真言宗とは?

真言宗について教えてください。結局何を唱えていれば良いのでしょうか?
大日如来の御真言
「オン アビラウンケン バザラ ダトバン」弘法大師御宝号「南無大師遍照金剛」

毘沙門天(多聞天)でも宜しいですが、あくまでも「天」です。
「天」は民間信仰と結びついて、梵天、帝釈天、弁財天、毘沙門天の妻で吉祥天がいます。また、四天王は、持国天(じこくてん)・増長天(ぞうじょうてん)・広目天(こうもくてん)・多門天(毘沙門天)の四神です。
古代インドの宇宙観で、世界の中心をなす須弥山(しゅみせん)を守護する神様です。また、帝釈天の家来ともされ、それぞれ東・南・西・北を守り、仏教に取り入れられて護法神となりました。諸尊は、如来・菩薩・明王・天の四つがあり、如来は正しく悟りを開いた者、菩薩は悟りを求めて修行する者、明王は大日如来の使者、天はインド古来の神々で仏教の守護者です。

真言宗で、最も有名なお経は「光明真言」があります。光明真言とは、人生における苦悩によって真っ暗闇に落ち込んでしまわれた人々を、その真っ暗闇から脱出させる光明となる真言、と言う事です。「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」大日如来の真言:おん あびらうんけん(胎蔵界):印は法界定印  おん ばざらだとばん(金剛界):印は智拳印
いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす 

色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ 有為の奥山  今日越えて浅き夢見じ  酔ひもせず  

いろは歌は『涅槃経』の中の無常偈(むじょうげ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」(諸行は無常であってこれは生滅の法である。この生と滅とを超えたところに、真の大楽がある)の意訳であると説明した。

774835]平安初期の僧。真言宗の開祖。讚岐(さぬき)の人。俗姓、佐伯氏。諡号(しごう)、弘法大師。延暦23年(804)入唐、翌々年帰朝。高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)を建立し、東寺(教王護国寺)を真言道場とした。また、京都に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開いた。詩文にもすぐれ、書は三筆の一。著「三教指帰(さんごうしいき)」「十住心論」「文鏡秘府論」「篆隷(てんれい)万象名義」「性霊集」など。遍照金剛

正覚院ともいい、延暦10年(791)に18才の空海が修業をした所といわれています。石段を上がったところに駆篭の窟という岩の洞があり、岩壁にかかる阿吽のノ滝の飛沫をかぶる弘法大師像と降魔壇という修行石があります。この地に天魔地妖が多く出て修行の妨げとなり、住民をも煩わせるので、天空に向かって大般若経の魔事品を書き、岩谷に封じ込めてしまったといわれています。420日~21日の春季弘法忌には大師像を修禅寺より御輿で運びここに1日安置する「お上りお下り」という行事が行われています。 

【所在地】〒410-2416伊豆市修善寺2940-1 0558-72-2501(伊豆市観光協会修善寺支部)修禅寺は807年に弘法大師によって開創された。以後470年間は真言宗の寺として栄え、鎌倉時代に臨済宗、室町時代に曹洞宗に改宗している。修善寺温泉の中心にある。

修禅寺奥の院は修善寺の町から車で20分くらいの場所にある。弘法大師空海が高野山を開山する前に修行したとされる場所。奥の院界隈はもともと魔があるといわれて恐れられており人々は近づかなかったが、空海がその魔を封じ込めたといわれる石が残っている       阿吽の滝(あうんのたき):自分を浄化し本来の自分を取り戻すようなイメージを持つって瞑想。        奥の院から帰る時に逆側を向くと山があり、その山にポコッと木が出ている。その木から滝へ気が出ている。第三の目が開いていく感じがする。·        奥の院から山道を徒歩で50分くらい行くと「桂大師」という大きな御神木がある。弘法大師が唐から持ち帰った桂の杖が生育したものとされる桂の木がある。強力なパワーを放っている。温泉街の中心に修善寺川(通称:桂川)が流れ、河岸には温泉宿や飲食店が建ち並ぶ。川中の四阿には、同温泉地のシンボル的存在の独鈷の湯があり、無料で足湯を楽しめる。至近には地名の由来となった修禅寺があり、多くの観光客が訪れる。この寺では毎年82021日に秋季弘法大師大祭が催され、屋台や打ち上げ花火が催される。また、遊歩道が整備され「竹林の小径」などが人気のスポットとなっている。

温泉街付近には源氏に関する史跡が多く、鎌倉幕府2代将軍、源頼家の墓や、頼家の冥福を祈って母である北条政子が建てた指月殿などが残る。

歴史修善寺温泉の歴史は、平安時代弘法大師が開いたという修禅寺の歴史とともにある。独鈷の湯も弘法大師が湧出させたとされ、これが修善寺温泉の起源である。川原で病気の父親の体を洗う少年のために「弘法大師が独鈷を用いて岩を砕き、そこから湯が湧出した」との開湯の伝説が残る。鎌倉幕府の時代には、源頼家が修禅寺に幽閉され暗殺された。

文学 明治時代には静かな環境が文豪に愛され、夏目漱石なども訪れた。




伊豆文学散歩 

吉田明枝 句碑
俳人吉田明枝は修善寺をこよなく愛した吉田絃二郎(1886~1956)の妻。昭和12年夏に明枝を亡くした絃二郎が建碑した。滞在した菊屋の裏山(鹿山)は二人でよく散策した場所であり、二人が永く眠ることになった場所である。
碑文夜や秋や さびしき風の おとづれや 所在地:伊豆市修善寺 鹿山
吉田 絃二郎は、日本の小説家、随筆家。佐賀県神埼郡西郷村に生まれ、幼時に長崎県佐世保市に移る。本名は吉田源次郎。 佐賀工業学校金工科、早稲田大学文学部英文科を卒業。1915年に早大講師、1924年に同大文学部教授となる(教え子井伏鱒二等)。教職の傍ら詩や小説を多く執筆した。1934年(昭和9年)に早大を退職し作家活動に専念。小説・随筆・評論・児童文学・戯曲と幅広い分野で活躍し、著作集は236冊を数えた。1956年4月21日死去、享年69。
「島の秋」 - 早大在学中に徴兵で赴任した対馬を舞台とした短編小説で、1916年に「早稲田文学」に発表、出世作となる。
「小鳥の来る日」「清作の妻」(二度映画化) 「山はるかに」 - 戦後に執筆した少年少女小説。最終編が絶筆となった。

著書[編集]
『タゴール聖者の生活』天弦堂書房 1915 『生命の微光』大同館書店 1917
『生くる日の限り』大同館書店 1917 『児童説教』吉田源次郎 日曜世界社 1918
『島の秋』大同館書店 1918 『心より心へ』大同館書店 1919

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源氏 伊豆 修善寺 平成29年7月17日(月・祝)

鎌倉幕府は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時ら坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。武家政権による国政は室町幕府・江戸幕府へと継承された。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった

定義
1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍(以下、将軍)に任官して始まったとされているが、2006年頃から、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しているので実質的な成立は1192年より前の1185年とする新説が、マスメディアを中心に紹介され始めた[1][2][3]。また、「日本で初の武家政権」とされたこともあったが、今では平氏政権に次ぐ武家政権と位置づけられている。

源頼朝は武家政権の成立を明確に宣言したわけではないこともあり、後世の研究家の間に鎌倉幕府の成立時期について論議を生んだ。幕府の成立時期については諸説あり、その理由としては、鎌倉幕府がその武家政権としての体制を整えるまでにはいくつかの段階を経ていることがあげられる(後述)。まず1180年(治承4年)に鎌倉の大倉郷に頼朝の邸となる大倉御所が置かれ、また幕府の統治機構の原型ともいうべき侍所が設置されて武家政権の実態が形成された。朝廷は寿永二年十月宣旨(1183年)で頼朝に対し、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した。文治の勅許(1185年)では頼朝へ、与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。そして1190年(建久元年)頼朝が権大納言兼右近衛大将に任じられ、公卿に列し荘園領主の家政機関たる政所開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、さらに征夷大将軍の宣下(1192年)がなされた。特に、壇ノ浦の戦い(1185年)で平氏を滅ぼしたことは決定的であった。こうして鎌倉幕府は鎌倉時代を通じて名実ともに武家政権として成立することとなった。守護の設置で諸国の治安維持を幕府は担当したものの、その支配は限定的であったが次第に範囲を拡大し承久の乱や元寇を経て、得宗家の専制支配が全国的な支配権を確立するに至った。

しかし第16代執権の北条守時の治世に、彼の妹・赤橋登子の婿足利尊氏が裏切り、六波羅探題を攻め落とす。これが発端となり、1333年に新田義貞らの軍が鎌倉に攻め入り、幕府は滅ぼされて幕を閉じた。

鎌倉期の足利家は6代中4代が北条氏正室所生の当主であったことに加え、足利尊氏が開いた室町幕府では、赤橋登子の産んだ足利義詮が室町幕府2代将軍となり、北条家の血脈は室町幕府にも受け継がれた。

諸説
当時、武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではなく、朝廷・公家は関東と呼び、武士からは鎌倉殿、一般からは武家と称されていた。「吾妻鏡」に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念である。武家政権を幕府と称したのは江戸時代後半、幕末になってからのことであり、鎌倉幕府という概念が登場したのは、明治20年以降とされる[4]。以上の理由から、鎌倉幕府の統治機構としての概念、あるいは成立時期というのも後世の、近代歴史学上のとらえ方の問題であり、一応の通説があるとはいえ、統一された見解がないのが現状である。歴史学者の林屋辰三郎は「そもそも幕府というものの本質をいずれに置くのか、歴史学上未確定である」と述べている。
鎌倉幕府をめぐる論争としては、中世における国家という観点から、朝廷と鎌倉幕府の関係を如何にとらえるかという学術上の論争がある。通説では、中世の国家の性格として鎌倉幕府を中心とする在地領主層を基盤とする封建国家、すなわち鎌倉幕府を中心とした国家観が定着しているが、あくまで国家の中心は朝廷であり、公家、寺家、そして武家の権門が相互補完しながら国家を形成していたとする黒田俊雄らの権門体制論、そうではなく西国の朝廷に対して東国に事実上の国家を樹立したとする佐藤進一らの東国国家論がある。
鎌倉幕府の成立時期をめぐっても諸説あり、頼朝が東国支配権を樹立した治承4年(1180年)説、事実上、東国の支配権を承認する寿永二年の宣旨が下された寿永2年(1183年)説、公文所及び問注所を開設した元暦元年(1184年)説、守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(1185年)説、日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)説、頼朝が征夷大将軍に任命された建久3年(1192年)説がある[5]。

統治構造
当初の鎌倉幕府は鎌倉殿を主宰者とする武士を首班とした地方政権であり、支配は東国を中心としており、西国や九州では幕府の力は及んでいたものの弱い面があった。承久の乱後、全国政権へと飛躍し、権力を拡大させたものであるが、そもそも当初から全国政権を志向したわけでなく、あくまで朝廷権力を前提とした地方政権であった。その大きな理由のひとつが鎌倉幕府が荘園公領制を前提とした政権であることである。
地方で土地を私有する武士団の起源は、天平15年(743年)、朝廷が効果的に収税を行うべく発布した墾田永年私財法の施行により土地私有が公認されたことに由来し、古来の豪族や有力農民などが土地を私有するようになったが、国司による厳しい徴税を回避すべく有力地主たちは公卿に土地の一部を寄進し、荘園の荘官(開発領主)としての地位を得たことが契機であった。寄進した貴族の保護は受けるとはいえ、今度は寄進した荘園領主からの取り立てや国司との摩擦、近隣豪族の侵略も絶えず、有力農民たちはいつしか武装するようになり、武士が誕生する。
やがて有力農民たちに由来する武士は、武士団の起源となり、都から派遣された下級貴族や官人層、さらに源氏や平氏など上級貴族を上位の棟梁として仰ぎ、主従関係を結ぶことによって本領安堵を確実なものとした。棟梁の戦に従軍し、新たな領地を与えられることで繁栄の糸口を得たのである[6]。
源頼朝はそうした各地の武士団を統べる貴族の名門中の名門であり、頼朝の鎌倉幕府とは、御家人となった武士に地頭職を授けることで本領安堵を行い、武功により新たな領地を与える新恩給与を行う、まさに荘園公領制を媒介とした、御恩と奉公により武士の利害を代表する政権であったといえる。そして、そうした鎌倉幕府の主な基盤であったのが関東を中心とした東国であったという点であり、鎌倉幕府の政治的基盤及び軍事的・経済的基盤は頼朝が平氏追討などで獲得した関東知行国、関東御領であった。
そして、鎌倉幕府が朝廷権力を前提とした政権であるという二つ目の理由が、鎌倉幕府が律令法制上、様々な存立根拠を満たして成立しているという点である。
もともと伊豆は蛭ヶ小島の流人であった頼朝が平氏追討の兵を挙げる前提となったのは、以仁王の「令旨」正しくは御教書であった。大庭景親をはじめとする関東の平家方武士団を破った頼朝は、治承4年(1180年)、鎌倉に拠点を置き統治を開始するが、この時点ではまだ平将門と変わらない、ごく私的な政権に過ぎなかった。
しかし、寿永2年(1183年)に入り、朝廷は頼朝を平家に敗れて流人となる前の従五位下に復し、頼朝の要望に従い平氏が東国で行った荘園や公領の横領を廃止し、元の国司や荘園領主に帰属させる権限を承認する、いわゆる東国沙汰権を付与した。そしてこの権限の履行のために東国の地方官である国衙を指揮する権能も認められたのである。いわゆる寿永二年十月宣旨である[8]。
さらに、元暦2年(1185年)3月24日には、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼすことに成功した頼朝は朝敵追討の功労者として平家の所有していた荘園、いわゆる平家没官領の支配権を要求して承認され、後に鎌倉殿直轄の荘園、関東御領と呼ばれる所領を獲得した。また、平家滅亡後、頼朝に叛旗を翻した弟・源義経と叔父・源行家が後白河法皇から頼朝追討の院宣を賜ると、頼朝はこれに抗議し、朝廷を頼朝の推薦した公卿を議奏として、議奏をもって朝廷の政治を担当させること、義経・行家追討の院宣を発すること、加えて、その追討のために東国及び畿内に守護及び地頭を置くことを認可し、さらに荘園公領を問わず、反別五升の兵粮米の徴収権を頼朝に与えることを求めた。いわゆる、文治の勅許である[9]。
その後、頼朝は東北に強大な独立勢力を築いていた奥州藤原氏を滅ぼした。建久元年(1190年)11月、上洛を果たした頼朝は征夷大将軍の宣下を望むものの、後白河法皇より拒否され、代わりに権大納言兼右近衛大将に任ぜられた(位階は既に元暦二年(1185年)に従二位に叙され、文治五年(1189年)に正二位に昇叙されていた)。
これによって、三位以上の公卿に認められる、家政機関 政所の設置が公に認められ、それまで頼朝が独自に設置してきた公文所を政所と改め、官職・右近衛大将の略称である右大将に因み、右大将家政所と称した。それまで頼朝個人としての官職復帰や、東国沙汰権を拠り所とした鎌倉の東国政権は、朝廷公認の家政機関としての位置付けを得て、統治機構としての正当性を獲得したのである。建久2年(1191年)1月15日、鎌倉に帰還した頼朝は年頭行事や祝い事など画期に行われる吉書始を行い、右大将家政所を司る四等官として政所別当に大江広元、令に主計允二階堂行政、案主に藤井俊長、知家事に中原光家をそれぞれ任じ、問注所執事に三善善信、侍所別当に和田義盛、侍所所司に梶原景時、公事奉行人に藤原親能他6名、京都守護に外戚で公卿でもある一条能保、鎮西奉行人に内舎人天野遠景を任じ、鎌倉幕府の陣容を固めた。
そして、建久3年(1192年)7月12日、後白河法皇の崩御に伴い、頼朝は朝廷から征夷大将軍を宣下された。この時代おいては名誉職化していたが、戦時において全国の兵馬を動員できる征夷大将軍への任命は、頼朝に非常大権を付与せしめることを意味した[10][11]。それが幕府の主宰者に結果として世襲されていくことによって、鎌倉幕府は次第に朝廷に代わる政権として名実ともに確立されていったのである。

鎌倉幕府は朝廷の公的制度である荘園公領制を前提とし、朝廷から幾重もの権限承認、委譲を受け、成立した政権であるということができる。

歴史 成立[詳細は「治承・寿永の乱」を参照
平安時代末期、平清盛を中心とする平氏政権が成立していたが、旧勢力や対抗勢力には強い反感・抵抗感があった。1177年の鹿ケ谷の陰謀を嚆矢として、反平氏の動きが活発化し、1180年、後白河法皇の皇子以仁王が平氏追討の兵を挙げ、すぐ討ち取られたものの、これを契機に全国的に反平氏を標榜する勢力が立ち上がっていった。
そうした状況の中で、伊豆に流罪となっていた源頼朝は、同年8月に挙兵し石橋山の戦いで敗れたが、逃亡先の安房から上総国・下総国を行軍する間に、関東一円の平氏系の武士団(坂東平氏)らの支持を獲得した。瞬く間に大勢力となった頼朝軍は、同年10月、先祖ゆかりの地である鎌倉へ入り本拠地とした。頼朝は、関東武士団を統率するための侍所を置き、関東武士団の代表=鎌倉殿と称されるようになった。その直後の富士川の戦いで平氏軍に勝利した頼朝は、自分を支持する関東武士団の意向を受け、関東内部の平定・経営に重点を置くこととした。

1183年7月、源義仲が平氏を京都から追放したが、義仲勢力は推戴する北陸宮の天皇即位を迫り、京内で乱暴な行動を重ねた。これを憂慮した後白河法皇は、頼朝へ上洛を求めたが、頼朝は逆に東海道・東山道・北陸道の荘園・公領を元のように国司・本所に返還させる内容の宣旨(寿永二年十月宣旨)の発給を要求した。朝廷は、義仲に配慮して北陸道は除いたものの、頼朝の要求をほぼ認めた。これにより、頼朝は東海・東山両道の支配権を間接的ではあるが獲得した。

こうして、名実ともに東国の支配権を確立していった頼朝は、1184年、行政を担当する公文所(後の政所)と司法を担当する問注所を置いて、政権の実態を形成していった。同時に、頼朝は弟の源範頼・源義経を派遣し、平氏追討に当たらせ、1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、6年に渡る内乱が終結した。

同年、源義経・源行家が頼朝政権の内規に違反したことを契機に、頼朝は両者追討の院宣を後白河法皇から獲得するとともに、両者の追捕を名目に、守護・地頭の任免権を承認させた。これを文治の勅許という。これにより頼朝政権は、全国の軍事権・警察権を掌握したため、この時期をもって幕府成立とする説が有力とされている。守護・地頭には、兵糧米の徴収権、在庁官人の支配権などが与えられ、これは頼朝政権が全国的に在地支配を拡げる契機となった。この時の頼朝政権の在地支配は、まだ従来の権門勢家による支配に優越した訳ではなく、地頭の設置も平氏の旧領(平家没官領)などに限定されていた。

1189年、頼朝政権は、義経を匿ったことを口実として奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼし、対抗しうる武家勢力はいなくなった。頼朝政権は治承の乱から義経追捕、そして奥州合戦へと続く一連の内乱の流れの中で幕府のその基礎を固めることに成功した。このため、「内乱に勝利したから幕府ができたのではなく、幕府ができたので内乱に勝利した」とする評価もある[12]。

1190年、頼朝は常設武官の最高職である右近衛大将に補任されたが、同職には様々な政治的制約も付随していたため、すぐに辞している。1192年、頼朝は征夷大将軍に任命される。征夷大将軍自体は長く任命されていない形骸化した令外官の官職であったが、それまで頼朝が持っていた鎌倉殿としての権威や朝廷から獲得していた様々な政治的・軍事的権限と一体視されていくことで新しい意義を持った官職として後継者に継承されることになった。後に源頼朝は武家政権の始祖として武士に神聖視されることとなる。これにより、鎌倉幕府の形成がひとまず完了することとなる。ただし、1221年の承久の乱での勝利をもって幕府の成立とする見解もある。

以上のように、鎌倉幕府は元々、源頼朝の私的政権に発している。この私的政権は、朝廷から承認されることによって、支配権の正統性を獲得していった。そのため、幕府の支配権の及ぶ範囲は守護の設置などで諸国の軍事・警察権を得たものの、支配は主として頼朝傘下の御家人に限られ、少なくとも承久の乱までは朝廷側勢力(権門勢家)の支配権を侵害しないことを原則としていた。また、幕府機構を見ると、朝廷のそれと大きく異なり、鎌倉殿の家政機関としての性格を色濃く残していた

倉幕府の確立を成し遂げた源頼朝は、1199年(正治元)1月に突然死去した。跡を継いで鎌倉殿となったのは、頼朝の嫡子で当時18歳の源頼家だった。しかし、幕府の有力者たちは、若年の頼家に政務を任せることに不安を抱き、有力御家人が頼家に代わって裁判と政務を執行する十三人の合議制と呼ばれる政治体制を築いた。この合議制の中心にいたのは頼家の外戚にあたる北条氏であり、北条時政・北条義時父子は他の有力御家人を次々と滅ぼしていった(1200年:梶原景時の変、1203年:比企能員の変)。

1203年、重病に陥った頼家は、外祖父時政の手により伊豆の修禅寺へ幽閉され、弟の源実朝が次の鎌倉殿・将軍位に就くと、翌1204年に死亡した。時政ら北条氏の手勢により暗殺されたと伝えられている。時政は、将軍実朝を補佐して執権と呼ばれる地位に就き、政治の実権を握っていった。翌1205年、時政は娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと画策、朝雅と対立する畠山重忠を殺害し、実朝を廃そうとした(畠山重忠の乱)。しかし、時政の子の義時と北条政子はこの動きに反発し、有力御家人と連帯して、時政を引退させるとともに、平賀朝雅を抹殺した(牧氏事件)。

この後、北条義時が執権となり、北条氏権力の確立に努めたが、侍所別当の和田義盛が対抗勢力として現れた。義時は計略をめぐらし、1213年、和田一族を滅ぼした(和田合戦)。このように、武力紛争が絶えない幕府の状況は、1219年(承久元)1月の将軍・源実朝の暗殺という最悪の事態に至る。頼朝の直系が断絶し、困惑した幕府は、朝廷へ親王将軍を要望したが、治天の君・後鳥羽上皇はこれを拒否し、曲折の末、頼朝の遠縁に当たる摂関家の幼児藤原頼経が新将軍=鎌倉殿として迎え入れられた。この後の2代の鎌倉殿は摂家将軍と呼ばれる。こうして幕府の実権は、執権の北条氏が掌握することとなった。

承久の乱詳細は「承久の乱」
後鳥羽上皇は、治天として専制的な政治を指向し、幕府の存在を疎ましく感じていた。実朝の暗殺を幕府の混乱・弱体化と見た後鳥羽は、幕府打倒を計画するようになった。そして、1221年(承久3)5月、後鳥羽は北条義時追討の院宣を発した。それまでの歴史から後鳥羽は、ほどなく義時が討ち取られ、関東武士たちも帰順すると見込んでいたが、幕府側は、頼朝以来の御恩を訴え、御家人の大多数を味方につけた。そして、短期決戦策を採り、2ヶ月も経たないうちに朝廷軍を打ち破った。
幕府側の主導で戦後処理が進められた。主謀者の後鳥羽上皇、そして後鳥羽の系譜の上皇・皇子が流罪に処せられ、仲恭天皇は退位、朝廷側の貴族・武士も多くが死罪とされた。当時の人々は、治天の君をはじめとする朝廷側の上皇・天皇・諸臣が処罰される事態に大きな衝撃を受けた。当時の社会における価値観は正反対に転換した。朝廷の威信は文字どおり地に落ち、幕府は朝廷監視のために六波羅探題を置き、朝廷に対する支配力を強めることとなる。
乱直後、朝廷は、次代の天皇を誰にするかを幕府へ諮った。これ以降、朝廷は治天・天皇を決定する際は必ず幕府の意向を確認するようになり、幕府と朝廷の立場が逆転したことを物語る。

執権政治の確立
北条泰時
1224年に北条義時、1225年に北条政子や大江広元といった幕府創業世代が死去し、義時の子北条泰時が執権となった。泰時は、世代交代期の混乱を防ぐため、叔父の北条時房を執権の補佐役といえる連署に当てるとともに、政治意思決定の合議機関である評定衆を設置し、集団指導体制を布いた。これには、基本的に鎌倉幕府は、鎌倉殿(将軍)と個々の御家人の主従関係によって成り立っているという事情がある。北条氏も鎌倉殿の家来のひとつに過ぎず、数ある御家人の第一人者であっても主君ではなかったのである。

承久の乱後、急増した訴訟事件を公平に処理するため、泰時は明確な裁判基準を定めることとした。これが御成敗式目と呼ばれる法典(武家法)であり、平易で実際的な法令と評価されている。後の室町幕府も、この法令を原則として継承している。また、泰時は、式目制定に当たって、朝廷の司法権を侵害するものでないことを強調している。

こうした泰時の一連の施策は、執権政治の確立と捉えられている。鎌倉幕府は、頼朝以来、鎌倉殿の個人的な資質に依拠するところが大きく、その組織も鎌倉殿の家政機関を発展させただけのものだった。しかし、泰時が確立した集団指導体制・明確な法令による司法体制は、個人的な資質などの不安定な要素に左右されることはなく、安定した政治結果を生み出すものだった。

泰時の孫北条時頼は、泰時の執権政治を継承していった。時頼は、司法制度の充実に力を注ぎ、1249年、裁判の公平化のため、引付衆を設置した。一方で、執権権力の強化にも努めた。1246年、時頼排除を企てた前将軍・藤原頼経と名越光時一派を幕府から追放する(宮騒動)と、1247年には有力御家人である三浦泰村の一族を討滅した(宝治合戦)。1252年、幕府への謀叛に荷担した将軍藤原頼嗣が廃され、代わりに宗尊親王を新将軍として迎えることに成功した。これ以後、親王将軍(宮将軍)が代々迎えられ、親王将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となった。こうして、親王将軍の下で専制を強めていった北条氏は、権力を北条宗家へ集中させていった。時頼は、病のため執権職を北条氏支流の北条長時に譲ったが、実権を握り続けた。これにより政治の実権は執権の地位と乖離していく。北条宗家を当時、得宗(徳宗)と呼んだことから、上記の政治体制を得宗専制という。

元寇[詳細は「元寇」を参照
北条時宗
時頼の死後、得宗の地位を継いだのは子の北条時宗だった。時宗が得宗となった前後の1268年、モンゴル帝国第5代大ハーンのクビライが高麗を通して朝貢を要求してきた。朝廷は対応を幕府へ一任し、幕府は回答しないことを決定、西国の防御を固めることとした。1269年と1271年にもモンゴルから国書が届き、朝廷は返書送付を提案したが、幕府は当初の方針どおり黙殺を選んだ(外交権も幕府が握っていたことを表す)。

モンゴルから国号を改めた元は、1274年(文永11)10月に九州北部を襲撃したが、鎌倉武士の頑強な抵抗に遭ったため(赤坂の戦い・鳥飼潟の戦い)、元軍は夜間に強行撤退し、帰還途中に暴風雨を受けて大損害を被った。これを文永の役という。幕府は朝廷と一体になって、国家鎮護に当たることとし、西国の警固を再強化するとともに、それまで幕府の支配の及ばなかった朝廷側の支配地、本所一円地からの人員・兵粮の調達が認められるようになった。これは幕府権力が全国的に展開する一つの契機となる。さらに幕府は、警固を強化する一方で、逆に大陸に侵攻する計画をたてたが、この計画は途中で頓挫した(第一次高麗征伐計画)。

元は1281年(弘安4)、九州北部を中心に再び日本へ侵攻した。この時は2ヶ月近くにわたる日本軍の頑強な抵抗に遭い(志賀島の戦い・壱岐島の戦い・鷹島沖海戦)、侵攻が停滞していたところに台風により大被害を受ける。さらに日本軍による総攻撃を受けて元軍は壊滅した(御厨海上合戦・鷹島掃蕩戦)。これを弘安の役という。前回の襲来と併せて元寇と呼ぶ。大勝した幕府は直ちに大陸に出兵して、反撃する計画をたてたが、この計画も実行はされなかった(第二次高麗征伐計画)。

この間、時宗は非常事態への迅速な対処を名目として、時間のかかる合議ではなく、一門や側近(御内人という)らと専断で政策決定していった。こうした中で、御内人のトップである内管領が次第に権力を持ち始め、弘安期には内管領の平頼綱と有力御家人の安達泰盛が拮抗していた。泰盛は、時宗の理解も得て、幕府の経済基盤の充実を図るとともに、御家人の地位を保証する政策を実現しようとした。しかし、時宗が1284年に急死すると、翌1285年、平頼綱は泰盛を突如襲撃・殺害し、泰盛派の御家人らを討伐した(霜月騒動)。この事件により、得宗専制が完成したとされる。

この頃、朝廷においては、後嵯峨天皇以後の皇位を巡って大覚寺統と持明院統の2系統に分立して幕府に皇位継承の調整を求めた。幕府は両統迭立原則を示して仲裁にあたるとともに内外の危機に対応するために幕府は朝廷に対しても「徳政」と呼ばれる政治改革を要求した。これを受けて亀山上皇は1286年(弘安9)12月に院評定を徳政沙汰と雑訴沙汰に分割、続いて伏見天皇は1293年(正応6)6月に記録所組織の改革を行って、政治組織の刷新を行って円滑な政務遂行を図った。だが、皇位継承と徳政実施の過程において幕府との対立が表面化するようになり、朝廷内に再び反幕府の動きを潜在化させる遠因となった。

得宗専制の全盛
北条貞時
平頼綱は、時宗を継いだ年少の北条貞時を補佐し、得宗専制の強化に尽力した。元寇防衛に働いた九州御家人の恩賞・訴訟を判定するため、安達泰盛は九州に合議制の奉行(鎮西談議所)を置いていたが、頼綱はそれに代えて、得宗派で固めた新機関(鎮西探題)を設置した。頼綱政権は、この機関を通じて西国の荘園・公領への支配を強めていった。その反面、さらなる元寇の可能性を根拠として、御家人らへの恩賞給与は僅かにとどまった。

1293年、成人した北条貞時は、平頼綱一族を討滅した(平禅門の乱)。貞時は、政治の実権を内管領から取り戻し、実質的な得宗専制を一層強化していった。まず、頼綱政権下で停滞していた訴訟の迅速な処理のため、合議制の引付衆を廃止し、判決を全て貞時が下すこととした。当初、御家人らは訴訟の進行を歓迎したが、ほどなく独裁的な判決への反発が高まった。そして、1297年(永仁5)、大彗星が現れると世相に不安が拡がり、当時の徳政観念に従って、貞時は、財物を元の持ち主へ無償で帰属させる永仁の徳政令を発布した。この徳政令は、当時、普及しつつあった貨幣経済に深刻な影響を与えるとともに、社会に大きな動揺をもたらした。

その後、執権職は貞時に代わって北条氏支流の4人が次々に受け継いだが、貞時は得宗として幕府を実質的に支配し続けた。貞時の時代には、北条一門の知行国が著しく増加した。その一方、一般の御家人層では、異国警固番役や長門警固番役などの新たな負担を抱えるとともに、貨幣経済の普及に十分対応しきれず、分割相続による所領の細分化などもあり、急速に階層分化が進んでいった。中には所領を増加させる御家人もいたが、没落傾向にある御家人も少なくなく、所領を売却したり、質入するなどして失い、幕府への勤仕ができない無足御家人も増加していった。一方で彼らから所領を買収・取得する事でのし上がる者もおり、その中には非御家人も数多く含まれる。こうした無足御家人と、力をつけた非御家人は、悪党化し、社会変動を一層進展させた。そのような中で嘉元3年(1305年)、貞時は北条氏庶家の重臣である連署・北条時村を誅殺し、得宗家の権力をさらに強化しようと図ったが北条氏一門の抵抗を受けて失敗(嘉元の乱)した。乱の後貞時は酒浸りとなって政務を放棄し、北条庶家や御内人らによる寄合衆が幕府を主導し、得宗の地位も将軍同様の装飾的なものとなっていった[14]。

1311年、貞時が死去すると、子の北条高時が跡を継いだ。9歳の高時の補佐役に、平頼綱の一族の長崎高綱(長崎円喜)と、安達一族の生き残りの安達時顕が就いた。当時、悪党と呼ばれる新興勢力が現れ、寺社の強訴が相次いでいたが、長崎高綱・安達時顕が支える得宗政権は、これらの動きに高圧的な姿勢で対処した。

高時は14歳で執権となったが、父の晩年以降得宗の地位は形骸化しており、引き続き長崎高綱・安達時顕らが幕府の実権を握った。高時成人後も、幕府は各地で見られた地域独自の動きを強権的に押さえ込もうとした。これにより高時が執権となってから10年ほどは表面上政権は安定していた。しかし、このような強権的な支配では各地域の動きは抑えられず、次第に矛盾が大きくなっていった。また時宗の介入によって分裂した皇室の大覚寺統・持明院統はさらに大覚寺統内で嫡流の邦良親王(後二条天皇の嫡男)派と本来中継ぎであったはずの後醍醐天皇派に分かれて対立していたが、朝廷の各派はこれらの争いの調停を幕府に求めたため、幕府は朝廷内の争いに巻き込まれていくことになった。

後醍醐天皇の倒幕運動詳細は「元弘の乱」を参照
後醍醐天皇
そこに登場したのが、後醍醐天皇だった。後醍醐は即位すると、天皇を中心とする政治体制の再構築を企てた。こうした後醍醐の姿勢は皇位継承問題をきっかけとして幕府の得宗専制と衝突することとなった。
1324年(正中1)、後醍醐帝の蜂起計画が露呈し、日野資朝・日野俊基など側近の公家が処罰された(正中の変)。
だが、諦めない後醍醐帝は、1331年(元弘1)、倒幕計画を立てたがこれも事前に発覚し、翌年隠岐島へ流された。しかし、これを契機に得宗専制に不満を持つ楠木正成、赤松則村(円心)など各地の悪党と呼ばれる武士が各地で反幕府の兵を挙げるようになる。
1333年(元弘3/正慶2)、反幕府勢力の討伐のために京都へ派遣された有力御家人の足利高氏(尊氏)が北条高家の戦死を見て、一転して後醍醐側へつき、5月7日に六波羅探題を落とした。

滅亡
六波羅陥落の翌日、新田義貞が上野国で挙兵し、150騎だった軍勢は関東御家人の支持を得て数日のうちに大軍となった。これに対し、幕府は北条貞国・北条泰家・長崎高重らを主将に討伐軍を組織し、大軍で以てこれを迎撃させた。だが、彼らは小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦い、関戸の戦いでそれぞれ激戦の末に敗れ、鎌倉へと敗走し、新田勢は鎌倉へと迫った。

北条高時ら一族・家臣が自害した東勝寺址
5月18日、新田義貞は数十万ともいわれる軍勢で鎌倉に対し攻撃を開始し、防戦する幕府軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられた(鎌倉の戦い)。当日、追い詰められた執権の北条守時が自害するなどしたが、地形を利用した幕府軍の激しい抵抗に新田軍は甚大な損害を被った。

5月21日、新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市内になだれ込んだ。両軍は市中において激戦を繰り広げたが、22日までに大仏貞直、金沢貞将など幕府軍の有力武将が相次いで戦死した。観念した北条高時・北条基時・北条貞顕など北条一族283人と、長崎円喜・長崎高資・安達時顕ら家臣870人は菩提寺の東勝寺に集合し、寺に火を放って自害し果てた(東勝寺合戦)。同日、将軍守邦親王は将軍職を退いて出家した。

こうして鎌倉幕府と北条氏一門は滅亡し、鎌倉を陥落させた後醍醐帝は京都へ帰還し親政を開始した(建武の新政)。

都市造営

鎌倉入りと都市造営は、それまで京都の公家たちに従属していた武士の歴史として画期的な意味を持つ。まず、頼朝は居館の建築と、鶴岡八幡宮の整備を行う。鶴岡宮は地勢的にも精神的な位置においても都市鎌倉の中心を占めるものであり、京都における内裏に匹敵するもので、中央から下向した天台宗・真言宗の僧が、供僧として運営の主導権を握っていた。そこでは放生会といった年中行事が整備される一方、それに際し奉納される流鏑馬や笠懸は武家社会を代表する重要行事となった。

新造の武家の都を飾る建設は続き、源義朝の菩提勝長寿院や、中尊寺の二階大堂を模した永福寺、13世紀に入ると寿福寺・東勝寺といった禅宗の寺が次々に建立された。禅宗は特に保護されて、北鎌倉には渡来僧を開山とする建長寺や円覚寺などの巨刹が偉容を示す[15]。

存立原理と幕府機構
御恩と奉公
鎌倉幕府の存立は、武士、特に関東武士団を基盤としていた。これらの武士は、「鎌倉殿」(=将軍)の家人となることで、鎌倉幕府の構成員となった。鎌倉殿の家人になった武士は御家人と呼ばれた。鎌倉殿と御家人の主従関係は、御恩と奉公と呼ばれる互恵関係によって保持された、この制度を御家人制度と呼ぶ。
御恩鎌倉殿が御家人の所領支配を保障し、又は新たな土地給与を行うことを言う。「御恩」には所領支配を保障する本領安堵(ほんりょうあんど)と新たな土地給与である新恩給与(しんおんきゅうよ)の2種類があった。いずれも御家人を地頭へ任命するという形で行われた。奉公御家人が鎌倉殿に対して負担する軍役・経済負担などを言う。具体的には、「いざ鎌倉」などに代表される緊急時の軍役、内裏の警護である京都大番役、幕府の警護である鎌倉番役、後の元寇の頃には異国警固番役や長門警固番役という形で行われ、また関東御公事と言われる経済負担もあった。
以上のように、相互に利益を享受することで、両者は結ばれていた。主従の契約は、御家人が鎌倉殿へ見参した際の名簿差出(みょうぶさしだし)によって行われ、幕府は御家人名簿により御家人を管理した。

経済基盤[編集]

鎌倉幕府は、以下のような独自の経済基盤を有していた。
関東御成敗地 - 将軍家が地頭任免権を持つ国・荘園・国衙領
関東御領 - 将軍が本所である荘園
関東御分国 - 将軍に与えられた知行国
関東進止所領 - 将軍が地頭を任免できる荘園・国衙領
関東御口入地 - 将軍が地頭職を推薦、斡旋できる荘園、国衙領

職制
征夷大将軍(鎌倉殿)鎌倉幕府の長。初代頼朝の時は実質的にトップだったが、その後形骸化していく。執権鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の補佐役。次第に将軍の権限を吸収していき、事実上の鎌倉幕府のトップとなり北条氏が世襲したが、後半になると北条得宗家の当主が執権職を一族の人物に譲った後も得宗家当主が実権を掌握し続けるようになった。連署執権に次ぐ、もしくは執権に並ぶ役職。評定衆幕府の政策意思決定の最高合議機関。得宗専制が進むと軽視されるようになる。寄合衆元々は得宗家当主の私的な会議であったが、得宗専制が進むと実質的に評定衆に代わる最高意思決定機関となった。引付衆幕府へ提訴された訴訟の審理を担当した。審理結果は評定衆へ上申され、評定衆が裁定した。侍所御家人の統率を所管した。政所頼朝の家政機関に端を発し、幕府の一般政務・財政を所管した。問注所幕府へ提訴される訴訟に関する実務を担当した。守護地頭京都守護 → 六波羅探題元は朝廷との連絡調整が任務だったが、承久の乱以後の六波羅探題は、朝廷の監視・西国御家人の統率が任務となった。鎮西奉行→鎮西探題詳細は鎮西奉行、鎮西探題を参照。奥州総奉行蝦夷沙汰職・蝦夷代官
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源 頼朝とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。
河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。

これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。

頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった


出生跡地にある誓願寺と誕生旧地碑
久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)[1][2][3][4][5]の熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸(現誓願寺)にて生まれる。幼名は鬼武者、または鬼武丸[6]。母は季範の娘・由良御前。

父・義朝は清和天皇を祖とし、河内国を本拠地として源頼信、源頼義、源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の流れを汲む武士である[7]。 義朝は保元元年(1156年)の保元の乱で、平清盛らと共に後白河天皇に従って勝利した。頼朝は保元3年(1158年)に後白河天皇准母として立后した統子内親王の皇后宮権少進となり、平治元年(1159年)2月に統子内親王が院号宣下を受けると、上西門院蔵人に補された。上西門院殿上始において頼朝は徳大寺実定、平清盛といった殿上人が集う中で、坊門信隆、吉田経房らとともに献盃役をつとめている[8]。また同年1月には右近衛将監に、6月には二条天皇の蔵人にも補任されている。長兄の義平は無官とみられ、先に任官していた次兄の朝長よりも昇進が早いことから、母親の家柄が高い頼朝が実質的に義朝の後継者として待遇されていたと考えられる。

平治の乱詳細は「平治の乱」を参照
保元の乱の後、二条天皇親政派と後白河院政派の争い、急速に勢力を伸ばした信西への反感などがあり、都の政局は流動的であった。頼朝の父・義朝は平治元年(1159年)12月9日、後白河上皇の近臣である藤原信頼が首謀者となった平治の乱に加わり三条殿焼き討ちを決行した。襲撃後の除目で、13歳の頼朝は右兵衛権佐へ任ぜられるが[注釈 1]、二条天皇側近らの画策で天皇は六波羅の平清盛邸へと移り、27日、官軍となった平氏が賊軍となった信頼らのいる大内裏へと攻め寄せた。この戦いで義朝軍は敗れ、一門は官職を剥奪され京を落ちた。

近畿から東海地方の地図
義朝に従う頼朝ら8騎は、本拠の東国を目指すが頼朝は途中で一行とはぐれ、平頼盛の家人・平宗清に捕らえられる。父・義朝は尾張国にて長田忠致に謀殺され、長兄・義平は都に潜伏していたところ捕らえられて処刑、次兄・朝長は逃亡中の負傷が元で命を落とした[注釈 2]。 永暦元年(1160年)2月9日、京・六波羅へ送られた頼朝[9]の処罰は死刑が当然視されていたが、清盛の継母・池禅尼の嘆願などにより死一等を減ぜられて伊豆に流刑となった[注釈 3]。 頼朝は3月11日に伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)[注釈 4]へと流された。なお同日、平治の乱に関った大炊御門経宗、葉室惟方や頼朝の同母弟・源希義も流刑に処されている[9]。

伊豆の流人蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市四日町)伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っていない

流人とはいえ、比較的安定した自由な生活をしていたと思われる[10]。また、その頃三浦半島から房総半島までを行き来していたという[10]。周辺には比企尼の婿である安達盛長が側近として仕え、源氏方に従ったため所領を失って放浪中の佐々木定綱ら四兄弟が従者として奉仕した。この地方の霊山である箱根権現、走湯権現に深く帰依して読経をおこたらず、亡父・義朝や源氏一門を弔いながら、一地方武士として日々を送っていた。そんな中でも乳母の甥・三善康信から定期的に京都の情報を得ている[11]。また、武芸の一環である巻狩りにもたびたび参加していた[注釈 6]事が知られており、『曾我物語』には工藤祐経が河津祐泰を殺害したことで知られる安元2年(1176年)10月の奥野の巻狩りにも参加する頼朝の姿が描かれるなど、頼朝の立場は流人であったとは言え、伊豆およびその周辺では「名士」として遇されていたとみられる]。
なお、この流刑になっている間に伊豆の豪族・北条時政の長女である政子と婚姻関係を結び長女・大姫をもうけている。この婚姻の時期は大姫の生年から治承元年頃のことであると推定されている。
なお、フィクション性が高いとされる『曽我物語』には次のような記載がある。 仁安2年(1167年)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されている。祐親が在京の間に頼朝がその三女・八重姫と通じて子・千鶴丸を成すと、祐親は激怒し平氏への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨て、八重姫を江間小四郎[注釈 7]に嫁がせる一方で頼朝を討たんと企てた。祐親の次男・伊東祐清からそれを聞いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。
また、政子との婚姻に関しては『源平盛衰記』に次のような逸話がある。 頼朝と政子の結婚に反対する時政は、山木兼隆に嫁がせるべく政子を兼隆の下に送るが、政子はその夜の内婚礼の場から抜け出した。しかし、頼朝の妻となった政子と山木兼隆との婚儀については、兼隆の伊豆配流が1179年であり、長女大姫が1178年に誕生している事から物語上の創作と思われる [13]。

挙兵[詳細は「治承・寿永の乱」を参照
伊豆地方の地図
治承4年(1180年)、後白河法皇の皇子である以仁王が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発した。4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父・源行家より令旨が届けられる。以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死するが、頼朝は動かずしばらく事態を静観していた。しかし平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、自身が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意すると、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけた[注釈 8][注釈 9]。

最初の標的は伊豆国目代・山木兼隆と定められ、治承4年(1180年)8月17日、頼朝の命で北条時政らが韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃して兼隆を討ち取った。

伊豆を制圧した頼朝は相模国土肥郷へ向かう。従った者は北条義時、工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであり、三浦義澄、和田義盛らの三浦一族が頼朝に参じるべく三浦を発した。三浦軍との合流前の23日に石橋山の戦いで、頼朝軍三百騎は平氏方の大庭景親、渋谷重国、熊谷直実、山内首藤経俊、伊東祐親ら三千余騎と戦って敗北し、土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた[注釈 11]。数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、8月28日に真鶴岬から船で安房国へ脱出した。

関東平定
鶴岡八幡宮本殿
治承4年(1180年)8月29日、安房国平北郡猟島へ上陸した頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤に加勢を要請すべく使者を派遣、東京湾沿いを南下し洲崎明神に参詣する。 そして使者が帰参し、9月13日に安房国を出て上総国に赴く。その後、同月17日に下総国に向かい下総国府で千葉一族と合流、19日には広常が大軍を率いて参上し、上総・千葉両氏の支持を受けた頼朝は、10月2日太井・隅田の両河を渡る[注釈 13]。 武蔵国に入ると葛西清重、足立遠元に加え、一度は敵対した畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも従える。10月6日、かつて父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉へ入り、大倉の地に居宅となる大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。また先祖の源頼義が京都郊外の石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮を北の山麓に移す[14]など整備を続け、鎌倉は後の鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げる事となる。

伊豆・関東地方の地図
10月16日、平維盛率いる追討軍が駿河国へと達すると、これを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に黄瀬川で武田信義、北条時政らが率いる2万騎と合流する。20日、富士川の戦いで維盛軍と対峙するが、撤退の最中に水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛軍は潰走し、頼朝軍はほとんど戦わずして勝利を得た[注釈 14]。翌日には上洛を志すが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らは常陸国の佐竹氏が未だ従わず、まず東国を平定すべきであると諌め、頼朝はこれを受け容れ黄瀬川に兵をかえした。この日、奥州の藤原秀衡を頼っていた異母弟・源義経が参じている[11]。
帰途、相模国府で初めての勲功の賞を行い、捕えた大庭景親を処刑する。次いで佐竹秀義を討つべく鎌倉を発し、11月4日に常陸国府へと至った。戦いは上総広常の活躍により秀義を逃亡させ終わった(金砂城の戦い)。頼朝は秀義の所領を勲功の賞に充て、鎌倉へ戻ると和田義盛を侍所の別当に補す。侍所は後の鎌倉幕府で軍事と警察を担う事となる[11]。

頼朝寄進江島神社奥津宮鳥居
治承4年(1180年)末までに、四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏が挙兵して全国各地は動乱状態となった[15]。平氏も福原から京都に都を戻して反撃に転じ、近江源氏や南都寺社勢力を制圧する。養和元年(1181年)に入ると、肥後国の菊池隆直、尾張国に拠る源行家、美濃国の美濃源氏一党なども平氏打倒の兵を挙げ、反平氏の活動はより一層活発化した。その混乱のさなか閏2月4日、平清盛が熱病で世を去った[注釈 15]。全国的な反乱が続く中、平氏は平重衡を総大将として尾張以東の東国征伐に向かう。重衡は行家らを墨俣川の戦いにて打ち破り、美濃・尾張は平氏の勢力下に入った。頼朝は和田義盛を遠江に派遣するが、平氏はそれ以上は東に兵を進めず都に戻った。
7月頃、頼朝は後白河法皇に朝廷に対する謀反の心はなく、平氏と和睦しても構わないという趣旨の書状を送るが、清盛の後継者である平宗盛は清盛の遺言を理由にその和平提案を拒否した[15]。宗盛は奥州の藤原秀衡を陸奥守に任じて頼朝の牽制を期待し[15]、攻撃の矛先を横田河原の戦い以降活発化した北陸の反乱勢力に向けた[15]。頼朝がこの時期に平氏と直接対峙することはなかったが、遠江国では甲斐源氏の安田義定が独立的立場をとっており、奥州藤原氏の動向も定かでなく、坂東で身動きのとれない状態が続いた。翌年の寿永元年(1182年)からは養和の飢饉により両軍は軍事行動を行なうことができず膠着状態となった。その年、頼朝は伊勢神宮に平氏打倒の願文を奉じ、藤原秀衡の調伏を祈願すると江ノ島に弁才天を勧請する[11]。また同年8月に妻・政子が嫡男の源頼家を出産している[注釈 16]。
寿永2年(1183年)2月、常陸に住む叔父・源義広が、足利忠綱らとともに21日に鎌倉を攻めるべく兵を挙げた。この頃、主な御家人らは平氏の襲来に備え駿河国に在ったため、対応に苦慮した頼朝は小山朝政らに迎撃を託し、自らは鶴岡八幡宮で東西の戦いの静謐を祈る。朝政らは野木宮合戦で義広らを破り、頼朝の異母弟である源範頼らが残敵を掃討した[11]。これにより関東で頼朝に敵対する勢力は無くなった[17]。

義仲との戦い
寿永2年(1183年)春、以仁王の令旨を受けて挙兵していた源義仲が、頼朝に追われた叔父の義広・行家を庇護した事により、頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。両者の話し合いで義仲の嫡子・義高を頼朝の長女・大姫の婿として鎌倉に送る事で和議が成立した[注釈 17]。
義仲は平氏との戦いに勝利を続け、7月に平氏一門を都から追い落とした。大軍を率いて入京した義仲は後白河法皇から平氏追討の命を得るが、寄せ集めである義仲の軍勢は統制が取れておらず、飢饉に苦しむ都の食糧事情を悪化させ、また皇位継承に介入した事により院や廷臣たちの反感を買った[15]。朝廷と京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇は義仲を西国の平氏追討に向かわせ、代わって頼朝に上洛を要請する。10月7日、頼朝は藤原秀衡と佐竹秀義に鎌倉を攻められる恐れがあること、数万騎を率い入洛すれば京がもたないことの二点を理由に、使者を返して要請を断った。10月9日に朝廷は平治の乱で止めた頼朝の位階を復し、14日には東海道と東山道の所領を元の本所に戻してその地域の年貢・官物を頼朝が進上し、命令に従わぬ者の沙汰を頼朝が行なうという内容の宣旨を下した(寿永二年十月宣旨)[15]。頼朝は既に実力で制圧していた地域の所領の収公や御家人の賞与罰則をおこなっていたが、それは朝廷からみれば非公式なものであった。寿永二年十月宣旨により、当初「反乱軍」と見なされていた頼朝率いる鎌倉政権は朝廷から公式に認められる勢力となった。同年12月、東国自立を主張する上総広常が頼朝の命令で梶原景時に誅殺されている。

閏10月15日、頼朝の上洛を恐れる義仲は、平氏追討の戦いに敗れると京に戻り、頼朝追討の命を望むが許されず、11月には頼朝が送った源義経率いる軍が近江国へと至る。平氏と義経に挟まれた義仲は、法住寺合戦で後白河法皇を拘束して頼朝追討の宣旨を引き出し、寿永3年(1184年)1月には征東大将軍に任ぜられた。20日に源範頼と義経は数万騎を率いて京に向かい、義仲は粟津の戦いで討たれた。

頼朝は鎌倉に在った義高の殺害を企て、これを大姫が義高に伝えると、4月21日に義高は女房に扮し鎌倉を逃れた。頼朝は怒って堀親家に命じて追手を差し向け、24日に武蔵国入間川原で義高を討った。大姫は嘆き悲しみ、憤った母の政子は義高を討った家人を梟首するが、大姫はその後も憔悴を深め、後にわずか20歳で亡くなる事となる。ほぼ同時期に甲斐源氏の一条忠頼が鎌倉に於いて、頼朝の命令で天野遠景に殺害されている。

平氏追討
義仲を討った範頼と義経は、平氏を追討すべく京を発つ。元暦元年(1184年)2月7日、摂津国一ノ谷の戦いで勝利を収め、平重衡を捕えて京に戻った[15][11]。この戦いの後、頼朝は義経を自らの代官として都に残し、義経の差配のもと畿内の武士たちの掌握を図る一方、四国に逃れた平氏を追討すべく九州・四国の武士に平氏追討を求める書状を下して、土肥実平や梶原景時を山陽諸国に派遣した。

6月5日の除目で、平頼盛が還任[注釈 18]、一条能保(姉または妹婿)、範頼、源広綱、平賀義信が国司となった[11][注釈 19]。 8月8日に範頼を大将とする平氏追討軍が鎌倉から出陣した。従わせた家人は北条義時、足利義兼、千葉常胤、三浦義澄、結城朝光、比企能員、和田義盛、天野遠景らである。頼朝は範頼に対し京への駐留を禁じており、追討軍は27日に京へ入ると29日に平氏追討使の官符を賜い、9月1日には西海へと赴いた[11]。

10月6日、公文所を開き大江広元を別当に任じる。公文所は後に政所と名を改め、後の鎌倉幕府における政務と財政を司る事となる[11]。20日には訴訟を司る問注所を開き、三善康信を執事とする[11]。この時期になると二階堂行政、平盛時ら中下級の有能な官人達が才能を発揮する場を求めて鎌倉に下向するようになり、彼らが幕府初期官僚組織を形成する。

文治元年(1185年)1月6日、西海の範頼から兵糧と船の不足、関東への帰還を望む東国武士達の不和など窮状を訴える書状が届く。頼朝は安徳天皇や建礼門院の無事のため、軍を動かさず九州の武士からくれぐれも反感を得ぬ様に記した書状を出し、九州の武士には、範頼に従い平氏を討つ事を求めた[11]。この状況をみた義経は後白河法皇に西国出陣を奏上してその許可を得ると[注釈 20]、10日に讃岐国屋島に向けて出陣し、19日の屋島の戦いで平氏を海上へと追いやった。26日、九州の武士から兵糧と船を得た範頼は、周防国から豊後国へと渡る。3月24日の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、4月27日に頼朝は平宗盛を捕らえた功により、従二位へ昇った。

義経追放

文治元年(1185年)4月、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、義経を弾劾した書状が届く[注釈 21]。 4月15日、頼朝は内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士ら[注釈 22]の任官を罵り東国への帰還を禁じる[注釈 23]が、同じく任官を受けた義経には咎めを与えなかった。景時の書状の他にも、範頼の管轄への越権行為、配下の東国武士達への勝手な処罰など義経の専横を訴える報告が入り、5月、御家人達に義経に従ってはならないという命が出された。その頃、義経は平宗盛父子を伴い相模国に凱旋する。頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れる。腰越に留まる義経は、許しを請う腰越状を送るが、頼朝は宗盛との面会を終えると、義経を鎌倉に入れぬまま、6月9日に宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じる。義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と言い放つ。これを聞いた頼朝は、義経の所領を全て没収した[11][注釈 24]。

義経が近江国で宗盛父子を斬首。重衡を自身が焼き討ちにした東大寺へ送ると、8月4日、頼朝は叔父・行家の追討を佐々木定綱に命じた。9月に入り京の義経の様子を探るべく梶原景季を遣わすと、義経は痩せ衰えた体で景季の前に現れ、行家追討の要請に、自身の病と行家が同じ源氏である事を理由に断った。10月、鎌倉に戻った景季からの報告を受けた頼朝は、義経と行家が通じていると断じ、義経を誅するべく家人の土佐坊昌俊を京に送る。対して義経は、頼朝追討の勅許を後白河法皇に求めた。10月17日、頼朝の命を受けた土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲ったが、応戦する義経に行家が加勢して襲撃は失敗に終わる。義経は土佐坊が頼朝の命で送られたことを確かめ、頼朝追討の宣旨を再び朝廷に求め、後白河法皇はその圧力に負け義経に宣旨を下した。10月24日、頼朝は源氏一門や多くの御家人を集め、父・義朝の菩提寺・勝長寿院落成供養を行った。その日の夜、朝廷の頼朝追討宣旨に対抗し御家人達に即時上洛の命を出すが、その時鎌倉に集まっていた2,098人の武士のうち、命に応じた者はわずか58人であった。頼朝は自らの出陣を決め、行家と義経を討つべく29日に鎌倉を発つと、11月1日に駿河国黄瀬川に着陣した。義経は頼朝追討の兵が集まらず、11月3日、郎党や行家と共に戦わずして京を落ちた。海路西国を目指すも途上暴風雨に会い、船団は難破、一行は散り散りになり、義経は行方をくらませ、妾の静御前が吉野山で捕らえられている。なお義経を九州に迎えようと岡城を築いていた豊後国の緒方惟栄は上野国沼田に配流され、豊後国は一時関東御分国となった。

天下の草創
11月8日、頼朝は都へ使者を送ると、黄瀬川を発って鎌倉へ戻る。11月上旬、義経・行家と入れ替わるように上洛した東国武士の態度は強硬で、院分国の播磨国では法皇の代官を追い出して倉庫群を封印している。11日、頼朝の怒りに狼狽した朝廷は、義経・行家追捕の院宣を諸国に下した[注釈 25]。 12日、大江広元は処置を考える頼朝に対して「守護・地頭の設置」を進言した。これに賛同した頼朝は、周章する朝廷に対し強硬な態度を示して圧力をかける[注釈 26]。
24日に北条時政は頼朝の代官として千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った[注釈 27]。 28日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕のためとして「守護・地頭の設置」を認めさせる事に成功する(文治の勅許)。12月には「天下の草創」と強調して、院近臣の解官、議奏公卿による朝政の運営、九条兼実への内覧宣下といった3ヵ条の廟堂改革要求を突きつける(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』12月27日条)。議奏公卿は必ずしも親鎌倉派という陣容ではなく、院近臣も後に法皇の宥免要請により復権したため、頼朝の意図が貫徹したとは言い難いが、兼実を内覧に据えることで院の恣意的な行動を抑制する効果はあった。
文治2年(1186年)3月には法皇の寵愛深い摂政の近衛基通を辞任させ、代わって兼実を摂政に任命させる。4月頃から義経が京都周辺に出没している風聞が飛び交い、頼朝は貴族・院が陰で操っている事を察して憤る。5月12日には和泉国に潜んでいた源行家を討ち取った。頼朝は捜査の実行によって義経を匿う寺院勢力に威圧を加え、彼らの行動を制限した。その間に発見された義経の腹心の郎党たちを逮捕・殺害すると、院近臣と義経が通じている確証を上げる。11月、頼朝は「義経を逮捕できない原因は朝廷にある。義経を匿ったり義経に同意しているものがいる」と朝廷に強硬な申し入れを行なった。朝廷は重ねて義経追捕の院宣を出すと、各寺院で逮捕のための祈祷を大規模に行う事になった。京都に見捨てられた義経は、奥州に逃れ藤原秀衡の庇護を受ける事となった。

頼朝は、諸国から争いの訴えなどを多く受ける様になり、また平重衡によって焼かれた東大寺の再建工事なども手がけた。

奥州合戦詳細は「奥州合戦」を参照
平氏討滅後の頼朝にとって、鎌倉政権を安定させるためには、潜在的脅威である奥州藤原氏を打倒する必要があった。文治2年(1186年)4月には藤原秀衡に「秀衡は奥六郡の主、自分は東海道の惣官である。水魚の交わりをなすべきである。都に送る馬や金は鎌倉で管領して伝送しよう」という書状を送りつけて威嚇している。

文治3年(1187年)10月に藤原秀衡が没し、文治4年(1188年)2月に義経の奥州潜伏が発覚すると、頼朝は藤原秀衡の子息に義経追討宣旨を下すよう朝廷に奏上した。頼朝の申請を受けて朝廷は、2月と10月に藤原基成・泰衡に義経追討宣旨を下す。文治5年(1189年)閏4月30日、鎌倉方の圧力に屈した泰衡は衣川館に住む義経を襲撃して自害へと追いやった。

6月13日に義経の首が鎌倉に届き、和田義盛と梶原景時が実検した。25日、頼朝はこれまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討宣旨を朝廷に求めるが勅許は下されず、大庭景義の「軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」という進言により、7月19日、勅許を待たずおよそ1,000騎を率いて鎌倉を発して泰衡追討に向かった(奥州合戦)。頼朝軍はさしたる抵抗も受けずに白河関から奥州南部を進み、8月7日には伊達郡国見駅に達した。

陸奥(東北地方太平洋側)
8月8日石那坂の戦い(現在の福島市飯坂)で、頼朝の別働隊伊佐為宗が信夫庄司佐藤基治(佐藤継信・佐藤忠信の父)を打ち破り、8月8日から10日にかけて行なわれた阿津賀志山の戦いにおいて藤原国衡率いる奥州軍を破った頼朝は、泰衡を追って北上する。22日には平泉を攻略するが、泰衡は館に火を放って逃亡していた。26日、頼朝の宿所に赦免を求める泰衡の書状が投げ込まれたが、頼朝はこれを無視して、9月2日には岩井郡厨河(現盛岡市厨川)へ向けて進軍を開始する。厨河柵はかつて前九年の役で源頼義が安倍貞任らを討った地であり、頼朝はその佳例に倣い、厨河柵での泰衡討伐を望んだのである。9月3日、泰衡はその郎従である河田次郎の裏切りにより討たれ、その首は6日に陣岡にいた頼朝へ届けられた。頼朝は河田次郎を八虐の罪に値するとして斬罪に処し、前九年の役で祖先の源頼義が安倍貞任の首を晒した故事に倣って泰衡の首を晒した。9日、京都の一条能保から7月19日付の泰衡追討宣旨が頼朝の下へ届いた。
12日、頼朝は陣岡を出て厨河柵に入り、19日まで逗留して降人の赦免や奥州藤原氏の建立した中尊寺、毛越寺、宇治平等院を模した無量光院の寺領安堵などの処理を行った。平泉に戻って諸寺を巡り感銘を受けた頼朝は、鎌倉に戻った後に中尊寺境内の大長寿院に模した永福寺を建立している。22日、頼朝は奥州支配体制を固めるため葛西清重を奥州総奉行に任命すると、28日に平泉を発ち、10月24日に鎌倉へ帰着した。
この奥州合戦には関東のみならず、全国各地の武士が動員された。また、かつて敵対して捕虜となった者に対しても、この合戦に従って戦功を上げるという挽回の機会も与えられていた。さらに、前九年の役の源頼義の先例を随時持ち出すことによって、坂東の武士達と頼朝との主従関係をさらに強固にする役割も果たした。
この奥州合戦の終了で治承4年(1180年)から続いていた内乱も終結を迎えることになる。

征夷大将軍
文治5年(1189年)11月3日、朝廷より奥州征伐を称える書状が下り、頼朝は按察使への任官を打診され、さらに勲功の有った御家人の推挙を促されるが、頼朝は辞退した。奥州では、大河兼任の乱が勃発するが、足利義兼や千葉胤正らに出陣を命じ、文治6年(1190年)3月に大河兼任は討取られた。伊沢家景を陸奥国留守職に任命し、在庁官人を指揮させ、奥州への支配を強化した。建久元年(1190年)10月3日、頼朝は遂に上洛すべく鎌倉を発つ。平治の乱で父が討たれた尾張国野間、父兄が留まった美濃国青墓などを経て、11月7日に千余騎の御家人を率いて入京し、かつて平清盛が住んだ六波羅に建てた新邸に入った。

9日、後白河法皇に拝謁し、長時間余人を交えず会談した。頼朝が熱心に希望していた征夷大将軍には任官できず[注釈 28]、代わりに権大納言・右近衛大将に任じられたが、12月3日に両官を辞した。任命された官職を直ちに辞任した背景としては、両官ともに京都の朝廷における公事の運営上重要な地位にあり、公事への参加義務を有する両官を辞任しない限り鎌倉に戻る事が困難になると判断したとみられている[18]。9日の夜、頼朝は九条兼実と面会して「今は法皇が天下の政を執り天子は春宮のような状態ですが、天下はいずれ立て直すことができるでしょう。当今は幼年ですし、あなたも余算はなお遙かです。私も運があれば、政は必ず淳素に帰るに違いありません。また父の義朝は反逆により身を滅ぼしましたが、本心は忠誠を旨としており、父の忠を空しくしないため私は朝廷の大将軍になったのです」と述べている。頼朝の在京はおよそ40日間だったが後白河院との対面は8回を数え、双方のわだかまりを払拭して朝幕関係に新たな局面を切り開いた。義経と行家の捜索・逮捕の目的で保持していた日本国総追補使・総地頭の地位は、より一般的な治安警察権を行使する恒久的なものに切り替わり、翌年3月22日の建久新制で頼朝の諸国守護権が公式に認められた。12月14日、頼朝は京都を去り29日に鎌倉に戻った。

建久3年(1192年)3月に後白河法皇が崩御し、同年7月12日、頼朝は征夷大将軍に任ぜられた[注釈 29]。 一般的には将軍就任によって鎌倉幕府が成立したとされる。

晩年
建久4年(1193年)5月、御家人を集め駿河国で巻狩を行う(富士の巻狩り)。16日、この巻狩において12歳の頼家が初めて鹿を射止めた。この後狩りは中止され、晩になって山神・矢口の祭りが執り行われた。また、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ったが、政子は武将の嫡子なら当たり前の事であると使者を追い返した。これについては、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈もなされている。[19]28日の夜に御家人の工藤祐経が曾我兄弟の仇討ちに遭い討たれる。宿場は一時混乱へと陥り、頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に伝わると、源範頼は嘆く政子に対し「範頼左て候へば御代は何事か候べきと」と慰めた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。8月2日、頼朝の元に謀反を否定する起請文が届くが、「源」の氏名を使った事に激怒した。8月10日、頼朝の寝床に潜んでいた範頼の間者が捕縛される。これにより範頼は伊豆へ流された。建久5年(1194年)には甲斐源氏の安田義定を誅している。建久6年(1195年)3月、摂津国の住吉大社において幕府御家人を集めて大規模な流鏑馬を催す。建久8年(1197年)には、薩摩国や大隅国などで大田文を作成させ、地方支配の強化を目指している。
建久6年(1195年)2月、頼朝は東大寺再建供養に出席するため、政子と頼家・大姫ら子女達を伴って再び上洛した。長女・大姫を後鳥羽天皇の妃にすべく、娘・任子を入内させている九条兼実ではなく土御門通親や丹後局と接触し、大量の贈り物や莫大な荘園の安堵などを行って朝廷工作を図った。建久7年(1196年)11月、兼実は一族と共に失脚、頼朝はこれを黙認したとされる(建久七年の政変)。しかし建久8年(1197年)7月、入内計画は大姫の死により頓挫した。建久9年(1198年)正月、頼朝の反対を無視して後鳥羽天皇は通親の養女が生んだ土御門天皇に譲位して上皇となり、通親は天皇の外戚として権勢を強めた。頼朝は朝廷における代弁者であった一条能保・高能父子が相次いで病死したこともあり、遅ればせながら危機感を抱いて兼実に書状を送り再度の提携を申し入れ、次女・三幡姫の入内と朝幕関係の再構築を目指した。三幡は女御の宣旨を受けるが、建久9年(1198年)12月27日、頼朝は相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。原因は落馬と言われるが定かではない。建久10年(1199年)1月11日に出家。13日に死去した。享年53(満51歳没)。

年表年月日は出典が用いる暦であり、当時は宣明暦が用いられている
西暦は元日を宣明暦に変更している

久安3年 1147年 4月8日 生誕(数え年1歳)
保元3年 1158年 2月3日 皇后宮少進(12歳) 公卿補任
平治元年 1159年 1月29日 右近衛将監兼任 公卿補任
2月13日 上西門院蔵人補任。皇后宮少進を止む。 公卿補任
3月1日 母の死により服解 公卿補任
6月28日 蔵人(二条天皇)補任。 公卿補任
12月9~26日 平治の乱 百錬抄
平治物語
12月14日 従五位下右兵衛権佐に叙位転任。 公卿補任
12月28日 解官 公卿補任
永暦元年 1160年 3月11日 伊豆国へ配流(14歳) 清?眼抄
不詳 不詳 不詳 伊東祐親三女・八重姫との間に千鶴丸を成すが祐親に殺される 曽我物語
安元3年? 1177年頃 不詳 北条時政長女・政子と結婚 吾妻鏡
尊卑分脈
治承4年 1180年 4月27日 以仁王令旨を受ける(34歳) 吾妻鏡
8月17日 配所の伊豆で挙兵、平兼隆を討つ 吾妻鏡
8月23日 石橋山の戦い 吾妻鏡
8月29日 安房国へと逃れる 吾妻鏡
9月5日 叛逆として追討の宣旨を受ける 玉葉
9月29日 2万7,000余騎が従い集まる 吾妻鏡
10月7日 鎌倉入府 吾妻鏡
10月20日 富士川の戦い 吾妻鏡
10月21日 末弟・源義経が参じる 吾妻鏡
11月5日 常陸国の佐竹秀義を破る 吾妻鏡
11月7日 重ねて追討の宣旨を受ける 吾妻鏡
11月17日 和田義盛を侍所別当に補す 吾妻鏡
養和元年 1181年 閏2月4日 平清盛薨去(35歳) 玉葉
寿永元年 1182年 8月12日 嫡男・頼家誕生(36歳) 吾妻鏡
寿永2年 1183年 2月23日 野木宮合戦で叔父・源義広を討伐(37歳) 吾妻鏡
春 源義仲と信濃国で対峙し、義仲の長男・源義高を人質とする 平家物語
7月28日 義仲と源行家が入京 玉葉
9月 義仲追討令を受ける 玉葉
10月9日 従五位下に復位 公卿補任
10月14日 寿永二年十月宣旨 百錬抄、玉葉
元暦元年 1184年 1月20日 宇治川の戦い、義仲を討つ(38歳) 吾妻鏡
2月7日 一ノ谷の戦い 吾妻鏡
3月27日 正四位下に昇叙 吾妻鏡
4月 鎌倉から逃れた源義高を誅殺 吾妻鏡
10月6日 大江広元を別当とし公文所を開く 吾妻鏡
10月20日 三善康信を執事とし問注所を開く 吾妻鏡
文治元年 1185年 2月19日 屋島の戦い(39歳) 吾妻鏡
3月24日 壇ノ浦の戦いにて平氏滅亡 吾妻鏡
4月15日 内挙を得ずに官位を得た関東の御家人を追放する 吾妻鏡
4月27日 従二位へ昇叙 吾妻鏡
5月15日 義経が平宗盛と清宗父子を伴い鎌倉近くに帰参するが、義経は鎌倉外に留める 吾妻鏡
5月16日 宗盛、清宗と面会 吾妻鏡
6月9日 義経を鎌倉に入れぬまま、宗盛と清宗を伴わせ京に戻す 吾妻鏡
10月17日 六十余騎で京の義経邸を襲う 吾妻鏡
10月18日 義経と行家に頼朝追討令が下る 玉葉
10月25日 義経を討つべく軍を発する 吾妻鏡
11月3日 義経と行家を京より追う 玉葉
11月11日 義経と行家を捕えよとの院宣が下る 玉葉
11月28日 文治の勅許 吾妻鏡、玉葉
12月 諸国への地頭の設置が認められる 吾妻鏡
文治5年 1189年 1月5日 正二位に昇叙(43歳) 公卿補任
閏4月30日 衣川で義経が藤原泰衡に討たれる 吾妻鏡
7月~9月 奥州合戦、奥州藤原氏滅亡 吾妻鏡
建久元年 1190年 11月7日 上洛 吾妻鏡
11月9日 権大納言 吾妻鏡
11月24日 右近衛大将 吾妻鏡
12月3日 両官辞任 吾妻鏡
12月29日 鎌倉へ帰還 吾妻鏡
建久3年 1192年 3月13日 後白河法皇崩御(46歳) 玉葉
7月12日 征夷大将軍 公卿補任
8月9日 次男・源実朝誕生 吾妻鏡
建久4年 1193年 5月28日 富士の巻狩りの際に曾我兄弟の仇討ちが起こる(47歳) 吾妻鏡
8月17日 弟・範頼を伊豆へ配流 吾妻鏡
建久6年 1195年 3月12日 東大寺供養(49歳) 吾妻鏡
建久9年 1198年 12月27日 相模川橋供養(52歳) 承久記等
建久10年 1199年 1月11日 出家 公卿補任
1月13日 薨去(享年53 /満51歳没)
逸話[編集]
頼朝配下の東国武士団は独立心が強く、同族程度の団結以外に大きな一つの組織に結集する事を知らず、戦では個々の功名にはやって各個撃破されるような体であったものを、頼朝は御家人として一つにまとめ上げた。
文治元年(1184年)4月、頼朝の推薦を受けずに朝廷の官職についた御家人たちの容姿を細かくあげつらって罵倒する記述があるが、これは頼朝が御家人一人一人の容貌を含めて熟知していた事を示すものである。
ある合戦の報告を聞いて「◎は討ち死に、△は遁走、というがそんな事はあるまい。◎が遁走、△が討ち死にの間違いだろう」と指摘し、調べてみるとその通りであったというエピソードが『吾妻鏡』に多くある。
側近の一人で公事奉行人の藤原俊兼が贅沢な衣服をまとっているのを見た頼朝は、刀で小袖を切り落とし、「千葉常胤や土肥実平などは善悪も判断できぬ程度の武士だが、衣服などは粗悪な品を用いて贅沢を好まない。だからその家は裕福で多くの家人・郎党を養い勲功をあげようとしている。それなのにお前は財産の使い方も知らず、身の程をわきまえておらん」と訓戒を加えた。このように側近官僚と東国御家人の双方ともによく知りぬき、適材適所を使いこなしていたのである。
自分の妻子には甘く、富士の巻狩りで12歳の息子頼家が鹿を仕止めた時は喜んで妻の北条政子に報告の使いを送り、政子に武士の子なら当たり前の事であるとたしなめられている。
生涯において前線で戦うことは少なかったが、石橋山の戦いでは鎧武者を一撃で倒すなど叔父源為朝譲りの強弓を披露している。
慈円と親交があって和歌を詠み、贈答歌の「陸奥の いはでしのぶは えぞしらぬ ふみつくしてよ 壺の石ぶみ」は新古今和歌集に入撰している。

評価
頼朝の開いた政権は制度化され、次第に朝廷から政治の実権を奪い、後に幕府と名付けられ、王政復古まで足掛け約680年間に渡って続くこととなる。頼朝在世中はまだ朝廷との二重政府的な要素も強いが、守護地頭制度によって東国のみならず全国支配の布石を打っている。また、武家政権を代表する地位が征夷大将軍であるという慣習、また源氏がその地位に就かねばならないという観念、将軍のみが隔絶して高貴な身分として幕臣に君臨する(後年に到るまで、将軍の従一位~正二位に対して次位の執権、管領、大老は殆ど従四位~従五位。ちなみに、この差は現代の叙勲では首相と本省課長に相当し、同時期の朝廷における役職でもそれに呼応する開きがある)という習慣も頼朝に端を発している。武家政権の創始者として頼朝の業績は高く評価されており、ほとんどの日本人は義務教育で頼朝の名を学んでいる。

その一方で、人格は「冷酷な政治家」と評される場合が多い。それは、多くの同族兄弟を殺し、自ら兵を率いることが少なく(頼朝自身は武芸は長けていたといわれるが、戦闘指揮官としては格別の実績を示していない。ただし、各現場を代理指揮官と軍監に委ねる軍制は世界史的な先駆である点は、後述の永井路子が指摘している)、主に政治的交渉で鎌倉幕府の樹立を成し遂げたことによる。判官贔屓で高い人気を持つ末弟・義経を死に至らせたことなどから、頼朝の人気はその業績にもかかわらずそれほど高くなく、小説などに主人公として描かれることも稀である。作家の永井路子は、頼朝は勃興する東国武家勢力のシンボルであるとし、その業績をすべて彼個人の能力に帰するような過大評価を戒めているが、一方でその政治力、人材掌握力は高く評価し、日本史における組織作りの天才であり、その手腕は後世に彼を手本とした徳川家康よりいっそう巧緻であると評している(「源頼朝の世界」)。

以上は概ね現代における評価であるが、頼朝は過去にも多くの人物により評されてきた。
北条政子と御家人頼朝の死後に起きた承久の乱で朝廷と幕府が争うと、北条政子は集まった御家人らに対し「故・右大将軍(頼朝)が朝敵を滅ぼし関東を開いて以降、官位も俸禄も、その恩は山より高く海より深い。(中略)恩を知り名を惜しむ人は、早く不忠の讒臣を討ち恩に報いるべし」と述べた。これを聞いた御家人らは、ただ涙を流し報恩を誓った。頼朝の幕府内での位置と、御家人からの高い評価を知ることが出来る。保暦間記頼朝の死因を自らが滅ぼした源義広、義経、行家、安徳天皇の亡霊によると記している。当時からその生涯は罪深いものとして捉えられていたことを伺わせる。豊臣秀吉武辺咄聞書によると、鶴岡八幡宮白旗神社の頼朝像を参った際に、「我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父祖は関東を従えていた。故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。我は氏も系図も無いが天下を取った。御身より我の勝ちなり。しかし御身と我は天下友達なり」と述べ、頼朝の業績を自分の業績と共に称えながらも、頼朝の業績は血統に拠るものがあると冗談を交えながら評している。徳川家康頼朝の事績を多く記した吾妻鏡を集めて写させた。源氏の新田氏流を自称していた家康は頼朝を崇拝しており、吾妻鏡を読み頼朝の行動を学んだといわれる。新井白石読史余論の中で、政治面での功績には一定の評価を与えつつも、頼朝の行動は朝廷を軽んじ己を利するものであると、総じて否定的な評価をしている。挙兵から四年間も上洛せず、東国の土地を押領し家人に割け与えたのは、既に独立の志を持っていたとする。源義仲を討った理由は、義仲が朝奨に預かったことを憎んだからであり、また義仲が後白河法皇を幽閉した罪を問わなかったことを責めている。源義経との対立に関しては、朝臣に列していた義経を京で襲ったことは、臣たる者の仕業では無いと、襲った理由は、義経が朝賞に預かったと共に、義経の用兵を恐れたからだとする。義経が驕りに加え梶原景時の讒言により誅されたとの論には、驕りも讒言も無く誅された源範頼の例を挙げて反論し、「頼朝がごとき者の弟たる事は、最も難しいと言うべき」と記して評を終えている。
この他に「成敗分明(『玉葉』九条兼実)」、「ぬけたる器量の人(『愚管抄』慈円)」、「頼朝勲功まことにためしなかりければ(『神皇正統記』北畠親房)」、等がある。総じて政治的能力への評価は高いが、論評者が勤王家かどうか、儒教の倫理観に近いか等の見方によって全体の評価が上下する傾向があるほか、時代によっても評価が揺らぐのも特徴と言える。

清盛の遺言

「我の死後は堂塔も孝養も要らぬ、ただ頼朝の首を刎ね我が墓前に供えよ」は『平家物語』に記された文言であり、物語ゆえその真偽を疑う声もある。ただし『玉葉』治承5年(1181年)8月1日条では宗盛が「我が子孫、一人と雖も生き残らば、骸を頼朝の前に曝すべし」という清盛の遺言を盾に法皇の和平案を拒絶しており、頼朝への激しい憎悪は事実と思われる。

義経との対立
末弟・源義経を逐うに至った経緯は、古くから多くの人々の興味を呼び、物語が作られ、研究が成されている。
『吾妻鏡』では、まず養和元年(1181年)7月に頼朝が義経に対して鶴岡八幡宮の大工への褒美である馬を授ける引馬役を命じたところ、義経が不満を示したために頼朝が激怒したという(養和元年7月20日条)。続いて元暦元年(1184年)8月6日、京に在った義経は頼朝の内挙を得ずに任官し、憤った頼朝は義経を平氏追討軍から除いたことになっている(元暦元年8月17日条)。しかし、頼朝は8月3日に義経に伊勢の平信兼追討を命じ(8月3日条)、26日に義経は追討使の官符を賜っている(文治5年閏4月30日条)など、この記述は『吾妻鏡』の他の記事と齟齬がある。任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられ、頼朝が義経に対して何の処罰も下していないことから、この時点での頼朝と義経の対立を疑問視する見解もある。一方で、無断任官を知った8月17日以前に頼朝が何らかの命を義経に下しているのは当然であり、追討使の官符を賜っているのも、朝廷は頼朝に諮らず義経を検非違使に任じたのであるから、頼朝に諮らず平氏追討の官符を下しても、不思議は無いとも考えられる。
義経を恐れたとの説もある。戦いに敗れる事も多かった頼朝に対し、義経は平氏追討で連戦連勝を遂げたので、頼朝は義経の軍才を恐れるに至ったとする。義経が藤原泰衡に討たれた直後に、奥州合戦を始めた事は、この説を裏付けるものとして用いられる。
平氏滅亡後の鎌倉政権は、きわめて重大な時期に来ていた。内乱が収まると平氏追討を名目にした軍事的支配権の行使が出来なくなる。頼朝はそれまで軍事力を持って獲得してきたものを、朝廷との政治交渉によって、平時の状態でも確保出来、補強しなければならない困難な状況に直面していた。そうした時期であるために、いかに肉親であり功績のある者でも、自分に反抗する者は許しておくことは出来ない。義経の背後には、武家政権確立のための対抗勢力である朝廷や奥州藤原氏があったのである[22]。

都落ちした義経を匿った事で鎌倉へ召還された興福寺の僧・聖弘は、義経を庇護した事を詰問する頼朝に対し、「今関東が安泰であるのは義経の武功によるものである。讒言を聞き入れ恩賞の土地を取り上げれば、人として逆心を起こすのも当然ではないか。義経を呼び戻し、兄弟で水魚の交わりをされよ。自分は義経のみを庇って言うのではなく、天下の無事を願っての事である。」と悪びれず直言した。頼朝はその言葉に感じ入り、聖弘を勝長寿院の供僧職に任じた事から、義経を憎みきっていた訳ではない事が伺える。頼朝は政治家であり、義経は軍人であった。その相違が、平氏滅亡後に露呈する事になったのである[23]。

もっとも、義経に限らず、範頼をはじめとする源氏一族(「門葉」)に対して、頼朝は清和源氏の棟梁としての優位性を示す一方で、彼らを将軍家の藩屏として優遇する方針[注釈 31]を取り続けており、結果的にその方針が失敗したとしてもそれをもって義経ら一族を冷遇した、重用しなかったとするのは一方的な見方であるとする批判もある[24]。

義経が鎌倉入りを止められ血涙をもって綴った腰越状が届けられた時、自害ののちにその首が届けられた時、頼朝がどのような反応を示したかは、『吾妻鏡』は何も伝えていない。

死因
各史料では、相模川橋供養の帰路に病を患った事までは一致しているが、その原因は定まっていない。『吾妻鏡』は「落馬」、『猪隈関白記』は「飲水の病」、『承久記』は「水神に領せられ」、『保暦間記』は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記している。これらを元に、頼朝の死因は現在でも多くの説が論じられており、確定するのはもはや不可能である。死没の年月日については、それ以外の諸書が一致して伝えているため、疑問視する説は存在しない。
落馬説建久9年(1198年)重臣の稲毛重成が亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した帰りの道中に落馬したということが『吾妻鏡』に記された死因であり、最も良く知られた説である。その死因が『吾妻鏡』に登場するのは、頼朝の死から13年も後の事であり、死去した当時の『吾妻鏡』には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載が全く無い。これについては、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、徳川家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったともいうが、『吾妻鏡』には徳川家以外に伝来する諸本もあり、事実ではない。なお、死因と落馬の因果関係によって解釈は異なる。落馬は結果であるなら脳卒中など脳血管障害が事故の前に起きており、落馬自体が原因なら頭部外傷性の脳内出血を引き起こしたと考えられる[25]。落馬から死去まで17日ある事から、脳卒中後の誤嚥性・沈下性肺炎の可能性がある。尿崩症説落馬で脳の中枢神経を損傷し、抗利尿ホルモンの分泌に異常を来たして尿崩症を起こしたという説。この病気では尿の量が急増して水を大量に摂取する(=「飲水の病」)ようになり、血中のナトリウム濃度が低下するため、適切な治療法がない12世紀では死に至る可能性が高い[25]。糖尿病説『猪隈関白記』の「飲水の病」とは水を欲しがる病であり糖尿病を指すとする。そのような症状があったという記録はなく、可能性は低い[25]。そもそも糖尿病は直接の死因となる病気ではなく、合併症が死因となる病気である。仮に糖尿病による死だとしたら、当時の人間がそれが死因と認識して「飲水の病」と記録に残すとは考えにくい(藤原道長も「飲水の病」から糖尿病説があるが、これが原因で死去したとの記録は無い。また晩年視力が低下したとの記録がある事から、これが糖尿病の合併症ではないかと推測されている)。溺死説史料は「飲水の病」「相模川橋供養」「水神の祟り」「海上に現れた安徳天皇」など水を連想させる語が多く、溺れた事が死に繋がったのではと見る。また相模川河口付近は馬入川とも呼ばれており、頼朝の跨った馬が突然暴れて川に入り、落馬に至った事に由来するとも伝わる。溺死説の場合、「飲水の病」は川に落ち溺れ、水を飲み過ぎた事を意味すると見る。亡霊説『保暦間記』に記されている。当時は亡霊や祟りが深く信じられている時代であり、信心深い頼朝には義経や安徳天皇の亡霊が見えたのであろうと言う。医学でいう意識障害のような失調症があったと捉えることもできる。ただし「亡霊を見た」という記述をそのまま鵜呑みにするだけでは学説とは言えず、現代医学でいう所での疾患名が特定されない事には意味は無い。原因と結果は逆であり、何らかの病気で意識が混濁した頼朝が亡霊を見た可能性も否定できない。暗殺説頼朝は子の源頼家や実朝と同じく何者かに暗殺されており、その事実を隠すべく吾妻鏡への記載を避けたとする。或いは北条氏に水銀を飲まされて死んだとも言う[注釈 32]。誤認殺傷説愛人の所に夜這いに行く途中、不審者と間違われ斬り殺されたとする。ただし証拠以前に、斬り殺した人間、遭いに行く予定の愛人が誰か特定できない事には、学説として成り立たない。
系譜[編集]

頼朝は源満仲の三男・源頼信を祖とする河内源氏の七代目に当たる。源頼光を祖とする摂津源氏が清和源氏の嫡流であり、河内源氏は庶流だが、嫡流を差し置いて武家源氏の主流となっている。父方の曾祖父と祖父、父、息子全員、男の孫全員、兄弟全員、父方の叔父全員が殺されており(あるいはそう伝えられており)、父系三親等以内の男性(三十名に及ぶ)で畳の上で亡くなったと伝えられているのは頼朝ただ一人である。
父:源義朝 - 源為義長男。保元の乱で栄進するが、平治の乱で敗れ、敗走中に殺される。
母:由良御前 - 藤原季範三女
兄弟 源義平 - 悪源太。平治の乱後、平清盛暗殺のため京へ潜伏中に捕らえられ斬首される。
源朝長 - 平治の乱後の敗走中に、戦傷が元で亡くなる。
源頼朝
源義門 - 早世。
源希義 - 同母弟。土佐国に流され、頼朝の挙兵後に討たれる。
源範頼 - 挙兵後の頼朝に仕えるが、謀反の疑いにより伊豆国に流される。
阿野全成 - 常盤御前の子。仏門に入り、挙兵後の頼朝に仕えるが、源頼家に殺される。
義円 - 常盤御前の子。仏門に入り、挙兵後の頼朝に仕えるが、墨俣川の戦いで平氏軍に討たれる。
源義経 - 常盤御前の子。挙兵後の頼朝に仕えるが、対立し奥州に逃れ、藤原泰衡に殺される。
坊門姫 - 同母姉もしくは同母妹、一条能保室

妻 八重姫 - 伊東祐親三女、千鶴丸母。病死したとも、頼朝を訪ねた際に政子のために会えず、悲嘆し韮山の真珠ヶ淵に身を投げたとも伝わる。
北条政子 - 正室、北条時政娘、頼家・実朝・大姫・乙姫母
亀の前 - 良橋太郎入道娘
大進局 - 常陸入道念西(藤原時長、伊達朝宗)娘。三男・貞暁の母
利根局 - 波多野経家の娘。大友能直の母。

子女 長男:千鶴丸 - 伊東祐親に殺される。享年3。一部では生存していて甲斐源氏逸見氏に預けられ、島津忠久となり九州の大名島津氏の祖となったという伝承があるが傍証は無く、現在伝承は否定されている。
長女:大姫 - 源義高婚約者。享年20
次男:源頼家 - 二代将軍。伊豆修善寺に流され殺される。享年23
三男:貞暁 - 妾・大進局の子、仁和寺で仏門に入る。享年46
次女:三幡(乙姫) - 頼朝の死の5ヶ月半後に死去。享年14
四男:源実朝 - 三代将軍。頼家の次男・公暁に殺される。享年28

家人
頼朝の家人の多くは、関東に住む武士であった。彼らの家は、頼朝の先祖である源頼信・源頼義・源義家から恩を受けており、頼朝の父・源義朝に従っていた者も多い。頼朝はその縁を生かして彼らを従わせ兵を挙げた。また挙兵後には、平氏政権下で苦しんでいた同族兄弟が、多く集まり従っている。関東平定後は、京都から公家を鎌倉に招き、政務の助けとした。これら頼朝に仕えた家人は、御家人と呼ばれ、諸国の守護地頭に任じられ、子孫は全国に広がっていった。以下に主な家人を列記する。

北条時政 - 義父 北条義時 - 義弟 
安達盛長 佐々木定綱 佐々木盛綱 佐々木経高
佐々木高綱 三浦義澄 稲毛三郎重成 - 北条政子の妹を娶る
工藤茂光 工藤祐経 土肥実平 岡崎義実 天野遠景 加藤景廉
大庭景義 和田義盛 - 侍所別当
千葉常胤 千葉胤頼 上総広常 - 誅殺 梶原景時 - 侍所別当
梶原景季 葛西清重 足立遠元 畠山重忠 河越重頼 - 誅殺
江戸重長 宇都宮朝綱 八田知家 常陸入道念西(伊達朝宗)
伊佐為宗 佐竹秀義 比企能員
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。それぞれ母が異なるのですが、頼朝が1147年・範頼1150年・義経1159年生まれです。
2008年8月17日 (日)
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2008/08/post_6b2a.html
源範頼の自刃~頼朝は平凡な弟の何が怖かったのか?
建久四年(1193年)8月17日、伊豆・修善寺に幽閉されたいた源範頼が、兄・頼朝によって殺害されました。
(亡くなった日付には諸説ありますが、一応本日書かせていただきます)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「源頼朝の弟で、兄・頼朝に殺された人物は?」
と、聞かれれば、ほとんどの人が迷わず「義経!」て、答えてしまうでしょうね。
失礼ながら、それだけ、本日の主役・範頼さんは影の薄い存在です。
源範頼(みなもとののりより)は、源氏の棟梁だった源義朝(よしとも)の六男・・・頼朝が三男で、義経が九男なので、ちょうどまん中になりますね。
母は、遠江・池田宿の遊女で、蒲御厨(かばのみくりや)で生まれた事から蒲冠者(かばのかじゃ)とも呼ばれます。
彼も、義経同様、兄・頼朝の挙兵(2006年8月17日参照>>)を知って駆けつけ、ともに木曽義仲を討って一の谷では大将を務め(2月7日参照>>)奮戦します。
天才的な発想で、奇抜な作戦を決行する義経と違って、範頼の戦い方は堅実なもので、そのぶん派手さに欠け、印象が薄いのでしょうが、彼は平家を追って中国はもちろん、九州にまで遠征しています。
ただ、頼朝・義経兄弟と比べると、コレというスゴイ業績がないのも確かです。
それは、やはり、彼の性格にあるのかも知れません。
とにかく温厚で・・・、さらに、武将としての野心が無いのか、平家追討にあたって貰った官職も、滅亡後には「必要ないから」と自ら進んで辞めちゃったりしてます。頼朝の命令にもいつも素直に従って、義経のように、自らの意思で先走る事もありません。
ただ、そんな彼が、一度だけ頼朝の命令に従わなかった事がありました。
それは、「奥州へ逃げた義経追討軍の総大将をやれ」と言われた時です。
ご存知のように、義経は、義朝と常盤(ときわ)御前の子供で、同じ母のもとに、七男と八男という2人の兄がいます・・・つまり、六男の範頼は、異母兄弟とは言え、今となっては一番年齢が近い兄弟だったのではないでしょうか?
おそらく、彼は、非凡な才能を持ち、自分よりも目立っている弟を「うっとぉしい」なんて思う人ではなかったでしょう。
いや、むしろ、弟として親しみを感じ、快い存在であったに違いなく、だからこそ、そんな弟を討つなんていう事はできなかったんでしょうね。
これだけは、かたくなに固辞しています。
しかし、この一件で、頼朝さんに睨まれ、「お前も、義経と一緒なんかい!」
と、脅されると、すぐに起請文を書いて忠誠を誓ったりなんかして・・・
弟を討つほど鬼にもなれないし、兄に反発する事もできない・・・やさしさは、裏を返せば頼りなさ。
強さとやさしさの両方をあわせ持つ事は、やはり難しいんでしょうね。
そんな野心のカケラもない範頼さんですから、本来、兄の脅威になろうはずもないのに、頼朝は、こんな範頼をも、義経と同様に、死に追いやってしまうのです。
その発端は、あの日本三大仇討ちの一つに数えられる曽我兄弟の仇討ち・・・(5月28日参照>>)
そのページにも書かせていただきましたが、彼ら兄弟が狙っていたターゲットは父の仇である工藤祐経(すけつね)と、もう一人・・・頼朝の命も取ろうとしていた事は確かです。
現に、本懐を遂げたにも関わらず、さらに奥に突進していますから・・・。
その現場にいた者たちも、おそらく、そう感じたに違いなく、混乱の中、情報が錯綜してしまい、事件直後に、鎌倉に頼朝死亡の誤報が舞込んで来てしまったのです。
うろたえる鎌倉の家臣たち・・・嘆き悲しむ妻・北条政子・・・そんな、政子の姿を見た範頼は・・・
「大丈夫!僕がいるから・・・心配しないで」と、やさしくなぐさめます。・・・と、これがいけなかった!
無事に鎌倉に戻った頼朝は、この話を、政子から聞いたのか、はたまた家臣の誰かから聞いたのか、「自分にとって代わるつもりなのではないか?」という疑いを持ちはじめるのです。
それまでの範頼さんの行動、性格からして、おそらく、そんなつもりではなく、単に、悲しむ政子を勇気づけようとしただけだったと思われます。
しかし、頼朝は、そうは思ってくれなかったのです。
さらに、後日、範頼の腹心だった当麻太郎という男が、何を思ったのか、頼朝の寝所の床下に潜んでいるところを発見され捕らえられるという事件が起こります。
これが決定打となり、範頼への頼朝の不信感はゆるぎない物になってしまいました。
これに対して範頼は、やはり起請文を差し出して忠誠を誓いますが、もはや、あとの祭り・・・8月に入って範頼は捕らえられ、伊豆の修善寺に幽閉されます。

さらに、頼朝は梶原景時(かじわらかげとき)を派遣して屋敷を取り囲み、攻撃を開始・・・「もはや、これまで」と悟った範頼は、建久四年(1193年)8月17日、屋敷に火を放ち、炎燃え盛る中、自刃したとされています。
ただし、例の『吾妻鏡』に範頼の死の記述がない事から、彼には、埼玉の安楽寺で余生を送ったとか、愛媛に逃れたとかの生存説もある事も確かです。
しかし、この後、歴史上にその名が出てこないわけですから、たとえ、生きていたとしても、歴史の表舞台から抹殺された事には変わりないわけです。
それにしても、頼朝は、本当に範頼が謀反をくわだてるような人間だと思ったのでしょうか?
先ほどから書かせていただいているように、彼は権力に執着するようなタイプではありませんし、武力で他を制圧しようという気もさらさら無いように思います。
どちらかと言えば、武将としては失格とも言える性格です。
それこそ、義経ならともかく、範頼が頼朝の脅威になるとは、とても思えません。
本当に、温厚でおとなしい性格の弟に、幽閉では飽き足らず、抹殺してしまうほどの恐怖を感じたのでしょうか?
いえいえ、頼朝が怖かったのは範頼自身ではなく、おそらく、彼をかつぎあげる人間・・・曽我兄弟の一件を見てもわかるように、反抗分子はどこにでもいます。
範頼の性格なら、そんな反抗勢力に利用されかねません。
単なる家臣の謀反と違って、源氏の血筋を全面に押し出せば、その勢力が自分に匹敵するほどの物になる可能性も無きにしもあらずです。
そう、頼朝が、本当に怖かったのは、範頼のそのやさしさではないかと・・・「カレのやさしさがコワイ・・・」(#^0^#)←恋人か!
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母・北条政子から嫌われて?暗殺された2代将軍源頼家の悲劇【その日、歴史が動いた】
「なんでこんな目に遭わないといけないんだろう」というのは、人間誰しも一度は思ったことがあるでしょう。
歴史を見ていても、当人がどう思っていたかはともかく「どうしてこの人がこんなことに」なんてことは残念ながらよくあります。
本人のあずかり知らぬところでいつの間にか最悪の事態になっていた、というケースが多いですが、それにしても「?」を連発したくなるようなことも珍しくありません。
今回はその類のお話です。
元久元年(1204年)の7月18日、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家が暗殺されました。
二代目という重要な立ち位置の人なのに、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」には「今日、頼家殿が亡くなりました。終わり」(超訳)程度で済まされているという実に不可解な出来事です。
というのも、吾妻鏡は一貫して「北条氏サイコー!文句あっか?」というスタンスで書かれているため、同家にとって不都合なことは全て削除されていると思しき部分がたくさんあるのです。これもその一つだといわれています。
つまり北条氏=母親・北条政子の実家と仲が悪かったということになるのですが、それにしたって何で殺されることになってしまったのでしょうか。

Contents [hide]17歳で鎌倉幕府を背負う母の実家北条氏との争いが激化伊豆で入浴中に暗殺不幸な最期の源氏将軍3代
17歳で鎌倉幕府を背負う

源頼家(Wikipediaより)
頼家は源頼朝と北条政子の間の子供としては長男で、そのため生まれた直後から「次代将軍」として見られていました。
特に武芸の腕を賞賛され、15歳の時には朝廷から位をもらって前途洋々といったところ。本人も自信を持って「トーチャンの次は俺が幕府をリードしてやるぜ!」と思っていたことでしょう。
が、頼家17歳のときにトーチャンが亡くなると、彼の予想とは違った方向に事態が進み始めます。

17歳といえば、当時の感覚としては若造とはいえ立派な大人です。頼家は当初から後継者として見られていたので、しかるべき教育も受けていたでしょう。
なのに、北条氏は「頼家はまだ若くて心配だから、これからはデキる人たちで合議制にするわw」(超訳)と言い出し、頼家が直接訴訟などを捌くことをやめさせてしまいます。
当然頼家は反発し、「そっちがその気ならこっちだってやったるわい!俺の近習(主君の側でいろいろやる人)を通さないと話聞かないからな!!」(超訳)と言い、真っ向から北条氏にケンカを売りました。どっちかというと売ったのが北条氏で買ったのが頼家ですかね。

母の実家北条氏との争いが激化 
しかし、北条氏のほうがやはり一枚上手。
どうあっても実権を握りたかった彼らは、頼家の側室・若狭の局が比企(ひき)氏=北条氏のライバルであったことを利用して、権力を一気に奪おうと試みます。
運の悪いことに、頼家がこのタイミングで重病にかかってしまったため、北条氏はほくそ笑み「あれじゃどうせ頼家は助からない。今のうちに比企氏を丸ごとやっちまえ!」と兵を挙げ、あっという間に比企氏を滅ぼしてしまいました。
吾妻鏡によれば「一度は危篤に陥った」とされている頼家がその後あっさり回復しているので、この”重病”もアヤシイ話だったりするのですが。きたないなさすが北条氏きたない。
このとき若狭の局とその間にできた子供も亡くなったといわれており、事態を知った頼家は完全に激怒。軋轢はますます深まっていきます。

北条政子(Wikipediaより)伊豆で入浴中に暗殺
ここで政子が取り成しなり何なりしてくれれば良かったのですが、このカーチャンはそうしてくれませんでした。
そして頼家と北条氏の溝が埋まることはなく、頼家は無理やり修善寺へ引っ込まされた挙句、暗殺されてしまったのです。同時代の史書「愚管抄」には「北条の兵が入浴中に襲ったんだけど、頼家がとんでもない暴れ方をしたもんだから、男の大事なところ(婉曲表現)を切り落としてやっと殺したんだってさ」(超訳)と書かれているのですが、腕とか足とかもっと他に拘束すべきとこあんだろ。確かに急所中の急所だけども。
ときに頼家21歳、若すぎる上に恐ろしすぎる最期でした。
記録が残っていないだけで本当は政子も何かしていたのかもしれませんが、吾妻鏡の記述やその後の言動からして、このカーチャンが実家と息子のために奔走した可能性は極めて低そうです。そもそも、頼家に対しての政子の態度は全体的に冷たすぎます。
後々彼らが強引に後を継がせた三代実朝も暗殺されてしまいますけれど、そのとき政子は「実朝は唯一残った子供だったのに」と悲嘆していたことが記録されているのです。”尼将軍”として女丈夫のイメージが強い政子に母親らしい一面があったことを示すものですが、頼家の死亡時にそうした動きは一切見られません。お墓は建ててますけども。
また、頼家が幼い頃初めて鹿を射止めたとき、頼朝は大喜びしましたが政子は「武士なんだからそのくらいできて当たり前でしょ」と取り合いませんでした。確かにそれもそうなんですけど、実の子供なんだからもうちょっと喜んでもいいんでないかい。
「上の子を冷遇して下の子を可愛がる」というのは伊達政宗の母・義姫にも似てますね。暗殺関与疑惑があるところもそっくりです。義姫のほうは現在否定されてますが。

不幸な最期の源氏将軍3代

ちなみにいわゆる”源氏将軍”は三人とも不幸な死に方をしています。頼朝の死因は実は不明・頼家は上記の通り・実朝は頼家の息子(実朝にとっては甥)に殺されていますからね。北条氏も百年単位で実権を握ったものの、短命が多い上鎌倉時代以降生き残ることはできませんでした。
ついでに言えば幕府そのものも同じ源氏一門の足利氏・新田氏に滅ぼされてますし、後世から見ると一体誰が得をしたのか全くわかりません。中世のことですから、そこまでロングスパンで物事を見ている人がいなかったのかもしれませんが。
となると結局頼家は殺され損ということに……(´;ω;`)
黒幕として後鳥羽上皇(朝廷vs鎌倉幕府の「承久の乱」を起こした人)が何か絡んでたりしたら歴史ミステリーとして面白そうですが、流石にないですかね。
長月 七紀・記
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公暁、正治2年(1200年) - 建保7年1月27日(1219年2月13日))は、鎌倉時代前期の僧侶。鎌倉幕府2代将軍源頼家の次男(尊卑分脈等)または三男(鶴岡八幡宮寺社務職次第等)。
母は吾妻鏡によれば足助重長(加茂重長)の娘(源為朝の孫娘)、尊卑分脈等によれば一幡の母と同じく比企能員の娘、ある源氏系図(縣篤岐本『源氏系図』)によれば三浦義澄の娘。一幡とは異母兄弟または同母兄弟、栄実、禅暁は異母弟、竹御所は異母妹にあたる。幼名は善哉(ぜんざい)。
第3代将軍源実朝を「父の仇」として暗殺したが、自身も直後に討ち取られた(なお、公暁は実朝の猶子であったため、義理の父親を殺害したことになる)。名前の読みは「くぎょう」とされてきたが、近年は「こうきょう」である可能性が高いとされている]。


父である将軍頼家は建仁3年(1203年)9月の比企能員の変によって鎌倉を追放され、翌年善哉が5歳の時に北条氏の刺客によって暗殺された。建永元年(1206年)6月16日、7歳になった善哉は若宮の別当坊より祖母である尼御台北条政子の邸に渡り、着袴の儀式を行う。10月22日、乳母夫である三浦義村に付き添われ、政子の計らいによって叔父の3代将軍源実朝の猶子となった。建暦元年(1211年)9月15日に12歳で鶴岡八幡宮寺別当定暁の下で出家し公暁の法名を受け、翌日には受戒のため上洛する。園城寺において公胤の門弟として入室し、貞暁(おそらくは定暁と同人)の受法の弟子となる。建保5年(1217年)6月20日、18歳で鎌倉に戻り、政子の意向により鶴岡八幡宮寺別当に就任した。同年10月11日からは実朝の命により裏山で千日参篭をおこなう。翌年建保6年(1218年)12月5日、公暁が鶴岡に参籠して退出しないままいくつかの祈誓を行っているが、一向に髪を下ろす事もしないので人はこれを怪しんだという。また伊勢太神宮や諸社に奉幣する使節を送った事が将軍御所で披露されている。

実朝暗殺
年が明けた建保7年(1219年)1月27日、雪が2尺(約60cm)ほど降りしきるなか、実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣する。夜になって参拝を終えて石段を下り、公卿が立ち並ぶ前に差し掛かったところを、頭布を被った公暁が襲いかかり、下襲の衣を踏みつけて実朝が転倒した所を「親の敵はかく討つ」と叫んで頭を斬りつけ、その首を打ち落とした。同時に3,4人の仲間の法師が供の者たちを追い散らし、源仲章を北条義時と間違えて切り伏せたのち、八幡宮の石段の上から「我こそは八幡宮別当阿闍梨公暁なるぞ。父の敵を討ち取ったり」と大音声を上げ、逃げ惑う公卿らと境内に突入してきた武士達を尻目に姿を消した。儀式の際、数千の兵はすべて鳥居の外に控えており、その場に武装した者はいなかった。

公暁は実朝の首を持って雪の下北谷の後見者・備中阿闍梨宅に戻り、食事の間も実朝の首を離さず、乳母夫の三浦義村に使いを出し、「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と言い送った。義村は「迎えの使者を送ります」と偽り、北条義時にこの事を告げた。義時は躊躇なく公暁を誅殺すべく評議をし、義村は勇猛な公暁を討つべく長尾定景を差し向けた。
公暁は義村の迎えが来ないので、1人雪の中を鶴岡後面の山を登り、義村宅に向かう途中で討手に遭遇する。討ち手を斬り散らしつつ義村宅の板塀までたどり着き、塀を乗り越えようとした所を討ち取られた。享年20。
定景が公暁の首を北条義時亭に持ち帰り、義時が首実検を行った。なお実朝の首は所在不明。
公暁の犯行の背後には、北条氏の源家討滅[2]あるいは北条氏の政敵で公暁と近しかった三浦氏による北条打倒[3]もしくは後鳥羽上皇による幕府転覆の策謀[4]が存在したのではないか、と後世の研究家に推測されている[5]が確証はない。またそれらの背後関係よりも、公暁個人が野心家で実朝の跡目としての将軍就任を狙ったところに、この事件の最も大きな要因を求める見解もある[6]。

「公暁の隠れいちょう」の伝承のある鶴岡八幡宮のイチョウ(倒壊前)
なお、公暁の墓は現存せず、墓所についての史料も存在しない。かつて鶴岡八幡宮には「公暁の隠れいちょう」と呼ばれるイチョウの大木が立っており、公暁がこの樹の陰に潜んで実朝を襲ったという伝説と共に親しまれていたが、この伝説が知られるようになったのは江戸時代になってからの事であり、当時の史料にはない話である。このイチョウは2010年3月10日の強風によって倒壊した。

生存の噂
公暁は生きて逃亡したとの噂が承久3年(1221年)頃にあった。また、嘉禄3年(1227年)に結城朝広、浅利太郎が「若宮禅師」を公暁と誤認して謀反を企てたため白河関袋辻で切ったと鎌倉に報告している。
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建保七年(1219年)1月27日、鎌倉幕府・第3代将軍の源実朝が、鶴岡八幡宮にで、甥の公暁に暗殺されました。
・・・・・・・・・・・・とは言え、この源実朝暗殺事件・・・
父=源頼朝が開いた鎌倉幕府を受け継いだ第3代将軍である源実朝(みなもとのさねとも)が、建保七年(1219年)1月27日、鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝した時に、公暁(くぎょう)という人物に襲われて死去・・・

犯人=公暁は、前将軍であった実朝の兄・頼家(よりいえ)の息子で、父も(7月18日参照>>)、そして兄(10月15日参照>>)や弟もが北条氏によって殺された事への恨みとともに、自らが新将軍の座につきたいという野望を以って犯行に及んだものの、有力御家人の三浦義村(よしむら)の放った追手によって、その日のうちに殺害される・・・というのが、一般的に言われている、事件のおおまかな経緯。

このブログでは2008年と2009年の
【迷宮入り?将軍・実朝暗殺事件の謎】>【将軍・源実朝~暗殺事件の謎・パート2】>>
と、内容かぶりながらも、2度に渡って書かせていただいているので、くわしくは、ソチラのページで見ていただけるとありがたいのですが、本日は、その捕捉として、複数の文献に残るお話をご紹介させていただきます、
Minamotonosanetomo600 そもそも、一国の将軍ともあろう人が、公卿の居並ぶ前で暗殺されたにも関わらず、なぜに、謎が多いのか??

もともと、恨みと野望による犯行とする、上記のおおまかな経緯というのも、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』によるところが大きいわけですが、その『吾妻鏡』は、幕府の公式記録であるがゆえに、「北条家の悪口は一切書かない」という方針であるため、その内容を丸々信用するわけにはいかないところへ持ってきて、他の文献には微妙に違った事が書いてある・・・

公暁の最期の場面に関しては、『吾妻鏡』も、そして『吾妻鏡』より信憑性があると言われている『愚管抄(ぐかんしょう)』でも、犯行後の公暁が、「今日から、俺が将軍や!準備して迎えに来いや」という内容の手紙を三浦義村に送り、なかなか来ない迎えにしびれを切らして三浦邸へ逃げ込もうと、屋敷の塀を登ったところで追手に襲われて長尾定景(さだかげ)に討ち取られたとありますので、今のところ、それが正史であろうと言われているわけですが・・・

しかし、その『吾妻鏡』でさえ、討ち取った公暁の首を、北条義時(よしとき)邸にて首実検する際、息子の泰時(やすとき)が
「我れ、いまだ公暁殿の面(おもて)を見奉ることなし。なを疑胎(ぎたい)あり」=「(首が)本物がどうかワカラン」
という発言をしているのです。
他にも・・・『保暦間記(ほうりゃくかんき)』では、三浦邸に逃げて来た公暁を、義村自身が刺殺した事になっているのと、『承久軍物語(じょうきゅういくさものがたり)』では、公暁は三浦邸には行かず、大臣山に逃げ込んだものの、大雪のために道に迷い、山中をさ迷っているところを長尾定景に討たれたとなっています。
まぁ、それでも、ここらへんまでは、あくまで微妙な違いで、なんとなく許容範囲なわけですが、同じ『保暦間記』には、別の説として「八幡宮山にて餓死した」という説がある事を書いています。

また、別の『承久記(じょうきゅうき)』には、逃走中に、大雪のために山から転げ落ち、あるお屋敷の門の下に身を寄せていたところ家主に盗賊と勘違いされて殺され、遺体が犬の群れに噛み散らされたとありますが、またまた、そこでも別の説として、「なんだかんだで結局は行方不明」みたいな事も書かれています。

そんな曖昧な最期を裏付けるかのように、公暁のお墓という物は、未だ見つかっておりませんし、葬儀らしき物が行われた記録もありません。
「見つかっていない」と言えば、暗殺後に肌身離さず公暁が持っていたはずの実朝の首も見つかっていないのです。
冒頭に書かせていただいた通り、時の将軍ですよ!その首が見つからないまま・・・って、、、

犯人の公暁だって、なんだかんだで将軍家の血筋を引き継ぐ人なわけですし、何たって北条政子の孫・・・なんだか、事件の終わり方が、とても不可解です。
しかも、どうやら、この不可解さは、文献の微妙な違いによって現在人が感じる不可解さではなく、事件当時からあった不可解・・・
なんせ、嘉録二年(1226年)には陸奥国の白河関(福島県)に「我こそ公暁!」と名乗る者が現われ、結城朝広(ゆうきともひろ)なる人物が討ち取ったと言われているのです。
結局は、捕えてみればニセモノだったようですが、嘉録二年(1226年)と言えば、この暗殺劇から、まだ7年しか経っていません。
そんな時期に、ニセモノとは言え公暁と名乗る者が現われて謀反を企て、幕府側でも「ひょっとしたら」と思うという事は、やはり、この将軍暗殺事件が未解決であったからではないでしょうか?
『吾妻鏡』が言うように、この事件が、北条家に恨みを持ち、自らが将軍になろうとした公暁による私利私欲の単独犯で、犯人が、すぐさま捕えられて殺害されたのだとしたら、不可解な事など何も無いはずですからね~
建保七年(1219年)1月27日、28歳の若さで暗殺された将軍・実朝・・・
そして同じ日に、20歳で死んだ実行犯とされる公暁・・・やはり、二人ともが被害者のような、違和感の残る事件ですね。
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 伊豆市観光協会修善寺支部  0558-72-2501
修禅寺  0558-72-0053 8月1日お盆大会
 修善寺温泉発祥の寺で、温泉場の中心にある。平安初期の大同2年(807年)に弘法大師が開基したもので、
 当時は地名が桂谷と呼ばれていたところから桂谷山寺といわれ、 伊豆国禅院一千束と正史に記されたほどの格式の高い寺だった。
 鎌倉初期になって建長年間(1250年頃)に蘭渓道隆(臨済宗鎌倉建長寺開山の宋禅僧)が住し、
 桂谷の風致が支那の廬山に似ていることから当時は肖廬山と号した。
 南北朝時代の康安元年(1361年)になって、畠山国清と足利基氏との戦禍を受け、
 応永9年(1402年)には火災を蒙り、伽籃を全焼して寺は荒廃し衰退した。
 その後、延徳元年(1489年)に至り、韮山城主の北条早雲が外護者として再興し、
 叔父の隆溪繁紹(遠州石雲院)が住して曹洞宗に改宗され山号も福地山と改められ今日に至っている。
 修禅寺は、曹洞宗の寺院。「福地山修禅萬安禅寺」、略して修禅寺と呼んでいる。夏目漱石の「修善寺の大患」、岡本綺堂の「修禅寺物語」でも名高い。 
 807年(大同2年)に空海が創建したと伝えられ、その後の約470年間は真言宗に属していた。当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われ、『延喜式』には「伊豆国禅院一千束」と書かれる程の寺院であった。その後、鎌倉時代初期に修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになった。また、源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、その後この地で殺害されたとしても知られている。
建長年間(1249年 - 1255年)に元の密偵と疑われていた蘭渓道隆が避難のために来住し、それに伴って臨済宗に改宗された。蘭渓道隆は、南宋の理宗から「大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺」という額を賜り、大陸にまで修禅寺の名を広めた。しかし、この寺額は1863年(文久3年)の火災で焼失した。
その後、1361年康安(元年)の畠山国清と足利基氏の戦乱の被害を受け、更に1409年(応永9年)の大火災で伽藍が全焼し、荒廃した。
その後、伊豆一国を収めた伊勢新九郎長氏(北条早雲)が、彼の叔父の隆渓繁紹に曹洞宗の寺院として再興させた。
現在の本堂は1883年(明治16年)に再建したものである。2007年(平成19年)には開創1200年祭が行われた。
文化財[編集]
重要文化財(国指定) 木造大日如来坐像 - 像内から承元4年(1210年)に実慶が作った旨の墨書が発見されている。1993年、国の重要文化財(彫刻)に指定された。
静岡県指定有形文化財 宋版放光般若経 巻ニ十三 - 巻末欄外に「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提 尼置之」の書き入れ(墨書)があり、これは北条政子の筆といわれている[3]。1958年、静岡県の有形文化財]。木造釈迦如来坐像 - 1979年静岡県の有形文化財(彫刻)に指定された。
静岡県指定天然記念物 修禅寺の桂 - 1956年5月24日に、静岡県の天然記念物に指定。

 日枝神社  修禅寺に隣接し、昔は修禅寺の鎮守さま
   修禅寺に隣接し、昔は修禅寺の鎮守さま。境内には夫婦杉の大木や県の文化財に指定されている一位樫がある。
 また、源範頼が幽閉され住んでいたという信功院跡(庚申塔のみ現存)がある。
 奥の院(正覚院)  18歳の弘法大師が修行した所
   温泉場より約5Km西の湯舟地区にあり、延暦10年(791年)に18歳の弘法大師が
 修行した所といわれている。ここには馳籠の窟という岩洞があり、その岩壁には阿吽の滝と呼ばれる滝が懸っている。
 滝の横には弘法大師降魔壇という修行石がある。これは大師が禅定を修する勝境を桂谷に求め、適地としてこの地を選んだが、
 天魔地妖が多く修行の妨げとなり、住民をも煩わすので、天空に向かって大般若の魔事品を
 書いたところ、金色に輝く六書八体の経文がはっきりと空中に現れたという。これにより魔衆はことごとく岩谷に閉じこめられてしまったといわれ、
 その後仏法は広まり国土は治まったと伝えられている。現在、春季弘法忌には大師像を修禅寺より御興で運び1日安置するお上り、お下り、という行事が
 行われている。
 指月殿(一切経堂)  源頼家の冥福を祈った指月殿 修禅寺に対面した鹿山の麓にある。
 修善寺温泉で暗殺された源頼家の冥福を祈って、母政子が指月殿、宋版大蔵経、
 釈迦三尊繍仏などを修禅寺に寄進したものである。 このとき門前の虎溪橋も架け替えたという。
 指月とは経典を意味し、禅家が愛用している不立文字を解く言葉である。
 大蔵経は仏教典籍の叢書という意味で、5~6千巻にも及ぶものであるが、
 政子寄進として現存する大蔵経は、大半が散失し僅か8巻しか残っていない。
 そのうち、放光般若波羅密多経の第23巻が静岡県指定文化財となっていて、
 終わりに「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提、尼置之」という政子の墨書がある。(修禅寺宝物館蔵)
 指月殿の中央に禅宗式という珍しい形の丈六釈迦如来像が安置されているが、
 持物のないはずの釈迦像が右手に蓮の花を持っているのが特徴である。
 指月殿の篇額の実物は、宋の名僧一山一寧の書といわれ、修禅寺本堂に掛けられている。
 同僧は正執権北条貞時に間牒の疑いをかけられ、正安元年(1299年)に修禅寺に幽閉されている。

 源頼家の墓  虎溪橋際にある箱湯で暗殺された
  指月殿境内にある。
 頼家は正治元年(1199年)に、父頼朝の死により家督を継いで、鎌倉二代将軍となった。
 幼少から才気活発で弓馬に長じ、建久4年(1193年)の富士野の狩場で高名を挙げたこともある。
 しかし家督を継いで間もなく、北条氏など元老の干渉も多く老臣会議制を敷かれて独裁を封じられた。
 さらに建仁3年(1203年)に罹病した時、相続のことが議せられて、北条時政と母政子(時政の娘)が、
 子の一幡と弟実朝に分譲する案を出した。
 これに対し、一幡の独裁を主張する一幡の母である若狭の局の父、比企能員と意見が対立し、
 北条氏との間が次第に険悪化していった。
 また、北条氏に対抗して頼家は、源氏の実権の回復に努め、能員と組んで北条氏を討とうとしたが、
 かえって能員と一幡は殺され、頼家は修禅寺に幽閉されてしまった。
 そして翌年の元久元年(1204年)に時政の密計により、
 修禅寺門前の虎溪橋際にある箱湯で暗殺された。
 このとき頼家は23歳という若さであった。
 現在、7月17日には地元の町内会により頼家忌が催されている。(命日7月18日)
 開催日 平成29年7月17日(月・祝)修善寺で暗殺された鎌倉二代将軍源頼家とその家臣である
 十三士の霊を慰めるイベントです。 仮装行列が修禅寺を出発して、十三士の墓、頼家の墓を詣で供養を
 行い、桂橋から修禅寺へ戻ります。 修善寺の夏イベントの幕開けです。
 
 源範頼の墓  日枝神社下にあった信功院で自刃した
  温泉場の西北側の山腹にある。範頼は鎌倉初期の武将。義朝の第六子で、蒲冠者と呼ばれた。
 治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立したとき、弟義経とともに義仲を倒し、
 次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。
 その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経を殺すよう命じたが、断ると、
 範頼も背くようになると疑われるようになった。
 建久4年(1193年)の曽我兄弟仇討ちのとき、鎌倉へは頼朝も殺されたと誤って伝えられ、
 悲しむ政子を慰さめて「範頼あるかぎりご安心下さい」といったことから、幕府横領の疑いを招いた。
 範頼は百方陳弁につとめたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められて、
 日枝神社下にあった信功院で自刃したと伝えられている。

 十三士の墓  挙兵前に殺された家臣を祭ってある  温泉場の南山にある。
 源頼家の家臣は、頼家が殺された6日後に再起を期して謀反を企てたが、
 挙兵前に発見され殺されたと伝えられ、その家臣を祭ってあるという。
 この付近を御庵洞と呼び、鎌倉初期に、北条時政が隠栖した庵室跡といわれ、
 また、源頼家庵室跡という話もある。
 謎の黒髪  仏像から3束の髪の毛と経文が発見された
   修善寺の本尊、大日如来像が虫食いなどの損傷がひどくなり、昭和59年に修復されることになった。
 この仏像は鎌倉時代初期の承元4年(1210年)に作られた高さ1.3mの寄せ木づくりの座像で、
 修復解体の折、運慶の高弟実慶の作と判明した。
 仏像解体前、X線撮影により座像に底部に何かが入っていることが確認され、
 解体してみたところ3束の髪の毛と経文が発見された。
 完成以来一度も解体されたことのないことから、これらは仏像製作時に納められたものであると
 判断され、この謎の黒髪をめぐって歴史論争が展開された。
 北条政子か?源頼家か?頼家の妻辻殿か?諸説が入り乱れるなか、NHKは50分番組を組み、
 現代科学を取り入れ解明を図った。
 その結果、所有者はO型とB型の血液型であると判明、性別についてはほぼ女性のものと
 断定されたことから頼家説は消え、政子か辻殿が二分されることとなった。
 結局、結論のでないまま謎の黒髪は元どおり仏像の体内に納められることになった。
 この修復により、仏像は半永久的に保存され、
 次に解体修理が必要となるには1000年以上も先のこととなるそうである。
 この間、黒髪は謎を秘めたまま再び深い眠りについた。
 堀藤次親家  頼朝、頼家の側近として活躍した 伊豆市大野
  親家は、源頼朝の蛭ヶ小島の挙兵以来頼朝に従い、戦功を挙げた。
 「吾妻鏡」や「源平盛衰記」を通じ、親家の名が随所に出てくることから、
 頼朝、頼家に信頼され側近として活躍したことがうかがえる。

 加藤景廉  平家の目代山木判官平兼隆を討った  伊豆市牧之郷
  源頼朝が源氏旗揚げの折、平家の目代山木判官平兼隆を討ち、第一の功を上げる。
 以後、鎌倉幕府創設に献身努力し、頼朝から牧之郷をはじめ各所に所領を与えられ、
 岐阜県遠山地方の要衡岩村に城を築いた。
 後に長子影朝に城を譲り、牧之郷に帰ると源平の合戦で亡くなった人たちの精霊供養のため
 読経三昧に明け暮れこの世を去った。

 安達藤九郎盛長  老臣の一人として幕政に加わった 梅林登り口
  早くから頼朝に仕え、鎌倉幕府創設後は上野奉行職、三河守護などを歴任し、
 頼家が将軍になると老臣の一人として幕政に加わった。 墓は梅林道入口右側にある。

 独鈷の湯  弘法大師が独鈷杵で霊泉を湧出させた
  同2年(807年)に、弘法大師がこの地を訪れたとき、桂川で病みつかれた父の体を洗う
 少年を見つけ、その孝心に心を打たれ「川の水では冷たかろう」と、
 手にした独鈷杵(仏具)で川中の岩を打ち、霊泉を湧出させたという。
 そして、大師が父子に温泉治療を教えたところ、不思議なことに父の十数年来の固疾は
 たちまち平癒したと伝えられ、その後この地には温泉治療が広まったという。
 いわゆる修善寺温泉発祥の温泉で、伊豆最古のものといわれている。
 
 温泉の歴史  修善寺温泉の歴史
  修善寺温泉の歴史は弘法大師が独鈷の湯を発見したという伝説から始まる。
 修善寺に幽閉された源頼家は入浴中に暗殺されており、
 少なくとも鎌倉初期には温泉が利用されていたことがわかる。
 それ以後の北条早雲や豊臣秀吉の古文書にも温泉入浴のことが出ているが
 どの程度の設備があったかは不明である。
 しかし、徳川中期には独鈷の湯、石湯、箱湯、稚児の湯などの周囲の農家が湯治客を相手に
 部屋貸しを始め徐々に設備を充実していった。
 いわゆる木賃宿で、湯治客は自炊を主とし、内湯はなく共同浴場に通っていた。
 それから、共同浴場を貸し切る留湯という制度が始められ、農家は副業から次第に専業の旅館に
 変わっていったが、この頃には既に湯治場としてそうとう知られていた。
 明治初年になって、湯治客専用の温泉を設備した内湯が誕生し、交通機関が整備されて、
 多くの文人墨客が訪れるようになった。
 そして、それらの作品には、湯治場から避暑地化した様子や温泉場と呼ばれる風物が表されている。
 共同浴場は独鈷の湯、稚児の湯、川原湯、箱湯、新湯、滝の湯、石湯、寺の湯、杉の湯があったが、
 この9湯の内、現在残っているのは「独鈷の湯」だけである。
 (「箱湯」は2000年に新たに立て直され、他の温泉も復興予定です)
 その後、温泉場の住民用共同浴場として、町内会共同経営の神戸湯、南湯、源氏湯、真湯が作られ
 利用されている。
 温泉郷は、昭和21年までは自噴泉と小規模タービン揚げ湯とが共存していたが、22年以降乱掘、
 増掘競争が始まり、25年には自噴泉は総て枯渇してしまった。
 また、平均泉温は昭和22年までは65℃であったが、56年には56℃まで低下した。
 この対策として、温泉事業協同組合では、利用可能な源泉73井の内
 優良な26井を集中管理することとし、昭和54年11月に着工、56年5月に完成した。
 その結果、水位は集中管理前は平均で海抜15mであったが、
 59年10月には80mに、泉温も62℃に上昇した。
 泉質は、単純泉と含芒硝石弱食塩泉で、神経痛、リューマチ、胃腸病などに効果がある。

 湯汲式  独鈷の湯を汲み修禅寺本堂へ献湯 4月21日
  弘法大師が独鈷の湯を湧出させたという伝説に由来して、4月21日の弘法忌に行われる。
 源泉名の入った湯桶に独鈷の湯を汲み、露払いや稚児を従えた娘たちにより、
 修禅寺本堂の大師霊前へ献湯する行事。

修善寺の沿革
 修善寺町では縄文前期(7000年以前)の遺跡が数個所発見されており、
 この頃には既に人間が生活を始めていたことがわかる。
 しかし、それ以後の弥生から奈良時代に至るまでは、多少の遺跡が発見された程度で、
 詳しいことは不明である。
 当町の記録された歴史の始まりは、平安初期に弘法大師が修禅寺を開基した頃からである。
 当時は地名を桂谷と呼び、寺名を桂谷山寺といっていたが、鎌倉初期には、
 寺名を修禅寺というようになっており、地名も寺領だったところから修禅寺と呼んでいる。
 この時代には源範頼、頼家が幽閉され暗殺されるという源氏興亡の哀史の舞台となっている。
 室町後期に至り、現在呼ばれているように、寺名を修禅寺、地名を修善寺と区別するようになった。
 徳川初期には、金山奉行の大久保長安が瓜生野金山を開発し、慶長小判などの金が採掘された。
 また、紙谷では修善寺紙が漉かれ、これを色よし紙といって上流社会で珍重された。
 徳川末期になって、下田開発と共に街道宿として、本立野宿が栄えている。
 温泉場としては、明治に至るまでには既にある程度開けていたが、
 この頃の宿は共同浴場を利用していた。
 明治になってから湯治客専用の内湯旅館が誕生し、交通機関などが整備されて、
 多くの文人墨客が訪れるようになった。
 大正末期には駿豆線が修善寺まで開通し、修善寺駅前周辺が整備されて急速に発展した。
 このとき、修善寺は他村に先がけ、郡下最初の町制が施行された。
 昭和30年代に至り、下狩野村、北狩野村と合併。
 その後、平成16年4月1日に修善寺町、中伊豆町、天城湯ヶ島町、土肥町の4町が合併し、伊豆市となった。