http://www.jwide.com/news/news.htm?id=5521
旧ハワイ王国代理公使ロバート・W・アルウィンのお墓が倒壊状態
Posted on 2013年12月15日 by librarian ・ 12件のコメント
ヘンリー・ジャッドの仕事について触れようと思っていましたが、今、触れておかないとという記事にまた出会ってしまいました。
12月11日の朝日新聞の記事によれば青山霊園にある旧ハワイ王国代理公使ロバート・W・アルウィンのお墓が東日本大
震災によって倒壊したままになっているそうです。
→伊香保温泉街ゆかりの旧ハワイ王国公使
上記の記事に倒壊状態のお墓の写真がリンクされていますが、まさかここまで酷い状態とは思っていませんでした。
記事中にある米国に住む遺族とはおそらく、アーウィン・ユキコさんのことでしょう。アーウィン・ユキコさんは米国で指圧の
紹介をされていてその関係の著作で知られている方。
また、半生を「フランクリンの果実」という著作に残されています。文芸春秋からの刊行ですが、1988年のことであり、今は
古書店での入手しか手段がありません。(帯に有る通りまさに波乱万丈です。家族も含め様々なことにストレートな表現が
されているため、再刊が難しい箇所があるかもしれません。)
タイトルと書影からお解りになるでしょうが、ロバート・W・アルウィン(アーウィン)はベンジャミン・フランクリンの末裔にあたる
のです。(元公使はベンジャミン・フランクリンの直系五代目の子孫で、著者ユキコさんはロバートの孫にあたる方)。表紙に
「五人の独立宣言起草者」という歴史画をその子孫たちが再現した写真を使用。一番左側に立っているのが著者のユキコ
さん。したがって、伊香保はハワイばかりではなく、米国フィラデルフィアともつながりを持つことになります。
小さい写真で申し訳ありませんが、上記画像の右上が著者近影、左上がロバートと結婚したいきさん16歳のときの写真。
その下が祖父母を囲むアーウィン一家。左から二人目が今も玉成幼稚園等として残る学園の創立者、ベラさんです。
いろいろ考え合わせるとざまざまなネットワーク、つながりが有るわけで、それを繋ぎあわせればお墓の移転、再建も
なんとかなるかもしれませんね。
倒壊前のお墓の画像も含めて詳しく記述されているサイトがあります。ハワイ生まれの日系アメリカ人Philbert Onoさんの
サイトです。お許し無くリンクさせていただきます。
→Robert Walker Irwin
アーウィン・ユキコさんに触れてフィラデルフィアと日本との関係を紹介する記事があります。
→Phila. And Japan
記事中で紹介されているJapan America Society of Greater Philadelphia刊行の「Phila-Nipponica:
An Historic Guide to
Philadelphia and Japan」も現在では入手が難しそうです。
Posted in その他雑感
前の投稿ハワイの収容所を「HAWAII 5-O」が再現
2016年3月25日 23:53
上田木の実様、コメントをありがとうございます。
青山墓地に行こうと思ってから随分と経ってしまいました。まだ、果たせていません。ブログの更新をサボりがちですが、
青山墓地に導くテーマをもう一つ、見つけました。なぜかハワイに縁が有る方が多いのですね。
ご関係の皆様、お顔を合わせる機会はございますでしょうか。なんだか、皆様のお話を聞いてみたい気がします。
今、アーウィン家のことを調べているモノカキです。アーウィン・ユキコさんの消息は分かりませんが、ユキコさんの父
リチャードさんには、兄のロバート・ジュニアさんがおりました。「ロバートは牧野伸顕伯爵(宮内大臣)の姪、日高常子と
結婚し二人の男子の父となった」と、ユキコさんの「フランクリンの果実」26ページにありますから、ユキコさんのほかに
「有院」姓を名乗るかたがあるかと思います。ネットで検索しますと、横浜にその名も「アーウィン探偵事務所」
http://www.ahrwin.com/corporation.htmlというのがありますが、なぜ、アーウィンを名乗れるのか?ひょっとして関係者
かと想像しながらお訊ねできずにおります。もう一件。先にご質問の上田様は、上田安三郎さんのご子孫さまでしょうか?
今、上田安三郎さんのお名前が出てくる本を読んだばかりで、感慨深く・・・書き込んでみました。他意はございません。
ら 2014年10月2日 01:03
後藤様、コメント頂きながらレスが遅くなりましたこと、お詫び致します。
上田様からは後藤様が触れられているロバート・ジュニア様と同一人物と思われる日本名ボブ・有院さんの晩年を紹介
する記事をお送りいただきました。まったく知らないことで驚きました。小金井市でひっそりと過ごされていたとのこと。
上田安三郎様の年譜を頂きました。三井物産と海運、アジア、世界との関わりを語るうえで重要な位置を占められた方
ですね。本当に感激致しました。
2014年5月7日 13:42
ロバート・W・アルウインさんと祖父の代より係わりのあるものです。お墓のとうかいとうにつき何処に連絡すれば良い
のかご連絡ください。上田
返信
2014年5月10日 14:20
ご返信が遅くなりましたことをお詫びいたします。
肝心かなめの朝日新聞記事へのリンクが無効になっていることに今更ながら気が付きました。申し訳ありません。
他に情報が無いか探してみたのですが、見当たりませんね。
朝日新聞の記事では確か「伊香保温泉旅館協同組合」の方々がお墓の管理されていて伊香保へ移す計画を立て
られているようでした。
http://www.hotels-ikaho.or.jp/
もしくは渋川市のサイトになにか情報があるかとみてみましたが、今のところ記載が無いようです。
お役に立てず申し訳ありません。
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2015.06.03
https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/198
日布官約移民の父と言われ、日本とハワイの架け橋の第一人者
ロバート・アーウィンの移民制度確立の功績をじっくり把握。
ハワイと日本の強い結びつきを知る。
ハワイでは、現在も日系移民の子孫達が、ハワイの社会を支えています。その日
系移民の第一号となった日米官約移民の組織を作り、移民の父と呼ばれたのがロ
バート・ウォーカー・アーウィンです。ベンジャミン・フランクリンの直系五代
目の子孫として、アメリカ人ながら、デンマークのコペンハーゲンで生まれ、
1866年に22才で太平洋郵便汽船会社より日本に赴任しました。そして人生の大半
を日本で過ごすことになります。
アーウィンが日本に赴任してから1ヶ月後に、15才の明治天皇が即位したという
時代背景でした。太平洋郵便汽船会社での新航路を開拓した後は、ウォルシ・ホー
ル商会に就職します。横浜開港早々一番乗りをした、外国一流商社の一つでした。
また、アーウィンは後の総理大臣、伊藤博文、外務、内務大臣の井上馨、後の初
代三井物産の社長、益田孝、後の第一国立銀行の頭取、渋沢栄一ととも、西洋文
明を取り入れた新しい日本の国造りに貢献しました。その会社では1年後に長崎
支店長に就任することになります。
横浜と長崎を往復している間、24才のアーウィンは横浜で 浅草橋場町の裕福な海産物問屋の養女、
16才のいき-未来の夫人-と運命的な出会いをします。アーウィンは何度にも渡り、いきの養父のもとを
訪ね、結婚の承諾を得ようとしますが、当時は両家とも大反対でした。ですが2年間、通い詰め、ようやく
養父と本人の了承を得ました。しかし日本政府は二人の正式な国際結婚を認めませんでした。それから
正式な結婚の許可まで日本側では6年間、アメリカ側では12年間もかかりました。晴れて1882年の9月、
アーウィン38才、いき31才にして、日米結婚のパイオニアとなったのです。今でもこのときの書類は関東
大震災にも第二次世界大戦にも焼失せず、浜松町の東京都公文書開館に大切に保管されています。
アーウィンといきは一生涯、お互いの言葉を片言しか話さなかったといいます。こののち、アーウィンは、
待合政治最盛期の明治時代に、政治家、実業家として日本における存在が大きくなっていきました。
32才のアーウィンは三井物産創立時の顧問となり、外国貿易の部分はすべて取り仕切っていました。
ロンドンに2年赴任し、三井物産の海外事情の値付けをしました。結果、岩崎弥太郎率いる三菱汽船
会社とライバル会社となりましたが、やがて、岩崎の死後、両者が合併し1885年には日本郵船会社が
発足しました。このときにアーウィンはすでに大富豪になっていました。
37才になったとき、ハワイ王国のカラカウア王が訪日しました。王は滅亡寸前のハワイの砂糖産業を
再興するために、日本からの労働力、すなわち移民の協力を得るため、日本を訪問しました。それ
より1年前に、米国総領事兼ハワイ国総領事だった友達が帰国したことより、アーウィンはその職を
臨時で引き受けていました。カラカウア王日本滞在13日の間に、ハワイ国全県公使兼総領事に任命
されました。ハワイ王国が崩壊し、1898年にハワイがアメリカに合併されるまでの17年間、日本人の
ハワイ移民に全力で貢献しました。
1885年より1894年の9年間の間、26回にわたり、約3万人の男女や子供がハワイに渡りました。アーウィン
の努力で1886年日布渡船条約がハワイと日本の間に調印されました。それが終わってからも、私約移民、
自由移民へと続き、ハワイだけではなく、アメリカ本土への移民と続きました。日布官約移民ほど、良く
選択され組織化された移民は、移民史上その例をみないほど確立されたものでした。移民に与えられた
ものは、3年間で旅費、食費、燃料、家賃、医療が無料。1ヶ月の賃銀は15ドル。その当時1ヶ月3円の時代
で1円はo.85セントばかりのものでした。アーウィンも当時1才と2ヶ月だった長女と夫人を連れ、一回目の
官約移民渡航に乗船しました。ハワイの糖業は日本人が渡布してから7年後には産業数量は3倍まで増え
ています。1893年ハワイ王国が崩壊後は、ハワイ政府に通い、外交事務やハワイ移民のために事務処理
などをしています。アーウィン54才の出来事でした。その後は台湾で製造製糖会社を設立し5年間顧問を
しました。
アーウィンといきの間には結婚後まもなく女の子が生まれましたが、すぐに死亡。その後12年間子宝には
恵まれませんでしたが、待望の女の子を先頭に、10年間で2男4女の子供に恵まれました。教育は熱心で、
英国から家庭教師を呼び寄せ教育。小学校を卒業する頃には、アメリカの一流教育を受けさせるため、
一人づつアメリカに留学させました。子供達は一流の大学まで卒業しましたが、6人中5人は日本に帰って
生活をしました。子供達のためと、貴族趣味が講じて、三田綱町に一万坪の本宅、十数万坪の別宅を
玉川に、そして温泉の出る伊香保に三万坪の夏の別荘を持っていました。その当時使用人50人を抱えた
大きな家族となっていました。
伊香保の別荘は、年月を経て、1985年に日布官約移民100周年を記念し、ハワイ独立国当時の交流を
示す外交史料として、伊香保町指定史跡文化財に指定されています。
アーウィンはその後、本国アメリカに根を下ろす事もなく、81才、東京で亡くなりました。本人の意思により、
日本の地において妻や子供達と永眠しています。亡くなった時には、大正天皇より勲一等旭日大授章が
贈られました。
現在でも、イオラニ宮殿、2階の音楽の間には、1885年、アーウィンといきからカラカウア王に贈られた
「ついたて」が展示されています。当時も同じ場所に飾られていたと記録に残っています。このついたては
芝山細工であり、蝶貝、アワビ貝、珊瑚、象牙、鼈甲等を用いて漆器や象牙面に花鳥や人物等の文様を
描く当時、日本で作られた貴重なアートです。王国崩壊後は数人の手に渡ったと言われていますが、
最後はレインボー・ドライブインのいふくせいじゅさんが所持し、イオラニ宮殿復興時に寄付、当時飾って
あった音楽室に戻されたということです。
カラカウア王から多大な信頼を受け、ハワイ国全県公使兼総領事となったアーウィン。このついたては、
今でもアーウィンと日本、ハワイ王国の繋がりを証明する逸品となっています。
イオラニ宮殿2階音楽の間に飾られている、アーウィンといきからカラカウア王へ贈られたついたて:
Courtesy photo by Iolani Palaceイオラニ宮殿 ドーセント・トレーニング・ブック講師紹介藤原 アン
小百合Sayuri Anne Fujiwara