『日韓の新時代を拓く』
 ― 高等教育ならびに学術・文化交流への提言 -

Chang Choo Sik 
 1984年8月 学士会館 張 忠植 檀国大学 総長(当時)                          (チャン・チュンシク) 
   初めに

 日本の先生方が、韓国の現在置かれている立場を非常に良く理解してくださっていることに、私は感銘を受けています。
 私は福田学長(筑波大学学長:当時)にお会いして、今まで日本を訪問してたくさんの大学の教授にお会いしましたが、これほどまでに深く韓国の立場を理解してくださった方はあまりなかったように思います。
 今まで私は、日本の方が韓国についてどう考えているかについて、聞く側に立ってきました。日韓問題について、「こうした方が良い」とか言ったことがありません。日本を良く知って、日本の社会で活動する人たちの考えを良く知ってから自分の意見を出すのが良いと思っています。私は、今まで聞いていた以上に良いものを日本の中に発見しました。

 
  独立運動家の父

 私は父親から日本について、良いことを聞いたことがありませんでした。私は韓国と中国で育ちましたが、戦争以前は父親と2回ぐらいしか会えませんでした。何故父は家族を後にして満州や中国へ行ったのかと思いました。
 ときどき日本の警察が私の家に来て、いろいろなものを捜したりしました。た。私か7~8歳の頃は、社会や民族や国家などの間題について考えたこともなかったので、「何故自分の家に警察が来るのですか。お父さんは悪い人ですか」とよく母親に聞きました。学校に行ったら「おまえの父は不逞鮮人だ」と書いてありました。
 私の父は、韓国独立のための闘士だったのです。その後、私は国民学校に転校しました。終戦のとき、父親に再会しました。
それ以前、親戚や隣の家の人や中国人から、日本人についていろいろと聞いていましたが、皆悪いことばかりでした。このような話ばかりを聞かされていましたので、14歳までは日本に対する私の感情は良くありませんでした。小学校4年生のときから、教室ではハングルを使うことが禁止されました。習慣的に韓国語を使う私達には日本語を話すことは本当に辛いことでした。
 あるとき、隣のクラスの韓国人の先生から、韓国語を使ったという理由で、全校生徒の前で注意され、ひどくなぐられました。そして「不逼鮮人の子ども」と書いた紙を背中に貼りつけられて、学校中を回されました。
 そのとき、長谷川という担任の先生が、私を慰めてくれました。すると私をなぐった韓国人の先生は「そんな奴を慰める必要はない」と言いました。長谷川先生は「まだ子どもです。習慣的に出る韓国語を殴って直す必要はありません。なぐって教育などできません。 日本語を使うように担任の私が責任を持ちますから」と答えてくださいました。そのとき、私は泣きました。この事件がもとで二人の先生はけんかをして、長谷川先生は他の学校に移られました。 私は、この体験を通して、日本人の中にも良い人がいると思うようになりました。私は、父親から日本人の悪いことばかり聞いていたのですが、そんな父の声も心に入らなかったのでしょう。

    終戦時、満州で見た日本人

 昭和19年、ちょうど戦争が終る頃、満州にいた関東軍の家族とか官吏の家族は北朝鮮に移されて収容されました。そのとき私は、日本人達は何の罪があって自分の家から追い出されなければならないのかと思いました。 日本人の表情や生活態度を見れば、父親から聞いたような悪い人とは思えませんでした。
 1946年8月、満州で見た日本人というものは本当に悲惨でかわうそうでした。8月7日、ソ連軍が国境を越えて攻めてきたからです。それまで私は、強い日本を考えたし、日本の軍隊は世界で一番強し、戦争をしたら必ず勝つ軍隊だという観念がありました。ソ連軍が北朝鮮に侵入して以降は、私は北朝鮮に住む日本人の悲惨な生活を情けをもってみるようになりました。
 人間として日本人に対する愛情を感じました。 日本の年をとったおじいさんや子どもや女性を守ってくれる人は、全然いなかったのです。大部分の女性達は髪を切りました。そのことで、ソ連軍がどれだけ日本の女性を虐待したかわかるでしょう。共産党の幹部達は働くことのできる日本人を皆、自分の家に連れていって家の仕事を手伝わせました。 日本の女性には、唐からしを仕込むことは非常に辛いものです。あんなに辛い仕事を我慢できるということは、日本人はきっと悪い人ではないと私は思いました。
 私の父親は日本軍の手によって牢獄に入れられましたが、それは日本のごく一部の悪い人達がやったことであって、絶対に日本国民全体の責任ではありません。[苦労している日本人を助けたい]とお母さんに話して、こっそりとお米を与えました。ごく一部の人達によって戦争が起こり、罪のない人達が苦しんでいると思いました。人間というものは、隣の人とけんかして負けたくやしさを、自分の子どもにまで伝えるということは良くないと思います。

 
過去の過ちのみを追求するのは真の教育ではない

 檀国大学は私の父によって創設されましたが、日本のことについて、度々父親と意見が対立しました。 
私が檀国大学の教授になってから、隣の日本とけんかをするような関係は作りたくないと思いました。李承晩時代は反日を言えば、最も愛国者だと思われていましたが、私は、昔のことばかり捜し出して、自分が一番愛国者だというような顔をするのは最も嫌いです。過去の事実は変えようとしても変えることはできませんが、それを覚えさせることによって、若い青年の将来を歪めてしまう権利は私にはないのです。日本の若い青年と韓国の青年がお互いに仲良くして、万が一、仲が悪くなっても仲直りしようと努力するのが人間の良い暮らし方であり、知性のある人の生き方ではないかと私は思います。勿論どの国でも、どの民族でも、隣の国と常に仲が良かった関係は歴史からは発見することができません。悪かったこともあるし、よかったこともあるし、侵略したこともあるし、侵略を受けたこともある、これが人類の歴史です。この経験をもとにして、けんかするよりは平和的に暮らす道を探す方がもっと利口で賢明だと思います。
 私は学生達に「もちろん、擅国大学は独立運動家であった私の父によって創立されたけれども、私は反日教育に対しては反対する。父の時代は父の時代であり、私の時代は私の時代である。過去の良い点は相続して、悪い点は相続しないのが、歴史の発展の過程と考える」と言います。自分の考えと経験によって、良くないものをそのまま受け取ることは賢明ではないと思います。一部の大学の理事の中でも、[君の父親は反日運動家だったが、なぜ君は擅国大学に日本語学科を作ろうとするのか]と言う人がいます。
 私は度々日本を訪問しましたけれども、日本人から学ばされることが多いと考えました。もちろん日本の歴史についてはよく分かりまぜんが、中国の歴史を学ぶと、日本人が今日に至るまでに我々の民族が経験できないものを培ってきていることが分かります。その経験の中には良いものもあるし、悪いものもあります。日本の悪い人達がしたことばかり思い出させて、日本人とけんかしながら暮らそうというのは、教育面においては真の教育ではないと思います。
 もちろん人間によって自分個人のため、家庭のために暮らす小さい人間もありますし、少し大きい人間は自分の民族と国家のため犠牲的に生きる人もあります、私の理想は自分の民族、国民の発展、幸福のためだけに慟く人間よりは、人類のために働く青年を育てたいということです。
 私の大学で昔、私達が36年間日本人からやられたことばかりを覚えさせて日本人は悪いというような意識をもった人間を作るよりは、戦争に反対して韓国人に情げを与え、愛も与えた日本人もたくさんいたことなど、日本人が韓国人に対してやった良いことを子孫に知らせることが必要だと思います。

 
日本から学ぶものは科学技術だけか 

 韓国の将来の教育政策について、日本の科学技術とか桙学の情報だけを取り入れようという考え方だけでは、韓国の発展はないと思います。もちろん一部の学者の中には、アメリカやヨーロッパから直接技術や科学の情報を取り入れようという人もいますけれども、いろいろな事情を考慮してみた場合、人間は知識と科学の技術だけを導入しては絶対利益にはならないと思います。人間の考える価値観が変おってきて、技術、情報が入ったときは国の将来にとって利益に反することにもなります。韓国の学生運動の中でも、相当学生にそういう利益を与えた先進国出身の教授もいます。政治的文化的発展過程というものは、韓国は日本と違うし、またヨーロッパやアメリカとも違います。若い青年達がヨーロッパやアノリカに留学して、そこで7~8年間、その社会を見て、その社会を全部知り尽したように考えてしまうわけです。「こういう国がこうして暮らしているのに、何故韓国は政府がこうするす。日本人の持つ「精神の宝」を慕っているのです。私は、これこそ日本人のルーツだと思います。
 日本の結婚式や葬式を見ると、皆きちんと礼儀正しい着物を着ています。世界のどの国に行っても日本みたいな国はありません。人間の生活の中で一番重要なものは、葬式と結婚式です。その儀式において日本は世界の模範です。人間の根本的生活において日本人は真面目です。便利な生活を営みながら、お互いに守るべきことはきちんと守る、これは法律によって規制されているのではありません。韓国は最近,「家庭準則」というものを作りました。宗教の精神が強かった韓国において、そういうものを作らざるを得ないようになってしまったのです。守れないから準則を作ったのです。日本みたいな国は世界どこに行ってもありません。これが、現在の日本の科学を発達さぜた原動力だと思います。
 日本人が持つ長所は、日本人にはその価値がよく分らないと思します。しかし、まわりの人からはよく見えるのです。
 私の姪は東京教育大学の博士課程に学んだのですが、日本人と結婚しました。反日感情の強い私の氏族でしたから、それは大変でした。私は姪の祖父に向って「姪の人生は、お父さんの人生ではない。 お父さんには良い人間をつくる義務はあるけれども、孫の幸福をとざす権利はない。」と言ったのです。それで、日本で結婚式をあげました。その結婚式に参加してびっくりしました。戦後の日本は乱れているのではないかと思っていましたが、きちんと伝統が守られていました。
 中国や台湾に行っても、アメリカやヨーロッパに行っても、それぞれが日本とは違う面を持っています。いつもおいしい御飯を食べる人は、米がどんなにおいしいかということが分らないのと同じです。

 日帝36年間は日韓両民族の痛み

 韓国人と日本人は顔つきがほとんど同じです。人口も共に多いです。日本と韓国とは、いろいろな面において似ています。
 昔、王仁博士が日本に行って漢字や儒教を伝えたからとか、法隆寺の塔が日本にあるから、という文化の優越感をもって、日本から文化的なものは学ばないというのは良くないと思います。日本人が詠んだ俳句や万葉集の中で、日本人はどういう哲学を持っていたのでしょうか。日本の歴史の中において、私達が反省すべき部分を発見しなくては、日本の科学を取り入れても韓国の利益にはならないと思います。反日感情よりも日本から本当に学ぼうという面を教えながら学術交流を促進する場合には、若い青年達は悪い先入観を持だないで熱心に交流できると思います。もし反日感情を持つたままで日本から科学技術を受けようとする場合、果して正直な気持で受けることができるでしょうか。それはできないと思います。父親達はけんかをしましたが、私達は世界の中で一番仲の良い兄弟として、アジアと世界のため暮らそうという心構えを持つとき、初めて安定した韓日関係を見ることができると思います。
 姪の結婚の件で、日本の今の若い人達は韓国の植民地時代のおじいさん、お父さんとは違う日本人だと思いました。これは韓国も反省しなげればなりません。
 韓国では、「政府を批判する人は良い教授である」という考えがあります。政府の政策に対して、悪いものは悪いと批判するのが教授の立場ですが、真に自分の実力と批判を共にしなくてはいけません。
 終戦後、反日感情をもって子ども達に日本のことを教えることは、一番愛国心があるような印象を与えたものでしたが、私はこのことが理解できませんでした。戦争が終って40年という歳月が流れました。以前は日本とアメリカは敵国同士でした。それが今は、お互いに仲良く世界の平和のためにやっています。もしアメリカ人が40年前の日本軍の真珠湾攻撃のことを、いつも口に出せば日米の関係はどうなるでしょうか。長い人類の歴史の中で、それは一つの点にしかすぎないのです。私は日帝36年間へのつらみは持っていましたがそれは韓民族だけのつらみではなくて、日本民族のつらみでもあったのです。やった人もやられた人も、同じ痛みを感じていると思います。日本の立派な知性は、36年間の韓半島統治に対して痛みを感じていたのです。
アングロ・サクソン民族もラテン民族も皆、植民地政策をとったのです。これは、植民地政策をとった民族だけの罪ではなく、全人類の罪であると私は考えるのです。

日韓新時代は双方の努力で

 過去にはいろいろな辛い経験があるのですが、しかし、韓国には希望があります。韓国の青年達の中には、日本の青年達と仲良くしようという心を持っている大がたくさんいます。そういう青年達が将来、韓国の重要なポストに就いたとき、[]本と韓国との関係は、決して悲観的なものでなく、 楽観的なものになると思います。
 日本の先生方が韓国の大学にいらっしゃって、学生の前で特別講演というかたちで、先生方の韓国に対する関心などを話していただけたらと思います。
 今日ここにお集りの先生方が、南北に分断された韓国の実情や韓国の将来の安定のために大変心配してくださることに対して、本当に深い感銘を覚えました。このような情けは、将来において日本を救うと思います。
 もちろん韓国人の中にも悪い人はたくさんいます。そういう人を隣と仲良くさせようというのが私の哲学です。
私は、日本の学生と韓国の学生の双方の利益のために私の一生涯を捧げたいと思っています。教育者はこういう心構えを持たないと、考えの狭い人間を作ることになってしまいます。
 努力する情熱を持つならぱ、難しい問題は皆、解決すると思います。日本人のスケールの大きさを私は発見しました。日本では親韓派をたくさん作ってください。私の方は親日派をたくさん作ります。
 私の大学では東洋史は中国史が中心です。日本史はありません。隣の国でありながら、日本の歴史を教える機会もないし、教える人もいません。韓国人は日本によって占領された事情は良く知っていますが、日本の歴史については知らないのです。やはり親がどうするかによって、子どもの将来が決定すると思います。先生方の努力は必ず実を結ぶと思います。


張 忠植
1955年ソウル大学校師範人学歴史科卒、57年、檀国大学政治外交学科卒、60年.高麗大学校大学院史学科卒、73年オハイオ大学名誉博士学位授与。現在、檀国大学総長、大韓オリンピック委員会副委員長、大学教育協議会会長、大韓エスペラント協会会 (1984年当時の肩書) 
追加:1932年天津生まれ、東洋史専攻・教授、韓国全国大学総長会議会長、南北韓体育会談首席代表、国際RotaryClub3650地区総裁、韓国赤十字社総裁歴任、現職:檀国大学理事長 著書:漢韓大辞典16韓編集、中国・東洋史関連学術書、論文集、長編小説、随筆集など多数。(『麗し絆』2018年1月31日出版より)

「TheAcademy News 第67号」より
1984年9月20日 発行人:松下正寿 発行所:世界平和教授アカデミー・東京都千代田区麹町5-7紀尾井町TBRビル907(当時)
   檀国大学校 - 実践女子大学


麗しき絆 張忠植著・宋貴英訳

動乱の日韓を結ぶ愛の物語

 張忠植(チャン・チュンシク)氏は檀国大学理事長で大韓赤十字社総裁。
1932年、中国の天津生まれなので、終戦直後から朝鮮戦争までの朝鮮・韓国、日本を舞台に
活躍した主人公・李大成(リー・デーソン)の物語には、著者の体験がかなり反映されているの
だろう。アクションに恋愛、戦後韓国の政治闘争も絡んで面白く読ませる。著者は東洋史家にして
大学経営者だが、作家としての力量も確か。

 朝鮮では光復の年、満州・吉林の中学校(今の高校)の夏休みに、大成が今の北朝鮮北部にある
実家に戻るところから話は始まる。既にソ連が侵攻していて、残された日本人は略奪や暴行に怯え
ていた。近くにあった関東軍家族の収容所で、困っている日本人を助けた大成は、将校の妻で七歳
年上の新井正子と出会い、幼い娘を抱え苦労している彼女の世話をするうち、恋愛関係になってし
まう。

 大成の父は朝鮮独立の活動家で、上海臨時政府をつくった金九の派に属していた。北はソ連、
南はアメリカが支配し、朝鮮人抜きで政府樹立の動きがあり、活動家たちは抵抗を始めていた。
そんな家族にとって日本人の人妻を愛し、妊娠させてしまった大成は許せない息子だったが、母親
は最終的に認め、正子を安全に帰国させようとする。

 帰路の混乱で娘を死なせた正子は、行方不明の夫との愛は冷めていたこともあり、大成の子を
一人で育てることを決心し、両親と夫の実家を訪ね、離縁を申し出る。やがて夫の死亡が伝えられ、
看護婦だった正子は病院勤めを始める。

 正子に会いたい一心の大成は密航船で対馬に渡り、再会を果たす。その後、朝鮮戦争が始まると
大成は従軍を志願、戦場で活躍するが、攻撃を受け失明してしまう。そして収容された外国籍の
病院船で、看護婦として働いていた正子と再会する。2人は病院長の仲人で結婚式を挙げ、正子は
眼球の1つを夫に提供し、彼は視力を回復する。

 他界した両親から遺産で韓国の戦争孤児を救うよう遺言された正子は、韓国在住を決意し、
夫婦で孤児院を運営するようになった。まさに麗しい絆が織り成した戦争小説である。
   
  書評:多田則明・ルポライター 


朝鮮独立運動家として
活躍し、戦後大学創立者
なった父親の志を受け継いで教育者として
一生を捧げてきた著者。

過去には大学総長を努め、現在財団の理事長
として活躍中の
著者張忠植先生の善隣精神が
綴った小説。

国籍の違う青年と人妻の愛と絆
二人の愛は不可能の限界を越えて奇跡を起こす。 

人生に偶然というものは無い。最善を尽くした
結果がある
だけだ。愛とは、自分にとってたった
一つしかないもの
さえも喜んで相手に与えること
ではないだろうか

 【麗しき絆】2018125日初版印刷 
          2018131日初版発行

 著者 張忠植   翻訳 宋貴英

発行所  韓国・NosVos社、Tel:031-8005-2405
      1689京畿道龍仁市水枝区竹田洞152

定価(本体1,800円十税 ISBN 978-89-7092-598-1 



著者:張 忠植 (文学博士)
1932年中国天津生まれ,東洋史専攻・教授
檀国大学総長,韓国全国大学総長協議会会長
南北韓体育会談首席代表,大韓体育会副会長
韓国赤十字社総裁,冬季オリンピック委員長
歴任, 国際RotaryClub3650地區総裁
学校法人擅国大学理事長(現職)

〈著書〉
漢韓大辞典(全16巻)編纂、中国・東洋史関連学術書、
論文集、長篇小説、随筆集、瞑想録、書簡集など、
多数 
翻訳者:宋貴英 (文学博士)
韓国外国語大学日本語学科卒・同大学院卒,国費奨学生
として渡日、千葉大学大学院研究生,中央大学大学院文学
研究科博士課程卒、平安文学専門, NHK TV 韓国語講座
「アンニョンハシムニカ」, 韓国EBS TV 日本語講座講師
檀国大学校日文学科教授(現職)

〈著書〉
「源氏物語一考察」、「紫式部研究」等、論文多数
『ゴツゴツ日本語』(全6巻)等
『韓国の神話・伝説』東方書店(日本)
『洪蘭坡・評伝』擅国大学校出版部(韓国語訳) 

                   

  『鳳仙花 評伝・洪蘭坡』  遠藤 喜美子【著】

 「鳳仙花」「ふるさとの春」を作曲し、戦前に活躍した韓国の音楽家、
 洪蘭坡。 その生い立ち、音楽的貢献等をはじめとして、宗教的・時代的背景にも言及しなが ら、彼の生涯に多角的にアプローチする。

 激動する日朝・日韓の狭間にあって、クリスチャンとして、愛国者として苦悶しながら、ひたす ら芸術の道を歩んだ洪蘭坡。
 故郷を限りなく愛した彼の歌は、「鳳仙花」「故郷の春」等、北や南を問わず、国民に親しまれ ている。

 目次

 1. 洪蘭坡とは誰なのか      2, 洪蘭坡の生い立ち
 3, 音楽家・洪蘭坡の誕生    4, 日本そして祖国での活躍
 5, 日韓の十字架


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   福岡県に1927年12月生まれ。国立市谷保在住。福岡県立女子専門学校現福岡女子大学)
 国立音楽大学声楽科卒。東京芸術大学大学院 音楽教育研究修了(音楽教育を浜野政雄
、民族音楽を小泉文夫)、ダルクローズ指導法を板野平、声楽を横田孝、山田耕作、四谷文子
 の各氏に師事。「正しい日本語と美しい歌」の勉強を続けている。盛岡大学教授、同大学附属
 厨川幼稚園園長、聖学院大学教授、同大学児童学科長を歴任、2002年3月定年退職。

 「高齢者福祉を考える会」代表、「くにたちふれあいコンサート」を開催。2018年で第15回目。
 著書:「評伝 洪蘭披」は、‟朝鮮近代音楽の父”初の評伝との評価が高まり、2017年4月10日、
 洪蘭坡生誕120年祭には、念願の韓国語版も出版され、ただ一人の日本人として招待され、
 洪蘭坡評伝のエピソードと歌の独唱は、聴衆に涙と感動の渦を巻き起こした。

 2013年4月、ソウル市中央テレビ局にて、洪蘭披作曲の韓国歌曲を独唱、また児童合唱団と
 協演、放映。同年5月7日、韓国ハンギョレ新聞 “ひど欄" に詩人李承信と共に韓日両国の
 芸術家として紹介される。   
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