対話の原理

       視点は共通目的

     連帯としての人間存在を見つめよう

 対話の喪失が叫ばれてから既に久しい。特に、大学紛争が起こっている中で、対話の不足が指摘され
ている。では対話するには何が必要なのか、何が対話を阻んでいるのか、そして大学の中で対話を如何
に見出していったらいいのか、共に考えてみよう。

対話の条件

①共通目的

 対話するための条件としてまず第一にあげられるのは、両者の間の共通なる目的の明確化であろう。
なぜなら、共通の基盤に立ち得ずして対話は成立しないし共通の目的を追求せずして対話の意味はない
からである。

 この共通目的は、はじめは抽象的なものであってもよい。抽象的な目的が対話を通して、具体的な目
的へと展開していくわけである。たとえば、「世界をよくしよう」というきわめて抽象的なところから
出発もよく、その対話を通して「どのような体制を作ろうか」という具体的なものへ移っていくわけで
ある。

 そうした過程において、時には分裂が起こるかもしれない。しかし、はじめの根本的目的がその人の
中で見失われていない限り、対話の基礎は残る。その根本的な問題を忘れ、具体的、手段的な問題を究
極目的化する時、対話の基盤は失われてしまう。

②主体性の確立

 次になさなければならないのは、その対話に対する自己自身の確立である。

 それはまず、その共通目的に対し、自分がいかに主体的にかかわっているかということの確立であり、
次に、対話の相手との、相互の補い合いの態度の確立である。共通目的と比べて自分の考えがどうあ
るのか、その欠陥は無いか、あるとするならば、それをどう補っていくか、そのような自己反省の態度
なくして真の対話はありえない。もし、自己の存在や自己の思考を絶対化するならば、すでにその時、
共通目的や他者とは断絶した自己になっている。そこに対話はありえない。

③相手への信頼

 次に大切なのは、対話の相手に対する人格的存在としての信頼である。もしそこに信頼が無く、一方
が他方を攻撃し、斥けるための相手と見るならば、その時から対話は途絶える。

問題は、いかにその相手を、共通目的を通じてとらえるかというところにある。共通目的を成就するた
めに共に考え、語り合い、補いあう、そういう形でとらえた時に、はじめて相手を信頼できる。そして、
そのような相手として、共通目的を中心として、授け受けする時、新たな発展が生まれてくる。

 又、相手に対する判断は、常に共通目的を通してしなければならない。共通目的を判断に基準として、
自己と相手の意見の当否を問う時、はじめて何を取り何を捨てるかが明確になってくる。もし自分を
判断の基準にするならば、そこには断絶しかない。

 我々は常に、第三の視点である共通目的の視点を通して物事を見なければならない。

④結果への責任感の確立

 こうした過程を経て生み出されてきた結果には、それがいかなるものであれ、責任をもって主体的に
かかわらなければならない。共通目的を視点として見て、それが不十分なものであれば、次の段階へ向
かって進む。そういう態度が必要であって、生み出された結果が自分の考えに合わないからといって安
易に対話から離脱するならば、そこには分裂がくりかえされるだけであろう。

 ――この四つが極めて原則的な、対話の条件である。最も重要なのは、共通目的の明確化であり、
「私」と「あなた」と「結果」は常に共通目的を指向して存在する。
(参照)

現状分析

 ところが、現在においては、この対話の原理原則がことごとく破られている。

 まず第一に、共通目的の欠如。人類としての目的さえ見失ってしまった人間は目的を分散化し、個別
的目的のみを追求して、連帯性を失ってしまった。一人一人が異なる目的を追求するがゆえに、そこ
には共通の基盤が無く、建設的な対話が生まれない。

 第二に、人間一人一人が、からを作って閉じこもっている事、そして、自分の考えこそ正しいとして、
他の意見を聞こうともしない。共通目的との関係の中で自己を見つめ、必要あらば自己変革もいとわ
ないという積極的意欲の中にはじめて対話が生まれるのであって、現状の自己に満足する自己弁護、怠
慢、高慢の中からは対話は生まれない。

 第三に、他者を尊重しないこと、判断基準が常に自己にあるがゆえに、ひとつの目的を建設していく
共同者としての他者の人格的存在を認めない。そういう中からは当然対話は生まれるはずがない。もし
対話があったとしても、それは形式的な、本当の意向に反した妥協に終わってしまうのである。

 国際、国内、大学紛争にみられる武力、暴力行為は、共通目的を分断させ、二者の間の授受をとだえ
させるから、当然結果もなく、は点もない。

 こうして、原理原則を無視したのみでなく、更に破壊を進めていく。まず、対話と建設の場から離脱
していく。自己中心化は
益々深まり、自分たちだけの秩序と論理を作っていく。次にその秩序と論理を
他者に強引に押しつけ、自分らを他者の秩序と論理の上に立たせ、自分らの勢力圏を押し広げていく。

 このような状態から脱却するために、一日も早く、連帯としての人間存在を見つめ、その高い次元か
ら共通目的を立てながら、建設に向って、対話の輪を広げていかねばなるまい。

大学での対話

 先にあげた図を大学にあてはめるならば、図のようになるであろう。大学の理念(発展性を含んでの)
を指向して、教授と学生の間に授受が行われて、そこに民主的運営がなされ、それが大学の理念と理想
的には一致すべく発展していくのが本来的であろう。しかるに現在の大学は、大学当局
(教授側)と学生と
は、あたかも敵対関係であるかのように対立しあい、そこには何の対話も建設も生まれない。

 そのようになってしまったのは様々な要因があるであろう。まず、大学理念の形骸化。すでに発展す
べき段階が来ているにもかかわらず、古きものへの固執。次に、教授、学生それぞれの内部的未確立、
教授会の日和見的、付焼刃的対応。現代感覚の乏しさ。学生自治会の内部分裂。代表者さえ選び出す事
のできぬ不統一性。それらに従う相互の不信。こうして対話のと絶えた時、学生はそこから離脱し、一
部の学生は自分らの論理と要求を力ずくでも受け入れさせようとする。しかも暴力を正当化する。こう
して紛争は
益々こじれていく。

 そこに得られた結果はたとえ発展のように見えても、原理原則を外したものであるがゆえに真の発展
ではない。力で押し通したものにはやがて歪が来る。力による解決や勝利は、一見勝ちとったように見
えても、それはマイナスの解決と、マイナスの勝利でしかない。対話の原理は暴力をどこまでも排斥す
る。

 又、同時に、紛争をくり返させる要因として、紛争の焦点が外的な問題点のみに終始して本質的な問
題が問われていないことがあげられる。成程、大学紛争は学費値上げ反対闘争等外的な問題を直接の契
機として起こるけれども、本質的な問題は大学のマスプロ化からくる疎外感と不満にあると言えよう。
この本質的な問題解決をないがしろにして外的問題解決のみに終始していたのでは問題はいくらあって
もつきない。

 今大学は正しい意味での対話の回復に努め、現時点における大学理念の確立を目指すべきであろう。