松下正寿
今日は“宗教と政治”というテーマで話すわけですが、欧米、特にアメリカで“religion and politics”というとreligionは新興宗教、politicsは選挙と理解し、彼らはそれを我々とは全く違った意味に受け取る。アメリカでは“religion and politics”ではなく“church and state”という言い方をする。これは単に言葉のニュアンスの違いというよりも、日本とアメリカとの考え方の実質的相違によるものであり、日本人はそのことをもっと自覚する必要がある。自然科学の場合だと普遍的であって、日本人が取り組んでも欧米人が取り組んでも同じであるが、“宗教と政治”ということになると伝統、ものの考え方が異り、言葉も違ってくるのである。
“宗教と政治”“church and state”の違いは、後者の方は組織を考えており国家という組織と宗教組織(教会)の両方のメンバーである私の内で衝突が生じる。つまり、組織対組織という考え方をする。それに対して、“宗教と政治”という場合は心の問題となる。ここに両者のものの考え方の違いがあるのだと思う。
さて、私は“宗教と政治”あるいは“church and state”という問題を研究するうえで三つの方法をとった。第一は具体的、法律的に研究する方法で、アメリカ憲法ができてからその後、最高裁で“church and state”の問題がどのように取り扱われてきたかを調べてみた。その結果を結論的に言うと非常な苦闘の歴史であったといえる。教会と国家の関係をどう捉えるか見当が付かなくて非常に苦しんできた歴史であった。
なぜ苦しんだかというと、元来アメリカはイギリスから移住したピューリタンのつくった国であって、その精神は信教の自由を求め、新天地においてイエス・キリストの名による理想の社会(組織)をつくろうというものであった。しかし、それは他宗派の人が移住するに伴って迫害を生むことになった。ところで、アメリカが独立したのは1976年7月4日だが、1987年にフランクリン、ジェファーソン、アダムスらによって憲法が制定された。この憲法のフィロソフィーは独立宣言のそれとも、初めにアメリカに移住したピューリタンのイデオロギーとも異なっていた。それはリベラリズムであり理神論であった。
理神論というのは、いわば神をwatch makerとして捉える考え方である。つまり、非常に精巧な時計をつくれば、あとは時は放っておいてもそれ自体の法則に従って自動的に動く。それと同じように、神がこの世界を創った後は、この世界はそれ自体の法則で動き、人間は理性に従って行動する。神はそこには全く干渉することはない。つまり理神論は神の存在は認めるが、神は実質的にはどこへ行ってしまっており、人間においては信仰より理性を重んじる。それで、憲法の中で宗教を唱えることは否定し、国と宗教を別々にする、宗教を私事にしてしまうのである。こうなると共産主義と同じである。
このようにアメリカ憲法の理念はリベラリズム、理神論であり、宗教を私事として捉え、国はそこに介入しない。いわゆる“政教分離”の立場に立っている。ところが、アメリカはもともとは宗教でつくった国であるから、それはこの憲法の理念とは矛盾しており、しかも、宗教的精神は、憲法をはねのけていくだけの力を持っていた。しかし、“政教一致”にすると宗教迫害を生む。このジレンマの中で最高裁判所は非常に苦しみ、“教会と国家”の問題で苦闘してきたわけである。
ところで、初めは宗教の政治への干渉を唱える保守派が強かったが、その後リベラル派が強くなってきた。ここ20年くらいの最高裁の判決は例外なく信教の自由、政教分離が勝っている。公立学校で宗教を教えることは禁止され、宗教団体のつくっている学校への公共団体からの援助も禁止されている。学校でのお祈りも禁止された。こうして公教育から宗教的なものが抹殺されていった。しかし、それと時期を同じくしてモラルが低下するようになったのである。勤労意欲も低下し、国力が落ちてきた。私は、これは宗教と政治を分離したことから生じたもので、それの弊害であると思っている。それにもかかわらず、現在のアメリカでは信教の自由を唱える意見が圧倒的に強く、これに対する批判はほとんどない。あっても理神論的根拠で薄弱である。私はアメリカ人はバカではないかと思う。
第二に研究したのはバルト神学である。バルト神学を一口でいうとプロテスタント神学の一番極端なものということができると思う。つまり、神と人との間には絶対的断絶があって、この世のものはすべて悪であるという考え方である。
この神学は教会は立派なものだが、国家は非常に汚れたものとみなす。ホッブズは国家をリバイアサン(=巨大な蛇)=魔物とみたが、バルト神学の国家観はこれと同じで国家は魔物であり、これと戦っていかなければならないと考える。私が立教の総長時代、WCC(世界教会協議)のジュネーブでの会議に参加したとき、ニューメラを初め、バルト神学者が会議を中心的に運営していたが、参加者のほとんどはベトナム戦争反対で、彼らはナチスに対して非常に強い反感を示していた。そして一方では共産主義に対しては許容的であった。結局、バルト神学は国家と教会との対立を言うときにナチスをイメージとして国家を描いているのである。
このようなバルト神学はナチスに対しては役に立つかもしれないが、日本のような弱々しい国家に対しては有害無益で、むしろこれは禁止すべきであるというのが私の本音である。また、私は神と人との絶対的断絶を唱えるバルト神学は好きではなく、むしろその点では神と人との一致を唱える仏教の方が好きである。
最後に私が研究したのは、渡辺善太先生の『教会と政治』という本である。これは非常によい本で、この本の特色は極めて聖書的、聖書に忠実であるという点にある。しかし、結論をいうとこれは参考にはならなかった。それは渡辺先生が悪いのではなく、聖書の中には“教会と国家”の問題について何も明確に書かれていないからである。クリスチャンは聖書に書かれてあることはすべてそのまま正しいと考えがちだが、それは間違いで、教会と政治の問題に関する内容もあの時代に支配されていると考えるべきである。当時はイスラエルはローマの支配下にあった。先生はイエスの“神のものは神へ、カイザルのものはカイザルへ”という答弁を根拠に政教分離をいっておられるのだが、何もそのように理屈をこねて聖書の言葉を解釈するよりも、当時の状況からそのように答えざるを得なかったと見た方がよい。
パウロが上の権威に従うべきだと言ったのも同様で、これも一つの保身術である。私は「あれはキリスト教の根本であると考えるべきではなく、むしろ上の者に逆らうとひどい目にあうからじっと時を待て」という極めて常識的な考えを述べたものと思う。結局、私は聖書の中から教会と国家に関する理論を探し出そうとするのは困難で、無駄だと思っている。このように、アメリカにおいては政教分離を進めれば進める程、道義が低下している。バルト神学は少なくとも日本にとっては有害無益である。そして、旧約聖書は別として、新約聖書から宗教と政治の問題に関する余地を探そうとするのは困難でこれはやらない方がよい。これが結論であった。
ところで、アメリカで宗教戦争が止むと道義が落ちてしまうのは何故か。キリスト教の歴史は殉教の歴史であり、その次に来るのは迫害である。初期には迫害の中で皆が喜んで死んでいった。そしてそれが今日のキリスト教会の基をつくった。A.C.400年代にゲルマン民族の侵入によって、ローマ帝国は滅ぶが、地下に潜っていた教会がそのあとを受け継いだ。トマス・アキィナス以降500~600年間中世が続いたが、十字軍戦争がきっかけとなって中世の体制が崩れ、そして宗教改革が生じた。宗教改革の一番大きな原因は教会の否定にあった。その後カトリックとプロテスタントの間でどちらが正しいのかをめぐって30年間戦争が続き、結局解決のつかないままに双方がくたびれて戦争を止めた。それがウェストファリア条約である。その内容は政教を分離するというものであった。
つまり、“政教分離”というのは、それが良いからできたのではなくて戦争しても解決がつかないから、いつか解決するだろうというので、仕方なくできたものなのである。従って、ホメイニのように万事を宗教で片付けるのも行き過ぎだが、逆にアメリカのように何でも分離という考え方もばかげている。政教分離は神聖にして犯すべからずものではなくて、どうしようもなくできたものだからである。
このように西欧の歴史は闘争の歴史で、それを受け継いだのがアメリカであるから200年間国内で、宗教問題で争ってきたのも無理はない。そして逆に、その宗教戦争がなくなると同時に道義が落ちてきたのである。
次に日本はどうか
日本に初めて入ってきた宗教は儒教である。漢字と同時に入ってきた。それは上流階級に受け入れられた。その後538年に仏教が入ってきたいわれであるが、実際はもっと前に入っていたのではないかと思う。とにかく、百済の聖明王が日本の欽明天皇に釈迦の仏像とお経を貢納した。天皇はその仏像が美しいので拝むべきかどうか協議したところ、蘇我稲目は「外国ではどこでも拝んでいるのだから日本でも拝むべきだ」と主張し、物部尾輿は「日本の神々が怒るので拝むべきではない」と反対した。天皇は迷った結果、採決を下さず、稲目が仏像を自分の家に持ち込んで氏神にしてしまった。蘇我稲目は韓国系の帰化人で、大和一帯3分の1が親族であり、有力な力を持っていた。仏教はその後いろいろと経緯を経て、養明天皇(聖徳太子の父)の時に広まった。
ここで重要なのは仏教が国教として取り入れられたのかというと、そうではないということである。日本にはもともと国教という意識はない。国教というのは西欧的な考えである。日本に国教らしきものがあるとすれば、それは三種の神器である。仏教にしても、神道にしても日本では国教にはなっていない。
最後に聖徳太子について述べておきたい。
太子の一七条憲法は日本書紀から取ってきたものであるが、本当は 聖徳太子五憲法(通蒙憲法:「日本国推古憲法」推古12年5月発布)であり、十七条憲法はそのうちの一つである。この事は、日本書紀、古事記よりも古い旧事本義(くじほんぎ)に載っている。十七条憲法を見ると儒、仏、神が一つになって実にうまくまとまっている。第二条に厚く三法を敬え、三法は儒、法、僧であるとなっているが、通蒙憲法では十七条のもとに厚く三宝を敬え、三宝は儒、釈(仏)、神道なりと書いてある。私は通もう憲法の方が正しくて日本書紀の記述は、後に坊さんが仏教的に持っていきすぎたのではないかと思う。
このように、十七条憲法の理念は神・仏・儒が混然一体化しているが、それでは政教分離はどうなっているかというと、これも全く分かれていなくて一致している。政事はこうしろという原則が書いてあり、その政治原理が宗教になっている。つまり、仏教であるかのごとく、儒教であるかのごとく、神道であるかのごとく皆一つとなり、また、政治であるかのごとく、宗教であるかのごとく全く分かれていないのである。西洋流の分析的価値観で見ると、この憲法が憲法ではないということになるが、それは西洋人が分けてしか物事を見ることができないだけである。重要なのは、分けた方が役に立つのか、分けない方が役に立つのかということである。西洋人は国家と教会を分けなければ説明できないというが、日本人は心の中で神仏儒が皆一つになっているので別に分ける必要がない。したがって、宗教と政治を便宜上、分けて考えるのは差し支えないが、それを神聖なものと考えるべきではないと思う。
この点で靖国神社の問題について私見を述べると、本当の意味での憲法というのは書かれてあるものと解釈との2つからなっている。大東亜戦争は立派な戦争ではなかったが、一生懸命国のために戦い犠牲になった人達に対して国家が何もしないというのはおかしいことで、そのような例は世界にはない。国家のために犠牲になった者には正式に慰霊の宗教的儀式をやるのが世界の通例である。
日本だけが憲法の解釈にこだわって靖国神社の公式参拝はダメだというのはおかしな考え方である。信仰の自由とか、キリスト教の弾圧とかいうのは別問題である。一国家が行動する場合、全く宗教的行事を脱いでやるというのは困難で、西洋的政教分離の考え方自体に無理があるのである。
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参考:「アメリカ文明?それに対して我々は何を為し得るか」松下正寿
1976年4月 新丸ビル大会議室 第3回新しい文明を語る会