國破れてマッカーサー #0197
東大に、キリスト教講座を!
◆ 南原繁
キリスト教は輝かしく復活し、「偶像崇拝の神道」(マッカーサーの言葉)は埋葬された。国家神道に染まっていた教師は追放され、キリスト教徒の教師たちが大量生産されるべきだった。マッカーサー元帥は当然そう考えた。南原繁東京帝大総長も同じ考えであった。
南原は、東京帝大法科卒後、内務省に入り、イギリス、フランス、ドイツに留学した。昭和20年12月、東大教授から戦後初の東大総長に選ばれ、二期6年間勤める。昭和21年3月、貴族院議員に勅選され、マッカーサー憲法審議に参与した。
◆「新しい日本文化の創造」
1946年2月11日、建国記念の日に、キリスト教徒である南原総長は「新しい日本文化の創造」と題する長い演説を東大生たちに行なった。
「人間性の涵養だけでは真の人間としての覚醒に達することは不可能であることを自覚しなければならない。真の覚醒は神を発見し、その発見を通じて自己を神に従わせることによってのみ、可能なのである。日本に緊急に必要なのは宗教改革である。国粋主義的な日本的神学からの解放には別の宗教が必要なのだ」
◆「別の宗教」とは「キリスト教」。
日本土着の宗教の弱さを示す証拠として、南原は敗戦を指摘した。宗教が貧弱だから武力の戦いに負けた、と言う。
◆精神の改革とキリスト教
彼の新しい日本文化は、「日本精神そのものの革命」を要求する。この革命は
「単に政治的、社会的システムの変革に止まるのではなく、さらに知的、宗教的な精神的革命に至らねばならない」
「この戦いに選ばれたチャンピオンは若い学生諸君である。真実への愛に燃える純真で誠実な魂にとり、これ以上に重要で相応しい使命はない」。
日本で最も影響力のある大学の総長が、キリスト教への改宗を唱えた。
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キリスト教の片棒・南原繁
◆南原繁の大演説
喜んだマックス・W・ビショップは、バーンズ国務長官に「南原博士は最近キリスト教の講座を東京帝大に設ける提案をしました」「南原演説はいま訪日中のアメリカ教育使節団から〝勇気があり、優れた、そして前向き〟の考えとして賞讃されています」
と報告している。
南原は、日本教育を激変させた米国教育使節団と協力した「日本側教育家の委員会」の委員長を務めた。
当時、紙不足は危機的であったにもかかわらず、彼の演説はGHQにより小冊子に印刷され、広く配布された。
日本人のキリスト教信者には、マッカーサーが第二のイエス・キリストのようにさえ映っており、キリスト教が、元帥の言う「世界の進歩した精神」であり、この精神が「戦犯日本」を救うのであった。
◆キリスト教講座設立の提案
南原総長は、キリスト教講座を東京大学に設立する提案をした。
ビショップがバーンズ長官に送った報告書には、
「この講座ができれば、日本の国立大学では初めてのものになります。東京帝大にはすでに神道、仏教に関する講座はありましたが、このキリスト教講座は、公的施設の中に宗教の自由を確立するうえで極めて重要なことであります」
「この講座は、日本のクリスチャンの熱烈な祈りであり希望でもあり、多数の優れたクリスチャン学生が大学教育を受け、国際平和に大きく寄与するでありましょう」
とある。ビショップは、東京帝大にキリスト教講座を設置させるよう奔走した。
◆憂鬱な文部省
しかし、国立大学では既に、神道、仏教の講座は全て廃止されており、文部省も今になってキリスト教講座を設置する気はなかった。
南原はこういう事情を心得たうえで、GHQ政治顧問事務室で
「提案している講座はかつての神道講座に代わるものではなく、完全に独立した独自のものである」
と説明した。
彼の説明は、彼の誠実さを疑わせるものではないが、彼はキリスト教の宣教師と自負していたマッカーサー、GHQ、アメリカ政府に諂って(へつらって)たのか。
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お金の流れとキリスト教
◆講座設立の資金源
キリスト教講座に必要な資金をどう捻出するかという面倒な問題が起こってきた。
ビショップは、バーンズ長官に「南原は個人的には民間の寄付の方が望ましいと考えております。そうすれば、資金は早く集まり、また、政府との絡みから自由になれますので、これは良い考えだと思います」と進言した。
東京帝大とGHQから圧力をかけられた文部省は、考え方を変えさせられ、「神道関係の講座は廃止されるべきであるが、その資金は大学に与えられるべきである」と主張しだした。その資金で、キリスト教講座を作るつもりであった。
◆大蔵省の判断
大蔵省がこの要求を拒否した。
ビショップは、「大蔵省は日本の重要な大学における宗教の自由を裏から妨害している」と激怒した。
だが、大蔵省内のスパイがビショップに語ったところによると、大蔵省は文部省に、「神道講座は右翼の圧力で作られたので、当然廃止されるべきであり、その予算は国に返還されるべきだ。東京帝大により、他の目的に使われてはならない」と通告した。
ビショップは、キリスト教を実現する稀な機会を、大蔵省がブチ壊したという考えを変えなかった。
◆国際キリスト教研究所の設立
大蔵省をあてにできないと認識し、海外のキリスト教団体や日本人信徒の間に、キリスト教の大学を独自に作る動きが出た。
著名なメソジスト宣教師ラルフ・E・ディッフェンドルファーが日本国際基督教大学財団の会長に就任し、その本部がニューヨークにおかれた。
GHQに威されたのか、それとも心からの真意か解らないが、文部省はキリスト教に絶大な期待をかけ、それを公に明言していた。
国際キリスト教研究所が設立された時、文部省は学校教育局長日高第四郎を派遣し(1948年1月31日)、祝辞を述べさせた。
「我が平和日本の将来に決して色あせることのない文明の花を咲かせうるものとして、キリスト教文化に比肩するものはない。日本が過去の誤りを二度と繰り返さないために、また良き前例となるためにも、我々はキリストの愛、即ち神の愛に祝福された普遍的な人類愛を研究しなければならない」(トレイナー文書の英訳文から、西が和訳した)
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国際キリスト教大学設立
日本人の歩む道
元駐日大使(10年間)だったジョセフ・C・グルーが、この大学建設資金募集のアメリカ全国委員長に就任した。
1949年、『現代の日本(コンテンポラリー・ジャパン)』誌のクリスマス号に、日本国民への公開状を書くよう求められた時、グルーは国際基督教大学について執筆した。
彼は国務省の知人、W・ワルトン・バターワース国務次官に自分の書いた原稿に目を通してもらった。バターワースはグルーの原稿を大変気に入った。
グルーは「日本人を精神的、道徳的に目覚めさせ、教育するためには、国際基督教大学ほど優れた方法は他にない」というアメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督(日本帝国海軍を沈めた男)の言葉を引用している。
また、グルーはワシントンで、1950年5月31日に開かれたキリスト教大学創立財団の集会で演説し、日本の歩む道は「キリスト教の主義と民主主義の道」しかなく、この道を誤れば、「日本の破滅をもたらした古い軍国主義的封建制」か「共産主義へ至る」道を歩むことになると言った。
ニミッツ提督と東郷平八郎
余談になるが、ニミッツは、東京湾で日本が降伏文書に署名したミズーリ号の艦長であった。
ニミッツは、日露戦争の時、日本海海戦でのロシアの誇り、ロシア皇帝の最後の切札であるバルティック艦隊を撃滅した日本海軍の鬼才東郷平八郎を崇拝していた。
86歳で死去した東郷が国葬になった1934(昭和9)年6月5日、ニミッツはアメリカ儀礼艦オーガスタの艦長として参列した。
また、東郷家の内輪だけの葬儀にも招待された。
日本海海戦の旗艦「三笠」が横須賀で錆びつき朽ち果て、今にも沈むかもしれないと聞きつけ、1945年9月2日のミズーリ号で日本降伏調印式が行なわれる前日、ニミッツは「三笠」を見に横須賀港まで足を運んだ。「三笠」の無残な姿を見て、愕然とした。
彼は各界に働きかけ、アメリカ海軍にも協力させ、そして自らも浄財を寄せ、「三笠」の復元に尽力した。ニミッツは「武士」であった(名越二荒之助『世界に生きる日本の心』 展転社、1987年 参照)。
基督教大学の誕生
日本基督教大学基金は、1949年6月、アチソン国務長官に150万ドル以上の資金が集まったと報告した。
マッカーサーは「募金委員会の名誉会長」となり、この計画の熱心な支持者であった。
大学計画をさらに推進するために、1950年10月、グルーが訪日した。同年11月29日、グルーは日米学生交換等のために500万円と当時では高額の奨学基金「グルー基金」を設立した。この大学は東京の近郊、三鷹にある。
キリスト教を崇め、日本文化がキリスト教文化へと変身して行くことを願っていた日高第四郎は、1952(昭和27)年、占領が終わった年、この国際基督教大学の教授になった。
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この記事の著者:西 鋭夫1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。 同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。