美の価値

 美をあこがれない人はいない。そして、物心がついてこの方、何かを美しいと思うことは、
日常生活の中で誰もが何度となく経験してきたことでしょう。それは美を感じることは人間
存在に深く根ざした根源的なものであるからです。「美感のあるところに正しき生活あり」
など、美の価値については昔から様々に考察されてきました。プラトンは自己の哲学を一口
で示すと「美の教え」であると言っています。それは「美」が価値あるものを示す「しるし」
であり、内奥の健全さと正当性さの外への現れであり、眼に見える正義、人間の力の増大を
示す証拠であるからです。美は人間に「人間性」という贈物を与える第二の創造主であり、
美には、粗野粗暴な性格を醇化し人間に感性をもたらす融和的作用と、緊張作用があります。

 美は緊張した人間には調和を、弛緩(しかん)した人間には活力をふたたび恢復させるもの
です。文豪トルストイは「美は快感なり」と言い、詩人キーツは「美は永遠の喜び」「美は
真なり、真は美なり」と言いました。国木田独歩は「美は自由なり、平和なり、無限なり」
と讃えています。
このことからも「美」の価値とは、生命感覚の欲求を充足させるところにあり、無限で豊か
な感性を啓発する文化の根源であるともいえます。

 秀れた芸術作品に見られる美の力は、人を高め、生命を浄化し勇気と希望をあたえます。そ
して美は人を真の善に向かわしめる力を持っています。美はつまるところ、人の心の奥底に
ある「資質」を触発する感性の力といえます。

「正しい原因に生きる事。それのみが浄い」と詩人は言いましたが、人間として、自他共に
幸福を願うこの美しい心が、生命の内面を耕し、豊かな人間へと開花させていく「利他の精
神」の働きへと連動してゆくのです。

 時には、愛するもののため、他人のため、犠牲をいとわずに、正しいと思う心に殉ずる献身
的行為となり、自身の命を捧げても悔いないという行動となることがあります。このような
人間の犠牲的精神の行動ともいうべき生き様に、人々が感動し共感を覚える―――

 これも美の動きです。著名な美学者は「美は至高の姿において、宗教の聖とつながる」と言
いましたが、正に最高に高まった美の価値は「利他に生きる人格の美」「行為の美」である
といえます。人のため、人類のために、どんな小さなことでも愛をもって美事になしとげて
ゆこうとする、希望に満ちた生き方の中にともされた炎の輝きが真実の美であります。




美とは何か 「美の価値」についての一考察

 画家は道に則って、美の世界に至り、人の心を潤す

 人は美しいものを見た時、一気に飛翔するような、内的実感に襲われる

 それは、「美」が価値あるものを示す唯一の「しるし」であり、眼に映える「証」であるか
らだ。

 ジョルジュ・サンタヤナは「『美』はあるものがもっている優れた性質に対して
人が感じる快感である」と言った。

 「美」は内部の健全さと正当さの外部への現れ、「美」は眼に見える正義であり、人間の力
の増大を示す証拠である。

 美の観念が「美しい」という世界人類に共通の、感覚的快感を含んだ表現となったのは、現
在ではエジプト古王朝の有名な女王像(B.C.2622頃)にNefert(飾らない美しさ:Beautiful)
という文字の記録が残っているものが最古のもので、それは、(弦楽器)をもって表されて
いる。第4王朝4500年前のことである。

 東洋にあっては、美という文字は古代からあって” “という文字の象形であった。学者
の説によれば羊(いけにえ〈犠牲〉)が肥大しているということは、大いなる羊(犠牲)自
身が美しいという意味の他に、羊が美味であると感じられることを含み、甘いという味覚上
の意味であった。この美味という感覚的情感が転じて美人の意味にも美という文字が用いら
れた。

 詩経には有名な碩人の詩があって、その中に”美目“という言葉で美しい目を誉めている。
その詩の美人の形容は襟足の美しい、歯のきれいな背のたかい美人を巧みに形容している。
詩経全体に歌われている美感は一つ一つの詩に満ち満ちていて、詩経は美的感受性の宝庫と
いえるであろう。

 「美」は人間にとって思えば思うほど貴重な価値である。
「真」は人間の知性の求めてやまぬ理念ではあるが、その深奥は学問や宗教に縁のない人に
は分かりにくいし、その上真実は、知りたくないほど、怖しい残酷な場合もある。「善」は
同様に大切であっても、これまた意志の弱いわれわれにとって、常に実現できるものではな
いし、他人の感動すべき善意に出会うことなども、競争で明暮れる今の世の中では、よほど
稀な幸せでしかない。

 これに対して、「美」のみは、どんな人にも、それなりの美的感動として充実した姿で体
験され、しかもその機会は日常生活の随処に見出だされる。一枚の葉の緑でさえも、日に映
えて美しければわれわれに喜びとなる。一編の詩の一行にも一枚の絵にも、天賦の才がなく
ても、そういう才能に恵まれている人の仕事を通じて享受できる価値として美があり、しか
もこれを体験した時、人は幸福な輝きの中に立つ。

 「真」が存在の知的意味であり、「善」が存在の機能(意思)であるとすれば、「美」は、
かくて、存在の恵み、情感、ないし「愛」なのではなかろうか。

 われわれは美しい山河を眺めただけですら救われた思いに浸る。卓越した芸術作品の美に
接すれば、人間の偉大さに打たれ、自分が人間であることに誇りに思う。「美」は確かに挫
折し苦しむことの多いわれわれに差し出された存在の光のようにも思われる。それは人間の
希望であるといえる。

 美は発見される。形に現れた美しさが、また心の美しさ、すなわち人格の美に根源的につ
ながっている。作品に対する愛情、作品はしばしばこの愛に応えて、そこに自己を開示する。
ということは作品を味わうということにおいても、われわれは人間としての心の徳、人柄の
暖かさを持たなければならないという問題を秘めている。

 「美」とは、それと向い合った人の思いを引きずり出す、不思議な力を備えている。人間
国宝の森口華弘氏も「美」と「美しさ」を厳密にわけ「美」とは深味を伴ったもので、その
深味とは、人間の憧れ、おそれ、喜び、祈りなどに通じてゆくものと言った。「厳」は一般
に「きびし」「おごそか」であるが、また「うつくし」とも読む。ここに日本語の美しさが
ある。

 「花を見ている、花も見ている」と、河井寛次郎は言った。「セザンヌは深さだった。じっ
と見ていると向こうからこちらが見られているのだった」と、小林秀雄も言っている。同じ
ように、アルフレート・アインシュタインは「バッハは音楽における最後の画家であった」
と。「自然の模倣」(イミタチオ・ナトウラエ)の中で、大作曲家は自然の摂理から見られ
ていたのかも識れない………。

 「この芸術家の魂の琴線は、すべて音楽の弦なのであるから、ほんの微かな風にも歌うの
だ。この点に関しては、バッハとモーツァルトとは似た精神をもっている。」(ウィリアム・カート)

 「文化も芸術も燃え立つ力である」文化は伝達されるものではなく、点火されるのみであ
る。火は点じられても、自ら燃えないものは炎を出すことができない。文化は受け取られる
情報ではなく、自ら燃え立つ力である。

 人々とは美を論ずると言えば、ほとんど常に芸術家のみを念頭に浮かべるが、それだけで
はなく、芸術の美の追求、修練は究極の生き方の美を学んでいく道に合流する。 中国では
自ら「美感のあるところに正しい生活がある」という観念が定着していた。アリストテレス
は「詩学」第七章で「美は一定の大きさを必要とする」と言っている。日本の古語「うるわ
し」にあたる堂々としたという意味合いが強い。

 プラトンは「自己の哲学を一口に示すと『美の教え』である」といっている。(『饗宴』)
 壮大な美から、はかなく慈しまなければならない草花の可憐に至るまですべてを含むも
のである。

 「美しい心のひと」美とは感覚的なきれいさではなく、心によって生じてくる輝き、すなわ
ち精神の所産であることを暗示する。

 「美」の含意する犠牲の構造
 漢字の「美」の構造は、羊と大の字で出来ている。「羊」は大切な漢字に関係している。
「義」「善」は天に捧げる犠牲の獣としての「羊」が上にある。「善」の字は献台(高つき)
に収まっている羊を表している。自分の払う犠牲の大きさ、己れ自身が滅びるほど大きい正
しい心。善い心と比べて美しい心というのは他人のために己れの命を捧げても悔いのないと
いう心のことであった。

 美は至高の姿においては、宗教の聖とつながる人間における最高の価値である。美は基本
的には、精神の犠牲と表裏する人格の姿である。 最高の価値としての美は「利他に生きる
人格の美」、「行為の美」であり、人のため、人類のために、どんなちいさなことで愛をもっ
てなしとげてゆこうとする、希望に満ちた生き方の中にともされた炎の輝きである。

 美は存在の恵みであり、人生の希望の燈火であり、人格から発する光であると言える。そ
のことから云って美は、精神的な価値として、道徳の至上理念である善よりも高いものであ
るとも云える。

 それゆえに、美は宗教でいう「聖」であり、それと等しい高さの理念である。