宗教とは?   編集中!

求められる新時代の宗教

「文明はそれ自身の力だけで、自ら救うことができるか」を86歳の生涯をかけて問い続けたAJトインビー博士が、晩年に、中世の信仰に代わる近代の三つの宗教(低俗宗教と彼は称している)を指摘していることは興味ぶかい。氏の説を中心にこの指摘を自己流に解釈すると次の如くである。 

近代における第一の宗教は「科学への信仰」である。中世的価値観から解放された科学は、実験と合理性を両車軸にして破竹の進撃を続け、この科学に従事することこそ輝かしい人類の未来を約束するものであると、多くの人々がこれに従った。

ところが、1945年原爆の出現は、この科学への信仰に決定的な亀裂をもたらし、その後続く人口の爆発、資源の枯渇、環境破壊などの諸問題、科学での非人間化現象は、科学への手放しの信仰から科学の自己抑制、これをなしえる科学を超える主体、原理を求めているといえよう。

第二は「ナショナリズム」である。これは新しい宗教ではなく、ギリシャ、ローマ世界における都市国家の宗教が復活したものであり、地域社会における人間の集団を信仰の対象とするものである。

第一の信仰が、先進国家群においてバラ色(超楽観論)と灰色(悲観論)とに分極化する現象が見られるのに対して、第二の信仰は、発展途上国に普遍的に見出すことが出来、あなどり難いバイタリティーを潜在しているといえよう。もちろん先進国家群の中に後者への信仰は存在するのであるが、年を経るに従ってその権力的牙を抜かれた福祉国家像は、国民の欲望に対するサービスに応じきれず、疲弊し切った病人さながらの症状を呈している。

これに対して第三の宗教である共産主義は、「人民のために」という絶対的価値観のもとに、第一と第二の宗教としてその威勢を誇っている。現代の課題はこの第三の宗教からの挑戦に対する勝利にある。新しい時代の宗教は、第一、第二の宗教を糾合しつつ第三の宗教を克服しえるものでなくてはならない。そのためには従来、意識の世界の究極として唯心的に求めてきた神と、事実の世界を唯物的に探ってきた科学の究極との統一、宗教と国家(政治、経済、教育)、宗教と愛国心との統一、さらには第三の信仰の対象である「人民」とは何かを問い、その欺瞞の仮面を剥ぎ取って、真の人間像、生命を捧げるに値する信仰の対象を再発見しなければならないといえよう。

 トインビーは次のように言っている。「新しい文明を生み出し、それを支えて行くべき未来の宗教というものは、人類の生存をいま深刻に脅かしている諸悪(人為的環境、貧欲、戦争、社会的不公正)と対決し、これを克服する力を、人類に与えるものでなければならない」と。

                   「宗教正論」  大脇準一郎

「科学と宗教の協力を」

天動説から地動説への転換は「宗教に対する科学の優位、近代化」を象徴する事件であった。そしてその後の科学の驚異的発展は近代人に科学への信仰を持たしめた。

黄色い毒ガスと金属から食塩を作って見せたり、肉眼で見ることもできない素粒子の世界から、地球を破壊しうる程の巨大な力を引き出して見せたり、他の天体に人間を往来せしめうるということは、奇蹟といわずして何であろう。今や「からし種の信仰だに」無なくても科学の力で「かの山も海に入れる」(聖書)ことは容易に成し遂げられることなのである。

しかし、順風満帆の勢いの科学も、核兵器の出現、人口の爆発、資源の枯渇、環境破壊を伴い、都市化の歪(ひずみ)、情報公開を増大させ、人間の精神生活に麻薬的副作用を伴うことが明らかになるにつれて、科学信仰への反省が「何のための科学か?」「科学と価値」問題というかたちで根源的に問われだしてきた。 

では宗教とは何であるか?

今日のオカルトブームは宗教の部分であり、「癌は切らずに治る」的、科学まがいの奇蹟を魅力にした新興宗教ブームは宗教の亜流である。絶対者への信仰を媒介として、真なる人間、真なる社会(家庭、国家、世界等)を結実させてこそ本当の宗教であり、これが宗教の使命であると思う。

今や宗教人は科学が過去のおごりを捨てて、「立派な人間、美わしい社会を見せてくれ!」という謙虚な救いの叫びにもっと耳を傾けるべきである。奇跡的な環境革命を成し遂げた科学のように、宗教は人間の奇跡的革命(新生、復活)を見せなければならないのである。「神の死」を唱えた近代人がそこに神を見る思いがするほどの奇跡的人間の変貌があってこそ近代の失われた科学に対する宗教の主体性が回復されるのである。

戦争への脅威、社会不安の増大の中にあって、科学の発展はかえってこれを増幅するかに思われる今日、人類の危機打開の主体勢力として、世の信仰者、宗教人の一層の奮起を促す次第である。まさに、地上天国実現という人類の最終ゴールに向けて、科学と宗教は、お互いの領域と使命分野をはっきり認識して完全なる協力をなすべき時が来たといえよう。   「宗教正論」  大脇準一郎

宗教と科学の調和

  満10周年であると同時に11周年目の道を歩む早大原研の諸君に点の忍耐と愛の励ましのメッセージを送る。

 早稲田の理想、精神は大隈侯もさることながら私は“校歌”の内にその凝縮された形で見出すのである。“早稲田”と名の示す通り、又「進取の精神」と唱う如く、日本の文化史・教育史において先駆けて役割を果たしてきた。

 「学の独立」という点もあげられると思うが今、私は大学論を展開するのが任務ではないのでそれは置くとして、いろいろな字句は消え去っても心に残る私の愛する三つの言葉がある。その一つは校歌「現世を忘れぬ久遠の理想」、第二に校歌二番「東西古今の文化のうしほ、一つに渦巻く大島国の大なる使命を担いて立てる」、三つ目は三番「集まり散じて人は変われど仰ぐは同じき理想の光」以上である。

 一番は「人間の真の幸福の実現の為に方法論としての科学と宗教とを調和せしめること」を、二番は文字通り「東西文明の融合の歴史的使命」を伊美氏、このような理想を遂げるために、私が在学以前の先輩達・在学字の学友、あるいは以後の諸君たちにとっても変わらないということはグッと胸に迫る心情的連帯感を感じるのである。

 11年前を顧みて神の私に対する願いは「早稲田から何を学ぶかではなくて、早稲田に何を与え得るかを問え」ということであったとはっきり感ずる。

 1960年前3月18日午前8時、高校1年の終わりであった。肉によって居きる人生から霊によって居きる人生に180度の大転換、内的変革を体験した私には新しい生命の世界が見えてきた。それから2年3ヶ月、私が何をやりたいかの前に生命の根源なる神は私に何を願っているのか、私はそのとき生命に願いのあること、目的のあることをはっきりと内観した。

 また『人はパンだけでいきるものではなく、神の口から出る一つ一つのみ言葉で生きるものである』(マタイ44)との聖句を心に染みて感じるような日々で、聖書・仏典、その他宗教書を読むと心の渇きが癒され、そのことが身体の健康にすぐ響いた。

 1962年6月、あるお婆さんから亡父の恩を教えられ感ずるところのあった私は、涙ながらに経文をあげたとき経文の文字が光となって心にガボッと入ったような実感を受け、そのときに経文の文字の背後にある立体的意味の深さ、生命の光を直感し、ギクリとした。そのとき以来、経文を唱読すると何十分かすると、我ならぬ力が働いて大音響になることがしばしばあった。

 またこのときから私は心理の背後にある情というのを感じはじめ、神の道理よりも神の愛を探すようになった。はたして神は愛なのであろうか?

 特に神を肯定する限り、人間の堕落を認めざるを得ないが、人間が堕落したのが“自由”が与えられたためであるとするならば、私は、神は愛の神ではあり得ないという結論に到達し、祈るときにも、どうしても神に対する理性的批判が反発の念が湧きあがってきた。

 ところが、それから1年6ヶ月、1963年9月中旬の朝、新道系の霊的教団で修道していた私は、その日に限って髪の前に今日もぬかづいているのは老人達であり、私以外に青年と言えば、頭がおかしいので治してもらいたいと連れてこられた青年が居るばかりで、五体満足で頭のある者は皆、それのことのみで忙しくしている。「神様が居たとすれば神様は可哀想な方だなあ」と思いつつ、しかし何よりも宗教という形態を通して神につながり得る道を残して下さったということに対する感謝の念と、何よりも素朴で素直であることの尊さを感じていた。

 その次の瞬間、釈尊の80年の生涯が一つの絵巻物のように現れ、ジーンとこみあげる心情とともに、私もそのような一生を歩みたいなあと思った。すると級に自らの意識だけが自身から離れて超スピードで上がってゆき、ただ光の大海原、空気がキラキラと銀白色に輝くような世界に意識があり、同時に肉身はと考えて見るにその意識もある。

 どれくらいの時間がたったのかは知れない。その間いろいろな幻を見、神の愛想のものを霊的に実感した。私は意識的に肉身に自らの霊的意識を戻した。目を開けるとあまりの輝きに驚いた。そこの道主に導いてくださったことを心からお礼を言うと、「それはキリスト教で入神現象というものだ。良い体験をした」と言ってくださった。

 神が愛であることを全身で感じた私は、神がいるのになぜ世の人々は無関心であるのか不思議でならなかったし、科学時代にある今日は科学的な方法で神の実在を証明しなければならないと感じ誰がやるかわからない、又、私などできるかどうかその能力を考えれば心もとないが、ともかくやらねばならないと考え、その方法は素粒子論の究極と宇宙科学の最先端を誰よりも深く究明して神を究明することだと、私は漠然として思っていたのであるが、今思えばそのような方法で神の実在証明は永久に不可能であるし、私自身のそこに虚栄心が働いていたことを見出し得る。

 入神現象の体験から三ヶ月後の12月、私は「統一原理」と出会った。そのとき受けた講義は黒板の文字と語る講師の言葉の響きが一体となって光を発して私の心に飛び込み、その度に心霊がぴりぴりと震えるのを感じた。「心の琴線にふれる」とは、このことを言うのだと思った。心霊的のみならず知性的にも神が愛であり、最高の理想の持ち主であるならばそうあらざるを得ない、と納得できる事柄ばかりであった。

 統一原理を聴講して私の一番嬉しかったのは神の実在を無神論者であろうと、誰であろうと弁明し得る自信を得たことである。私の生涯かけてもやらなければならないと感じていたことを既に成した人が居たということを知り、これは誰がなろうと良いのであって、私の使命はこれを伝えることにあると悟った。

 本当に良いもの貴い宝であるならば、人にも与え、見せたいのが人の良心の発露であろう。まして3年8ヶ月の真摯な求道生活を通して見出した宝であるが故に、誰よりも愛する人々に与えてあげたいと思う。

 早稲田3万4千の学友の中で私と同じように、類は私以上に真実を求めている友が居るに違いない。「真なる人に会いたい、真なる人が恋しい」という本心の叫び声であった。草の根を分けても探そう、必ず居るはずだという自信が沸沸と胸にこみ上げて来、勇気が湧いてくるのであった。

 頭から神を否定し、宗教をののしる学友に会うと「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らくは彼らはそれを足で踏みつけ、向き直ってあなた方にかみつくであろう。」(マタイ7・6)の聖句を思い浮かべることもあった。左翼学生運動をしている学生ともよく話し合った。いろいろ現象的問題を討議して行けば、いかなる理想を描こうとも、それに対して今自分は何をしているのかというその人の生き方の問題となって来、その人たちの理想と現実の生活とのギャップ、偽善と虚栄の姿が照らし出され、「君の生き方がうらやましい」と言ってくれることが多かった。結局最後は神があるかないかの客観的問題・科学的論理以前の、神を信じることが好きか嫌いかの感情問題であることが分かる。

 私は誰とでも話す用意はあり、つっこんで話せば分かり合えるのだが、時間がない。春咲く花もあれば秋咲く花もるように、人には時があり、そのときまで待つことが必要であり、時ならざる人にはその人の花咲き実を実らせるいつかの日のために、その人の心の雑草を抜き、肥料をやり、み言の種子をそっと播いておこうと思った。そして既に熟し、触れるならば落ちん人と時来れる人に会うことをまず求めた。大学入学当時、丁度ケネディが米大統領の時代で彼の就任演説の一節「Ask not what your country will do for you=ask what you can do for your country」という言葉は私の当時の心境にピッタリであったことを憶えている。16歳までは薬と医者に主管され、いつも死の恐怖にさらされて来たが、先ほど述べた内的転換の一時を通して、薬よりも自らの内的生命に委ねることを教えられた。そして大学入試まで外に頼る限り、生存競争、心に立つ波風は止まないものであることを悟り、大学等に頼る(主管される、身を委ねる)のではなく、よりそれの内なる神のみに頼ることを教えられた。      大脇準一郎


全体性の回復を  

夏の終わりも近いこの8月の末、志を同じくするクリスチャン教授が合宿し、教育・防衛・科学・文明などあらゆる角度から宗教との接点を考えた。

他の学会と比べて、信仰という立ち返るべき原点があることは、討議することが解決への糸口“希望”を与えてくれる。そして祈りと賛美に包まれたセミナーは、改めて信仰者であることの喜びと、お互いの団結心を高めてくれたこれらの討議の中から二、三の点を紹介しよう。

「教育と宗教」の問題点は、戦後教育の中から宗教・道徳を分離してしまった教育行政、とくに教育基本法にあること、このため、戦後の教育は単なる技術・知識の伝達に終わり、徳育の面が等閑されていること、そこに擬似宗教・批判道徳としてのマルクス主義が浸透して、教育問題をさらに複雑化させていることが指摘された。

また「防衛と宗教」のセッションにおいて、防衛大学に勤務される一教授から、「毎年クリスマスには自分で鶏を屠って食べることにしている」。との言葉に秘められた一信仰者としての生活態度に敬服した。先生は生活で防衛と宗教との接点の問題を克服しておられるのだ。というのは、「平和研究者」たちの偽善性があまりにも目につくからである。

彼らは防衛という、殺すか殺されるかという泥臭い仕事は他の人にやらせておいて、自分はそれとは全く関係のない平和愛好者のごとく気取っている。われわれはもっと醜い現実も、自分自身の問題として悔い改める全体性回復の信仰が必要であろう。

「科学と宗教」のセッションでは、JTウィルソン氏(トロント大学長)の「大学の科学者と社会」というレポートが紹介された。氏は科学者をはじめ、宗教家、実業家、革命家、軍人の性格を信念、単純化、道具に対する愛好心、職業的な階級意識、制度化の弊害の五つの性向に分けてみごとに比較対照したものである。その結論は科学者も実業家も過去の軍人や宗教家が失敗した道、部分を全体だと思う錯覚に陥らぬよう自分と対等の価値を相手にも認め、他の分野の人びとの意見も聞くべきだというのである。

今日、宗教人のおごりは大分かげってきたようだが、宗教人はまず第一に神の前に謙虚になること(自らを神としないこと)、そして各宗派の意見に耳を傾けるのみならず、宗教以外のあらゆる分野からの英知を結集し、現代文明の危機克服に敢然と立ち向かうべきであると思う。     「宗教正論」大脇準一郎


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創価の生命哲学 ためして実証 人生勝利劇 出版打ち合せ 
 
東中野ロータスステージ6F   2016220日 午後2時より約2時間  出席者 市河会長 萩原、桑島 大脇 武内 

(結論としての感想です この末尾にも同様のものを附しました)

以下 紙に書いてみて頂きます 問題はいろいろとでましたが会話の中なので 問いかけと応える側が対応していない箇所もあります それは字にして読みながら対応関係として完成させたいと思います。

会話の中に登場したおもなテーマ  
仏法とは何か  生命とは何か  一念三千  十界互具 菩薩と菩薩界 仏界  森羅万象と三世間  即身成仏  西欧の合理主義 経済学がどれだけ有効か

 市河 懇談会の雰囲気でやりましょう

注・・最初の部分は雑談の雰囲気でして「観念論と総論・各論」が現実世界に投影されているかの問題提起として有効でした そこで大脇さんの発言の一部を導入部分としました 

 大脇 共産党 憲法論 戦争法という表現?

市河 観念論でしょう それは 

大脇 観念論も必要なことはあります。観念論と現実の間の・・

市河 観念論は総論でしょ 総論には反対はない 反対するなら分裂症ですよ

   平和、安全なまちづくり 反対する人はいない。総論だからみんな賛成する しかしそれを具体化する段階では、具体化して現実のものにするには、精神力 創造力 体力など人間の持つあらゆる能力を上げての格闘をする気合いで取り組まないと・・観念論を具体化することはできない。

人間力が必要で、教育論にはなるが 創造力とは価値を生み出す力ですよ。創造力はそれを生み出す人間力がいる。人間力を発揮するには客観世界に潜在化している価値もあるがまず自分にまず自分に価値の創造力を、自分に潜在化している能力を引き出す方法はないか ?

今の教育は人間力を作るよりは、知識だけを教えたらそれでいいとしている。この知識をどう使うか教える先生がいなくなって、特に小中学校までは偏差値に左右されている。あれは試験にうかればいいのだろ それで教育は終りそうすると教育というけれど今度は知識を悪用するなり例えば優秀な科学者として原爆をつくったりして、それはそれで立派な成果を上げたのか? ゆうだろうね でも人類の生存がかかっている。なんで科学者はそういうこと教えられていない。

   偏差値の高い奴は振り込め詐欺など絶対ないといえるかね。先生は偏差値高い奴は悪いことしないと言うだろうね。刑法やいろんな法律調べておかないと振り込め詐欺などすぐつかまってしまうよ。頭の悪いヤツではなく相当偏差値の高いやつが悪いことするんだ。

桑島 偏差値高く体力あるのが?

市河 悪いと言うことするには体力も気力も勇気もいるんだ。

桑島 やつらは事務所なども転々として

市河 そう それは知恵を働かせているんですよ。あいつは知恵がないから振り込め詐欺をやるのではない。

一般論としては人間は努力と信念が人生を切り開くには必要だと。でも努力と信念でやればやるほど価値を創造しないで悪を作り出しているではないか。悪を作り出して逃道まで準備する連中は、あれはボンクラではできないよ。

大脇 その問題は 現時点で抱えている問題、文明的な問題として重要なもんだいです。僕は サイエンス∩バリューという991事実と価値 世界中で会議でやって

市河 事実を仏法的には事 公益法人 株式会社は取締役だが 公益法人では理事 でしょ。役員 NPOでは理事 天台の哲学からきた、理 は理念 理念は観念論、事は観念・理念を実現化すること。理事さんはNPOには理念があるでしょ その理念を実現するのが理事なんだ。間違いだと言うてくれれば、

大脇 学校法人も理事長です

市河 国民ならそんなこと誰でも応えられると思うのに誰も説明できない。マンションの管理組合も理事長という。理の一念三千と事の一念三千からきている。漢字にはもともと梵語 漢字文化で仏教用語

大脇 それも重要だが 人間とは何か を・・人間とはホモサピエンス 知的存在として一般的な捉え方

   それを批判したんですね。人間とは何か、ソクラテス以来はっきりしていない

市河 そうだな それは生命とは何かの定義がなされていいからではないか。生命とは何か 仏法ではその説明がある。

   批判があったらどうぞ。大脇さんは人間とは何か どう考えているか あるいは畜生とは何か

大脇 動物と人間の違いのことですね

市河 十界互具 地獄~仏界 五番目が人界です

なんで人間が生まれてきたかというと突然変異を繰り返して申から人間へと・環境が人間を 一番最初に戸田城聖から聞いた。

武内 いまの部分が 会長のように深い理解のある方と日本人のほとんど全部が一念三千といわれてもわかる人間はいない。人間とは何か わからない

市河 人間には十界がある。人間が悪いことしだしたらライオンよりも悪い ライオンは人間一人か二人食べたらそこで止まる 人間はどうですか 戦争で一人か二人殺したら満足するの?????

武内 人間は戦うときは同じ種の人間を殺しますね

市河 それは猛獣よりも悪い。人間は善を積めば最高の善に到達できる。悪になるとケダモノとたので立派な同じ

ヤマタノオロチが娘をさらう、人間は仏法で見たらブレが大きいという ブレの大きい動物と言われています。

大脇 御釈迦さんのいうように善も悪も自分の念の中にあるわけですね。

市河 内面世界 念 の中だけでなく 外面世界にもある。賢明な思考それは普賢菩薩 あまねく かしこく その知識を使う力を知恵という 文殊 という 三人いれば文殊の知恵 一人の人間のことではない、千恵のことです。

大脇 人間性ということは知恵のこと モラル性 道徳 良心 とか倫理性もう一つは 先ほどの慈悲とか゜愛との問題にかかわりますね、この両者の違い、慈悲 恵 と悲しむなんで悲しいのか この世の中に四苦八苦の民の苦しみが映るから悲しい、

市河 四苦八苦とはどこからきているか、 それは仏教用語

大脇 十二因縁の・・生死病死

市河 愛別離苦

大脇 悲しむ はかわいそうな人への思いやりに心を寄せる それを慈悲と言いますね。

市河 愛は どちらかというと感情 慈悲は価値観がないと慈悲と言えない。いいうちに生まれて母が育ててだめな人間になったでしょ  可愛いから叱ったことない 慈悲には悪いことしたら叱ること 含む 価値観が入る その価値観は利他

慈悲は厳しく教育しなければならんいことを含む いじめと混同されてはいけないバランスしっかり。母が厳しかったので立派な人間になった。愛の中には甘やかすことはないか 何でも買ってやるで育てると・・。

大脇 溺愛 盲愛盲目的愛というがキリスト教としては愛とは本質的には 敵をも愛の対象とする。

市河 だんだんとそうなると慈悲に近くなるのではないか。

大脇 そうですね そういう愛は広くて・・

市河 恋愛も愛です

大脇 親子の会い 夫婦の愛 

市河 そこに価値観が入り  慈悲に近い 仏法で言う慈悲はキリスト教の愛よりも範囲も広いし突きつめていくと愛の中には感情が中心にある。キリスト教は 創価学会では初期段階では外道といいましたが いまは外道ではないとしている。世界宗教に展開するに当たり日蓮の御遺文書にも外道というてはならぬと書いてある。現実に書いてある。後で見せます。

キリスト教は外道ではなく 仏教の一部分です。それはねフィクションもいっぱいある ウソも方便というのはそういう意味です 人みとて法を説けというでしょう。2149法然などが説いた死んだら西へ十万億土、仏国土がある。これも納得させる一つの手段 この手段が効いたのも天動説の時代だから効いた。いまは西へ行けば東から戻ってくる。昔はこの譬えに説得力があった。地球が平っタイというときに西の方へと言うた いまはそんなことしたら、戻ってきますよ。それは方便ですよ

大脇 本には多くの読者がいるから 一般的には天動説が誤りで地動説が正しいと言うてきたアインシュタイン特殊相対性理論は電車が動くとき・・

市河 みんながそこまで知らない時に地球が丸いと言うとどうなると思うか ガリレオもつかまって刑務所にいれられる。で、広まらない。お日様をよく見ろ 東から上がって・・どこが 地球が動いているのだ このバカヤローその言い方やめろ やめなければみんなを混乱させているじゃないか。だから ・・言わ

大脇 直線で考えていたものを平面で また平面で考えていたものは立体でとアインシュタインの考えもどっちもね、わかるような説明です。立場によってそう見えるのであって・・

市河 いずれにしてもキリスト教は 西洋の近代合理主義が登場して以来、2400 キリスト教は近代合理主義を指導する力を失った。つまり賞味期限が切れた。宗教にはみんな賞味期限がある

大脇 そのことちょっと説明したい。高い次元で見ると二次元三次元と次元の拡張をすれば運動する物体についての認識が正確になる。次元の取り方 である一定の条件の下ではそのようにも考えられるということかも。天動説も地動説もある一定の条件の下では正しいというのが特殊相対性理論なんです。古い考えだと切り捨てるのではなくそういう人達を説得するにはそこまで含めて考えることにしています。

萩原 一つの本を作るのが目的 どういう本を作るのかという議論をしないと、話しても延々と

武内 そうです 会長との話で科学が人間の幸福にどれだけ寄与したか 科学と宗教とどっちが人間の生活に重要かと

市河 価値の問題が入るね 

武内 科学と宗教という章をつくり、そこにいまのような会長の考え

市河 問題がまだ別にもある 宗教とは何か

武内 御尤もですが 萩原さんは この本の読者としてどんな層を対象とするかも含んでいるように思います。私は会長に こんな問題についてある程度の基礎知識のある層なのか、全然わかっていない層なのかを尋ねました、

市河 知らない人間も対象にしたい

武内 そうすると「一念三千」も説明しないと読者にはわかりません。十界互具も・・

市河 その視点から見るとこうなる、ということで2634 

武内 萩原さん そういう部分を沢山いれた方がいいと思いますが・・

市河 それは生命とは何か ですね 一番大事なことを言っておきますが 一念三千の生命の範囲はね あの いいですか 自分たちの内面世界を仏法では一念三千という。五音世間とは何かという把握の仕方は・・枝葉を出していきますと、心理学や医学や解剖学と医学の中でも内科とか耳鼻科とわかれてくる。仏法ですはね 生命とは何かというと内面世界から分かれてきたのは何かと問えばわかると思う。もう一つ 生命とは何かというとこないだもいったように環境社会がある。環境社会の中で完全に二つに分けられます。三つ四つあったら教えて下さい。一つは社会環境、もう一つは自然環境です。大きく分けたら二つしかない。

大脇 もう一つ 精神世界 心の世界があるでしょう。

市河 いや 生命とは何か、あとでいいますが 環境社会という言葉はないですよ、一念三千には三世間と三つの世間があって その中の 衆生世間 は今でいえば社会学でしょう 人間の集まりだから・・。衆生世間の中には政治や大きく分けると経済、教育も、また文化が入ります。それから地域の文化も出てきますね。衆生世間の中にですね。ところが自分だけで考えていたが社会学はヨーロッパから入ってきたように習ったもんだから、ところが仏法調べたら衆生世間というのが釈尊の教えを纏めたら五、六世紀にもう衆生世間というのが天台大師からでています。それが西洋に行って社会学に化けたんじゃないの。

萩原 なんか、いままで聞いてますと 日蓮の、仏教が 我々の社会にこれだけ溶け込んでいると言う解説ですよね それが会長の言うお話ですね。それを纏めるのは本になると思う キリストとの比較では 本にならないと思う、

市河 いや 本になりますよ キリスト教は、仏教の影響を受けて部分だけが伝わっている。仏教で言う十界論はいくつ伝わっているんだ、地獄と天国、これは十界論にある、二つしか伝わっていない。そのころは今のようなラジオもないしマスコミもないしちょっとだけ書いたものだけ持っていったんだろうが。

武内 萩原さん 会長の考えは 創価の生命哲学が世界宗教になる というのが最終目標だろうと思う。そのために 世界宗教、キリスト教と イスラム教 二つの世界宗教がある時点において仏教が、その二つを包括するほどのスケールをもったものと言いたい。いまキリスト教と仏教について話されているが、その部分は日本の仏教 創価の生命哲学の立場を説明するという一章を設けて全体の中に納まると思う 萩原さんの言う気持ちもよくわかる 範囲が広くなりすぎている 

萩原 そうすると 切って言っても膨大な本になる

市河 それを易しく書く それがムツカシイ。

萩原 ムツカシイですね 面白いのは会長の話で面白いのは具体的 仏法が具体的に聞けるということ・・

武内 いま録音しているが 捨てなければならないところもある。で わからない人間が聞いてハッタとひざを叩いてわかったというおわれるような例えが会長から沢山出てくるんです。

市河 ソクラテスの時代にこの世の中は何か 地水火風の四つ 仏法の一つが欠けている。いまは違いますよ 化け学の化学では元素が内100を越えましたね 中学の時は90ぐらいしかなかったんだ。元素と化合物、その元素が仏法では地水火風の他に「空」 その欠けているものは・・西洋哲学では空という概念が今でもないんですよ。空とは何ですか ソラと書く、

武内 西洋哲学で自分の知識を構成してきた人間には 説得するのがムツカシイ。部分と思う

市河 空とは有と無の間にでてくる。空とは生命の本質に入ってくる。風のカゼは空気の動きを言う。水と風とそれから火と地か 空のあるとないとはエライ違う。十界互具になってくる いまはなししてるときは 地獄の苦しみはないよねどちらかというと「しょうもんかい」になる 声をきく しょうもん というのは人間の向上心 えんかく ・・

リンゴの落ちるのを見て引力発見したニュートン、物質に引き合う引力から深く入っていく 縁に触れて いろんなものの本質に・・しかし菩薩ではない 菩薩は利他ですから・め食うと言うのは何度もいうように有と無の中間で例えば誰でも 夫婦げんかするでしょちょっとしたことで 修羅場というでしょ 修羅界というえのはあるでしょそれは 今は修羅ではない でも亡くなったのではない 縁に触れるとまたでてくる 十界互具は出たり入ったりする

萩原 池田弥三郎的の本の編集すると言葉を羅列して 今の現実にその言葉が即しているというか、そういう本も面白いですね、仏教がいかに 知らない間に我々の生活に入って 修羅場とか 池田弥三郎が

市河 死んだらどうなるか 唯物論は無になったと キリスト教は精神だけはのこっているというが どこにのこっているんだろうか ところが仏法から行けば宇宙の生命の中に入り込んで無と有の中間で

   中間概念と言わない どっちかというと主体概念 学会はいる前は科学的社会主義 理屈っぽいので小学校の社宅のおじちゃんが戸田先生のところへ行けと・・そこで 生命とは何かを忘れたら仏法は迷路に入る、これ話しましたよね。同時に生命とは何かを問うときに世界には二つの流れがあるという 唯物論と唯心論の二つ。唯物論はどちらかというと科学発達で現代合理主義の根幹になっている、唯心論はキリスト教とか、方便の仏教がそれです。この二つの矛盾 昭和30年の五月か六月ごろか 唯物論の大きな矛盾を言うと銀行から例えば カネを借りたとしますか長期で 二、三年後で はらえなくなったとしたら 払わないと理由のいかんにかかわらず銀行は払え 払わなければ競売するというだろう。そのときこういえばいい 生物の新陳代謝を知っているか これは今の細胞が小便になったり垢になったりして消える 植物もそうだが新陳代謝しているから あのとき 借金したとき 借用証書に署名したときの私は消えてなくなっているよ 今の私は あの時から後で ご飯とおかずでできているんだ。どうして私が払わなければいけないんだと言えばいいんだ 笑い そうすると 魂が今もあのときも一緒だと言うかもしれんが魂はもっと変化するんだ。男も女も魂は結婚するときの魂と離婚するときの魂は全然違うんじゃないの 笑い 魂もこれが私の魂だと特定できない、戦争中は天皇陛下の為というとみんな手を挙げた。戦後10ネンして 今でも天皇のために命捧げるかというと誰もいない。どっちの魂が本物だといわれても・・

武内 いまの会長の 結婚するとき 倦怠期の心 どっちが本当の心かという問いかけ 非常にわかりやすい そういうところを間に入れながら それは十界互具のどの段階なのか どこの段階から動いてどこの段階にかわたのかという説明に使いたい。読みやすくなる

市河 入れ替わってしまって どうかすると人相も変わっている。もとの写真とちがう 生まれたばかりの赤ちゃん10人並べて写真にとっておいて30年たったらどれが自分の赤ん坊かというと わからんよね それだけかわっているんだ それでもなおかつ そのときの借金を私が払うのはだれなのか それは仏法にあるんですよ 「我の永遠」という。俺とは 私とは それを我という。この我の永遠を西洋哲学ではない 仏法にある それは法身如来という。

   唯物論を「応身如来」という形の見える・・。これは変化体。法身如来も変化体 その統一体として我というものが根底にある。我が同じだから、10年前の借金も返すんだ。その我というのは例えば結婚して苗字が変わっても国籍が変わっても 来世に生まれ変わって 男か 女かもわからないが我はかわらないからね これを法身如来という。法身如来とは何かが西洋哲学には完全に抜けている。だから生命が何かということは分からない 生命がわからないとは自分が何かということは分からないこれを無明という インテリのうちに仏法にはいれない。

武内 生命とは 我 

市河 そう それに法身如来

武内 生命=我=法身如来ですか

市河 第三文明とは何か 第一の文明は唯心論 第二は唯物論 生物は物質からできているという これに対抗して色心不二、不二が我 なんだ。

武内 色と心が同じことだと言う意味で不二というかと・・

市河 ですから肉体と心は我の裏表になる 本見ると裏と表あるね 生命の主体は法身如来で永遠なんだ、来世は苗字も国籍も性別も違っても肝心なのがぬけているが 池田大作が言うが西洋の実存哲学が我なんですね。 実存哲学 われ思う我あり 我のことでしょうね

武内 萩原さんの提案に即していたら仏教用語のコンメンタール そういうことやらなければ・・

   第一に 仏教は生命の法である なぜなら仏教は生命について完璧に解説しているからである。この一行の文章をいろんな角度から見てのコンメンタールの形式をとった本になるような気がします

我々日本人 日本語使っていますが 会長の一念三千が分らない。十界互具と言われてもわからない。

市河 私が財産ができたのも 仏法の生命哲学を生活に活用してきたからできたんだよね

武内 そこに原因結果の関係があるというのが会長の主張ですね

市河 そこに価値の創造 創造力がある。もう一つあるんです 同じ行動やっても福運ともいうし仏法擁護では功徳と言う。功徳の中には諸天善神の働きが出る。これがみんなにわからない

武内 諸天善神と言われて漢字で書ける日本人はかなり少ないと思います。百人に聞きました で聞いてみたら書けない人が多い

市河 一般の宗教では御利益という言葉で表していますねあの御利益は会計学では利益と言いますね あれは仏教用語からきています 巣鴨の

萩原 ほんとに長い間で

市河 日蓮から言われたね 闇夜に満月 明るい そういう役割がある しかし太陽が出たら満月でも役に立たない

   日蓮仏法が出る前には役に立った 森羅万象は何か 大生命哲学がでてきたらね 賞味期限切れてしまう。それは釈迦が言うた。 おもしろいね 宗教に賞味期限があるなんて

萩原 この世に永遠なんてないんですね 

市河 根本の法だけは永遠なんだ 価値が変化するから功徳が変わったいろんな価値で、でてくる。

大脇 潜在的に変化しないものはある。変化する側面変化しない側面の両がある。色心不二と同じでね。

市河 そういみで創価学会も変化している いまは折伏でがんがんやらないよ いまそれやれば毒になる でも昔私が入った時は相当やってそれが宣伝になった 創価学会という名前は知れ渡った。

萩原 いまの一般的にはがんがんやっときの わけのわからないのにガンガンやったときの印象が残っている。創価学会と言うと・・

武内 戦闘的集団とみられている。

市河 あのときはあれが必要だった それで名前がばーっとひろがった。笑い

萩原 それで 何百万という人間が入会したんですからね

武内 藤原弘達がいろいろと書いたことも、ある意味で創価学会の宣伝として・・ ゛しやっていけと・・

市河 池田大作はこう言ってます 川の流れも源流を訪ねれば、ナイヤガラの滝もあるしエジプトのナイルも奥の方にいけば滝が激しいんだよね 舌に行くと緩やかになった よするに関心引くことが必要だった。世界宗教になっていけば御遺文書にありますが、他宗を邪宗だと言うてはいけないと。日本では日蓮も

萩原 迫害されましたね

市河 ジャチアッコクでは・・西洋に行くとホトケといっても知らない。日本ではいつのまにかホトケサマ お葬式になった。ムチアッコク そういうときはばしばしやっていけと・・・・

武内 会長の出版計画に歯ですね 素案3に世間では死んだ人間を仏になったと言う。では仏教ではホトケとは何を指して言うか 

市河 笑い 冗談じゃない あれくらいの迷信はないよ 笑い

武内 でもみんなそう思っていますよ また あの人は仏のようにいい人だ ともいいますね ある意味では会長の言う意味のホトケの使い方もあります

市河 ホトケとはわからないから 断定できないけどホトケとは価値の創造力だと。 不正とたたかわなければならなかった 格闘の社会だった。

武内 仏界が価値の想像力ですか 

市河 仏界を使えばどういうふうになるかというと 修羅もいいんだよ 争いの場でしょ 修羅は不正を叩き潰すんだ。それは修羅なんだ。それは善なんだ、餓鬼は不足を感じる 自分自身の向上心を作る。主体性が必要。地獄 餓鬼などの知らないホトケがいたら人の苦しみがわからない。地獄を知らないホトケ 人の苦しみが分らない。仏界は全部価値を創造する力に代わる。必要に応じて。

武内 会長は 宗教は世捨て人を対象にしないと現実世界でおカネをつかってものを得るという経済の世界にも宗教は役に立つのだと言うことでしたね。とすると 経済の世界はモノの取り合いだ。公平とは何か についても

市河 経済とは 経世済民から いい言葉 でも格差が手出てきたら経世済民してないなにが原因かというと私から見てですよ。どんなに資産家になってもがつがつとしているのがいっぱいいるよ。笑い 貧乏人よりがつがつしているよ。金力があるからがつがつが凄いんですよ。餓鬼界で人間革命をしないで、なんのために儲けるかそれすら考えないで、ヘッジファンドなんかそうではないか。儲けさえすればいいのかね 笑い

桑島 そうだと思います 

武内 貨幣価値が下がるから

市河 おカネとは何か も・・公明新聞の論説欠いていた時に・ろおカネとは数字ですよ お札じゃないよ 

武内 前回フォーラムで井関教授がおカネはデジタル化して・・

市河 法律では債権債務 で債務とは何か 債権は槍や刀より怖いんだよ 共生執行して雪で投資しても殺人になるの

武内 ローマ法 債務者の体を切り刻んでいいと そこで会長に仏教経済学を・・

市河 台風は自然に起こってくるが戦争は人間が始めるから戦争になるんだ。生命が争いを作り出すんじゃないの

   おカネも人間が作ったんでしょ 動物にはおカネはないんですね おカネは人間が作った文化でしょ 原点に返ってみんなを幸せにするのが 幸せになろうとするためのおカネの使い方もあっていいんじゃない?

武内 このへんの発言が受けると思います 活字に起こして 皆さんの意見をここにつなぎたい。

市河 大脇さん、佐藤敬一さんのあれは30万社と思っていたが127万社も救われている。

大脇 モラトリアム法ですか

市河 あれを公明党 と自公政権は潰してきたんだよね 反省してないから怒ってるんだ。私に近づくな 市河に近づくとえらい重荷を・・とひろまった 笑い 笑い ・・後で振り返ってみるとモラトリアム法も公明党が賛成していたら

武内 市場から撤退しないで済んだ127万社 それは法人課税に応じ従業員とその家族が生活でき、個人消費の低下に歯止めとなった。焦げ付きが五兆7千億は回収できている、というのが佐藤敬一さんのいいたいこと。

市河 そうでしょ 私も含めて、私も破産されたからね。  それで237千万円 確実にとられたから それでも立ち上がったんだね 諸天善神働き ぼんぼんでたんだ。こんどの本に 本尊とは何か 書こうと思う あんたたち誰も質問しない。

武内 本尊というたら一番大切なもの そういう感覚しかない。で、それだけでわかってるつもりになっているので質問もしないのでしょう

市河 本尊とは生命の構造が書いてある ホトケの 本仏の生命の構造が書いてある。それの機能と構造の二つ。それが、それがね どう対応するかと仏の生命の機能 機能ということはあらゆるものを作るどんな変化にも対応できる多様性だよ。それの機能それが本尊にあるんじゃないんだ。人の内面の中にあることを忘れるな、と日蓮が、・・御遺文書に書いてある。日蓮の御遺文に本尊は決して他に求めてはいけないよと。私の内面の本尊を使えばおカネがどんどん湧いてくるんじゃない 作り出してくれるんだ。必要だから。本尊に何が書いてあるか、お見せしてもいいんだが、仏壇の中にあるんじゃなく潜在化して意識しないかもしれないけど力の構造と機能はこういうもんだ、日蓮と同じ内面の構造は同じとと日蓮は言っておる。

武内 十界互具と本仏と本尊と三つは同じものですか

市河 地獄の苦しみは結局功徳を実証するための材料になる 餓鬼それも善を

武内 十界互具は心の中にある

市河 生命の中といわなければならない。心は声明の中の三分の一だから。

武内 そのへんからわからなくなります。

市河 わからなくならないよ。我というのは赤ちゃんの時から変わらない。心ですか 肉体は変わっているでしょ 人相も変わっている。

武内 戦争が終わった時、天皇陛下万歳と誰も言わなくなった。心も変わっているのではないか

市河 心は生命の一部分でしょ

武内 心と我は別である、と

市河 我の一面が心だ どっちを表にしてもいいけど、本尊については心の主となるも自分の心に従ってはいけない。御遺文書に書いてある。

武内 ぼんくらにはムツカシイ人生訓です。

市河 仏界をどう発動させるかが大事なことで、自分の心の仏界でない者を発動させたらちょうど イスラム過激派のようになる あれはね 信念があるんですよ、度胸のない人はあんなことできんよ 勇気があるんですよ、頭もいいんだ。頭の悪いのがあんな自爆テロやるんでしょうかね。情報もとって一番結果の大きいところに狙いを絞るでしょ。あれは努力してるんですか。笑い

桑島 情報網も発達しているし 努力もしています

市河 それからいろいろと作戦組んで計画立てているでしょ。

桑島 資金もきちんと

市河 ですから努力と信念持っていても悪い方に行くとイスラム過激派のテロになっていくんです。

武内 会長 日本も特攻隊で突っ込め 突っ込む人間はそういう心はなかったけれども命令する人間が間違った価値観を持っていたんでしょうか。間違いではなかったという右翼の発言もありますが・・・・

市河 池田先生から、生命の我というのがでてくる。付け加えると生命の主体 我だけは変わらないんだ。頭が交通事故で植物人間になるときがあるんだろ。それでもやつと回復したときは 前の自分でないの。それとも別人に?前の自分と同じだろ、我は。

萩原 我は一緒でしょ

市河 我は一緒ですよ我は心ですか 我は生命主体なんだ。諸天善神がどんどん動き出すんだ。ようするに、僕に言わせたら、社会も衆生世間もそれから自然界も含めて一念三千になっているんですそうすると、それが動いてくると言うことは生命体だから動き出す。ほら あんたがたも、衆生世間だから いろいろ話すると対応が出てくるじゃないですか。11004  生命体でない無機物あの、唯物論での考え方だったら諸天が動くはずがない。私にはどんどんいま言った林原と同じような破産が来た全部乗り切ってきた それはむ内面からの創造力そとからの対応力、語遺文書にこう無書いてあります。諸天善神というのは例えば籠の中の鳥が鳴けば外を飛ぶ鳥が呼ばれて集まってくるんだ と向例えている。諸天善神が働きについて日蓮はそういっておる。

武内 会長、こんどの出版計画で萩原さんも気にしているのはどういう読者を対象にしているか、私は前の牧口価値論の第一巻みましたら 牧口価値論と仏法との関係が分らなかったけれども この本で理解ができた、という感想がありました。

市河 もつとわかるでしょう しかも価値の創造にはね、大変な闘争がある。自然に創造力は出るもんではない。発想があればそれを実現するとき、みな相当な生命力と知恵が入ります。そして各論に入っていかなければならせない。

武内 牧口価値論と日蓮仏法の関係というところが わからない 会長もそこがわかるまで10年かかったと牧口価値論にかいてありましたね。そこをわかるように

市河 価値論で創造力と言うと、簡単に考えると格闘しないと、価値はできません。本当の価値は。

武内 そういうところを十分やっていかないと・・・・

市河 既存の問題との戦いになります。既存の価値観とか既存の法 社会制度 法律との戦いですよ。その法律も極端に言えば法律を知らないやつは俺の弟子ではないと日蓮は言っている。無世間の法 その法はしっていなければならない。その世間の法の他にぶっぽうというものはないんだと。世間に矛盾があればプラス面で見れば世間の法を活用して価値を作る。世間の奉仕云うのは ちょっともとに窓します 世間には二つあります。慣習法と良識というやつね それからもう一つは権力機構としての体制のきまり、これといいところはそれを活用して、みんなのために活用する。悪いところは、その中に入って変えていく それが、政治なんだ。だから僕から見れば政教分離というあんなおかしいものはなぜおかしいかというと政教分離しろと言うことは、創価思想と日蓮仏法がですね社会の在り方から何もかも統括している哲学があるとしたら、政治家というのは、政教分離しろとなったら思想哲学を持った人は絶対に政治家になれなくなる 政治家とは頭の中の真っ白な 空っぽの人間がやるんだと大きな声で聞こえてくるんだ。おかしいんじゃないか 笑い 

桑島 政教分離は圧力断定の排除と思うんですね

市河 権力というのは実力ではない ゴンリキ 仮の力といえばいいんだ。権とはゴン 仮の力 それを実力と間違える人ばかりだ。それの証拠がある。総理大臣を退いてしまうと どうなるか 今野田前首相は何ができるの? 衆議院の解散権もないんだろ。一人間なのか。野田佳彦氏もこんど衆議院議員でなくなったら政治家だから市河政彦なんか足元へも及ばんほどの大きな仕事ができるんでしょうね。だって日本を統括してきたんだから総理大臣やめても全部自分の実力だからというのだろうか

桑島 できないです。

市河 陸に上がったカッパと同じか

桑島 同じです  

市河 野田氏はそれを知ってるのだろうか

桑島 落選して初めて気づくんではないでしょうか

市河 萩原さんのお宅の法律で戦っているけど あれを立てたのは奥さんのおばあちゃん 平成の二年ぐらい 平成元年でしょ。そのときは完全にバブルの真っ最中とバブル崩壊と重なっているときですねそのときにある銀行がお宅に融資したんですね それは逆に言うと あのアンタの奥さんのお母さんは政府の意向に従って、そしてまた政府に騙されて、銀行からおカネかりた そのごバブルが終って平成二年か三年からどかーっと下がったから。土地の値段を下げてきたのはアンタの姓ですか、政府の姓ですか。

萩原 笑い 私にはそんな力はないですからね 笑い

市河 それでは 被害者であることは意識してますか、

萩原 意識してますね 思い出します 土地が一坪370万円  買いに来たときです。

市河 下がったのはあんたのせいた゛と言ってないの 

萩原 笑い 言ってますよ 私のせいだと。

市河 バブルであろうと銀行から言えば あれはバブルでなくて貸してある奴は全部払えとというてるの それは被害者でしょう 政府に対しての被害者であることの奥さんたちはどれくらい認識しているの しかもその被害を解決すると言うのはあんた御主人だからあんたに責任が・・うちの母親の財産潰したのはうちの主人連れ合いだと思っているかもしれない。

萩原 ホントに だけど あれですか 日蓮にですね 日蓮の仏法にいわゆるその自然法じゃなくて 慣習と言おうか・・二つあると言ったでしょ 社会法と・・

市河 環境に二つある

萩原 いや 法律と言おうか 日蓮のなかに教えがありますねその中で自然法

市河 自然法というのは間違われるから・・例えばね 自然法に逆らうと法律も無効になる 

萩原 もう一つあると言いましたね あの 社会で作った法律それはなんというんですか

市河 社会の奴は 慣習法 

萩原 慣習法は・・・・自然法でしょう

市河 借りたものを払わんといけない

萩原 そういうものが日蓮の中にありますか

市河 ありますね

萩原 凄いことですね

市河 なぜかと言うと あのころ おカネはお札じゃなかった時代ですからねおカネというもの自体が人間が作った文化なんのためかというと 便利なためと、もう一つは社会をみんな幸福にするため生み出したのが1人減社会特有のものでサルの世界ではおカネはいらないよだからそれは悪用すると人間を苦しめるためのものになるし全容したら幸せになっていく・・その根本忘れているのが今の経済ではないか、日本の言葉で云うと経世済民 民を救ってない、む西洋 ギリシャ竹中だったかな エコノミクスは共同体の在り方と訳すんだと・・共同体の在り方になったら格差を作っていいわけじゃない そうするとあんたが言ったキリスト教の 何というか 借金者は払えなかったら死ねというのかね 

武内 結局 そういうことです。キリスト教じゃなくてローマ法 ローマ12表法 の第三条には債務者が債務を弁済できない時は債権者は債務者の体を切り刻んでいいのだと書いてあるそうです

市河 とんでもない文化だね

武内 それがナポレオン法典には 所有権絶対 契約中の原則 過失責任の原則 の三原則に引き継がれて現在の資本主義体制の根幹になっています。

市河 日本の文化には契約自由の原則はあるけれど公序良俗に反する契約は無効とすると民法に書いてあるね 書いて無いかね

武内 書いています ただ公序良俗とはなんであるかを決めるのが裁判官。それを聞いてがっかりしました 有利ろょくな学説も判決で引っくり返る。

市河 裁判官も公務員だろ 

萩原 日本では行政庁相手の裁判は 完全に負けていますね

武内 会長はサービサーの制度に改革が必要だと立ち上がっていますね

市河 佐藤さんと話し合ってやろう それで人間の作った文化が文化のなかに債権債務がありますね 実際に使っているのは時間ですよ それから広い次元から見たら上下 四方八方 で東西南北はないんでしょ 地球上の話だけでね自然法であって宇宙にも 人工衛星があっているが上下もないでしょ 時間も時間は宇宙にはないのであってあるのは現象だけだ。なぜかというと 一日は地球の自転を人間が勝手にきめたんでしょ 昔はね丑寅う と12時間だったね 地球の自転が止まったら24時間もないんだねそれとも宇宙に24時間があるのだろうか 時間があるから地球が自転しているのかね 一生懸命 24時間に一回 回転しようとオーもって回転しているのかね 笑い 地球の現象があって時間がある それは人間が作った文化なんだ。今日も二時に集まろうと言って 時間は自然ではなく 文化なんだよね 笑い 季節もそうなんです。季節 上下・・・・自然法というのは例えば 地球が汚れるから法律作ったら どうなるの 憲法にしょんべんした奴は罰するとしたらどうかね 自然法に反すれば憲法だって無効になるんだ 一般の法律は当然自然法に違反できない。年寄が増えると福祉が大変だから歳をとってはいけない としたら無効かね ヨーロッパでは自然法という法律・・

武内 自然法と制定法としたらわかりやすいでしょう

市河 そういう面から言うと自衛権というのも自然法なんだ。殺しに来たやつを殺してはいけないといくら憲法に書いてあっても向うなんだ。安倍晋三は 色いやってるが自衛権は自然法なんでしょ病気もしてはいけないと法律に書いたら病気したら罰則で刑務所へいれるぞ 笑い こんどは自然とは何かというと人間が法人に対して自然人というでしょ自然現象は人間としての自然現象は宇宙の現象を作り出す力ですから戸田は俺たちを小宇宙といいました。御本尊に書いてある 本尊はみんな・・おれたちの内面世界と言うけれどこの中に60兆の細胞が生きている。それにいちいち我と人格与えたらえらい目になる 笑い 病気というが あれは細胞同士が戦争してるんだ ばい菌という細胞と人間の中の抗体とが戦争しているんだ。むだんら小宇宙だ。

武内 そこで集団的自衛権と・・・会長の例えは独創的 そこを切り口として問題を話し合う・・

市河 法人に対して自然人と 衆生世間 社会的存在ですね 個人と法人では 人格が別だ 銀行の頭取が個人だったらば奥さんに支店の一つはお前の名義にしていいよ 笑い 大騒動にならない 笑い一同 たった一つの支店ぐらい 笑い お前 家賃もらって暮らせよ 全然個人と違う それを法人と言って 自然人とべつですね そこへ仏法的な考えが入ってますね。

   法人はね いまのような法律のない時代からあった 江戸時代を考えて御覧殿さまは法人だろ 殿様個人が自由自在にやったらどうなる 経世済民というのはそういう時代ではうまれたろう あの時代も民主主義じゃなかったのかね

武内 藩というのが一つの法人ですか

市河 藩の代表取締役だと そういう視点から時代を見てはどうかね 徳川家とか いう家は社会のことではないかねだから家に来た人達を「家来」と書くだろ 殿さま=藩は法人だよ 

大脇 家来は社員か 笑い 

市河 株式会社は西洋から入ってくるまではなかったが法人 という概念は日本にあったんだ

   家に来る人 家来だろ 豊臣家つぶれたら失業する 笑い 仏法で言う衆生世間じゃないですか その殿さまがみんな潰れた後 誰かがリーダーシップをとらないと困るね

   一番の問題は 宗教とは で 西周がつけた名前だが 宗教が妙体宗用教を略したものとすれば比叡山の天台の教えからきている。 厚生労働省を厚労省とするようにあのようするに 妙法蓮華経の別名であって森羅万象の根本は何かというと法には二つの意味がある 仏法から見ると一つは法体 ・・・・目に見えるものを法という 偶然に見えるものは宇宙にある法則 法則が具現化して結果として目に見える 二つの意味が重なっている

   法則の法と 法則によって人間も生まれて自然界には雲がわいたり波が起こったり・・・気象学は法則見てよげんする 天気予報も 法です あしたは曇ります とか あてずっぽうでやってるんじゃないんだね 笑い それが実現化したら法則 科学的でしょ 二つの意味 法人だってそうだ 公益法人 社会法というのはあるんです。衆生世間から出た社会の在り方 具体化したのが法人 法人税という言葉も西洋渡来の物だね 日本には法人はなかったのかというと 藩主も殿さまもみんな法人だね 笑い 

武内 素晴らしい発想

市河 笑い 誰でも発送できるよ 笑い 

大脇 松下幸之助も そういう人だった やっぱり学校に行かなくて実学 実際の活動から身につけて じぁぶんでは思想を持っているからね 自分の頭でかんがえるからそういう発想がでてくるんです。

武内 会長は大学で学んだ理論を現実に当てはめて 公明新聞の論説委員のシート気にマネーサプライのマネーが日銀から市中銀行ではなく市中銀行から企業へと融資された金額がマネーサプライと気が付いた 小宮隆太郎教授はこれを三階建て理論 日銀⇒ 銀行→ 企業の三段階 でも多くの経済学者エコノミストは二階建てと日銀 ~市中銀行で止まって金融緩和をイメージしていると批判 会長はそれを論説を書いている過程で50年前に体得した 経済学に鋭敏な感覚の持ち主説いて 尊敬しています。会長に弟子入り 会長はお前は凡夫ではない じゃなんですかというと「ボンクラ」だと 笑い 凡夫 ボンクラ 笑い 会長は資産100億を築いたが 吉本協業のシナリオライターとしても他大成功していたと確信します

市河 なんで凡夫というのは 今の時代の成仏しても凡夫なんだ姿は。仏も菩薩もシャカ仏法とは全然違う 日蓮仏法は本尊は我が身の中にある ホトケは価値の創造力生命力 それは自分にもあるんだな、と。これを感じ取って認識して しんじるのがホトケなんだそのホトケが社会に出て世のためにかつどあーすのが菩薩だ 日蓮仏法の根 ところがお釈迦さんのいう菩薩は地獄からだんだん上がっていって仏になるときの最後の通貨過程としての菩薩 菩薩の道を経由して仏になる。寿量品にかいてある。菩薩は世間のための活動主体としての菩薩 ホトケになるまでの通貨過程としての菩薩とは別の解釈があね。菩薩は 顔見ても姿見ても全然菩薩の要には見えんよ ボブの顔してます。だから凡夫 笑い

大脇 創価学会でそういうかいしゃくですか

市河 日蓮がそういっています 聖教新聞でも触れていないので 書くべきだと思う 菩薩は釈迦の仏法と違うんです。

武内 そこで迷います それを知らない人に・・

市河 学会員だったら それは知っていますよ 菩薩でも凡夫だと・・

池田先生も末法ではホトケとは 即身成仏とは 聞いたことあるだろ 自分の生命の構造を学問的に知って ああ自分にもボンクラだったんだが仏性というものがあるんだなと それを引き出そうと・・ 

武内 学校で教えられた即身成仏は東北の坊さんが 断食して そのまま死んで。こう考える人間がだいぶおりますよ。

市河 笑い それは迷信というんだよ 笑い 餓死して死ぬ 笑い

萩原 円空なんか即身成仏といわれてますね 穴へもぐっちゃって最後まで ちりんちリンと合図の鐘ならして カネのおとがしなくなったら即身成仏しとた・・・

市河 大脇さんの紹介した佐藤敬一さんとやった中小企業金融円滑報も 私の破産がなかったらやろうという気持ちはわかなかったと思うよ  おかげで個人的には破産を載りきって こんどは社会的に菩薩の皇道としてのあのモラトリアム法に向けて動いたんですよ。菩薩を実現するということは利他だから今の法律を活用してつくったんですよね

大脇 佐藤敬一さんと会って一番感じたことは信用保証協会でしょ みえるものはあるんだけれど財産とかと地とか は信用金庫はしんようするんだけれど無形財産 これも信用でねそれで大きくおカネを出して社会をよくしたでしょ 信頼関係がないと何も進まないでしょ 

武内 大蔵省の有淡原則 リスクマネーを運用できる銀行員ではない銀行家バンカーが育たなかった

大脇 それが問題ですね 

武内 銀行家が育っていない隙間を埋めるのが 信用保証協会。会長が前回のモラトリアム法提案の三番目BIS基準の引用 知らない議員はいっぱいいますよ 

市河 そう 自分で仕事しながら それは分かってきたよ

武内 七月選挙ですから それまでに・・持っていきましょう こういう活動も本に

市河 いれましょう

大脇 日本は99% 中小企業 新しい活動しようとしても お金がなく進まない アメリカと比べてベンチャーがどんどん発展している インキュベーターが必要なんですよ 

市河 公明党も政策で社会の老朽を 私は 街づくりやりたい 幹線道路やったが中に入るとごちゃごちゃでむてをつけてない 相当な需要がある そこには マンション作るだけでなく 介護 子育て そばにある幼稚園遊び場もそばにある、そんな街づくりをしなければならないと思っている 建築士もいれて新しいアイデアを掘り出したい。それを提言するような 町内会も法人化して 低減できるように ・・もう一つは空き家の活用 外人が 地球規模で外国人の 需要 彼らに提供する法律も作るというアイデアの提言も考えている。それも価値の想像力になる。

萩原 ホテルの宿泊料金も最近は暴騰してますからね 満室だし値段が高い オリンピックまでには 相当の民間のかつようしないと

市河 もう一つ考えないといけないのはオリンピックまでには相当のバブル そのあと がたんと急落するとまた被害者が出る そのようにならない対策が必要だろう。

大脇 いまのお話しから菅゛得るんですが 所有形態が資本主義のような個人所有から共有という形態があるとした方が 先刻の土地利用でもみんなが幸せに みんなが土地を共有すれば 幸せになるんですねエネルギーでも東京スマートシティ2020年オリンピックめざして エネルギーを一人一人が別々に使えば不足するが、コンピューターでコントロールして効率的に配分したらエネルギー消費量もいまよりも増えるどころか節約もできるんですよそんな試算もできています ということは資本主義のように一人勝ちの時代から 土地もエネルギーも共有する時代が来てるんです。

武内 会長のコンパクトシティ構想は役人の抵抗にあうかもしれません

市河 笑 議員になっても役人の下請け一杯いる 私が立候補 笑 

萩原 日本の銀行はおかしい アメリカなどベンチャー企業一度失敗したら銀行は貸す 日本は失敗したら貸してもらえないから おカネを貸すその この企業が育つと言う

大脇 僕はアメリカへ行って アメリカ人に言われて気が付いた 日本人はお人よしだと 日本の利子 低いねなんで文句でないんだと。おかね預けたら当然のこと利子を払うべきだろう アメリカは3% 4%でカナダでは10%超えてますよ。預かったおカネは創造力発揮して投資して儲けるのが銀行なのに 時分は努力しないで結局 ほとんどただの日銀から借りて高く貸す それ高利貸と同じですよ 自分の創造力がない 海外から見ると日本人はだまっているのはお人よしとアメリカでいわれて気が付いた 笑 きになるのは中小企業が多いのに日本の政治は 国民協会とか通して 大企業が献金して 大企業に有利な政策をもう一つは 中小企業は 中心の商工会議所が会頭は中小企業から叩き上げた人がなるべきですよ いまは大企業から横滑りしてなってますね その理由が なんと 勲何等という栄誉が欲しいためにね やってますよ 経済産業省もそういう人がいると自分たちもやりやすいといろんな利益の辛味があるが本来的には中小企業の現場から叩き上げた人が会頭になってどんどん政策面についても提言していくべきでしょ

萩原 きょう 一つ思うこと こうゆう座談会を何回かして 質問もでてくる 多くの人の座談会をやるべきだ

大脇 ディスカッション形式も加えてもいいんですよ自由な場で 特に天才的に司会の練達な井関名誉教授が このひとはマーケティング学会の会長をしていた人で、いろんな意見を纏めてくれる

武内 座談会と対談の形式を

市河 いいですね 対談は 質問が来ないとピントがぼけますからね 

以上 紙に書いてみて頂きます 問題はいろいろとでましたが会話の中なので 問いかけと応える側が対応していない箇所もあります それは字にして読みながら対応関係として完成させたいと思います。

 会話の中に登場したおもなテーマ

仏法とは何か 生命とは何か  一念三千  十界互具  菩薩と菩薩界仏界 即身成仏  森羅万象と三世間  西欧の合理主義 経済学がどれだけ有効か 

市河 現有資産100億円 実勢推定価格 簿価ではない 年収五億から業者が試算した資産価格です

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創価の生命哲学 第二回座談会  3/22  武内記  第一回分は文字化して提出済み

収録時間3時間25分 文字化1時間 字数11000字 製本時の20ページ

テーマ宗教とは何か」 
2016311日 午後4時~8  出席者:市河会長 大脇 武内 渡辺 

【市河】大脇さんは 統一教会にいつ入りましたか 大脇さんも学会員だったら、大きな結果を残していたと思いますよ

【大脇】早稲田で大浜総長の時代でした 1963年だったかしら・・父方は曹洞宗、本家は天理教、母方は浄土真宗でしたが・・統一教会の組織の財政はどうなっていますか 運営の原資はどうやって調達していますか

【大脇】信者の献金です

【市河】その献金により信者にはどんな利益として還元されていますか つまりオカエシがありますか

【大脇】神のめぐみ 神の恩寵を受けることです 精神的な喜びといいましょうか それと教団自体が拡大することもありますね

【市河】金銭を頂いておると それを上回る結果が献金した側にあるのが当然と思います 仏教では三証ということを考えています 三証とは 文証 理証 現証です 文証は教義そのものの文字化したもの、理証は その文証が哲学的にみて矛盾がないかと検討する 現証は 教義の通りの結果が現実に達成されたか、この三段階で、その主張の正当性、正統性を認識しています。日蓮は現証そのものを重要視しているのです 日蓮仏法はこういう点から人に受け入れられてきました。

【大脇】現証と言いましても 個人的な視点から見る場合と、歴史を通して見る場合とは、違うように思います。個人的な視点からみれば、その結果の評価はその個人の主観に大きく影響されているのではないですか。個人的体験からの判断ではなく、つまり現証を体験した本人ではなく、客観的に外部の眼から見ての判断の方が事実としての重みがあると思います 多数の眼というフィルターを通しての歴史観がここでは重要になると思います。

【市河】歴史観という言葉が出ましたが 歴史観そのものが曖昧です 一般に考えられている歴史観、例えば学校で教えられている歴史観が、一般的なものでしょうが 宗教の役割からみての歴史観は 学校での歴史観とは大きな相違点がありますね

【大脇】たしかに 違いますね 学校での歴史観は、政治権力の変遷に重点が置かれました。政治編年体とでもいいましょうか、その歴史観では人間社会の変遷を認識できないという立場からフランスでアヌール学派というものが生まれました。これは社会生活そのもの記述に重点を置いたものです したがって経済の変動、物質的利便が人間の認識にどう影響したかという在来の歴史的認識に革命的なショックを与えました しかし私はそれが精神世界 内面的な充実感には触れていません。トインビーは歴史を宗教を核とした文明史観として提示しました。「人類の文明は21から26の文明があった。文明は宗教を中心として発展した。高次の宗教が低次の宗教を吸収し、今や四大文明圏、そしてキリスト教を中心とする一大文明圏へと統合されつつある。高等宗教が形骸化すると低俗宗教が蔓延する。現代の低俗宗教とは、英雄崇拝、科学信仰、科学信仰である」等々。 

【市河】それも「事実に基づく」というときに「事実」をどのように認識するかということに帰着しますね。さらに「認識した事実」をどのように活用するか、これも大脇さんのいうアヌール学派の論法では不十分ですね。「歴史観」は抽象的な概念ですから、「事実の認識」もまた多義的です。その上、活用する態様も千差万別ですね。これを日蓮は「仏界ばかりは現じ難し」としています。「事実の認識」「事実の活用」この両者の根底には「心」があります。現状にある我々は現状を如何に活用していくか それは我々の心がどんな段階にあるかに左右されます

【大脇】そうですね ユネスコでも公式文書で「争いは人の心が作り出す」としています。人間の歴史は、戦いの記録に溢れています。覇権を争う権力者の抗争、それはアヌール学派が登場するまでの歴史書に書かれていた総てでした。拡大する経済的な貧富、富者と貧者の対立 マタイ伝にも「・・富める者はますます富み、貧しきはますます飢えて・・」とあります。トマ・ピケティが「21世紀の資本」で取り上げるまでもなく 資本主義以前から貧富の差は問題化していました。人類の抱える大問題です。どうして抗争に明け暮れるのか それも内面的な精神世界に原因がある、と考えています。

【市河】諸悪の根源が内面世界に起因するという大脇さんの指摘、西洋哲学としての判断ですね。西洋哲学では唯心論と唯物論の二つの立場があると承知しています。その唯心論のいうところの「心」は「唯物論」の「物」に対しての対立概念としての「心」でしょう。仏教では「色心不二」として認識します。ここでの「心」とは「生命」のことです。心=生命なのです、心はモノへの対立概念ではありません。主体性をもっている独立した概念です。

【渡辺】色心不二かと?・・・

【市河】「色心不二」と書きます そこで「不二」とは「自我」を意味します。西洋哲学では「われ思うゆえにわれあり」としていますが。「我」とは何かと分析的な判断まで立ち入っていません。「色心不二」は生命体が三面性から説明することを意味しています。「心」と 「肉体」 とその 「両者の統一体としての自我」 それが生命体である、これが「色心不二」の内容です。たとえば肉体は60兆の細胞からできています しかしその細胞は新陳代謝機能で新しいもの入れ替わっています。何年もしたら「私」の細胞はすべて入れ替わって新しいものになっています。私が五年前に銀行から10億円の融資を受けて五年後に返済するという契約書を書いたとしましょう、さて、五年かが立ちました。銀行は契約書に書いてあるように10億円返済せよと私に言います。当たり前ですね。ホントに当たり前ですね。

私も当たり前のことを言います。「銀行さん 私の細胞は五年前とは全部入れ替わっています。五年前に契約書を書いた私の細胞は今一つもありません。あのときの私と今の私は 同じ私ではありません。銀行さん、契約書に従うのは契約書を書いた私だけです。その私はもういないのです 私は五年前の私ではありません。私には10億円返済する義務はありません」

西洋哲学では唯物論という説がありますが、その説、また西洋の科学技術による生物学による当然の帰結としての私の債務不履行論です。皆さん、いかがですか?  モノとしての肉体も時の流れとともに変化して同じではなくなります。ココロについても一定不変ではありません。もともと「コロコロと変わる」のでコロコロ⇒ココロという説もあります。独身時代と結婚後も同じ生活スタイルで通せますか? 独身時代は会社の帰りには居酒屋で一杯やる、が結婚後はどうなりますか。気持は変わりますね。肉体の細胞が一新され、気持ち・心構えも心機一転してしまう、むそれでも自分は自分でしょう。これが「色心不二」の現実的な解説です。

【大脇】市河さん、その解説はお見事です、文字にすると言うこと自体が抽象化です。抽象化する段階で具体的な部分が捨象されます。実際の生活では捨象されたものこそ重要ですね。「色心不二」も市河さんが編集委員として加わった仏教大辞典にも解説があると思いますが、その解説そのものも抽象化された文字によるもので、観念的には理解できたと思っても、現実に「色心不二」がどのように具体化されているかの例を挙げてみろ、といわれれば難しいですね。ただ抽象化としては、ある物、または現象と、別の具体的なものとの共通部分がこれなのだと指摘できる重要な働きがあります。春に咲く桜と秋に咲くコスモスは、咲く季節が違いますが、「咲く」という現象の同一性から「花」という概念をつくることができます、「桜」「コスモス」「花」の三者からは「桜」「コスモス」を下位概念として「花」という上位概念が生まれます。こうして花を咲かせない隠花植物も含めて「植物学」が誕生しました この研究からミカンも西瓜も品種改良でおいしくなりましたね。

【市河】いまも珈琲を飲んでますが、このコーヒーも植物の種ですね 我々の議論が沸騰しているので喉が渇いているから、とても美味しいですね。「美味しい」のは舌の感覚で感じ取った情報が、脳に伝達され、総合的に自我の私「市河」が美味しいと思うのです。「色心不二」の「色=感覚器・舌」「心=感覚器の情報を受け取る脳」「不二=感覚器と脳で処理された外界の総合判断をする主体」と、こうなりましょうかね。

そこで、宗教とは何かという問題に入りたいと思います。我々は「名体宗用教」は文字数が五つですね。妙法蓮華経も五つですね。この両者は実は同じものなのです。大脇さん、キリスト教では宗教をreligionとしていますね、この語源は「関係性」です。だからキリスト教では「人と神との関係」が宗教の原理と思っていいのでしょうか。

【大脇】語源としては、そうかもしれませんが、我々キリスト教信者としては、神と人との関係というよりは、キリスト教では宇宙の根源的なものとは何が重要なのかをまず第一に考えています。存在するもの、真の実在とは何か、現象として認識する対象が実在なのか・・ですね。ヨーロッパ哲学では唯心論、唯物論という二元構造ではなく、「現象」と「実在」の二元的な考えが根底にありました。唯物論は歴史的に日が浅く唯心論との対立概念としては弱いと思います。「現象」と「実在」という対立概念はギリシャ哲学に由来しています。プラトンのイデアは「実在」は抽象概念であり、具体的なものは真の実在ではないと言う考えが基礎にあります。具体的な個物に先立って普遍概念があるという論理構造がプラトン哲学の真髄です。これが中世のスコラ哲学として復活して普遍論争として、その後の哲学の発展に寄与しました。中世スコラ哲学ではプラトン哲学の否定とも言うべきもの「普遍は個物から帰納的に導かれた概念に過ぎないという唯名論が登場しました。

【市河】スコラ哲学はキリスト教の教義を補完するための一つのツールにすぎないのではないかという批判が現在ありますね。原罪というキリスト教の教義の発端もアダムとイブという具体的個人ではなく人類すべての負う原罪としなければなりませんでしたね。スコラ哲学では唯名論は、当時は異端として弾圧されたのではなかったですか。抽象概念一般としての、宇宙のことすべてに関わる存在ということですと、森羅万象の根源は何であるとキリスト教では考えていますか。

【大脇】そうです。森羅万象を支えているものは何か、の「支えているもの」それがキリスト教で言うところの「神」です。【市河】仏教では森羅万象の生起するこの世は三世間と分類しています。国土世間 衆生世間 五薀世間を三世間と言い

ます 読めますか? () 国土世間は読めるでしょうね() シュジョウセケンです 衆生とは広い意味では、仏陀や求道者 (→菩薩 ) をも含めた,すべての生き物の意味。狭義には,迷いの状態にある生き物を指す。特に人間を指して言う場合が多いのです。ここでは我々人間の世界としましょう。五薀世間は難しい。ゴウンセケンと読みます。色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)を包括し、かつ絶え間なく持続する世界です。それを五薀世間といいます。

【大脇】五薀世間とは人間の心のこと 内面世界ということでしょうか

【市河】そうです。分かりやすく言えば・・

色(しき)・・・形で捉えられる側面。肉体、物質   受(じゅ)・・・外界の事象を受けいれていく働き

想(そう)・・・想念すること       行(ぎょう)・・・想念に基づいて自ら行動すること

識(しき)・・・思慮・分別する精神の作用
の五つの事をいい、これが個々の存在によって異なっていることを、五蘊世間といいます。
この三世間に森羅万象が生起しては変化します。社会とは生命体とします

【大脇】生命体という言葉には、動物と植物を含まれていますね。 

【市河】それは十界に入っています。

【大脇】十界とはなんですか。世界のことを10に分類した概念ですか。

【市河】違います。十界は人の心の状態の変化に応じた分類です。地獄とか畜生とか言いますね みんな仏教用語です。仏教では、六道、つまり地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界の六つに声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界を加えたものを十界といいます。声聞界は声を聴く、知識を求める、つまり向上心です。またニュートンはリンゴの落ちるのを見て引力を発見しましたが、こういう能力は縁覚界といいます。菩薩界は利己ではなく利他の行動をいいます。菩薩界はシャカ仏法と日蓮仏法とでは解釈が違います。シャカ仏法では悟りを開いてホトケになる一段階前の状態を菩薩界と言います。しかし日蓮仏法では、利他の行為を言います。

【大脇】キリスト教では天国へ入る一段階前のものがあります。パラダイス、パライソと言います。

【市河】仏教は死んだら極楽が西方浄土にあると言います。でも地球が平らである時にはその説明が通用しました。西へ西へと行けばいくほど、地球が丸いので元へ戻ってきますね。西の極楽という考えは今は取っていません。迷信です。

【大脇】極楽の上に仏界があるということですか。

【市河】それはね 誤解しないでください 何々界というのは場所のことではありません。心の中にある物です。十界は心の中の状態を価値の大小で順番を決めています。十界は仏界と他の九つの界、九界に分けます。仏界の構造と機能を書いたものが「御本尊」です。

【大脇】空海は曼荼羅に書いていますね。

【市河】それは人形でしょう イスラムに言わせれば偶像崇拝というでしょう

【大脇】日蓮の曼荼羅には何を書いていますか

【市河】法華経にあることを書いています

【武内】曼荼羅という言葉は聞いたことがありますが、実際は何のことですか

【市河】日蓮の御本尊は、「南無妙法蓮華経」の題目を首題として中央部に書き、その周辺全体に諸仏・諸菩薩などの名前を書いた曼荼羅を本尊として用いることが多い。如来の生命は思想、つまり哲学です。「遺骨を礼拝の対象にしてはいけない」と経典に書いていますよ 仏舎利というのも御釈迦様の遺骨と信じて礼拝している宗派があるがおかしい。仏像自体も礼拝の対象にするものではない。芸術作品として貴重なものはありますがね。宗教の立場としては意味がない。

私が昭和34年にもらった御本尊 ホトケの構造と機能 御釈迦さんも横の方に書いてある 一般には仏教が釈迦により始まったと思われているが釈迦は多宝如来、に過ぎません

以下・・・・御本尊の解説・・・

天台大師はこの辺りに出ます 天照大神 もこの位置です 八幡は農耕の神様 幡と言う字の、旁ツクリを見て下さい 禾編に米と田で幡です 水田で米を作ってきた日本の神と言えますね。つまり八幡大菩薩は農耕の神様です ホトケは宇宙生命体と同義です 人格神ではなく ホトケに備わった機能・・これを御本尊が示しています。

【渡辺】死後の世界は? 死んだらどうなると仏教では考えていますか? 悪いことしたら地獄へ行くぞ、善行を積んで極楽へ行きましょうと子供の頃には、よく聞かされましたが・・今でもそのように解釈していますか

【市河】それは既存の仏教の教義でしたね、既存の仏教、つまり江戸時代の仏教は江戸幕府の下請け、つまり最末端の行政機関のような役割を果たしていましたから、治安維持のためにも悪人が出ないように「お説教」で道徳教育も自分たちの役目だと当時の僧侶たちは考えていたんでしょうね。ただ、われわれの創価仏法は違いますよ。戸田城聖会長は、死後は宇宙に溶け込むという考えでした。 「♫♬・私は風になって・・」歌があるでしょう 江戸時代の教化も方便だったと思います。その時代はそれでも良かったのです。・・「三人寄れば文殊の知恵」ということは知っているでしょう。それは文殊が三人いるというのではなく、普賢・文殊という言葉は ホトケに備わった機能を意味しています。

特に重要なのは「能生の根源」です 「妙法蓮華経の五字は万法能生の父母なり」とありますね

死ぬは生命活動が休止している われわれはどこから来たの どこへ行くの 何者 我々は宇宙から来た 何万年前 でも進化論サルの時代から父母なくしては我々の存在は考えられない。猿から人間に進化すると言われていますが・・・。 地球に冬の時代がありましたね 氷河期6000万年 また温暖化して人間に適した気候も今はそうなっています。 地球自体が十界互具なのです。

【渡辺】微生物とか 海から来たとか いろいろな説があるでしょう

【市河】そういうことがあったとしても 大きく言うと 来世がこことは限らない必要があれば宇宙に帰る 宇宙からきて宇宙に帰る 人間は宇宙を旅しているんだ・・文学的だな ()。仏法から言うと宇宙は生命体だから地球と同じ惑星があれば生物がそこに発生するね。そのときのお父さんお母さんは人間ではないかもしれない() 。突然変異も起こすだろうしね

俺たちが人間であると言うのは科学的な表現をすれば父と母の精子と卵子から生まれたんだがその前の その前 の・・・と、どこまでさかのぼっても何億年さかのぼっても一回だって父親と母親のいない時代はないんじゃないの 

【武内】もっともっと昔・・・・・さかのぼっていけば・・・地球上の生物がほとんど絶滅に瀕したのが四回あって・・もっと前は酸素では生きていけない生物だったと・・これは立証されています

【市河】生物も魚介類だけの時代もありましたね 我々の祖先は海から陸に上がってきたとも言われていますね

【武内】陸上の動物もさかのぼれば海の生物だったと言うことは化石で確実とされています

【市河】永遠の生命も 科学がさらに進歩すれば 仏法で言うところが正しいとわかる時が来ますよ

戸田会長は日蓮仏法の生命論は科学の進歩したときに立証されるという意見でした。 

私は政界にもでてくれと誘われました、しかし 私は創価の生命哲学の実証をすることこそ私の使命だと思っていたので議員にもならないで、この道一筋に今日まできました。

【大脇】市河さん、創価学会の会員の人は何人も知っていますが、こんなに本質的な、説得力のある説明をしてもらったことはありません

【市河】そこで私は思いますが仏教の教義は円満具足です。完全無欠と言った方がわかりやすいですね 仏教用語が現代の日常会話から忘れられていっているのは残念です。この円満具足の概念はキリスト教にも取り入れられました。キリスト教では何と言っているか、おわかりですか。全知全能なのです。円満具足⇒キリスト教⇒全知全能としたらわかりやすいでしょう。 円満具足の心は状況に牡牛で変化する。他者の利益を実現してやりたいときは菩薩となり利他の行いをする。日蓮は「仏界ばかりは現じ難し」としています。仏界は十界の最上位の物です。ホトケは状況に応じて千変万化の行動をとる必要があります。衆生世間は多様ですから。たとえばノーベル賞受賞者が自分の研究結果をその斯界の最高レベルで小学生や中学生に語ったらどうなりますか。「何にもわからないよ こんな話は聞きたくない」と、登校拒否をする子供も出てくるでしょうね(笑い・・)

【武内】「創価学会を語る」のように学会の活動そのものよりも活動する組織体ばかりが注目されていて、活動の実態、というよりも活動そのものを促す学会の理念が取り上げられていませんね。私が市河会長にいろいろとお話を聞く機会があったので、外面的な学会ではなく、創価哲学の理念そのものを体得した人だと思いました。体得した上に86年の生涯を賭けて創価の生命哲学を実証してきたのではないでしょうか。

【大脇】まさに、その核心をついていますね。

【市河】核心と言ってもらいましたが「能生の根源」こそが、核心の、そのまた核心なのです。

【渡辺】ところで基督教と仏教はどっちが古いのですか

【大脇】キリスト教はユダヤキリスト教としては6000年の歴史があります。それは聖書に書いてあります。古い歴史があるために信者総数も最大です。人類の33.4%、人口にして22億人がキリスト教徒です。イスラム教は22%、仏教は5.7%で約3億人ですね。

【渡辺】市河さんは仏教が古いと・・・?

【武内】その考えの根拠は、憶測ですが時間の定義によるものかと思います。因果倶時という言葉が仏教界にはあるそうで、・・理解に苦しみますが・・釈迦は日蓮の弟子であるとのことも?

【大脇】イエスの前のアブラハム、その以前のノア・・みな文字として残されています。

【武内】宗教を語るときは、立証するか否かの前の段階、その主張を信じるかどうか、の段階で止めて、それ以前には立ち入らないことにしているようですね。

【大脇】そうです。我々が認識し判断していくには三つの異なるルートがあります。直観、理性、感性によるものです。宗教は直観による認識の結果人の心に定着します。イエスは啓示により人間に示されるものです。理性はロゴスの分野の認識のツールです。感性は現実的な世界観を形成するときに機能しています。

【市河】「能生の根源」はキリスト教では何だとしていますか。諸仏諸経を生み出したのは妙法蓮華経というホトケの生命からだと我々は考えています。キリスト教は万物の創造主としての神としていますね。森羅万象・生きとし生けるものは「能生の根源」にありとしています。

【渡辺】もう一度お聞きしますが キリスト教仏教はどちらが古いのですか

【市河】仏教が古いんですよ そんなことは常識ですよ。キリストは2016年、釈迦は入滅以来2千数百年、キリスト誕生よりも600年以上古い。

【武内】日本は皇紀で数えたら2700年程度ですかね

【市河】それは神武天皇からの話で神話ではもっと古い。古事記日本書紀の神話は外しておきましょう。釈尊の時代は今の太陽暦とは違い、今の一年は当時の二年だった。一年を雨季と乾季にわけて、それぞれを一年として言ったのです。日本でもしばらく前までは太陽暦ではなく太陰暦でしたね。

【渡辺】わかりにくい

【市河】釈迦入滅後、ヨーロッパからアレキサンダー大王が東方に進出した紀元前230年ぐらい前でした。インドに自分の配下を置いて帰国したが、インドに残った配下はミリンダ王という。ミリンダ王はギリシャ哲学に造詣が深く知識人であった。インドの仏教の僧侶との論戦があった。その当時、僧侶は知識人であり、現在では大学の教授にも匹敵すると思う。仏教の僧侶ナラセーナはミリンダ王からの論戦の呼びかけを最初は拒否した。ナラセーナはミリンダ王に尋ねた。「貴殿は論争に際して王者の論理を使いますか それとも賢者の論理を使いますか」と。ミリンダ王は、それはどう違いがあるのかと聞き返した。

「王者の論理は、思索の根底の権力から発想が創られてきます。したがって自分の考えと違う意見を聞いたり、相手の論法に太刀打ちできないというときには、不機嫌になり、言葉の戦いよりも武力で相手を屈服させようとします。賢者の論理は、相手の言葉による内容の判断をします。たとえ相手が路傍の乞食のように身分の最低の物の発言でも、その言うところに理があれば、その理を受入れます。ミリンダ王よ。あなたはいずれの論理を使いますか」

「おお、そういうことか。私もギリシャでは相当の学問を修めてきた者だ。今はこの国の王の地位にあるが、思想、哲学の分野には武力は必要ではないと考えておる。論戦には賢者の論理だけで行こう」

こうして両者の論戦が始まったが、結果は、ミリンダ王は仏教僧侶ナラセーナに敗北した。ミリンダ王もさすがにギリシャ哲学の大家だけあって、論戦の敗北を潔く認めて、仏教に帰依することになった。そして仏教をヨーロッパの一角に持ち帰ったのであった。その時点から300年後にキリスト生誕というのは歴史的事実である。

ギリシャは現代の西洋文明の一つの原点であるが、この世界を構成しているものは地水火風の四つの元素からなるとしていた。東方の文明を代表する仏教では木が入って五つとしている。我々が中学の時は、元素は92だった。今は113になっていますね。

【大脇】ノアの方舟も記録が残っていますが、アレキサンダーの時代よりもはるかに古いのですが・・・

【市河】それは神話ではないのですか。キリスト教は天国と地獄と二つに分けているようですが、仏教では十界としてその中に天国と地獄を含ませています。十界の最上位の仏界となると、あらゆる変化に対応して必要に応じて必要な対策を取る能力のある状態を仏界と言います。これを円満具足とも言います。キリスト的表現でいう全知全能ですね。またキリストは処女マリアが懐胎したとされていますが、科学的ではありませんね。実は釈迦のお母さんは「マリア」という名前でした。これがヨーロッパに渡って「マリア」とされたのです。仏教はシルクロードを経由して西へ伝播してキリスト教の成立に大きな影響を与えました。ある意味ではキリストは仏教徒であった、とする学者もいます。

現在のキリスト教徒は22億人となっていますが、キリスト教の布教には武力が伴っていたことが大勢力になった原因でもあるでしょう。世界制覇⇒植民地化という史実とキリスト教の布教は深い関係があるように思えますが・・。

【大脇】キリスト教と仏教の歴史の比較とすればキリスト教には相当古い史実に基づいた記録があります。AC2016がキリストの誕生を示している数字ですが(注:ADとはAnno Domini「主(イエス・キリスト)のもとに、BCBefore  Crist )、BC550あたりに釈迦の時代でした。そこだけでは比較はできないと思います。イエスの前のモーセ、それはBC3500あたりです。さらに遡れますが、キリスト教も仏教もともに発足当時の改革派という点では共通するものがあります。改革が必要なほどの時代に登場し理想を掲げて民衆の救済を実行しようとした点、ともに歴史上に大きな足跡を残しましたね。キリストはユダヤ教の内部からの改革を、釈迦はヒンズー教の改革を、でした。今の言葉で云えば、既存の既得権益が国益に反しているとでもいえましょうか・・(笑い)。キリストは既得権益の疎外者として当時の社会の支配階層からユダヤ教の伝統を阻害するとして訴追されましたが、ユダヤ人はローマによる被支配民族でしたのでキリストに対しての裁判権がなく、結果としてローマの行政官、ピラトにより有罪とされ33歳で死刑に処せられました。釈迦は出自が王族のため80歳の長寿を全うしました。いつの時代でも既得権益の防御は固いですね。キリスト教はユダヤ教の改革派としての一分派として始まったのですが、今は全世界の55%37億人が一神教を信じています。巨大化したキリスト教の集団もある意味での既得権益化の道から逃れられませんでした。そこに抗議するという意味でプロテストの叫びをあげた一派がプロテスタント=新教と日本では訳語となりました。

そういえば市河さんの信じている日蓮仏法の開祖日蓮聖人も当時の政府に対して改革を求めて抗議して弾圧されましたね。

【市河】その通りです。国家諫暁のために書かれた「立正安国論」はプロテストの書でしょう。大脇さんの歴史観について、さらに私なりの解釈を付け加えたいと思います。日蓮の評価は二つの異なる分野に貢献したと思います。日蓮は国家安泰のために立正安国論を著し、衆生世間、国土世間の無事を願いました。一方で仏教の頽廃を憂えました。これは人の心に潜む怠惰の心を戒め向上の精神を自発させるには法華経を中心とし、妙法蓮華経の精神を広宣流布すべしとしたことです。具体的な教えの手段として「本尊」を確定し、「能生の根源」と「生命体としての宇宙」を論理的な統一体として完成させました。「これすなわち、諸仏諸教の能生の根源にして諸仏諸教の起主せらるるところなり」と本尊の説明を残しました。私が創価学会に入ったのは昭和35525日でした。創価学会を紹介してくれたのは日興証券の職員寮の管理者でした。豊島公会堂で週一回の集まりに戸田会長が来て講演していました。その講演で諸仏諸教は「能生の根源」だというので、私は、それでは釈迦も「能生の根源」から生まれたのではないかと思いました、一般に仏教は釈迦に始まると思われていますが、戸田会長が「釈迦は妙法蓮華経を土台としてホトケになった」と言うので、釈迦は日蓮の弟子になるのではないかと質問しました。すると戸田会長は「おおッ!良い質問だ、みんなも質問するならこんないい質問をしてくれ 病気が治るか、金がもうかるかというよりは本質を突いた質問だ。これがどんなに大切な質問かということがその内にみんなにわかる時が来る」「良い質問したら発起衆となって大きな功徳を受けられるのだ」「妙法蓮華経を日蓮は本佛と言って、人法一家という妙法蓮華経に対して、釈迦は「能生の根源」から生み出されたので・・・ワキシ・日興聖人が移した??????????(意味不明)

 日蓮は久遠元初 日蓮はこの世は無始無終とした。釈迦は自分の宗教は賞味期限がある。有効に人の救済に機能できるのは2000年だと宣言していましたよ。11008

   (以下編集中)

大脇】今の問題は認識論の問題で近代において三つの流れがある。イギリスで感性に基づく経験主義哲学 現象が本質のカタログのように現象と実在は一対一の対応があるかという問いかけが英国認識論の根底にある。 これに対して大陸のデカルトに象徴される理性論に基づく認識。またカントに代表される直観によるもの 先験的、ア・プリオリに獲得されたとすることを前提としたドイツ哲学。このイギリス、フランス、ドイツにそれぞれ端を発する大きな源泉がある どこに根拠を置くかによって異なる 論理の仮説を設定して「科学とは何か」の問に対して「合理主義と経験主義の合体したものが科学である」それが科学的方法論である。これに対して宗教は「直観知」インスピレーション悟り 宗教はこの証明を条件とするものは排除して宗教における「信じる」は直観的に先験的に信じると認識するモノだけを信じて行こう、それしかないではないか。というのが宗教における教義への信仰の原点にある。

【武内】大脇さん キリスト教信者の立場としての今の発言はキリスト教が啓示宗教であるということと同じですね

【大脇】そうそう それが神学の根幹にある。もう一つの合理的な面に重点を置いたのが哲学だ。ここで中世以来の神学=哲学、あるいは神学∋哲学の段階から神学から哲学の独立があったといえよう。もう一つが経験に基づいた科学という分野がある。経験に基づいた現象の集合体から共通する原則は何かを実験で理論を支えていく流れ。ここには抽象化という人知の最高の部分が大きく寄与している。

【武内】イギリス経験論の一角を占めているB・ラッセルは、「数学原理」という書でカントの哲学「真善美」などを扱うのは

論理的推論というプロセスを経ていないではないか、推論過程はアリストテレスの形式論理学には頼っているが形式論理学にも落とし穴があることが記号論理学によって証明された。さらに記号論理学と形式論理学を分ける基準が言語の明瞭さを問題視するか否かにあった。記号論理学⇒分析哲学⇒論理実証主義の一連の哲学ではカント、デカルト派は言葉の遊びに過ぎない。大脇さんの指摘したように価値観を抜きにした、純粋に思考経路だけの厳密さから推論過程を厳格化し、現象から共通部分を取り出す抽象化に正統性を付与しようという理系哲学がある。真善美道徳の研究は主観的な線上からはなれられない。宇宙がどういう原理で動いているかを自然科学的方法で数学という言語で解明するという哲学。1930年代に誕生したその理系哲学は日本には育たなかった

【大脇】現代の状況は 科学の行き過ぎ 社会科学の怠慢 宗教の沈没という表現は適切と思う 科学ですべてが解決されるというのは科学の行きすぎです。これからは哲学も 科学も 宗教も  それぞれの長所があり、その長所を活かしていくべきだ。人類が願う人間らしくみんなが生きていける社会をつくらなければならないだろう。

【市河】大脇さんの言うのはそれだけの意味もあるでしょうがサイエンスを科学と言うたかお分かりかな

  

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市河政彦氏の略歴 

昭和5年3月 長崎市茂木町に生れる。昭和17年3月 伊良林小学校卒業。
昭和18年3月 長崎県立 浦中学へ大学。昭和2010月 長崎市立中学(現在の長崎市立高校)へ転校。
昭和24年3月 明治大学入学。以後、仕送りは一切受けず、後楽園のキャンディ売り、洋傘の行商、
世田谷区を中心とした読書会の経営などをしながら大学生としての青春を過ごす。
昭和27年7月明治大学在学中に
アルバイトで稼いだ資金で練馬区に現在の自宅新築。

昭和
28年3月 明治大学卒業、しかし就職難だったことにより、
昭和30年5月 創価学会の説く日蓮仏法の生命哲学に共鳴し、左翼思想を捨てて活動を開始する。
昭和40年 東洋哲学研究所所員。
昭和
41年 公明新聞の論説委員
昭和43年 仏教哲学大辞典の編纂委員。
昭和45年 政治家への推薦を振り切って建設会社「総建」を設立。 
昭和53年 東京都練馬区選挙管理委員に選ばれ、建設会社経営のかたわら昭和六〇年までの8年間に委員長2回。昭和60年前後 衆議院の1票の格差に対する最高裁の違憲判決を受けたことにより、国会で格差の是正をしない場合、選挙管理委員会は、「国会を解散しても違憲選挙は執行すべきでない」「是正しない選挙に対しては選挙管理委員会は有権者の無効の訴えを認識すべきである」などの議案を提出、全国紙に報道され政府および国会議員を震感させた。そうした行動は国会における政治改革の要因となった。
平成元年以後 平成におけるバプル崩壊後においては逆に事業の拡大にのり出し、現在、株式会社「総建」を以下のとおり充実させている。 

1、資本金 3億8 0 0 0万円
2、資本金に対し、3年間1割配当を続けた結果、平成。5年社債発行の適格会社となる。 
3、その結果、さくら銀行、三菱銀行などが総建発行の社債を引受けている。 
4、現在、都内にマンション多数を所有し、年間賃料収入は4億円を超えている。
5、静岡県の熱海。伊東、千葉県の南房総でリゾートホテルを経営、その他、栃木県や茨城県では駐車場5 0台規模のカラオケ店を開店する。
6、今後は高齢者向け施設を手がけるなど社会に・役立つ事業の拡大を目ざしている。

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