中央日報 2019 5 2
日本の年号‘令和’には
百済人の平和思想が
令和時代の開幕
年号考案者
中西進
教授
7世紀に戦争を避けて日本に渡った百済人
聖徳太子と平和憲法作成
日本では5月1日に元号「令和」を使用する徳仁天皇の時代が開幕した。「令和」
を考案した中西進(89)名誉教授は、「令和は‘美しい平和’という意味」とし
「一にも平和、二にも平和を重んじる平和論者が考案した元号」と述べた。4月
28日の中央日報との単独インタビューで、彼は平和に対する強い信念から「令和」
を新元号として推薦したことを明らかにした。
中西教授は特に「元号の二文字のうち、平和を意味する『和』は、7世紀に聖徳
太子が作った17条の憲法に登場したもの」とし「朝鮮半島から渡ってき百済出身
の知識人たちが太子と憲法を一緒に作ったから、『和』は東アジア全体の平和思
想だ」と述べた。
日本のメディアは、日本で最も古い詩歌集である『万葉集』研究の第一人者であ
る中西教授を「令和の考案者」として報道している。しかし、「考案者を正式に
発表しない」というのが政府の立場であるせいか、中西教授はインタビューで
「考案した人は~」という三人称視点で主に述べた。
令和は『万葉集』の「梅の花」の歌32首の序文にある‘初春の令月にして、気淑
く風和ぎ、…’から二字を取ったものだ。インタビューは中西教授が館長を務め
る富山市の高志の國文学館で4月28日に1時間ほど行われた。外国メディアとの最
初のインタビューだった。
Q: 元号を直接考案したことはまだ秘密のようだ。政府が発表していない。
A:「それは平成の時も同様だった。それにもかかわらず、政府関係者を引用して(
メディアが報道した)」
Q: 日本で元号とは何を意味するのか。
A:「ある時代を特徴づけるネーミングだ。こうした未来であってほしいと祈る
性格もある。未来に対する目標と祈りが入らなければならないし、覚えやすくな
ければならないし、内容も素晴らしくなければならず、響きも大切で、パターン
を踏み外してはならない。家に見えたお客様は台所ではなく応接間でお迎えする
のが自然なように、元号にも全く異質なものが入り込んではよくない。半分は伝
統を生かし、半分は新たに光輝く内容の集合体というか」日韓関係は歯がゆい、
必ずや改善すべき
Q:考案自体が難しい作業のようだ。
A:「宮廷から謎解きを仰せつかった人のようだ。‘一晩で作れ’といわれると頭が
真っ白になるように、元号の考案も1、2年で出来ることではなく、少なくとも6、7年
以上はかけるべきことだ。考案者は20~30個の案を出したという」
Q:‘令’は命令を意味するのではないかという説があるが。
A:「令は基本的には良いこと、美しいものだ。英語でオーダー(order)とも解釈
されるが、オーダーには命令以外に‘秩序’という意味もある。つまりビューティ
フルオーダー、オーダーがあるビューティー、秩序ある美しさというか。それを
‘命令’とか‘使役(させること) ’とだけ言うのは、知識のレベルがとても低いのだ。」
Q:では‘和’はどうか。
A:「和はピース(peace)、平和だ。7世紀初めの優れた王子だった聖徳太子が、
十七条の憲法というものを作った(604年)。日本では以後1400年以上に渡って重
んじられてきた。その憲法の1条が「和が重要である」という内容だ。7世紀の平
和憲法が1946年の平和憲法につながっている。しかし、(これまで)韓国にはそん
な日本の姿を見せることをせず、迷惑をかけたと思う」
Q:聖徳太子はなぜ平和憲法を作ったのか。
A:「朝鮮半島で繰り広げられた戦争に日本は介入したが負け続けた。厭戦思想
が広がり国民は『戦争をやめてくれ』といった。それで決断して戦争をやめ、す
ぐその翌年に‘和’を入れて憲法を作った。無駄な戦争をやめて尊い命を守ろう
という意味が込められているのがこの‘和’だ」
Q:朝鮮半島から来た渡来人の役割があったか。
A:「百済人が戦争を避けて日本に大勢渡ってきた。知識人も多かった。彼らが
聖徳太子とともに十七条憲法を一緒に作った。故郷を失い、日本に逃げてきた人
々、‘血(血統)’で見ると大和人ではない。すなわち、日本人ではなく韓国人だ。
彼らは『戦争は嫌だ、二度と繰り返されてはならない』と言いながら‘和’で憲
法を作った。そのような点で‘和’は東アジア全体の平和思想だ。当時先進国だっ
た百済人の知力(知的能力)が入っている」
Q:「令和時代」の日本にはどうあってほしいか。
A:「令には紀律・規律という意味もある。他の人に命令するだけではなく、自
分自身に命令しなければならない。また、グローバル時代には、有限な地球のた
めにも遠い未来を見据えて様々な礎石を固めなければならない。国民をどのよう
に豊かにするのかを考えなければならない。軍事力で戦うのは愚の骨頂だ。」
Q:韓国の知人が多い知韓派として悪化した日韓関係に対する考えは。
A:「本当に歯痒い。ぜひ改めるべきだ」
ソ・スンウク特派員 sswook@joongang.co.kr
中西
進
日本文学研究と比較文学研究で日本を代表する学者。日本、韓国、中国の文学はもちろん、古今東西に渡る
深い学識にもとづき、研究に没頭してきた。特に、日本最古の詩歌集‘万葉集’研究の第一人者として評価
されており、‘中西万葉学’という造語まである。2013年には科学技術と文化等の分野にて優れた業績を残
した者に授与される文化勲章を受けている。
孫歌人の10周忌記者インタビュー 孫戸妍
李承信 親子詩人の家 ソウル
2013.11.22
李承信さんのカルチャーエッセイ、漸次更新しますが取りえず
5月6日夜配信を転送します。 (大脇)
From: "sonhoyunim" <sonhoyunim@hanmail.net>
To: <junowaki@able.ocn.ne.jp>
Date: Mon, 06 May 2019 20:24:39 +0900 (KST)
: - 平成を終えて
019 4 30
李承信の詩で書くカルチャーエッセイ 平成を終えて
今日で日本は平成時代が終わる。
韓国内の報道だけを見て行った最近の日本は、新しい天皇、新しい時代を迎える
雰囲気にかなり浮かれていた。それまでの大きなニュースだったあと少しの東京
オリンピックはどこ吹く風だった。
退位直前、平成時代の明仁天皇は簡素なジャンバーをはおって皇后と腕を組み、
普段歩いて出ることのない皇居の外に出て200メートルほど歩きもした。通り過
ぎる人々が歓声をあげた。国民が最高に支持し、仰ぎ見ていることが感じられた。
1933年生まれだから、12歳で終戦を迎えた明仁天皇は、その時の記憶が強く入力
されているように、機会があるごとに悲惨な戦争が二度と起きないようにと、た
だ平和であれと繰り返された。
68歳の誕生日のインタビューで、「桓武天皇の母が百済の武?王の子孫であると
続日本紀に書かれていることで、韓国との縁を感じるようになった」と語ったの
は、韓国に行きたいという心の現われと解釈された。実際1998年に訪韓の企画が
あったが、諸事情により実現はしなかった。
1992年、日本の天皇としては初めて中国を訪れた。南京虐殺事件などがあったに
もかかわらず中国国民たちが熱烈に歓迎し、主席との晩餐では「幼くして中国の
文化に接した。過去に凄惨な戦争があったことを悲しむ心を持って深く反省し、
今後は平和だけがあることを望む」と語った。韓国との縁を深く感じる明仁天皇
が韓国を訪れていたとしたら語ったであろう言葉だと思った。
終戦から60年後の2005年には、サイパンで慰霊碑と海に向かって、戦死者たちの
ために黙祷した明仁天皇は、予定にはなかった韓国人の慰霊碑の前に近づいて献
花し、頭を垂れてしばし参拝して補佐官たちを驚かせた。
1995年の凄まじい神戸阪神大地震と、2011年3月の東日本大震災、そして昨年の
西日本の水害にも天皇としては初めて、被災者の前に膝をつき慰労する謙虚な姿
勢で、今なお明仁天皇を神と考える国民に深い感慨を与えた。
天皇は一つの象徴的な存在だが、日本でいつも感じるのは、国民の胸深くに天
皇が刻まれているということだ。
たくさんの人々が険悪になった日韓関係を心配している。
思えば、2012年にMB(李明博元大統領)が竹島で天皇が謝罪すべきだと言及したと
きから、日韓関係は下り坂になった。日本の人々は私に言う。「私の悪口ならが
まんできる。でも私の父親を論うことは許せない」と。弱者に対し真実に向き合
い、一貫して平和のメッセージを送り続けることで、明仁天皇は国民から深く尊
敬されている。
最近も韓国の国会議長が同じ発言をした。そのたびに日本人の心の扉が閉ざされ
るのに、地理的に永遠の隣人として生きてゆかねばならない韓国がそうした態度
に出ることは、知恵深いこととはいえない。天皇だから尊敬されているという部
分もあるだろうが、31年間その言動を見守ってきた国民は本当の父母以上にその
胸に受け入れているのだ。
今度東京でテレビを見て驚いたことがある。
天皇は政治に関与しないために政治とは無関係な勉強をするが、明仁天皇が魚類
に対し研究した論文を国際会議の舞台で英語で発表し、西洋の学者たちからの質
問に対し専門家として英語ではっきりと正確に答えているのだ。
天皇は韓国が伝えた短歌を詠む歌人でもある。
何年か前国際PENクラブ会長のジョン・ラルストン・ソウル(John Ralston Saul)
を景福宮や淸溪川などに一日案内したことがあるが、彼によれば、世界で詩を詠
み読書する王は日本の天皇だけだということだ。えっ、でもイギリスの女王はい
つもスピーチするのに本を読まないんですかと問うと、自分は女王に何十回も会っ
てよく知っているが、その家族はまったく本を読まないと言うので、驚いたこと
がある。
今度の‘令和’という年号の考案者ということになっている中西進先生とともに、
ソウルで記者たちからインタビューを受けたことがある。最初の質問が「天皇は
何をする人なのか?」だった。中西先生は即座に答えた。日本の天皇は「一言で
いえば短歌を詠む人」であると。その瞬間、1300年前に百済が戦争に敗れて日本
に渡り、朝鮮半島で詠んでいた歌をそこでも詠み、それを天皇が代々歌い継いで
きているのだから、自らの言葉通り、百済の後孫に違いないと思われた。
ソウルで短歌を詠んだ私の母が、1998年1月に天皇の招請を受けて宮中に出向い
たのは、短歌の大家として、天皇、皇后、皇太子を初めとする皇族が作った短歌
を朗読するのを聴いてほしいという陪聴人としてだった。当時私もともに宮中に
入り待機室で待っていたときには何が何だかまったくわからない状態だった。そ
れでもその小さな体験があったおかげで、ずっと後になって知らないにもほどが
あったことを悟り、万葉集を勉強する契機となった。
日本は今、一つの大きな時代が変わる歴史的な転換期を迎え、崩御をもっての
交代でないことに加え、経済も外交もうまくいっているせいか、文字通りお祭
り騒ぎだ。
韓国を常に念頭におき、持続的に努力してきた明仁天皇のような日本の天皇は、
以前はもちろん今後も出ないようで、そういう面では残念だ。
それにもかかわらず、千年を越えて深い縁のある隣国が、新しい時代を開こうと
しているのだから、お祝いするべきであり、それが韓国とのよい関係となるきっ
かけになればという思いでいっぱいだ。
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李承信 詩人 エッセイスト TV放送人 孫戸妍短歌研究所理事長
梨花女子大学英文科、ワシントンジョージタウン大学院 & ニューヨークシラキュ
ス大学院京都同志社大学Voice of America, Wash. DC, 韓國放送委員会国際協力
委員、サムスン映像事業団 & 第一企画製作顧問 ?任
著書 - 癒しと悟りの旅路、息をとめて、沖縄に染まる, Love Letter花だけの春
などあろうはずもなし、あなたの心で花は咲く, 等
隣人・被災地の友に贈る192の詩 李承信
(著)
2013.3.7 有楽町・外人記者クラブ
中央日報5月7日(火) 令和
「朝鮮半島の歌が日本の詩歌に影響」
5月1日から使用される日本の新元号“令和”を考案した人物が、中西進大阪女子
大名誉教授(89)であることが確認されたと、日本メディアが3日報じた。 “令和”
は8世紀に集大成された日本最古の和歌集『萬葉集』を典拠とする。万葉集研究
分野で‘中西萬葉学’という言葉があるほど中西教授はこの分野の第一人者だ。
ところで、この中西教授は普段から「朝鮮半島から日本に来た渡来人が萬葉集
に載せられた日本の歌に大きな影響を及ぼした」ことを持論とする知韓派学者
であると、中西教授をよく知る韓国人の知人が明らかにした。
中西教授は2003年に逝去した女流歌人、孫戸妍の師でもある。孫戸妍の娘で詩人
兼随筆家の李承信氏も中西教授と親交を深めてきた。李承信氏は3日、中央日報
との電話で「韓国と日本の文化交流に大きな関心をよせている方」と語った。
実際、中西教授は2013年、『李承信一行詩の力』東京出版記念会で記念講演をし、
講演では「今後の外交で最も重要な要素は心の関係、知の関係、文化の関係を築
いていくこと」とも述べた。
1997年に芥川賞を受賞した在日小説家の柳美里氏は、2日ツイッターに中西教授
と出席したシンポジウムの内容を紹介した。2010年に北海道で開かれた‘萬葉の
こころを未来へ’というシンポジウムで、中西教授から「(朝鮮半島の) 郷歌と
詩調を萬葉集と比較してみなさい」という高難度のミッションが与えられたとい
う。
当時、中西教授はシンポジウムで「三国時代の末の朝鮮半島で、百済と高句麗が
滅亡し、多くの人たちが日本に渡ってきた。その時渡ってきた渡来人たちが萬葉
集に大きな影響を及ぼした」と述べたと伝えた。
朝鮮半島で詠まれた詩歌が海を渡り、後に萬葉集に載せられた日本の詩歌に影
響を及ぼしたということだ。
安倍晋三首相は4月1日、新元号「令和」の選定背景を説明する記者会見で、「萬
葉集は1200余年前に編纂された日本最古の和歌集」とし「天皇や皇族、貴族だけ
でなく、防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められた国書」であ
るとと述べた。
新しい元号の発表以降、日本はときあたかも“萬葉集ブーム”だ。日本中の書
店に“萬葉集特集コーナー”が設置され始めた。新元号が採用された万葉集の
中の‘梅の花’の歌が実際に詠まれたという福岡の太宰府には、はや巡礼客た
ちが押し寄せている。 東京 = ソ・スンオク特派員 sswook@joongang.co.kr
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日本古典文学 万葉集 2016 5 26
萬葉集、古典を勉強して
2011年、東日本大震災による津波がおき、歌人であった母の詩心を愛してくださった日本の人々の
ことを思いながら、夜を明かしてその心を表現したわたしの一行詩が話題となり、
日本のさまざまな場所でスピーチや朗読をする機会がありました。
そのたびごとに、日本をもっと勉強しなければと思わされ、こうして晩学ながら
京都の同志社大学で日本語とその文化を勉強することになり、一定の水準になる
と、自信が望む科目を選べるようにもなりました。
わたしは文学と読解と文章論を選びました。ところが、文学は当然現代文学と
思ったのですが、ゴマ粒のような科目説明をもくに読みもせずに選んだところ、
なんとこれが日本の古典文学、それも日本文学の宝の中の宝ともいうべき万葉
集の授業でした。千年以上の昔、千二百・三百年前の古語が混ざる圧縮された
一行の文学を、ソウルで日本語学院に一日も通ったことのない者がどうしてつ
いていけましょうか。
二つのことを考えました。
まずは、20科目を優秀な成績で通過しなければ大学を卒業できないが、この日本
文学のせいで当然はじき返されて通過できないだろうということ。二つ目は、韓
国では息の絶えてしまった短歌の唯一の後裔であった母の短歌が、古代万葉集に
倣って日本屈指の出版社講談社が出した近現代の優秀な短歌を集めた昭和万葉集
(全20巻)に五つとられていることから、そのような縁を偶然ではなく必然的なも
のとして選べるように機会が与えられたのではないか、ということです。
この難しい古典文学、万葉集を勉強して試験に通る自信はまったくありませんで
したが、最初の授業から素晴らしい作品に接し、指導教授の山村先生の卓越した
解釈に夢中になり、90分間の授業に何度も参加してみてると、途中でぬけること
ができなくなりました。
仕方なく、これは最初に考えた二つのうち、二つ目のことなのだと自らを納得さ
せ最後まで休むことなく皆勤となりました。
古典文学を解釈しながら、現代に同じテーマの現代詩や歌を探し出しては読んだ
り聴いたりする山村先生の熱情はたいへんなものでした。1400年前、短歌を百済
から日本に伝え、教えた短歌歌人たちの心を、誰かがわたしに継がせようとして
いるのだろうかと、ため息も出ましたが、これも乗りかかった船と勉強に精を出
しました。
最初の授業はかの有名な松尾芭蕉(1644- 1694)の俳句
古池や蛙飛び込む水の音
これのどこが詩なのか、とよく言われる。先生もわたしのように、その平凡な詩
をたいしたことはないと考えていたが、ずっと前に同志社文学の師による素晴ら
しい解釈を聞いてすっかりはまってしまったという説明に耳を傾けてみると、同
じ一行の詩が、宇宙の静寂にひたる音と再び訪れる静寂という解釈により、新し
い気づきとなってわたしに迫ってくることに驚かされた。60余名の学生はみなわ
たしより日本語が上手だが、詩にこめられた人生の深さがあなたたちのような二
十歳前後の年でわかるもんですかと思いながら耐えた。
はつ 初 しぐれ 時雨 さる猿 も こみの小蓑 を ほ欲しげ なり也
上の芭蕉のもう一つの俳句のうち、最も重要な単語は何だろうかとの問いに、初
時雨、猿、小蓑、と全部を答えたがどれも違った。正解は猿の後ろにある‘も’
だった。
肌寒い初冬の山に時雨がふり作者さえ心細く、猿もまたそうだろうと考える、作
者の憐憫と同情と共感が垣間見える鋭い解釈だ。その解釈に膝をたたいて感嘆し
た。こういう授業を受けて、こういう解釈を知ることは奇跡のようなできごとだ。
万葉集は千年以上も前、百済の滅亡を機にその王族と貴族、学者や知識人たちが
日本へ日本へと渡って、飛鳥、奈良、京都地域に定着し、文化の核心として短歌
をつくって交流し、心を表現してきた歴史、記録、物証であり、それを4500余首
に集大成した尊い宝物だ。その詩の多くは海を渡っていった百済人の手になり、
それを集大成した人物である大伴家持も百済人2世の渡来人だ。
万葉集研究の最高大家である中西進先生に直接聞いた、百済に由来する短歌の歴
史だが、万葉集を研究する多くの学者たちがその深い歴史を知らず、日本古来の
ものと思われていることが残念だ。
フランスやアメリカに行くと、大学図書館はもちろん、書店にも短歌、俳句のよ
うな簡潔で深みのある短詩がときに禅詩とも言われながら、ありふれて手にする
ことができ、全て日本のものとして知られ日本の格とイメージを高めるのに大き
く貢献しているのを目にする。そのたびに、本来韓国のものであった短歌の真髄
を、韓民族が知る日が必ず来ると母が言っていたことを思い出す。
古代日本の最初の文学作品である万葉集の詩人は、ほとんどが天皇か当時の貴族
たちだ。その代表的な詩の核心とその心を理解しようと、わたしは夜を明かした。
もちろん難しいし、試験に落ちれば卒業できないためでもあるが、何よりその勉
強が興味津々としたものだったせいだ。
愛の詩、先立った恋人に向けた挽歌、人生と人類を思う心、美しい自然と四季
を歌う一行の詩には、わたしたちが全く関心をもたなかった千年前の愛が、こ
の時代の愛とどうしてこうもそっくりなのかと驚かされる。現代と古代が連結
され、古代の彼らもわたしたちと同じ感情と感性をもっていたことは、それが
あまりに当然なことではあっても、実に驚くべき発見だ。
期末試験のため一学期間全体を範囲として9科目の勉強をしなければならないが、
他の科目を後回しにしてわたしは古典文学に集中した。詩の空欄に適切な単語を
補わなければならず、有名な詩人の古風な名前とその詩の特徴を年代記とともに
覚えねばならず、詩の解釈もしなければならず、頭から火が出る思いだったが、
90分間の試験で96点をとることができわたし自信が驚いた。毎週その日の授業の
感想を書き、“わたしが地球に残したい一冊の本”という2千字のレポートも書
かねばならなかった。
そうして古典文学で‘A’の成績を受けたときには、本当に肝をつぶしてしまっ
た。この科目のせいで卒業できないと思っていたのに。卒業の可能性が開けた
瞬間だ。千年前のこの地の祖先たちを称える瞬間でもある。
古代の詩人たちの愛の詩に垣間見える切実な心とその歌を聞き、胸がいっぱいに
なって夕方の弘風館の文学教室を出ると、照明がおちた古いレンガと深緑の木々
のあるキャンパス、そして明るい光をともす月がわたしを迎えた。時空を超越し
たその瞬間をわたしは決して忘れられないだろう。
恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき言尽くしてよ 長くと思はば
思はぬに 妹が笑まひを 夢に見て 心のうちに 燃えつつそ居る
思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして
つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを
万葉集から
万葉集の編纂者、大伴家持
万葉集研究の第一人者であり、日本の皇后と歌人孫戸妍の師でもある中西進先
生 古代万葉集のように近現代短歌の優秀作品を集めた昭和万葉集。孫戸妍の
短歌5首を収録。
インターネットで‘万葉集のハングル’を検索すると孫戸妍歌人夫妻の写真が
検索される。 - 2002 ソウル
毎日一番遅く退出する大学生 - 京都同志社大学 図書館 2016.1.24
<鳳仙花>◆女流歌人・孫戸妍さんの願い◆
東洋経済日報
「切実な願いが吾に一つあり 争いのなき国と国なれ」
韓国の女流歌人・孫戸研(ソンホヨン)さんのドキュメンタリーが先日上映された。
6月の韓日首脳会談で小泉首相が、韓日友好への願いを女流歌人・孫戸妍さんの
歌に託すなど、故人の生涯が再び脚光を浴びている。
孫戸妍さんは、80年の人生で約2000首の歌を詠んだ。その神髄は韓国人の魂、
誇り、そして祖国の美しさを日本の和歌で表現したことにある。
「もろともに同じ祖先を持ちながら、銃剣とれりここの境に」
同族同士が殺し合った韓国戦争の悲劇を詠んだ歌の一つだが、孫さん自身も父を
この戦争で失うという、辛い体験をしている。
しかし、若いころは日本の和歌を詠んだことで「親日派」と中傷され、嫌な思い
も数多くしたという。多くの苦難を経て、やっと生活が落ち着いたと思ったら、83年に
今度は夫が急逝。
「君よわが愛の深さをためさむと かりそめに目を閉じたまひしや」
亡き夫を偲んで詠んだこの歌は、究極の愛の象徴として、一連の歌の中でも
最高の評価を受け、日本でも広く知られるようになった。
孫さんの歌を愛する人々が次第に周囲に集うようになり、その人たちの尽力で、
97年に青森六ヶ所村に歌碑建立。98年には宮中和歌始に招待され、2000年には
大韓民国花冠文化勲章を受章した。
晩年は本当に光り輝いていたように思う。
2001年、がんで闘病生活を送ることになるが、「死ぬ前に歌を韓国語で残したい」と
李承信さんとともに翻訳し、出来たのが韓日対訳歌集「戸妍恋歌」だった。その完成を
見届けたかのように2003年亡くなった。
「平和と人間愛」、この2つを生涯詠み続け、「無窮花とさくら」を真に愛でた歌人のことを、
両国でもっと知ってほしい。(L)
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東日本大震災の日本人に思いを寄せ…感動と激励の短歌集
産経新聞 10月8日(土)7時55分配信 【外信コラム】ソウルからヨボセヨ
何ごとぞまさしくこれは何ごとぞ世の終末か言葉失う
惨事にもなお慎ましきその列は切なる祈り吾らへの教示
危機の中さらに際立つ真(まこと)の美日本の配慮と忍耐こそは
韓国人として初めて日本の宮中歌会始に招かれた歌人、故孫戸妍(ソン・ホヨン)さん
(1923~2003年)を母に持つ詩人、李承信(イ・スンシン)さんが最近、東日本大震災の
日本人に思いを寄せた詩集『花だけの春などあろうはずもなし-短歌で綴(つづ)る日本
人への手紙』を韓国で出版した。
彼女はソウルで“文化空間”としてギャラリー・レストラン「ザ・ソホー」を運営。短歌を通じ
日韓の理解と和解を詠み続けた母の志を継ぎ、これまで母の歌集の韓国語や英語への
翻訳出版、朗読会やコンサートなど記念イベントを開き、2008年には日韓文化交流基金
賞を受賞した。
歌詠みの母なら君に伝えしを同じ痛みを分かつ心を
その節制、忍耐、配慮、その毅然、亡き母の内に吾見たるもの
大人なら心で泣けと諭し母心で泣く君見て思い出す
日本人を「君」と呼びかけ感動と激励を詠んだ短歌は約200首。韓国語訳も付いている。
先駆けて進む国のみ示しうる犠牲と毅然(きぜん)言葉少なに
一握の光かざして踏み出せばすでに遠くにかすむ悲しみ(黒田勝弘)
他国の方が こうして日本に同情を示してくださり 励まして下さろうとするそのお心が 熱く胸にしみます。.
涙が出るほどありがたいです。
日韓の友好夢見て逝きし人望みし世界はいつかなふらむ(琴鈴)
.
解説)From: junowaki-ocn <junowaki@able.ocn.ne.jp>
To: e-mirai_freeml <e-mirai@freeml.com>
Date: Tue, 07 May 2019 11:34:36 +0900
Subject: 麗しき和の時代の初めに!
敬愛する諸先輩、「良い未来:e-mirai未来構想」同志の皆様、
10連休も終わり、いよいよ新時代の仕事初めの今日7日。平成から令和の時代へ
と平和裏に移行し、百花爛漫の春から目の覚めるような新緑の季節、初夏へと移
りつつあります。小生も後期高齢者の仲間入りをさせていただき、「花は紅、柳
は緑」(To see as meekly as it is.)の世界、自然の大交響曲にふと聴き惚れ
る日々を送らせていただく年齢となりました。
数年前、有楽町の外人記者クラブで、李承信さんの『君の心で花は咲く』の出
版記念パーティーがありました。在日韓国人医師会会長のお誘いで出席させてい
ただき、そこで「令和」の生みの親と言われる中西進先生ともお会いしました。
中西先生と李承信さんは御母堂孫戸妍(ソン・ホヨン)さんの時代からのお知り
合い。孫戸妍さんは韓国人として初めて日本の宮中歌会始に招かれた歌人、李承
信(イ・スンシン)さんも母の遺志を継ぐ歌人で、東日本大震災の日本人に思い
を寄せた詩集を韓日両国で出版されました。その後も毎週「李承信のカルチャー
エッセイ」を届けてくださっています。昨夜配信くださったメールは、カラーの
写真も多く詳細は【注1】のサイトをご覧ください。
この会合で武藤正敏元韓国大使や遠藤喜美子先生等にもお会いしました。特に
遠藤先生とは国立のご自宅までお伺いし、ご主人が筑波大学の教育学教授、また
ご本人も盛岡大学の教授でもあられたとのこと、話をお伺いするうちに不思議な
「ご縁」(絆)を感じました。さらにご主人の教え子が鄭仁豪、現・筑波大学教
授、ご尊父は鄭楽重教授(大脇が70年代日韓文化交流で出会い、筑波大学へご紹
介したご縁のある方)で、遠藤喜美子先生の『鳳仙花:洪蘭坡評伝』の取材にあ
たり、鄭仁豪氏から母校檀国大学の洪蘭坡記念館やご親族の方々の紹介を受け評
伝を完成することができたとのこと。その後、遠藤先生は韓国語でも出版したい
との長年の悲願を抱いていらっしゃいました。 小生が国立のご自宅へお伺いし
たのはそのような折でした。小生、知人数人をご紹介しましたが、いたずらに時
が流れるばかりで、遠藤先生も「韓国語版出版を諦めようか?」と弱音を吐かれ
ていました。小生は32年前、来日の折、ご接待した張忠植総長(当時)のこと
を思いおこし、人を介するのでは無く、直接張理事長へお手紙をされてはどうしょ
うか?きっと道が拓かれるでしょう!」とアドバイスを差し上げた記憶がありま
す。その後お二人の出会いによって、2017年4月10日、洪蘭坡生誕120年の式典に
『鳳仙花:洪蘭坡評伝』韓国語版が出版され、当日の参加者に贈呈されました。
かてて加えて、韓国全土の学校図書館に寄贈されたとのこと。式典に招待された
ただ一人の日本人、遠藤喜美子先生は「鳳仙花」を披露され、その精練されたハ
ングルの美声と共に、取材当時のエピソードに会場は感動の涙に包まれました。
「死ぬ前に、洪蘭坡が学んだ国立音大に行きたい!」とのたっての願いを張忠植
理事長は昨年11月15日、果たされました。その場に鄭仁豪教授(筑波大学付属養
護学校校長)も筑波から駆け付けてくださいました。【注2】
大半の人々は、日韓の友好を願っているのもかかわらず、メディアの異常性で
特殊な情報がさも世論であるかとのように報道され、世の中の騒々しいが増し加
わっています。以前『日韓共鳴二千年史』名越二荒之助著をご紹介したことがあ
る。【注3】日韓の二千年以上もの交流の中、いがみ合ったのはほんの一時で
あって、日韓の間に愛の橋を架けた先人は数知れません。「令和」との年号を耳
にし、小生は、張忠植理事長の最近書『麗しき絆』(2018年1月日本語版)を思
い起こしました。 「令」の意味に「麗しい、美しい、素晴らしい」という意味
が込められており、単なる平和から「質の高い平和」への志向が見受けられるか
らです。『麗しき絆』も日韓の障壁、一般道徳を超えた真の愛を希求する男女の
物語です。訳者よると半分以上が著者の体験した実話であるとのこと。張理事長
はまさに「怨讐を超えた真の愛」に生きる教育者です。87歳のご高齢で病身を押
して3万8千人を超す学生を要する大学の現役リーダーでもあります。姉妹提携
の日本の大学も多く、日韓の多くの若者が行き来しています。小生は張理事長の
ご著書に感動したことをお手紙しました。小生が推薦した方々30名余(安倍総理
以下)に航空便で直接個別にお送りくださったのには恐縮しました。この本を読
んだ某会長は「涙が出て仕方がない!」と感動され、映画監督・ナリオライーター
等が映画化を検討中とのことです。
日韓の間で政治・経済面でギクシャクする中、韓国のTVドラマは韓国人の心
を日本の茶の間に届けてくれている。今後益々感動の渦を巻き起こす芸術・文化
の時代、心の時代が訪れることを祈念したい。西欧近代文明が閉塞状況にある今
日、温故知新、古き良き伝統を活かして、西欧の病を包み、新しい文明を拓く主
役として日・韓・中の北東アジアの3国の活躍に期待したい!同じ「和」を志向
しても,韓国では「和諍」(争いや異なった考えを調和させる)、中国では「和
諧」(睦みあい,合意を成立させる)日本では和譲(相手を立てて譲る)。長所
は短所、その逆もまた真なりで、「 大きな和」(国家・東アジア・世界・恒久
平和)の下に大同団結することが求められている。
「ペンは剣よりも強し!」 The pen is mightier than the sword!
地上に生を受けているしばしのひと時、同志の皆様と共に、人類の見果てぬ夢、
「恒久平和の実現」を目指して、細やかではあるが、自分の持てる全てを完全投
入し、余生を捧げたいと想う。
令和元年5月7日
大脇 準一郎 拝
【注1】「李承信のカルチャーエッセイ」 ホームページ
【注2】「第15回くにたちふれあいコンサート・第2回日韓親善友好音楽の調べ」
【注3】『日韓共鳴二千年史』
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