第2章 長期ビジョンの設定

 現在の日本の政策の立て方を見ると、その根底になんら明確な哲学も思想も戦略もなく、激動する国際情勢の中でただその場限りの対応策をとるだけで、そのため大きな事件が生じるたびに木の葉のように揺れ動き、はなはだ心もとなく見える。それは長年、島国として世界から孤立し、他国の侵略や干渉をほとんど受けることがなかった過去の歴史が生み出した民族性から来るものといえよう。
 しかし、未来に向っての明確な国家目標も見通しもないままに、ただ他国の動きに受動的に追随していくというだけでは、この激変する国際環境の中でただ生き延びていくことすら覚束なく、まして世界に対してなんらかの積極的な貢献をなすことははなはだむずかしいといわなければならない。

 必要なアジア諸国との友好関係

 海洋は本来、各国民が往来すべき通路であり、日本にとって必要なのはその地域を支配することではなく、通商を円滑ならしめることである。通商のためにはその相手国を経済的に援助して富裕にすることが必要であり、政治的支配は逆効果をしか生み出さない。しかし海洋は通路として安全でなければならず、そのためシー・レーンの確保のために若干の海上兵力は持っていなければならない。

 このように日本の将来の発展の方向は、平和的な通商を基本とする太平洋地域への進出だと思われるが、日本が安心して太平洋に進出するためには、アジア近隣諸国との友好関係を結ぶことが望ましいのはいうまでもない。ただし、先方に日本に対する顕在的、潜在的な敵意のある場合は(たとえば、共産中国の「三つの世界」論によれば、日本は最終的にはソ米二超大国に次いで攻略さるべき敵とみなされている)、その事実を率直に認識し、警戒を怠るべきでない。「全方位外交」などという虚構に身をまかせず、はっきり友好国とイデオロギーを異にする国家とを峻別した上で、外交関係を保持していくことが大切である。(中略)

二、日本の文化・伝統に根ざす国家目標

 さて、明確な史観のもとに長期ビジョンを定めることは結構なことであるが、その目標は当然達成可能なものでなければ無意味である。「達成可能」というのは、アメリカ国民とか中華国民ではなくて日本民族として達成可能かどうかという意味である。そこで、日本の文化・伝統ということが問題となる。

というものは絶対不変ではなく、運命的なものでもない。流動的である。しかし相当にねばり強く、一見変わったように見えていてあまり変わらないものである。故に文化や伝統を運命的に見るのは行き過ぎだが、それを無視または軽視して、結局「人類は一つ」と割り切るのは非常に危険で、過去の人類の失敗の多くは一国の文化・伝統の軽視によって生じたものだと思われる。

 そこで、史観の確立とそれに基づく世界全体の歴史の基本的動向を捉えた上で、次にはその行動の主体である日本人自体の独特の体質をはっきりと自己分析しておく必要が生じて来る。

1)日本文化の深層構造
 まず、教義や法律の形で意識的に規定される以前の、その土台としてある日本人特有の体質やものの感じ方、捉え方を問題としてみよう。

宗教体制の不在
 これまで日本においては、宗教がそのまま法であり、その法に従って刑事や民事の裁決を下すといった「宗教体制」の存在したことが一度もなかった。それゆえ、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の場合のように宗教の側から自己の行動が規定されるのではなく、自分の方から自由にあれこれの宗教や、教理の解釈の仕方を選択するのが当然だと考えるのが一般的である。聖書では神を絶対化するがゆえに人は相対化されるが、日本では人が絶対化されて神が相対化される。

 このため、異質の原理を排除する普遍主義的思想をそのまま普遍的なものとして受け容れることは拒否する。カトリック教徒にとってのローマや、イスラム教のメッカのように、国民全体として、信仰の中心点を自国外に持ち、そこに向かって礼拝したり、巡礼するという習慣はない。ただし、そうした普遍主義的思想や宗教を全面的に拒否するのではなく、なんでも一様に受け容れる”寛容さ”があり、それを(自分でも十分に意識していない)“土着思想”のうちにごく「自然」に組み込み、その普遍性を事実上排除して“無毒化”してしまう。その際、〃土着思想”と普遍主義的思想との対決とか論争といったものはなく、外来思想がいつの間にかその普遍性を失って土着思想と融合・同化するというかたちを取る。日本人の外来思想・宗教に対する遇し方は常に非論理的、非組織的、感性的である。

  体制の基盤は擬血縁的関係
 それでは人と人とを結び付けるきずな・秩序のもといとなるものは何かといえば、それは「無思想・無組織の血縁関係ないしは擬制の血縁関係」である。経済的組織の企業でさえ家族的な温情で結ばれ、組織の中で「家族の一員」のような位置を占める方が精神的な安定が得られる。企業間の関係も、親会社・子会社といった「脈」、すなわち「擬制の血脈的関係」で捉えられている。

血縁は無条件的なもので思想でも法でもない。それゆえ、宗教が論理や組織の原理と結び付いて一体となることを認めない。たとえば、儒教を一つの道徳訓としては受け容れても、儒教的な組織である科挙は排除し、内村鑑三も組織神学は信仰を失わしめるものとして排撃した。
 また宗教は「個人」に属するというよりむしろ「家」に属するものとされ、個人としては「無宗教」と答えても、家の宗旨については大抵の者が明確な答をするという奇現象が現れて来る。
このように血縁的関係を重んずるため、日本の企業は外国人労働者を受け容れず、国立大学は外国人教授が教授会に参加することを拒否する。

 血縁が人間関係の基礎ということになれば、逆に多少の思想や信条の相違は認め合わなければならない。そのため、神・仏・儒・基という宗教の併存には寛容であるが、そのうち一つを絶対視することは拒否する。家人の一人が家の宗教と別の信仰を持つことまでは許容するが、その信仰の対象が絶対化されて家神を否定することまでは許さないという一般的傾向がある。

  擬宗教的な価値基準 ─ 自然
 日本において、人と人とを結び付けるきずなは、論理的な思想や法や体制ではなく、温情に基づく擬血縁的関係である。といっても、なんらの倫理的規範もないわけではない。われわれの「受容」と「排除」の最も根本的な基準となっているのが、「自然」 「不自然」という概念で、これがいわば宗教的価値基準に相当するものである。
 この「自然」は直観的で定義の困難な内心の規範であり、外界の自然とも、西欧の自然法の概念とも一致しない。「自然」に対立する概念は[人為]で、人間的な「はからい」を意味する。
  この「はからい」のないのが最上とみなされ、従って国土防衛についても、人間的な小賢しい策を弄するより「ごく自然にしていれば」国際的調和が得られるように予定されているという、根拠のない素朴な信仰がその根底にあるように思われる。
 また「自然」という観念のうちには、単なる受動的な刺激順応の意識があるのみで、未来の予定図を考えてそれによって現状のあり方を規定するとか、外部に積極的にはたらきかけて外界を自分の意志によって改変したり、制御するという主体的なはたらきはない。そこには人為的な「はからい」を許さない「流れ」というものがあって、すべては「水の低きにつくが如く」、自然に「なるようになっていく」とみなされており、仮にそこに、たとえば石油ショックやハイ・ジャックのようなカタストロフィー(異変)が突発しても、それが行き過ぎていくのをしばらくじっと待っていれば、台風がおさまるように自然におさまっていくといった、一種の無自覚的な自然調和説とでもいうべきものが、その意識の底流にある。 日本人の「自然」とは、このような無根拠の多分に独善的な甘えた幼児的オプティミズムであるが、にもかかわらずこの観念は一種の宗教のごとく生活への絶対的拘束力を持つものであって、 「態度が不自然」 「言い方が不自然」「やり方が不自然」と言われると、言った言葉’の内容や、なした結果の当否も問題とされずに、感情的に無条件的に拒否されてしまう。
 日本人のこのような世界観、人間性、体質は、経済大国として激動する国際情勢に主体的に対処していかなければならない今の日本の立場を考えると、大きな問題を含んでいるといわなければならない。

 2)神・仏‘儒の思想的伝統 

 宗教や法によってではなく、擬血縁的隧鏐によって結び付くタテ社会であり、「自然」という定義困難な受動的で刺激順応型の直観的倫理規範によってその生活が律せられる日本独特の深層心理の上に、日本には土着思想である神道と、外来思想の仏教、儒教という三つの顕在的な思想の伝統があり、これが日本人の精神構造をさらに大きく規定している。日本には、明治における開国と、敗戦によるアメリカの統治という再度の西洋文明の洗礼を受けたが、それによって変わったのは単なる制度や衣食住、技術、科学的な思考のテクニックといった外面的なものだけで、日本文明の根本的性格は依然として「和魂洋才」であり、その精神構造には本質的に大きな変化はないように思われる。そこで次に、日本人の意識のこの構造について考えてみることにしよう。 

 神道 直き心
 神道は日本社会の「無思想・無組織の擬血縁的関係」の特色を最も典型的なかたちで保存している土着宗教で、体系的な理論や教義というものをほとんど持っていない。それに代わる倫理のよりどころとしてあるのが、本居宣長が指摘した「直き心」であり、これは理性以前の人間の本来性に対する直観とでもいうべきものである。 西洋文明においては、最近に至るまで理性がほとんど絶対視され、その反動として、マルクスは階級的利益や暴力に裏づけられた権力の獲得、フロイトは反社会的な性の衝動を、人間の意識や行動を支配する最も根本的な動因とみなすことによって、この理性主義に叛旗をひるがえした。

それに対して日本の神道は、そういう理論的・分析的立場をとらず、当然のこととして、人間の本来的な心のあり方として「直き心」の優位性を説くのである。これは罪に対する深刻な反省を欠き、またその当否を検証できるようなかたちに論理化されたものでもないので、盲目的で危険な一面があるが、人間性に対する素朴な信頼をとどめているという点で建設的である。未来への展望を希望的に受け止める情的基盤となりうるものであり、従ってその建設的な心性に沿ったかたちでナショナルーゴールを設定する心がけが必要だと思われる。

 仏教-死生観
 日本は国家全体の性格としては仏教国である。仏教はそれ自体が複雑多岐であり、またそれが本への土着化の過程で同一宗教とは思われぬほどの大きな変容を受けた。従って、仏教が日本の思想に与えた影響は単純に割り切れないが、その重要な影響の一つは「死生観」である。

 キリスト教は生と死とを峻別し、キリストの十字架の代贖によって死が克服され永遠の生命が得られることを説く「復活」の宗教であり、「生」の永遠化を志向する宗教である。それに対して仏教は、「生死の中に仏あれば生死なし」と説く、「死生一如」の思想、「死」の超越を志向する宗教である。この仏教の「死生観」が、「自然の流れ」に従順で、人為的な「はからい」をなさぬことをもって美と見る日本人独特の感性と結び付いて、生に執着せず、死に淡白で、生き恥をさらすよりはいさぎよい死を選ぶ国民性を生み出した。この思想の日本国民に与えた影響は甚大であり、そのことを意識するにせよ、しないにせよ、われわれはなおその影響下にある。すなわち、われわれ日本人は、西洋人好みの「人権思想」や「生命第一主義」よりも「死生一如」の考え方の方を自然に受け容れる性格を今なお保持している。このような事情は、日本の安全保障問題を考える際、一つの重要な問題となって来る。

 儒教 タテマエとホンネ、勤勉・誠実・禁欲
 日本は仏教国であり、さらに神道が古来の宗教として今なお国民生活の中に根強く生き残っている。しかしそれはどちらかといえば底流の部分であり、顕在的な生活上の行動規範としては、徳川時代の教育の根本理念であった儒教、特に朱子学の影響が今日なお著しい。

 第一に儒教は「大義名分」を重んずる。このことが、特定の宗教や思想を法や組織の原理として押しつけられることを好まぬ日本独特の体質と融合して、タエマエとホンネの二重規範が生活の知恵として現れて来た。すなわち、内心では軽視し、疑問を感じる点があっても、社会通念として正統とされるに至ったもの、たとえば「新憲法尊重」 「国連中心主義」 「民主主義」などは、その議論の内容の如何にかかわらず、タテマエとしては尊重するポーズを取らなければ村八分にされるといった風潮がそれで、これが一方では人間関係を円滑にし、秩序を維持する積極的機能を果たす一方、社会的固定観念として自由な発想を妨げ、他国民からは偽善的と見られるマイナス面をも持っている。

 第二に、儒教は勤勉と節欲によって「身を立て、父母を顕わす」ことをもって最高の美徳としている。これが、日本の擬血縁的人間関係を尊ぶ古来の体質とマッチして、天皇と国家に対する忠節、父母に対する孝養を当然とみなす気風を生み出した。このうち国家に対する忠節心は上記のようにアメリカの占領政策によって骨抜きにされたが、それは自己の所属する企業や近隣社会への異常ともいえるほどに強い帰属感、愛社・愛郷精神として生き残っている。

 この意識と行動はピューリタンに酷似しているが、ピューリタンの根本動機が「神の栄光」を顕わすことにあったのに対し、日本人の場合は自己の所属するタテ社会の直接の首長や、親・親族に対する忠誠心や義務感であるという点が異なっている。そのため、神との関係において普遍的な原理に従って自己の行為を見つめたり、企業や国家を越えた広い国際意識を持つことは難しいが、擬血縁的共同体内部での倫理や団結心は極めて強い。また、勤勉・誠実・節欲を重んずる気風が日本経済の驚異的発展の原動力になったということは否定できない。この伝統は、経済的余裕と享楽思想の浸透によって崩れつつあるが、それでも他の先進諸国の頽廃にくらべれば未だ軽症であり、怠惰と浪費のために今なお貧困から脱し切れない幾多の民族があることを見れば、それはぜひとも守り育てていかなければならない貴重な美徳だと思われる。

   『国際化時代と日本 10年後の国家目標 ─』世界平和教授アカデミー編   1979615日初版