母の日: 韓・日の“恨”に寄り添って 

 新緑も眩いツツジが咲き誇る5月となりました。今年も、母の日が近づいてまいり
ました。

4月末5月11日の善光寺の供養祭のことを知らされ、お蔭で連休はあっという
間に吹っ飛んでしまいまいました。その過程で小生は重要なことを発見しました。
日韓関係の核心に迫る内容がありますので簡単にご報告します。

韓国アカデミー少年少女合唱団(ACC)は40数年の歴史をもち、2006年には
世界合唱コンクールで金メダルを受賞した韓国を代表する児童合唱団です。2009
年韓国放送芸術協会金顕哲会長のご依頼で、来日公演をお手伝いさせていただき
ました。共にお手伝いした方が、深谷市とつなぎ、深谷の児童と韓国の児童との
交流会の模様はNHKでも報道されました。


2、その後、ACCは毎年来日公演を続け、今年も5月9日来日しますが、5月11日、
善光寺の供養祭に参加することになりました。善光寺はAD552年仏教伝来以来韓
国と縁の深いお寺で、1922年李垠殿下・李方子妃殿下は, 日韓の厳しい狭間に挟ま
れ犠牲となられた李晋殿下の菩提を弔うため、地蔵菩薩を造立され善光寺大本
願に奉納されています。くすしくも5月11日は李晋殿下の92回忌の命日にあたり
ます。
         李垠殿下 李方子妃殿下 李晋殿下
   

3、去る4月16日にはセウォル号沈没事故で476名の内、実に263名が亡くなり、
行方不明者39人を加えれば、300人を超す人々が犠牲となっています。これほど
の大惨事になったのは、利益大主義の風潮、船長らオーナー側の無責任、韓国
政府の対応の拙さのせいであると糾弾されています。他方、自分は泳げないにも
関わらず、乗客に救命具を渡し、溺死した船員は、人々に感動を与えています。

4、2011年には新大久保駅での転落で、ホームに短絡した人助けようとした韓・
日両国の青年が犠牲となりました。

5、5月11日は母の日ですやっと授かった長男を失われた李方子妃殿下の母親
としての悲しみはいかばかりであったことでしょうか。また日韓の厳しい狭間で
苦悩された心情は察するに余りあるものがあります。今回海難事故で子を失くさ
れたご両親の心情、韓・日国際家庭、在日僑胞達の複雑な心情に通じるものがあ
ります。日韓が争う限り、この「恨」はますます拡大、深化し、さらに多くの犠牲者が
生まれます。

6、母の日、子を思う無償の愛、母心に想いを寄せ、韓・日のわだかまりの犠牲に
なった、また、なっている人々に想いを寄せ、解怨、平安をお祈りするひとときで
ありたいと思います。

7、今回の「喪われし尊き命を偲ぶ会」の趣旨は福島実行委員長のあいさつで
  簡潔に述べられています。催しを協助する意味でインターネットに情報をアップ
  しましたので、ご参考になさってください。

  詳細・当日の報道(NHK,信濃毎日新聞)はこちら⇒

   2014年5月8日(木)  
         NPO法人未来構想戦略フォーラム代表  
         地球市民機構副理事長・日韓文化交流協会理事  大脇 準一郎

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「韓国を祖国として福祉活動」
 (向学新聞より抜粋) 全文はこちら
  
 日韓の溝
  18歳で韓国(当時は朝鮮)の李王朝26代高宗皇帝の王子李垠 に嫁ぎ、 彼女の人生は、日韓の相克の渦の中で翻弄され続けることになる。
 それは彼女だけではない。その夫の垠にしても同様で、ある意味では方子 以上に屈辱を味わい、辛酸を舐め尽くした人生であった。
李 方子 妃殿下
1901年(明治34年)11月4日、梨本宮守正王と伊都子妃の第一女子として誕生。1920年(大正9年)4月28日、李垠と結婚。婚礼の直前に婚儀の際に朝鮮独立運動家による暗殺未遂事件(李王世子暗殺未遂事件)が発生。

悲劇の結婚と方子の決意
  二人の結婚は、はじめから悲劇を孕んだものであった。実は、方子は皇太
子裕仁親王(後の昭和天皇)の有力なお妃候補であった。しかし侍医から不妊
症と診断され、お妃候補から引きずり落とされた。後に方子が垠の子供を生ん
だとき、方子を診察した侍医は処罰されたという。
  そういう中でも唯一の救いは、方子の決意が堅かったことであった。
自分の辛さに思いを向けるのではなく、婚約者垠の胸の内を推察し、むしろ彼
を慰めてあげたい。そのためにも、夫を心から愛する妻になり、暖かい家庭を
築いて差し上げたい。この気持ちが変わらなかったからこそ、結婚後の次々と
襲う危機と困難を乗り越えることができたのだ。

長男晋の誕生と死
  垠が幸福感に満たされた時があった。息子の誕生である(1921年8月
 18日)。方子が元気な男の子を生んだのである。出産直後、「元気な男の子で
す。ご苦労さま」と言って、垠は優しく方子を労わった。そこにはそれまで方子
が見たこともない、顔をほころばせながら、喜びに満ち溢れた夫の姿があった。
それを見て、方子は涙がこみあげてきた。

  しかし、恐れていた最悪の悲劇が彼ら二人を襲った。息子の死である。 
親子3人での朝鮮への里帰りのため、1922年4月23日3人は東京を出発
した。結婚後の初めての里帰りであった。長男の晋はまだ8ヵ月の赤ちゃんで
あり、離乳時期を迎えたばかりであった。二人は晋を日本に残しておきたかっ
た。しかし、韓国側の「子供を連れてきてほしい」という強い要望を飲まざる
をえなく、結局三人で里帰りすることになったのである。

 帰国の日も近付きつつあったとき、それまで元気にしていた晋が突然息遣い
が荒くなり、嘔吐を始めた。晋の容態は一向に回復しない。母の必死の介護や
祈りの甲斐なく、1922年5月11日ついに8ヵ月の赤ちゃんは亡くなってしまっ
た。「なぜ、私を死なせてくれないのか」と言って、方子は冷たくなった子供
の亡骸を抱いて、ただ泣くばかりであったという。

  5月17日、晋の葬儀が行なわれた。方子は、晋がお腹のなかにいたときに
 編んだ毛糸の衣類やおもちゃなどを棺に納め、宮殿で葬列を見送った。彼女
 が我が子のためにやってあげられたことは、それだけだった。親子3人の最初
 の里帰りが、息子の死という悲劇の結果となり、傷心のうちに方子は帰国した。
 悲しみに沈む方子を慰めたのは、常に夫であった。垠は悲しみを押し殺し、
全てを忘れようとするかのように軍事訓練に没入した。人質としての辛く寂し
い体験を通して、彼はたくましい忍耐力を有するようになっていたのであろう。
方子は夫に励まされ、徐々に立直っていくのである。


 「母への献詩」全文はこちら⇒
 

海は母だ!ある詩人は言った
「僕たちの使う文字では海の中に母がいる」
そして母よ! フランス人の言葉には「あなたの中に海がある」

「母の日お目出とう御座います」 2013年(平成25年)5月12日

 母は子供の目線で見る。子がどんなに極悪非道な人間であっても、信じて守っ
てやらざるを得ないのが母の情である。小林多喜二を獄中に訪ねた母親の愛は、
イデオロギーを超えた衝撃的な物語である。
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           「母」
「私たちは“母なるもの”を忘れた社会に生きています。ゆえに私たちは、もう
 一度深く母たちへの真の尊敬の心を育んでいかなければなりません」
       サーラワイダン、エマソン協会前会長

「母」という漢字の成り立ちは「女」に2つの乳房を加えた象形文字であり、子
 への哺乳者、 授乳者であることを意味する。