南米移住地を訪ねて(3)
国際協力に日系人の力を!
―ピラポ移住地での体験―
国際企業文化研究所 所長 大脇準一郎
ピラポ移住地
パラグアイに6ヶ月、滞在中、JICA勤務の中古味敦さんと偶然、3度出会った。
3度目は、パラグアイを出発する前日、大使館の近くにあったレストラン“広島”であった。
その折、明日から、イグアス移住地を視察する旨を話したら、「ぜひ、ピラポにも寄って下さ
い!」とのお招きを受け、中古味家にホームステイすることとなった。若者顔負けの元気溌剌
のお爺さん、中古味勇さん〔84歳〕を中心に、ご両親(寛、章恵)、敦さんの兄弟姉妹、そ
して叔父さん〔寛さんの弟〕夫婦(豊・香代子)、そのご子息の3世代の農家である。お爺さ
ん(勇)は元警察官、中国大陸を転々とし、戦後引き上げ者。
戦後、396万の軍人、660万の民間人、合わせて1000万人以上もの引き上げ者で食料、
住宅、就職、全ての面で混乱の続く日本政府は移民政策を遂行。1954年、日本移民を受け
入れたパラグアイ国、チャベス移住地より、戦後の移住が始まった。戦前創設された、ラ・コ
ルメナ移住地、上記のチャベス、そしてラ・パス移住地に続き、ピラポ移住地〔8.4万ha〕
の入植は1960年、8月から開始された。
中古味家は、その第1次入植者の26家族の1組である。お父さん(寛)は、日本語学校〔週
Ⅰ回、土曜日〕の校長先生を兼任。〔別紙に、ピラポ移住地の日本人学校の作文集の中から、
日系海外移住センター主催の研修旅行の証しの抜粋を紹介する。中古味校長は、29人の各国
からの日系移民子弟〔中学3年生〕を引率して、1月15日から2月10日まで日本に滞在。〕
いろいろ、お父さんにお伺いしていると、すかさず、お爺さんが意見を挟まれる。 論旨は
明快、ボケなど一切関係無い。お爺さんは「パラグアイは水、太陽、空気に恵まれ、現地人は
自由、気ままな生活をしていた。発展も無ければ、困ったこともなく、後も無ければ、先も無
い。何千年、地震も無ければ、台風も無い。子供のことも、明日のことも、自分のことしか考
えない。天の恵みが多すぎた!」とコメントされる。中古味家の水は外で売っている飲料水よ
り美味しい。 家の裏の植林は暑い陽射しを和らげ、甘い空気を運んでくれる。お爺さんは、
「30町歩も桐を植え、17,8年も経った今、切時なのだが…。」と残念がられる。
お話の最中、バイクに乗って、川村多治郎さん〔91歳〕がヒョッコリ見える。これまた、背筋
がしゃんとして、四~五十代の壮年と変わらない。中古味さんも、川村さんも高知県出身、川
村さんは元町役場の職員、町長を先頭に町ごと移民、町合せて150軒、150町歩の町を捨て、1
人、30町歩も持てる夢に惹かれて、移民.。当時の話を整然とされるその記憶力には脱帽す
る。「引率して来た、町長は尻尾を巻いて帰ってしまった。残された我々は大変な苦労した。」
と当時を思い出し、義憤の声にも力が篭る。
お母さん〔章恵〕又、弟さんの奥さん〔香代子〕は、中々、口が重い。数多くを語られないが、
不便な環境だけ、女性の苦労は大変なものであったろうと想像される。どこの移住地でも、婦
人会で隣の国に旅行するのでさえ、余程の決心が要るのである。ご子息達は「教育者になりた
い!」(敦)、「デザイナーになりたい!」と夢を語る。しかし都会に出た若者が、移住地に
Uターンすることは極めて少ない。敦君からカラオケに誘われたが、小生は、深夜までお付き
合い出来るバイタリティーに自信が無く、断らざるを得なかった。移住地は、若者や女性に魅
力のある町作りが今後の課題であろう。
世界文化遺産“トリニダード”
ピラポ移住地から30kmほどの所に、トリニダードの遺跡がある。
イエズス会がパラグアイの原住民、グァラニー族を布教して、共同で作った宣教村である。
かつて、東アジアでの宣教活動は、“現地の高度な文化へ如何に宣教師が対応できるか”を問
われた。他方、南米における宣教は、“低い文化水準にある現地人を、欧州から来た征服者、
奴隷商人から守り、如何に基督教教育をするか”に課題があった。欧州で教育の伝統のあるイ
エズス会は、グァラニー族を1610年、スペイン国王の直属の臣下とすることによって、奴
隷の位置から解放し、行政権・裁判権を行使できる、保護移住地を設けることが出来た。18
世紀前後、約百年に渡って30ケ所、一村当たり、2000~1万人の保護地が設けられた。最盛
期には、総勢20万人を超えたと言われている。トリニダードはその中の1つで、写真では窺い
知ることが出来ないほど、壮大なものであり、パラグアイが誇る、世界文化遺産の1つである。
建物は、今日パラグアイで見られる、もろいレンガではない。硬い砂岩を積み上げ、至る所に、
華麗な彫刻が刻まれている。中央には壮麗な教会堂、これを囲む、学校、司祭館、客人のため
の迎賓館、囲いの中は悠に5000人は入れる大広場がある。基督教史の本によれば、当時、農地
や農具は共有、戸主は自家の周囲に庭を持ち、共同耕作地に自家保有地を持つことが出来た。
原住民中から選ばれる村長は、司祭と同等の位置に置かれた。かくて、保護居留地は繁栄を極
め、グラニー族を勤勉な人間に育てた。ところが、1750年、スペイン、ポルトガルの国境
協定で保護居留地がポルトガルに併合されるようになり、ローマ教会内の書く修道会の内紛も
災いして、イエズス会士追放〔1767年〕、イエズス会廃止令〔1773年〕となってしまっ
た。
「ミッション」の映画にもあるように、ポルトガル軍の進入に因って、この移住地はことごと
く打ち砕かれ、大半のグァラニ族は再び、ジャングルへ帰って行った。
今は、当時の面影を遺跡として残すばかりであるが、グァラニー族の手先の器用さは、レース
編みのニャンドウティ(グァラニー語で“くもの巣”の意味)手芸品、その音感の豊かさをハー
プに似た“アルパ”という楽器に見ることが出来る。グァラニー語が現代語として今も国語と
して使用され、90%以上がグァラニー族とスペイン人の混血児である。このことから、グァ
ラニー族のおうらかさを伺うことが出来る。ピラポとは、グァラニー語で「手の魚」と言う意
味。昔は手掴みで釣れるほど、魚の上を歩って向こう岸に渡れるほどであったという。
元ピラポ農協組合長、元農協中央会会長の小田義彦氏は、引退された今は、太公望の生活。ご
自宅にお伺いした折も、釣りの帰りであった。
長年、日本との交渉で、パラグアイ日系移住地の危機を救ってきた氏は、「現在、二人の市長
しか出していないが、パラグアイも、そろそろ国政レベルに政治家を出すときが来た。」と65
歳の年齢からして捲土重来の勢いである。
国際協力と日系人の役割
JICAの協力で農業機械化センター、林業開発訓練センターは、1981年に完成している。
いづれも、“パラグアイを背負って立つ,有為な人材を養成する”と言う、高邁な理想に基
づくものであった。 当時、最新鋭の農機具、製材機械が装備された。JICAから人材が派
遣され、JICAの管理下の間は成果が上がったが、農牧省に引き渡した後、数年にして、職
員が機械を持ち出し、今はめぼしい機械はほとんど見当たらないとのこと。特に林業センター
は、ひどく、管理人も居ないので、誰が入って、何を持って行っても自由のようで、長く閉ざ
された木工教室には蜘蛛の巣が張っている。
200年前に見せた、グァラニー族の芸術性を生かせば、この林業センターは格好の職業訓練
所、“トリニダード遺跡などで木工民芸品を売れば、相当の収入になる。”と考えるのは、小
生ばかりではあるまい。アスンシオンやぺテロジュアンに日本の援助で建てた総合病院も、パ
ラグアイ厚生省に移管されると、最新鋭の医療器具が医師によって持ち出され、闇に売りに出
される。JICAも海外援助プロジェクトの見直しを計る、フローアップ制度が出来ているが、こ
の点をどうカバーしようと言うのであろうか?
小生は、この問題の改善策として、パラグアイにおいては、日系人をパラグアイ人と日本との
間の仲介者として登用することを薦めたい。
日本は1979年以来、世界最大援助国、途中2位になったことがあったにしても、近年、8
年間は最大援助国を連続更新している。しかしながら、日本から金は行っても、これをこなす
人材が伴わないため、折角の日本国民の血税が各地で、無駄になっている。 今回、目撃した、
林業センター、機械化センターが良い例である。 パラグアイ人を日本国民の延長で考え、現
地人に対する文化理解を捨象した計画の当然の結果である。Ⅰ昨年、隣のブラジルで、670
億円を超える壮大なセラード計画の挫折を見聞した。 いづれも、援助対象国に対する風俗・
習慣を含めた文化理解の無視が、挫折の大きな要因になっている。“決まった事だけを机上の
上で為せば事たれり”とする官僚主義的手法では、プロジェクト永続的成功を期待することは
到底無理のようである。今後、民間NGOの期待される所以でもあるし、今回、パラグアイ、
ブラジル各所で、オイスカ活動の目を見張るばかりの発展振りが印象的であった。
日本外務省が国際協力にNGOを登用する方針を進めている。JICAもODAをより効果的なも
のにするため、国別・地域別体制に大改革、部長職を助ける調整役を置くなど現地のニードに
対応できるように努めている。国際協力がさらに実り豊になることを期待したい。他人の物と
自分の物のと区別が曖昧な風俗、政治家が自分にとりこむ事ばかり考え、賄賂無くして動かな
い政治的風土、国際協力担当者は、これらの冷厳な現実を踏まえて、国際協力の永続的、最大
成果を挙げる事に対して、もっと責務があるのではなかろうか? そのための、1つの提案
が、日系人を仲介として、パラグアイ国家の発展に貢献すると言うことである。
パラグアイに住んでみて、国庫に公務員の半数を養う金しかないので、ほとんどの官庁は午前
中でお休み。給料は平均月、250ドルと言われているが、ある国立大学の教授が「月給、100ド
ルでは、幾つかアルバイトしないと食っていけない。」と漏らしていらっしゃった。「衣食足
りて、礼節を知る」と言う諺にもあるように、貧しさの故にやむを得ない事情もあろう。バス
にジュースやキャラメルを持った物売りが必ず乗ってくるのには、驚いた。パラグアイ人は、
アミーゴ〔友達〕意識が強く、他人の子供でも養子として面倒をみるやさしさもある。辛酸、
60年余、パラグアイの良い点も悪い点も嘗め尽くし、パラグアイを良く知った日系人に日本
の国際協力の中継をお願いしてはどうであろうか?
他の移住地の指導者からも、「我々は、日本にお願いするばかりではなく、国際協力のパート
ナーとして日本と付き合うべきだ!」との声も聞いた。
ブラジルのある日系人は、「JICAの援助資金51.26億円の大半、95.3%は、大規模農場主、州
政府事業、ブラジル人の職業訓練、森林開発・公害問題に向けられ、日系社会のアフターケアー
は2.39億円、4.7%未満に過ぎない。」と溢していた。パラグアイにおいては、総額30億円の内、
1.17億円約3.9%が日系社会のために使われている。(専門家派遣、日系人の研修受け入れ等は、
これに含まれていない。) ここで喚起したいのは、小生の述べている観点は、この日系社会
へのお金の配分が少ないことではなく、日系人の役割についてである。日系移民の方々は、大
きな夢を描いたり、あるいは経済的窮状から悲壮な移住の決心をして海を渡られた方々である。
今や、その母国、日本は、世界第1の海外援助国、この祖国日本が“国際社会に名誉ある地位
を占める”ためにも、国際協力の時流に乗って、日系移民の皆さん方が、一役買うべきときが
来ている。
発想の転換を!
40周年の記念日を迎える、ある移住地で「何か40周年に向けて提言は無いか?」と聞かれ、
「日本人だけの日本語教育から、世界語としての日本語教育に発想の転換を図るべき」と申し
上げた。 英語圏、フランス語圏、スペイン、ポルトガル、オランダ語圏等があるのに日本語
圏がどうして無いのか? もっと日本語と日本文化に自信と誇りを持って日本語、日本文化を
世界に普及すべきではなかろうか?
発想の転換と言えば、ロケット工学で有名な、糸川英夫先生のことを思い起こす。
「地球が温暖化して大変ですが、どうすれば良いでしょうか?」との小生の質問に、「地軸の
向きを少し変えれば良い。今は、人間の力で充分可能である。」とのショキングな解答を今も
忘れる事が出来ない。先生は、人が予想も出来ない別の次元から、独創的なビジョンを提示で
きる方であった。
18年前、糸川先生は“日本人、5000万人民族大移動論”を展開している〔「逆転の発想」〕。
自分からの発想ではなく、地球的・グローバルな観点から見て、“世界には、極、一握りのトッ
プ層と大半の無知な大衆しかいない。その中にあって、日本人はマネージメント能力があり、
世界が日本のマネージング・パワーを必要としている。”と言うのである。世界に日本人が出
かければ、世界も又、日本も活力を生むのである。しかし、今、日本で論議されている日本活
性化論はこの逆、日本の国家的枠組みからの発想で、これでは、日本も世界も衰退に向かうの
ではないかと危ぶまれる。
この原稿を書いている最中、1月18日、小渕首相の私設諮問機関「21世紀日本の構想」懇
談会が報告書を首相に提出。「日本人のフロンティアは日本の中にある!」と言うのが主旨で
ある。確かに、「小さく国内に留まって、世界にも体裁の良い日本にしよう!」と言うのが、
大半の国民の意見であろう。しかしながら、上記の国内向けの目標はあくまでも、2次的目標
とすべきであって、第1次的には日本のフロンティアは、やはり「世界であり、宇宙」である。
報告書は父親不在の家庭経営論に止まっている。平和な地球村家族を実現するために、日本が
貢献することを世界は期待している。かつての侵略と搾取の世紀に決別し、共生・共栄の世界
を諸国民と共に築くことこそ、日本と日本国民の目指すべき21世紀の国家目標ではなかろう
か?このような議論こそ、国連等、国際機関でもっとディベイドすべきであろう。国際機関の
現状が国益の競合する修羅場であるとするならば、国益を超えたグローバルな観点からローマ
・クラブのような有識者機関を作るのも良かろう。 とにかく、日本にもまた、大いなる“逆
転の発想”グローバルな発想が今、必要なときである。
提言書に欠ける宗教的・倫理的視点
「21世紀懇談会」の提言で次に気になるのは、個を強調する余り、公が等閑になっていることだ。
五年ごとに、世界11カ国を対象に行われている総理府の「世界青年意識調査」‘98年によれば、
「どんなことをしても親を養う」が泰77.0%、ブラジル71.8%、韓44.3%、個人主義の米国でさ
え66.0%%であるのに対して、日本では25.4%。’93年の調査では、「自国のためには私の利益
を犠牲にしても良い」泰90.5%、韓44.7%、米36.7%に対して、日本は11%、この項目は’’
98年からは無くなり、代わって「自国のために役立つようなことをしたい」という設問。これ
に対して「はい」と答えた者は、泰98.7%、韓国82.9%、米国53.3%で日本は49.3%。極めて、
愛国精神が低い。昨年末のギャラップの「5ケ国世界調査」によっても、この傾向は実証され
ている。「自分の国家を誇りに思う」は、米90%で最高、日本は最低で71%。「侵略されたら、命
をかけても国を守るか」の問いに対して、中79%、仏67%、泰59%、これに対して日本はわずか
20%。5ケ国の中で、唯一、「命をかけない」が「かける」を上まっている。自国の政治家を「信頼
している」米53%が最高、日本は23%で最低。半年ぶり、日本に帰って、電車に乗っても、互い
に素知らぬ振り、さらなる日本人の個人志向に胸を痛めざるを得ない。国際社会、ボーダレス
の時代であればこそ、ますます、国家の尊厳、国家の主体性や国民のアイデンティティーが問
われているのにである。今にして、半世紀前、第二次大戦後の国軍の解体、自虐的教育の結実
がここに出てきていると言えよう。
今回の答申は、「統治から協治へ」、官尊民卑から民主主義へ一歩進めたもので、個の尊重を主
眼としているようだ。 この点は、賛同できる。確かに、近代歴史において、高度な精神文明
を誇った東洋を瞬く間に打ち砕き、西洋科学技術文明が、世界を席巻できたのは、個の自主性、
自由がであった。しかし、この根底にはこれを生み出す精神的風土があったことを忘れてはな
るまい。すなわち、ギリシャ的合理主義精神とアングロ・サクソン的経験主義精神の生み出し
た科学的・客観的精神の土壌の上に、キリスト教的エイトスが働いて、自由闊達な創造性、科
学技術文明の花が咲いたのである。今回の報告には、システムとしての自由な体制を主張して
も、その依って立つ、精神的基盤が明確でない。提言書は西欧化イコール普遍化の格好良さ押
し流され、返って、東洋精神文明が持っていた良さ、、正義や忠孝烈とかの道徳・倫理性、愛
・慈悲・仁と言った根源的(絶対的)価値観が見失われている。西欧の科学技術文明が進めば
進むほど、家庭崩壊、社会的モラルの低下傾向があることは、多くの有識者が指摘している点
である。答申では、「志を立てる」ことを唱えているが、自らの依って立つ文化、自分自身へ
の自信や誇りの無いところに「真の志が立つ」ことを期待できるであろうか? 偏狭な民族至
上主義の亡霊にしがみつくのも問題であるが、そろそろ文明開化、西欧化の20世紀の夢から
覚めて、自らの文化の根底を掘り下げて見たらどうであろうか?このことは、「日本のフロン
ティアは、日本国内にある」(社会的次元)をさらに一歩進めて、国民各自の「日本のフロン
ティアは、精神的・内的世界にある」(宗教的次元)に関心を向けることを意味すると言って
も良いであろう。
今や、個人と公の垣根、国と国の垣根、人と自然の垣根、さらには、己の心の中にある垣根、
タブーを超えて、糸川先生のように自由闊達な発想が望まれているのである。「3年で見たけれ
ば桃・栗を植えよ、10年で見たければ、植林をせよ、30年で見たければ、人を植えよ。」との格
言もあるが、人作りとは教育である。教育改革を最優先政策課題として掲げている小渕内閣の
今後の動向に注目したい。 以上
1999年 中学3年 菊地彩香
今年の1月、私は昨年のスピーチコンテストで海外日系人研修生の一人として選ばれ、日本で
一ケ月の研修生活を送りました。私は、生まれてから一度も離れたことの無かったパラグアイ
を後にし、30時間以上もの時間をかけ、パラグアイの反対側にある日本に着きました。パラ
グアイの暑さとうって変わって、吐く息も真っ白になるほど寒い中、各国の研修生は海外移住
センターへと足を運びました。
すっかり仲良くなった皆と始まった研修生活は、日々、驚きの連続でした。道を歩いても、こ
れといったゴミは見あたら無い。たびたび乗った電車やバスは、時間通り来て、車内アナウン
スでは、出発が一分遅れたたからといっては、お詫びの放送をするといった具合で、パラグア
イの10分や20分遅れるのはいつものこと、ルーズな時間間隔の中で育った私は、新鮮な驚
きでした。ただ、パラグアイの片田舎で、小鳥のさえずりや、蛙の鳴き声を子守歌に聞きなが
ら暮らしていた私には、夜の間中聞こえてくる車のクラクション、パトカーや救急車のけたた
ましいサイレンの音に、寝つけない夜を過ごし、静かなパラグアイの夜が懐かしかったのも事
実です。
初めて、新幹線に乗り、岩手に住む80歳になるおばあちゃんに会い、楽しい時を過ごした後、
真っ白な雪景色の駅のホームで、おばあちゃんが泣きながら手を振っている姿を見て、私は日
本に来て良かったと思いました。