平和の理念と戦略

第5回世界平和に関する国際会議  メイン・テーマ:「平和の戦略」
 (The 5th Interenational Conference On World Peace: 5th ICWP)
  1975年12月14-16日
 東京・経団連会館国際会議場
 主催:世界平和教授アカデミー 
   Professors World PeaceAcademy-Japan
       PWPA-Internatinal 
「第5回世界平和に関する
国際会議報告
 入江通雅

平和の理念と戦略 」  基調講演     ワードはこちら⇒

  (1)平和の理念

  マルクス主義の平和論

  「平和」という言葉はあいまいであり、乱用され、その概念は絶望的に混乱している。その意味が元来あいまいであるから乱用されたのか、乱用されたからあいまいになったのかの問題はあとから改めて検討することとし、平和を学問的に語り、平和の戦略を構想しようとする場合、我々はまずこの混乱を整理し、平和とは何のことかを明らかにする必要がある。

 まず、マルクス主義のいう平和論は極めて明確で、理路整然としている。簡単にいうと、マルクス主義の平和とは、マルクス主義世界観に基づく共産主義社会の実現された状態であって。平和運動とはそれの邪魔になる障害物を除去することである。共産主義社会実現に対し、最も大きな障害になっている勢力は米国であるから、マルクス主義者は米国とは言わないで、「米帝国主義」と言い、それと反対の勢力、即ち共産主義勢力を「平和勢力」と言う。従って「米帝国主義」やいくらかでもそれに近い勢力は「平和の敵」であり、それに対する闘争を「平和闘争」と称する。

  マルクス主義者やその同調者は、終始一貫、組織的・計画的にこの用語を用い、これを一般大衆の耳と口に押しつけようとし、その企ては相当に成果を収めている。マルクス主義は哲学であり(ある意味においては宗教であるが)、従って一定の系統を持つ理論であるが、それと一体不可分のものとしての戦略戦術を持つ。マルクス主義からその戦略戦術を離して考えることはできない。マルクス主義の平和論は、その戦略戦術の一部である。

  平和という言葉の意味にどういう約束があるか、平和本来の意味は何であるか等の問題は彼らにとってはどうでもいい。すべては、反共または非共産勢力と戦う武器である。彼らは共産主義という言葉に対し一般大衆の間にいまだ相当な抵抗があることを知っているから、それを露骨に出すことが得策でないことを心得ている。彼らは、平和という言葉が何となく穏やかで、人の心に易々と受け入れられることを知っている。そこで、反米即平和という全く不合理な論理を用い、それを繰り返し、繰り返し用いる。言葉というものは、用いられることによって新しい意味がつくものである。そして、人心はこの言葉の魔術によって実態を見誤り。判断を狂わせる。これは残念なことであるが、人の思想と言葉とは不可分なものであるから止むを得ない。

 マルクス主義の平和理念は、決してあいまいではない。明瞭で、終始一貫している。そして、その用法は、マルクス主義の理念から来ているものであるから議論しても仕方が無い。問題は、マルクス主義者でもその同調者でもないものが、マルクス主義者の勝手に造った用法を口まねし、それに便乗していいかである。日本の知識人の大多数はマルクス主義者でもその同調者でもない。

にもかかわらず、「反米即平和」「共産即平和」の公式が案外広く流布され、知らず知らずのうちに。共産主義思想が浸透していることを見逃すわけには行かない。マルクス主義者は故意に平和という意味を混乱させ、すり替えようとしているのである。従って、我々としてはただ彼らの意図を知ればいいので、彼らの「平和」にどういう学問的価値があるか等のため時間を浪費する必要はないのである。

  ムード的平和論
 次に、一般宗教家、人道主義者、その他多くの善意はあるが思考力の弱い人たちの考えている平和の理念がある。彼らには、マルクス主義者のように一定の理論や戦略戦術があるわけではない。何となく平和という言葉によって連想され、引き起されるイメージやムードを愛し、平和の反対と思われている戦争と、戦争という言葉によって連想、ないし引き起される概念を憎む。例えば、自衛隊は軍国主義とは何の関係もないのであるが、昔の軍隊と似ていて戦争と関係があるからといって憎む。
 この種の人々には、平和という言葉を使っていれば安心するという、自己暗示的な要素がある。従って、マルクス主義の宣伝に乗り易い。ところで、この種の人々の特色は、善意ではあるが思考力の弱いことである。例えば、彼らが「絶対平和」「軍備絶対反対」「戦争絶対反対」等々、感情のおもむくままに叫ぶのであるが、彼らは何となく、漢然と日本が外国にしかける戦争のことだけを念頭においているのであって、外国が理由なくして日本を侵略したらどうかを考えないし、考えたくない。

 そこで、この問題を持ち出すと「日本を侵略するような外国はない」と話をずらす。侵略されてもいい、無抵抗で通す、奴隷になってもいい、とはっきり答える人は少ない。この種の人々と話していると、中には日米保安条約の御利益を認めつつ反米論を唱えたり、容共主義を主張しながら、アメリカから食糧を輸入する必要を説くという虫のいい連中もいる。  

  字義からみた「平和」

 ところで、マルクス主義者の平和論や、思考力の弱い人たちのムード的平和論を別とし、一体平和とは何のことなのであるか。

 まず、字義を明らかにすべきである。言葉は一種の約束ごとである。誰でもが勝手な意味に使うことはできない。その約束ごとが字義である。もちろん、字義は絶対的でも不変でもない。初めは間違って使っていても、それが慣例になれば、その慣例の方がほんとうの字義になろう。従って、我々は辞書にある字義を絶対的権威とすることはできないが、一応の手引きとすることはできる。

 さて、「平和」は他の近代的用語と同様、欧州語、特に英語から翻訳したものであり、その英語はPeaceである。Peaceとは“Freedom from, or cessation of, war or hostility, that condition of a nation or community on which it is not at war with another” または“A ratification of treaty of peace between two power previously at war

もしそれを訳すと、「戦争又は敵対行為からの解放」もしくは「戦争の止むこと」という意味と、「従来戦争をしていた2ヵ国間の講和条約の批准」という二つの意味に使われる。

 第一の意味が我々が普通使っている平和であり、第二は英語独特の言い方であって、日本語では用いられていない。例えば、英語では三十年間続いた宗教戦争を終結させた講和条約を”The Peace of Westphalia”という。直訳すると、「ウェストファリアの平和」であるが、我々は「講和」と訳する。であるから、後の意味は無視していい。前の意味だけに関係がある。その意味における平和は「戦争又は敵対行為のないこと」であって、それだけである。私は、後で述べるように、必ずしもこの字義に満足しているものではないが、この字義は明瞭であるし、我々の考え方の出発点としての価値は十分にある。

 よく世間には─ 中には世界で有名な学者や政治家のうちにも ─「単に戦争が無いという消極的状態は、決して真の意味の平和ではない」という人があり、我々はそれを聞くと何となく「その通り」と言って同感したくなる。しかし、消極的では何故いけないのか。消極の反対の積極的意味とは、何のことか。こういうことを言う人が漠然と考えているのは、実は平和ではなく、自由とか幸福とか生命感の充実とかいう別の概念、別の価値であって、平和という概念に無理に入れなくてもいいものではないのか。核兵器が出現してから平和という言葉の株が上ったから、何でもいいものは平和に入れておけという、不正確な思考法から生れた誤謬ではないか。多くの場合は、この種の不正確な思考法に基づく誤謬である。

 この種の誤りは是正し、整理しなくてはならない。平和は用語として万能でもなく、それほど総括的でもない。平和の中に自由、幸福、生命感の充実等の価値を無理に含ませ、平和を完全無欠な価値にしようとするのは無理であり、反学問的である。自由、幸福等はそれ自体独立の価値であり、必ずしも平和には含まれないし、時として矛盾することもある。例えば、時と場合、人の特殊な性格によっては、戦いの最中においてこそ真の生命感の充実を経験することもあり得る。故に、我々は, 平和は平和、自由は自由、幸福は幸福という風に独立の概念として扱うべきである。

そして、そのような誤りの訂正、概念の整理という点から見て、辞書にある平和の字義を出発点とすることは効果があると思う。

 ただ私は、平和という概念をそれほど消極的にだけ使わなくてはならないのかという問題になると、疑問がある。平和とは、戦争や敵対行為の無い状態であることには間違いないが。さればと言って、それだけでそれ以上のものでないと言い切れるであろうか。

  聖書の平和観平和という言葉が使われている一番有名な例は、イエス誕生の時の天使の言葉である。この最新訳は日本聖書協会から出版された新約聖書の一部「ルカによる福音書」第二章一四節にある。

 「いと高き天においては神の栄光、地上では神のみ心にかなう人々に平和」。これは天使の言葉である。昔の文語訳には、「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、大には恵みあれ」と訳されていた。この方が調子もいいし、わかりやすい。天と地と人の三つに分けられ、何となく立派である。残念ながらこれは誤訳であった。原語を正確に訳すと以上引用したような悪文になる。

 悪文であるだけでなく、我々のように久しく仏教思想の伝統に慣らされている者から見ると、思想としても気に入らないところがある。我々は「神には栄、地には平和、大には恵み」という風に万事結構ずくめ、絶対平等にしたい。そういう気持があったからあのように訳したのかも知れない。ところが、新約聖書の原典はそんなに結構ずくめでも八方美人でもなく、「神のみ心にかなう人々に平和」と言っている。聖書は神のみ心にかなう人と、神のみ心にかなわない人とに人間を差別し、平和を神のみ心にかなう人にだけ与える。神のみ心にかなわない人には平和を与えない。これが聖書の平和観であり、この平和観が、キリスト教の伝統を持つ欧米人に影響を与えなかったはずはない。

 キリスト教には、善かれ悪しかれ、初めからこのような差別思想がある。神はアベルを愛し、カインを憎んだ。神はエソウを遠のけ、ヤコブを恵んだ。イスラエルは神の選民であった。ということは、神がユダヤ人と異邦人とを差別待遇したという意味である。近世に至りカルビンは、この差別思想を彼の神学の中心にした。すなわち、人は神から恩寵を与えられる者と与えられない者とに差別され、前者は永遠に恵まれるが、後者は滅びの道に入る。この差別は個人の努力とか徳行とかによるのではなく、専ら神の一方的意思によるものである。

 平和もこの論法による。神のみ心にかなわない者は、永遠の滅びに入る輩であるから平和があるはずはない。平和を与えられるのは神のみ心にかなう者である『我々非神学者、特に我々日本人はこの「神のみ心にかなう人々」を倫理的に解釈したがる。すなわち、正しい行いをしている者、神様の、すなわち、キリスト教の教えをよく守る者等々。そういう風に解釈すると、我々の倫理観とよく調和する点では結構であるが、そういう解釈は聖書的にも、神学的にも何の根拠もない。我々の倫理観を勝手に押しつけただけである。

 カインとアペルの場合でも、エソウとヤコブの場合でも、イスラエルと異邦人の場合でも、我々の倫理観は無視されている。良いから恵まれ、悪いから罰せられるという勧善懲悪や因果応報的な思想は無い。あるのは神の一方的決断であって、論議の余地は一切無いのである。

 このような平和観は、論理にも倫理にも合わない。不合理であり、不条理である。従って、好きか嫌いかと問われれば好きとは言えない。しかし、現実の歴史は正にその通りである。静かに、冷静に、客観的に歴史を顧みると、そこには勧善懲悪も因果応報もなく、不合理、不条理の連続である。我々は自分の論理や倫理を主張する前に、先ずこの冷厳な歴史の前に平伏すべきである。我々には誰が神のみ心にかなうかを判断することはできないし、判断の基準も全然ない。従って、平和は誰のものであるかも我々にはわからない。しかし、ある者には平和があり。ある者には平和がないというのが歴史的現実である。

 ところで、ここで言われている平和とは何のことか。それは字義にある戦争のないこと、敵対行為が止んでいることではない。戦争に対する平和という社会の状態を言っているのではなく、心の状態を言っているのであって、言葉としてはむしろ平安と言うべきところを平和と称しているのである。それでは、そういう意味での平和と、戦争と対蹠的な意味での平和とはどういう関係にあるか。一つの言葉でありながら、全く別な二つの意味を持つという場合もあるが、ここでいう平和はそういう場合であるか。

 真の平和とは

 先に私は最近平和の株が上ったことに便乗し、自由、幸福、生命感の充実等一切を平和に押しこみ、平和を理想化し、「これが真の平和だ」というおかしな流行を批判し、平和を一応「戦争のないこと」という謙虚な字義に戻すべきことを主張した。しかし、それだけかという疑問を残した。常識的な、バランスのとれた平和の概念は「戦争のないこと」、「敵対行為の止んでいること」という消極的意味を基礎とし、それに心の平和と合せたものではなかろうか。

 自由、幸福、生命感の充実等、我々人間にとって極めて重要な価値は、原則として平和と両立し得るし、多くの場合補完的関係にあるが、それらが平和の一部分ではなく。独立の価値である。しかし、心の平和は、平和という概念に当然含まれている要素であって、心の平和の無いところには平和という概念は成立し得ない。言うまでもなく、平和は最高の価値でもないし、最高の善でもない。それ自体として尊いもの、価値高いもの、護るに価するものであるが、他の一切の価値を犠牲にすべきものということはできない。

  核兵器が出現し、戦争が極限に達した時には人類が破滅するというのが現代人の常識となり、私もそれに同意する。しかし一切の戦争(純粋の泊衛戦争を含む)が悪であるとは断定できないし、あらゆる戦争が必ず熱核戦争になると決めるのも独断であり、第二次大戦以後の歴史的事実にも矛盾している。価値は多種多様であり、そのうち一つ、例えば、平和に他の一切の価値を併合しようというのは一種の「帝国主義」である。正しい発想は多種多様の価値を適度にバランスすることであり、平和の他のもろもろの価値における地位は、それより上でも下でもあってはいけないのである。

 万事「命あっての物種」、安全第一という利己的、功利的思想が「平和思想」と考えられるとしたら、我々はその誤りを指摘しなくてはならない。下等動物は別であるが、人間には生命以上の価値観があり、それがあればこそ、人間に倫理が可能になるのであって、一切が生命維持の手段であるとしたら、人間は知能を持つ下等動物に落ちるのであり、仏者が畜生道と言っているのはそのことであろう。 

  マルクス主義平和論の欺瞞性

 心の平和が平和の不可欠条件であるとしたら、マルクス主義の平和論は崩壊せざるを得ない。マルクス主義の平和は、心の平和、または平安とはおよそ縁遠い。それは常に敵を意識し、敵の攻撃に備え、敵を攻撃するかまえをし、意思は敵対的であり、感情は憎悪である。そこには闘争心はあるが、心の平和とか平安とかいうものは一つもない。平和とは正に逆である。

 元来、マルクス主義のいう平和理念を本気で取りあげる方にも大きな責任がある。詐欺には加害者にも被害者にも責任があると同様、マルクス主義者のいう平和のように、通常の慣例と非常に離れた用語を押しつけられた時、それを断固として拒否すべきであったのに、うかうかと乗せられたのは不見識である。それは過ぎたことであるから止むを得ないが、我々はこれからでも、マルクス主義者の身勝手な意味のすり替えを指摘し、その欺瞞を堂々と非難すべきである。“ 闘争が平和である”というような背理は、哲学吋にも、心理学的にも許すべからざることである。

 追いつめられれば。彼らは最後に、次のような口実を設けて我々をごまかそうとするであろう。すなわち、我々は現在闘争していることは事実であり、闘争が平和的でないことは認める。しかし、それは現在資本主義という敵が存在しているからであって、資本主義が崩壊し、完全な共産主義が実現されれば真の平和がくる。我々の目的が真の平和であるから、我々は自らを平和勢力と称し、我々の戦いを平和闘争と言っているのである、と。

 マルクス主義者の詭弁にごまかされてはいけない。この論法は「俺はいま君を憎み、殴り、蹴りしている。明日は君を愛するであろう」と同じである。愛も憎しみも現在的である。現在を離れた愛、現在を離れた憎しみはあり得ない。私か彼女を昨年愛したが、今は愛していないとしたら、それは昨年愛したという記憶が残っているだけであって。愛ではない。私は今は彼女を愛していないが、明年は愛するであろうということは、単なる予想、予測、想像、推理等であって愛とは無関係である。私か今闘争していたら、そこには憎悪があるのみで愛はあり得ない。

 闘争は心の平和、心の平安を否定する。人は闘争すればするほど心の平和、心の平安を失い、それが度を過ぎると心の平和、心の平安を得る能力をすら失う。闘争からは絶対に蔗和は生れない。世界における共産主義国家が互いに敵対するのは闘争、憎悪の哲学からきた当然の帰結である。

 ムード的平和論の自己欺瞞

 マルクス主義のような悪意に基づく平和諧ではなく、善意のムード的・感傷的平和諧は真の平和に通ずるものであろうか。そのテストは彼らの心に平和があるかどうかである。彼らにはマルクス主義者のような悪意・憎悪・闘争心は無い。むしろ消極的である。しかし、彼らには心の平和、心の平安はない。ある意味において、彼らはマルクス主義者以上の不安がある。マルクス主義者は、平和という名で闘争することを意識している。彼らも人間であるから、心のもっと深いところでは心の平安を求めているであろうが。意識としては平和や平安よりは闘争を求め、その心は、闘争を可能ならしめる憎悪に満たされている。そして、平和とは敵を欺瞞する手段であることを知り、むしろその欺瞞を誇りとしている。ゆえに、他に如何なる罪があっても彼らには自己欺瞞はない。

 しかるにムード的平和論者には自己欺瞞がある。彼らが求めているのは、平和というより安楽であり、彼らの言う戦争反対とは、実はエゴのほかの何ものでもない。マルクス主義者は、闘争という自己犠牲を払う覚悟をしているが、ムード的平和主義者は、何らの犠牲も払わないで安楽のみを求めるエゴイストであって、マルクス主義者以上に鼻持ちのならない輩である。

 心の平和、心の平安を乱す原因は、闘争、憎悪等であることは確かであるが、自己欺瞞はそれ以上に危険な存在である。なぜならば闘争、憎悪等は、はっきり意識されているから害は浅いが自己欺瞞は意識されていない。潜在意識を通し、人間の深奥心理を侵す。この病理は危険であり、時として絶望的である。不幸にして、日本にはこの種の患者は、マルクス主義者に比較して圧倒的に多い。真の平和思想を建設するには彼らの蒙を啓き、真理を知らしめなくてはならない。

 

  真の平和状態にはない日本

 心の平和、心の平安は、戦争が激しく行われている場合にも可能であろう。しかし、それは例外であり、極めて少数の人にのみ可能である。心の平和、心の平安は、戦争の無い状態において可能であると見るのが常識である。もちろん、戦争が無い状態においても多数の人々に心の平和、心の平安も無い場合もあり得る。現在の日本は正にそれに該当する。日本は、現在如何なる国とも交戦関係になっていない。戦争のない状態である。しかし、国民には心の平和、心の平安がない。その意味において現在は真の平和ではないと言いうる。

 その原因はどこにあるか。その原因は前に述べた二つの欺瞞である。第一は、マルクス主義者の平和論である。この平和論はマルクス主義の哲学に基礎をおく戦略戦術であって、彼らの敵を欺瞞するために構想されたものである。言うまでもなく、この欺瞞の対手はほかであって自己では絶対にない。マルクス主義の唯一の美点は。自己が欺瞞の加害者であることを自覚し、絶対にその犠牲者にならないことである。  ‘

 第二の欺瞞は、ムード的、身勝手な虫のいい平和主義の平和論である。彼らの知能指数はわからないが、思考力は著しく弱い。彼らが、大を欺瞞する能力は無いが欺瞞される素質はある。欺瞞されることは欺瞞すると同じく、時としてそれ以上に罪悪である。なぜかといえば、我々は何者よりまず自己を大切にする責任があるからであり、従って、自己を欺瞞することにより自己を害することは、ほかを欺瞞するよりは深い。現在、日本に真の平和が無いのは、すなわち、人の心に平和。平安が無いのは主として以上二つの欺瞞があるからであって、この二つから我々を解放することが真の平和実現への道である。

 ここで我々は、大体、“真の平和とは何であるか”ということについての結論に到達する用意ができたと思う。平和とは、戦争の無い状態と、国民の間に原則としての心の平和、心の平安のある状態とが合った場合である。現在の日本は戦争のない状態にあって、そのことは、戦争のある状態に比べ非常に感謝すべきである。しかるに、我々には心の平和、心の平安がないから我々は真の平和を得ていない。 

  
  二つの欺瞞からの解放

 真の平和を得るにはどうしたらいいか。前に述べた二つの欺瞞から我々を解放することである。

第一は、マルクス主義の欺瞞であるが、これは単なる虚偽であるから虚偽であることを明瞭に認め、彼らの宣伝に乗らなければいいのである。我々はマルクス主義を虚偽であると信じ、従って反対である。しかし、我々は必ずしも彼らの存在を否定しない。我々は彼らと共存し、所を得せしめ、自由な言論をなすことを歓迎する。問題は彼らにはなく、我々にある。我々は真に偽を判断する能力があればマルクス主義は無害であり、時としてはいい刺激剤である。しかし、実際問題として日本国民の知性は未だそこまで発達していない。従って、彼らの欺瞞は効を奏する。ゆえに、我々は意識的に、計画的に彼らと戦い、その欺瞞を暴露しなくてはならない。

 我々の戦法は、あくまで正攻法で真理に基づくものでなくてはいけない。すなわち、平和の理念-平和とは戦争、闘争等一切の争いのない状態のことであると共に、国民の心のうちに平和と平安がなければならないことを明らかにすべきである。この点が明らかになれば、マルクス主義者のいう「平和勢力論」とか「平和闘争」とかいう詭弁は姿を消すであろう。

 彼らが共産主義を宣伝するのは自由である。しかし、彼らは共産主義を共産主義として宣伝すべきであって、平和という第三の概念を利用し、思想の混乱によって共産主義を宣伝することは許すべきではない。我々は、ここにはっきりと主義自体の宣伝と主義の欺瞞による宣伝とを区別し、後者に対しては犯罪行為の如く厳しく非難すべきである。日本国民にこの単純な論理が理解され、平和の真の理念が把握されれば、心の平和、心の平安を邪魔するものの半分は除去されるであろう。               
 マルクス主義者の欺瞞が除去されてもムード的平和論の欺瞞は残り、これの処理は非常に困難である。第一に、我々日本人はムード的民族で思考力が弱い。万事徹底的に考え抜くよりは。「まあまあ」でごまかすことが好きである。第二に、敗戦の影響は非常に深い。第三は、核兵器の出現により、熱核戦争は人類を絶滅させるという考えが常識になり、我々もそれに同感である。このような事情の下に、日本におけるムード的平和論は非常に根深く、それを信ずる者は圧倒的に多い。

 しかし、ムード的平和思想は、マルクス主義者の平和論と異なり、他を欺瞞するのではなく、自己を欺瞞するもので,一種の麻薬的性質を持つものである。潜在意識を通して人間の深層心理に食い入る危険な病気であるから、我々は根気よくこれと戦わなければならない。要は、真理に徹し、真理に直面すること、させることである。「日本を侵略する国はない」といくら、言い張っても、共産圏が侵略意思を持っていることに変わりはない。危険のあることは素直に認めるべきである。さればといって、それに備えるため軍備を拡張せよ、核兵器を持てといっても、それは不可能であり、却って危険である。行動としては中道を歩む以外に道はない。

 しかし、ここに絶対に確かなことがある。それは絶対的安全というものは無いということである。平和を守る道は多種多様であるが、絶対に安全な道はあり得ない。絶対に安全な道がないということは、我々に一つ重大な選択を迫る。何もしないで降伏しろ、奴隷になれ。それも一つの選択である。真面目にこれを考える必要がある。次の選択は、絶対に安全の道はないから、安全のために万事をつくし、それでも駄目今時は全滅する。多くの場合、この覚悟があれば全滅をまぬがれる。しかし、こうなると問題は平和ではなくなる。平和が最高の価値であるとしたら、奴隷を肯定しなくてはならない。生物的意味の生命を最高の価値と見るか、それ以上の価値を認めるかによってこの問題は決まる。私個人は生物的生命以上のものに価値を認めるものの一人である。

(2)平和の戦略 

 真も偽もないマルクス主義

 平和の基本的理念は今まで論述した通りである。次に平和の戦略について論を進めることにする。平和の戦略は、平和の基礎的理念に基づくものでなくてはならない。今までの論述において、私は、真の平和建設の障害になるものは何であるかを明らかにした。第一は、共産主義の宣伝であり、第二は、ムード的平和主義である。ゆえに、我々の平和の戦略は、当然この二つの敵と戦い、それを克服することでなくてはならない。

 私は、我々の敵を共産主義であるとはいわないで、共産主義の宣伝であると規定した。ここでいう共産主義とは、もちろん原始共産社会とか、初代キリスト教の共産的社会ではなく、カール・マルクスとエングルスによって展開され、レーニンによって発展された史的唯物論に基づく戦闘的共産主義を指す。史的唯物論は哲学であり、政治学であり、経済学であると共に、それに基づく戦略戦術を含む総合的体系であって、しかも極めてすぐれた実践綱領である。

 史的唯物論において最も特徴的な思想は、我々が伝統的に受けついでいる真、善、美、聖等の例えば、我々は、神は(あるいは宇宙の大生命は)最高、絶対の真、善、美、聖であるという世界観を持っている。故に、日常生活においても、真実に生き、虚偽を避けようとする。真を認めない世界観に立つ者は平気でウソをいう。否、それはウソではない。彼らには真がないから偽もない。その世界観を「超越」するとは何のことか、事実上は無視することである。そして、何のために「協力」しようというのか。「平和のため」という答えが返ってくる。ところが、その「平和」とは共産主義社会の実現された状態であり、平和のための闘争とは、結局階級闘争のことである。

 ゆえに、彼らの言っているもっともらしい言葉を我々の言葉に翻訳すれば、キリスト教だの仏教だのいうことはしばらくいいかげんにしておいて、階級闘争をしようということになる。共産主義者には真がないから偽もない。従って、ウソは階級闘争の方便である。そのことを十分に心得、単に彼らの宣伝に乗らないだけでなく、そのウソを暴露して彼らを窮地に追いこむことができれば、彼らとの「話し合い」は有益である。ゆえに、彼らとの「話し合い」は実に闘争である。

 我々は気質的に闘争を好まないが、平和はただ念願したり、希望したりするだけでは実現できない。平和実現のためには、その障害になっている共産主義と戦わなくてはいけない。戦いには、戦略戦術が必要である。その原則は、先ず彼らが敵であることを常に認識すること、そして彼らとの話し合いを避けず、機会あるごとにそれを捉えて彼らの虚偽を暴露することである。この点において、日本の現状ははなはだ憂うるべきものである。それを警告するのが我々の使命であろう。

 「話し合い」は国際関係においても行われている。それを緊張緩和。あるいはデタントと言う。卒直にいって。デタントは自由圏には不利に、共産圏には有利に進展している。米国は世論の国である。米国の道義は低下し、士気は沈み、国際的使命感は失われている。米国の伝統的民主主義と自由主義は、平等主義と容共主義に変質し。その傾向が強く議会に反映している。デタントの悩みは、外交政策上の悩みというよりは国内的事情の反映であり、問題は、共産主義の問題よりは、それを受け容れる容共的ムード。平和ムード等の問題に移り、その点において日米は共通の悩みを持っているのではないか。


   利用されている平和ムード

 そこで、最後に。平和の戦略の一環として、共産主義よりはもっとはるかに実体をつかみにくい。漠然たる平和ムード、容共ムードについて論じ、それに対する基本的対策を提案したいと思う。結論を先にいえば、人間性を信頼し、地味に、辛抱強く、全知全能を尽くして真実を語る以外に道はないと思う。「人間を信頼して」という言葉を使ったがこれは極めて重要なことである。そしてその点こそ、正に我々が共産主義と分れるところである。

 我々は、共産主義が国民の平和ムードを利用して。平和の破壊を計っていることを知っている が、同時に、彼らの欺瞞能力には驚嘆を惜しまない。彼らの欺瞞が功を奏するのは、彼らが人間の本能に訴えるからである。例えば、彼らは、「貴女の大切な御主人、貴女のかわいい御子息を戦争に追いやり、犬死にさせていいのですか。自衛力の増強は戦争につながります。だから平和を愛する貴女方は反対しなくてはなりません」という種類のことを言う。

  ここには論理の飛躍や、明らかな背理が含まれているが、今はそれには触れない。それより、私か指摘したいのは、彼らが人間の生存本能に訴えていることである。その本能を「御主人」とか「御子息」とかいう、身近なところに結びつけて感情を湧き立たせようというやり方である。
 この手で、彼らは常に人間の恐怖、憎悪、嫉妬、欲心という劣情に訴える。彼らが劣情に訴えるから、我々も劣情に訴えるという方法をとるべきか。否である。原理的にも否であるが、戦略戦術的にも不利である。真と偽の区別を無視する彼らと、真偽の別を重要視する我々との間には、ウソをつく能力に天地の差があり、我々には到底彼らと戦えない。

  より高い人間性に訴える

 彼らが劣情に訴えるのに対し、我々は大衆に対し、彼らが劣情に訴えている事実を指摘し。それでは自殺的であることを示し、より高い人間性に訴えなくてはいけない。人間に劣情のあることは事実であるが、同時に、高貴な心情もある。我々のうちには、恐怖、憎悪、嫉妬。欲心等があると同時に、他のために身を献げたいという心情もある。それを信頼することが、人間性を信頼することである。もちろん、共産主義者の宣伝に比較し。真実を語ることは非常に困難である。困難であるから忍耐と勇気を要するが、決して不可能ではない。

 例えば、我々は、共産主義者の宣伝により、絶望的と思われるほど平和ムードに浸っている善良な国民に対し、次のような真実を語ることができる。

     日本人は国を守るという至って基礎的義務を忘れているが、誰が侵略しそうか、それに対してどうしたらいいかの真実を語るべきである。

  核アレルギーがあるかないかの論議は別として、我々日本人は、世界に通用する心理を  持つべきであって、それの真実を語れば国民は理解するはずである。

  ③  マスコミに対して、敗北感を持ってはいけない。マスコミが偏向していることは確かであるが、彼らには共産主義者のように筋金が通っていない。常に利益 を上げようとあくせくしている小心者である。小心者は小心者なりに、より弱い者には強引であるが、我々は決して彼らを敵視せず、恐れず、媚びず、常に真実 を語って彼らに協力を求むべきである。万一、彼らが我々の好意を裏切って、我々の名誉や信用を破損した場合には、法的措置によって彼らの刑事的、または民 事的責任を追及すべきでる。

 平和ムードは、阿片に侵されて生じた病気のようなものである。阿片患者は、阿片が無くては堪えられないからますます阿片を求める。しかし、彼らは内心それが自殺的であることを知っている。我々の薬は阿片患者には辛い。しかし、人間性の深奥にあるものは病気からの解放を求めている。平和ムードは気楽なようであるが自己を(いつわ)る悩みは深く、やはり真実への解放を求めている。この希望と確信をもって、我々は平和の第二の敵、平和ムードと戦うべきである。

                世界平和教授アカデミー 会長 松下 正寿