日本人が誇るべき「公に奉ずる精神」
李登輝氏“幻の原稿”全文  - 産経ニュース
2020.7.31

 2007年5月、松尾芭蕉像の前で自作の俳句を披露する台湾の李登輝元総統=東京都江東区(AP=共同)

 台湾元総統の李登輝には“幻の講演原稿”がある。「日本人の精神」。李氏が平成14(2002)年11月、
慶応大学三田祭のために用意した。慶応での講演は外務省が訪日ビザ発給に難色を示して中止となったが、
原稿は河崎真澄・台北支局長(当時)が本人から入手して同月19日付の産経新聞本紙に掲載された。
日本人が誇るべき「公に奉ずる」精神。それこそ危機の時代を乗り切る「精神的指針」と訴えた。新型コロナ
ウイルス禍を生きる今の世代への“遺言”ともいえよう。全文を紹介する。

     

日本人が誇るべき「公に奉ずる精神」 李登輝氏“幻の原稿”全文

 台湾元総統の李登輝には“幻の講演原稿”がある。「日本人の精神」。李氏が平成14(2002)年11月、
慶応大学三田祭のために用意した。慶応での講演は外務省が訪日ビザ発給に難色を示して中止となったが、
原稿は河崎真澄・台北支局長(当時)が本人から入手して同月19日付の産経新聞本紙に掲載された。
日本人が誇るべき「公に奉ずる」精神。それこそ危機の時代を乗り切る「精神的指針」と訴えた。新型コロナ
ウイルス禍を生きる今の世代への“遺言”ともいえよう。全文を紹介する。
   
危機時代を乗り切る指針
 経済新人会の森本代表、三田祭幹事会の皆様、ご来賓の皆様、こんにちは! ただ今ご紹介を受けました李登輝です。

 この度、三田祭開催を前にして、金美齢女史と経済新人会の森本代表、河野先生が十月十五日にわざわざ台湾にいらっしゃいました。そして私に三田祭、経済新人会主催の講演で「日本精神」について話してもらえないかと招聘(しょうへい)状をいただきました。私はこれは難しい題目だなあと知りながら、しかし、即座によいでしょうと返答しました。これにはいろんな理由があります。

 一つは三田祭幹事会の皆さんが若き学生であり、そして日本精神について知りたいということは、日本の現状と将来について、考えに考えたあげく、この問題を私に求めたものと思います。こんな立派な若者が日本にたくさんいることを知り、すっかり私の心を打つものがありました。
 第二に私は、かつて日本の植民地・台湾で生まれ、かなり日本および日本についての教育を受け、最近はまた、新渡戸稲造氏の武士道、すなわち日本人の精神について、その解題(分析)を書き、日本精神についてかなり考える機会を与えられました。

 いま、私たちの住む人類社会は未曾有の危機に直面しています。地球規模の大戦や骨肉相食(は)む血みどろの内戦や紛争の二十世紀が終わり、平和や繁栄の時代が到来したと安堵(あんど)したのも束(つか)の間、世界ではますます不穏が続き、二〇〇一年の九月十一日にニューヨークやワシントンを多発的に襲った未曾有のテロ事件が発生しました。

 まさに、人類社会自体が危機竿頭(かんとう)の大状況に直面しているときだけに、世界有数の経済大国であり、平和主義である「日本および日本人」に対する国際社会の期待と希望は、ますます大きくなると断言せざるを得ません。数千年にわたり積み重ねてきた「日本文化」の輝かしい歴史と伝統が、六十億人の人類全体に対する強力な指導国家としての資質と実力を明確に示しており、世界の人々から篤(あつ)い尊敬と信頼を集めているからです。

 この指導国家の資質と実力とは何でしょう。

 これこそは日本人が最も誇りと思うべき古今東西を通じて誤らぬ普遍的価値である日本精神でしょう。人類社会がいま直面している恐るべき危機状態を乗り切っていくために、絶対必要不可欠な精神的指針なのではないでしょうか。

 しかるに、まことに残念なことに一九四五年以後の日本において、このような代え難い日本精神の特有な指導理念や道徳規範が全否定されました。日本の過去はすべて間違っていたという「自己否定」な行為へと暴走して行ったのです。
  
 日本の過去には政治、教育や文化の面で誤った指導が有ったかもしれませんが、また、素晴らしい面もたくさんあったと私はいまだに信じて疑わないだけに、こんな完全な「自己否定」傾向がいまだに日本社会の根底部分に渦巻いており、事あるごとに、日本および日本人としての誇りを奪い自信を喪失させずにおかないことに心を痛めるものの一人であります。これらが、私をして三田祭講演の招聘状を即座に承諾させた理由でもあります。

 皆様に日本精神は何ぞやと、抽象論を掲げて説明するだけの実力を私は持っておりません。(司馬遼太郎の著書「台湾紀行」に“老台北”として登場する実業家の)蔡焜燦(さいこんさん)さんの書かれました「台湾人と日本精神」みたいな立派な本をもって説明することもできません。私としては日本の若い皆さんに、私が知っている具体的な人物や、その人の業績を説明し、これが日本精神の表れです、普遍的価値ですと説明した方が、皆さんにもわかりやすく、また、日本人としての誇りと偉大さを皆で習っていけると考えるものであります。


台湾の水利事業に尽くした八田與一
 台湾で最も愛される日本人の一人、八田與一(はったよいち)について説明しましょう。

 八田與一といっても、日本では誰もピンとこないでしょうが、台湾では嘉義台南平野十五万町歩(一町歩はおよそ一ヘクタール)の農地と六十万人の農民から神のごとく祭られ、銅像が立てられ、ご夫妻の墓が造られ、毎年の命日は農民によりお祭りが行われています。彼が作った烏山頭(うざんとう)ダムとともに永遠に台湾の人民から慕われ、その功績が称(たた)えられるでしょう。

 八田與一氏は一八八六年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校を経て一九一〇年に東大の土木工学科を卒業しました。卒業後まもなく台湾総督府土木局に勤め始めてから、五十六歳で亡くなるまで、ほぼ全生涯を台湾で過ごし、台湾のために尽くしました。

 一八九五年に日本の領土になったころ、台湾は人口約三百万人、社会の治安が乱れ、アヘンの風習、マラリアやコレラなどの伝染病などの原因で、きわめて近代化の遅れた土地であり、歴代三代の台湾総督は抗日ゲリラ討伐に明け暮れた時代でありました。第四代の児玉(源太郎)総督が民政長官の後藤新平氏を伴って赴任した一八九八年ごろに、台湾の日本による開発が初めて大いに発展しました。

 八田與一氏が台湾に赴任するのは、後藤新平時代が終了した一九〇六年以降のことです。後藤新平時代に台湾の近代化が大いに進んだとはいえ、以前があまりに遅れていたこともあり、八田氏が精力を傾けることになる河川水利事業や土地改革はまだまだ極めて遅れていました。

 台湾に赴任してまもなく、台北の南方、桃園台地を灌漑(かんがい)する農業水路の桃園大●(土へんに川)(たいしゅう)の調査設計を行い一九一六年に着工、一九二一年に完成しましたが、灌漑面積は三万五千町歩でありました。これが今日の石門ダムの前身であります。

 この工事の途中から旧台南州嘉南大●(土へんに川)水利組合が設立され、八田氏は総統府を退職して組合に入り、十年間をその水源である烏山頭貯水池事務所長として、工事実施に携わりました。嘉南平野十五万町歩を灌漑するために、北に濁水渓幹線、南に烏山頭ダム幹線の二大幹線を築造し、曽文渓からの取水隧道(しゅすいずいどう)によってダムに一億六千万トンの貯水を行ったものであり、土堰堤(どえんてい)築造工法としてセミハイドロリックフィル(反射水式)工法が採用されました。

 この工事の完成によってほとんど不毛のこの地域十五万町歩に毎年八万三千トンの米と甘蔗(かんしゃ)=サトウキビ=その他の雑作が収穫されるようになりました。

 その時分では東洋一の灌漑土木工事として、十年の歳月と(当時のお金で)五千四百万円の予算で一九三〇年にこの事業を完成したときの八田氏はなんと、四十四歳の若さでありました。嘉南大●(土へんに川)の完成は世界の土木界に驚嘆と称賛の声を上げさせ、「嘉南大●(土へんに川)の父」として六十万の農民から畏敬(いけい)の念に満ちた言葉で称えられました。


台湾に残した三つのもの
 八田與一氏への恩を忘れないようにしたのは何でしょうか? 古川勝三氏の著作からの引用ですが、八田與一があの若さでこの偉大な仕事を通じて台湾に残したものが三つあると思います。

 ひとつは嘉南大●(土へんに川)。不毛の大地といわれた嘉南平野を台湾最大の穀倉地帯に変えた嘉南大●(土へんに川)を抜きにして八田氏は語れません。二つ目は八田氏の独創的な物事に対する考え方です。今日の日本人が持ち得なかった実行力と独創性には目を見張るものがあります。三つ目は八田氏の生き方や思想は、我らに日本的なものを教えてくれます。

 これら諸点について具体的な諸事実を並べて話しましょう。

 一、まず嘉南大●(土へんに川)の特徴についてみましょう。(1)灌漑面積は十五万町歩、水源は濁水渓系統五万二千町歩、烏山頭系九万八千町歩。灌漑方式は三年輪作給水法(2)烏山頭ダムの規模、堰堤長千二百七十三メートル、高さ五十六メートル、給水量一億五千万トン、土堰堤はセミハイドロリックフィル工法採用(3)水路の規模、給水路一万キロ、排水路六千キロ、防水護岸堤防二百二十八キロ。

 このような巨大な土木工事をわずか三十二歳で設計に取りかかり、三十四歳で現場監督として指揮をした八田氏の才能には頭が下がります。戦後の日本における近代農業用水事業の象徴である愛知用水の十倍を超える事業なんだと考えれば、うなずけるものと思います。そして烏山頭は東洋唯一の湿地式堰堤であり、アメリカ土木学会は特に「八田ダム」と命名し、学会誌上で世界に紹介したものです。

 しかし嘉南大●(土へんに川)が完成しても、それですべてが終わったというわけにはいきません。ハードウエアは完成しましたが、それを維持管理し有機的に活用するためのソフトウエアが大切です。農民はその大地を使って農作物を作り、生産力を上げなければ嘉南大●(土へんに川)は生きたものになりません。農民への技術指導が連日、組合の手によって繰り返されました。その甲斐あって三年目には成果が顕著になってきました。かくして不毛の地、嘉南平野は台湾の穀倉地帯に変貎(へんぼう)を遂げたのです。

 その成果には(1)農民が被る洪水、干魃(かんばつ)、塩害の三重苦が解消したこと(2)三年輪作給水法によって全農民の稲作技術が向上したこと(3)買い手のない不毛の大地が給水によって地価が二倍、三倍の上昇を招き、全体では九千五百四十万円もの価値を生んだ。この金額は当時の全工事費を上回る金額であった(4)農民の生活はこれによって一変し、新しい家の増築や子供の教育費に回す余裕がでてきた-ことがあげられます。

 二、次は八田氏の独創的なものの考え方を述べなければなりません。以上述べた嘉南大●(土へんに川)の巨大な工事に対して、当時として常識はずれの独創的方法が採用されました。

 その一つはセミハイドロリックフィル工法の採用です。この方法は東洋では誰もてがけたことがなく、アメリカでさえもこのような大きな規模の工事では採用されていなかった。この工法を採用したのには、それなりの理由がありました。

 まず地震です。この地帯は断層があちこちに発生しており、地震強度は六度以上もあります。この工法は粘土による中心羽金層を堰堤の中心に造り、浸透水を遮断して堰堤に決壊を防ぐアースダム方式です。この工法を遂行するには、三百トンの大量の土砂と中心羽金層を造る微細な粘土を必要としますが、この地域ではこれを供給する場所がありました。


 この未経験の工法を採用するに当たり、徹底的な机上の研究とアメリカ視察を行いました。そして、この工法の採用と設計が間違いでない確信を持って工事にとりかかったのです。またコンクリートコアの高さと余水吐をめぐって、セミハイドロリックフィルダムの権威者ジャスチンと大論争しますが、自説を譲らず、設計どおりに構築しました。七十年経過した今日でも、堰堤は一億トン以上の水を堰(せき)とめて、八田ダムの正確性を証明しています。

 二つ目は大型土木機械の使用です。労働力のあまっている時代としては常識はずれでした。大型機械の使用については組合や当時の請負業者が反対していました。購入予算は四百万円に達し、堰堤工事と烏山頭隧道工事費の25%にあたります。

 八田氏の意見は、これだけの堰堤を人力で造っていては十年どころか二十年かかってもできない。工期の遅れは十五万町歩の土地が不毛の土地のまま眠ることになる。高い機械で工期が短縮できれば、それだけ早く金を生む。結果的には安い買い物になる-というものでした。この考え方は当時としては偉大な見識と英断と見なければいけないでしょう。これら大型土木機械はその後の基隆港の建設と台湾開発に非常な威力を発揮しました。

 三つ目は烏山頭職員宿舎の建設です。「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という信念のもとに、職員用宿舎二百戸の住宅をはじめ、病院、学校、大浴場を造るとともに、娯楽の設備、弓道場、テニスコートといった設備まで建設しました。

 それ以外にまたソフトウエアにも気を配り、芝居一座を呼び寄せたり、映画の上映、お祭りなど、従業員だけでなく家族のことも頭に入れて町づくりをしています。工事は人間が行うのであり、その人間を大切にすることが工事も成功させるという思想が、八田氏の考えでした。

 四つ目は三年輪作給水法の導入です。十五万町歩のすべての土地に、同時に給水することは、一億五千万トンの貯水量を誇るとはいえ、烏山頭ダムと濁水渓からの取水量だけでは、物理的に不可能でした。ならば当然その給水面積を縮小せざるを得ないと考えるのが普通ですが、八田氏の考えは違っていました。土木工事の技術者はダムや水路を造りさえすれば、それで終わりであると八田氏は考えなかったのです。

 ダムや水路は農民のために造るのであれば、十五万町歩を耕す農民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に増え、生活の向上ができて初めて工事の成功であると考えていました。そのためには、十五万町歩の土地に住むすべての農民が、水の恩恵を受ける必要がある。

 そしてそのためには、すべての土地を五十町歩ずつ区画し、百五十町歩にまとめて一区域にして、水稲(すいとう)、甘蔗、雑穀と三年輪作栽培で、水稲は給水、甘蔗は種植期だけ給水、雑穀は給水なしという形で、一年ごとに順次栽培する方法を取りました。給水路には水門がつけられ、五十町歩一単位として灌漑してきたのです。


本精神の良さは真心で行うということ
 最後に、雄大にして独創的工事を完成させた八田與一とはどんな人だったのか、そこに焦点を当てて考えてみましょう。

 八田與一氏は技術者として抜群に優れていたばかりでなく、人間としても優れていました。肩書や人種、民族の違いによって差別しなかったのです。天性ともいえるかもしれませんが、これを育(はぐく)んだ金沢という土地、いや日本という国でなければかかる精神がなかったと思います。

 嘉南大●(土へんに川)の工事では十年間に百三十四人もの人が犠牲になりました。嘉南大●(土へんに川)完成後に殉工碑が建てられ、百三十四人の名前が台湾人、日本人の区別なく刻まれていました。

 関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必要に迫られたことがありました。その時、八田氏は幹部のいう「優秀な者を退職させると工事に支障がでるので退職させないでほしい」という言葉に対し、「大きな工事では優秀な少数の者より、平凡の多数の者が仕事をなす。優秀なものは再就職が簡単にできるが、そうでない者は失業してしまい、生活できなくなるではないか」といって優秀な者から解雇しています。

 八田氏の人間性をあらわす言葉でしょう。八田氏の部下思いや、先輩や上司を大事にすることでは、数え切れないほどエピソードがあります。

 八田氏は一九四二年三月、陸軍からの南方開発派遣要求として招聘されます。その年の五月七日、一四、〇〇〇トンの大型客船「大洋丸」に乗ってフィリピンへ向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭い、大洋丸が沈没。八田氏もこのため遭難しました。享年五十六歳でした。妻の八田外代樹(とよき)は三年後、戦争に敗れた日本人が一人残らず(台湾から)去らねばならなくなったときに、烏山頭ダムの放水口に身を投じて八田氏の後を追いました。御年四十六歳でした。

 私の畏友、司馬遼太郎氏は「台湾紀行」で、八田氏について、そのスケールの大きさをつぶさに語りつくしています。

 私は八田與一によって表現される日本精神を述べなければなりません。何が日本精神であるか。八田氏の持つ多面的な一生の事績を要約することによって明瞭(めいりょう)になります。

 第一のものは、日本を数千年の長きにわたって根幹からしっかりと支えてきたのは、そのような気高い形而(けいじ)上的価値観や道徳観だったのではないでしょうか。国家百年の大計に基づいて清貧に甘んじながら未来を背負って立つべき世代に対して、「人間いかに生きるべきか」という哲学や理念を八田氏は教えてくれたと思います。「公に奉ずる」精神こそが日本および日本人本来の精神的価値観である、といわなければなりません。

 第二は伝統と進歩という一見相反するかのように見える二つの概念を如何(いか)にアウフヘーベン(止揚)すべきかを考えてみます。現在の若者はあまりにも物資的な面に傾いているため、皮相的進歩にばかり目を奪われてしまい、その大前提となる精神的な伝統や文化の重みが見えなくなってしまうのです。

 前述した八田氏の嘉南大●(土へんに川)工事の進展過程では、絶えず伝統的なものと進歩を適当に調整しつつ工事を進めています。三年輪作灌漑を施工した例でも述べたように、新しい方法が取られても、農民を思いやる心の中には伝統的な価値観、「公議」すなわち「ソーシャル・ジャスティス」には些(いささ)かも変わるところがありません。まさに永遠の真理であり、絶対的に消え去るようなことはないものです。日本精神という本質に、この公議があればこそ国民的支柱になれるのです。

 第三は、八田氏夫妻が今でも台湾の人々によって尊敬され、大事にされる理由に、義を重んじ、まことを持って率先垂範、実践躬行(きゅうこう)する日本的精神が脈々と存在しているからです。日本精神の良さは口先だけじゃなくて実際に行う、真心をもって行うというところにこそあるのだ、ということを忘れてはなりません。

 いまや、人類社会は好むと好まざるとにかかわらず、「グローバライゼーション」の時代に突入しており、こんな大状況のなかで、ますます「私はなにものであるか?」というアイデンティティーが重要なファクターになってきます。この意味において日本精神という道徳体系はますます絶対不可欠な土台になってくると思うのです。

 そしてこのように歩いてきた皆さんの偉大な先輩、八田與一氏のような方々をもう一度思いだし、勉強し、学び、われわれの生活の中に取り入れましょう.。