『解禁・日本国憲法秘史』  

講師:西 鋭夫  (65頁⇒27p⇒20p) ワード⇒

<講義1> 誰が日本国憲法を書いたのか        …0<講義2> マッカーサーとGHQ           …05
<講義3> 憲法草案が作られた瞬間          …06
<講義4> Q&A「世界に5通しかない日本国憲法草案」…08<講義5> 平和憲法、第9条             …14
<講義6> Q&A「吉田茂の秘密」          …17
<講義7> GHQ憲法、日本語版           …21
<講義8> マッカーサーへのメモ           …23
<講義9> 平和憲法、そして平和教育へ        …26

目<講義1>

1、誰が日本国憲法を書いたのか

これから日本国憲法についてお話します。難しいお話のように聞こえます。今ある憲法は戦争が終わってすぐに書かれました。私が話したいのは、これはどういうふうにして書かれたのかということです。マッカーサーが書いたのか、日本の吉田茂が書いたのか。吉田茂と一緒に仕事をした松本烝治という憲法学者が書いたのか。

今、私はスタンフォードのフーヴァー研究所からお話していますが、ここの下のアーカイブズ公文書館にフーヴァートレジャーという宝物があります。日本関係の、まだ英語になっていない日本語の文章と、アメリカのマッカーサーのGHQの英語のままの文章が長い間、極秘でずっと眠っています。公開されてまだ手が付けられないままです。フーヴァーの方ではそれを宝物、フーヴァートレジャーと言っております。

私は一度憲法について『國破れてマッカーサー』という本の中で、かなり詳しく述べました。最初に出たのは英語版ですが、日本語版の『國破れてマッカーサー』です。ハードカバーと中央公論からです。文庫も出て、読まれた方もおられます。

大体の話ですが、今フーヴァートレジャーの中に、いわゆる第1級のオリジナル文書で、私が知らないものがドサッドサッと現れてきました。『國破れてマッカーサー』で書いた憲法の大筋は変わりませんが、細かいところ。例えばあのときは外務大臣だった吉田茂首相、松本烝治、それで日本では有名な白州次郎、そういう人たちの名前がどんどん出てきて。そしてその人たちがどういう動きをしたか、というのがGHQの方で克明に記録されております。私はそれを知りませんでした。そこまで克明に、実況放送のような形で記録されているのです。国憲法を書いたのか

それもこれからどんどん出していきます。ちょっと現在に戻ります。日本で憲法を改正しようという動きが非常に強くなっております。1947年の53日から憲法が施行されてきました。もうそろそろ70年です。一字一句も変わっておりません。世界情勢が激変し、日本の社会も激変し、変わらないのは日本の憲法だけです。修正もなされておりません。私はそこでもう、すでに異常な状態だと思っております。

結論から言いますと。結論からと言っても証明しなければいけませんので、マッカーサーが書いたのか、日本の吉田茂、松本烝治が書いたのか。ここをちょっと振り返ってみましょう。

マッカーサーが厚木に降りてきたのが、1945年、昭和20年の8月半ば。それから横浜に行って、しばらくして東京の皇居のお堀の前の第一生命ビルに、GHQ本部、ヘッド・クォーターを作ります。

彼が最初にしたかったのは、明治憲法と言われている今ある日本の憲法、すなわち大日本国憲法が日本のガンである、と。あんなものがあるから盲目的にそこへ突っ込んでいって、日本の社会、日本の国、日本の軍隊がおかしくなっていった。それで国民も明治憲法で洗脳されて、狂信的な軍国主義になっていった。マッカーサーはそう思っていました。

とにかく明治憲法を使えないように、新しい憲法を国民投票で国会を通過させて、新しい国づくりを、と。

最初マッカーサーは、戦後新しくなった幣原総理大臣に「お前さんたち、新しく憲法を書き直しなさい」と言いました。幣原は昔からリベラルと言われた人で、外交官として非常に優れた人でした。

それで、マッカーサーにそう言われたら皆さん無条件降伏ですから、「分かりました」と。幣原は日本の第一の憲法学者である松本烝治に「あなたが委員会を作って、日本の憲法学者を集めて新しい憲法を草案しなさい」と言い、松本は「分かりました」と。

ところが、ここでもう1人憲法を書く人が現れます。それが近衛文麿です。近衛家は皇族、天皇の血縁関係として近い人です。北京の近くの盧溝橋事件というものがあります。盧溝橋とは、美しい橋です。その橋で中国兵と日本兵が撃ち合いになりました。誰が先に撃ったか、よく分かりません。日本は「中国が撃った」、中国は「日本が最初に撃った」、そこから大戦争になっていきます。そのときの総理大臣が近衛文麿で、何度も蒋介石とお話で「喧嘩しない、撃ち合わないようにしましょう」といろいろ出てくるのです。けれど、一言多すぎたのか、それともやる気がなかったのか、どんどんとつぶれていきます。それで日米関係が最悪になっていくときに近衛文麿は、彼は僕と言いますが、「一度僕がワシントンへ行って、ルーズベルトとお話して、戦争しないようにしましょう」と。これはもう1940年の末期です。41年になって、アメリカはもう完全に日本と話をするつもりはありませんので、「お前は来るな」と。近衛さんは、あとの評価になって、「グラグラした」と。あの当時身長が1m80cmぐらいあって、ハンサムで、俗に言う、家柄もスーパー良しです。だから、ものすごく期待されていました。ところがグラグラするのです。これに目を付けたのが日本の海軍、日本の陸軍、軍部、大本営です。押しまくられると、彼は誰かにやってもらおうと放り投げてしまうのですよ。そして、彼は3回総理大臣になります。戦争が終わりました。近衛文麿自身は自分が日中戦争であれだけドチンパチャンとやりましたので、A級戦犯になるのではないかと心配しておりました。普通、当然です。

それで、悪く言えば彼は自分の命を守るために、良く言えば日本のために、マッカーサーに会いに行きます。

もちろん通訳がいたのですが、この通訳がまた大問題で。通訳がいて、アメリカの国務省から送られてきたアチソンと、マッカーサーと、近衛と、通訳の奥村勝蔵。たまたまよく出てきますが、その4人でお話しているわけです。そのときにマッカーサーが「日本はもっと民主的にならなければいけない。基本的人権とか、報道の自由とか、憲法も少し変えた方がいいのではないか」と言いました。近衛さんは、「通訳が私に『憲法を変えた方がいいのではないか』とマッカーサーが言っております」と。

もうここからはお互いマッカーサーとアチソン、近衛と奥村、もうどんどんと都合が悪くなっていきますので、「言っていない、言った」という話になります。

それで近衛文麿は「分かりました」と言って、昭和天皇陛下にお会いして、「天皇陛下、私が憲法を書き直してもよろしゅうございますか」と言ったら、天皇陛下が「やりなさい」と。陛下が「書き換えなさい」と言われた日と、幣原首相が松本烝治に「委員会を作って憲法を草案しなさい」と言った日がたまたま同じ日でありまして。2組、要は日本のあのときの大物2人です。1人は天皇陛下から「書きなさい」、1人は幣原首相から「書きなさい」、幣原・マッカーサーから「書き直せ」と言われて。それで2組が一生懸命にやるわけです。

これは1945年の末期です。11月ごろ、もっと早い9月ごろだったでしょうか。とにかく戦争が終わって、マッカーサーが来て最初に手を付けたのは、憲法改革です。明治憲法を捨てて、殺して、新しい憲法を国民に示す、という。

近衛さんは必死になって、東大や京大の有名な憲法学者たちに相談して、一生懸命になって書き換えます。

皆さん、近衛文麿はgoogleで見られると分かりますが、大物です。ところが、近衛文麿が一緒にやっている人たちから内容がボロボロと。GHQマッカーサー、特にその前にいるジョージ・アチソンにどんどん漏れるわけです。皆さん、まだ1945年、昭和20年の話です。そうしたらジョージ・アチソンがマッカーサーに極秘の手紙を書いて、「近衛の中からの情報です。この憲法草案は明治憲法の最初の5条、要は天皇陛下のお立場を書いてある最初の5条はそのままにして、あとを何か少し変えております」と。

マッカーサーはそれを聞いて、「何?書き換えないのか」と。ここから恐ろしい話です。ジョージ・アチソンというやつですが、マッカーサーに極秘手紙を書いて、「あの男は冒険主義のお殿さまですが、今は私たちが近衛を、私たちの占領の目的ために利用しておりますので、今彼を失脚させるのは少し早いと思います。しばらく使いましょう」と。そこまでは良かったのです。

ところが、「近衛文麿が憲法を書いているの、あいつは戦争責任者だろう」と日本で大騒動になりました。

ジョージ・アチソンはマッカーサーにその手紙の中で、「日本の非難は無視できます」と。ところが、そのすぐ後からニューヨークタイムズ、アメリカの大手新聞の社説で、「このメンバーを日本の新しい憲法の草案者にするのは、殺し屋が少年院の院長をするのと同じだ。ばかだ、愚の骨頂である」と、痛烈な批判が出てくるわけです。アメリカの外務省が、その記事をそのままどんどんと東京のGHQに送ってくるわけです。さあ大変です。マッカーサーは将来、共和党から大統領になろうと思っていましたから、そんなものが出てきたら、これは大騒動です。それで、ジョージ・アチソンが呼ばれて行って、「これは一体どうなっているのだ」と。

まさかこんなものがアメリカから出てくるとは思っていないから、ジョージ・アチソンも真っ青です。

また手紙を書きます。

今度はマッカーサーではなくて、アメリカのトルーマン大統領に極秘の手紙を書いているわけです。もちろん私はそれを読んでいます。手紙に「私ジョージ・アチソンは、この件に全く関わっておりません。あれは近衛が勝手にアポも取らないで、マッカーサーと私に会いに来て。そのときに秘書が通訳を間違えて、『マッカーサーが憲法を改正しろと言った』と私に言っております」と書いたのです。

もう1つは、「近衛はまた私のところに通訳と一緒に来て、『憲法はどうすればいいのだ』と言いましたので、私は10項目並べて『こういうふうにしたらいい』と、そこは言いました」ということです。そこまでは良かったのです。さあ、そこからです。

アチソンも自分の身を守らないといけませんから、マッカーサーに手紙を書いて、「近衛は日本国憲法の新しいものを起草できる男ではありません。最初の明治憲法の5条はそのままです。できるだけ早く迅速に手段を講じなければいけません。すなわち近衛とGHQ、マッカーサー、近衛とジョージ・アチソン、この線をぶち切りましょう」と。

「今私がそういうことをサジェスチョン、提案するのは道徳的な問題にもなりますし、できるだけ私はそこに関与したくありません」と言いました。近衛の提案になってできて、マッカーサーは一目見て、「もう見たくない」。その2週間後、近衛文麿はA級戦犯として名前が挙がります。19451216日が締め切りで、それまでに巣鴨プリズンへ出頭しなさい、ということでした。近衛文麿は自宅が杉並区にありまして、19451216日だと思いますが、その朝早く青酸カリで服毒自殺をしたのです。それを知らされたGHQMP、ミリタリーポリスがダダーッとジープで来て、土足のままダーッと上がって、布団の中で寝ておられた近衛文麿の脈を取って、死亡と確認しました。そのまま誰にも見せず、弔問客も1人も入れず、遺体をどこかに持って行きました。私の発想では、近衛文麿は何とか頑張って新しい憲法を草案しようと思うのですけれど、も

う感覚的にも知識的にもできないのです。

アメリカが考えているような憲法などできないのです。不可能です。私に「ゴルフをやれ、野球をやれ」と言っているのと同じで、もうできないのです。しかし、近衛文麿は自分の過去を振り返って、「嫌だ、ここで何かいいものを作らないと危ない」というのは分かっていました。それで失敗しました。もし近衛文麿の憲法草案が昭和天皇のお墨付きをもらっていたら、さすがのGHQも手が出せなくなります。すなわち天皇から変えなければ新しい憲法ができません。近衛草案が出てきて、漏れてきて完全にダメだということが分かったので、素早く近衛に「憲法を書くのを止めなさい」と伝えます。近衛はそれを感じますから、アチソンに会いに来るわけです。そうしたらアチソンは「憲法の話ならできません。マッカーサー元帥からしてはいけません

と言われていますので」。A級戦犯にするのはジョージ・アチソンもOKしているのです。もちろん、彼が「何とか早く手を打たないと、大変なことになりますよ」と言ったからです。それで、A級戦犯につながります。近衛文麿は新しい憲法が書けなかったので、役立たずで殺されました。服毒自殺したのですけれども、自分としてはそんなに悪いことはしていないと思っています。それで、A級戦犯という屈辱に耐えられず、自殺です。

マッカーサーのGHQは、この辺の草案が完全にダメだと分かり、近衛との手を完全に切ります。

切っただけではなく、近衛をA級戦犯にします。それで近衛文麿はその屈辱に耐えられず、青酸カリで服毒自殺をします。そうすると残っていた松本烝治が、憲法草案のグループの委員長になりました。

松本烝治、吉田茂、それから幣原総理大臣、他に憲法学者がたくさんおりますが、一緒になって書いているわけです。やっと書き上げられたのが1946年、昭和21年の1月末です。

それで、もちろん松本委員会の中では、「これでいいのかな」と。しかし、「これが俺たちの頭脳を集めて、頭を集めてできた最高傑作である」と確信していました。

それで、「これをいつGHQのホイットニーに渡そうか」となったのです。そうすると毎日新聞が1946年、昭和2121に大スクープをやりました。マッカーサーにわたす前に、松本試案を朝刊で印刷するわけです。

GHQは驚いて、もう瞬時にこれを全部英語に翻訳しました。ホイットニーはマッカーサーの第一子分ですが、民政局長のホイットニーがそこへ「元帥、こういうものが出てきました。これは松本試案らしいです」と。

そうすると、読むと、天皇についてはもう明治維新とほぼ同じ。それで、「陸海軍」という言葉は完璧に消されています。出てきたのは「軍隊」で、「天皇陛下が戦争を宣告できる」と、いろいろそういうことが書いているわけです。マッカーサーが思ってもみなかった、日本がそれを完全に破棄するだろうと思っていたところが、ドンと出るわけです。マッカーサーは激怒も激怒です。顔の色が白から赤になるぐらい激怒。

それで、ホイットニーを呼んで、「お前」と。

これが手書きした、あの有名なマッカーサーノートです。西くんが発見したものです。マッカーサーノートにこれぐらいの長さでガーッと書いているわけです。「Ⅰ、ダダダ、 Ⅱ、ダダダ」と。ローマアルファベットのⅠです。「マッカーサーのこれに基づいて日本国憲法の草案を作れ」ということで、GHQ、すなわちホイットニーと、おそらく10人はいたであろう憲法関係の子分たちが、一生懸命になって憲法を書きます。憲法を書きますというのは、もう松本先生が憲法草案をGHQにわたす前に毎日新聞でスクープされていて。これを完全にマッカーサーが踏みつぶしておりましたので、今さら出てきたとしても何の意味もないです。松本委員会の方では、「いえ、あれは正式なものではありません」とかいろいろ弁解していましたけれど、もうGHQは聞いていないのです。そしてマッカーサーが自分で手書きし、ホイットニーにマッカーサーノートをわたして、「ホイットニー、お前これをベースにして憲法を書きなさい」と。それで書いたのは、2月の初めごろです。初めというのはおそらく10日以内です。

ここで1つ面白い問題が起こります。のちのGHQ草案と言われますが、GHQは必死になって憲法草案を書きます。

そこで最初にできたオリジナルは5通ありました。世界で5通しかないと言われています。それがフーヴァーの地下にある、フーヴァートレジャーの中に入っておりました。これは大きな発見です。5通は誰に手わたされたのか。マッカーサーに2通、第一子分のホイットニーに1通、そして吉田茂外務大臣に1通、それから憲法に関わったローウェル、彼が1通を持っていました。ローウェルが持っていた1通が、フーヴァートレジャーの中に入っておりまして。

 

2、マッカーサーとGHQ

GHQ草案の原案の表紙の裏側に薄い鉛筆で、「わたした人の名前と何通」というのが書いているのです。目を凝らさないと、あれを早く見ていたら分かりませんでした。

私はチラッと見て、「あの鉛筆書き何だろう」と思って、ゆっくり本当これぐらいにしなければ見えないぐらいでした。そのときに「マッカーサー2通、ホイットニー1通、吉田1通、ローウェル事務員1通」と書いてありました。さあ、これからです。

世界に5通しかなかったのが、ホイットニーと3人の子分と、それから吉田茂、松本烝治、非常に格好のいい白州次郎の3人。この7人で、外務大臣の官邸で213日に会合があります。

今の2月は寒いですが、非常に天気のいい日で日がサンサンと出て。あのときの外務大臣の官邸にはサンルーム、いわゆる、もうずっとガラスが張られた部屋がありました。

そこでミーティングが行われるのですが、アメリカ側は太陽の光を背にして、日本の3人は前に座って、1人通訳もいたので4人です。3人というのは吉田茂、松本烝治、白州次郎で、それから通訳が1人おりましたが、その人たちは太陽に向かって座っているから、「アメリカ側の表情がよく見えた」と。

そこでホイットニーたちは最初の5通から16部複写して、それをわたしていくわけです。内容がよく分かっているのはなぜかと言うと、ホイットニーについて行った3人の子分のケーディス、ローウェル、ハッセーが会合のあと、東京のGHQに戻って、そこで3人で「誰が何を言ったか」というのを記録するわけです。実録で残すのです。だから会議の実況放送を読んでいる感じです。

それで「吉田茂には6通目をわたした」「7通目は松本烝治、8通目は白州次郎」、全部そう書いてあるのです。

そうすると6通目は吉田茂がもらって、その書類を読んだのか。

最初のロイヤル文書にある5部しかなかったうちで、マッカーサー2通、ホイットニー1通、吉田茂1通、この1通は?すなわち吉田茂は、会合がある前にこれを読んでいたのでしょう。ローウェルが手書きで誰にわたしたかというのを、そこに書いてあるのだから。そうすると、その会合があった日に6通目をもらうのです。すなわち、吉田茂は2通目で、2通もらっているわけです。そして全部で70分の会議が行われたのです。

最初の1020分お話して、おそらく仰天したのは松本烝治、白州次郎です。吉田茂は、最初の5通しかないうちの1通目を読んでいますから。ところが、実際にホイットニーと、あとの憲法を書いた3人が出てきましたので、吉田茂も大仰天。俗に言う、「これはあとに引けない」です。

もうその前に松本試案をマッカーサーに殺されていますから、二度と出てこないのです。それで、マッカーサーの第一子分のホイットニーが説明して、「皆さんちょっと時間が必要でしょう。お読みください。その間私たちは部屋を出て、外の庭で日なたぼっこをしますから」と。

4人が日なたぼっこしているわけです。そのときに白州次郎が出てきて、「皆さんまたお戻りください」と。

そうするとホイットニーは白州に向かって、「俺たちのアトミックエナジー、日なたぼっこをしているよ」と。日光浴という言葉を使わないで、太陽の原子力の熱でしている、すなわち、「広島と長崎を忘れているのではないでしょうね」という、完璧な脅しです。アトミックエナジーという言葉を使っているのだから。

それで中へ入っていって、吉田と松本が質問するわけです。しかし、その実録記録を読んでいて一発で分かったのは、何でアメリカがこの仏教国に出てくるかです。まず1つは、無条件降伏が原因にあります。

文句を言うな、降伏しなさい。

もう1つは、マッカーサーが焦ってこれをやりたかったのは、日本に任せるとできない、しかし早くやらないということがあったからです。ワシントンに最近できた極東委員会というのがあります。極東委員会は日本とドイツを負かした連合軍がそれぞれの委員で、極東委員会はマッカーサーの行動に対して、文句が言える、辞めさせることができる権限を持っていました。これは12月にできたばかりで、まだ動いていません。

だから、あそこが動き出す前に、マッカーサーは自分で憲法を。憲法を作るのは偉業ですから、これより大切なことは他にありませんので、「憲法を早く作りたい。日本はどうせできないから俺たちでやらなければいけない」と。早くというのは、極東委員会が動く前にです。これをマッカーサーからホイットニー、ホイットニーが吉田と松本に言ったのは、極東委員会が動き出すと、マッカーサー元帥はもう天皇を守れなくなってしまうからです。すなわち、「戦犯として逮捕されて裁判にかかるよ」という話です。

そうすると日本側は、吉田も松本も白洲も、「そんな恐ろしい話は避けるために、もう何でもします」と。

もう1つホイットニーが実際に言葉で言ったのは、「マッカーサー元帥は天皇陛下にお会いしたときから天皇を守らなければいけないということはもう絶えず考えておられる。しかし、憲法が成立しない」と。

「日本側がこのGHQ憲法を受け入れて、国会を通して憲法、法律として発布しないと、天皇に何が起こるか分からないし、またマッカーサー元帥自身も神さまではないので、そこまで守れません」と言ってきたのです。

そうすると日本側は、もう「NO」と言う精神状態ではないのです。だから松本烝治、吉田茂の役割は幣原総理大臣にすがった気を。内閣のお仕事は、GHQ憲法草案を日本語に直していくお仕事です。だから日本の内閣、国会は、日本語にされたGHQ憲法を通す。そこをやられたのです。かわいそうを通り越して、無条件降伏という現実を見させられた世界です。わずか70分で、日本の汚名がそこで決まるわけです。

それで1つ不思議なのは、吉田茂外務大臣が絶えずたびたび「これは極秘にしてください」「このお話は極秘でしょうね」と確認していることです。GHQ草案が日本憲法になっていく。

すなわち「日本国憲法はGHQ草案を日本語にしたものです」ということを隠しまくって、今日平成の時代になっております。

毎日新聞が松本草案をスクープしてばらしたのが1946年、昭和21年の21日です。朝刊でダン、と。

それをすぐ英訳してマッカーサーに見せ、マッカーサーは激怒して松本試案はもうそこで彼の頭から消えるわけです。だめだと。そして同じ日にマッカーサーに憲法改正の権限があるのかどうか、それが問題になりました。そしてマッカーサーは第一子分のホイットニーに「調べろ」と言います。それでホイットニーが調べて56ページになるメモを書きます。長いメモです。

すなわち「ワシントンにある極東委員会は、動き出したらそこに権限があります。マッカーサー元帥が何かされてもそこが動いていると、マッカーサー元帥がされることに対して文句を言える機関になっております。そういうことを決められております。大統領が決められました」と。それが21日です。

それで結論は、「こちらが動く前にマッカーサーが憲法改正案を作られ、その権限はマッカーサー元帥にあります」です。そこからものすごいスピードで動き始めたのがGHQ草案です。先ほども少し言いましたが、マッカーサーノートです。

手書きの、長さで言うとこれぐらいです。「この考えを入れて新しく憲法を書きなさい。ホイットニー、お前が補佐となってやれ」「はい」と。それで数日、長くて6日間です。もっと早くできたのではないかと。

憲法草案が作られた瞬間

3、憲法草案が作られた瞬間

私は松本草案が出てきてだめだとわかったので、その日から書きだしたのではないかと内心思っていますが、とにかくマッカーサーノートに基づいて新しく憲法が長くて6日で出来上がります。その出来上がったものが最初5通タイプされました。その5通の内で、何度も繰り返しますが世界に5通しかないというものです。

マッカーサー2通、ホイットニー1通、吉田茂も1通、それからローウェルが1通。それで213日になって、先ほど少しお話しましたが、ホイットニー側4名、日本側に通訳を入れて4名、これの会合が外務大臣吉田茂の官邸で行われます。もうマッカーサー側は、権限は俺たちにあると自信を持っていますので、あとは押せ押せだけです。それで、あの会合で1つ面白かったのは松本烝治が徹底抗戦を始めるわけです。

明治憲法を土台にして新しい憲法を書き換えてはどうか、と。そうするとアメリカの方は、こいつまだ明治憲法のことを言っているのかと相当腹が立つのですが、腹を立てずに「あの憲法はもうだめです」と。

「新しい日本は、新しい発想の憲法が必要でございます」と。それで、松本烝治は相当食い下がります。

松本烝治が理解していなかったのは、自分の草案はもうすでに即死であることです。明治憲法は、戦争が始まったときからアメリカが殺してやろうと思っているものです。だから古いもの、日本にとっては別に古いものではないですけれども、そういうものを持ち出す日本。これはアメリカの民主主義をわかっていないのだなと余計に思われてしまった。だから日本側が反論すればするほど、アメリカが日本の言うことを聞かなくなりました。もう聞いていないのです。だから徹底的に脅すわけです。

「お前たちは延々とそんなことばかり言って、時間稼ぎをしているのか。こんなものを訳するのは2日でできるだろう」と。それでとどめは「天皇陛下のお命はどうなるの」と。

目の前に座っている人たちが下手をすると戦犯に名前を挙げられるのではないか。皆さん、戦犯に名前を挙げられたら、もう就職がないのです。占領内下では永久に公職につけません。

日本人は恥の世界ですから、そんなものに名前を挙げられると恥ずかしくて街を歩けません。巣鴨のジェイル、監獄に入るのです。だからGHQは脅しを使いながらできるだけ速やかにGHQ草案を日本国憲法にして、ワシントンにある極東委員会が動き出す前にこれを国会に通して終わりにしたい。その通りになります。そこまでは日本は一生懸命に頑張るのですが、最後の力を振り絞って今度出てきたのが白洲次郎。

白洲次郎は占領が終わった後に少し有名になります。彼はハンサムで当時あまり背が高くなかった日本人の中で1m75cmほどありまして、芦屋の超大金持ち、大富豪です。

育ちがいい。ロンドンにも12年間行っていて、彼の着るスーツは今見ても素晴らしいです。非常に格好のいい男です。彼が頑張って吉田茂と松本烝治の代弁のようになって213日の会合が終わった2日後、15

日にホイットニーに個人的にお手紙を書くわけです。それが有名なジープ・ウエイ・レターです。

あのアメリカのジープが山を登ったり谷を下ったりしている絵まで自分で描いてしまって。白洲がホイットニーに言いたいのは、「アメリカ式みたいに直線で滑走路を走るように猛スピードですべて決めていくのは日本には合いません。日本のやり方は、道が曲がりくねっていて山になったり谷になったりです。だから日本式にやらないと、後でひどい反動が起きますよ」と。「戦争の前は軍が反動を起こし、今これから反動が起こるのは極左の共産党ではないでしょうか」というお話です。それを彼は一生懸命に書いている。それが215日。

翌日ホイットニーが返事を書いています。ホイットニーの返事は、私から読むと白洲に往復ビンタですよ。

俗に言う返り討ちです。白洲次郎の手紙を読むと、節々にアメリカ批判が入っているわけです。

私は「白洲さん、お前はアメリカをなめると痛い目に遭いますよ」と思って読んでいました。きちんとした英語で書いてあります。ところが、この辺から節々に出てくるのは、「アメリカのやり方はそんなに良くないよ、アメリカはそんなに偉くないよ、大西洋をわたった有名なリンドバーグという人がおりますが、そんな人はアメリカにもそんなにいないでしょう」とか書いてある。この人は一体何のことを言っているのだ。

危ないよ、と思っていたら次のフーヴァートレジャーの中からホイットニーの翌日216日の返事が来ているわけです。ホイットニーの手紙が、またこれ私から見ると最悪の文章で書いてある。読みにくい、長い、句読点がない。だからわざとこれを書いている、わざと悪文を書いている。白洲次郎をいじめているのか、と。

皆さん、マッカーサーはいわゆる古文、古い形の英語で名文を書かれました。彼の文章はいつもお見事な名文です。ところがホイットニー、第一子分、これはわざとやっているのではないかと思うほどの悪文でした。ホイットニーは白洲の言っていることにひとつも答えない、反論しない。そしてなぜこの憲法が今すぐ必要なのか、迅速にやらなきゃいけないのか。やらないと極東委員会連合軍がああでると、その話です。また同じ話。そこでおそらく吉田も松本も白洲も幣原も完全に、これは負けたと。無条件降伏というのはこういう状態かというのが私にもわかりました。

 

4、Q&A「世界に5通しかない日本国憲法草案」

質問者:先生、近衛文麿が青酸カリで服毒自殺をして、アチソンが逃げたような形になったのですけれど、結局これは実際通訳のミスだったのか、それともアチソンが逃げたのか、どっちなのでしょうか。

西:通訳の奥村さんですか。通訳が逃げたにしては、あまりにも事件が大きすぎます。近衛文麿、あの人頭脳明晰で優秀ですから、根性があったかないかは関係なく、頭は非常に良い方です。

東大と京大に行っている人ですから、英語が分からないわけがないのです。憲法改正しようという意向がアチソンとマッカーサーから出てきているのは完璧に理解しています。

通訳が間違って言い出したのは、アチソンが言い出したのです。アメリカから「近衛文麿を憲法の草案者にする、この愚の骨頂。東京では一体何をやっているのだ」ときたわけです。

そうするとアチソンは、そこで初めて自分の身が危ないことが分かり、トルーマンに出した手紙の中で、「通訳が間違って『憲法改正しろ』と訳した」と言い訳したのです。それを「私が確認しましたところ、彼は『そう言いました』と言いました」と。問題が、いわゆる反対が日本で湧き起こったのですけれど、それを完全に無視してもいいです。これはアチソンがマッカーサーに書いた手紙の中にあります。ただアメリカからまさかこんなのが出てくるとは思ってない。いわゆる保身のために切り捨てです。だから、通訳の責任はそれほど軽い問題ではないです。それも1回や2回の話ではないです。アチソンとはたびたび会っています。同時に、松本烝治も憲法改正です。だからもう、通訳たちも冗談ではない、と。それはあまりにも都合のいい。逃げすぎです。

質問者:天皇の直属として近衛が憲法を書き、その一方で幣原首相も松本烝治に対して憲法案を書けということでした。当時松本国務大臣で、憲法学者、商法もやっているということでしたが、松本が委員会の長になる、これはふさわしい人選だったのでしょうか。

西:私は他の人はよく知りませんし、分かりませんけれど、幣原が松本を選んだというの

は、やはりそれなりの理由でしょう。幣原も松本も、明治憲法を変えたくない人たちです。あの当時の政府の高官たち、政治家も官僚も、明治憲法を変えるという意味も分からないです。「いやいやそれよりも、変える必要もない。できるだけ変えないで、少し言葉遣いを変えて通せるのではないか」と、吉田茂の回顧録の中に出てきていますから。松本烝治も、できるだけ中身を変えないように。どうせ国会で審議されるときに、いろいろから反対があったり何かがあったりして、書き換えられていくので、その過程でいい憲法ができるだろうと思っていたのです。すなわち、松本烝治はああいう草案を書き、これがそのまま国会の審議にかかるだろうと思っていた。マッカーサー元帥の存在をしばらくお忘れでした。だからマッカーサーは明治憲法の一字一句も入っていたら、もうそこでアウトです。案の定すぐアウトになりました。マッカーサーは松本烝治の個人攻撃までしていました。あいつは極端な右翼で、とか。委員会を全部牛耳ってしまい、人の言うことを聞かず、とか何か言っていました。マッカーサーが考える日本の将来の憲法と、当時の日本の憲法学者が考えていた憲法は、もう水と油です。

質問者:ありがとうございます。次の質問に入ります。西先生は、マッカーサー三原則を発見したことでも有名なのですけれど、今回、フーヴァーアーカイブスで、世界に5通しかない日本国憲法草案を発見されたということなのですけれど、この日本国憲法草案を見たとき、先生はどんな印象でしたか。

西:やはり、「こんなものがあった!」でしょうか。マッカーサーのGHQ草案というのは少し知っていましたけれど、全文が載っているというのは見たことがないのです。皆さん、これは1946年、昭和212月の話。最初の話です。その中にすでに戦争放棄、後に9条になるのが、もう入っています。オリジナルのGHQ草案の中では第8条に戦争放棄が入っています。後になって、誰かが入れたという話ももちろんしますけれど。そうではなくて、最初のGHQ草案の中に第8条として、今の9条とほぼ同じ文章が入っております。それを日本人で最初に読んだのは、その4通目をもらった吉田茂外務大臣です。そこにもらった人の名前が書いてありますから。

その世界に5本しかないうちの1つがフーヴァートレジャーの中に残っておりますので。それを見たときに、「ああ、これが原本か」です。灯台下暗しで、私はフーヴァーにほぼ住んでいるのですけれど、足元にあれがあったのかと。それは驚きですよ。

質問者:先生が発見されたフーヴァートレジャー。灯台下暗しということですけれど、普通の人からすれば、何で足元にあるのが見られないのだと思うのですけれど、それだけ膨大な量があるということなのですか。

西:いいご質問です。皆さん、フーヴァートレジャーというのは、これから私と岡崎が50年かけても無理、100

年かけてやっと。それほど膨大です。すなわち宇宙で、向こうが見えないのです。私たちが見えているのは、地球と月ぐらいなもの。だからフーヴァートレジャー、有名なものは私も見たことがあります。これからどんどん紹介するのですけれど、まだ見ていない箱、見ていない部屋がワーっとあります。

日清戦争、日露戦争の話もワーっとあるのです。従軍した兵隊さんが書いた手紙とか、自分で描いた絵本。

色のついた絵本まで中に入っています。だから、私たちがうわさで聞いたことがある、そうではないかなと思うことの占領中の原文、オリジナルがどこかにワサッと入っているのです。私たちが毎日10時間働いても、とてもではないぐらい。コンピューター化されていませんから、いちいち古い、黄色くなった紙を見ていくわけです。ですから先ほど言った、GHQのオリジナルの草案。鉛筆書きです。おそらく書いたときは黒かったのでしょうけれども、もう70年、もっと経っています。756年経っていますから、薄くなります。それほどたくさんのフーヴァートレジャーです。皆さん、乞うご期待ですけれども、私はおそらくあと50年は続かないと思いますの。できるだけ読んで、自分なりに理解したものを、小川講座から出していこうと思っているのです。

質問者:時系列に質問していきます。

憲法が大きく動いたのは、毎日新聞による松本試案のスクープ、これが194621日です。

その21日のとき、ホイットニーという長官が、マッカーサー元帥へ、憲法改正の権限があるかどうか、というお話があったのですけれども。スクープが取られたときにすぐ権限があるというレポートをホイットニー准将が出せるということは、それ以前からずっと調べていたということですか。

西:もちろんです。近衛事件が終わって、松本試案が毎日新聞にスクープされるのですけれど、やはりスパイというものはあちこちにおりますので。

GHQにとって都合のいいことを流すとお金もらえるか、それとも日本人が一番欲しかった食べ物をもらえるか。皆さん、私たちは飢えていたのです。

今セブン-イレブンもありますけれど、あのときは何もありません。松本委員会の中の松本試案の文章がボロボロとGHQに流れていったのは、間違いなく、松本はもうだめだなと思ってのことです。

マッカーサーが、「俺に権限あるのか、ホイットニー調べろ」と。だからもう、スクープが出た日に、ホイットニーからマッカーサーに、かなり長いメモがわたされて「元帥、権限がありますから、どうぞ」。ですから権限についての法律的な研究は相当前からなされていたと思います。

質問者:権限のレポートを読みますと、マッカーサー元帥が。対日理事会からの憲法に関する命令や反対がなければ。

西:極東委員会。

質問者:極東委員会から。元帥が権力を持つということですよね。つまりマッカーサーと極東委員会、2つの権力がある。そのときどちらが優先されるかという議論ですよね。

西:権力としては、極東委員会の方が高いです。

これは連合、日本にいる日本占領の連合軍の総司令官に対する監査役ですから。「それはしてはいけません、してもよろしい」ということが言えます。ところがここはまだ動いてないですから、形はできました。

皆さん、極東委員会はどこにできたかと言うと、かつての日本の大使館にできたのです。私は前の古い大使館をワシントンで見たことがありますけれど、非常に美しい建物で。小さくて、森に囲まれた、非常に美しい大使館でした。そこに極東委員会が作られました。しかしここは動いていません。だから動く前に、マッカーサーが敏速に動いて、既成事実を作りました。それも、日本の国会を通すわけです。天皇陛下も「非常にいいです。どうぞおやりください」。それで、極東委員会とマッカーサーの戦いは、完璧にマッカーサーの勝ちです。こちらは用意もできていません。

だからマッカーサーが後になって回顧録の中で、極東委員会を討論サークルと呼んでいました。完全にバカにしたのと、もう1つ、「お前たち、誰が日本を負かしたと思っているのだ。俺だろう」ということです。

質問者:当時の日本からすると、マッカーサー元帥は何でもできるという間違った認識があると思うのです。

マッカーサーとしては憲法改正したとしても、自分に絶対的な。法律的な根拠がある、理論的根拠を得てから実行する、非常に賢いやり方をしていますね。

西:賢いやり方です。非常に賢い。皆さん、マッカーサー、マッカーサーと私のポンポン口から出ていますけれど。150年ぐらいの長い歴史を持つウエストポイントという陸軍士官学校で今日までの歴史の成績が一番良

いのは、いまだにマッカーサーです。非常に優秀な男でした。彼は1つのカリスマがありまして。自分は神から祝福され、また、神から与えられた使命を持って生きているのだ、という絶対的なものを持っていました。

これが指導者、すなわち戦争のときの指令官として圧倒的に尊敬され、子分たちはマッカーサー元帥のためなら死ねる、という感じです。それと同じ人が、乃木将軍です。日露戦争のときに乃木のためなら死ねると思った日本の兵隊さんは非常に多いのです。そういう人は時々現れるのです。

話は少し飛びますが、東条英機はそれがなかった人です。彼はMPに捕まる前、逮捕される前に自殺を試みるのですが、それに失敗したのです。日本はいわゆる死の美学、死ぬときの美学を非常に大切にしますから、何というぶざまな、と。うちの父親が長い間それを言っていました。

質問者:問題となった松本試案、これが194621日にスクープされてしまうのですけれど。このスクープは占領史の中で非常に大きな転換点だと思うのです。一体これはどのような形でスクープされたのでしょうか。

西:いわゆる松本試案が発表される前に新聞に載せるということは大事件です。これも、占領期の七不思議の1つです。毎日新聞の西山さんでしたか。

質問者:西山柳造です。

西:西山記者がスクープするのです。西山はどうやってあの松本試案を手に入れたのか。分かったのは、西山さんが行ったのか分かりませんが記者の1人が、松本憲法委員会の事務所に行って事務員の1人とお話をして。

コンピューターはありませんから、タイプされたのか印刷されたのか知りませんけれど、紙に書いたほぼ全文をもらうわけです。問題は、その事務室にいた事務の1人、職員さんの1人が、こんな重大な極秘の文書を、よ

く毎日新聞の記者にわたしたなということです。これを一晩借りるのです。そしてあくる日に返しに行く。

これはいわゆる迷宮入りになるのですけれど。西山記者はもう退職されてだいぶお歳になったころに多少言われますが、名前は明かされません。あの当時、今から振り返ると、保守派と社会主義共産党が大げんかをしていたときです。ひょっとしたら、その松本委員会の事務局に勤めていた男性だか女性だか分かりませんが、その人が共産主義か社会主義の人で。

こんな保守的な憲法になったら大変だと思って、その前に俗に言う暴露をして。そうすると新聞に出ますから、マッカーサーに流してつぶしたのかな、という発想です。迷宮入りになっていて、名前はもう分かりません。ただ、時々古いものが出てきますので、西山記者がどこかにメモを書いて残していたものが出てくるかもしれません。これは今のところ分かりません。ただあれはたいしたスクープです。中に共謀者がいないとできなかった世界です。だからその共謀した事務局の人は、相当この憲法が、憲法草案、松本試案の憲法が嫌いな人。すなわち、ガチガチの社会主義か共産党のスパイがその中に入っていたとかそういう感じです。私は今でもそう思っています。

質問者:あともう1つあるのは、憲法問題調査委員会のメンバーの中に、毎日新聞の関係者がいるといううわさもあるのですけれど、これはどうでしょう。

西:それであればバレる可能性があります。保守派ばかりいるので、誰か1人が動いたら、バラされるか、お金をちょうだいと言われます。だから、あれは金に関係なく、イデオロギー的に嫌いだった人が流したで間違いないです。

質問者:次は213日の、憲法がわたされた瞬間の方の質問に入りたいと思います。213日、憲法が渡されたときの白洲次郎。今、白洲次郎は英雄だと非常に思われていますが、当時の実際の白洲次郎はどんなような人だったのでしょうか。

西:皆さん、偶像を壊すのは、私もあまり好きではないのです。いや、私はずっと偶像を壊していますので、ついでに言います。白洲次郎、吉田茂、松本烝治、アメリカの4人に会って、彼の最初のお仕事は、会ったときにこちらの人の帽子とコートとマフラーを預かる役目でした。それを会議室の隣の部屋に置いて、この70分の会議中、白洲次郎が発言したのは短い文章を23回です。

ほとんどアメリカのホイットニーがしゃべり、松本烝治がそれについて質問しているその、ほとんどの会話です。他の人はもう短い。吉田茂も短い質問に答える、それぐらいです。

70分が終わって、アメリカ組4人が帰ったとき、「ミスター白洲、私たちの帽子とコートとマフラー持ってきてください」と、通訳に言わなくて白洲次郎に言っているわけです。白洲次郎も、この草案を読んで相当動転してますから、走って帽子とコートとマフラーを持ってこようと思っていたら、違った部屋に走って行ってしまいました。アメリカの4人は黙って見ているわけです。「あの男はどこへ走って行ったのだ。隣の部屋だろう」

そうして間違ってぐるりと回り、隣の部屋へ行っているのです。

すなわち、白洲次郎、大動転しているわけです。彼はずっと日本で、俗にいうお金持ちで、頭が良くてとてもかっこよくて、モテ過ぎて困っているような生活を、戦前から戦中ずっとやっています。まさかそんなお手伝いに使われるというようなことをやっていない。しかしそれをやらされている。そして英語が読めますから、この憲法草案を読んで動転している。すなわち白洲次郎さんは、アメリカが本国へ帰って、日本が独立した後、いろいろなことを発言されているのです。そういう人の方が多いのです。「俺はマッカーサーに文句言った男だ」とか「マッカーサーと対等に話をしていたのだ」とか「GHQは俺を恐れていた」とか、そんな話がいっぱいです。もう、すべて作り話です。そんなものがあったら、私がリサーチしたら出てきます。

質問者:それで先生がリサーチをしまして、215日に白洲次郎がジープ・ウエイ・レターを。フーァートレャー占領期の人たちは非常に高くこれを評価しているのですけれど、正確に手紙を訳してみますと、白洲次郎は、「松本博士、松本烝治は若いころ過激なほどの社会主義者であり、現在でも自由主義者、リベラルと信じております」というように、明らかな嘘を書いている。

西:いやもう、人身御供に松本烝治を投げているわけですよ。松本烝治の話なんかしていないです。これはもちろん英語で書いてあるから私は読めますけれど、そんなことをしなくても。そんな問題の話ではないだろう、と。彼が言いたいのは、日本的にやりましょうということです。日本的にやりましょうと言ったところで、GHQはこれ反対なのです。すなわちGHQは、日本的にやりましょうと。日本的に言うと、これは俗にいう、極右が引き伸ばし作戦にいつも言ってきている話だというのは分かっていますから、それ言った途端にもう終わりです。あんな手紙を書いたために、余計、ホイットニー、マッカーサー組は強力に出てきて押しつ

ぶすわけです。あの手紙を評価すると言っても、どうやって評価するのですか。

下手なことを言ったために、余計ひどい目に遭ったという感じです。そして、その次、翌日に出てくるホイットニーの返事などを見ると、もう本当に、俗にいう往復ビンタ。もう刀で峰打ちの世界ですよ。返り討ちに遭ったのですよ。評価と言うより、「あんた、よくもあんな手紙を書いたな」と。ジープ・ウエイ・レター、ジープが山を登っている絵まで描いてあるわけです。相手は誰だと思っているのか。お遊戯ではない、これは命がかかった話だということです

質問者:それでジープ・ウエイ・レターにホイットニーが激怒して。

西:もう激怒ですよ。

質問者:あのいやらしい、分からない英文を書いたのですか。

西:いやらしい手紙を書きました。もう、ジープ・ウエイのことなんか眼中にないわけです。いわゆる、早くやるのがどれだけ大切か、天皇陛下のお命はどうする、極東委員会の怖いのがくるぞ、そういうお話です。

だから、前の、13日の会議の繰り返し。それで15日に白洲次郎がジープ・ウエイ・レターを書いて、翌日、まだ分からないのかというホイットニーのご返信です。

質問者:先生、先ほどホイットニーの手紙が非常に読みにくい、訳しにくいということなのですが、日本の方にどう分かりにくいのかというのを教えてください。

西:日本の長い文章で、スラスラと分かる名文と、23回読み直さなければ分からない文章があります。

それと同じことが英語でもあるのです。マッカーサー元帥は長文を書かれました。しかし名文ですから、元へ戻らなくてもそのままスーッと読めるのですよ。「うわ、マッカーサーって美しい文章書くな」って。

ホイットニーのこの手紙の文章を見て「何と書いてあるのだろう」と。私が今さら英語を読み返すことはないのです。皆さんも日本語、名文は読み返さないでスーッと読めるんです。ところが、ピリオドがあれば分かるのに、もう切ってない。だから俗にいう、ダラダラとつなぐ。おそらく、白洲次郎さんも相当苦しんだと思いますよ。どこに本意があるか分からない。分かったのは、「早くやれ、極東委員会怖いぞ、天皇陛下のお命大丈夫か」その話です。

質問者:先生に頑張っていただいて、ホイットニー准将の手紙を全部日本語に訳していただいたのですけれど、どれほど大変でしたか。

西:いやもう、34回です。訳すのですけれど、日本語にして、こう言ってるのかな、その検査です。

非常に大変でした。だから45回。普通は1回で終わりでしょう?45回訳して、それで、日本語だったらこういう文章になるのだろうかと、そういう感じです。

わざわざ日本語にしたのではなくて、日本語でこう言うのだろうな。そこに到着するまでに45回書き換えて、非常に疲れました。そのような文章でした。今の私のレベルで文章がよく分からないということは、わざとそうやっているのです。ですから、白洲次郎がああいう手紙を書いたことに対し、「白洲次郎よ、お前ホイットニー准将に向かって、よくそんな手紙を書いたな」と思います。勇気があったのではなく、怖さを知らなくて書いたのでしょう。自分のランクと准将のランク、そしてアメリカの無条件降伏を持っている男と、無条件降伏をした国。同じランクではないでしょう。お前は吉田と松本の思いを代弁したつもりなのか、という。

日本を助けるためにやったのか。やってくれなくてよかったのです。あれはもう完全に、ホイットニー、マッカーサー側としては、「もうこれぐらいか」の世界です。あれならばもう、日本の憲法学者に超名文で抗議した方がよかったのです。その方がもっとかっこよかった。日本でランクの低い白洲次郎が、マッカーサーの直系の第一子分に、ジープが山を登っている挿絵なんかを入れるでしょうか。いや、私があんなもの中学生からもらって、「おい、西、こうやるのだぞ」と言われたら怒りますよ。だから私から見れば、ホイットニーもあの手紙で白洲次郎に往復ビンタです。

「ふざけるな、お前」と。その後もジープ・ウエイ・レターは残りましたけれど、あれを書いた白洲次郎は偉いのではありません。私は反対に、あんなものを書いたために、余計もう日本はこれで終わりになったと思うのです。

質問者:白洲次郎はイギリスで勉強をしていました。イギリス英語をしゃべる人たちは、結構アメリカをバカにするというのもありましたか。

西:するのです。今でも日本はブリティッシュイングリッシュの方が上だと思っています。

皆さん、新幹線の中の英語、あれはアメリカの英語ではなくて、イギリス英語です。私は地方の電車に、お金持ちが乗らない電車に乗っていますが、そこはアメリカ英語です。しかし私が乗る電車の中には、外国人など誰も乗っていません。おそらく観光で来ている中国人が乗っています。中国人、中国語でお話ししてあげれば、もっとあの人たちの印象良くなるのでしょう。

なぜ明治のときから、ブリティッシュイングリッシュが上で、アメリカ英語が下なのですか。明治維新を起こした面々は全員イギリスへ行っていますから、イギリス組なのです。だからそこからもう、錯覚している。

1945年、この大日本帝国をつぶしたのはアメリカでしょう?そうすると、イギリス英語は、イギリスはアメリカに助けてもらわなかったら、チャーチルはとっくにヒトラーに殺されているのです。そういう歴史的背景を全然考慮に入れないで、イギリス英語の方がいいと。よくはないですよね。ロンドンに行って、ロンドンの方言を聞いてごらんなさい。分かりませんよ。だからもう、日本もそういう世界から脱皮しなければ。

イギリスは今、日本にとって何にもないのです。アメリカの国力で、経済力で、日本をつぶしにきたら、私たちは一発で終わりです。そこの英語を話さなければ。私が例えば、ここのスタンフォードにいて、イギリス英語のまねをしていたらおそらく、「お前、太平洋を泳いで帰れ」となります。そういう世界です。

アメリカに戦争負けて以来、私たちはずっと、アメリカの軍事協定の、この絆の中で、アメリカ組なのです。

だから北朝鮮も中国も韓国も、日本はアメリカの茶坊主だと思っています。それほど私たちはアメリカと近いのです。そのようなときに、いまだに、イギリス英語のランクが上だなんて。皆さん、上ではありませんよ。

アメリカにいるとイギリス英語は方言です。だから、イギリスで今輸出できるのは英語だけなのです。

偉大な産業革命をなしたイギリス。もうこの生物と同じで、大英帝国もぐるりと大きな輪を回って、終焉です。アメリカもそうなるかもしれません。日本は1945年に終焉しました。

 

5、平和憲法、第9条

これから今の憲法、皆さんが平和憲法と言っておられる昭和憲法の要、精神となっている大黒柱。すなわち9条なのですが、それについてお話します。GHQと吉田、松本、白洲でしたのが最初の大きいミーティングです。ホイットニーと優秀な公務員4人体制で来ましたが、あれが1946年昭和21年の213日です。

それから10日後の222日に2回目のミーティングがありまして、これも出席者は同じです。

ホイットニーと3人、吉田、松本、白洲です。

最初のミーティングは「この憲法を早く日本語に直して国会を通せ、そうしないと、天皇陛下の命が危ないよ」、という完璧な脅しです。アメリカ側は一番良い脅しを使っているわけです。

それで日本の頭の中はもう大混乱して、ものも言えないくらい大動転です。それで10日後の222日に、もう1回大きなミーティングがあります。日本がおかしくなったのです、出席者はホイットニー、それから3名、吉田、松本、白洲です。このときのミーティングで、9条ははっきりと出てくるのですが、このときはGHQ草案を書き換えるというお話ではありませんでした。その話は二度と出てこないです。GHQ草案をどのような日本語に書き換えれば良いかというお話です。

だから松本蒸治、日本の憲法の第一人者でしたが、もう松本博士も、あそこをこう書き変えて、こう書き変えてではなくて、「これはどういうのですか」とホイットニーたちに聞いているわけです。

「これは何を意図されているのですか」、それで9条の話になります。9条のところにももちろん出て来ます。

松本蒸治はこの9条の文章は、憲法の前文、最初に出てくる1条の前の前文に入れた方が良いのではないかと言います。、第9条

そうするとホイットニーが前文の中に入れると、あやふやになってしまい、意味が分からなくなるということで、別に条を作って、1条、2条の条を作って9条にこう入れました。9条に入った今の日本の9条に入っているセリフ、英語のもありますが、英語の台詞はGHQ、マッカーサーがOKしたGHQ案の8条とほぼ同じ文章です。

それに松本蒸治は食い下がり、前文の方が良いのではないですかというわけです。そうすると3人の公務員のうち1人が、「松本博士、あなたはこの戦争放棄をただの原則として放棄だと思われているのですか」と。

完全に、松本の意図を読まれたのです。原則的にだめですよと言っているわけ。戦争というのは大抵原則ではなく、原則外れのときにやります。

それで松本が「そうです、原則にしておいいた方が良いのではないですか」と言ったら、この第一公務員のホイットニーが出てきまして、「松本博士、私はこの戦争放棄今の9条を1条にしたかった」と言います。

憲法第1条は戦争放棄、皆さん、9条を1条に持ってきたかったと。1条は天皇陛下、日本国象徴の話です。

1条に持ってきたかった、それほど大切なのだ。

だけれども9条にしたのは、日本国民が天皇陛下を敬愛しているので、その思いを汲んで、評価して1条に天皇を持ってきたのだと。そこまで言われると、日本側は反対できないです。これ以上何か言うと、下手をすれば1条に持ってこられる可能性があります。アメリカはこういう会議をやりましたけれど、これは妥協とかお話し合いでやっているのではなくて、日本のトップの人たち。憲法に関わっているトップの人たちを説得する、これしかないのです。それを頭の中に押し込んでという気持ちでやっております。それで、9条についておそらく松本も吉田も、それから白洲さんも何か言いたいのですけれど。おそらく言いたかったのでしょうけれど、それっきりです。それでホイットニーがポロッと漏らしたのが、この憲法9条についてはすでに吉田外務大臣

に私が読んで説明してある通り、という言葉です。いつ説明したのでしょう?その記録はありません。

皆さん、最初に出てきた世界に5通しかないGHQ草案、その1通は吉田外務大臣にこういう会議の前にわたっています。ですからおそらく1946年、今の話は222日ですが、ホイットニーと吉田はどこかで会っていて、1日か2日ごろに吉田茂にわたっているのです。だから吉田茂外務大臣は、GHQからわたされたオリジナルのGHQ草案をもう読んでいます。このミーティングのときにまた配られるのですけれど、これは2通目なのです。

吉田さんは最初のオリジナルからコピーをもらっていますから。そしてこの長い会議で、吉田茂の発言ほとんどなし。それから白洲次郎の発言もほとんどなし。

松本蒸治とGHQ側が、「これはどうなのですか、どう言うのですか、これはどうなのですか」で、結局納まったのは日本側は、早く日本人が分かる日本語にして翻訳してくださいね、というところです。

最初に読んでびくっとしたのは、松本蒸治が憲法は普通の日本語で書かない方がよろしいと言ったのです。アメリカの人には意味が分からない、すなわち松本蒸治は憲法というものを、国の憲法、日本国の憲法は天皇陛下から国民にわたされるものですから、もう少し天皇陛下が出される教育勅語のようなイメージの言葉を使って書かれた方が良い、と言ったのです。しかしホイットニーが、松本博士と言っていますけれど、「一体何を言っているのか、国民が読んで分からなければどうしようもないだろう」と。

それによりGHQの憲法は普通の英語で書いてあるのだ、誰が読んでも分かる言葉で書いてあるのだと。

そこも日本側にとってはちょっとショックです。誰にも分かるように書いてあるなんて、と。

だからアメリカ側は「日本は何を言っているのだ、松本蒸治、お前は何を考えているのだ」と。

日本側は明治憲法のもとに日本帝国の中で育っております。

しかしアメリカは普通の英語で書いてあります。アメリカのGHQの憲法が何か優しすぎて威厳がないのではないかと思っていたのです。アメリカはそんなことは全然考えておらず、「みんなが読んで分かりやすい日本語で。言いまわしもいろいろありますでしょうけれど、松本蒸治博士のような素晴らしい人材がおられますので、それはおできになるでしょう」と褒め殺しされるわけです。それでこの9条を1条にしようと思っていたGHQアメリカ、そこを何とか、それでは9条で良いですということになったのです。9条に反対するなど誰もしていないのです。9条をどこに入れるかの話です。9条については面白い、嫌な話がいっぱいあります。

戦後に占領が終わり、それで朝鮮戦争が始まります。朝鮮戦争は19506月に始まるのですが、北が攻めてきて、隣の国で大戦争をやっています。日本は私たちは鉄砲も持っていないし、撃ったこともありませんし、軍隊もありません。1950年、どうもアジアの様子がおかしい、ソ連とアメリカ冷戦のまっ最中ですから  朝鮮半島が火を吹くわけです。ヨーロッパでも冷戦、アジアでも冷戦、いつどこで火を吹くのだろうというのは世界中に満ちておりました。

それでマッカーサーがまだ日本にいるとき、その不安が大きくなった1950年昭和2511日の新年の国民に対するご挨拶の中で、日本の国が襲われるようなことがあれば、日本は自衛をしなければいけません、と。

自衛もだめだったのではないですかという感じです。そんな話があるわけないでしょう、とマッカーサーが来ました。それで、その後すぐマッカーサーから吉田首相に警察予備隊を作りなさい、7万くらいいるかもしれません、と。最初15,000から始まるのですが、だんだん増えてきます。これは日本の国の海岸線を守るためだ、警察予備隊、海上保安隊も作りなさい。そうすると元軍隊にいた人たちがドッと入ってくるのです、これで失業者がちょっと少なくなりました。

しかし日本の国民、平和憲法9条、「自衛のための戦争もだめですよ」で育っていますから、「え?軍隊を作るの?」となります。軍隊ではなくて警察予備隊です。戦争が勃発します。それでマッカーサーが「あの憲法は自衛のための戦い、防衛戦を否定しているものではありません」とまた声明を出します。

日本の国民は、「そうかしら、あれだけマッカーサー元帥が日本人が自衛のためにも戦争しない、すなわち日本は世界の道徳的なリーダーになれる、平和のリーダーだと言っているのに」となります。

ホイットニーは道徳的という言葉もたびたび使っています。すなわちこの9条は劇的な好印象を世界に与えるのだと。日本の意欲がドッと上がる、これで日本の占領も短くなる。

そこまで言われた第9条。ところが、国会でマッカーサー憲法、すなわちGHQ草案が日本語にされて国会の審議に出てくるわけです。そうすると9条を見るわけです。そこでこの9条に大反対したのが、日本でその名前を知らない人はいなかった日本共産党の野坂参三です。

そのとき野坂参三は、お金をもらっているスターリンのスパイでした。野坂参三が質問に立って、「世の中には戦争の形が2つありまして、1つは日本帝国が中国や朝鮮半島、満州に入って行った、あの侵略戦争です。もう1つは防衛の戦争があります。そういう国が入ってきたら、戦わなければいけない、そういう戦争がありますので、この9条で自衛のための戦争もだめだと言っているのは良くありません」と言いました。

そうしたら吉田が答弁に立ち、「野坂議員のようなお話は、防衛のための戦争は良いと言っているのは、すなわち武力を使って侵略戦争を始めるというのを誘発しますよ」と。そうすると国会議員の議員たちがヤンヤの大拍手です。すなわち吉田茂の頭の中には。

彼は総理大臣なのですが、その頭の中ではいろいろGHQと会合を持ち、マッカーサーにもお伺いして、9条は自衛のためにも武器は持ってはいけません。すなわち丸裸で無抵抗な状態が日本の世界最高の道徳的な美しい姿でありますよと言われた。それでみんなそのとき納得しているのです。それですっと通ってしまい、マッカーサーが大喜びです。天皇陛下もこの憲法については素晴らしい、マッカーサーも素晴らしいと。だから2人で共同してお言葉を出されました。9条は朝鮮半島が火を吹いたときに、即死です。そこから自衛隊とかいろいろなものが出てきて、今日本では大きな自衛隊と言っておりますが、大きな軍隊、陸海空、それから海兵隊も全部整っております。それが9条です。

 

質問者:先ほど先生がおっしゃっていた、アメリカが一番9条を入れたかったという理由というのは、やはり日本を属国として支配下に置くためという。あらゆる権利を取りたかったということでしょうか。

西:とにかく日本はあれほど物がないのに、勇猛果敢に戦ってしまったのです。それで、マッカーサーは第2の母国と言っていたフィリピンのマニラから日本軍に攻められて、抵抗するのだけれど抵抗できず、オーストラリアまで逃げました。言葉は良くないのですけれど、マッカーサーは僕らと一緒に戦って死のう、と思っていた男です。それを知っている僕たちは、もうマッカーサーのためだったら俺たち死んでもいい、と思っていたのです。ところが、ルーズベルト大統領がマッカーサーをあのままマニラに置くと、あいつは戦いながら死ぬからと。大統領命令で「マッカーサー、オーストラリアに逃げろ」と言うか言わないかに逃げていくわけです。それを経験しているマッカーサー。それからずっと沖縄戦から、いやそれはすごい戦争です。それで、日本人に武器を持たせるとこういうことになるということは、もう自分の体で知っていますから。

それでもう1つは、日本人が武器を取り出すと次は復讐されるのではないかと。

だけど、その復讐の話はそれほど架空の問題ではなくて。第一次世界大戦が1918 から1919年に終わるのですが、そのときにイギリスやフランス、特にフランス連合軍がドイツにもうものすごい、絶対払えない賠償金をかけて。それに重工業、機械を全部取り上げて。ドイツでは餓死が出るくらい、貧困のどん底に落ちるわけです。それで、ドイツの国民の中に共通した1つの心は「必ず復讐する」です。

Q&A「吉田茂の秘密」

6、Q&A「吉田茂の秘密」

「必ずあいつらに復讐してやる、フランスとイギリス、特にフランス」と。

それで、この復讐心でみんな必死に頑張って、その復讐心をうまく利用したのがヒトラーです。

ヒトラーが賠償金はもう払えるのですけれど、「もう払えません、軍備してはいけません、

しません」で軍備をやっているわけです。もちろんマッカーサーみたいな頭脳明晰の男はもう歴史を全部知っていますから、日本もそれをやるのではないかと。

戦争に負けたことのない日本は、おそらく強くなったら仕返しを考えるに違いない。

アメリカの方にも、原爆を2発も落とした罪悪感がありますから。「あれは関係ない」と、「あの戦争に勝ったのだ」とか強がっていますけれど、一般市民を殺したのだから罪悪感はあります。「殺してはいけない、殺してはいけない」と言っているアメリカですから。だから、そういういろんな感情が怖いのです。憲法で日本が武器を持てないようにすれば、「日本は安全なアメリカの極東の基地になってくれるだろう」と。

見事に成功して、アメリカの占領はアメリカの成功を物語り、アメリカの占領は日本の惨敗物語、戦争に負けたということです。あれはもう1回負けたのです。日本はそこを理解していない。

何でアメリカの基地が日本に、北海道から沖縄まで5070か知りませんがあるのか。

もう戦争が終わって70年経つのに、まだ東京の周りには厚木とか横田があって、その上は日本の飛行機がいまだに飛んではいけないのです。どれほど私たちがいわゆる骨抜きにされて、筋肉を付けてはいけません、となっているのか。自衛隊はもう作ってしまいましたので、自衛隊に入っている人たちはおそらく相当精神不安定です。その不安定の理由は、憲法で「自衛もだめだ」と書いてある。日本の最高裁が「自衛のためだったら持ってもいい」と言っているけれど、吉田茂も言っているじゃないか。

野坂参三が「自衛権を持ちましょう」と言ったらみんなで笑ったのでしょう?

「お前のようなやつが戦争をするのだ」と。それで、自衛隊は「武器を持って戦おう」、戦闘心も十分ある人たちです。ある人はサラリーマンで入っているかもしれません。日本の今の憲法の下では異常に寂しい存在です。認めてもらえない。自衛隊じゃない、軍隊。それで、日本の海軍や空軍が日本から外へ出るときは、ジャパンネーミング、ジャパンエアフォースですから。そう、軍隊です。だから、自衛隊はそのはざまで非常にかわいそうです。ただ、問題は自衛隊ではなくて、この第9条です。

9条の説明がずっと自衛のためもだめです、となっていること。マッカーサーもそう言い、吉田茂もそう言い、ずっときていたのです。占領が終わって変えればいいのだけれど、変えない。何で変えないかと言うのはもう完璧に分かっている。日本の自由民主党はマッカーサーが作った憲法と国の形、それが土台なのです。

だから、憲法なんかを変えるとがらがらと崩れるのではないかと。それが怖いから長い間変えなかったのです。

その9条がどれだけ日本にとって危ないかということを、今の日本国民は分かっているのだけれど、長い間一緒に育っていますので、「9条をやめたら日本は戦争するのではないか」とか言っている。それは平和教育と言って、永遠と植え付けたからです。

憲法が発明されたとき、私は小学校1年生ですから、1947年です。私はかわいい子だった、飢えていました。

だから学校でもお祝い事です。もちろん「新しい憲法ができた、ばんざいばんざい」です。そのときに初めて国旗掲揚をマッカーサーが許したのです。

それまでは「日の丸掲揚なんてふざけるな」「国家を歌うなど、何を言っているのだ」という世界です。

あの憲法が発令され、あるいは発布されて、そのときにマッカーサーから吉田に命令がいって、「国旗掲揚してもよろしい、国家も斉唱しましょう」と。吉田がもう「わが親愛なる元帥さま、もう日本国民を代表して感謝、感謝、感謝」、そういう状態だったのです。それを今さら「自衛権は否定してない」とか言っている。

今さら何を言っているのだ、どこで勝手に歴史を書き換えるのだという、そういうお話です。

質問者:ありがとうございます。やはりその吉田外務大臣が1人だけオリジナルをもらって、それから首相になったということは、やはり。

西:そうそう、その通りです。吉田さんとマッカーサー、GHQはもうべったりです。

吉田の方からべったりです。茶坊主と言ったら失礼ですが、それほど優秀にマッカーサーのご機嫌を取られました。ご機嫌を損ねると総理大臣になれなかった、鳩山一郎がそうです。鳩山一郎と吉田茂、総理の席を巡って大喧嘩をやっているわけです。鳩山さんの方がいわゆるランクが上でした。それで鳩山さんは、明日から俺が、鳩山一郎が首相だと、もうその通り物事が動いているわけです。

そうすると、マッカーサーが「お前はだめ、お前は文部大臣のとき、京都帝国大学で滝川という教授を辞めさせただろう」と。辞めさせたのです、政治介入をやってしまったのです。「そういうことをやっている、お前は前科者ではないか」と。それで総理大臣になる1日ぐらい前に失脚されて、次に出てきたのが吉田茂です。

ここで噂が広がったのは「その話をGHQにしたのは茂か?」。ずっと残っています、「吉田茂、お前がGHQに囁いたんだろう。お前らに失脚させられるわけがないのだ、誰かに言われなければ分からないことではないか」と。鳩山さんは戦略が終わって、その後総理大臣になられましたけれども、あのときは非常に悔しかったと思います。

質問者:今先生がおっしゃった、吉田茂が自分の敵である政治家を排除するというのを、いわゆる政治学でY項パージと言ったりしませんか。

西:ワイコーとは?

質問者:吉田のYを取って、Y項パージという。

西:吉田茂外交官は英語もよくできましたけれど、外交官があそこまで登っていくというのは絶対1人ではできませんから。だから、GHQ、マッカーサーのヘッドクオーターから見たときに「吉田茂は使える」と。

彼は軍の台頭に少し反対して勲章も付けていたわけです、いわゆる軍に反対したという勲章。だから、それもGHQ権力を受けたのですけれど、それだけではだめですよ。相当いろんな政治工作の才能があって、アメリカのマッカーサーの言うことがよく分かって、ウイットの受けも良くて、それでいろんなことを。サンフランシスコに行って平和条約にサインしたのも吉田首相です。「アメリカの軍隊が日本に来てそれぞれの基地に散らばって、そこで日本も守ってくださることに賛成です」と。だから、アメリカの言う通りに動いた男です。

質問者:それはやはり今も続いているのですよね。アメリカに反対されたら首相にはなれないという。

西:今も続いています。もうアメリカにNOと言われたら、絶対に首相になれません。だから日本で小学校しか出ていない、俗に言う本物の政治家、田中角栄が出てきたときに日本が活気づくわけです。あの人は記憶力が抜群だったらしいです。

それぞれの人の子どもの誕生日を覚えていたというぐらいですから。今のスーパーコンピューターな男です。

それであの勢いでしょう?私よりどら声でワーッとやっているわけです。それから、日本が大成長しているときに、ニクソンとキッシンジャーが組んで、日本の頭ごなしに中国の毛沢東に会って、それまで「存在しない」と言っていた中国が「存在する」と言ったんですよ。あれはひどいです。日本ではキッシンジャーを非常に評価してわあわあ言っておりますが、私はアメリカに長い間いまして。ケネディが殺された後にすぐ来た男ですから。キッシンジャーは日本を好きではないです。キッシンジャーは中国側です。

ところが、日本は高いお金を出してキッシンジャーに来てもらって講演などしてもらっています。

それで、田中角栄は「では中国は存在するのか?昨日まで存在しないと言って、何で俺の頭ごなしなのか」と。だからピンポン外交とか何とかが始まり、それで田中角栄は「それでは僕も向こうに行って、毛沢東に会って中国を認めましょう」と、アメリカに許可を受けないで行ったのです。もちろんもう存在するのだから。

それでロッキードをやられたのです。1億、2億、3億、あのころはポケットマネーです。

だから、それをアメリカの議会の小委員会、小さい委員会から、ロッキードの社長が「昔ロッキードを日本に買ってもらったときに、賄賂をわたしました」と。そこから出てきたのです。東京に検察庁があります、力を持っている検察庁です。あれは占領のときにできた、すなわちアメリカが作った庁です。これは戦犯を探すための機関です。今は悪いやつを探している。日本にそんな悪いやつはいないです。

日本の悪いやつはもう今スケールが小さくて、ガソリンが、効率がこうだこうだと、ちょっと0.14253をやっているわけです。スケールが小さい。

規制があまりにありすぎて、大悪人はもう日本にほとんどいなくなります。だから悪いことをしようと思っていてそういう才能がある者は、もうアジアへ出ています。日本は規制が強すぎて、お金を儲けても全部税金で半分取られますから。お金持ちになれる人はもうシンガポールなんかに行ったら、法人税10%ですから。

10%。アメリカでさえ20%です。だから、憲法9条の影響はどれだけ日本に浸透してどれだけ私たちが無防備になっているか。しかし金利がショック怖いから、アメリカの傭兵、用心棒にお金を出してたくさん出して、宿舎も与えて、それで守っていただく。日本人が守れないわけがないではないか、あれほど強かった日本が。

私が子どものころ、帰ると周りに元軍隊のおじさんたちがいましたけれど、もうみんな口をそろえて「もっと食べ物があったら、もっと弾薬があったら負けていないぞ」と。勝ったとは言いませんけれど、「あんなに負けていないぞ」と言っていました。

質問者:222日の2回目の会談記録に話を戻したいと思います。最初に会談があったのが213日、そのとき吉田茂は「会議を内密にしてくれ」とおっしゃっています。そして222日のときもまた吉田茂が「この会談を完全な極秘にしてくれ」と言ったのですよね。しかし、松本国務大臣も自分の史記を少し書いているのですけれど、彼のところには全く「極秘にしてください」という言葉が全然載ってないのですけれども、これはどういうことなのでしょうか。

西:日記とか回顧録というのは人が読むでしょう?それでGHQと交渉しているときに、吉田茂は度々「ホイットニー准将、これは極秘にしてください。この話は極秘にしてください。GHQの草案を日本語に直すということも極秘にしてください。すなわち全部極秘にしてください」と。

松本烝治は憲法の大家で憲法のことをよく知っていて、自分が委員長になって自分のした仕事は、GHQ草案を日本語に、今の憲法に直しただけなのです。これはちょっと屈辱です。

屈辱ですけれど逃げ場がないではないですか。逃げてもアメリカはそこにいますし。だからそういうものを表に出したくないのです。吉田茂が言っていますので、彼は極秘にしてくれと自分からは言っていません。

もうそういうことを書きたくないのです、書くとどうせばれますし。吉田さんも回顧録を書かれますけれど、そんな話は全然ないです。それで9条の話が当時、幣原総理大臣とありました。全部彼の責任、マッカーサーも幣原が入れた、吉田も幣原が応援したのではないかと。もう最初から吉田茂、特にあなたは最初の5通あった1通をもらっているのでしょう?そのときに8条に同じことが書いてあったではないですか、マッカーサー憲法に。それを言わなくては。

だから皆さん、回顧録には気を付けてくださいね。マッカーサーもこんな大きいものを1964年に出版されましたが、この中で前に話をしました近衛文麿の憲法については、一行も一言も出てきません。それでこの回顧録の中に、「9条は私ではなくて幣原総理大臣が入れたいと私に言いました」とあります。そんなところです。

だから極秘にしなければいけないというのはあります。吉田茂の頭の良さならば、これは極秘にしなければ俺の明日の生命はない、というのは分かっていたのでしょう。

発言者:その極秘にしていた文書が今表に出てしまったわけですが、それで今まで憲法9条を発案したのは幣原だという話だったのですけれど、最初のころは8条だったということですね。

西:だからもう内容もばれています。私があちこちへ行って極秘文章を探していますけれど。この中にもありますけれども、アメリカは記録を残します。皆さん、アメリカと日本の大きな違いはここですよ。

「アメリカの政府関係の軍関係の書類うんぬん、これは国民の財産、国民が所有するものですから、1人が勝手に破ったり燃やしたりしてはだめですよ」と。

だから、30年の時効があります。「お前が10年分書いている真珠湾の極秘は60年でした。暗号解読、それでも破棄していません、燃やしていません、シュレッダーにかけておりません。すなわちそういうことをしたら犯罪ですよ」というのが連邦政府の公文書で、管理の人たちに浸透しています。

今アメリカでも、ヒラリーとトランプの間で大騒動になっていますが、これも全部Eメールをデリートしてはいけません。ところがヒラリーさんが硫酸みたいなものをコンピューターとサーバーにかけて。それで今大騒動になっています。すなわち、個人のものではありません。国務大臣、日本の大蔵大臣、総理大臣、あなたが出した、もらった、使った書類は国民のものですよ、というのが日本に浸透していないのですよ。だから、アメリカにあるものが日本にないのです。

私が『國破れてマッカーサー』を書いているときに、アメリカの公文書館を全部回りました。トルーマン図書館にも行きましたし。マッカーサー図書館にも行きました。日本に帰って「この人の文書を読みたいのです」と言ったら、国立図書館で何と言われたか。「あの方はまだ生きておられますから」と。何十年経っても「生きておられますから」と言われても、個人のものじゃないのだから。ところが日本は個人と思っているのです。

だから「死ぬまで待ってちょうだい」という。これはアメリカと日本の大きな違いです。だからアメリカで学術研究するのは非常に楽です。楽というのは、探せば読ませてもらえるからです。日本だと、他の観念が入ってきています。あの方に迷惑がかからないようにということです。

質問者:それはそうです。

西:だから、吉田茂がホイットニーに極秘にしてください、これも極秘にしてください、ただ会うたびに極秘にしてください、と言っているのです。

質問者:今、憲法9条の制定過程が徐々に分かってきたのですけれど、日本ですと憲法9条はやはり日本人が作ったのだと。

例えば芦田均が芦田修正を押したのだ、っていうような議論も多々あるのですけれど、それは憲法9条の前、憲法8条が、戦争が起きたということを全く知らないで、このような議論がなされてしまっているのですよね。

西:芦田さんも、吉田と松本と白洲、この3人を除く他の議員、他の閣僚はマッカーサー憲法、GHQ草案を日本語に訳したこの日本語しか見ていないのです。

だから、これに手を入れているわけです。こちらに手を入れたら「お前はA級戦犯だ」と指名されるのが皆さん一番怖いのです。それを時々アメリカ側が出すわけです。これを実際にやられた人もおります。日本側は、松本烝治とその他の学者たちが一緒になって訳したものに手を入れているわけです。

こちらに手を入れさせてもらえるわけがない、松本がいくら言ってもだめです。だから、明治憲法を丁寧にしてその上に書き換えていけばいいのではないか、という発想。これも一発でだめでした。それで松本草案は、もう出した瞬間にだめ。だから残っているのはGHQ草案、マッカーサー草案を読める日本語にしなさい、ということだったのです。

質問者:もうここまでくると、憲法9条の戦争放棄は、日本人が作ったと全く言えなくて、もう完全にGHQ制だと。

西:そういうのを聞くと、もうこちらが何か気恥ずかしい。そこまで思えない。これから出てくるものでもう議論を完全に終わらせます。私の『國破れてマッカーサー』等でも相当言いましたけれど、やはり今度実物を見せてあげないといけませんね。それでもう無駄な時間をやめましょう。さあどうしますか。

日本の総理大臣は、これからどなたになっていくか知りませんけれど、そろそろこれを広げた方がいいですよ。日本のマスコミを使って、全文を出しなさいと。

GHQ憲法がずっと翻訳されていって、日本語版になります。日本語版になるのですけれど、マッカーサーと昭和天皇陛下が一緒にこの日本語版を応援する、サポートする、支持する。

そうした方がいいのではないかという話は、先ほどから言っております1946年、昭和21222日のその会合の、ホイットニーと吉田グループのときに出てきます。すなわち天皇陛下はこういう言葉を掲げて、マッカーサーはこういう言葉を掲げて、それの擦り合わせがその日の222日から始まりました。

それで天皇陛下の日本語のお言葉とマッカーサーの英語のお言葉が出てきたのが、ほぼ12週間後の1946年、昭和2136日。朝、同時に出てきます。

すなわち、その日に日本国憲法が国民に提示されます。国民はこれを読んで、「これでいいでしょうか」というのが4月に行われた総選挙です。それで、自民党の吉田茂が圧勝して総理大臣になって、そこでざっと審査を始めます。国会の中での議論があって、野中三蔵をあやした茂が、俗に言う、討論をやるわけです。

しかし、その36日に天皇陛下が国民の前で「国民の皆さん、これは素晴らしい憲法です。審議してください。日本の将来が見えます。マッカーサーも私も非常に満足しております」と。マッカーサーが0れは日本の国民が作ったと言わなければいけないのだ。バレてしまったのだよ」と。英語のサブコンシャスというのがありますが、ずっと思っているのに普通は言わないけれど、あるところに本音がポロッと出てしまう。

マッカーサーが「この憲法は日本国民が作りましたよ」と言っているのは、「自分が作ったので、これを言わなければいけない」という、誰も思ってもみなかったことを言っているのです。

GHQ憲法、日本語版

7、GHQ憲法、日本語版

皆さん、国民に出した文書に残っています。だから、それほどマッカーサーは自分の名前が出ないように必死になって、「国民が作った」と言っているのです。

もちろん天皇陛下とマッカーサーの、いわゆる説明文、声明文、奨励文の擦り合わせが2週間で出来上がりました。だから、相当苦労したのでしょう。

しかし、それほどGHQは昭和天皇を使って、このGHQ憲法を通したい。「反対するやつは、巣鴨プリズン行きだ、ジェイル行きだ、断獄だ」ということ。そういうのは日本の政治家たちはみんな分かっていましたから、ここで単に抵抗すると、いろんな目に遭わされるということです。天皇陛下とマッカーサーは、見事に連携作戦をやられて。俗に言う、プロレスのタッグマッチです。

天皇陛下もマッカーサーに盾突く気持ちなどありませんし。マッカーサーが占領したのは6年少々ですが、マッカーサーと天皇陛下は11回面会されています。

マッカーサーは太平洋を渡ってきた征夷大将軍で、敗戦日本国、焦土日本国、超貧乏で食べ物のない痩せこけた日本人をそれほどに牛耳った方でございます。

質問者:GHQが出した憲法と擦り合わせということですが、昭和天皇の方から真新しいものというのは全くもって出なかったのでしょうか。

西:昭和天皇がそういうことをすると、東京裁判にかけられますから。まず、お付きがさせないです。

天皇が一番「OK」と言おうと思っていたのは、もうずっと前に出てきました近衛文麿草案です。それで、明治憲法の最初の1条、2条、3条、5条、そのままを中から誰かが漏らしましたので、アメリカのGHQはそれを知っていました。だから、そこでもうおしまいです。それで、いわゆる近衛文麿は親戚のバランスから衝天の血が濃いのです。遠い親戚ですけれど、もう動くと危ない血です。

それで、天皇はマッカーサーが作ってくれたと完全に自覚しております。マッカーサーが守っていなかったら完全にアウトです。それならもう憲法のことなんかどうでもいい、と。

マッカーサーがアメリカの有名人にポロッともらしたのは、「天皇は俺にキリスト教に改宗してもいいと言っている」と言ったのです。「俺は『それはやめなさい』と言ったのです」と。

だから、天皇家も必死だったのです。アメリカから見ていると、あのときの日本の長は天皇陛下です。

天皇陛下の名前で戦争をやったのです。だから普通だったら、天皇陛下も危なかったのはもう間違いないのです。ただマッカーサーがそこに割って入りましたので、天皇を東京裁判にかけると占領できていません。

もし天皇を絞首刑なんかにしていたら、いまだに私たちは戦争をやっていますよ、ゲリラ戦を。それを完全にマッカーサーは分かっていましたから、「俺にとって必要なのは天皇」と。

昔から物語で「蜘蛛の糸」というのがありますね。天から下りてくる蜘蛛の糸に、罪人がこうやってザーッと登っていって、下に蹴り落としているわけです。

そして蜘蛛の糸を下したのは天皇陛下で、蜘蛛の糸につながっているのはマッカーサーです。あそこで彼がバチッと切って天皇を殺していたら、自分自身も非常に危ないのです。東京には絶対住んでいられません。それほど日本国民は天皇を崇めていましたし、天皇を殺すような人を国は絶対に許していませんから。

だから未来永劫、まして日本みたいな山岳地帯はもう最高なゲリラ戦です。日本はトンネルを掘るのがお上手ですから、もしかするとひょっとしたら、トンネルで成長していたかもしれません。それほど日本は天皇陛下を敬愛しているとマッカーサーは自覚しました。もう誰にも手を付けさせない、天皇がいるから俺は統治できるのだと。

だから、そのマッカーサーが昭和天皇と一緒になって、「この憲法は素晴らしいものです」と言って出したので、日本国民は「はい、分かりました。審議いたしましょう」となりました。

しかし、その裏を知らないのです。

吉田も黙っているし、それから関わった白州次郎も松本烝治も黙っているし。言ったら絶対アメリカに殺されています。あの当時はもう暗殺がいっぱいですから。

質問者:昭和天皇の言葉なのですけれど、これはフーヴァー研究所のアーカイブズの中にあ

りまして、英語で書かれたものが昭和天皇の言葉として残っているのですか?

つまり、これは英語で書かれて日本語になったのでしょうか、それとも日本語で書かれて英

語になったのでしょうか。

西:もちろん憲法と同じで、英語で書かれて日本語になったのです。すなわちマッカーサー側が書いて。

だから、それはマッカーサーのお付きの誰かが書いて、それで細部が固まって、いろいろ筆を入れて、「元帥これでいかがでしょうか」と。元帥がおそらく、あの人は令文を書きますから、筆を入れられて。

それでマッカーサーの文章は愛で始まっていますから、私は非常に幸せな気持ちでございました。今日はこういうものを出して。だから、「それと同じような内容を天皇陛下が書かれると、こうなのかな」ということで、日本側がそれを書いたのです。

ところが、マッカーサーの文章をうまく訳せませんから、できるだけ天皇陛下の勅語のような形に一生懸命直していったのです。2週間でそれを書き上げましたから、相当な人が関わって、夜も寝ずに一生懸命やっていたと思います。

質問者:そうなのですね。

例えば英文で「ultimate form Japanese government」というのを「日本国政治の最終の形態」と訳しているのですけど、普通は「日本国政治」ではなく、「日本政府」というふうに訳したりするのが正しいのですか。

西:ultimate」というのは「最終的に」と書いてあるでしょう?そうではなくて、「ultimate form」というのは「最良」という意味です。「最も良い形はこの形です」という意味です。

だから、そこまで英語ができた人がいなかったのか、そこまで日本語と英語の擦り合わせが分かる人がいなかったのか。これは相当英語ができなければそういう日本語にできません。間違いではありませんけれど、意味が通じません。

質問者:そうですね。

西:だから、「できるだけマッカーサー元帥の言葉を直訳して日本語の天皇陛下のお言葉にしよう」という、そういう努力です。

質問者:なるほど。

西:だから、ドジるのは、当然なのです。

質問者:では、もし日本側が日本語を最初に書いたとして「最終の形態」となったら、日本人だったらば普通「ultimate form」とは訳せずに、「the final form」と訳しますよね。

西:そう。それと同時に状況判断でマッカーサー憲法を日本語にして出すのです。

そのときに天皇陛下が最初に書いて、それをマッカーサーに見せて、「英語に直せ」と言います。冗談ではない、それはもう、あるわけもないことです。

とにかく占領中の公用語は、皆さん日本語ではないのです。英語です。すなわち全部英語に訳されてGHQ。新聞の記事も全部英語に訳されて検閲。私は憲法を見ていますが、吉田総理大臣の演説も全部英語に訳されて、マッカーサー元帥に「これでよろしゅうございますか」と。

そうすると手紙の下に、「OK」とか何か書いてあるのです。そういう世界ですから皆さん、公用語は英語でした。日本人は英語ができませんでしたので、非常に大変でした。

 

8、マッカーサーへのメモ

GHQとホイットニーと吉田、松本がお話をして一通り済んで、日本が翻訳していきます、と言うことが決まったのが2月です。その2月末にホイットニーがマッカーサーにメモを書いて次の2人を。

名前を間違えたらいけませんが、官僚のトップで選挙に出ていない楢橋渡と石黒武重、「この2人を、石黒と楢橋を内閣の中に入れたい」と。すなわち「国務大臣、無任所国務大臣にしたいのでOKしていただけますか」と。この2人の名前が挙がっているわけです。非常に珍しいです。

それでホイットニーのマッカーサーへの説明は、「この2人はマッカーサー元帥の日本改革について非常に努力して私たちのために一生懸命に働いておりますので、ぜひ許可してください」と。

「今調べさせておりますが、この2人は戦犯の身、戦犯のリストに引っかかるような男2人ではございません」と。それで、マッカーサーは「ホイットニーが言うのだからOK」と。それで、この2人が内閣の大臣だけの審議の中に入れます。「こんな憲法で良いのか、天皇陛下はどうなるのだろう」と。内閣はこんなに揺れています。

アメリカのオリジナルを知りませんので「一体どうなるのだろう」と。反対しているのを切り崩していくのがこの楢橋と石黒の役目です。よくそんなものを引き受けたなと。私から見ると、楢橋と石黒にとってメリットは何だったのかと思います。メリットは日本政府の中でどんどんと出世していくことでしょうか。

もう1つ書いていないですけれど、アメリカのホイットニーの子分が3人いました。ある日その2人を楢橋が夕食会に招くわけです。それで当時の貴族、華族の人たちも45人出て夕食会をして。楢橋はちょっと夜遅くになって夕食の後帰ってきて、アメリカの子分2人とお話をして。ー   そして子分2人はもちろんメモを残しているのです。そのメモを読むと、楢橋は今度大磯に皆さんを、伊藤博文や吉田茂が別荘を持っていたところですが、「大磯に元伊藤博文が持っていた別荘をこれから買います」と、楢橋が言っているのです。

それで、この2人に向かって「皆さん、ぜひ遊びに来てください」と言っています。あのときの日本は、ほとんどの人がお金を全く見たことがないのです。

超満員のボロ電車に乗って、田舎へ買い出しに行っているわけです。お金がないから着るのは、着物とか腕時計とか家に残っていた何か金属に見えるような物を持って行って物々交換です。

そのときに夜お客さんを呼んで、それもGHQのトップの2人を呼んで、貴族、華族の人たちを呼んでパーティをやるというのは、どれだけ物が豊富にあったのか。お酒、ワインがあったのか、どこからこんなものが入ってきたのか。官僚ではないですか。

それがたまたまアメリカのGHQ、アメリカのホイットニーと近づいたので。すなわちそれほど努力してアメリカのために尽くしたのでいろんなものをもらえた、ということで間違いないのです。

そういう人を日本の企業が見逃すはずがありません。別荘が買えるほどお金があったのですが、そのお金はどこから来たのか。そんなことはこちらに出ていませんし、おそらくメモにも残っていないです。

それで、アメリカ側の2人はホイットニーにメモを残して、「面白そうなので、一度彼の別荘に行ってみようと思いましたのでOKしました」と書いてあるのです。別荘をどうやって買ったか、そんなものは何もないです。ただ普通、あの当時を知っている日本人は、いち官僚がいわゆる国務大臣にしてもらって、その後別荘が買えるほどのお金がどこからか入ってきたのかと。「どうしてそんなお金が入ったの?」と思います。しかし、一般国民はそんなことを考えているときではないです。食べ物で必死ですし、またそういうニュースが流れてきません。ただ、アメリカのこのフーヴァートレジャーの中にそういう文章が残っておりまして。

私も知らず「大磯で別荘を買ったのか」と。それも、元伊藤博文が作った別荘、いろいろ改造されたのでしょうけれど、これはびっくりです。

ところが、運命というのはあまり優しくありません。憲法が通って、憲法になって、その後、楢橋渡は戦犯リストに名前を載せられました。アメリカに裏切られたのです。すなわち、最初から「こいつは危ないな」と思って見られていたのです。

ところが楢橋も生命力が強い男ですから、占領が終わった後また必死で、A級戦犯だった岸信介の第2次内閣で大臣になりました。

質問者:楢橋渡と石黒武重さんはGHQの情報を売っていたのですか。

西:売っているのではなくて、もうそのまま、売らなくても中を言うわけです。

「中でこうなっています、誰が反対している、誰が賛成している。私がこういうことをして、あいつを切り崩しました」と。

そうでないと、ホイットニーからマッカーサーに「この2人を大事にしてください」と伝えるメモなどは出てきません。相当評価されたのです。はっきり言って、スパイとして素晴らしかったのです。

中の内情を、日本の内閣の中身を全部出して、「誰が悪いやつ、誰が良いやつ」と。だからもう正直言って、情報を売っていたのですよ。その見返りとしておそらく高い物をたくさんもらったのです。

東京は焼け野原ですから、パーティなど開ける世界ではありません。皆さん、掘っ立て小屋というのは、本当に掘っ立て小屋です。ビルができだしたのは朝鮮戦争があって、戦争特需でお金が日本にどっと入ってきて、それで東京が少しずつ回復していったころです。他の町々はすごい状態です。だから、この2人は相当GHQのスパイとして活躍された官僚なのです。

質問者:楢橋さんは伊藤博文の滄浪閣という別荘を買い取っているのですけれど、このお金の流れというのは、今現在先生でも。

西:分からないです。あの当時はおそらく何も残っていないです。銀行振り込みなんかありませんから、おそらくボストンバックに、箱に入れたキャッシュです。そして紙幣に変わっていますから。昔のお金ではなくて、新しいお金です。

いくら日本が貧しかったと言っても、大急ぎで別荘を買うというのは大変です。まして企業の社長でもなし、1人の官僚です。この楢橋さんというのはもう頭が良いので有名でした。それはもう間違いないです。

質問者:その伊藤博文の別荘なのですけど、滄浪閣は伊藤博文が亡くなった後、李氏朝鮮の李王家の人たちが住んでいて。その彼らを追い出して楢橋が買ったということですよね。

西:そうです。

質問者:朝鮮との関係は、何かこう。

西:ある可能性はあります。

私の母親がよく言っていましたけれど、名前をいろいろ挙げて「あの人たち今日本でお金持ちなのは、おそらく満州から持って帰ってきたからなのだよ」と。私の母はお金持ちでしたから、お金持ちのやり方をよく分かっているらしいのです。「満州から何か持って帰らないと、今の日本ではお金持ちになれない」と。重工業禁止ですから、あのときの日本でお金持ちになれる可能性もないのです。飛行機も禁止、すべて禁止。「細々と米を作って大豆で生活していたらよろしい」と。鶏肉や牛肉があるわけないので、たんぱく質は大切だったのです。

だから、もう非常に貧しい生活の中でこういう人が現れて大磯に別荘を買うということ、これはびっくりです。私は当時を知っていますから、「あのときに大磯に別荘を買えるほどお金があったのか」という。

政府で務めても、政治家になっても給料は安いのです。だから、相当の軍資金を持っていなければ難しいのですよ。白洲次郎は買えたと思いますけれども。

普通の官僚からアメリカを手伝って大臣にしてもらって、それからこれだけの高い物を買い物するというのはもうお金がどこからか。アメリカから出てきたのか、それとも日本の企業から出てきたのか、その李王家の方からもらったのかは分かりません。

質問者:当時の日本で、お金持ちになろうとする新興財閥のようなこととかいろいろあると

思うのですけれど、その人たちがお金を稼ぐとなったときはやはりGHQの下請けの仕事であっ

たり、GHQと仲良くなるのが一番お金になるのでしょうか。

西:全くその通りです。

私の発想は、これから起業、前の企業をつぶされて才能のある男たちが商売を始める、会社を興す、工場を作る。そのときにGHQから注文があったらもう確実にお金が入ります。

その口利きをしてくれるのが楢橋くん、石黒くんではなかったのかと思います。だから、楢橋が儲けたお金はおそらくGHQの方にも潤滑油として回っています。独り占めしたら、こんなことできるわけがないのです。

だから、口を利いてもらってお金が儲かったら、口利き料としてわたすわけです。おそらく楢橋渡はそれが上手だったに違いないです。占領の後も、政府の大物になっていきますから。

質問者:楢橋渡は戦犯になった後、大臣として復活されましたが、そういうことはよくあるのでしょうか。

西:そんな理論はごく普通です。

だから岸信介はA級戦犯で、東条英機たちと同じ巣鴨ジェイル、プリズンにいて東条たちが7人ほど絞首刑になりました。その後、マッカーサーもおそらくもうこれぐらいでいいだろう、と。それでもう許してもらえるわけです。もう絞首刑なんかない、裁判もないのです。

その岸信介が、占領が終わってジェイルから出てきて56年で総理大臣になるのです。あの当時でも問題になっていましたけれど、軍資金はどこから出たのだ、と。もう1つは、岸信介には孫たちが、親戚がたくさんおりますから。それで、岸は才能があったのでしょう、大蔵省で腕力を振るい、それからいわゆる満州国へ派遣されるわけです。

満州で「参スケ」と言われた人たちがいます。岸信介、松岡洋右、それから日産の鮎川義介が、その「参スケ」と言われる面々です。それほど力を持っていた3人のうちの1人が岸信介ですから、日本へ帰ってきたときも軍資金を持っていたのではないか、というお話です。それは、うちの母親もそんなことを言っていました。「満州からお金を持ってきた人はお金持ちだから」と。いわゆる、銀行やそういうところを通さないお金です。

質問者:石黒武重さんは戦犯になった後はどうなったのですか。

西:石黒のことはちょっと楢橋とランク違いです。楢橋の方が面白い人です。

石黒は楢橋の後をずっと付いて出世をしたわけです。ひょっとしたら、早くに亡くなっているかもしれません。

質問者:岸信介内閣は岸も巣鴨プリズンで、楢橋も結局巣鴨プリズンに行くのですけれど、占領の後できた岸内閣というのは実は巣鴨プリズン内閣、とも言われていますよね。

西:いや、まったくその通りです(笑)。

いや、それで入っていたのはやはり当時の日本の大物たち、コネがいっぱいある人たちです。普通戦争中になると、やっぱり貴金属を隠します。

俺も「お母ちゃん、何で全部出したの?」「いや、放出と言われたから」と。だって日本が勝っているし、いいではないですか。1945年の始めには出すなと言ったのにもう分からないのです。

もう大阪は焼けているのですよ。だから、こんなになっている日本の状態で、泳ぐのが上手な人はそういうところ、激流に乗ってさっと上に登っているわけです。

だから楢橋渡、絶対これは政治生命、いわゆる政治本能が優れた男です。強い人に付くのです。マッカーサーに付き、マッカーサーが終わり、占領が終わり、強いのは一緒にジェイル、監獄に入った岸信介です。官僚たちもコネがいっぱいありますから、もうそういう世界です。きれい、汚いの世界ではなくて、これが現実です。

 

9、平和憲法、そして平和教育へ

今までの話をまとめてみます。なぜこの憲法の話になったのか、なぜしたかったのか。

名前がたびたび出てきますが、それはこのフーヴァー研究所の中にありますフーヴァートレジャーの中にGHQの資料、日本を占領したアメリカ軍政府、それからトルーマン大統領のときですが、そのホワイトハウスとの文通がいろいろあります。

特に、憲法に集中しているのが戦後70年間、憲法一字一句も変えられず。憲法は日本人が作成した、日本人が自ら進んで戦争、悲惨な戦争、残酷な戦争の1つの償いとして、あの9条を書き込みましたと。それゆえこれは日本人の戦争、戦いに対する道徳的なレベルを。

すなわち戦争しない、武器を使わない、隣国を侵略しないという道徳的な高さを示すもので、あの9条がなければ戦後日本はつぶれていたでしょう。

イデオロギー的に国をつくっていって、それが平和憲法、平和教育となっていくわけです。

それを日本の小学校から大学まで教えているわけです。マスコミも平和憲法、平和教育の片棒を担いでいました。私が『國破れてマッカーサー』を英語版、日本語版、中国版を書いたとき、かなり真実に近い文書を読んで書きました。今度発見した、フーヴァートレジャーの中にあるGHQと吉田 茂、松本烝治、白州次郎、この会談録も実況放送のようなメモです。記録に残していますから、最初は知りませんでした。しかしそれを発見をして、大筋は変わりませんが、細かい所はよく分かるようになりました。

その細かいところが分かったというのは、GHQ創案がどういう形で日本にわたされて「天皇陛下のお命と交換だぞ」と言われて、それを吉田と松本と白州が受け取ったかという、そういう記録が全部今分かりました。

新しく憲法を見直すためとはいえ、これはもうイデオロギーの問題ではないです。戦争が悪いとか、平和愛、そんなレベルの話ではないのです。平和憲法、そして平和教育へ

善悪を決める前に、歴史的な第一資料、オリジナルでどうなっていたか、これを皆さまにお話をしていきます。これからいろんな文書が出てきますが、それにも出すつもりです。それゆえ戦後70年も経って、あの9条があったら日本が平和になったという、これは大きなでまかせです。

9条があったから日本が戦争しなかったのではなくて、日本は武器を持たず、アメリカの武器、アメリカの兵隊、アメリカの空軍、海軍、海兵隊で守られているから誰も攻撃しなかったのです。その他力本願で今まで何十兆円を使ってきたのでしょうか。

もしかすると何十兆円ではなくて、何百兆円かもしれません。莫大なお金を使ってアメリカの傭兵、用心棒、兵隊を雇っているわけです。日本が雇っているのか、それともアメリカが「日本、俺たちを雇いなさい、そのための安保です。軍事協定、日本が土地を提供して、水と食料を提供して。そうしたらアメリカが来て、守ってあげます」という台詞です。

それで70年間、近隣諸国の誰もが日本を攻撃しないのです。すなわち、私たち日本人は自分の国を守るというプライドを捨てました。愛国心ももう必要ないです。

自分の国、自分の家族、自分の親、子ども、両親を守る責任も本能もなくしたのが9条です。それがアメリカの、マッカーサーの狙いです。まんまと罠にはまったのが今の日本人です。

それゆえ憲法の中身、真実を皆さんの前にさらけ出した方が少し苦しいですけれど、真実というのは私たちの盾、鎧、武器になります。ですから、真実は少々痛くても私たちは向き合った方がいいのです。

(了)