1955年(昭和30年5月)李 垠 殿下によって
多磨霊園に建てられた李家、李晋殿下の墓


    

李 晋(り しん、1921年8月18日 - 1922年5月11日[1])、
李垠の第一子。母は日本の皇族・方子女王。敬称は「殿下」。
生涯:1921年(大正10年)8月18日未明、李王世子垠と妃・方子女王の
第一子として誕生。
朝鮮の王族と日本の皇族との間に生まれたため、「日鮮融合」の象徴
として注目された。

同月24日に「晋」と命名。誕生して乳母が置かれたが、やがて母・
方子女王自ら母乳を与えるようになった[2]。
 1922年(大正11年)4月、李王世子夫妻は生後8ヶ月の晋を連れて朝鮮を訪問する。晋と李
王(純宗)との対面等が目的だった。晋は帰国直前の5月8日早朝から下痢・嘔吐が始まり、
一行は帰国を中止。食事を受け付けず衰弱していき、同月11日15時15分、晋は急逝する。

その一方で、日朝双方による毒殺説が流布。帰国中止の第一報で、既に陰謀説が報道され
た[3]。さらに、死去直後にも現地(京城)では「報道する自由を持たない」内容の流言
が飛び交っていると報じられた[4]。

晋の死は急性消化不良と診断された。同月17日、朝鮮式での葬儀が京城(現ソウル)で執
り行われ、京畿道商陽郡清涼里に埋葬された[5]。

脚注[編集]

1.^ 『官報』第2932号、「告示 宮内省告示」1922年05月13日。
2.^ 1922年5月12日 読売新聞「晋殿下 遂に薨ず」
3.^ 1922年5月9日 読売新聞「信じられぬ怪しい噂が晋殿下の御病気に絡る」
4.^ 1922年5月13日 読売新聞「晋殿下の葬儀は古式で京城に行う 盛んに流言蜚語」
5.^ 1922年5月18日 読売新聞「涙の京城に晋殿下の葬儀 王世子両殿下は尽きせぬ名残」