現代人にとって"知識"とは何か
     −その文明論的考察− 
                         松下 正寿

 一、なぜ、今、知識論か?

 私は哲学の専門家ではない。強いて私の専門といえば法律と政治である。特に私は政治には常に大きな関心を持って来た。その立場から見ると、非常に注目される世界の動きは、今日まで日本が力として頼みにしていたアメリカが弱くなり、世界政治において威力を失っていることである。最近アメリカはイランにおける人質を救出するため強行手段をとって失敗した。失敗には色々な原因があったであろうし、そのうちには不可避的なものもあったであろう。しかしあの事件が起こった時の私の直感は「当然のことが起きた」という感じであった。

 私は一九二三年から二九年までアメリカに留学した。アメリカ人の勤労意欲と能率の高さに私は驚歎した。それは昔の話である。最近私は一年に一度は必ず渡米するが、そのつど感ずることは道義と能率の低下である。私は客観的「調査」などしたことはないが、ホテルでチェックインする時の非能率、デパートで買物する時の不便さ等々、日常の経験を通して私はアメリカ人の能率低下を実感している。そして印象的なのは彼らがそれを意識していないことである。昔のアメリカ人なら自らの能率低下にいらだちを感じ、それを許さないという気持があったのに、今のアメリカ人は非能率に対し甚だ寛大である。であるから私はこれでは戦争はできないな、と思っていた。だから私は人質救出作戦が失敗した時驚くよりは「当然のこと」と思った。かりにあの作戦が見事に成功していたら私は自分の今までの印象の誤っていたことを恥じるとともに「どうして成功したのか」とかえって驚いたと思う。

 ところで、この失敗に際しカーター大統領は「一切は私の責任である」とし、責任の所在を明らかにしている。立派なことであると思うし、端的にはその通りであるが、根本的に見るとあれは西洋文明没落の一つの兆候であると思う。人質の救出作戦は救出の作業が開始される前に失敗した。失敗の原因はエンジンの故障であった。であるからそれは技術的失敗によるもので戦闘行為によるものではなかった。エンジンが故障したのだから仕方がない、といえばそれまでである。しかし、誰が考えてもあれだけの強行作戦をやる場合にエンジンの故障などあるべきではないのである。

 かつて私がニューョークの一流ホテルでチエックインにひどく手間どり腹を立てて、「何をグズグズしているのか」とどなったことがあった。それに対し、「実はコンピューターが故障していまして」という返事であった。彼は当然のことのように答えた。コンピューターは機械であるから故障を起こすのは当然である、という論理である。私は抗議した。「何故あらかじめ故障を確めて修理しておかなかったのか」と。「係りが違いますので」と彼の態度は平然としている。彼の論理は正しい。客をチエックインさせる役とコンピューターを調べる役とは違う。故に彼には責任がない。

 これと同じ論理で人質救出作戦が行われた。機械の故障を発見し、失敗を未然に防止すべきであった人と実際に失敗した人とは違うであろう。事故の犠牲者の大部分は死亡しているから「死人に口なし」であるが、あの事故は十分に注意し、あらかじめ点検していたら防ぐことのできた事故であった。換言すれば許すべからざる事故なのであった。であるからあの事故は表面的には技術的失敗であるが、実質的には精神的失敗であった。その精神的失敗とは具体的には何のことか。あの人質救出作戦に直接、間接に関係していた人たちだけでなく、アメリカ人全体を侵している精神的病気のなした業である。ところで、この精神的病気は西洋文明の一番進んでいるアメリカにおいて最も進んでいるが、日本を含む先進国全部のかかっている恐ろしい病気であって、これを正しく診断し、早く治療しないと人類の運命に重大な影響を及ぼすことを私は憂えている。

 そこで、私は近代西洋文明の基礎をなしていると思われる知識というものを検討し、反省し、その限界を見極めるとともにそれのあるべき地位を設定する必要を感じた。それが「何のための知識論か」という問に対する私の答である。問題の性質上私は多少は哲学の分野に踏み入らざるを得ないであろう。しかし私は哲学的に知識を論ずるつもりはない。私の関心はむしろ文明論である。私は西洋文明の没落に重大な関心を持っている。私は西洋文明の没落を歓迎し、「光は東方より」と言って喜んでいるのではない。西洋文明を没落させてはいけないと思っている。それには東洋の英知で補い、西洋文明の没落を防ぐ必要がある。故に私の知識論はそういう目的を持った、いわば「功利的」知識論である。


 二、何のための知識か

 知識は何かの実用のためであることは常識である。医学を勉強する者で、医学を勉強することだけが目的であって医者になんかなりたくないという人もいないとは断言できないが、それは例外であってたいていの人は医者になるつもりで医学を勉強するのである。そしてその場合、医者の収入とか社会的地位を考えるのは当然である。同じことが学問のどの分野についても言えるのであって、学問とか知識とかいうものに実用的価値があることは天下公知の事実である。私はそれを肯定し、主張しようと思う。それは「白は白なり」とか「善は悪に非ず」というような愚劣な主張にはならないか。私は愚劣でないどころか必要であると思っている。なぜなら、知識は実用的なものであることは明々白々たる天下公知の事実であるにもかかわらず、日本でも西洋でも、学界の主流はそれを認めていないからである。

 学問は学問のため、知識は知識のため、真理探求のためであって、それを利用することには異存はないが学問なり、知識なりの存在理由を他に求めることには激しく反対する。昔の天皇ではないが「学問は神聖にして侵すべからず」と彼らは感じているらしい。学問を神聖と思うことは学問を尊ぶことであり、学問は当然尊ばれるべきものである。それがどうしていけないのか。私にいわせれば、それこそいけないのである。学問を尊ぶまではいいが、学問を神聖視してはいけない。神聖視することは絶対化し、万能化し、排他的にすることであり、そこに危険がある。学問も知識も尊いものではあるがそれ自体として神聖視されたり、絶対視されたり、万能視されたりしてはいけないものであり、何かに奉仕すべきものなのである。主人ではなく召使であるべきである。学問は真理探求のため、学問は学問自体のため、学問は神聖なもの等々、世界先進国学界の主流思想は「学問の自由」とか「大学自治」とかいう思想を生みだしてきたが、私はこの思想の効用を十二分に評価するとともにそれに伴う亡国的傾向をも指摘せざるを得ない。

 それでは、何のための知識か。それはよく分らない。しかし知識が知識のための知識でないことは確かである。もちろん私は知識の探求には必ず実用が伴うと主張しているのではない。それは別問題である。知的好奇心というものはある。特に子供は何でも知りたがって、親に何でも質問する。成人しても子供のそういう自然な好奇心を持ち続けやたらに知識を探求する人がいる。そういう人はほかの職業に従事するよりは学者になった方がいいと思う。しかし実際問題として、好奇心だけでは学問は絶対に大成しない。学問の研究、知識の探求はそれが社会的に評価され、その評価が本人によって認識されることによってのみ成功する。何のための知識かは常識的には分るが、それを理論的に断定することはむずかしいし、私はそれほど必要であるとも思わない。

 絶対に必要で、力説強調しなくてはならないのは学問は学問のため、知識は知識のため、という世界先進国における学界主流の思想が誤っており、従って無益であるだけではなく、有害で危険なものであるという認識である。


 三、知識と信

 知識は何かほかのものに奉仕するためのものであって、知識自体として神聖とか尊厳とかいう言葉に値するものではないことを指摘した。それではどうして知識を神聖視するような誤った思想が発生したのか。私はそれを中世の信に対する反動であると思う。ヨーロッパの中世は信の時代であった。信仰といった方がもっと適切かも知れない。とにかく神を信ずることが中世人の精神生活の中心であった。と言っても現代人、特にわれわれ日本人には言葉の羅列だけであってその真意は分らないであろう。

 われわれ現代人にとって最も恐ろしいことは死である。死ぬほどいやなこと、恐ろしいことはない。ところが中世の人には死よりも恐ろしいものがあった。それは死後の「永遠の滅び」である。永遠の滅びとは何であるかを説明することは私にはできないが、中世の人たちの書いた物を読んで見るとその恐ろしさが感じられる。中世の人たちはそれを一番恐れ、その永遠の滅びから救われることを無上の幸と考えた。その救いを与えてくれるのが教会である。具体的には聖職、即ち神父様である。信徒は罪の告白をする。神父様は罪の赦しの告知を行う。それで魂は救われる。われわれは権力者のことを生殺与奪の権を持つという。これは確かに大した権力ではあり、権力者は生命を奪う力は持っているが、死後われわれの魂を永遠の滅びにやったり、それを救ったりする力を持っていない。神父様にはそういう力がある。これが中世人の世界観であった。そこでローマ法王を頂点とする教会には権威があり、中世人はその権威を信じ、その権威に従うことが中世人の喜びであった。中世にはたくさんの学者や知識人はいたが、その知識なり学問なりはもっぱら彼らの信仰に奉仕するためであった。

 この制度がルッター等の宗教改革によって破壊され、各自は教会を通さず直接に神を信ずることによって救われるという信仰が生じた。それがプロテスタントである。プロテスタントは神と個人の中間にある教会の権威を否定し、人は直接に神を信じて神からの救いを求めるべきことを命じたのであって、決して神を否定したのではなかった。しかし教会という制度を離れ、各自が直接に神と結びつけと言われても実際上どうしていいか分らない。神をどういうふうに考え、聖書をどういうふうに解釈するかは、今までと違って教会に依存することができないとしたら結局自分の判断で行うほかに道はない。そこで次の二つの理念が生れた。一つは個でありもう一つは理性である。教会というような制度や集団ではなく、個人が神に直面する。これは制度からの個の解放であり、個の意識の発生である。個はどういうふうに神と直面するか。教会という権威が無くなり、感情では当てにならないから理性に頼り、理性で神を認識しようとする。個の確立と理性への目覚めはプロテスタント信仰の必然の結果である。それはルッターの予期したものではなかった。ルッターが主張したのは教会が介在しなくても個人は神を信仰することにより、信仰のみによって救われるという信仰であって、理性とか知性の問題には触れなかった。

 しかし、結果として宗教改革は個の確立と理性への目覚めをもたらした。それが近代のはじまりであり、それを代表し、象徴するのがデカルトのコギト、即ち「われ思う。故にわれあり」の思想である。「われ思う」のわれはわれわれではなく、個たるわれであり、明らかに「他」や「われわれ」とは区別される。「われ思う」は実に自我の主張である。「思う」とは何か。思うとは意識の集中である。故にデカルトのコギトは個の主張であるとともに意識の無意識に対する優越性の主張である。

 ところで、この意識の無意識に対する挑戦は必然的に知の信に対する挑戦になる。その理由を述べよう。知識はもっぱら意識のうちにある。ということは意識されない知識を否定することではない。意識されない知識は意識されている知識よりははるかに多量である。しかし知識が知識として作用する時は意識されなくてはならない。無意識のうちに知識が知識として作用するということはあり得ない。故に簡単に言えば知識はもっぱら意識のうちにある、ということになる。しかしながら、信は意識のうちにもあるが無意識のうちにもあり、後者の方が重要である。例えば私が神を信じているとする。その場合、実際私は神を信じているのだろうか。本当に信じているのではなく、信じていると思っているのではないか。もしそうであるとしたら、信じているという信の部分はそれはど重要ではなく、むしろ信じていると思っている方が重要なのではないか。信じていると思っていることは決して信じていることと矛盾はしないが、そう思っていることは私の信じていることにおいてそれはど重要ではない。私が神を信じていることの真の証明は私の意識などではなく、無意識のうちに私の行う行為によって示される。故に信に関する限り意識よりは無意識の方がはるかに重要なのである。

 ところが、デカルトのコギトの立場をとると意識は尊重され無意識は軽視されるから、知識の地位は上るが信の地位は低下する。もちろん私は知識の地位が向上することがことごとく信にとってマイナスであると主張しているのではない。知識は批判的であるが故に誤った信を訂正することに役立つ。信は本来無意識の世界で作用するものであるから知識の批判をまぬかれ、その誤りが発見されないまま残るという可能性がある。近代思想は無慈悲に中世の迷信を暴露し、それを破壊した。それは知識のため、学問のため科学のために大きな貢献であっただけではなく、信仰自体に対する大きな貢献でもあった。

 故に私は知識は悪、信仰は善などと言っているのではない。そうではなく、知識の分野が広がり、無意識の分野が狭小化された結果信の威力が低下し、その結果多くの弊害が生ずるようになったということを述べているだけである。私の言っているのは結局それだけのことなのであるが、ただそれだけのことが実は大変なことなのである。信が弱くなると行動が弱くなり、人は夢を失い社会は崩壊の兆をみせる。信は善を好むが知は善悪には中立である。故に知からは勇気は生まれない。私は先にアメリカにおける非能率化への傾向と人質救出作戦の失敗を論じた。あれは個々の事件の失敗とか偶然とかいう種類のものではない。私はこれを西洋文明没落の兆であると断定した。如何に事件の失敗が重大であるとはいえ、それと西洋文明の没落とを結びつけるのは少し極端ではないか、という批判も出るであろう。しかし私はそれらの批判をも十分考慮した上でやはり、あの種の失敗の根本の原因を西洋文明の没落と結びつけざるを得ないのである。

 元来アメリカを頂点とする西洋文明は知の文明である。知は力である。故に知の文明は世界を征服した。日本のごときは早く知の文明を吸収し、自ら西洋文明の仲間入りをしたから植民地化をまぬかれ、先進国の列に加わった。西洋と非西洋との間に知識の点において越えることのできない差があるかぎりは西洋文明はその弱点を暴露しない。差が接近してくると残りの信の勝負になる。米国はヴェトナムで敗北した。文明の点、即ち知識の点では大差があった。しかし信の点では逆にもっと差があった。即ちアメリカは初めからヴェトナム戦争への信が無かった。もっぱら優秀な兵器等即ち優越せる知識に依存した。守勢に立ったヴェトナムにはよかれ悪しかれ、信念があった。私は映画「地獄の黙示録」を見、米兵の「ベトコンはいくら殺しても戦争は続く」という歎声を聞いて、「なるほど」と思った。アメリカは今イランに対し信の無い戦いを挑んでいる。アフガニスタンすら怪しい。というのはアメリカ自身知識の文明に対する自信を失い、どうしていいかわからないからである。

 これはアメリカがいいか、イランがいいかという善悪是非の判断の問題ではない。国際法、国際的慣例、国際道徳の点から見てイランの行動は許せない。従って制裁は当然である。しかし制裁が功を奏するか、という問題になると誰にも確信は無い。よかれ悪しかれ、信の点においてイランはアメリカに優る。この種の事件は今後ますます続発するであろう。世界はますます騒々しくなり、世界秩序は乱れるであろう。今まで世界の秩序を支えて来た西洋の知の文明が崩壊しかけているからである。好むにせよ、好まざるにせよ、われわれはこの冷厳な現実を直視し、それに対し正しく対処しなくてはならない。


 四、知識と無意識

 私は先に「何のための知識か」を論じた時、何のための知識かはよく分らないが知識のための知識とか学問のための学問とかではないことを主張し、いわゆる「学問神聖論」を非難した。私が何のための知識かはよく分らないと言ったのは、知識を追求する源泉が無意識の世界にあるからよくつかめないという意味である。知識のための知識でないとしたら何のための知識かと問われた場合、われわれは直ぐ「国家のため」「社会のため」「世界平和のため」とかいう立派な言葉を使いたがる。私はそういう立派な動機が知識を求める動機のうちに含まれていること、少なくとも含まれ得ることを否定しない。かく言う私も国家のため、社会のため、世界平和のためを考えているつもりであるし、考えていないと言ってはウソになると思う。しかし、そういう高遠な理想のみで人間は動くものか。とはいっても、人間は金とか名誉心とかのみで動くものであるとは私は思っていない。つまり、人間はそれほどつまらない存在ではないが、国家とか社会とか世界平和というような抽象的理念のみによって動くものとも思っていない。

 それでは何が知識探求の動機か? 動機は個人によってみな異なることは確かであるが、原則的に言えることは、動機はすべて無意識の世界の支配を受けているということである。無意識の世界は意識の世界と異なり暗黒であるから見当がつかない。見えないから手さぐりするしか方法がない。フロイト以来深層心理学は目覚しい進歩をとげ、精神医学の分野では顕著な功績をあげている。知識論の分野においても相当な実績はあるが、やはり、今のところ手さぐりの段階である。手さぐりとは推測とか想像という意味であって、科学的に実証されているとは言えないし、将来においても実証され得るかどうかすら疑問である。私の過去における経験に照らし、はっきり断定できることは知識欲の旺盛な人、即ち学者はことごとく権力欲の強い人であるということである。この断定に対しては恐らく強い否定があるであろう。そしてその否定の方が正しいということもあり得る。しかし私としては、私の主張が実証的にはっきり否定されるまで、私自身の経験即ち実感に忠実に従い、それを基礎として理論を構成する以外に道はない。私は抽象的真理よりも具体的真実を重んずる。何となれば抽象的真理は私にとっては「他人事」であるのに対し、具体的真実は私にとってはリアルであるからである。

 学者は権力欲の強い人である、という私の実感に対して「権力欲と学問とは両立しない。であるから権力欲の強い人ははんとうの学者ではない。ほんとうの学者は無欲恬淡でなくてはならない」という反駁が予想される。二流、三流やそれ以下の学者のうちにはそうでない人もいる。しかし一流や超一流の学者は、日本でも西洋でも、権力欲の強い人である。学問と権力欲とは両立しないと考えている人は無意識のうちに「知識は知識のため」「学問は神聖なり」の妄想にとりつかれているのではあるまいか。そういう妄想にとりつかれている限り、学者は権力欲が強いなどと考えるだけでも不潔であると感ずるであろう。しかしほんとうにそう感ずる人があったらその人は学問を本気でしたことのない人か、さもなくは自己欺瞞の名人かのいずれかである。

 学問は権力欲が旺盛でなくてはできない。権力欲が旺盛なら学者になんかならないで政治家になったらどうか、と反問する人もあろう。一知半解の見解である。政治だけが権力の対象であると誰がきめたか。政治も力であるが知識はもっと確実な力である。自然を知ることは自然を支配することである。社会を知ることは社会を支配することである。知ってどうするか。自然を知り、それを人のために利用するのは技術である。故に自然科学は技術と結びついて初めて完全な自然支配になる。社会を知り、その知識を利用するのが政治である。故に社会科学は政治と結びついて初めて完全な社会支配になる。しかし技術プロパー、政治プロパーには雑務が多い。むしろ雑務が大部分といってもいい。元来権力というものは具体的に人なり物を動かすというよりは動かすと感ずることであり、その意味において観念的である。従って学者として自然や社会を知ることは自然や社会を支配することであるから、その支配が完全なものでなくても、権力欲の対象として十分な資格を持っているのである。従って権力欲の強い人は知識欲が強く、知識欲の強いということは権力欲が強いということである。学者はそれを意識することもあり、意識しないこともある。そのことはあまり重要ではない。知識欲の根源は無意識の世界にある。従って意識されることを妨げないが、無意識のままで結構である。

 例えばAという学者がきわめて旺盛な権力欲にかられて政治学を研究すれば彼は政治学者として大成しよう。その場合彼が「政治学のための政治学」として研究しても、「世界平和のため」と思って研究しても、自分の権力欲を満足させるためと思って研究しても、その点はあまり重要ではない。必要なのは彼が旺盛な、リアルな知識欲を持つことであり、その知識欲は本質において支配欲であり、権力欲である。

 以上みてきたように、権力欲が知識欲の主要なものであることは否定できないと思うが、その全部であると言っては間違いであろう。私の友人に著名な婦人科の医師がいる。ある日飲食をともに雑談している時、私は「何故君は婦人科の医者になったのか」とたずねた。彼は即座に「若い頃女性の性器に異常な関心を持ったので婦人科を選んだ」と答えた。そのとおりかどうかは保証しないが、そのとおりであってもちっともおかしくはない。

 アメリカにある有名な経済学者がいる。貨幣論の権威として知られ世界各国の通貨政策に大きな影響を与えている。ある日私は何故彼が経済学、特に貨幣論に興味を持つようになったかとたずねた。彼の答は次のようなものであった。自分は実業家になって金もうけをしようと思って、大学で経済学を学んだ。ところが卒業間際になって考えて見ると、どうしても自分には金もうけの才能がないということが分った。そこで仕方がないから金もうけをする代りに金もうけとは何かを研究することにしたと。知識欲の源泉は無意識という暗黒の世界である。であるから意識の世界のように事を朋らかにすることはできないが、知識追求の源泉即ち知識欲そのものは「知識のための知識」というような「神聖なもの」ではなく、いたって人間くさい、どろどろした欲求であることは確かであり、それを「けがらわしい」と感ずる人の心の方が余程「けがらわしい」と私は考えている。

 
五、知識論の再構成

 私の知識論、特に最後の「知識と無意識」の関係に関する私の見解は決して私の独創ではない。無意識の研究はフロイトによって始められ、ユングやフロムによってさらに深められ、既に精神分析学として学界における確たる地位を占めている。また、わが国においてもこの面の研究は極めて高度の水準に達している。特に林道義教授が『思想』一九八〇年一月号に発表された「無意識の認識論」は、極めてすぐれた論文であって教えられるところ甚だ多い。要するに、無意識の世界に対する研究は他の学問に比較して決して遅れているのではない。

 にもかかわらず私が不満なのは、知識と無意識に関する研究は今なお学界の専有物であって世論即ち政治には影響を与えていないことである。私は本論文の初めに私の関心は知識を哲学上の問題として論ずるのではなく、文明史の立場からの知識論であるということを述べた。もっと具体的に言うと、私はアメリカを頂点とする西洋文明の崩壊を捉え、その病根がどこにあるかを検討し、その全部でないまでも重要な部分が西洋文明における知識の考え方にあることに気づき、その対策を考えているのである。であるからそういう考え方に対する反省が学界においてなされても、その反省が一般社会に影響を及ぼさない限り現代文明の病根に対する対策とはならない。卒直に言わしてもらえば、西洋全体が物の考え方を変えなくてはいけないのではないか。

 西洋文明の欠陥は知識偏重にあるのか。そういうように見えなくもない。しかし知と信を分けた場合、西洋では知は偏重するが信は軽視しているか。欧米人は多少の例外はあるが大部分はキリスト教徒である。彼らの信仰は中世と比較したらそれほど強くないかも知れない。しかし彼らの信仰が日本人、中国人、韓国人等と比べて弱いと言い得るであろうか。信仰は目に見えるものでないから正確に計量比較することはできないが、彼らのビヘービアー、生活態度から推察して東洋人と比べて弱いとは考えられない。否、全体としては極めて篤信なのではないか。故に西洋文明の欠陥は知識を偏重し、信仰を軽んじていることにあると断定することはできない。西洋近代文明の禍根はそういうところにあるのではなく、西洋文明に深く内在している分離の原理にあるのではあるまいか。彼らは分けることを好む。肉体と精神を分け、政治と宗教を分け、知と信を分け、自と他を分け、人と自然を分け、神と人とを分ける。分けることによって機能は専門化し、各機能は発達して威力を増大する。西洋文明の力強さの原因はそこにある。

 しかし分離の原理は一定の段階に達するとその消極面を現わす。至難な業であるが分離は総合とともになされなくてはいけない。分離の原理のみが先走りし過ぎると「手術は成功しました。しかし患者は死亡しました」の悲喜劇をもたらす。知と信は一応別の精神機能であるからそれを別の機能として扱うのは結構であるが、結局は一人の人格のうちに統合されなくてはならない。精神は研究の必要上分析することはできるが精神自体は一つであって、知と信とに分かれているのではない。同様のことが政教分離、心身の分離、自他の対立等についても言えるが今ここでは触れない。

 要するに、西洋文明の真の欠陥は知識の偏重にあるのではない。知識はいくら尊重されても尊重され過ぎるということはない。西洋文明の真の欠陥は知と信がバラバラに解体されているところにある。知と信は本来一体であるべきものである。知は信を礎とし、知は信の誤りを正す役割を果すべきである。意識と無意識の関係についても反省すベきものがあると思われる。私はフロイトを初めとする精神分析学の極めてすぐれた業績に対し最大の敬意を払うものであるが、やはり西洋的方法論の限界を持っていることは否定できない。彼らは科学者である。科学者であるから当然知識即ち意識を集中して無意識の世界にメスを入れる。意識から無意識への侵入であってそこに無理がある。東洋では無意識を無意識と認め、信と行の力で無意識の世界に接する。無意識は宗教の宿る世界であって、宗教的に「神秘的」に理解されるべきであって、科学的分析の対象としては不適当である。無意識は分析よりは直観で把握すべきであり、直観力は業と総合の結果である。

 しかし西洋に総合を期待するのは無理である。西洋は分離、分析の天才であるが総合はにが手であり、これはわれわれ東洋人の仕事である。端的に言えば知と信を結びつけることである。ということは知は万能ではないし、万能を期待してはいけないということである。知は奉仕すべきものである。知識はその本来のあるべき地位におかれる時に威力を発揮する。      

                                            月刊『知識』(19807月号)