憲法9条とケーディスの秘密

1.レオナルド・ダ・ヴィンチと『モナリザ』の秘密

ルネッサンス期の最高傑作の一つである名画「モナリザ」を知らぬ人はいない。『最後の晩餐』と
並ぶレオナルドの最高傑作のひとつである。ルーブル美術館にあるその名画を直接に見ることの出来
ない人々でも、学校の教科書やポスターなどで間接的にはほとんど全ての人々が見ているのである。
モナリザの微笑といわれるようにその神秘的な微笑み、まさしく誰をもひきつけて離さないほほ笑み、
モナリザを一目見た人はその微笑のとりこになって、何かを考えさせられてしまうのである。ミステリ
アスなその微笑を浮かべながらモナリザは世紀を越えてすべての人々を見つめてきたのである。

今日まで世界各地で、“なぜだろうか?”と、この名画に関しての、いろいろな研究までも行われて
きたのである。筆者もずいぶんと昔になるが月刊雑誌で「モナリザの秘密」に関した論文を読んだこと
があり、その論文では「モナリザのモデルは女装したレオナルド自身で、鏡に映った女装レオナルドを
うっとりと見つめながら、自分自身でミステリアスナ微笑を浮かべながらナルシズムに慕って描いたの
だ!」と言うような内容でかなりの説得性を持って書かれてあったのを記憶している。

先日も、あるテレビ番組で「モナリザの秘密」に関して特別番組を放映していたのである。この番組の
結論に、単純人間である筆者はいたく感動し共鳴してしまったのである。番組ではレオナルドの人柄や
合理的、科学的思考性や人間研究からその延長線上で死体の人体解剖にまで夜な夜な取り組む不思議な
キャラクターなども映し出されていた。名画、「最後の晩餐」が幾何学的思考を組み込んで合理的に計
算されて描かれていることなどが実証的研究に基づいて明らかにされたとのことである。

「モナリザ」ことであるが研究者達の意見ではその顔の左半分と、右半分とが異なったアングルから
描かれているとのこと。二重の顔の重なりが不思議な雰囲気をかもし出しているのだと。そしてテレビ
はついにある所(レポートされた場所を筆者は記憶できていない。忘れてしまった)に存在していたレ
オナルドに関する貴重な文章を発見したが、それによればレオナルドはホモSEXの罪での犯罪歴があ
ったこと。そう言えば、そんなことがあって『女装のレオナルド』などという奇怪なご意見が出てきた
のかもしれないが。またモナリザのモデルは実在し、“ラコンテ”という夫人であったこと。レオナル
ドは喪服のラコンテ夫人の絵を描いたようである。彼女が子供に死に別れた時の悲しみの消えない喪服
のモナリザなのである。この絵だけではモナリザの微笑にはならなかったと思われるが、この悲しみの
喪服のラコンテ夫人の作品をレオナルドは大切に長い間持ち続けたのである。ところが数年後にラコン
テ夫人が妊娠されたのである。その喜びのもう一枚の作品をレオナルドは同様の背景と同様の服装(喪服)
のもとに描き、二枚の絵を一枚にしてしまったようである。右半分の顔が喜びの顔である。喪服を着た
微笑のモナリザが完成したのだというのである。こんな不思議な顔がこの世にはないのである。こんな
ミステリーな微笑はこの世にはないのである。この絵の背後にある不思議な秘密をレオナルド以外は誰も
知ることがなかったのである。

 筆者は上記のテレビ放送に感激したが、同時に日本国憲法9条を思い出さざるを得なかった。日本国
憲法9条にもレオナルドの秘密にも勝るとも劣らない“ケーディスの秘密”があるのである。“ミステリ
ィーアスな日本国憲法9条の秘密”を明確にして,不毛だった60年に亘る憲法論争に決着をつけ、昭和
憲法に終わりを告げて、平成新憲法を制定すべきであろう。

2.マッカーサー・ノート及び戦争放棄二原則

マッカーサー元帥は、1946年(昭和21年)2月3日マッカーサー・ノートを示して日本国憲法
草案作成を民生局ホイットニー局長に命じたのである。いわゆるマッカーサー三原則である。その年の
2月26日に極東委員会が戦勝国の参加のもとに行われることになっていたこと。ここでの日本占領に
関する絶対的主導権をとるためにも、日本国憲法改正草案を作って保持しておきたかったこと。その為、
既に昭和20年10月4日には、マッカーサーは日本側に“憲法改正の必要性を示唆”していたのである。
日本側も政府はもとより、自由党から共産党にいたるまでの各政党もそれぞれの“憲法草案”を作りあげ
た(あげつつあった)のである。2月1日に日本政府・松本国務大臣による『松本草案・いわゆる甲案』
が毎日新聞にスクープとして報道された。日本政府はこの事件により急きょ同日中に『松本草案要綱及び
その説明書』をGHQ司令部に提出したのである。それを見たマッカーサーはこの草案をこころよく思わず、
GHQサイドで日本国憲法改正草案を作成するべく決意して、急きょ2月3日に前記ノート(マッカーサー
メモ)を手渡したのである。もちろんこのことは極秘であり当時としてはマッカーサー、ホイットニー
(民生局長)、そしてケーディス(民生局次長)など限られた民生局の者だけが知るのみであった。

GHQによる“日本国憲法改正草案”は一週間後の2月10日には完成し、マッカーサーに報告され、
その後2月12日に印刷され、2月13日には日本側、吉田外相、松本大臣に手渡されたのである。もち
ろんのことこの段階では英文の日本国憲法改正の草案であった。これを日本側では、外務省により日本語
に翻訳し2月19日の閣議に提示して、それまでの経過説明を松本大臣が行ったのである。

マッカーサー三原則は後日,二項目加えられて五原則になった。(1)天皇制に関して、(2)戦争放
棄に関して、(3)皇族を除く華族制度の廃止に関するもの、そして(4)一院制の議会に関するもの、
(5)予算の制度は英国の制度によるべきこと。であった。

この中で最も大きな問題を日本の戦後政治にもたらしたものは(2)の「戦争放棄」に関するものである。
『マッカーサーメモ』によれば「国家の主権的権利としての戦争を放棄する。
『日本は紛争解決の手段
としての戦争』、
および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。』日本は
その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。いかなる日本の陸海空軍も決して
許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には与えられない。」というものであった。
が9条
に関するマッカーサー指令二原則なのであった。
マッカーサーは憲法改正草案作りとその完成、及び日
本国憲法成立の過程において、天皇に関する条項と第9条の戦争放棄に関する条項は絶対に引くことのない
第一優先の課題であることを強調したのである。(佐藤達夫『日本国憲法成立史』第3巻・有斐閣1994)

完成した憲法9条は『戦争の放棄』日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に
これを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、
これを認めない。となっているので
ある。

3.ケーディスの秘密

ここで最も重要な点は『自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する』という項目
が削除されていることである。民生局次長・ケーディス大佐がこの部分を削除したのである。憲法第9条の
生命線である条文の削除なのである。これらのことは全て当時の日本サイドでは誰も知らなかったことなの
であり、後日に知られるようになったのである。1984年11月憲法学者である西 修教授は米国マサチ
ューセッツ州にあるケーディス大佐宅を訪問してこのことを明確に確認したのである。(西 修著『日本国
憲法を考える』文芸春秋社1999)

このことが日本国憲法9条をミステリーにしている秘密なのであり、あいまいな条項にしている秘密なの
である。確かに「戦争の放棄」の第9条を素直に読めば「自衛のためにも」戦力を持つことが出来ず、その
為にも交戦権がないように理解するのが極普通の日本人の感覚であろう!マッカーサーの本来の意図したも
のがそれだからである。

何よりも第90帝国議会の審議(制憲議会-衆議院)(1946年)にて、共産党の野坂参三議員が「侵
略された国が、自国を護る為の戦争は正しい戦争、といって差し支えないと思う。いったいこの憲法草案に、
『戦争一般の放棄』、という形でなしに、『侵略戦争の放棄』とするのが正しいのではないか?」と質問し
たのであるが、これに対して吉田茂総理は以下のように答弁をしたのである。

「戦争放棄に関する憲法草案の条項に於きまして、国家正当防衛権による戦争(自衛の為の戦争)は正当な
りとせられるようであるが、私は斯くのごときを認めることが有害であると思うのであります。(拍手)近
年の戦争は多くは国家防衛権の名に於いて行われたる事は顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認め
ることが戦争を誘発するところであります。正当防衛による戦争が若しあるとするならば、その前提に於い
て侵略を目的とした国があることを前提としなければならないのであります。故に正当防衛権を認めるという
ことは戦争を誘発する危険な考えであります。ご意見のごときは有害無益の議論と私は考えます。」

このようにケーディスにより削除された部分『自衛権に関する部分』『自己の安全を保持するための戦争』
『自衛のための戦争』の項目は9条全文の論旨を完全にかえるには至ってはいないといえよう。また吉田茂
総理の答弁を見てもケーディスの削除は誰にも知られていない『秘密』なのであった。

もしも『ケーディスの秘密』がなかったならば、憲法9条自体が「違憲条項=憲法違反」になっていたものと
考えられる。ケーディスの母国、米国憲法の前文には「われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、
正義を確立し、国内の平穏を保障し、『共同防衛』に備え、福祉全般を増進し、われらとわれらの子孫に自由
のもたらす恵沢を確保する目的を持ってアメリカ合衆国のためこの憲法を制定する」となっているのである。
憲法制定の中心的目的の一つが『共同防衛』=『国家と国民の自衛権の確保』(国家の独立と主権の確保及び
国民の基本的人権の確保
=生命の安全保障、自由の保障、財産・所有権の保障など)にあるのである。自衛権
をあたかも否定するがごとき条項を憲法に明記するならば、そのこと自体が憲法制定の中心目的に反するもの
となり、「違憲条項」となってしまうのである。「ケーディスの秘密」により憲法9条はあいまいなまま辛う
じて憲法違反の違憲条項とされずに、黙認条項として残存を許されたのである。

また日本国憲法9条は1928年の不戦条約をもとにして作られたものであるが、同条約では、「国際紛
争を解決する手段としての戦争」と共に「国策を遂行する手段としての戦争」も違法であると明記されているが、
その両方共に『自衛のための戦争』は含まれていないとの国際的な合意があったのである。

ケーディス大佐は当時40才コーネル大学を卒業後ハーバード大学ロースクールで法律を学び、この時既に弁
護士の資格があり経験もあったのである。「ケーディスの秘密」は後日、日本のテレビや新聞でも繰り返し報
じられたのであるが、なぜかこの重大な出来事の真意が国民に伝わっていないのであるが不思議なことなので
ある。このことが明確にされれば日本国憲法9条が「死亡宣告=欠陥憲法宣告」を受けてしまうからであろう。
意図的にこのことを無視してきたのか、触れないようにしてきたものと言えよう!

 次に「ケーディスの秘密」により憲法9条は「自衛のための戦力はこれを持つことが出来るとの可能性が残っ
たのである。後日、最高裁判所は「統治行為論」なる判決により自衛権が正当な権利であること、自衛隊、日米
安全保障条約の存在を違憲とはいえないと「黙認的に認可」したのである。(明白に違憲と認められない限り、
裁判所の違憲審査権の範囲を超えており、主権者としての国民、その代表としての内閣及び国会の判断に従う
べきものである) いずれにしてもケーディスの秘密により「国際紛争を解決する手段としての戦争」「日本
国憲法9条で禁じられている戦争の放棄」には『自衛のための戦争は含まれていない』と解釈ができる可能性
を残したのであり、『自衛の為に戦力を保持することは可能である』と解釈ができるようになったのである。

しかしマッカーサー自身も考えと解釈を変えたり、日本国政府の解釈も180度に近いくらい変化したので
ある。自衛隊、日米安全保障条約に関しても最高裁と下級裁判所で判決が180度に近く異なって出されたり
してきたのである。「ケーディスの秘密」は良かったことだと考えられるが、日本国憲法(昭和憲法)を長々
と生きながらえさせることにも通じ、日本の戦後政治を大混乱に貶めたことも事実であろう。

憲法9条をどう解釈するかにより政党まで分かれ、不毛の防衛論争を続けてきたのである。あいまいな憲法
9条こそが日本の政党民主主義確立への最大の否定的要素であったし、日本を蝕むガン細胞の様でもあった。
あたかも『日本の政治的原罪』のようなものであった。ケーディスの罪でなく、日本人の罪であり、憲法改正を
立党の目的にしたにもかかわらず全くもって不熱心であった「自由民主党」、それを支持して来た国民の責任は
小さくは無いのである!

                         2004年4月19日
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憲法9条の改革を! 長嶋 朋爾  動画⇒

 憲法9条の成立経緯  西 修
1) はじめに 2 )発案者をめぐる謎 3) 成立にいたる過程 4)戦争放棄条項と文民条項

マッカーサーとその「ノート」、そして九条解釈  加藤 秀治郎
    「東洋法学」巻51号1ページ93-109 2007.10.15
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「憲法第9条の成立と武器なき国防」  三石 善吉 筑波大学大学院学長
 
 「武器なき行動」「武器なき国防」論は、チェコスロバキア
(1968年)の場合のように、
大国に囲曉された小国生存の政策という、いわば「現実政治」の必然の帰結ともいうべき
面と、カント「永久平和論」に見られるところの人間を戦争の手段と見做すことを拒否し
た、いわば「人間の崇高な理念」の表現というべき二つの面をもつ。
 われわれは、「戦争違法化」の理念を更に一歩進めて、「戦争の放棄・戦力の不保持」と
いう、いわば「武器なき国家防衛」を日本の国家目標として実現するには、どうすべきか
と言う観点から考察を行うが、その前提として、憲法9条に表明されている崇高な理念を
日本国憲法の条文中に明記したのは一体誰か、一体何故なのか。日本政府はこの第9条
をどのように考え、現実にどのように運営してきたのかを振り返ってみる。こういった視
点からの研究はすでに膨大な研究の蓄積があり、ここではその通説確認の作業を行うこと
にする。

第一節憲法第9条の成立とマッカーサーの戦略

 戦争放棄・戦力不保持といった「武器なき国防」を宣言する日本国憲法第9条は一体誰
が提案したか。その「発案者」は一体誰であったのか。その条文はどのように現行憲法
の第9条となって行ったのか。こういった疑問は単に第9条の成立に係わるだけではな
く、日本国憲法全体の成立史に係わることは自明であって、以下では、この日本国憲法の
成立に関する通説というより常識をまとめておく。
<日本国憲法成立簡史>
 マッカーサー元帥は1945年10月4日東久邇宮内閣の無任所大臣近衛文麿に帝国憲法改正
を指令する。それとは別に、9日後の10月13日、新しい総理大臣・幣原喜重郎(10月9日
組閣)は、松本烝治国務大臣を委員長とする「憲法問題調査委員会」を設置し、憲法改正
作業を開始させる。この10月13日の新憲法制定の新聞報道を契機に、政党あるいは民間の
憲法草案が作成され、新聞にも報道され始める。1946年1月4日にはいわゆる松本案(甲
案と乙案)が脱稿し、1月30日、松本大臣は閣議において「松本私案」「甲案」「乙案」を
説明する。この案は帝国憲法とほとんど変わらぬものであった。その2日後の2月1日、
『毎日新聞』は政府の憲法改正試案全文を1面トップで報道する。『毎日』の大スクープ
である。報道されたのは「宮沢甲案」であったが、これは「松本甲案、乙案」と大差のな
い案であって、『毎日新聞』すら「あまりにも保守的、現状維持的のものにすぎないことを
失望しない者は少いと思ふ」と酷評した1)。
 しかし最も「失望」したのは実はマッカーサー元帥であって、この日のうちに、「松本
案」を拒否し、代わって総司令部民生局(ホイットニー民生局長)に憲法の原案を作成さ
せようと決意する。体裁はあくまで日本側が作成したことにする。2月2日夜には、マッ
カーサー元帥とホイットニー陸軍准将とによって、いわゆる「マッカーサー・ノート」
(天皇の存続・戦争放棄・封建制度の廃止・イギリス型の予算制度の4点を含む)が作成
され、この「ノート」に基づいて総司令部民生局25人のスタッフの章別・条項別分担で
(誰がどの章を担当したか判明している)、日本国憲法草案作成の作業が2月4日午前10時
から開始する。このとき期限は1週間とされたが、実際には2月12日深夜までかかり、結
局9日間で民生局は、全92条からなる日本国憲法の草案(英文である)を完成させる。
「密室の9日間」と言われるゆえんである2)。2月12日に予定されていた「松本案」の
非公式検討会談は、翌日の2月13日に行われた。
 1946年2月13日午前10時、麻布の日本外務大臣官邸において、日本側は吉田茂外務大
臣、松本烝治国務大臣、通訳の外務省嘱託長谷川元吉、終戦連絡中央事務局次長白洲次郎
の4人、アメリカ側はホイットニー民生局長(陸軍准将)、ケーディス民生局次長(陸軍大
佐)、ハッシー(海軍中佐)、ラウエル(陸軍中佐)の4名(4人とも憲法草案作成に忙殺
され、前夜から一睡もしていない)の会談が予定通り行われた。「松本案」検討の非公式
会談と思い込んでいた日本側は全く新しい憲法草案(全11章92条。戦争放棄は第8条)を
いきなり突きつけられて驚愕・動揺する。
 結論から言えば、日本側は2月22日の閣議で、この総司令部民生局原案受け入れを決定
し、3月5日までに、この英文憲法の翻訳修正(「日本化」)を完了する。1946年3月6日
午後5時、日本政府はこの新しい「憲法改正草案要綱」(全文。11章95条。片仮名、文語
体)を発表し、翌3月7日の各紙は「戦争放棄の新憲法草案 」、「主権在民・戦争放棄」
と一面トップで大きく報道した。「憲法改正草案要綱」発表後、新しい憲法は口語でとい
う要求を受け入れ、4月3日入江俊郎内閣法制局長官、佐藤達夫局次長らは1日がかりで
この作業を完了する3)。
 1946年4月10日、新しい選挙法(女性の参政権・20歳・大選挙区)で衆議院議員選挙が
行われた。自由党141、進歩党94、社会党93、協同党14、共産党4、諸派38、無所属
81である(この新議員たちが2ヶ月後の6月20日から審議することになる)。その翌週の
4月17日、政府は「憲法改正草案」を発表する。翌18日の新聞報道によって、国民は初めて
「口語・平仮名」で書かれた斬新な日本国憲法の全貌を知り、感動を持って迎える。
 つまり国民は1945年10月13日の各紙の報道で政府が憲法改正に着手した事を知る。
その後、後に示すように、政党、学者、個人によるいくつかの「憲法改正案」が各紙に報道さ
れる。1946年2月1日に至って、『毎日新聞』が政府案を「スクープ」し、国民は始めて
旧態依然・保守的な政府案を知ることになる。それからほぼ1ヶ月後の3月7日、今度は、
国民は、まったく逆の、革命的とも言うべき新しい憲法の全貌「憲法改正草稿要綱」を知って
衝撃をうけ、さらに4月18日の新聞報道によって、三度、国民は法律として成文化された、
「口語・平仮名」の新憲法を好意を持って歓迎するのである。1946年6月20日から始まっ
た第90回帝国議会で衆議院(8月24日)と貴族院(10月7日)の可決を経て、1946年
11月3日、日本国憲法が公布され、6ヵ月後の1947年5月3日から施行される。
これが現行憲法である。

<「戦争放棄・戦力不保持」の発案-アメリカ政府ではない>
 「ポツダム宣言」はもちろん「150」「228」といった日本降伏の前後にお
いてアメリカ政府から出された具体的「指令」の中に、戦争放棄・戦力不保持といった
第9条の内容に相当する文言は全く存在しない。戦争の違法化という高邁な思想もアメリ
カ政府による日本占領政策の具体的指令として提示すらされなかった。以下はこの確認作
業である。
 アメリカ政府は、1944年1月14日大戦の終局を想定して、国務省内に「戦後計画委員会」
を新設し、同年12月末には国務省と軍部との調整機関として「国務・陸軍・海軍三省調整委員
会」を設置した。
「」は来るべき日本降伏後を想定して、1945年6月11日「米国の日本打倒後の初
期対日方針(150)」を決定する。この「方針」は「アメリカが直接介入して、憲法・
社会制度から教育・思想まで、侵略戦争を許容するような要素を全て取り除いて、民主的で
平和な社会に作り変えるという手荒な方針」4)であるが、この中には「戦争放棄・戦力不保持」
といった「憲法第9条」に相当する「方針」は全くない。
 「ポツダム宣言」は、全13条からなる「日本国の降伏条件を定めたる宣言」である。これ
は1945年7月17日からベルリン郊外のポツダム()で開催された主要連合国会議で採択
され、この会議には参加しなかった中華民国政府の同意のもとに、1945年7月26日、
合衆国大統領、グレート・ブリテン国総理大臣、中華民国政府主席の名のもとに発せられた。
この中には「無責任なる軍国主義の駆逐」や「日本国軍隊の完全なる武装解除」を言うけれども、
「戦争放棄・戦力不保持」の国家目的を掲げていない。
 1946年1月7日アメリカ政府は「日本の統治体制の改革」(228)を承認し、11日
にはマカーサーに送付している(参考資料かつ極秘扱いである)。その文書の中に、 ◎日本人が、
天皇制を廃止するか、民主主義的方向に改正するよう奨励しなければならない。日本人が天皇制
を維持すると決定した時は、次の安全装置が必要である。
 ○国民を代表する立法府が選任した国務大臣が、立法府に連帯して責任を負う内閣を構成する。
 ○天皇は、一切の重要事項につき、内閣の助言に基づいてのみ行動するものとする。
 ○天皇は、憲法に規定されている軍事的権能をすべて剥奪される。
 ○内閣は、天皇に助言を与え、天皇を補佐するものとする。
   との条5)がある。留意すべきは、この1946年1月7日の時点で、アメリカ政府は
日本側が「天皇制を維持する」場合を想定していることであって、マッカーサーはこの条件を
最大限に利用して天皇を存続させることになる。
とまれ、ここには「戦争放棄・戦力不保持」の条項は全く存在しない。つまりアメリカ政
府は日本に「戦争放棄・戦力不保持」を要求も示唆もしなかったのである。

<「戦争放棄・戦力不保持の発案-日本側ではない>
 日本における帝国憲法改正問題は、すでに述べたように、マッカーサー元帥が1945年
10月4日、午後5時20分からの会見で、東久邇宮内閣の無任所大臣近衛文麿に対して、
「憲法は改正されなければならない」と決め付けるように指令したことに始まる6)。
東久邇宮内閣は翌日の10月5日には総辞職し、10月9日には幣原喜重郎内閣が成立する。
10月13日『朝日新聞』のトップは、天皇が近衛を内大臣府御用掛に任命し憲法改正に着手
するとの記事である。この13日、幣原総理大臣は閣議で、近衛の憲法改正作業とは全く別に、
急遽、憲法改正のための「憲法問題調査委員会」(委員長松本烝治国務大臣。元東京帝国
大学・商法教授)を発足させ、以後憲法改正は松本大臣のリーダーシップのもとに進めら
れる〔こうして二つの改憲案が並行して進行し、近衛は憲法改正「要綱」を11月22日
天皇奏するが、12月6日戦犯容疑者に指定され、12月16日には杉並の自宅で青酸カリ
で自殺している〕。
 1945年10月13日以降、各紙が憲法改正の話題を盛んに取り上げたことによって、
政党その他の民間研究団体が新しい憲法の草案を新聞紙上に発表する。いま佐藤達夫氏の
『日本国憲法成立史』(第二巻)7)によってそれらを成立順に並べてみる。この作業は
「戦争放棄・戦力不保持」の「発案」が日本におけるこれら「憲法草案」の中に存在しない
ことの確認作業である。なお、以下の11の憲法草案が1946年2月1日の『毎日新聞』
のスクープ以前に日本側で起草され報道された憲法草案の全てであるようだ(日付は公表日)。
(1)共産党案骨子の報道、1945年11月12日。全6項目で〔一主権は国民に在り〕
 等からなる。現行憲法第9条に当たる条文なし。
(2)松本(烝治)四原則の表明(第89議会)、1945年12月8日。〔一天皇の統治
 権総攬、二議会の決議事項の拡充、三国務大臣の責任を国務の全面にわたらしめる、四人民
 の自由・権利の保護の強化〕。これに基づく改正案は「甲案」「乙案」共に明治憲法そのまま
 と言われている。軍事事項に係わる規定は一切ない。
(3)近衛案、1945年12月21日。「改正の要点」は9項目あるが、戦争放棄の条項
  は存在しない。
(4)憲法研究会案、1945年12月26日。高野岩三郎・森戸辰雄・鈴木安蔵等による。


極めて進歩的内容で、12月28日の各紙は一面に全文を報道した。英訳も同日あるいは27日に
総司令部に提出され「マッカーサー草案」に大きな影響を与えたが、草案作成中の討論でも、
「絶対平和主義、一切の軍備はもたないというような考えは出なかった」という。
(5)稲田正次案、1945年12月28日。明治憲法の一部改正の形をとるもので、この
日新聞に報道された。稲田正次は東京文理科大学の憲法の助教授であった。
草案作成の過程で、「第一章 総則」の第5条に「日本国は軍備を持たざる文化国家とす」と
あったが削除されたという。
(6)清瀬一郎案、1945年12月。『法律時報』
(昭和22年12月号)に発表された、全6か条からなる。戦争放棄に関する条項はない。
(7)布施辰治案、1945年12月。明治憲法の全文改正の形をとり、8章55条からな
る。軍に関する規定はない。
(8)大日本弁護士会連合会案、1946年1月21日。「天皇制は之を存続」すること、
「統帥権および軍政大権に関する規定を削る」とあるが、戦争放棄に関する条文はない。
(9)日本自由党案、1946年1月22日。鳩山一郎日本自由党総裁の談話と共に各紙
に報道された。〔天皇は統治権の総覧者なり〕など明治憲法と変わらず、軍に関する規定は
一切ない。
(10)高野岩三郎案、1946年1月28日。「天皇制に代へて大統領制を元首とする」
共和制の採用を根本原則とするものである。軍に関する規定はない。
(11)里見岸雄案、1946年1 月28日。10章103条。〔大日本帝国は万世一系の天皇
之を統治す〕等明治憲法と変わらない。軍に関する規定はない。
 さて、以上新聞に報道された11の日本側の「憲法草案」を通覧するに、「戦争放棄・戦力
不保持」の「発案」は、(5)の稲田案に見られるだけであり、しかも「軍備を持たざる
文化国家」の規定は、結局削除され日の目を見ることがなかった訳であるから、憲法第9
条の発案は、日本側には全くなかったことになる(それにしても各草案は全く明治憲法の
枠を出ず、日本側の知性の貧困を如実に示している)。それでは、「戦争放棄・戦力不保
持」の第9条の「発案者」は誰か。今日の通説ではマッカーサーと言う事になっている。
以下は、この確認作業である。

<「戦争放棄・戦力不保持」の発案者-マッカーサーである>
 「戦争放棄・戦力不保持」の憲法第9条の規定を「発案」したのはマッカーサーであると
される。アメリカ政府の文書中にも日本側の憲法草案中にもなく、1946年2月3日の昼に
行われた、ホイットニー民生局長、ケーディス民生局次長、ハッシー中佐、ラウエル中佐
の4名からなる民生局のトップ会議で、ホイットニー局長が「最高司令官は3つの原則
を書かれた」と示した文書に始めて登場するからである8)。これが今日の通説といってよ
いだろう。もちろん、この2月3日以前に、マッカーサーに「戦争放棄・戦力不保持」を
「発案」した者として幣原喜重郎、ケーディス・ホイットニーらの名が挙げられることが
多いが、佐々木高雄氏の詳細・緻密な研究によれば9)、いずれも疑わしい。
 次には、この1946年2月3日、初めて姿を現した「マッカーサー・ノート」の全文を示
しておく10)。もちろんこの時点で、これを知る者は民生局の25名だけで、しかも厳しい
緘口令が敷かれていた。
     Ⅰ
天皇は国のヘッド(注・従来の訳では「元首」)の地位にある。皇位は世襲される。
天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的
意思に応えるものとする。
     Ⅱ
国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦
争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本
は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。
日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に
与えられることもない。
     Ⅲ
日本の封建制度は廃止される。
貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。
 華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。
予算の型は、イギリスの制度にならうこと。見られる通り「予算の型は‥」の条を独立さ
せて、「3原則」ではなくて「4原則」と見たほうが良いが、ともあれこの中の「第2項
目」が「戦争の廃止・紛争解決の手段としての戦争の放棄・自衛戦争の放棄・軍隊の不保
持・交戦権の放棄」を規定し、「崇高な理想」を謳っている。

<マッカーサーの戦略構想>
 以下の論述は、なぜマッカーサーが「戦争放棄・戦力不保持・自衛戦争の放棄」を「発
案」するに至ったのかその理由を、先行研究に依拠しつつ、考察することにする。
 「戦争放棄・戦力不保持・時得戦争放棄」の条項は、上記「マッカーサー・ノート」か
ら明らかなように、第1項目と第2項目とは厳密に「対等・並列な条項」として置かれて
いる。マッカーサーは天皇制を存続させようとしており、それと平行して「戦争の放棄・
戦力不保持・自衛戦争放棄」を規定している。
「武器なき国防」を高く謳う「戦争放棄・戦力不保持・自衛戦争放棄」は、天皇裕仁に対す
るマッカーサーの個人的感情および占領政策構想と絡み合って「発案」されていると考え
られる。それならば、憲法9条と天皇条項とは、一体なぜ、どのように関連するのか。そ
の理由は以下の行論で判明しよう。
 さて、1945年8月15日、日本が無条件降伏し、1945年9月2日「降伏文書」調印によっ
て、日本は合衆国・グレート・ブリテン国・中華民国・ソヴィエト社会主義共和国4国の
「連合国最高司令官の制限の下に」置かれる年8月14日午後7時(現地時間)、マッカーサー
元帥を「連合国最高司令官()」に任命し、翌15日にこれを発表する。かくてマッ
カーサーは「ジャップともっとも長期間にわたって戦い、最もいまいましい敗北を初期に
喫し、しかも最も輝かしい再起を成し遂げ」、いまや連合国のとして日本に対する占
領政策を全面的に実行する権限を与えられることになった11)。ジャスティン・ウィリアム
ズも「マッカーサー元帥は占領政策の実行者であると同時に、多分に政策形成者であっ
た。‥トルーマン大統領はワシントンの指令の欠陥を補完するために、マッカーサーに対
して、彼の使命を遂行するに際して妥当と考える時には、その権限を行使するように提示
した」と指摘している12)。
 かくて、全能のマッカーサー元帥は、1945年8月30日、としてマニラから厚木飛
行場に到着し、まず横浜に総司令部()を置くが、9月15日には東京日比谷の第一生
命相互ビルにの本部を移す。マッカーサーと天皇の会見は、その一ケ月ほど後の
1945年9月27日、アメリカ大使館で午前10時から約35分間にわたって行われた。
この最初の会見で、二人の間に「人格の出会いがあった」と見るのが通説である。
 マッカーサー自身は、この度の戦争に「全責任を負う」との天皇の言葉が「私の骨のズ
イまでもゆり動かした」と書いている13)。
榊原夏氏も「天皇の何かがマッカーサーをひどく感激させた」、そして「天皇との最初の
会見で、二人の間にある関係性が芽生えた‥あえて、この関係性にふさわしい言葉を探す
としたら、それは父と子の関係に限りなく似たものではなかったろうか。子供を保護する
強い父の役割をマッカーサーが担い、保護される従順で生真面目な息子の役割を天皇が
担った」と見ている14)。
 ところで、マッカーサーは「日本の統治体制の改革(228)」を1946年1月11日
に受け取って、そこに示されていた「日本人が天皇制を維持する」方向を決断する。その
理由は次の3点に絞ってよい。まず第1の理由は、上に示した天皇個人に対するマッカー
サーの個人的感情である。第2の理由は、日本における天皇の権威・カリスマ性(いささ
か過大に評価されているが)である。マッカーサー元帥は1946年1月25日、アイゼンハ
ワー陸軍参謀長に宛て、「天皇を起訴すれば、間違いなく日本人の間に激しい動揺を起こす
であろう」、その場合は最小限100万の占領軍を無期限に駐屯させなければならなくなろう
と書き送っている15)。マッカーサーは、天皇制を廃した場合の日本人の頑強な抵抗を強
く恐れた。日本人の占領軍に対する不退転の抵抗を排除するには、100万の軍と大きな犠
牲を払わなければなるまいとマッカーサーは書き送ったのである。
 天皇制温存の第3の理由は、以下に述べるように、新しく改組されることになっている
「極東諮問委員会」との関係である。

<マッカーサーはなぜ憲法制定を急いだのか>
 マッカーサーが総司令部民生局で日本国憲法を作ってしまおうと決意する契機となった
のは、1946年1月11日「極東諮問委員会」との会談とその後の同委員会との会議の結果
(1月17日)であったようだ。その1週間後の1月24日、ケーディス民生局次長(前歴は
弁護士)はホイットニー民生局長から「連合軍最高司令官の憲法改正に関する権限」について
の報告書を求められている16)。果たして「連合国最高司令官」に日本国憲法改正の権限
があるのか。ケーディスの報告書がマッカーサーに届けられるのは、1946年2月1
日の
ことで、「極東委員会の政策決定がない限り‥言うまでもなく同委員会の決定があれば、
われわれはそれに拘束されるが‥閣下は憲法改正について‥権限を有されるものである」と
あった17)。つまり「極東諮問委員会」が現在のように単なる「諮問委員会」に過ぎない
間は、マッカーサーが最高意思決定機関であること、従って現時点では日本国の憲法制定も
可能であることを示唆していた。
 ところがすでに1945年12月27日のモスクワにおける米英ソ3国外相会議の決議に
よって、「極東諮問委員会」が「極東委員会」に昇格し、マッカーサーの上部機関となるの
は、1946年2月26日からであることを決定していた。この2月26日までには、日本
側による自主的な憲法(天皇の存続と戦争放棄とを規定した)として明確な形をなしてい
なければならない18)。
 マッカーサーが民生局で日本国憲法を作成することを最終的に決意するのは、1946年2
月1日のことであろう。この日「極東諮問委員会」が離日し、ケーディスの「権限あり」
の報告書を受け取り、かつ『毎日新聞』のスクープによって、マッカーサーは日本政府案
=「松本案」が全く不満足な草案であることを知った(2月1日夜松本甲・乙案日本語で
総司令部に届く。『毎日』のスクープは英訳されマッカーサーのもとに届く)。マッカー
サーはこの時点でつまり2月1日夕方から2月2日の夕方までの丸1日で、「天皇制存続
+戦争放棄」をセットとする総司令部憲法案の輪郭とその憲法草案を日本側に受諾させ、
かつ新国会で承認させるという一連の戦略(タイムテーブル)を描き切る。
 それにしても『毎日新聞』のスクープは、ケーディスの報告書の提出と極東諮問委員会
の離日といった、まさに絶妙の時になされたのであって、マッカーサーはその戦略を次の
ように確定する。まず不満足な日本政府案を拒否し日本政府を屈服させて総司令部案を飲
ませ、次いで極東委員会を沈黙させ、最後に日本国議会で承認させてしまえば宜しい。す
なわちその手順は、繰り返し言えば、(1)松本案の拒否。松本案の非公式検討会
談は2月12日となっていたが、この日は日本案の検討ではなくて、松本案拒否の日とす
る。そのため総司令部側の憲法完成のタイムリミットは先ずこの日、つまり2月12日に置
かれた。
(2)極東委員会成立の2月26日前であること。この時までなら、マッカーサーはまだ憲
法制定の全権を持っている。この時までに日本側の憲法草案は完全なものになっていなけ
ればならない。実権なき天皇の存続と日本の完全な脱武装化、つまり日本帝国主義の総帥
(天皇)の完全な政治的実権剥奪と日本国の完全な脱武装化、この極端な・理想的憲法に
よって、天皇の戦争責任を強硬に迫る中華民国、オーストラリア、イギリスなどの鋭鋒を
かわすことができよう。
(3)新しく選出された「帝国議会」で民生局作成の新憲法草案を採択させてしまう。ただ
し憲法草案の公表は争点の分散を避けて衆議院選挙直後とする。
 なぜ早急にマッカーサーは憲法第9条を必要としたのか。結論を繰り返せば、要するに
マッカーサーは、天皇制を残すためには天皇制に否定的である「極東委員会」が発足する
前に、「極東委員会」の代表者たちも「結果的には賛成せざるを得ないような思い切った平
和的・民主的憲法を(極東委員会)より先に作ってしまう必要があった」19)。「思い
切った平和的・民主的憲法」の中心に「戦争放棄・戦力不保持・自衛戦争放棄」の平和国
家日本と実権なき・無害の「象徴としての天皇」が置かれる。「戦争戦力放棄と天皇制存
続」、この一対の構想こそが、第9条の人を驚嘆させる戦争放棄条項の「発案」の根本的
理由であり、最終的には、1946年2月26日までという緊急制定が敢行された最大の理由で
ある。当然ながら、ここには米ソ対立の冷戦期の到来は、まったく視野に入っていない。
 なお次の理由も、決定的ではないが、興味ある見方である。ジェームス・三木氏によれ
ば、マッカーサーは1945年8月30日厚木に降り立ったときから「アメリカの次期大統領を
目指す」との野心を持っていたという。マッカーサーは「もろもろの占領政策を可及的す
みやかに実現し、少なくとも2年以内には、講和条約を結びたかった‥太平洋戦争の指揮
官として、日本軍を撃破し、アメリカを大勝利に導いたマッカーサー元帥は、国民的英雄
として、カリスマ的な人気があった。その人気が冷めないうちに、帰国して軍服を脱ぎ、
鳴り物入りで大統領選挙に出馬する。これがマッカーサーの描いたシナリオであった」20)
と。現職のトルーマンの任期は1948年11月2日の選挙結果が出て、翌年(1949年)
の1月20日までである。それ以前にマッカーサーは日本での実績を確固たるものにしておく
必要がある。国内的には天皇の温存による平和的な占領政策の遂行(天皇を廃すれば大規模な
反乱が起こるかもしれない)、対外的には徹底的な日本の平和化方針(天皇の無害化と戦
争の放棄)によって天皇制の廃止を迫る強硬な列強を押さえ込む。この対内・対外両戦略
でマッカーサーの「実績」は確固たるものとなろう。
 ところで袖井林二郎氏の『マッカーサーの二千日』によれば、マッカーサーの大統領選
出馬は、1947年3月頃には「すでにかなり固まっていたと見ていいだろう」(237頁)とい
う。ジェームス三木氏の1945年8月説とは大幅な時間的ずれがあるが、トルーマンの人気
がまったく無かったことから、マッカーサーが1945年8月の時点で早くも「大統領への野
心」を持ったとしても不思議ではない21)。
三木説に従えば、天皇制の温存は、マッカーサーの日本統治を成功裏に完成させる手段に
他ならず、マッカーサーは天皇を己の野望のために利用したことになる。

第二節 第9条の変化

 「マッカーサー・ノート」の第2項、戦争放棄に関する部分はどのような変化をたどった
か。現行憲法の第9条の文章になったのはいつか。以下では、この変化の跡をたどる。ま
ず、1946年2 月3 日に突如出現してきた「マッカーサー・ノート」第2項の英文原文と
邦訳を掲げる22)。
  
  国権の発動たる戦争は、禁止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦
争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本
は、その防衛と保護とを、今や世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。日
本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与
えられることもない。
 この戦争放棄の条項を担当したのは、ケーディス大佐(民生局次長)である。彼は2月
4日から取り掛かり数日で完成する。彼はまず、この「マッカーサー・ノート」の条文の
「削除」から着手する。彼は「自己の安全を保障するための手段としての戦争をも」と「日
本は、その防衛と保護とを、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」をカットし
た。「あまりに理想的で、現実的でないと思ったからです。‥どんな国でも、自分を守
る権利があるからです」という理由である23)。つまり上記下線部の部分が削除され
た。ケーディスはその代わりに、第2句の「放棄する」という動詞をそのま生かして、
国連憲章第2条「武力による威嚇または武力の行使」をその主語に据え、1928年不戦
条約の第1条後段の「国家の政策の手段としての戦争を放棄する」と重ねる。
 ケーディスの完成した文章は、総司令部民生局草案全11章全92条中の、第2章第8条に
あたる。後にこの第8条は、第1章の天皇の章で1条増え、第9条となった。「マッカー
サー・ノート」を削除・訂正・加筆したケーディスの原案は以下のようである24)。
       
これに対する外務省仮訳は、以下のとおりである(原文はカタカナ句読点なし。邦訳条文
については以下同じ)。
  国民の一主権としての戦争は之を廃止す。他の国民の紛争解決の手段としての
武力の威嚇又は使用は、永久に之を放棄す。陸軍、海軍、空軍又は其の他の戦力
は決して許諾せらるること無なかるべく、又交戦状態の権利は、決して国家に
授与せらるること無かるべし。
 1946年2月22日、総司令部案受け入れを決定した日本側は、民生局に諮りながら、
3月5日までかかって、英文を「日本化」する25)。単なる翻訳ではなく、日米双方の歩
み寄りがあり、「日本化」と言われるゆえんであり、日米合作の作業である。修正・翻訳
の中心は内閣法制局第一部長の佐藤達夫氏である26)。「日本化」の過程で、つまり
「1946年3月2日案」で総司令部案の第8条は第9条となった27)。すなわち、
  第9条 戦争を国権の発動と認め、武力の威嚇又は行使を、他国との間の争議の
解決の具とすることは、永久に之を廃止す。
  陸海空軍其の他の戦力の保持及国の交戦権は之を認めず。
 1946年3月6日午後5時の「憲法改正草案要綱」発表時点においては、第9条の文言
は次のようであった。
  国の主権の発動として行ふ戦争及武力に依る威嚇又は武力の行使を他国との間の
紛争の解決の具とすることは、永久にこれを放棄すること。
  陸海空軍其の他の戦力の保持は之を許さず、国の交戦権は之を認めざること。
 1946年3月6日の「憲法改正草稿要綱」発表後、新しい憲法は口語でという要求を
受け入れ、総選挙の終わった1946年4月17日に表され、翌18日の新聞報道によって、
国民は始めて、「口語・平仮名」の憲法の全貌を知る。この時の第9条の条文は次のようで
ある(句読点は原文による)。
  国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛
争解決の手段としては、永久にこれを放棄する。
  陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。
 1946年6月20日から開かれた最後の帝国議会(第90回)において、日本国憲法はもう一
度最後の修正を受ける。新憲法の審議は7月23日に設けられた「帝国憲法改正案委員小委
員会」(秘密会である)によって8月20まで行われ、政府案はかなりの修正を受ける。委員
長、芦田均の名をとってこれを「芦田修正」という。下文に示すように、第1項の冒頭の
下線部は、日本国民の平和への意思を積極的に表明するために加えられた。「他国との間
の紛争解決の手段」は「如何にも持って回ってダラダラしているから」、これを「国際紛
争を解決する手段」と改められた。最大の修正が第2項の冒頭に「前項の目的を達するた
め」の1句を挿入したことである。芦田均は「第9条の第2項の冒頭に『前項の目的を達
するため』という文字を挿入したのは、私の修正した提案であってこれは両院でもそのま
ま採用された。従って戦力を保持しないというのは絶対にではなく、侵略戦争の場合に限
る趣旨である」と説明した。これによって、「その後の自衛のための戦力を合憲とする解
釈や主張(自衛戦力合憲説)の根拠になった」28)。議会における修正を経て、第9条の
最終的形態は、次のようになった。修正された箇所は、下線部で29)、これが現行の第9
条である。
  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる
戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交
戦権はこれを認めない。
 周知のように、9条第2項冒頭の「前項の目的を達するため」の句が加えられたため、
「前項の目的」が「国際紛争を解決す手段としては」を指すのか、あるいは「国際平和を誠
実に希求する」を指すのか解釈が分かれ、全面放棄説(自衛戦争放棄、自衛隊違憲)と限
定放棄説(侵略戦争放棄、自衛隊合憲)との対立を生み出すことになった。


第三節 第9条解釈の変化

 この節では、新憲法成立から現在に至るまでの9条解釈の変遷をたどってみる。出発点
は憲法制定直後の時点における、政治家や学者、小学校の教科書に見える、理想に燃えた
発言の紹介である。戦争放棄・戦力不保持をうたった新憲法制定の「初心」をまず確認し、
冷戦の開始とともに、自衛権を軸にして、なし崩し的にこの理念が放擲されていき、01・
9・11ニューヨークの同時多発テロの発生以降は、一挙にグローバルな規模で軍事化が進
行し、かつ日本においても、日本国憲法に規定する戦争放棄・戦力不保持をうたう第9条
の理念が雲散霧消していく状況をたどる。

(1)初心保持期(1946年11月3日~1949年11月21日)
 1946年6月25日、吉田茂内閣総理大臣は6月20日から始まった第90回帝国議会の
衆議院本会議で憲法改正案についての趣旨説明を行い、憲法第9条について「自衛権の発動とし
ての戦争も、又交戦権も放棄したのであります。‥此の高き理想を以て、平和愛好国の先
頭に立ち、正義の大道を踏み進んで行かうと云う固き決意を此の国の根本法に明示せんと
するものであります」と格調高く説明した。
吉田総理発言のほぼ1週間後、金森徳次郎国務大臣も「是こそ我が国自ら捨身の態勢に
立って、全世界の平和愛好諸国の先頭に立たんとする趣旨を明らかに致しまして、恒久平
和を希求する我が大理想を力強く宣言したのであります」と同趣旨の発言をした30)。
 この大理想実現のため「平和愛好国の先頭に立つ」とは具体的にどうするのかが問題で
ある。戦争放棄・戦力不保持の日本は、どういう形で恒久平和に貢献するのか。これに対
して、吉田総理は1946年7月4日衆議院委員会において、48条(国連憲章第48条のこ
と)を引きながら「自身が兵力を持って世界の平和を害する侵略国に対しては世界を挙げて
此の侵略国を圧伏する抑圧するということになって居ります」と答弁している31)。
とは言うまでもなく国際連合である。
また、横田喜三郎氏は『戦争の放棄』32)で「平和を愛好する諸国によって組織される国
際平和団体にたより、それが侵略戦争を防止し、世界の平和を確保することによって、日
本の安全も保証されるのである」と説く。国際平和団体とは国際連合のことである。「国
際連合のような国際平和機構が他国の侵略を防いでくれる、というのが憲法の考えであ
る」と33)。
 1946年9月5日の貴族院帝国憲法改正特別委員会で、南原繁氏も国際連合による日本の
国家防衛を前提にしつつ、なお日本は自衛権を放棄し、一切の戦力を保持していないた
め、「国際連合へ加入の場合の国家としての義務と云うものを、そこで実行することが出
来ないと云ふ状態となって居るのではないか」と疑問を呈している34)。政治家も学者
たちも、若干の論点の相違はあっても、憲法制定の直前直後にあっては、この「戦争放
棄・戦力不保持」の国家を世界の平和を目指す「国際連合」の力で守られ得ると判断して
いていたと結論付けることができる。「国際連合」への絶対的信頼がうかがわれる。
 
との見解のほか、次のような興味深い発言も見られた。高柳賢三氏は1946年8月26日、
貴族院本会議において、「従来の主権国家の観念を捨てて世界連邦を作らなければなるぬ時
期に人類は到達して居る。-世界連邦の形における世界国家が成立すれば-世界に生起す
る総ての国際紛争は武力を背景とせず、理性によって解決されることになる。武力は世界
警察力として、人類理性の僕としてのみ存在が許される」。高柳賢三氏は同じ心を、9月
13日貴族院委員会において「世界と云うものが連邦となって、そこに警察力と云うもの
が、何処の国にも属しない警察力と云うものが世界の平和を確保する、そう云う時代に向
かうべきものではないか」と提案している35)。主権国家をアクターとする国際連合
を止揚して、さらに統合力のある「世界連邦・世界連邦」を構想し、そこに「警察力」
を集中して違反国を制裁するという構想である。ルソーの『サン=ピエール永久平和論
抜粋』に見られるヨーロッパ連合の全世界版とでもいうべきものである。
 文部省の9条解釈は、小学校の教科書『あたらしい憲法のはなし』(1947年)の次
のような文章の中で、高らかに宣言されている。
「‥いま、やっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたく
ないと思いませんか。‥そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をし
ないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍隊も飛行機も、およそ戦争
をするためのものは、いっさいもたないということです。‥しかしみなさんは、けっして
心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったので
す。世の中に、正しいことぐらいつよいものはありません、‥もう一つは、よその国と争
いごとがおこったとき、けっして戦争によって、あいてを負かして、じぶんのいいぶんを
とうそうとしないということをきめたのです」。

(2)「武力によらざる自衛権」説(1949年11月21日)。
 1947年3月12日、トルーマン・ドクトリンの発表によって世界は冷戦時代に突入する。
日本は極東における反共の防波堤としての重要な戦略的意味を持つとされた。1949年11月
21日に至って、吉田茂総理大臣は衆議院外務委員会の席上で、「日本は戦争を放棄し、軍
備を放棄したのであるから、武力によらざる自衛権はある。外交その他の手段でもって国
家を自衛する、守るという権利はむろんあると思います」と発言する。政府見解はこれま
でずっと「自衛権・自衛戦争は放棄した」と答弁してきたのに、ここにおいて政府見解は
見事に変化し、新しい「武力によらない自衛権」の考えを打ち出したのである36)。これ
以後、憲法第9条は、冷戦体制の真っ只中で、自衛権を軸に急速に変質していく。政府
による9条解釈の変化は、日本の再軍備の深化、自衛隊の変化に沿って、①警察予備隊
期、②保安隊期、③自衛隊期、④01・9・11以後の4段階に分かれる。

(3)「警察予備隊」(1950年7月8日):「警察力を補う実力」説。
 「武力によらざる自衛権」なる吉田発言は、1950年6月における極東の政治状況の変化に
よって、より洗練されたものになっていく。つまり、1950年5月30日北朝鮮最高人民会議
は南北統一案を採択し、ほぼ一カ月後の6月25日未明には38度線全域にわたって戦争状態
となり、北朝鮮軍は38度線を越えて南進を開始した。朝鮮戦争の勃発である。マッカー
サーはこれに対処すべく(名目は国内の治安維持である)、同年7月8日吉田首相宛て書
簡で、国家警察予備隊7万5千人の創設と海上保安庁8千人の増員を指令したのである。
 1950年7月30日、参議院本会議で吉田首相は、「警察予備隊の目的は全く治安維持にあ
る。‥日本の治安をいかにして維持するかというところにその目的があるのであり、従っ
てそれは軍隊ではない」と発言した。つまり政府は、憲法で放棄した「戦力」とは警察力
を超える実力のことであり、警察予備隊はあくまで「警察」を補うものであるから合憲で
あると説明した37)。
 ところで、「戦争放棄・戦力不保持・自衛権放棄」の「マッカーサー・ノート」を書いた
マッカーサー元帥自身は日本の国家防衛をどう考えていたのだろうか。古関彰一氏の分析
は以下のようである。すなわち、マッカーサーの考えは「沖縄要塞化」構想である。
1948年2月のことであるが、マッカーサーは大略次のように言っている。外部の侵略から
日本の領土を防衛しようとするならば、われわれは陸・海軍よりもまず空軍に依拠しなけ
ればならない。沖縄は仮想的・ソ連に対する米国の防衛線にあたり、かつ米軍の強力にし
て有効な空軍作戦を準備するのに十分な面積がある。かくて、沖縄を要塞化することに
よって、日本の本土に軍隊を維持することなく、外部の侵略に対し日本の安全を確保する
ことができようと38)。

(4)「保安隊」(1952年10月15日)「近代戦争遂行に役立つ程度の装備・編成」ではない・説。
 1952年4月28日、対日平和条約と日米安全保障条約が発効し、連合軍による占領期は終
わって、日本は(名目上は)完全独立国となったが、同日発効の日米安全保障条約によって、
日本はアメリカの傘のもとに組み込まれて自衛力の強化を図らされる。
 1952年7月31日「保安庁法」が公布される。
保安庁が設置されて警察予備隊が保安隊となり、海上には警備隊が新設された。保安隊は
この年の10月15日は発足する。政府の「戦力」解釈も当然変化し、1950年の「警察を補
うもの」説から、1952年11月25日第4次吉田内閣の統一見解によれば、憲法で禁止してい
る「戦力」とは「近代戦争遂行に役立つ程度の装備・編成を具えるものをいう」と変化し
た。つまり、保安隊・警備隊の装備は「近代戦遂行に役立たない装備」であるから「戦力」
には入らず、従って「憲法違反」ではないとされたのである39)。

(5)「自衛隊」(1954年7月1日):「自衛のための必要最小限度の実力」説。
 1954年3月8日、米国と「相互防衛援助協定()」が結ばれ、2ヵ月後の5月1日
に発効する。日本は防衛力を増強する義務を負うことになって、1954年6月9日「防衛庁
設置法」と「自衛隊法」が公布され(7月1日施行)、保安隊・警備隊は「陸・海・空」
3軍をもつ自衛隊となった。かくて自衛隊は憲法の禁ずる軍隊ではないかとの議論が噴出
する。鳩山一郎首相は1955年3月29日参議院予算委員会で、「9条の改正を考えている」
と答弁し、岸信介首相は1957年5月7日参議院予算委員会で、「自衛のための必要最小限
度の力は違憲ではない」と答弁した。
 1972年11月13日吉国一郎内閣法制局長官は参議院予算委員会で「憲法第9条2項が
保持を禁じている戦力は、自衛のための必要最小限度を超えるものでございます。それ以下の
実力の保持は、同条項によって禁じられてはいないということでございまして、この見解
は、年来政府のとっているところでございます」と答弁した。つまり「自衛のための必要
最小限度の実力」は、憲法で保持することを禁じている「戦力」には当たらない、とする
ものである。これがその後の政府の公定解釈となった40)。

(6)違憲立法「有事3法+有事7法案」の成立-小泉内閣の豹変
 2001(平成13)年5月8日、小泉首相は土井たか子議員の「小泉内閣発足にあたって
国政の基本に関する質問」に答えて、「自衛隊は‥憲法上自衛のための必要最小限度を超え
る実力を保持し得ない」との従来の政府見解を繰り返した。しかしその4ヵ月後に01・9・
11のニューヨーク同時多発テロが発生する。
これを奇貨として、以後ブッシュ大統領はテロ撲滅・ならず者国家懲罰を口実に、国際世
論を無視して、アフガニスタン・イラク攻撃と暴走し、世界は一挙に軍事化する。この潮
流に世界に先駆けて同調したのが小泉政権である。
 03年5月20日の衆議院本会議で小泉首相「実質的に自衛隊は軍隊であろう。しかし、
それを言ってはならないと言うのは不自然だと思う」と発言する。「自衛他は軍隊だ」との
発言は、歴代の首相のついぞ言わなかったことであって、かくて、この政権下において、
03年6月6日に「武力攻撃事態対処法(基本理念・手続き・首相の権限等)」・「改正自衛
隊法(自衛隊の行動を円滑化)」・「改正安全保障会議設置法(専門的な補佐組織)」の「有事
3法」が成立する。
 ついで04年6月14日には「米軍行動円滑化法案(物品・役務の米軍への提供)」・「自衛
隊法改正案(米軍への物品・役務提供の手続き)」・「外国軍用品等海上輸送規制法案(海上
輸送への臨検)」・「交通・通信利用法案(自衛隊による港湾空港等の優先的利用)」・「国
民保護法案(国民の避難救援の手続き)」・「国際人道法違反処罰法案(国際人道法違反行為
の処罰)」・「捕虜等取り扱い法案(捕虜の拘束などの手続き)」の「有事関連7法案」が成立
する。これらの法案はいずれも憲法第9条の戦争放棄・戦力不保持・交戦権の否認に違反
しており、小泉政権に残された課題は自衛隊を日のあたる場所に連れ出す憲法第9条の改
正のみとなった。
 こうして、憲法9条の「戦争放棄・戦力不保持」の高い理念は、まず冷戦時代の出現に
よって、しかも他ならぬマッカーサー自身の手によって、空洞化され、ついで01・9・11
を貴貨とする小泉政権によって、実質的に放棄された。世界は今や、ハンチントンの危惧
する「文明の衝突」によって厳しい対立緊張が生み出されている。われわれは、今こそ憲
法第9条の「戦争放棄・戦力不保持」の高い理念に立ち返るべき時であると考える。もう
一度、初心に、つまり憲法制定直後の希望に満ちた精神状況に、回帰すべきではないだろ
うか。「戦争放棄・戦力不保持」を断行した国家が、国際連合の力で世界の平和に貢献しよ
うと誓った、その精神に立ち戻るべきではなかろうか。日本の国家防衛は「武力による自
衛権論」の行使ではなくて、憲法第9条の趣旨に従って、「武器なき国家防衛論」に立ち
戻るべきではあるまいか。繰り返し言えば、冷戦体制の出現によって、「戦争放棄・戦力
不保持・国連体制尊重」の理念は捻じ曲げられて「武力による自衛権論」へと迷いこむが、
冷戦体制の崩壊後の今日にあっては、再び、その原点へと立ち戻り、「戦争放棄・戦力不
保持・国連体制尊重」を国策の中心にすえ、「武器なき国家防衛」を断行すべしと考える。
日本の採るべき脱武装化計画については、稿を改めて論ずることにしよう。



1)古関彰一『新憲法の誕生』中公文庫、2001、97頁以下。
2)鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』創元社、1995、294、19頁。
3)古関彰一、前掲書、210頁以下。佐藤達夫『日本国憲法誕生記』中公文庫,1999,82頁以下。
  ら、最後の帝国議会で、新しい憲法草案を審

4)中村政則他編『戦後日本 占領と戦後改革1 界史のなかの1945年』(岩波書店1955)
  所収の五百旗頭真「アメリカの対日占領管理構想」105頁。

5)鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』107頁。
6)古関彰一『新憲法の誕生』、21頁。
7)古関彰一、前掲書、44頁以下。佐藤達夫『日本国憲法成立史』第二巻、有斐閣1977,733頁以下。



8)鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』17頁。
9)佐々木高雄『戦争放棄条項の成立経緯』成文堂、1997。なお深瀬忠一『戦争放棄と平和的生
存権』(岩波書店、1987、133頁以下)は幣原説を強調している。
10)鈴木昭典、前掲書、18~19頁、31頁には英語の原文がある。

11)袖井林二郎『マッカーサーの二千日』中公文庫、1976、71頁。上記を連合国最高司令
官と訳す。なお連合軍最高司令官の訳もある。
12)ジャスティン・ウイリアムズ『マッカーサーの政治改革』市雄貴・星健一訳、朝日新聞社、
1989(原書初版1979)、32頁。「人格の出会い」も、同書、33頁。
13)『マッカーサー回想記(下)』津島一夫訳、朝日新聞社、1964、142頁。
14)榊原夏『マッカーサー元帥と昭和天皇』集英社新書、2000、80、101頁。
15)古関彰一『日本国憲法の誕生』112頁。鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』、177
頁。『マッカーサー回想記(下)』142頁。
16)鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』175~176頁。
17)鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』175~176頁。
18)古関彰一『日本国憲法の誕生』107頁。古関彰一『日本国憲法・検証5 九条と安全保障』
小学館文庫、2001、53~55頁。
 
19)古関彰一『九条と安全保障』53~56頁。
20)ジェームス三木『憲法はまだか』角川書店、2002、114~115頁。
21)1948年3月29日『ニューヨーク・タイムズ』は「マッカーサーの勝利確実」と報道していた。
ウイリアム・マンチェスター『栄光と夢 アメリカ現代史2』鈴木主税訳、1977、270頁。
22)鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』31頁。
    
23)鈴木昭典、前掲書、123頁以下。
24)佐藤達夫『日本国憲法誕生記』191頁以下。
25)古関彰一『新憲法の誕生』173頁。
26)佐藤達夫『日本国憲法誕生記』194頁。
 
27)総司令部案の第3条が二分割され現行憲法の第3条と第4条になったため1条増えた。なお
佐々木高雄『戦争放棄条項の成立経緯』成文堂、1997、289頁以下。山中永之佑他編『資料で
考える憲法』法律文化社、1997、40頁参照。
28)古関彰一『九条と安全保障』71頁。
29)佐藤達夫『日本国憲法誕生記』109頁以下。佐々木高雄『戦争放棄条項の成立経緯』321頁
   以下特に352頁。古関彰一、前掲書、67頁以下。
   
30)清水伸『逐条日本国憲法審議録(第二巻)』原書房1976、4頁,
    山内敏弘『平和憲法の理論』日本評論社、1992、54頁。
31)清水伸『逐条 日本国憲法審議録(第二巻)』16頁。
32)横田喜三郎『戦争の放棄』国立書院、1947年10月刊。
33)山内敏弘『平和憲法の理論』144~145頁。
34)清水伸、前掲書、19~21頁。山内敏弘、前掲書、128頁。

35)荒井誠一郎『平和憲法 基礎と成立』敬文堂、2001、551頁 清水伸、前掲書,71頁。
36)山内敏弘、前掲書、158~159頁。
 
37)山中永之佑他『資料で考える憲法』法律文化社1997,67頁。芦部信喜『憲法』岩波書店、
    1996,57頁以下。
38)古関彰一『九条と安全保障』58~59頁。
39)芦部、前掲書、58頁。および佐藤幸治『憲法〔新版〕』青林書院1994,573頁。

40)芦部、前掲書、58頁。佐藤、前掲書、573頁。『資料で考える憲法』68頁以下。  

     筑波女子大学紀要9, 2005 (東京家政学院筑波女子大学紀要第9集)

 
 
   日本国憲法秘史 西 鋭夫 
65頁

<講義1> 誰が日本国憲法を書いたのか       … 3
<講義2> マッカーサーとGHQ           …10
<講義3> 憲法草案が作られた瞬間          …16
<講義4> Q&A「世界に5通しかない日本国憲法草案」…20<講義5> 平和憲法、第9条             …34
<講義6> Q&A「吉田茂の秘密」          …40
<講義7> GHQ憲法、日本語版           …51
<講義8> マッカーサーへのメモ           …57
<講義9> 平和憲法、そして平和教育へ        …64

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