李 承信のカルチャー・エッセイ

From: sonhoyunim@hanmail.net Date: Wed, 11 Dec 2013 15:42:54 +0900 (KST)
Subject: 10周忌 中央日報

 万葉集は日本の国宝だ。1300余年前に書かれた日本で最も古い本であり、日本
と世界はそれが日本のものであるとだけ思っている。しかし、それが660年に滅
んだ百済の王族貴族たちが日本に渡っていった王族貴族が教えたものであり、万
葉集の大部分は渡来人が書いていると主張する代表的学者が、万葉集研究の第一
人者である中西進先生だ。日本の人口の四分の三以上が韓国の血であるという。

 日本帝国主義時代、日本語を使わなければ罰されていたというのに、
1945年に解放されるや内なる詩心を日本語で書くことを非難され、数十年間深く
悩みつつ、1979年に研究のため再び留学した東京で出会った中西進先生の「短歌
の根は百済の郷歌にあるのだから、扶餘と白馬江に行ってみなさい。もっといい
短歌が作れるでしょう」という言葉に、民族詩の唯一の後裔であるという自負心
を得て、母である歌人孫戸妍は新たな使命感を持つことができた。

 中西先生が最近受章された文化勲章は日本ではノーベル賞にも劣らないとも言
われるそうだが、わずか一日の韓国滞在の中でのインタヴューと孫戸妍十周忌で
のスピーチで、先生が語られた美しい言葉を紙面に全て紹介できないことが残念だ。

 短歌の魅力とは

 天皇は歌人です。短歌を作り守ることは日本の天皇の非常に重要な義務です。
短歌は飾って作ることができません。人間の内面の深さを表現するものであり、
真心を相手に見せるものです。それを見れば、どんなに素晴らしい心映えである
か、正しい精神であるかがわかります。そのためよい短歌が多ければ多いほどよ
りよい国であり、先進国です。

 平和とは何でしょうか

平和と愛は異なるものではありません。平和はそのうちに愛を宿しています。愛
情がなければ平和は訪れません。私たちは知の関係、文化の関係をもっと大切に
しなければなりません。短歌という器に私たちの心と文化を込めることにより、
アジアの平和と全地球の平和が訪れます。島だ、領土だとせん無いことを争わず、
知識を文化を広めてゆかねばならないと、中西先生が日本の指導者をたしなめる
のを私は見た。 日本を代表する知性として200余冊の本の著者であり、主要新聞
に毎週コラムを連載し、その文章の魅了された数多くのファンを持つ。数えで85
歳にして妻との死別を経て、来春には再婚なさるという。  (李 承信)

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「孫戸妍の短歌三十一文字には愛と平和の精神が」 中央日報 2013 11 26

 中西 進 前京都芸術大学総長と李 承信 詩人が孫戸妍歌人について語り合っている。

 孫 戸妍の短歌には国境を越える愛と平和への切実な願いがあります。それが
人類の未来を開く鍵なのです」中西進前京都芸術大学総長は、この時代を
生きる人々が歌人孫戸妍を記憶しなければならない理由をこう説明した。

 短歌歌人孫 戸妍の十周忌に参席するために訪韓した中西氏に、去る22日ソウル
弼雲洞90の‘孫戸妍歌人の家’で会った。十周忌行事を企画準備した歌人の長女
で詩人の李 承信 氏が同席した。短歌は感性と思考を31音に込めた短詩で日本
の国詩だ。 この日の行事では、ファン・ビョンギ氏が作曲した孫戸妍歌人の短歌
四首をテーマとした‘戸妍四題’の大合唱と唱と太鼓による初演があり、李承信氏が
母の遺した短歌の中から百一首を選んで韓国語、日本語、英語、フランス語の四ヶ
国語に翻訳した『孫戸妍歌集』を出版・献呈した。

 この日の行事には、別所 浩郎 在韓日本大使、チェ・サンヨン前駐日韓国大使、
ダニエル・オリビエ仏文化院長、仏作家のジャン・トゥッセン、イ・スンユン前副総理、
チェ・ソミョン国際韓国研究院長、キム・ドンホ文化隆盛委員長、ユ・ミョンファン
前外交部長官等、300余名が集った。

 李氏は「日本の帝国主義時代に生れ、東京に留学して短歌を学んだ母は、解放
後、短歌をやめるべきかを半世紀以上悩みましたが、『途中で放棄するな。日本
の真似をせず朝鮮の美しさを書け』という師との約束を最後まで守り、国境を越
えて人類愛を歌いました」と回想した。 孫 戸妍は63年間に2000首以上の短歌を
つくり、短歌集『戸妍歌集』と 5冊の『無窮花』歌集を日本の代表的な出版社で
ある講談社から出版した。1997年には青森県に歌人を称える歌碑が建てられ、
1998年には日本の天皇が宮中における'歌会始の儀'に大家としての資格で招請し
もした。

 中西氏は「1000年前の日本の本には、短歌の力で男女の愛が芽生え、鬼神も短
歌の力で退くと記録されています。短歌は愛の力を歌います。その短歌を通して
孫戸妍は平和を願いました。歌人の人生と遺された短歌を通し、愛と平和をかみ
しめるときです」と歌人孫 戸妍を称えた。

 中西氏は『万葉集』研究とアジア文学比較研究の功労により、去る11月3日、
天皇から日本文化勲章を授与された。この勲章は世界大戦の影が深く立ちこめて
いた1935年に“文化の力”で戦争をなくそうという趣旨から当時の日本の知識人
たちによって作られたものだ。

『万葉集』は日本の最も古い本で、古代の詩歌を集めた詩集だが、約4500首の詩
が収録されており、うち4000首以上が短歌だ。わずか31文字に作者の感情と
思想をこめる短歌の特性のため、単なる心情表現や風景の描写ではない核心のみ
を込める’ことに特徴があるというのが中西氏の説明だ。

 「必要のないものはすべて捨てるので短いです。方法自体は簡単なものです。
しかし、何を残すかを決めるのが非常に難しいのです」この日の行事のテーマは
‘孫 戸妍歌人十周忌に考える韓・日’チェ・サンヨン前駐日韓国大使は「両国の
指導者が孫 戸妍先生の平和のメッセージを政治に反映してくれることを望みます」
語った。李 承信氏は「母が生きていたら、今日の日韓関係を見て心を痛めたこと
でしょう。隣国同士がどうしたことかと言いながら、より強い心を込めて短歌を詠み
はしないだろうかという思いがよぎります」と残念がった。中西氏は「各国が自国
だけの利益を考えていれば、平和は訪れません」とし「全地球的な利益を考えな
ければなりません」と強調した。(パク・へミン記者)

中西 進 教授 と李 承信 さん

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On Fri, 06 Dec 2013 12:58:28 +0900 (KST)
"sonhoyunim" <sonhoyunim@hanmail.net> wrote:
李承信の詩で書くカルチャーエッセイ
ソウルにて“韓日和解の歌人”孫 戸妍十周忌行事開催 2013 11 23

大きな感動の夜でした。
母の死が残念でならず、生前にはお会いできなかった当代の詩人の方々とともに、
その一周忌を同号芸術祭として行ったところ、たくさんの方々が感動してくださ
り、毎年の恒例行事のようになりましたが、今年は登場人物が16名にもなり、2
年がけで取り組んできた4ヶ国語の‘孫戸妍歌集’が時間不足でどうなるかと危
ぶまれましたが、幸いにも間に合ってくれ、四名の方がそれぞれの国語で素晴ら
しい朗読をしてくださり、映像とファン・ビョンギ先生作曲になる孫戸妍の詩を
テーマとする‘戸妍四題<も素晴らしく、その大?と歌唱の初演は国内はもちろん、
日本、アメリカ、フランス、オーストラリア等から来られた角界の名士に感動と
大きな共感の心をもたらしました。</SPAN> 孫戸妍十周忌に考える韓日をテーマ
としたこの日の集いは、どこに出しても恥ずかしくない格のある感動の作品であ
り、世界の人々の心を一つに結ぶ感激の夜でした。</SPAN> 孫戸妍の生涯にわた
る、そして私の半生にわたる真心が、未来と世界に引き継がれゆくことを願って
やみません。



ソウル弼雲洞90 歌人の家にて開催された孫戸妍歌人十周忌行事- 11/22【共同通信】

【ソウル 共同】22日、韓国と日本の友好を願い生涯短歌をつくり続けてきた韓国人、
孫 戸妍歌人の十周忌を迎え、韓国で‘孫戸妍歌集’が出版され、韓国と日
本、諸外国から来た人々がソウルの‘孫 戸妍歌人の家’に集まり、歌人を称えた。
現在日韓関係が悪化する中、孫 戸妍歌人の精神を見つめ直すべきという意見が相
次いでいる。

 孫 戸妍歌人は日本の帝国主義時代に生れ、東京に留学して短歌を学び、韓国へ
の帰国後も引き続き創作活動を行い、2003年に息を引き取るまで二千首以上の短
歌を残した。愛と平和の精神にもとづき隣国との友好を強調し、韓国動乱の際に
北朝鮮に拉致された父を思い祖国統一を切に願った。</SPAN>

2005年、現在のように冷めていた日韓関係の中で開かれた日韓首脳会談にて、当
時の小泉 純一郎首相は、切実な願いが一つにあり諍いのない国と国なれという短
歌とその精神を盧 武鉉大統領に紹介しもした。

 22日の晩に開かれた孫 戸妍歌集献呈式にて、別所 浩郎在韓日本大使は「解放後
の韓国にて日本の短歌を作ることにともなう多くの非難と苦難を耐え抜いた勇気
と、それゆえに誕生した美に敬意を表します」と語り、チェ・サンヨン前駐日韓国大使は
「両国の指導者が孫戸妍先生の平和のメッセージを政治に反映してくれることを望み
ます」と表明した。孫戸妍の短歌作品から百一首を選定し、四ヶ国語で翻訳した歌集を
編んだ歌人の娘である詩人の李承信氏は「母が生きていたら、今日の日韓関係を
見て心を痛めたことでしょう。隣国同士がどうしたことかと言いながら、より強い心を
込めて短歌を詠みはしないだろうかという思いがよぎります」と語った。


From: <sonhoyunim@hanmail.net>Date: Mon, 18 Nov 2013 03:52:32 +0900 (KST)
Subject: 李承信のカルチャーエッセイ - 逆境に生きる

다시 찾은 부모님의 신혼 여행지 - 온양&nbsp; 1956
2013 11 17  逆境に生き、限りなき平和を願う

私は何もわかっていませんでした。その心を。

孝行娘と言ってくださる方もいますが、そうではありません。
始まりはこうでした。

 長いアメリカでの滞在中、祖国に戻るたび、韓国の読者に読んでほしいと思
った欧米の良い本を翻訳して本を出しながら、具常、趙炳華といった先生方を訪
ねて日本が感激した歌人である母の‘無窮花’というタイトルの歌集を翻訳して
くださいと何年かお願いしました。この短い詩を外国語の語彙に置き換えること
は不可能だとおっしゃるので、せめてその意味だけでも少し伝わればとお願いし
ても、無理だとおっしゃられました。

 ただ誰かに頼ることばかりを考えていましたが、仕方なしに母が生きているう
ちに、日本語はまったくわからないけれど、歌人の心をわずかでも知るがゆえに
と翻訳を始めました。わずかに一行の詩、誰かが少し手伝ってされくれれば、三
ヶ月もあれば済むだろうと思っていました。最初の本が翻訳されて出るまでに四
年かかりました。一行の詩に長編小説があり、その深さを推し量ることができま
せんでした。愛する祖国の読者の反応を母も非常に気にしていました。

 たくさんの方々がその意味をすべて表現しきれていない翻訳であるにもかかわ
らず、深い反応を示し、歌人に会えないことを残念がりました。そのように生前
から始めたことが没後にも引き続き、母の母国語の歌集としては今度が四冊目、
また、韓国と日本の読者のこれまでの反応に心動かされ、おそるおそる英語とフ
ランス語まで四ヶ国語での試みとなりました。孫戸妍を愛と平和の歌人だと言い
ますが、考えてみれば愛と平和は異なるものではありません。東アジアのが涯の
国に生ひたちし吾ひたすらに平和を祈る

 東北アジアの端で一人の小さな女性が深く大きな愛の心をもって、侵略と植民
地と解放、民族の戦争と避難と軍政の近現代史と逆境を全身で受け止め、ひたす
ら平和のみを願い続け、その願いを63年間一行の詩として記録しました。家族も
子供も忘れて短歌に没頭したいという歌を読み、家族に献身する姿のみを知る私
は、母のそのような心に短歌を通して出会いもしました。

 その深い愛を濃縮、節制してつくった短歌二千余首のうち百一首を、母の詩作
がやんで十年ぶりに選んでみました。捨てるに捨てられない胸をえぐる珠玉のよ
うな短歌を捨てました

 本当に難しい作業であり、環境でしたが、アジアの最果てに隠された宝石のよ
うな精神を示し、誰もが享受できるようにすることが私にできる愛国であり、愛
であると考えました。東洋に通ずるこの普遍的な人類愛が西洋にも通じるなら、
それはお手伝いいただいたドイツのチェ・ジンギョン先生、Charles DiSimone先
生、フランスから来られたチェ・インギョン先生, Eloise Meure先生等の功労で
す。

 母は解放後半世紀にわたって、愛国者であるなら短歌をやめるべきかどうかと
来る日も来る日も苦悩しましたが、最後までそれを捨てなかったのは、17歳で東
京に留学して出会った師である詩聖佐佐木信綱との「途中でやめるな。日本の真
似をするのではなく、朝鮮の美しさを歌え」という決然とした約束を選んだため
であり、人類愛を選んだためでした。すなわちそれは国と民族を選ぶことでした。
また、1979年に短歌研究のため再び赴いた東京で、中西進先生に短歌と万葉集の
根は千四百年前の百済にあることを教えられ、民族詩の唯一の後継者としての使
命が加わったためです。

 その険しい道のりにあって、韓国における特許、発明、知的財産権の先駆者で
あった李允模博士の外助は誰にも真似できないものでした。同じく三十周忌を迎
えるその父を偲び、東アジアのはずれ、分断された小さな国に生きてきた歌人が
胸に抱き続けてきた限りない平和への一念が、時空を越えて読者の皆さまに伝わ
りますように、そしてその詩心が平和の基となることを願いつつ、没後十年にし
てようやくその深き願いを思いやり、この本を母に父に捧げます。

 美しく情満ちる世にならまほし 歌人の母の遺産掘り出す

he day after Udakaihajime of the Palace with my father Dr. Lee Yoon Mo
- 1998 1 Deikoku Hotel Tokyo