日韓友好を願った歌声が東京・国立市に響き渡り、大きな感動に包まれた――。
国立市の高齢者福祉を考える会(遠藤喜美子代表)主催の第十五回くにたちふれあいコンサートが
11月25日、くにたち市民芸術小ホールで開かれ、約三百人の観衆が詰め掛けた。同コンサートは、
昨年に続き「日韓親善友好の音楽の調べ」を主題に、声楽家の遠藤さんをはじめ、ピアニストの宮本
あんりさんやヴァイオリニストの尾張拓登さんのほか、韓国の檀国大学教授でバリトン歌手の田瓶袞
さんや同大教授でピアニストの申允媛さんらが参加。日韓文化交流の素晴らしさを伝える温かいコン
サートとなった。
中でも、今回は韓国文化界の大物で、韓国赤十字社総裁や世宗文化会館理事長を務めた檀国大学
の張忠植理事長が参加したことから、日韓音楽交流の一大イベントとなった。
張理事長が今コンサートに出演することになったのは、遠藤さんが2002年に、韓国人音楽家・洪蘭坡
氏の評伝『鳳仙花―評伝・洪蘭坡』を出版したのがきっかけ。洪氏は日本統治時代に軍歌などを作った
ため、韓国では一時期、親日派扱いされるなど歴史に葬り去られそうになっていた。だが、遠藤さんの
著書に感動した張理事長が韓国語への翻訳を手助けし、韓国の中学・高校の音楽教師らに無料で配布。
今では洪氏の功績が改めて見直され、日本の滝廉太郎のように韓国近代音楽の父と慕われるようになった。
「日韓親善友好の音楽の調べ」も、洪氏が東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)で音楽を学んで
いたことにちなみ、昨年から国立市で開かれるようになった経緯がある。
この日のコンサートでは、まず国立市の永見理夫市長が「音楽は世代、国境を越えて心をつなぎ、気持ち
を一つにすることができる。本日のコンサートにより、日韓両国の相互理解がさらに深まることを祈念したい」
とあいさつ。
遠藤さんは、オペラ「ボッカチオ」よりアリア「恋はやさし野辺の花よ」のほか、日本で一九一八年に童謡が
誕生してから今年で百周年になることから、カラスの親子を歌った「七つの子」などを歌い上げた。九十歳の
遠藤さんの伸びやかな歌声に、会場は大きな拍手に包まれた。
これに呼応するように、田瓶袞さんがモーツァルト作曲のオペラ「フィガロの結婚」よりアリア「もう飛ぶまいぞ、
この蝶々」を力強く熱唱し、会場を沸かせた。その一方で田瓶袞さんは、「私のお墓の前で泣かないでください」
の有名な歌詞で始まる「千の風になって」を日本語でしっとりと歌う多彩さも見せた。
ニュー・コリア・フィルハーモニーオーケストラの指揮経験があるなど、韓国の音楽発展に大きく寄与したこと
でも知られる張理事長は、「この道 サンドルパラム~そよ風」を歌い上げた。
コンサートの最後には、出演者全員が登壇。遠藤さんと張理事長がそれぞれ指揮して日本の「ふるさと」と
韓国の「ふるさとの春」(洪蘭坡作曲)を会場全体で歌うと、それぞれの故郷を思った歌に涙を流す人も多くみられ、
感動と共に幕が閉じられた。
コンサートに参加した六十代の主婦は「日韓は政治や歴史問題でぎくしゃくしているが、こうした文化交流が
進めば、お互いを理解できるようになる」と笑顔で語った。
その後、ロビーで日韓交流会が行われ、参加者らは親睦を深めた。遠藤さんは「皆さまのおかげで、こんなに
素晴らしいコンサートができた」と強調。東京日韓親善協会連合会会長の保坂三蔵元参院議員は「(今日のコン
サートを見て)文化やスポーツは人の心の垣根を取り払ってくれるとつくづく実感した。日韓親善を改めて頑張って
いこう」と訴えた。
前日に国立音楽大学を訪れた張理事長は、同音大の関係者を檀国大学に招待して演奏会を開くなどの交流を
進めたいとの考えを示した。張理事長は本紙の取材に対し、「音楽を通じて日韓交流ができることは素晴らしい。
これまで両国の音楽大学同士の繋がりは少なかったが、学生や若者がもっと交流を持てば、両国にとって大きな
財産になる」と語った。(世界日報記者:岩城喜之)
日本の「ふるさと」と韓国の「ふるさとの春」を歌う遠藤喜美子さん(右端) と檀国大学の張忠植理事長(右から3人目)ら出演者 |
交流会で遠藤喜美子さん(奥左)と檀国大学の張忠植理事長(同中央)にねぎらいの言葉をかける永見理夫・国立市長(同右) |
以下はM.T氏(記号論理学者・塾経営者)が聴きにくい音声を4度も聞きなおして努力くださったメモです。
後ほど、張理事長のメッセージを文書でいただかれれば文書をさいかえます。MT氏の大変なご努力に感謝!
檀国大学、張理事長から御挨拶を頂きます
【張理事長】
こういう機会を頂いて真に有難く存じています。(注: これはこからは晩さん会のもの)
長らく日韓親善のために努力を続けてこられた方々が多数いらっしゃることで嬉しく思います。私も、皆様方の
一員として参りたいとの思いを新たに致しました。・・いま政治、南北問題、など山積しています。が、どの地域
にも話し合いを続けて行けば打開点に到達できるとできる人が多数います。
(以下は、19884年8月ご来日の折のメッセージより付け加えました。)
怨讐を超えて、共に後孫のたために!
(過去の過ちのみを追求するのは真の教育ではない)
檀国大学は私の父によって創設されましたが、日本のことについて、度々父親と意見が対立しました。
私が檀国大学の教授になってから、隣の日本とけんかをするような関係は作りたくないと思いました。李承晩
時代は反日を言えば、最も愛国者だと思われていましたが、私は、昔のことばかり捜し出して、自分が一番
愛国者だというような顔をするのは最も嫌いです。過去の事実は変えようとしても変えることはできませんが、
それを覚えさせることによって、若い青年の将来を歪めてしまう権利は私にはないのです。日本の若い青年と
韓国の青年がお互いに仲良くして、万が一、仲が悪くなっても仲直りしようと努力するのが人間の良い暮
らし方であり、知性のある人の生き方ではないかと私は思います。勿論どの国でも、どの民族でも、隣の
国と常に仲が良かった関係は歴史からは発見することができません。悪かったこともあるし、よかったことも
あるし、侵略したこともあるし、侵略を受けたこともある、これが人類の歴史です。この経験をもとにして、けんか
するよりは平和的に暮らす道を探す方がもっと利口で賢明だと思います。
私は学生達に「もちろん、擅国大学は独立運動家であった私の父によって創立されたけれども、私は反日
教育に対しては反対する。父の時代は父の時代であり、私の時代は私の時代である。過去の良い点は相続
して、悪い点は相続しないのが、歴史の発展の過程と考える」と言います。自分の考えと経験によって、良く
ないものをそのまま受け取ることは賢明ではないと思います。一部の大学の理事の中でも、[君の父親は
反日運動家だったが、なぜ君は擅国大学に日本語学科を作ろうとするのか]と言う人がいます。
私は度々日本を訪問しましたけれども、日本人から学ばされることが多いと考えました。もちろん日本の
歴史についてはよく分かりまぜんが、中国の歴史を学ぶと、日本人が今日に至るまでに我々の民族が経験
できないものを培ってきていることが分かります。その経験の中には良いものもあるし、悪いものもあります。
日本の悪い人達がしたことばかり思い出させて、日本人とけんかしながら暮らそうというのは、教育面におい
ては真の教育ではないと思います。
もちろん人間によって自分個人のため、家庭のために暮らす小さい人間もありますし、少し大きい人間は
自分の民族と国家のため犠牲的に生きる人もあります、私の理想は自分の民族、国民の発展、幸福のため
だけに慟く人間よりは、人類のために働く青年を育てたいということです。
私の大学で昔、私達が36年間日本人からやられたことばかりを覚えさせて日本人は悪いというような意識を
もった人間を作るよりは、戦争に反対して韓国人に情げを与え、愛も与えた日本人もたくさんいたことなど、
日本人が韓国人に対してやった良いことを子孫に知らせることが必要だと思います。
日本から学ぶものは科学技術だけか
韓国の将来の教育政策について、日本の科学技術とか桙学の情報だけを取り入れようという考え方だけ
では、韓国の発展はないと思います。もちろん一部の学者の中には、アメリカやヨーロッパから直接技術や
科学の情報を取り入れようという人もいますけれども、いろいろな事情を考慮してみた場合、人間は知識と
科学の技術だけを導入しては絶対利益にはならないと思います。人間の考える価値観が変おってきて、
技術、情報が入ったときは国の将来にとって利益に反することにもなります。韓国の学生運動の中でも、
相当学生にそういう利益を与えた先進国出身の教授もいます。政治的文化的発展過程というものは、韓国
は日本と違うし、またヨーロッパやアメリカとも違います。若い青年達がヨーロッパやアノリカに留学して、
そこで7~8年間、その社会を見て、その社会を全部知り尽したように考えてしまうわけです。「こういう国が
こうして暮らしているのに、何故韓国は政府がこうするす。日本人の持つ「精神の宝」を慕っているのです。
私は、これこそ日本人のルーツだと思います。
日本の結婚式や葬式を見ると、皆きちんと礼儀正しい着物を着ています。世界のどの国に行っても日本
みたいな国はありません。人間の生活の中で一番重要なものは、葬式と結婚式です。その儀式において
日本は世界の模範です。人間の根本的生活において日本人は真面目です。便利な生活を営みながら、
お互いに守るべきことはきちんと守る、これは法律によって規制されているのではありません。韓国は
最近,「家庭準則」というものを作りました。宗教の精神が強かった韓国において、そういうものを作らざるを
得ないようになってしまったのです。守れないから準則を作ったのです。日本みたいな国は世界どこに行って
もありません。これが、現在の日本の科学を発達さぜた原動力だと思います。
日本人が持つ長所は、日本人にはその価値がよく分らないと思します。しかし、まわりの人からはよく見える
のです。
私の姪は東京教育大学の博士課程に学んだのですが、日本人と結婚しました。反日感情の強い私の氏族
でしたから、それは大変でした。私は姪の祖父に向って「姪の人生は、お父さんの人生ではない。 お父さん
には良い人間をつくる義務はあるけれども、孫の幸福をとざす権利はない。」と言ったのです。それで、日本で
結婚式をあげました。その結婚式に参加してびっくりしました。戦後の日本は乱れているのではないかと思っ
ていましたが、きちんと伝統が守られていました。
中国や台湾に行っても、アメリカやヨーロッパに行っても、それぞれが日本とは違う面を持っています。いつ
もおいしい御飯を食べる人は、米がどんなにおいしいかということが分らないのと同じです。
日帝36年間は日韓両民族の痛み
韓国人と日本人は顔つきがほとんど同じです。人口も共に多いです。日本と韓国とは、いろいろな面におい
て似ています。
昔、王仁博士が日本に行って漢字や儒教を伝えたからとか、法隆寺の塔が日本にあるから、という文化の
優越感をもって、日本から文化的なものは学ばないというのは良くないと思います。日本人が詠んだ俳句や
万葉集の中で、日本人はどういう哲学を持っていたのでしょうか。日本の歴史の中において、私達が反省す
べき部分を発見しなくては、日本の科学を取り入れても韓国の利益にはならないと思います。反日感情よりも
日本から本当に学ぼうという面を教えながら学術交流を促進する場合には、若い青年達は悪い先入観を持
だないで熱心に交流できると思います。もし反日感情を持つたままで日本から科学技術を受けようとする場合、
果して正直な気持で受けることができるでしょうか。それはできないと思います。父親達はけんかをしましたが、
私達は世界の中で一番仲の良い兄弟として、アジアと世界のため暮らそうという心構えを持つとき、初めて
安定した韓日関係を見ることができると思います。
姪の結婚の件で、日本の今の若い人達は韓国の植民地時代のおじいさん、お父さんとは違う日本人だと
思いました。これは韓国も反省しなげればなりません。
韓国では、「政府を批判する人は良い教授である」という考えがあります。政府の政策に対して、悪いものは
悪いと批判するのが教授の立場ですが、真に自分の実力と批判を共にしなくてはいけません。
終戦後、反日感情をもって子ども達に日本のことを教えることは、一番愛国心があるような印象を与えたもの
でしたが、私はこのことが理解できませんでした。戦争が終って40年という歳月が流れました。以前は日本と
アメリカは敵国同士でした。それが今は、お互いに仲良く世界の平和のためにやっています。もしアメリカ人が
40年前の日本軍の真珠湾攻撃のことを、いつも口に出せば日米の関係はどうなるでしょうか。長い人類の歴史
の中で、それは一つの点にしかすぎないのです。私は日帝36年間へのつらみは持っていましたがそれは韓民族
だけのつらみではなくて、日本民族のつらみでもあったのです。やった人もやられた人も、同じ痛みを感じている
と思います。日本の立派な知性は、36年間の韓半島統治に対して痛みを感じていたのです。
アングロ・サクソン民族もラテン民族も皆、植民地政策をとったのです。これは、植民地政策をとった民族だけ
の罪ではなく、全人類の罪であると私は考えるのです。
日韓新時代は双方の努力で
過去にはいろいろな辛い経験があるのですが、しかし、韓国には希望があります。韓国の青年達の中には、
日本の青年達と仲良くしようという心を持っている大がたくさんいます。そういう青年達が将来、韓国の重要な
ポストに就いたとき、[]本と韓国との関係は、決して悲観的なものでなく、 楽観的なものになると思います。
日本の先生方が韓国の大学にいらっしゃって、学生の前で特別講演というかたちで、先生方の韓国に対す
る関心などを話していただけたらと思います。
今日ここにお集りの先生方が、南北に分断された韓国の実情や韓国の将来の安定のために大変心配して
くださることに対して、本当に深い感銘を覚えました。このような情けは、将来において日本を救うと思います。
もちろん韓国人の中にも悪い人はたくさんいます。そういう人を隣と仲良くさせようというのが私の哲学です。
私は、日本の学生と韓国の学生の双方の利益のために私の一生涯を捧げたいと思っています。教育者
は、こういう心構えを持たないと、考えの狭い人間を作ることになってしまいます。
努力する情熱を持つならぱ、難しい問題は皆、解決すると思います。日本人のスケールの大きさを私は発見
しました。日本では親韓派をたくさん作ってください。私の方は親日派をたくさん作ります。
私の大学では東洋史は中国史が中心です。日本史はありません。隣の国でありながら、日本の歴史を教える
機会もないし、教える人もいません。韓国人は日本によって占領された事情は良く知っていますが、日本の歴史
については知らないのです。やはり親がどうするかによって、子どもの将来が決定すると思います。先生方の
努力は必ず実を結ぶと思います。
張 忠植
1955年ソウル大学校師範人学歴史科卒、57年、檀国大学政治外交学科卒、60年.高麗大学校大学院史学科卒、
73年オハイオ大学名誉博士学位授与。現在、檀国大学総長、大韓オリンピック委員会副委員長、大学教育協議
会会長、大韓エスペラント協会会 (1984年当時の肩書) 追加:1932年天津生まれ、東洋史専攻・教授、韓国全国
大学総長会議会長、南北韓体育会談首席代表、国際RotaryClub3650地区総裁、韓国赤十字社総裁歴任、
現職:檀国大学理事長 著書:漢韓大辞典16韓編集、中国・東洋史関連学術書、論文集、長編小説、随筆集など
多数。最近刊書『麗し絆』2018年1月31日出版)
麗しき絆 張忠植著・宋貴英訳
動乱の日韓を結ぶ愛の物語
張忠植(チャン・チュンシク)氏は檀国大学理事長で大韓赤十字社総裁。
1932年、中国の天津生まれなので、終戦直後から朝鮮戦争までの朝鮮・韓国、日本を舞台に
活躍した主人公・李大成(リー・デーソン)の物語には、著者の体験がかなり反映されているの
だろう。アクションに恋愛、戦後韓国の政治闘争も絡んで面白く読ませる。著者は東洋史家にして
大学経営者だが、作家としての力量も確か。
朝鮮では光復の年、満州・吉林の中学校(今の高校)の夏休みに、大成が今の北朝鮮北部にある
実家に戻るところから話は始まる。既にソ連が侵攻していて、残された日本人は略奪や暴行に怯え
ていた。近くにあった関東軍家族の収容所で、困っている日本人を助けた大成は、将校の妻で七歳
年上の新井正子と出会い、幼い娘を抱え苦労している彼女の世話をするうち、恋愛関係になってし
まう。
大成の父は朝鮮独立の活動家で、上海臨時政府をつくった金九の派に属していた。北はソ連、
南はアメリカが支配し、朝鮮人抜きで政府樹立の動きがあり、活動家たちは抵抗を始めていた。
そんな家族にとって日本人の人妻を愛し、妊娠させてしまった大成は許せない息子だったが、母親
は最終的に認め、正子を安全に帰国させようとする。
帰路の混乱で娘を死なせた正子は、行方不明の夫との愛は冷めていたこともあり、大成の子を
一人で育てることを決心し、両親と夫の実家を訪ね、離縁を申し出る。やがて夫の死亡が伝えられ、
看護婦だった正子は病院勤めを始める。
正子に会いたい一心の大成は密航船で対馬に渡り、再会を果たす。その後、朝鮮戦争が始まると
大成は従軍を志願、戦場で活躍するが、攻撃を受け失明してしまう。そして収容された外国籍の
病院船で、看護婦として働いていた正子と再会する。2人は病院長の仲人で結婚式を挙げ、正子は
眼球の1つを夫に提供し、彼は視力を回復する。
他界した両親から遺産で韓国の戦争孤児を救うよう遺言された正子は、韓国在住を決意し、
夫婦で孤児院を運営するようになった。まさに麗しい絆が織り成した戦争小説である。
書評:多田則明・ルポライター
となった父親の志を受け継いで教育者として
一生を捧げてきた著者。
過去には大学総長を努め、現在財団の理事長
として活躍中の著者張忠植先生の善隣精神が
綴った小説。
国籍の違う青年と人妻の愛と絆、
二人の愛は不可能の限界を越えて奇跡を起こす。
人生に偶然というものは無い。最善を尽くした
結果があるだけだ。愛とは、自分にとってたった
一つしかないものさえも喜んで相手に与えること
ではないだろうか
発行所
韓国・NosVos社、Tel:031-8005-2405
1689京畿道龍仁市水枝区竹田洞152
定価(本体1,800円十税 ISBN 978-89-7092-598-1