国際農業開発アカデミー創設の動機      
 私は1941年、昭和16年、に生まれました。その年は日本が世界大戦を始めた年、ハワイ
真珠湾攻撃した年でした。父と妹は戦災で他界、未亡人となった母が私達三人の男兄弟
を育ててくれました。その時代は、どこの家庭もそうでしたが、貧しいながらも家族
で協力しながら暮らしていました。母を中心に兄弟仲良く貧しくても想い出は楽しい
モノでした。

 貧しい家庭で、いまでいう母子家庭でした。学校に行くときはリヤカーにバケツを
四つ積んで行き、帰りには一つのバケツには、魚屋で捨てるアラをもらって入れ、次
はパン屋でバンクズを、次は八百屋の残り物、最後のバケツには一軒しかない旅館へ
行き、そこの残飯を入れて帰っていました。それが一家四人の空腹を満たす物でした。

 母は働いた後も一日の終わるまではさまざまな雑用、その後、他界した父の写真の前
でうつむいていたのが忘れられません。その母の姿を心に刻み込んできました。

三人の男の子は朝、父の写真に向って「おはようございます」というのが習慣でした。
また母の仕事が終っても、バス会社のバスが20台帰ってきますと一家四人、母と私達
三人兄弟は、バスの車体の水洗いをしました。今も、そのころのことは楽しい思い出
として残っています。
 さて、私が小学校四年の時です。母が言うには、「もう自分の力ではお前達三人を養
うことはできない、次男のお前は養子に行ってくれとのことです。その時を思い出す
と、今の自分はこんなに幸せに浸っていていいのだろうかと責任を強く感じます。学校
へ行きたくても行けない人もいることはよく承知しています。

 中学卒業を控えたころ、担任の先生から「牧野君 君はお父さん(養父)から高校に
行かないように指導してくれと言われているが、そのことは知っているか?」「仕事を
させるためにもらった子だから勉強はさせないでくれ」「そのことは知っているか?」
と言われました。私は知りませんでした。担任の先生が三回家へ来て父を説得してくれ
ました。ただ、先生のこの言葉が養父を動かしたと思います。それは、先生が「牧野君
に勉強させないとしたら、私は何をしてあげたらいいのですか」そこで農業するのなら
「農業高校はどうですか」ということで、私は農業高校に行くことになりました。進学
校ではないので英語や数学の時間はもっぱら農業実習に当てていました。実習を懸命に
続けました。子供の無い家に来ているので。家のことも大抵のことは私がしました。
 さて、高校三年に担任の先生が「大学へ行ってはどうかね」と私に言いました。

私は、「トンデモない、そんな立場ではありません、」と。ところが先生は養父にも
その話をしたのです。養父は激怒しました。学校にも出て来て校長に、「ひどい教師が
いるぞ」と抗議しました。私と担任の先生は校長室に呼ばれて、叱られました。
養父は
「仕事させるためにもらった子供を大学に行かせると親戚一同から笑われる」と言うの
です。その後、担任の先生は四回も家まで来て養父の説得を試みてくれました。その
先生は鳥取大学農学部卒、奥さんは農学部教授の娘さんだったのです。で、その先生の
出した条件ですが、
「牧野君がいなくて農業ができないのなら私の組の生徒50人を毎日
お手伝いに当てます」、もう一つ「大学受けても牧野君は合格しません。内は進学校で
はないので、受験勉強は一切していないので不合格、間違いなしですよ」。
こうして
受験することになりました。
それから私は友達に教材を貸してもらい、夜石油ランプの明かりで勉強しました。電気
代がかかってはいけないので、電気は止めてもらっていたのです。担任の先生が懐中
電灯をくれたので、その明かりでも勉強を続けました。五教科九科目の国立一期校で
したが、私は合格してしましました。

 合格と聞いて養父は「自分のことはいいから 勉強して来い」と言ってくれました。
私は嬉しかったので、養父には恩返しりために勉強すると心に誓いました。
大学四年がやってきました。卒業後の進路をどうするかの時期です。教授に私の立場
を話したら、教授は大分まで言って養父に話してくれました。養父は今後の学問継続を
素直に認めてくれましたが、条件が有りました。それは戸籍から外して親子の縁を切る
ことでした。私は家で農業をして恩返ししようと思っていましたが、ここで、農業する
だけではなく、別の恩返しの道もあると気が付きました。
教授は私にオーストラリアで現地住民に農作物の栽培指導をするようにと勧めてくれ
ました。それは日本の大商社がオーストラリアに広大な耕作用の土地を買い、そこで
大農園を経営して収穫物を日本に輸入するという計画があったからです。私は断りま
した。

 私の恩返しは養父の納得する形であって欲しいし、それに加えて私のもっている特殊
な農業への知識を役立てたいという思いからでした。多くの恵まれない国では教育を受
けられない子供もいます。

  私は鳥取砂丘の砂丘研究所で沙漠農業、砂丘園芸について研鑽を積んできました。
砂丘における様々な作物園芸の栽培技術を身につけてきました。モンゴルの沙漠の研究
の第一人者が私の先生(遠山正瑛)でした。モンゴルの沙漠での貧しい遊牧民。私は
生涯を教育を受けられない人のために尽くそうと決めました。これが養父の心に沿う
なら恩返しの機会も、ここにあると決断しました。

 オーストラリア行き大企業の繁栄に尽くすよりは、貧しくて教育の機会の無い人に
役に立ちたいと決心が固めて、オーストラリアの話はきっぱりとお断りいたしました。

少年時代の貧しさと苦しさを踏み台として、今後の人生を素晴らしいものにしようと
いう思いが溢れてきました。
養父から戸籍を外されたことも担当教授は理解してくれました。今後は世界の農業技
術を開発しようと、大学院で沙漠農業を新しい研究テーマにしました。
77才、私も年齢
を考えてみました。年齢の数字ではなく、人生を決めるのは生き方なのだと悟りました。
 農業は大自然との交流の手段でもあります。大自然と共に生きる人生。自然と人間は
共生しているという言い方もしばしば耳にしますが、「自然に恩を返す」「自然に感謝
する農業」であらねばならないでしょう。
 発展途上国には教育を受けせれない子供が沢山います。地球上のどの地域に、どの国
に、どんな境遇に生まれても、「自分こそは素晴らしい人間なのだ」という思いを持て
るようにしたいと思います。
 自然への感謝、どんな子供にも自分は素晴らしい人間だと自覚できる、この二つを肝
に銘じて、大学の設立を思い立ちました。
 世界には先進国がいくつかあります。しかし90%以上の国には食糧の自給ができて
いないのが現実の姿です。「食料戦争」とも言える状況を目前に控えているのですが、
自然への感謝、また人々への感謝を念頭に進んでいきます。
 自然が人間の生命を育んできました。一人一人の人間は、十月十日、母の愛情を受け
て生まれています。植物は人間や動物よりも古くから生命を支えてくれました。
 
一つの目的に進んで、途中で挫折感もありましたが、この世にある限り、
 目標に向かって進みます。
  2019121日     国際農業開発アカデミー(IADA)
             
 設立準備委員会代表 牧野 光
 
インタビューより編集

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