日本のナショナルゴール  松下正寿  Word形式はこちら⇒

 Ⅰ、日本人の特質 省略
 Ⅱ、ナショナル・ゴールの前提 省略


 Ⅲ、十年後のナショナル・ゴール

 われわれに課された問題は十年後の日本はどうなっているであろうか、という客観的、実証的、「他人事」ではなく、われわれが十年後の日本をどういう風につくって行くか、何を努力目標にするかという主観釣、行動約、先験的性質のものである。われわれはこれを次の三つの観点から考えることが出来る。第1は個人、国家、世界の関係から見て日本は如何にあるかという問題、第2は自由と秩序という観点から見て日本は如何にあるべきかという問題、第3は人間と自然との関係という点から見て日本は如何にあるべきかという問題である。

1、 個人、国家、世界

 十年後における日本は如何にあるべきかを考える場合、第一に必要なのは個人と国家と世界の関係を正しく設定することである。 現在日本国民の思想の底には二つの潮流がある。第一は民主々義、第二は平和主義である。民主々義については次の章で論ずるからここでは平和主義を取り上げる。日本における平和主義は所謂「平和憲法」の無批判的礼讃をはじめ、その影響は広くかつ深い。私は先に日本人の権威主義、大勢順応主義、村八分を恐れる心理(それを裏返すと構想力の不足ということになるか)を指摘し、それを不変であると断じた。不変であるというのはそういう性格が不変であるという意味であって思想の方はむしろ可変というよりは変わり過ぎる位である。戦前における「国体尊厳」が「民主々義」に変わり、「君命重く、身命軽し」が丁度その逆の「生命は地球より重い」に変わっても、それは思想の変化であって、それに追従し、「村八分」になるまいとする性格は不変である。私はそういう性格を嫌いであるから変わってもらいたいが、絶対に変わらないらしいからむしろあきらめて、その不変の上に何かを築くことを考えた方がいいと思う。日本人は権威に弱く、村八分を恐れ、構想力が劣等である。故に外界からの圧力に接すると直ぐ思想を変える。一度思想を変えると昨日と今日とは全く反対のことをして平気であるだけではなく、熱心ですらある。それでは昨日の思想でも結構、今日の思想でも結構、思想などは何でもかまわないのか。若しそうだとすればわれわれはナショナル・ゴールのような厄介な問題など忘れ、世界の流れに従って順応して行けばいい。そしてわれわれ日本人は十分に順応能力を持っている、という考え方もある。この考え方は実に日本的であって、日本人である私自身にとっても非常に魅力的である。しかし、この考え方には致命的な欠陥がある。即ちこの考え方は無意識のうちに真理を否定している。軍国主義も平和主義もいずれも正しい、ということはあり得ない。いずれかが正しければ他は誤りであるし、いずれも誤りであれば第三の道があるはずである。思想は便宜的ではなく、真理に近づかなくてはいけない。一つの思想が絶対に真理であることは不可能であっても、真理の実在を確信して、それに直進しなくてはいけない。
 日本の平和主義は甚だ危険である。というのは平和主義の結果日本の防衛が危険であるという意味でもなく、ファシズムが秘かに進行しているという意味でもない。そうではなく外界からの圧力により、至って簡単に変質するからである。例えば「生命は地球より重い」ことを理由として犯人に無条件降伏をした日本国政府は西ドイツの強硬政策の成功を見て「大いに学び」、その翌日シュライヤーの殺害を聞いてまた再考するという状態で、無思想の悲劇を露骨にあらわしている。混乱の原因は極めて明らかである。「平和主義」というと何か立派な思想のようであるが、そんなものは思想の名に価しない。要するにエゴにほかならない。「生きたい」「死にたくない」「生きる以上豊かに生きたい」。それは悪いことではないが、エゴである。「平和主義」とは要するにそれだけのことで、「悪」ではないが少しも立派なものではない。人間において何か立派なものがあるとしたらそれはエゴを捨てること、「滅私奉公」である。人は誰でもエゴに生きると共に立派に生きたいのである。然るに日本の今の思想、特に平和思想は人のエゴを満足さしてはくれるが立派に生きようという意欲を満足させてくれない。人間を食物の豊かな動物園に飼っているようなもので、動物なら兎も角、人間としては堪えられない。そこでゲバ棒、赤軍、暴走族という無法者が現われ、平和と秩序の破壊に情熱を傾けるのてある。われわれが十年後の日本のあるべき姿を考える場合先ずこの平和問題即ち生死の問題につきはっきりした思想を打ち出しておかなくてはならない。

 平和問題は具体的には防衛問題につながるのであるが、ここではこの問題をエゴの問題、生死の問題ととらえ、個と全の立場から論述して見よう。現在の日本の「平和主義」はエゴイズムである。個あって全を知らない思想である。然るにこの「個あって全を知らない思想」は人間の一面即ちエゴ面は満足させるが、等しく人間本来の面である反エゴ面を無視する。そこにこの思想の誤りがあり、人間、特に若い者はエゴを求めつゝ、エゴの過剰に堪えられない。戦前はどうであったか。戦前の思想は「全あって個を知らない思想」であった。私は「滅私奉公」「忠君愛国」を愚弄して喜ぶ所謂「進歩的文化人」の軽薄さにはうんざりしているが、あの精神が正しいものとは思わない。少なくとも二つの点において誤りがあった。第一はエゴを全面的に悪ときめつけ、全のうちに個を没入させようとしたこと。第二は「全」を勝手に国家であると断定したこと。十年後の日本のあるべき姿を考える時、われわれは先ずこの点においての思想を確立しておく必要がある。人間はエゴに生きるがエゴのみに生きるものではない。戦前のようにエゴを否定する思想は誤りである。現在のようにエゴのみに生きる思想も誤りであり、その誤りがゲバ棒、赤軍等のような変態的「滅私奉公」に象徴されている。第二の誤りは全と国家とを混同したことである。この混同はへーゲル以来のもので、その伝統は深い。しかし全は国家ではない。それでは何が全であるか。「世界」であると言いたくなる。今年のロータリー・クラブの標語は「人類よ、一致せよ」であって誰も異議を唱えないようであるが、私には異論がある。その「人類」その「世界」とは何か。共産主義世界は自由主義世界の秩序を暴力で「解放」することを根本の目的としていることは明らかであるが、彼らとどういう国に「一致」しようというのか。世界なり人類なりが「一致」する前に共産主義と対決しなくてはならないのではないか。私は必ずしも第三次世界大戦必然論者ではないし、共産主義との対決が武力のみによるものであると確信しているわけではない。手段方法は二の次であるが、対決の必然性は明らかであり、私は自由主義陣営が絶対的に勝たなくてはいけないと信じている。そうであるとしたらわれわれの「全」はソ連や中共を含む全世界ではなく、自由主義世界である。然るに現実の問題として自由主義世界は分裂し、そこには統一性がない。故に今日における「全」は国家でもなく、世界でもなく、自由主義陣営でもない。それでは「全」が非存在であるかというにそうでもない。現実の歴史の中に存在している「全」は国家と自由主義世界の間に流動している。流動しているということは固定していないということ。固定していたいということは把握し難いということである。しかし把握し難いということは非存在という意床ではなく、むしろ生々と成長しているということである。その生々と成長しているものがわれわれの「全」であり、われわれの「個」はそれに捧げられなくてはならない。「人はパンのみにて生きるものに非ず。神の言葉による」。パンはエゴの対象であって、それはそれと正当化される。「神の言葉」は何であるか。千変方化する歴史釣現実であって固定していない。従ってわれわれには未だわれわれの「全」が何であるかはっきりわかっていない。しかし、はっきりわかっているところもある。それは人間の力で完全無欠な世界を建設できると考えている輩はわれわれの敵であるということ、そして敵と戦う勇気を否定しては十年後のナショナル・ゴールを考えることが不可能であるということ、換言すれば労のない功はあり得ないということである。

 2、自由と秩序

 現在の日本の思想的潮流は民主々義であり、民主々義の座には自由主義(または自由思想)がある。元来、民主々義とか自由主義とか云われれているのは西洋、特に西欧で発生し、西欧で発達したものを日本に輸入した思想であるから十分国情に適さないところや、所謂「われ鍋にとじぶた」的なものがあるのは争い難いところであり、そのような事実を特に否認するつもりはない。しかし、そういう風に批判する心理状態のうちには西欧的なものは何でも是認し、日本的または東洋的なものを低く見るという劣等感が働いているのではないかと思う。公平に見て日本人は民主々義も自由主義も非常によくこなしていると思う。日本の民主々義なり自由主義なりに重大な欠陥があるとしたらそれは日本の民主々義、日本の自由主義が西欧のそれと比べて未発達、未完成であるからではなく、むしろ民主々義や自由主義自体の方が危険になっているからであって、その病状という点から見ると日本の民主々義の病気は比較的軽い方ではないかと思う。責任は「日本」の方にあるのではなく、「民主々義」の方にある。そこでそういう角度から十年後の日本における自由と秩序の関係は如何にあるべきかを論じて見よう。民主々義という思想と制度が成立したのは自由という思想があったからであるが、この自由と思想はどこから生まれたのか。自由思想は人間の理性の自覚と共に生まれた。中世という時代はおかしな時代で、ヘブライズムとヘレニズムとが実に徴妙に結合した時代であった。故にわれわれの知っている中世の所謂キリスト教がどの程度までヘブライの伝統を受けつぎ、どの程度まで異教的なものであったかと見分けるのは殆んど不可能である。しかし、中世が一応神中心であったことは認められる。もちろんこの「神」は多分にロゴスの名によって象徴される通り理性的であり、従って「全知、全能」が強調され、それが近世における理性主権主義の思想的源泉となったことは見逃してならない事実であるが、にもかかわらず中世はやはり神中心の時代であり、従って制度も神中心であった。ところが啓蒙主義と共に神に代り理性が主権者になった。神はていよく敬遠された。ところで「神」は仰ぐべき一体であるが、理性は人間の能力であって「神」のような存在ではない。理性という能力を持っているのは、人間即ち個人である。そこで個人は、神に代り、尊厳であるという思想が生まれ、そういう尊厳は個人には十分な自由を与えなくてはならないという自由主義の思想が発生した。即ち自由主義の前提は人間は自由にしておけば必ず善をなすという楽観論であって、キリスト教と原罪論とは真向から矛盾する。であるから理性主権主義、合理主義、民主々義、自由主義等々みな名を異にし、それぞれ入口は違うが思想の根本は一つである。しかし、そのもろもろの名称なり入口なりのうちわれわれの問題と一番密接なのは自由主義であるから、十年後における日本のナショナル・ゴールにおいて自由と秩序とがどういう関係にあるべきかを論述しよう。

 自由主義が成功し西欧に揮かしい花を咲かしたことには二つの条件があった。第一は資源が殆んど無限であったこと、第二アジア、アフリカを植民地として搾取することが出来たことである。この二つの条件に恵まれ自由主義は讃美され、人類は無限に進化するものと考えられた。その時代にキリスト教が姿を消したわけではない。むしろその反対に、世界各地に宣教され、教勢を拡大した時代である。しかし、その当時のキリスト教はヘブライからの伝統的キリスト教ではなく、合理主義、自由主義と妥協し、世俗化されたキリスト教なるものであった。欧米による植民地分轄が終わり、第一次及び第二次世界大戦で西欧が衰退すると共に自由主義に対する疑惑が生じて来た。「人間は自由の行使により益々よくなる」という信念がそれを裏切る事実によって動揺しはじめた。その動揺に乗じて出現したのが共産主義である。共産主義も自由を主張するが彼らの自由はブルジョアジーを滅ぼし、プロレタリア独裁を経てからの自由であるから多分にユートピア的性質のものである。しかし、共産主義が自由を目標としていることは確かであり、この目標こそ彼らの行動に情熱を与えるものである。しかし、共産主義はその自由に到達する手段として鋼鉄のような戦略戦術を作り、それを強制する。故に共産主義世界においては自由ではなく秩序が支配する。要するに共産主義社会はまことに不自由な社会であって、一度自由を知った者としては湛えられないであろう。そこまでは確かであるが、であるからといって、一歩進み、「だから共産主義社会は必ず崩壊する」と断定しては間違いになる。共産主義社会には自由はないが秩序がある。秩序とは強制である。ところで人間性は自由を求めると共に秩序を求める。自由はエゴに通し、秩序は反エゴに通ずる。秩序、反エゴはいずれも「滅私奉公」である。遠い将来のことは別とし、現在の段階においては自由主義陣営は衰退し、共産主義陣が勢力を増大しつつある。十年後のナショナル・ゴールを設定するに当り、この自由と秩序の問題を如何に解決すべきか。われわれは先ず率直に人間万能を大前提とした自由主義の誤りを認識し、われわれのナショナル・ゴールに自由主義の復活をはかるという迷妄を放棄しなくてはならない。エゴは必ず公益に通ずるという思想は不当な楽観主義である。われわれは原罪という厳しい鉄槌で人間のおごりを打ちくだき、被造者であることをもう一度はっきり意識させる必要がある。われわれは、少なくとも私は、共産主義のうちに何一ついいものを見出さない。所謂「自由主義者」や「民主々義者」は寛大で、一切のものに理解を持っていることに無上の誇りを感じ、「共産主義にもいいものが沢山ある」という。参考になるものがあることは確かであるが、彼らに真理があるかという問題になると私は拒否する。共産主義には真理はない。共産主義の唯一の強味は自由主義の弱味である。自由はエゴであり、偶然としては免も角、そのまま公に通ずることはない。公と私とは相反する。そしてどちらに力があるかというに公である。故に公を主とする共産主義は自由主義より強い。しかし、それは共産主義自体のメリットではなく、自由主義の弱さのためである。故に十年後の日本の基本理念はもちろん共産主義ではなく、自由主義を修正したものでもなく、人間の被造性、原罪を意識し、人間の限界を自覚すると共に、その限界までをフルに発揚する思想でなくてはならない。

3、自然と人間

 大ざっぱに言って西洋文明は自然を征服する文明、東洋文明は自然と融和する文明といっていいと思う。そして、西洋文明が行きづまったことは明らかな事実であり、新しい文明が待望されていることはトインビーの説を待つまでもないことである。ただ問題は西洋文明の没落に対処するため特に自然との関係においてわれわれは何をすべきであり、十年後の日本のナショナル・ゴール設定の上にこの問題を避けて通ることはできない。解決策としての一つの見解は東洋文明を復活させよとの主張である。東洋が偉大な文明を持っていたことは明らかな事実であるし、われわれのうちにはその尊い伝統がつたわっていることは確かである。しかし、東洋文明を復活させよ、というのは具体的にどうしたらいいということなのか。まさか西洋文明を全部破壊してその上に東洋文明を復活させよという意味ではなかろう。東洋とか西洋とかいっても、われわれはみな西洋文明のうちにあり、西洋文明によって生存を続けているのである。故に文字通り西洋文明を破壊することは人類の生存を破壊することである。そういうことが不可能であるとしたら「東洋文明の復活」ということは結局一種の復古調に終りはしないか。東洋の偉大な文明が没落し、西洋文明が支配したのは偶然ではなく、はっきりした理由があったからである。東洋文明が女性文明であったのに対し、西洋文明が男性文明、力の文明であったからである。それを「悪い奴」と言っても何もならない。男性的であること、力のあることはそれ自体としてはいいことであって、日本の如きはそれを学んだから先進国になったのであって、何ら弁解する必要はない。欧米の植民地になったのは植民地にした方にも責任はあるが、された方にも責任がある。われわれは西洋文明の優秀性と人類に対する偉大な貢献を率直に認める必要がある。にもかかわらず西洋文明は没落しつつある。それをどうするかがわれわれの問題である。

結論的に言えば東洋人の目をもってヘブライズムを再検討、再発見することである。ヘブライズムは自然と人間とが隔絶している砂漠の思想である。東洋思想は自然と人間とを一体とし、人間が自然の中に生きるモンスーン地帯で生まれた思想である。いずれにも特長があり、いずれにも風土的制約がある。しかし、交通通信の面から見て世界は一つになりつつある。故にわれわれはもはや風土の制約にとらわれていられなくなった。東洋人の目で砂漠の思想に接した時、何が生まれるであろうか。率直のところ、これは私にもよくわからない。しかし、私は大きな希望を持っている。というのは東洋とか西洋とかいっても結局人間である。人間であるから理解できないはずはない。風土の差は今までは理解の障碍とされて来た。それはむしろ理解の手段とさるべきではないか。恰も外国人が場合によっては日本人より以上に正確に日本文化を理解し得るように、風土と伝統を異にしつつも西洋を十分に理解しているわれゝれが東洋人の目で、西洋の偏見にとらわれず、ヘブライズムに接すれば、それが自ら「東西文明の融合」になるのではあるまいか。われわれはその立場から自然に人間の関係を確立すべきである。それは自然の征服ではない。しかし、単に人間の自然へのとけこみでもない。自然にとけこむことは自然に甘えることである。自然は時に猛威を振う。猛威は人力によって征圧しなくてはいけない。自然と人間との正しい関係は結局人間が「万物を主管する」というところに帰するのではないか。われわれのゴールは自然の無限の開発でもない。しかし、自然への屈伏でもない。人間が被造物の最高者として事物を管理(主管)するのである。「管理」という言葉は当然節度を意味する。従って1980年代におけるわれわれのゴールは生産力の無限の拡大ではなく、節度ある生産と節度ある消費である。そしてわれわれはその節度の中にこそ無上の幸福を感ずべきである。私は1980年代の日本がユートピアになるとは思わないし、ユートピアにしたいとも思わない。被造物のくせに余り大それたことを考えてはいけない。今より少し良くなればいい。そしてその「少し良くなる」ことは物の豊かさよりは心の平安であり、人と仲良くすることであり、それは人間が責任ある万物の管理者になり、万物を愛するが万物に狎(な)れないという世界観を持つことによって得られる。1977.10.13