南米移住地を訪ねて(1)
国際企業文化研究所 大脇準一郎
パラグアイは日本と地球の真反対側、南米大陸の中央に位置しており、国土は日
本の1.1倍。人口540万人の国で、人口の97%が原住民のグァラニー族とスペイ
ン人の混血である。グァラニー族は比較的温順、内向的で、働き者、手芸に優れ
ている。わずかではあるが、今も、森林で、原始的生活を営む原住民もいる。
18世紀前後、約100年間に渡り、イエズス会が原住民を宣教した、宣教村は、最
盛期には30ケ所、1居留地に2000人から1万人、全体で20万人を超えたと言われ
ている。
「ミッション」の映画でも知られるように、この結末は、スペインとポルトガル、
カトリック内部の修道会同士の派遣争の結果、凄惨なものとなってしまった。
世界遺産として認定されているトリニダード、ヘス遺跡は往時の壮麗な繁栄ぶり
を忍ばせてくれる。基督教史によれば、当時、農地や農機具は共有、戸主は自家
保有地を持つことも出来た。原住民から選ばれる村長は、司祭と同等の位置を与
えれた。中央には壮大な教会堂、これをこの字型に囲む、学校、司祭館、迎賓館、
真中は数千人は入れる大広場。柱や建物には華麗な彫刻が刻まれている。
日本人のパラグアイ移住は1936年、ラ・コルメナ移住地への800名の入植に始ま
り、戦後、1959年には「日本・パラグアイ移住協定」が締結され、8.5万人の移
住者枠が認められた。当時、1万人以上が入植したが、現在では約7000人の日系
人が居住している。
移住者は主として、農業に携わり、大豆、小麦、園芸栽培を行っている。
日系移住者の農業における貢献はその勤勉さ、正直さ、技術とともに、パラグア
イ国民が高く評価するところである。
1996年には移住60周年記念式典が盛大に行われた。母国日本の国際的貢献の役割
が飛躍的に増大している今日、パラグアイ在住の日系人に、日本とパラグアイの
掛け橋として、国際協力の中継役を願いたいものだ。
新たなる日本人の大量移住の可能性を調査するために今回、パラグアイに半年ば
かり、滞在した。
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70年前、迫害を逃れ移住
人口の98%までが東部の肥沃な土地に住んでおり、西部チャコ地方は未だに人の
疎らな、原始林、草原地帯である。
このチャコ(狩猟地の意味)地方の内陸部は年間雨量500mm以下という乾燥
地帯。かって海底にあったこの地域は、地下2m~100mは塩水脈が走っており、
水脈を掘り当てるのに30個所掘って、1つ当たれば良いほどである。
病害虫は少ないにしても、土地が痩せて、植物が大きく育たない。
今から、70年前、1928年、300人のメノナイトがプエルト・カサド〔パラグアイ
川の港〕にやって来た。 彼等は、カナダ政府の教育改革が子供達の教育権を政
府が握ることを恐れ、「自分たちが神を崇める方法にそった、子供達を教育で
きる場」を求めたのである。このチャコ地方に移住してきたドイツ系移民の群
れである。彼等はプロテスタントの一派、メンナイトの人々で、彼等は500年も
の間、ドイツやオランダ、ロシア、カナダから迫害を受け、パラグアイに移住
してきた。
メノー派は16世紀、オランダの宗教改革者、メノー・シモンズの名前に由来する。
幼児洗礼を無効とし、成人後、自覚的信仰告白の後、受洗すべきと主張すること
から、再洗礼派(アナバプテスト)と呼ばれ、公職就任拒否・兵役拒否で知られ
ている。北米・ペンシルバニア州に住む、自家製服をのみを着、自動車・電気も使
わずないアーミッシュはメノ派の急進的グループ、スイス人、ヤコブ・アマンに
由来する。メノニータの人々が概して、背が高く、足が長いのは、オランダ寄留、
100年の影響だそうである。
彼等の子孫は今、メノ〔人口:8000人、カナダから〕、中心地:ローマ・プラタ、
フェルンハイム〔3000人、ドイツから〕中心地:フィラデルフィア、ニュウラン
ド〔3000人、ロシアから〕中心地:ニュウハルシュタットの3地域に13,000人が
居住している。
開拓の思い出
彼等がパラグアイ政府と結んだ“約束の地”の調査がまだ終わっていなかったの
で、彼等は、6ケ月の間、ここでテント生活を余儀なくされた。気象状況も知ら
ず、専門的医療援助も無い中で、120人もの人が腸チフスに罹り、死亡した。毎
日、葬式の出ない日は無いような、最も苦しい時代であったと当時の様子をどの
メノニータも語る。
ついに暑いチャコの太陽の下、大草原に着いた時、多くの人々は信仰を失いしか
け、カナダへ戻る計画を立て始めた。
彼等が生き残ることが出来たのは、モーゼのような、1人の司祭、マーティン・
フリーセンの、神の御心に対する深い信仰のお蔭てあった。彼は、宗教・社会・
行政面あらゆる面で、皆の牧者として奉仕した。基本的行政機構が設立されたが、
生き残りのためには“共同生活”体制しかなかったのである。
また、彼等が持ってきた小麦の種は、土地に合わないものであったが、原住民が
友好的で、とうもろこし、マンジョカ、西瓜の作り方を教えてくれた。数年前に
高速道路が完成し、いまでこそ、アスンシオンからメノナイト居住地まで5時間
程であるが、当時、生活必需品を得るためにアスンシオンまで行くには、2週間
もかかった。
メノニータ2世、カタリーナ・ティーセン女史〔56歳〕は、今、アスンシオン
で新聞社の社長をしている。ご両親(86歳、84歳)はチャコで健在でいらっしゃ
る。彼女は、13人兄弟の長女で、下の弟達は、ハンス,240ha、歯医者のヤ
コブ、450haとメノナイト居住地に牧場を持って経営している。カタリーナの
名前は、メノナイトを受け入れてくれたロシア女帝、カテェリーナの名前にちな
んでつけられたとのこと。カタリーナは自分の育った幼子の頃の思い出を語る。
“70年の移住の歴史の大半、60年間は非常に生活が厳しかった。「もう一雨
降れば作物が生きづくのに」と打ちひしがれ、ある時は地平線を覆い、空が真っ
暗くなるほどのいなごの大群が襲い、数時間後には、その年の収穫の全てが失わ
れてしまって、呆然としている両親の顔を見て育った。ミルクやチーズ、卵もい
つも豚の餌になった。というのは、市場も道路も人の交流も無かったからである。
皮肉な事であるが、自分たちが選んだ好きな生き方で住めるような所を捜し求め
たメノナイトが、自分たちが生存し、発展するためには、やはり、自分たちの周
囲の世界が必要であることを悟ったのである。“
今日、メノナイト社会は畜産を基盤にパラグアイでダントツの品質の高さを誇る、
乳製品(牛乳、ヨーグルト、チーズ、バター)を出荷し、経済が潤っている。毎日、
牛や乳製品を運ぶトラックが何台もアスンシオンを往復している。ハンスの家に
も、毎朝、大きなバキュームトラックが牛から搾りたての牛乳を回収に来る。全
て乳搾りからトラックに回収まで全て自動的なので、ハンスさん夫妻200頭の乳
牛を飼うのに充分だ。おまけに牛達は張った乳を搾ってもらいたい、美味しい餌
にあやかりたいので、時間ニなると追いたてられなくても、自然と牧場から小屋
に帰って乳を搾ってもらうために、列を為して待っている。
乳製品加工工場を設置するときには、ドイツ政府から莫大な援助資金が出たと言
う。新しい飛躍にはやはり、相当な投資が必要なものである。
貯水池を造る
年間雨量500以下。痩せた乾燥地に何が定着できるのか?チャコ地方ではタカマ
ルという雨水の貯水池を到るところに見かける。これは主に牛の飲料水。人の飲
料水は、屋根にフ水を地下に貯めておき、ポンプでくみ上げて飲んでいる。幸い
なことに、ハンス家では、敷地内に真水が出るので地下水も飲める。荒地のよう
なチャコ地方にも最適作物があることをアスンシオン国立大学農学部、関教授か
ら伺った。それは、グレープ・フルーツである。糖分が高く、どこよりも美味し
教授の研究成果を元に、今、日系企業、白石産業が大掛りなグレイプフルーツ生
産に乗り出している。
広大な土地は、協同組合が購入し、組合のメンバーに分譲販売されてる。この土
地は、組合員のみに、販売できるので、組合が土地の真の所有者である。このこ
とは、今日に到るまで、個人の潜在的可能性の尊重、投資、夢を描ける基礎とな
り、動機をあたえるものとなっている。誰でも、自分の経済的・個人的能力に見
合った土地を買うことが出来る、ということは、大金持ちや貧乏人が少なない、
広大な中間層をもたらした。組合員によって、組合長が選ばれ、組合長の下に、
健康・教育・社会などの委員会、管理者、職員が配置されている。
入植当初は、教科書と言えば、ただ、アルファベットの小冊子だけであったが、
段段、教理問答、算数、ドイツ語が教えられるようになった。
ネタさん(ハンス夫人)が次女、ニコールちゃん、と次男ユンゲン君の通ってい
る小学校、中学校を案内してくださった。木作りの簡素な平屋の校舎である。子
供達は、ここで、メノナイトの歴史をしっかり学ぶ。 何日か滞在の折、同じ開
拓の苦労話を、何人かの人から数回耳にした。特にカサド港で滞在中、120人無
くなったという話は有名だ。教育が徹底している証拠である。
今も、カナダやドイツの同派の同胞から支援を受けており、教会音楽や合唱団は
非常に高度で、芸術、数学、言語などの分野でも、国際競争力を持っている。高
校はフィラデルフィアへ、今、長男のジオバニ君と長女のインデラさんはアスン
シオンの大学へ通っており、週末には5時間かけて帰って、家の牧畜の手伝いを
する。メノナイトは、家庭ではドイツ語を使っている。彼らはスペイン語圏のパ
ラグアイの高等教育機関、英語圏の米国においても、最優秀の成績を挙げている。
しかし、ここでも若者の定着、嫁の来手があるかどうか?どこの国の農村と同じ
課題を抱えている。メノナイト社会はアーミッシュほどでは無いにしても、極端
に根本主義的で、教会教義に縛られている。年配者は多年の苦労の果て、やっと
勝ち得た伝統を失うことを恐れる余り、却って彼らの子供達を失っているようだ。
パレスチナの石ころだらけの荒地を開墾し、見事な緑の沃地に転換したユダヤ人、
人の住まない、ソートレイク〔塩の湖〕に街を立てたモルモン教徒、米国へ移住
した清教徒達、困難な環境を切り開いたのは、彼らの信仰をバックボーンとした忍
耐と努力であった。
カテェリーナは未来の希望に目を輝かせて言う。「神様はこの“緑の地獄”〔チャ
コ地方〕に我々を送られたのは、特別の御心があってに違いない!理性的な頭で
考えれば、豊かな土地を捨てて、移住するなんて、気違いじみたことだから」と。
近年、パラグアイには“神の民(プエブロ・ディロス)”と言う再臨主を待ち望
む、5000人の共同生活部落が脚光を浴びている。農業を基本にした生活共同体で
あるという。今回は訪問する時間が無かったが、次回機会あれば訪問してみたい
と思っている。
航空機が発達した今日、世界は1日圏で結ばれ、衛星TVを通して、リアルタイ
ムで世界は連動している。それぞれの国、それぞれの地域に父祖の築いた街や村
がある。それぞれ固有の文化と風俗習慣を持っている。
21世紀は確実に、地球村、人類一家族社会である。人知れぬ、水源から発して、
小川となり、小川が集まって河となり、ついには大海に合流するように、諸国民
・諸民族、諸宗派は1つの平和の海、豊饒の大地に導かれるであろう。