カスタマーレビュー
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彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠 (文春e-book)
樋田 毅
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13 グローバルレーティング | 10 グローバルレビュー
日本から
朱徳栄
VINEメンバー
5つ星のうち5.0
大学当局が犯人
2021年11月8日に日本でレビュー済み
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1972年の11月に起きた革マル派による川口大三郎君の殺害事件のことを詳しく書いてる。私は当時学生でよく覚えている。その前から民青に対するイジメはひどかった。またその年には自治会室からパンツ一枚で血だらけになって逃げていく男が目撃されてる。また川口君が死ぬ前の月にも他の学生が重症を負ってる。早大文学部は凄惨そのものだった。殺害事件後に一般学生と大学当局の話し合いが181番教室で持たれたが、壇上右手にいた新保昇一学生担当主任が開口一番「君たちに責任がある」と怒鳴った。唖然とした。大学の管理責任者が殺人事件の責任を一般学生に押しつけたのだ。警察でも救急車でも呼ぶべきは大学では無いのかと憤然とした。近年、「早稲田学報」で革マル派排除に尽力した奥島元総長が早稲田大学が革マル派に渡したカネは20億円を超えると語っていた。これで長年の疑問が解けた。革マル派を私設警察として大学が雇っていたのだった。
13人のお客様がこれが役に立ったと考えています
私も当時を知る者です。この本は忘れていた記憶を甦らせてくれました。
悲惨な暴力の横行も思い出しました。
暴力を振るっていた田中氏(故人)のその後には、暗澹たる思いがしますが、大岩氏については、樋田氏が面談するまでは自発的に過去を告白・総括することはなかったのか、もし面談がなかったらそのまま隠し通す積もりだったのかと、その姿勢を疑問に思いました。
運動の中心にいた人の回想録にありがちな自己陶酔や上から目線の記述ではなく、たいへん読みやすい文体です。
当時を知らない世代の人たちにも、ぜひ読んでいただきたい本です。
9人のお客様がこれが役に立ったと考えています
5つ星のうち5.0
読み物として面白い
2021年11月16日に日本でレビュー済み
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私はノンフィクションが好きで本書を手に取りました。特に政治に深い興味もなく、本書で登場する革マル派や中核派、民青がどう違うのかもよくわかっていません。また、30代前半で他大学出身なので、本書が舞台となる1970年代の早稲田なんて縁もゆかりもありません。そんな私でも、本書に引き込まれ一気に読み切ってしまいました。
本書は1970年代の早稲田大学で、学生が革マル派に殺害されたことを契機に、反暴力を標榜して立ち上がった一般学生であった著者の視点で描かれています。そのため、思想に無関心な私でも筆者の行動に感情移入することができ、読み物として面白かったです。
東大の全共闘はなんとなく知っていましたが、早稲田もこんな状況だったのかと驚愕してしまう数々のエピソード。まるでSFのディストピアの世界のようです。
他のレビューを見ると、当時を知っている人や学生運動に詳しい方が多いようですが、本書は普通の人でも楽しめる作品です。冗長な思想の解説や、筆者の思想信条を押し付けるようなところがなく非常に読みやすい。あまりテレビなどでも見かけたことのないテーマでもあり、ぜひノンフィクション好きな方であれば一読の価値はあります。私が今年読んだノンフィクション本の中で1番かもしれません。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
5つ星のうち4.0
早稲田の暴力の意味を深く
2021年11月11日に日本でレビュー済み
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著者の作品を続けて読了したが、その中で不満が残ったのはこの本です。その時代、傍から見れば、どうして大学は警察をいれて学生の生活を守ろうとしないのか?なぜそんなに内ゲバが続くのか?などの疑問が多かったが、内にいた人はこうだったか?という意味では理解できたと思う。しかし、この大学に暴力が吹き荒れた時代が、歴史的にどのような意味を持っていたかまでは書かれていない。最後に香港のことなどが少し触れられているが、触っているだけで掘られているとは言い難い。その意味で、作者には自分のテーマとしての意味はあるが、読者としては少し物足りなさが残った。そのため、四つ星にしました。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
Amazon カスタマー
5つ星のうち5.0
悪いが、笑ってしまった。
2021年11月14日に日本でレビュー済み
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本書の第一章から第五章については、何も言う事はない。当事者の証言を、私は真摯に、そして厳粛に受け止めたい。
「余り感心できないな」と思ったのは、第六章から第七章で、革マル崩れのジイさんどもを訪ね歩いてネチネチいじめた事だ。
どういう訳か知らないが、革マルと言う党派は、辞めた後の思想的デトックスが難しいのだ。共産主義なんて、「いちぬけ」してしまえば、その後の人生には、もう何の関係もないのに。
著者に吊し上げられた大岩ナニガシなんぞは、典型的な転び革マルである。申し訳ないが、何度も爆笑してしまった。
大岩ナニガシは、反省はしていると思う。著者に謝罪したのも、口先だけではあるまい。
「先のことはあまり深く考えずにかなり行き当たりばったりで生きてきた」(本書、p211)と言う、大岩ナニガシの自己分析を、私は認める。
革マル辞めてから46年かけて、たどり着いた結論がコレだと言うのなら、もう何も言いようがないではないか。
私は「赦し、忘れよ」とか、ごリッパな事を言いたいのではない。
大根は大根の味がする。
ニンジンはニンジンの味がする。
大岩ナニガシの人生には、大岩ナニガシの味が沁みついている。
他にどうしろと言うのだ?
革マルって、どういう連中か知らない読者は、大岩ナニガシが「良心の呵責」について、ひと言も触れない点にムッとするかもしれない。
大岩ナニガシは、何だか妙な屁理屈を並べ立てて、倫理や良心の問題を巧妙に回避しているのだ。
私は実に、ここの所で、「ほぅら革さん、おいでなすった」と大笑いししまった。ワケの分からん屁理屈で、煙に巻こうとする連中なのだ。相手だけでなく、言ってる自分自身をも。
大岩ナニガシの血液や筋肉には、もう革マル成分は含まれていないと思う。でも、骨の髄からは革マルをデトックスできないみたいだ。
「私は理論派ではない」と自称している大岩ナニガシにして、この有り様なのである。全く、革マルって奴ぁ。
大岩ナニガシの言い分を、ここで具体的に引用はしない。後はみなさま、本書を読んでのお楽しみと言う事で。
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Amazonカスタマー
5つ星のうち5.0
学生運動とは何か
2021年11月8日に日本でレビュー済み
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「高邁な思想」を隠れ蓑に、平然と殺人が実行された狂気。当事者が多くを語らないなかで、若い世代へ向けて、その事実を書き残そうとする著者の姿勢に共感します。
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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葛飾区のカッパ
5つ星のうち5.0
「反スタ」を名乗るスターリン主義者革マルの正体
2021年11月13日に日本でレビュー済み
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この本を読んで、当時、支援した友人から聞いた記憶がよみがえってきた。
キャンパスで革マル派と衝突し、撤退を余儀なくされたときは、
周りで見守っていた早稲田の学生は多くが私たちの応援をしてくれたという。
「いま革マルは何号館の何階にいて挟みうちをねらっているから気をつけて」、という情報を伝えてくれたという。
また、キャンパスの外で機動隊が逮捕をねらった時でも、それらの学生が自分の持つ教科書やノートを惜しみなく手渡してくれて、「一般学生」を装って外に出られて、逮捕を免れたこともあったという。
革マルによって早稲田大学で起きたテロ事件に、正面から対決した著者と、その友人たちの闘いに頭が下がる。
当時、早稲田は、この事件以前に、社青同解放派をテロで追放し、以降は、無党派や民青への暴力が頻発していた。革マル派は、マルクスの仮面をかぶり、自分たちに歯向かう者へのテロ、スパイ、デマで早稲田の自治会を支配していた。
「反スタ」をスローガンに掲げていたが、革マル派の真実の姿こそ、スターリン主義そのものに見えた。
その自治会支配の「頂点」で彼らの矛盾が爆発した。革マル主義の完成が同時に「崩壊」となったのである。
それが川口君虐殺事件であった。
ところが、「崩壊」は、事実上の崩壊とならなかった。革マル派のテロの続行を許したのが、早稲田大学当局、並びに、国家権力であるからだ。
この社会的影響は、やがて大きく尾を引くことになる。
早稲田で「崩壊」しなかった革マル派は、自治会を維持、支配して、活動家を再生産した。
そうした活動家は、やがて、卒業、または中退して、動労の労組職員に就職した。
その後の80年代に、この労組は、国鉄分割民営化に協力したのである。
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シーズンズ
5つ星のうち4.0
平和であるべきキャンパスで学生が自治会室でリンチを受けて殺されたことを、いま、誰が想像出来るだろうか?
2021年11月14日に日本でレビュー済み
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キャンパスが暴力に支配されていた事実。記録されない事実は消えてしまう。暴力に立ち向かった一般学生の側の記録は貴重だ。
そして記録として以上に、暴力と抵抗、寛容と不寛容に直面した当事者の葛藤が生々しく語られており今日的だ。圧巻は、ジャーナリストとなった被害者と、環境活動家となった加害者の対談だ。50年の時を経てなおすれ違う。
記録的記述もあるがジャーナリストの手による文章は読みやすい。
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大鹿屋
5つ星のうち5.0
すれ違い、かみ合わない革マル派指導者との対話
2021年11月14日に日本でレビュー済み
著者とは一回り以上も下の世代なので、同じ早大卒業生といっても、川口君事件の詳細を知っているわけではありませんでした。本書は、事件の詳細を明らかにするとともに、それによって自然発生的に学内におきた革マル放逐運動が詳しく描かれていて、この時代に早稲田で起きたことへの理解を深めさせてくれます。しかし、読めば読むほど、革マル派と反革マルの際限のない暴力の応酬に辟易とします(著者は非暴力派でしたが、革マル派のリンチにあい、全治1カ月以上の重傷を負っています)。
圧巻は、革マル派自治会の指導者である3人の消息を訪ねていること。自治会委員長の田中敏夫は郷里の高崎市で町工場を継ぎながら世捨て人のような後半生を送り、書記長の佐竹実(本文中はS)はインタビューに応じたものの書かれることを拒絶、そして辻信一と名前を変えて明治学院大の教授になった大岩圭之助は自己弁護とはぐらかしに終始し、著者との対話はかみ合わないままに終わっています。
新自由主義的な資本主義を否定するためにマルクスが再評価されることもありますが、マルクス主義に内在する不寛容さと独善が「内ゲバ」を誘発していることは否定できません。マルクス主義は百害あって一利なし。広まって100年以上たちますが、死屍累々で、一度も成功例がありません。
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トモリン
ベスト1000レビュアー
5つ星のうち5.0
頭の中が渦巻き、整理がついているようでいて、ついていないという現実が突きつけられた
2021年11月10日に日本でレビュー済み
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読み始めたら1日で読み終えてしまった。
その後も、ずっといろいろなことが頭に渦巻いている。
内容のことも、この時代に接点を持つ自分のことも含めてである。
本書は、1972年11月に起こった、早稲田大学文学部での革マル派系自治会による1年生の川口大三郎君リンチ殺人事件がテーマだ。
著者は元朝日新聞記者で、川口君の文学部での級友。
そして、その後の早稲田解放闘争の過程で、革マル系執行部をリコールして成立した文学部自治会委員長として、嵐のような1年間を過ごす。
著者には『記者襲撃 赤報隊30年目の真実』という著作もあり、ぼくはこれを読んで「新しい真実など何も書かれていない」とレビューした記憶がある。
が、本書は、著者自身の体験、怒り、悔悟を含むあらゆる情念が込められており、迫ってくる。
1972年と言えば2月に連合赤軍事件が起こり、中核派と革マル派の内ゲバは激化の一途をたどっていたころである。
当時ぼくが住んでいた江古田の寮には早稲田の学生が多く住んでいて、ブントや元解放派、元反戦連合の人も多かったのだが、その誰もが革マル派の早稲田暴力支配を忌み嫌っていた。
ぼくは彼らの語る、革マル派の早稲田支配というのが、当時はあまりピンと来ていなかったのだが、本書に描かれるそれは想像をはるかに超えていた。
動労・JR東日本労組を支配した松崎昭を描いた牧久の『暴君』を読んだ時にも感じたのだが、人々の解放を目指すマルクス主義を信奉していたはずが、自治会や労組執行部という小権力を得るや、その維持のためにファシスト同様の手段を行使し正当化する。
友人のMくんなどは、これは革マル派に特有なラスコリニコフ的な「悪」の信奉だと言明するのだが、ぼくにはマルクス主義というか世界の共産主義運動の大部分が孕んだ宿痾として敷衍すべきもののように思える。
整理がついているようでいて、ついていないという現実が突きつけられているのかもしれない。
本書の巻末に著者と当時の文学部自治会の革マル派の指導的メンバーだった大岩圭之助氏との対談が収録されている。
大岩氏はその後、活動を離れ、明治学院大学の教授となり、辻真一というペンネームで『ブラックミュージックさえあれば』『弱虫でいいんだよ』等の著作があり、しかも100万人のキャンドルナイトの代表呼びかけ人でもあるという。
この対談の中で大岩氏は、あの早稲田時代が自分にとり原点とは思えないと語り、エアポケットのような時代だったと語る。
また、彼が当時頑張っていたのは、当時の仲間たちに貢献したいというような感情であり、早稲田に敵対勢力が押し寄せてくるというような被害者的な感情からであった、とも。
そして、また彼は「責任をとることはできない」とも語るのである。
「責任という虚構」を踏まえているぼくとしては、この彼の奇妙な「誠実さ」を苦く噛みしめる以外にない。
最後に、本書にはぼくの知っている人も登場している。
例えば、元反戦連合の4年生でこの虐殺糾弾を機に早稲田解放運動の指導的な立場として何度も登場する「Kさん」である。
1973年に目白の椿山荘に大勢の元早稲田等の活動家たちが集まったときに、現役としてこの運動への支援を呼び掛けに来た。
椿山荘のパーティールームで突然始まった彼のアジテーションに、隣の結婚式参列者も驚き、係員が扉を慌てて閉めていたのを思い出す。
その後、高田馬場の異邦人というバーで一緒に呑んだ時は、「君は理論戦線派だったね」と言われて、理論戦線派などと呼ばれたのは後にも先にもその時だけだったので、記憶に残っている。
そのKさんは編集プロダクションをやっていたらしいが、20年近く前に鬼籍に入ったと風のうわさで聞いた。
確かなことは、それぞれの上にそれぞれの年月が流れて行ったことだけなのかもしれない。
8人のお客様がこれが役に立ったと考えています