芹沢 光治良 (せりざわ こうじろ) 小説家。静岡県沼津市名誉市民。 友好大賞(仏)(1957年)仏友好国大賞(1959年) 芸術選奨(1965年)日本芸術院賞(1969年) 芸術文化勲章(コマンドゥール)(1974年) 晩年には、「文学はもの言わぬ神の意思に言葉を与えることだ」との信念に拠り、"神シリーズ"と呼ばれる、神を題材にした一連の作品で独特な神秘的世界を描いた。 |
生家は網元。1900年 父が天理教に入信し無所有の伝道生活に入ったため、叔父夫婦と祖父母に育てられる。世話になった叔父の家も後に天理教会となる。1915年沼津中学校(現・沼津東高等学校)卒業後、沼津町立男子小学校の代用教員となる。1919年第一高等学校仏法科卒業。1922年東京帝国大学経済学部卒業。農商務省入省。1925年農商務省を辞任しソルボンヌ大学入学、金融社会学のシミアン教授 (François Simiand) に学ぶ。フランス滞在中に結核に冒され療養(スイス・レザンには、芹沢が療養したとされるサナトリウムが当時のままで現存、名門校レザンアメリカンスクールの校舎として使用されている)。1929年帰国、1930年 療養中の体験に基づいた作品『ブルジョア』が、「改造」の懸賞小説に一等当選し文壇に登場。中央大学講師。1943年『巴里に死す』を刊行。1952年『巴里に死す』が森有正によってフランス語訳され、1年で10万部のベストセラーとなる。1963年 自伝的長編『人間の運命』を刊行。1964年『人間の運命』で芸術選奨文部大臣賞受賞。1965年 川端康成のあとを受け、第5代日本ペンクラブ会長となる。1969年日本芸術院賞を受賞、1970年日本芸術院会員となる。1974年金芝河減刑嘆願事件に端を発したペンクラブ批判で会長辞任。1986年「神シリーズ」全8巻を死去まで書き続ける。 主な作品
◎ 『巴里に死す』(1943年) 『一つの世界』(1955年)『人間の運命』(1962-68年)
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第 一 章
「文学は物言わぬ 神の意思に 言葉を与えることである」
あれは昭和四十五年の六月のことだった。心友の岡野君が、故郷の海浜の松林に、僕の名を冠
した立派な文学館を建設した。その後間もなく、文学館で、僕に関する五葉の絵ハガキをつくっ
て、一組にして参館者に配付した。その一葉に、当時の僕の写真の下に、巻頭の詞を添えた絵ハ
ガキがあった。
初めてこれを見た時、当惑のあまり、予め相談してくれたら、これだけは賛成しなかったのに
と、思ったが。 気恥ずかしくもあったが、そればかりではない。その詞が僕の文学の本質を表
わしているようで、一体、長い作家生活の間に、どこでこの詞を書いたか、どう考えても、思い
出せなかった。
誰かに頼まれた色紙に、うっかり気安く書くような詞ではないがと、想いにふけっていると、こ
んな場合よく現れる森次郎が、突然話しかけた。
気にしないで……それ、きっと岡野氏が君の文学精神を全作品から要約した詞だよ。さす
がに岡野氏の名文句だと感心したくらいだからな。
岡野さんは誠実で、しかも聡明で、気配りする仁だから、ご自分で考えた詞を黙ってこの
ように使う人ではないよ。例えば、この絵ハガキの表を見給え。郵便はがきという文字の左横に、
丸に桔梗の紋章かあるだろう。それをつけるにも、僕の家の紋どころを選ぶがいいかと、ちゃん
と話したからね。
それなら、君は忘れたろうが、どこかに書いた詞だよ。暇になったら旧作を読んで見給え、
必ず発胆するさ……しかし、君はこの詞のような確信をもって創作しているんだろう?
とんでもない。ただ書きたいことを書いてるに過ぎないんだ。
それなら是非一度、わが文学精神を考えてみるんだな。前の詞を探す機会に……
その頃、僕は文学精神について考えるどころか、あふれる泉をくむように汲々と創作に専心し
ていて、その詞を気にする暇もなく、いつか忘れてしまった。その間に、文学館の方では、友の
会が組織されて、読者である会員が月に何回か集って研究会を開くようになり、僕も乞われて年
二回、春と秋、必ずその会のために沼津へ出掛けることになった。
集るのは、遠く青森から九州まで、各地から老若男女、さまざまな読者が、少ない時でも三十名、
時には百名以上も集って、文学館の一階の広間に用意した簡易椅子で足りなくて、立っている者
もある。僕は東京から娘の車で出掛けて、午後一時から二時間ばかり文学漫談をして、質問を受
けてから、会員の中にはいって直接対話して、四時過ぎに東京へ引きあげるならわしである。
たしか昭和五十年か、五十一年の秋の友の会の時であった。文学漫談を終えて質問の時になる
と、老紳士が立ち上って言った。
「芹沢先生、お作を全部読んでおりますが、或る場所で、”文学とは、物言わぬ神の意思に、言葉
を与えることだ”と、書いてありますが、他の場所には、”文学とは、神の無言の要求に、一つの言
葉を与えることだ”と、書いています。その何れが正しいのでしょうか。双方とも正しいとしたら、
先生はどちらがお好きですか、と。
不意にお沢をなぐられた気がしたが、絵ハガキを初めて見た時のことを思い出して、この紳士
が僕に代って、僕の文章から探し出してくれたように安堵した。それ故、双方とも正しいですと
すぐに答えられた。二つの詞のうちどちらが好きかについては、好き嫌いけないが、後の方は、
神の無言の要求に、というのを、無言の神の要求にと、書きかえたいと、話した。
芹沢先生、この詞は先生の文学精神を表現した象徴的な詩句ですね。私はこれにぶつかった時、
思わず唸り声をあげて、心から合点しました。それで、先生にお願いですが、先生、神について、
いつかお話をいただけませんか。
―わかりました。私はこの友の会では、政治と宗教に関しては、触れてはならないと、自戒
していますが……(この会にはいろいろ政治に関係のおありの方もあろうし、又、いろいろ異った
信て、
自分独りでも高原で休養するからと主張して、むりやり彼女の車に乗せて山の家へ僕を運ん
だものだった……
やはり空気がさわやかね、樹木の緑がこんなにあざやかだとは、忘れていたわ……と、娘
は喜びの声を挙げて、一年ぶりに開けた家のなかを、活溌に駈け廻るような調子で掃除や蒲団乾
しにかかった。やむなく僕は寝椅子を森のなかに運び出し、それに仰臥してすぐに森林浴をはじ
めた。
たしかに空気は緑に澄んで胸を洗って、全身にしみわたるが、半世紀前に僕が植えた楓の樹々
がすっかり壮年になって、頑張って地表にまで根を張り、おのおの声をかけて、僕を激励するの
だ……
その樹々の語る言葉がわかったのは、まだ数年前のことだが、おやじさんとか、先生とか呼ん
で、今年もお会いできました、よかった。この根を見て下さい。こんなに自分達も頑張っている
のだから、先生も頑張って下さいよ。山で一緒にいい空気を浴びて、体も心も若くして下さいよ
初めてこんな声をかけられた時には、どぎもをぬかれたが、同時に目頭が熱くなったものだ。
それを機会に、僕はわが育てた樹々と話ができることを発見して、人生に喜びが一つ増したよう
に秘かに思った。そして、毎年高原の家に着くなり、樹々に話しかけてみて、あの時だけの錯覚
でないことをたしかめた。一体これはどうしたわけか。わが育てた樹々の他の木は、話しかけて
も答がない。してみると、心をかけて育てること、それは樹々であっても、愛するということで
あろうか。愛は奇蹟をうむというが、樹々との会話も愛の奇蹟であったかと、僕は目も耳も洗わ
れた思いがした。
そんなわけで、今度も二、三日仰臥椅子で森林浴をしながら、樹々の励ましを受けているうち
に、肉体にも精神にも精気がみちて、元気になった。『人問の運命』の最後の二巻も苦もなく再
読訂正を終って、これでよしと、息をつきながら、三年以上諦めてしまった創作をはじめなけれ
ばと、思い立ったのだ。旧作では、随想集が全部で八巻あるが、これ等を再読訂正するほど元気
を取り戻すまいと考えて、持参しなかったことを後悔した。運よく、五年前に持参した原稿用紙
が、使わないまま戸棚の隅に残っていた。それをとり出して、四年ぶりに原稿用紙に向ったのだ
った。
ところが、十枚ばかり書いたところで、突然ペンがとまって、どうしても進まない。ああ、神
についてこの人と語るべきだった、と、その死が胸にせまったからだった。
あの老紳士が文学館の友の会で質問をした時には、会場で幾度も顔をあわせたが、紳士がどう
いう人か、名前さえ知らなかった。同じ年の春頃から、東京附近に住む熱心な読者が、文学愛好
会と称する会を組織して、月に一回、日曜日に中野区の文化センターに集って、午後一時から五
時まで僕の文学について語りあっていた。会場が家から歩いて十五分ぐらいの処であるから、時
時僕も散歩の帰りに三時半頃立ち寄ってみた。いつも三、四十人集って、実に真面目な、いい会
であった。会員には一流会社の社長、自営の
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そうだ、その三日目の午前十一時頃だった。庭の森で仰臥していると、落葉松の梢の間からの
ぞいていた辮空加、あまりに澄み『さって、無忿無想のからだが吸いあげられそうで鵞いた瞬間、
厳かな声がした。
汝の考えこいる神、この宇宙にあって、一分の狂いもない法則に従って、大自然を動かして
ているもの、この地球も、太陽も、月も創り、その上、地球上に人間けじめ総ての生物を創った
もの、その陽大窓力こそ抖であると、汝は考えているなあ。そうだ、この神の他に神はないぞ。
汝は何故に神について書かないのか?
無意識に寝椅子から半身起きて書でいた。そう佰かに天から声がした。確かに仁が耳が聞いた。
しかし、一体何処から、その声がしたか、ただ胸があ犒石ばかりで、あちこち眺ぬよいしたが、見
ふとすぐそばの足もとに、一群の松虫草加つつましやかに紫の花をつけているではないか。こ
の花は亡き恩師、有島武郎先生が好んだもので、戦前ここには毎夏よく咲いで、楽しませてくれ
たが、敗戦直後、アメリカの占領軍が上空から殺虫剤を貯毋したために、古虫を駆除したが匸艇
の野草もすべて花をつけなくなり、いつか影をひそめてしまった。
あれからU十年たって、松虫草も生ぎかえったのかと、ふと気がついて喜ん仁が、同時に、こ
こへ何度も寢椅子を運んだのに、それまで目にとまらなかった。わが視覚のだよりなさに気がつ
いたが、聴覚も同じであろうか。天①价か即穴八と思≒二にが、空卜づブレつ卜にか
の言葉は、甞でD博士の話したように、自然螳鋩が一種の座禅であって、座禅による悟りのよう
なものであったか。顯み札は、大学一年生の時に、高等文官試験を受けた際、口述試験準備に親
友の菊池と故郷の白隠禅師のお寺で、四週間世話になったが、住職から白隠さんの座禅と悟りに
ついて、よく開かされた。あれに禅の仁口で、やはり天の声であったか。
しかし、なかなかずつ決め弓付なかった。というのは、僕はフランスに留学して、実証哲学に
よる社会経済学、貨幣論を勉強して、実証主義⑤卜にと白負しているの几悟りドぶる天宍声を、
現実のものと、すぐにば認められなかった。
現に高原の吾が家に居た時、樹木が歓迎したと言ったが、実際に樹木と言葉を交わすことが、現
実であると納得するには、実験を俯した。
七年前、『死の峠の前で』という長編小説を言行終り、出版社に原稿を渡してから、精神的疲
労と運動不足で衰弱して、この夏の家に来た時のこと、庭へ出るなり、づフ匸夕前の二番大きな
楓が話しかけたものだ。芹沢先生よく来でくれました。もう来られないか、みんな心配してまし
たよ。頑張って下さい、臼分追九回悦フ上よすから。お足もとを注意してください。この冬は言が
多かったし、春先は雨加多かっとぜいご、火山火の土が流されて、自分達の根が地面に出てしよ
って……あぶないですよ。でも、自分達がこんなに根を張って頑張ってることを、見てもらえれ
ば嬉しいです……
ただ僕は驚いて、足もとを見て、地表に現れたたくさんの根に
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s23-206
一度もここて公式の晩餐会なと、催したことかなかった。しかし、第三次世界大戦
が起ればれは、スイスかと中立を守ろうとしても、今度に戦争にまきこまれ、このシ才ンの
古城も回爆で吹きとんてしまうだろう。それゆえ、今度世界中から集った文学者の胸に、シオン城
のイメージを刻んでいたたき、この城か消えた後にも、生き残ったとなどかに、シ才ン城をペンに
ンによって再建していただくよう願いたかったと、いうことだった。
あの時は、幸いにも大戦争は起きなかった。しかし、現在の世界的危機は当時の比ではない。
それを、よく考えよと、存命のみきは僕に言うのである。願わくは、この九年間は戦争の起きな
いことを祈り、平和のために努めたいこのものだ。
筆をおくに当たって、小平教授に紹介され存命のみきに会ってからから五ヵ月間のことを、
最後に顧みるのだが
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昨年のクリスマス前のある日、、存命のみきは、僕の家で復活のイエスをおつれして、僕の背後の
の扉のところに立っいろと言われたが、僕は敢えて振り向かなかった。その時、何故イエス
を伴ったか、みきに聞きたかったが、聞かなかった。年を越して1月になって、イエスのことなど忘れた頃、
存命のみきは突然、僕にイエスを紹介した。
僕は仰天したが、イエスは光治良と僕の名を呼んで、3分間ばかり素晴らしい話をした。
イエスか去ると、一分ばかりして釈迦を僕に紹介した。者顔も2、3分間静かに僕に話した。
僕は感動で全身か 初めて心に涙をこぼした。 二人の神のような聖者が去った後、
みきはいつものように落ち着いて話しをしたが、 そして、後日、本当のイエスの若い姿を、この目で見たし、
80歳の釈迦が菩提樹木陰から起き上がり、高い山の方へ向かう気高い姿も、見た。
パリを引きあげる日が近づいた時、ローマ法王庁内に住か、金山という日本外交官から手紕が
届いた。この人の噂はパリにいる僅かな日本人から聞いたが、僕には未知の人であった。ローマ
の日本大使館に勤務中に、第二次世界大戦になり、日本人がすべてイタリーを引きあげて帰国す
る時、子沢山の夫人が何番目かの妊娠中で、引揚げ不可能になったのを、カトリック信者であっ
た関係で、ローマ法王が法王庁に保護したまま、現在もなお法王の庇護のもとにローマにいると
いう噂であった。
金山氏の手紙によれば、学童の作品は無事に法王の手許に届いたということであった。そして、
日本へ帰る時には、途中ローマで降りて、見物するようにすすめて、宿は法王庁前の小ホテル
(名を忘れたが)にし、ホテルに着き次第、電話をくれど、いろいろ親切な注意をしてあった。
僕はすぐに金山氏に礼状を出したが、三日後出発の飛行機を予約しているから、仰せの如く途
中ローマで降りて数日過したいと、書き加えた。そして、三日後の十一時半頃、親切にすすめて
くれたホテルに着いた。到着次第電話をくれと、注意があったとおり、電話すると、すぐ昼食に
来るように、迎えに行きたいが、出られないから、ホテルの主人にきいてくれれば、わかる、歩
いて二十分しかからないから、待っている、との返事だった。ホテルの主人は、ガルソンに僕を
案内させたが、歩いて十五、六分行くど、城門の前に出た。二人の衛兵が武装して立っていた。
そこで、ガルソンは帰ったが、衛兵に金山氏を訪問することを告げると、入門させて、氏の家へ
の路をていねいに教えた。
金山氏の家ではすぐ食堂へ通された。子供達は食事かすんだそうで、夫妻と旅行者の東京大学
の理学部教授が招かれていた。僕は恐縮したが、カトリックの信者として、神のさずけたパンを
来客とわけて頂くのだから、特別の馳走を用意しないが、遠慮なく、という夫人の言葉どおり、
実におだやかに、静かなもてなしで、気楽にご馳走になれて、遠慮なく話ができた。日本人は外
貨の持ち出しが禁じられているから、せめてローマ滞在中は、昼も晩もわが家に神の与え給う食
事を、ともにしようと、夫妻とも熱心にすすめるので、僕は遠慮なく、毎食ご馳走になりに訪れ
たが、いつもちがった日本人が一人か二人、同じ食卓について、夫妻の静かなもてなしに満足し
ていた。これがカトリックの信者の日常性かと、感心したが、夫人は瑕な時には必ず僕をローマ
見物に誘って案内した。
或る日、金山氏はローマ法王に会ってみないかと、言った。会うというより、見るだけかも知
れないがと、言いなおした。法王は神の代理者であり、生きた記念像であるから、近くで見たい
と、僕は思った。翌日早く運転して、自動車で迎えに来た。法皇ピオ十二世がローマから東
南四十キロばかりの、アルバノという火山川の畔にあるガスケル・ブンドルフォ離宮に、避暑し
ているというので、素瞶らしい道を楽しみながら、離宮に行った。離宮はお伽噺の城のようで。
スイスの兵隊が人形のような服装で護衛していたが、部屋といい、式部官といい、お伽噺そのま
まで、前庭には、世界中から集った老若男女の信者、数十人が敬虔に、法王を待っていた。その
巡礼者のような人々の背後に立って、法王を眺めようと、僕も興味をひかれた。
間もなく華やかな服装の式部官が前庭に現れ、金山氏に返づき、僕とともに、どうぞと、館
内に案内した。長い廊下の左側の各部屋の前に、十数人、十人、数人、五人、三人、二人と、順
次静粛に立っている廊下を進んだ。その立っている人々は、各部屋で法王に謁見をゆるされて待
っているのだが、僕達はどの組に加えられるかと、金山氏は廊下を進みながら、僕に私語したが、
三人の前を過ぎ、最後の二人に返づく頃になって、-大変です、個人謁見かも知れませんよと、
あわてていた。
狼狽しこのは、僕の方で、汚れた旅行服で、予備知識ばなく、礼儀作法も知らないのに、全
く面くらったが、二人の部屋の次の部屋に案内された。たしかに個人謁見らしい。一体何語で話
すのか、金山氏に問うど、英語でもフランス語でもと、金山氏も落ち着かない声だが、突然、前の
壁が両方に開き、背の高い法王が神々しく静かにばいって来られて、僕は掌を出した。
僕は握手だとばかり思って、その掌を握ったが、次に、金山氏が跪き、その掌の、指にはめて
ある法王の指環に、鄭重に唇をあてるのを見た瞬間、わが失敗に、あわてて恥じた。しかし未信
者の人間として、平常心を失わないよう、一心に動揺する心を落ち着けた。それから椅子にかけて、
ゆっくり会話がはじまったが、記憶のなかに顧みると、三つのことを、法王は僕に問いかけた。
第一は、日本国民が大戦争にどんな苦悩をなめたか、特に、広島と長崎が原爆によって、どれ
ほどの被害を受けたか。僕は出国する時、占領軍から、旅行中こうしたことを少しでも話したら
、帰国に際して、入国許可しないとまで厳命されて、禁止されていることを、先ず話した上で、
法王の前であるから敢えて答えると言って、戦争中と敗戦後の日本人の苦悩、特に広島の受けた
災害の模様を、僕自身二十二年春実地に見聞したことをまじえて、詳しく述べた。法王は何度も
涙をこらえるのか目ばたきして真剣に聞いてから言った。「戦争も日本国民のために祈りつづけ
たが、そんな不幸に、人々はよく堪えた。現在も占領下にあっては、どんなに困難で不自由であ
るか、しかし、真面目で勤勉で勤労意慾の旺盛な日本人を、神は必ず守って下さるから暫くの
我慢だ、必ず戦前とちがう平和な繁栄を喜ぶ日あることを、神に祈りますと、敬虔に話された。
第二は、僕白身のことだが、お会いした最初の言葉が、僕を知っていると言うので驚いたが、
予め僕のことをよく調べたと感心した。僕の小説を二篇読んだが、(『巴里に死す』の名を挙げ
たが、仏訳ばまだに出版されず、二週間前にフィガロ紙が、僕のインタビューをのせたばかりだっ
た)何れも主人公が最後にカトリックに帰依しているけれど、それはカトリックの深い信仰がな
ければ書けない程、正確である。作品の主人公をカトリックに改宗させた著者が、どうして自
ら受洗しないかと、質開した。その上、四人の娘のうち三人を、幼い時からカトリックのミっシ
ョンスクールに学ばせているが、三人とち受洗していないが、それは、どうしたわけであろう
か、と重ねて問いかけた。どうした訳か、僕自身考えたこともなかったが、信頼に足る神父にす
すめられれば、とうに受洗したかも知れなかった。しかし、突然そう、法皇ご自身から問われる
と、僕も答えに窮して、咄嗟に、恩寵がないからでございますと、答えてしまった。それに対し
て、法工は何とも言わずに、侍従の捧げていたものから、四つのメダルをとって、人間は一生の
うちに、どうにかできないような不幸にあうことがある。万一お子さん方がそのような場合にめ
ぐりあった時には、法王が自ら祈っていることを思い出して、よく耐えるようにと話して、四人
に法王からだといって渡して下さいと、言って、そのメダルを僕に渡した。
第三は、小学生にお礼をのべて下さい。ほんとうにけなげな、心優しい学童たちだが、お気の
毒だ、勇気を出して、立派に平和な人間になることを祈っていると、その証拠に、学校へ届けて
欲しいと、法王のメダルを一箇渡された。
私はお礼のつもりでお答えした。学童の図画は全部彼等の住む地区の写生画であるが、一枚も
十字架の見える絵がないのが、残念でした。その辺にはキリスト教の教会がありませんので、図
画がみな荒凉とした風景ばかりのように、大人達の心情は今もなお荒廃していますが、学童たち
の心は清らかで、偉大なるものに感謝したいといって、一所懸命、作文と図画を書きまして、お
目をけがして勿体なくもまた、ありかたくもありますと、お礼をのべたが、実際、この謁見には、
僕は感動した。
その夕、ホテルのの主人は、法王と個人謁見したことを知ったとて、狭い部屋で申し訳なかった
と詫びて、立派な部屋を提供した。僕は経済上安い部屋がいいのだと話したところ、代金は同じ
でいいからと、無理やり、お大名のような部屋に入れられた。おかげて、僕もローマの最後の二
日間、お大名のように鷹揚に過したものだ
このローマヽ法王の個人謁見も、親神のはからいだったと、三十五年たった今年、存命のみきに
よって、初めて僕は教えられた。
それは、信仰と宗教、信仰と組織、を考える一資料として、僕に経験させたばかりでなく、僕
に天理教本部及び真柱と、比較させるためでもあったと、言う。そして、そのことを天理教が本
年、百年祭を迎える時にあたって、はっきり僕に知らせたのだと言うのだ。
今度存命のみきから聞いたのだが、親神が世界人類をおさめるのには、はっきり確定した刻限
(時間表)かある。それに従って、中山みきは明治二十年二月十八日に現し身をかくして(死して)
存命の親様として働かれた。三十年祭(大正五年)には、神が表に現れると予言した通り、存命
のみきは兵庫県三木町の主婦、井出図子の魂にたのんで、親神のおもわく通り活動して、世界助
けをはじめた。
その第一歩として、井出国子をつれて天理教本部に伴い、教祖殿に坐らせて、初めて公に生き
た働きはじめた。これは、みきが生前予言してあるのに、天理教本部は「慾と高慢」から、神
意をたしかめることなく、存命のみきを井出国子とともに、多くの男の腕力で教祖殿から引きず
り出して怪我をさせるとともに、その説くことは邪道であると、教団に布告した。
教祖殿から追われた井出国子は、その後、中山みきの曽孫・福井勘次郎が天理教本部の門前近
くに経営していた旅館に一泊し、翌朝、存命のみことともに、三昧田の教祖の生家、前川家を訪
ねた。前川家では、井出目子が生きたままの中山みきとして家人に接したからか、家人も国子を生き
たみきとして喜んだ。その日の夕、井出国子は播州の三木町の家へ帰ったが、その時、天理教本
部の青年勤めをしていた福井勘次郎ば、この婦人こそ、三十年祭に現れると予言された神であろう
うと考えて、お伴してて三木町へ行った。そして、常時そばにあって、信仰、行動等を親しく観察
して、その真否をたしかめた上で、遂に天理教本部に帰らず、一生を井出国子に捧げた。