恵龍之介著『中国が沖縄を奪う日』から引用

沖縄レポート(1)左翼セクトの動向について

左翼過激派最後の戦場・韓国系・中国系左翼も結集の戦場
★日米同盟・日米安保破棄:最後の闘いに賭ける!
★中国との連携に最後の望みを賭ける!


 沖縄が日本に復帰して40周年を迎えた2012年は、保守、左翼ともに記

念式典や集会を開催いたしました。特に左翼勢力は、5月12日~15日まで
連続で集会を行っていました。

◆12日は那覇市民会館で、中核派が主催する「『復帰』40年:5・12集
会」が開催されました。約400人の参加者は殆どが沖縄県外者で、目撃者
の証言によれば、参加者同志が再会を喜びあうシーンが会場内で見られたそ
うです。要するに中核派は、人的戦力を福島など複数の拠点に流動的に投入
して活動させているのです。

  集会のスローガンは「原発反対!基地反対!」で、登壇者の大半が本土か
 らの活動家で有りました。ステージには「フクシマと連帯し、基地と原発を
 無...くそう!新自由主義と対決し、安保・沖縄闘争に勝利しよう!」という
 横断幕が掲げられ、「沖縄の戦いは常に核配備との闘いであり、原発廃炉へ
 の闘い、福島と沖縄の闘いは一体だ」という論理を強調する活動家もいまし
  た。

◆翌日13日は米軍普天間飛行場が所在する宜野湾市の海浜公園野外劇場で、
「復帰40周年5・15平和とくらしを守る県民大会」が開催されました。
これは復帰記念日に合わせた一連の左派勢力の行事の中では最大のイベント
で、沖縄本島南部戦跡地での「平和行進」といったオープニングセレモニー
と共に、地元マスメデアでも大きく取り上げられました。

  大会主催者は「沖縄平和運動センター」ですが、会場入り口には革マル派
 の赤いのぼりが林立し、昭和50年(1975年)に当時の皇太子ご夫妻
 (今上天皇・皇后両陛下)が沖縄を御訪問された時に、火炎瓶を投げつけた
  共産主義者同盟(ブント)の流れをくむセクトの機関紙購読を呼びかけるチ
 ラシも配られていました。

★会場内には革マル派以外の旗が200本以上林立し、内訳は「全国一般東京
労組」「愛姫県平和運動センター」「三重県職労」などなど県外のものが7
割、「沖縄教職員組合・那覇支部」「沖縄国労」など県内のものが3割を占
め、旗の周りには各セクトに所属する活動家たちが着席していました。
 主催者の主催者の発表によると参加者は3000人で、「辺野古に新基地を
 造らせないぞ!」「オスプレイの配備に反対するぞ!」「政府の無策を糾弾
 するぞ!」という開会シュプレヒコールで幕開けとなり、梅雨の晴れ間に恵
 まれたおかげで大会は順調に進みました。

★登壇者は、いずれも一坪反戦地主である沖縄社会大衆党の委員長の糸数慶子
参議院議員と、社民党の照屋寛徳参議院議員ほか、与那国への自衛隊配備に
反対している市民団体、沖教祖、自治労、韓国の平和運動団体と続きました。
ちなみに糸数慶子議員は普天間基地に隣接する沖縄国際大学に米軍のヘリが
脱落した際に、死傷者が一人もいなかったことを残念がって「死者が出てい
ればよかった」との発言をしたことで知られています。
 地元2紙は翌日の朝刊でこの集会を「県民大会」と報じていましたが、実体
は明らかに本土左翼セクトを主体にした集会でした。

◆14日夜は普天間基地に隣接する宜野湾市民会館で、「韓流・ちむどんどん
2012~アジアから基地をなくす国際連帯沖縄集会」が開催されました。
この「ちむどんどん」とは、胸がときめく事を意味した沖縄方言です。
 主催者は「沖・韓民衆連帯」というグループで、韓国側は親北朝鮮派でした
  が、最大1300人を収容できる大ホールにもかかわらず、わずか60人弱
 と、閑散としていました。また主催者によると15人が韓国人でした。

★集会の第一部では韓国済州島の海軍基地建設に反対するドキュメンタリー映
画が上映され、第二部では沖縄大学の新崎盛暉教授が「復帰40年、沖縄を
民衆の架け橋に」と題した基調講演が行われました。

★その後、前日の「県民大会」にも登壇し、「基地のない平和なアジアを築こ
う」と呼びかけていた韓国のカン相源平和センター所長が「日米韓軍事同盟
は韓半島の戦争を戦争危機を高め、東北アジアに新たな冷戦を招く危険度が
大きく、韓中関係に壁を造る」と講演し、日米韓3国による軍事的連帯強化
反対!を訴えました。その際会場内で配られていた労働運動活動者評議会の
機関誌『労働通信』には、「日本政府は、釣魚島の領土略奪に向け、中国に
対して兆発を続けている」と書かれていました。

◆翌15日の復帰記念日には普天間基地正面ゲート前で、「オスプレイ配備を
 断じて許さない怒りの県民大会」が開催されました。

  主催者は、「普天間基地から爆音を無くす訴訟団」で、協力団体は「宜野
 湾市職労」「中部地区労」などでした。この主催者は平成24年(2012
 年)3月に第二次訴訟団を結成した際、「1万円の投資で299万円のキャッ
 シュバック」というチラシを作成して基地周辺の民家に配布していました。
 その目的は、一人につき1万円を訴訟費用として供出すれば国から300万
  円の騒音補償費が支払われる為に、差し引き299万円が手に入ることをアッ
 ピールして原告住民を増やすことにありました。

◆ちなみに訴訟団の副団長であり、元沖縄県教職員組合委員長である石川元平
 氏は平成24年(2012年)1月8日、北朝鮮革命思想信奉者団体「チュチェ思想
 国際研究所」が那覇市内のホテルで開催した「金正恩最高司令官の生誕祝賀
 パーティー」で、「この集まりに参加出来てうれしい。1970年代にはじめて訪朝
 した時に、地上の楽園を見た思いがした。日朝友好運動を推進し、アメリカを追い
 出しましょう」と挨拶していたのです。

  復帰記念日の当日に開催された「怒りの県民集会」は「一連の反基地アピー
 ルの総仕上げとなる集会でしたが、参加者はわずかに100人強で、マスメ
 デア関係の関係者ばかりが目立っていました。

★会場の旗は「自治労北谷町職員労働組合」「沖縄高等学校退職教職員会」
 「辺野古とつながる読谷の会」など地元左翼団体のもので絞められていまし
 たが、その中で際立っていたのが「琉球独立」と書かれたスカイブルーの旗
 でした。これは瀧谷大学経済学部の松島泰勝教授が主宰する「NPO法人・
 ゆいまーる琉球の自治」の旗で、松島教授は「琉球民族独立総合研究学会」
 の設立メンバーであり、平成23年(2011年)6月、ニューヨーク国連
 本部でグアム政府代表と共に、「グアムと沖縄は今も米国の植民地」(「朝
 日新聞」平成23年6月22日)と演説をしています。

◆反基地闘争を展開する左翼セクトの中に「一坪反戦地主」という集団があり
 ます。この集団は平成9年(1997年)には土地の使用権限をめぐって日
 米同盟を危機的な状況に追い込んだことがあります。
 一坪反戦地主の土地は合計で、2215平方メートルと、沖縄米軍施設・区
  域の0・0009%にしかすぎません。しかも689人の一坪地主が登記し
 ている普天間基地の土地は合計で67平方メートルと、一人あたりわずか0・
 09平方メートル=30センチ四方の土地しか所有していません。

◆そういう地主たちは過激派等の極左勢力で、極左団体であり、一坪反戦地主
 の約半数の1448人は沖縄とは関係がないテロ集団や、反政府イデオロギー
 の集団の活動家なので有ります。
  一方沖縄側の一坪地主としては、前出の照屋議員と糸数議員のほか、地元2
 紙の役員、喜納昌春県議会議長、新崎盛暉元沖縄大学学長、仲程昌徳、米森
 裕ニ元琉球大学教授、安仁政昭沖縄国際大学教授・・、達が名を連ねていま
 す。県外からは、文科省の教科書検定調査審議会臨時委員長を長く務めた天
 児慧青山大学教授(現在は早稲田大学教授)らがいます。

★ちなみに、平成9年(1997年)3月31日の時点で、沖縄の軍用地主は
 3万2622人に成り、このうち国と賃貸契約を結んでいない反戦地主は3
 078人いましたが、その中でも元々の地主は113人で、残り2965人
 はいわゆる反戦地主でありました。その中には外国人も含まれているのです。

◆当時、そうした一坪反戦地主の暗躍と県知事の職務放棄によって、一時期軍
 用地の使用権限が消滅するという事態が発生し、日米関係が危機に直面致し
 ましたが、平成9年(1998年)4月17日に、「駐留軍用地特設法」の
 改定法案が衆参両院で可決されて、総理の使用認定によって使用権限が回復
 致しました。その結果反基地運動は一気に沈静化し、以降、反戦地主のター
 ゲットは「普天間基地閉鎖」「米海兵隊の沖縄撤退」への闘いに転換してゆ
 きました。(以下次回沖縄レポート第二弾に続く)

 注:恵龍之介著『中国が沖縄を奪う日』から引用
    2013.1025 長島朋爾氏の打ち込みによるものです。

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