「アメリカ病と希望」
  “人間普遍のパラダイムを探れ”

       ワシントン インスティテュート
       プロジェクト・アドバイサー   大脇 準一郎


文明の成功と危機

 アラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』は未だに静かなブームを
続けている。小生の籍を置く大学院でも,親切な学生が是非読むようにと小生の
机の上においていったので、その行為に答えるために、だいぶ我慢して読んでみ
た。「何故ブームを呼んでいるのか?」その秘密を知りたいとも思ったからであ
る。ブルームの主張は、1929年に30歳でシカゴ大学の総長になった、ハッ
チンズの「古典による一般教育」の重要性を繰り返すのみで特別目新しいことは
ない。この本がブームを呼ぶというのは、アメリカが危機に直面し、「何とか危
機克服のための突破口を見出したい」というアメリカ人の切羽詰った心情の現わ
れと思われる。

 人類歴史の文化の興亡のパターンを比較研究したA.J.トレンビーは、あ
る文明が試練に直面したときに、対応するパターンとして、“未来への逃避、過
去への復古、現実への埋没、そして変貌”、の4つの型を述べている。“ブルー
ム”現象は、アメリカ文化の源流の一つである、ギリシャの古典に帰ることに危
機克服の糸口を見出そうとする“復古パターン”に対する、アメリカ人の共鳴現
象のように思える。科学技術のもたらした豊かな物質文明が“非人間化”、“社
会的不平等”を増大させたという批判がなされて久しい。

 1970年初頭、チャールズ・ライクの“緑色革命”も当時、多大の反響を呼
んだ。ライクは、“機会の超越”“共生感”にもとずく“コミュニティーの形成”
を唱えた。彼はその旗手として青年の未来に多くの期待をしたが、結果は、ブルー
ムの批判するように、益々表面的な安っぽい相対主義が、キャンパスを徘徊して
いる。さらに60年代半ばにスタインベックが憂えたように、「今、われわれは
過去において最も人間にとって破壊的だった危機に直面している。」のである。
それは“成功”である。豊かさ、安楽さ、増大するレジャーである。かつて、い
かなる弾力的な国民もこの危険に生き残っていない。スタインベックは言う。
「もし、この危険にわれわれの麻痺的な満足感が加われば、われわれはアメリカ
人として生き残るチャンスはないであろう。」(『アメリカとアメリカ人』)


共同体主義と集団主義

ハーバード大の経営学教授ジョージ・ロッジは、70年代半ばに“アメリカン・
イデオロギー”の再考を促した。「誰も自分のよって立つ土台が弱くなるのを見
るのは、気持ちの良いものではない。しかし、変わることも動くことも出来ず、
またそれを潔しとしなければ、滅び死に絶えるだけだ」とロッジは言う。そして、
従来とは異なったものの見方、“共同体主義(コミュニタリアニズム)”を導入
すること、これが日本的経営理念と驚くほどよく似ていることを説いている。8
0年代に出版された“アメリカ病”はそれが現実となってきていることを述べて
いる。

日本の今日の経済的繁栄のバックボーンになっている「集団主義(コレクティビ
ズム)に学べ」との声も聞かれる。しかし個性の尊重を何よりも重視してきたア
メリカ人に対して、個人を滅して“集団(グループ)”に奉仕することは、日本
人が「清水の舞台から飛び降りる」気持ちと相通じる所もあるかもしれない。

日本も国際化時代を迎えて“島国根性”、“村意識”を脱却できずに苦悩してい
る。「日本人は目に見える現実を越えた普遍を見つめることができない民族であ
る」と言われる。現状の“空気”を変革しなければならないと分かっていても、
その“空気”を打ち破って新しい時代的環境を切り拓くことは、内側からはほと
んど不可能に近い。

このことは現実を超える普遍的原理がないためでもあるが、個性の尊重、創造性
の教育優先を叫んでも、人間関係最優先の日本的体質からは、それらの成果を見
ることは不可能に近い。小生は米国も、日本も過去のそれぞれの歴史においてか
つて経験もしたこともない最大の危機、自国民の文化パターンを変革せずしては、
克服することが不可能な危機に対して、異文化理解を奨励するのは勿論、文化の
基盤である人間の普遍のパラダイム(規範)を探ることを勧めたい。


自国文化の超越と変革

 小生の考えは、精神衛生科医・石塚幸雄氏が多年の臨床経験の中から見出した
I-S-Aモデルに近いものである。 

 石塚氏によれば、人間の究極的に求めているものは、人間関係における“親密
さ”(Intimacy)、個人の内面における“平安”(Self Identity)、そして仕
事における“達成”(Achievement)であるという。マルチン・ブーバーも、人
間の住む環境領域は“人間との生活”“精神的存在との生活”そして“自然との
生活”の三形態を挙げている。この三形態は創世記第1章28節、神は天地、万
物を創造された後、人間を祝福して「生めよ、殖えよ、地に満ちよ、そして万物
を主管せよ」言われたという聖句と呼応している。

「生めよ(Be fruitful)」とは、“個性完成”、「殖えよ(Multiply)」は
“家庭完成”、「万物を主管せよ(Have domain over all things)」は“主管
性完成”を意味する。

 日本文化の型は“家庭完成”型である。それに対してアメリカの文化のパター
ンは、“主管性完成型”である。地理的、社会的、文化的な様々の要因がそれぞ
れの文化、民族性のパターンを形成してきたと見られるが、国際化時代を迎えた
今日、いかなる民族といえども、自国の歴史的文化の型を修正せずしては、人類
の地球村社会に生き残ることができない危機・大転換の時代である。このことは
言いかえると、今まで潜在していた人間性をフルに発揮できる時代が到来しつつ
あるとも言える。民族の危機に直面してエスニスティーの強化が唱えられるのは、
自然の現象であるが、フランスの歴史家E・レナンが述べるように“自国の文化
を忘れる”というパラドキシカルな態度が必要であろう。“色即是空、空即是色”
“捨ててこそ浮かぶ身もあれ”という東洋的知恵が思い起こされるこの頃である。
             
               『Mid-America Guide』July 1989(3)