2016年11月8日(火) 伊豆市修善寺
写真へリンク
1952年8月25日 - 1972年11月8日)、早稲田大学第一文学部学生。
1952年静岡県伊東市に生まれる。三人兄姉の次男。小学校五年生の時父親が病死し、以後母親に育てられる。伊東市立東小学校、同南中学校、静岡県立伊東高校を経て、1971年4月早稲田大学第一文学部入学。部落解放運動などに参加していた。第一文学部自治会執行部を握る革マル派に失望し、1972年頃中核派に近づき同派の集会などに参加するが、まもなく中核派にも失望し、その感想を級友に語っていた。早稲田学生新聞(勝共連合系学内新聞、現在は廃刊)、早稲田精神昂揚会など右派系学生団体とも接触があった。中核派は、「全学連戦士・川口大三郎同志」などと述べたが、実際には中核派とはほとんど関係なかった。
1972年11月8日、早稲田大学を支配していた革マル派は、川口大三郎を中核派と誤認して同日午後2時頃同文学部キャンパスで学生自治会室に拉致し、約8時間にわたるリンチを加えて殺害した(享年20)。革マル派は、遺体を東大構内・東大付属病院前に遺棄した。遺体はパジャマ姿だった。「死因は、丸太や角材でめちゃくちゃに強打され、体全体が細胞破壊を起こしてショック死」(朝日新聞1972年11月10日朝刊)したもので、「体の打撲傷の跡は四十カ所を超え、とくに背中と両腕は厚い皮下出血をしていた。外傷の一部は、先のとがったもので引っかかれた形跡もあり、両手首や腰、首にはヒモでしばったような跡もあった」(同)という凄惨なものであった
遺体は翌日発見され、革マル派は殺害を正当化する犯行声明を発表した。
これを機に早稲田大学では全学的な革マル派および革マル派と癒着する大学当局糾弾の動きが沸き起こり、革マル派は追いつめられる。革マル派全学連委員長馬場素明は、責任をとって全学連委員長を辞任し、「徹底的に自己批判し、深く反省する」と訴えた。だが学生の怒りは収まらず、革マル派糾弾・抗議集会が続き、1972年11月28日第一文学部学生大会を皮切りに理工学部を除く各学部で学生大会が行われ、革マル派自治会執行部がリコールされ、自治会再建をめざす臨時執行部が選出された。1973年には大学総長に対する大衆団交などが行われた(第3次早大闘争)。
だが結局、早大当局は革マル派を温存する姿勢を示し、革マル派が主導権を握る社会科学部、商学部自治会執行部への自治会費交付、革マル派実行委員会による早稲田祭開催容認(パンフレット売り上げなどが革マル派の収入となる)を行う。これにより、革マルのK、機動隊のK、当局のTの「KKT」という認識が学生の間に広まっていく。当局のこの姿勢の背景には、革マル派が早大で衰退すると新左翼各派や民青が学内で跋扈し学内がより混乱するという判断があったと思われる。革マル派のテロの前に、各学部再建自治会は形骸化・自然消滅していった。早稲田大学全学行動委員会などはなおも闘う姿勢を見せたものの、大学当局と機動隊に守られた革マル支配をうちやぶることはできなかった。
以後、1994年に大学総長に就任した奥島孝康が、1997年早稲田大学学生部長宅盗聴事件を機に革マル派排除の姿勢を見せるまで、大学当局と革マル派の癒着、蜜月関係は続いた。1997年になると、学生運動は日本全国で衰退し、革マル派を排除しても新左翼などが早大学内で復活する恐れはもうなかった。