、私心を離れて、みずからも大地となることができると、
大地はその人を己れがふところに抱き上げてくれる。p 131」これほど農耕労働
のもつ本質を言いあてた言葉はないと思うので、あえて此所に引用させていただ
いた。
 畢竟すれば、人すべて大地と関わりを持ち、それを耕さねばならぬのである。
       (Takumi Yamagishi 投稿日 2014/2/12 )
そこに「Culture(文化)」も醸成される。