貢献できる東洋的思考
                          大脇準一郎

 小生の米国での体験(1986年―89年)を異文化体験、アメリカ的教育制
度、実習の三つに絞って述べたい。

1. 年齢に相応して異文化体験はより厳しいカルチャーショックを伴う。文化
 変容から、同化・適応に通常3年はかかると言われている。さらに学問の世界、
 特に神学・哲学は抽象議論や固有の用語が多く困難を極めた。幾多の失敗や誤
 解を通して、だんだんとその実体が見えてくるようになったが、最も大きな収
 穫は西洋と東洋の物の考え方の比較を通じて、東洋が西洋に貢献できる視点を
 見出したことである。

  今日までキリスト教界の難問あるいは秘儀とされてきたキリスト論、三位一
 体論は環境から実体を遊離したギリシャ的枠組みを越えられなかったためであ
 り、全くそれと土壌の異なる生活習慣― 常に他との因縁と関係において存在
 物を把握する ―に慣れ親しんできた我々東洋人にとって「イエスは神か人か?」
 「イエスは神であり、人であり、かつ、聖霊であり得るのか?」の問題は関連
 性というコンセプトで見事に解決される。

  もっと早くこの東洋的思考方式が西欧に導入されていれば、宗教戦争や異端
 審問の犠牲も必要なかったことであろう。西欧において“存在は関連性にある”
 ことが本格的に光が当てられたのは物質の二重性、不確実性が議論され出した
 20世紀に入ってのことである。 東西の既成の枠組みを越えて、真にユニバー
 サルな哲学を指向するホワイト・ヘッドや、新しい経営学を模索するロッジ、
 心理学のユングなどの思想を学ぶことができたことは意義深かった。

2. 日本の画一的、平均的、閉鎖的教育に対して米国の自由競争に基くオープン
 な教育制度のおかげで小生にも再学習の機会が与えられ、合理的に短縮して2つ
 の資格(修士、博士)を得ることができた。 教育と言う伝統にあぐらを掻き、
 何ら実質のない、そのくせ資格を与えることに閉鎖的な日本の高等教育は、早
 晩、大変動に見舞われるであろう。日本では若い頃に大学に行けなかったり中
 退した人々が、再び容易に学ぶことができ、かつ、資格を得られるような生涯
 教育的発想、制度が取り入れられるべきであろう。

  先に述べた東洋的思考方式は西欧の行き詰まりに大いに貢献できると思うが、
 社会的ニーズに答える弾力性、ファジー度のある教育制度という面では、米国
 に学ぶことが多いと思う。

3. 学校ではフィールドエデュケーションという必須科目がある。小生は日系人
 社会に奉仕 することを選んだ。在米の日系人は日本と米国の双方から疎外さ
 れ、困難な立場にあることを知った。日系人は何度も祖国日本の暴走の犠牲に
 なりながらも、それでも魂の古里に対する期待を捨てきれないでいる。もっと
 このような人々の経験と人脈が生かされれば、今日の日米関係の摩擦解消に役
 立つであろう。

  全米にわたり日本の未来を案じ、日米関係の現状を憂える人々を知り得たこと
 は大きな収穫であった。 一週間のうちわずか土日を利用しての奉仕であった
 が、小生の卒業式にミシガンの大学理事長、ニューヨーク市のソーシャルワー
 カー、著名雑誌記者など7人の方々が平日であるにもかかわらず、何十ドルも
 の交通費を払ってお祝いに駆けつけてくださったこと、その折「あなたは貴重
 な時間を私達のために犠牲にされた。私達も何かを犠牲にしなければ」とおっ
 しゃってくださった言葉を今も忘れない。  
                              1990年記