鳳仙花 (ポンソンファ) インターネットから編集
 詩: 金亨俊 (Kim Hyong-jyun,1887-1950) 曲: 洪 蘭坡 (Hong Nan-Pa,1898-1941)

  垣根の下の 鳳仙花よ  
 おまえの姿は 悲しげだ
 長い長い 夏の日に   
 美しく 花咲く時には
 可愛らしい 娘らが   
 おまえを喜んで 遊んだ

 いつしか 夏は行き   
 秋の風 そよそよと吹き
 美しい 花びらを    
 酷くも 痛めつけ
 花散り 枯れてしまった 
 おまえの姿が 悲しげだ

 北風に寒雪 冷たい風に 
 おまえの姿が なくなっても
 平和な 夢をみる   
  おまえの魂は
 ここにあるから
 のどかな 春風に   
  よみがえることを 願うよ
   

鳳仙花は、「てんさぐの花」
(沖縄の県花)です

      詳細はこちら⇒

 熱帯アジア原産で、ツリフネソウ科ツリフネソウ属の一年草。ホウセンカは中国名「鳳仙花」を音読みしたもの、
花の形が鳳凰が羽を広げた様になぞらえた命名。頑健で、どこにでも育って美しい花を咲かせることから、古来、
可憐な花、はじける実ともに人々に親しまれ、少女たちが爪を染めるのに使った。
また、朝鮮半島では鳳仙花で染めた爪が初雪が降るまで残っていれば恋がかなうという、ロマンチックな言い伝え
がある。沖縄では「てぃんさぐ」と呼ばれ、民謡「てぃんさぐぬ花」に歌われています。

<鳳仙花>◆鳳仙花の歌声◆ 東洋経済日報 2003/08/22

 「鳳仙花」。韓国人なら誰でも知っている、広く世代を超えて歌い継がれている国民的歌曲だ。南北ともに歌わ
れている国宝級の歌である。韓民族が日本の植民地支配下に入る8月になると、この歌のことが思い起こされる。

 93年前の8月22日、日本の強要で韓国併合条約が調印された。その1週間後の29日に同条約が発効。この日
を韓国では「国恥日」と呼んでいる。8月15日は解放記念日だが、34年11カ月17日間に及ぶ植民地統治が始まっ
た屈辱の月でもあるのだ。

 この歌は、日本への抵抗精神を象徴するものとして広く民衆に愛唱された。1920年、作曲家・洪ランパ22歳の
時の作だ。前年の3・1独立運動当時、彼はバイオリンを質に入れ運動を応援した。曲にも独立に対する強い信
念が込められている。6年後に歌詞がつけられ今日の「鳳仙花」として誕生した。

 「垣に咲く鳳仙花よ/汝が姿あわれなり/いと長き夏の日に/美しく花咲くころ/うるわしき乙女ら/汝を愛で
遊べり」

 鳳仙花という花は東南アジア原産といわれ、夏に紅、桃、白色の花を咲かせ、庭に集まった乙女たちはその花
で爪をそめる風習があった。

 民族の運命を秋に散る鳳仙花になぞらえて、四四調の詩で表現したのである。個人的にも結婚式でこの歌を
一緒に歌い、民族の名に恥じない夫婦になることを誓った思い出の歌である。

 昨年、「鳳仙花」と題して洪ランパの評伝を書いた遠藤貴美子氏は、この純朴な内容の曲が力を持っているの
は、理屈ではなく韓国人の魂の情景が込められているからであると述べられた。

 8月に「鳳仙花」を歌えば心が自然と和んでくるから不思議だ。(S) 


  2005.05.08 藤井宏行


朝鮮・韓国の歌というと、「冬のソナタ」からの韓流ブーム以前からあった「カスマプゲ」なんかの韓国歌謡・演歌と
K-POPのブームを別にすると、あとはサムルノリやパンソリなどの伝統音楽くらいしか日本には紹介されておらず、
特に歌曲にいたっては在日の歌手、田月仙(チョン・ウォルソン)さんや李政美(イ・チョンミ)さんなどが少し歌っ
ているくらいでほとんど無視されているのではないでしょうか。でもそれは日本の音楽を紹介するのに伝統邦楽と
古賀メロディーとモーニング娘くらいしか取り上げられていないというのと同じ奇妙な状態なのです。同じ日本人に
対してさえも日本の歌曲は一部の有名曲以外は忘れ去られているが如き状況を思えばむべなるかな、とも思えな
くもないのですが、今年は日韓交流40周年ということでもあるようですし、互いの国の相互理解のためには相手
の国の文化・芸術をもっと知るのも意味があるのでは、ということで1曲取り上げることにしました。

かの地では知らぬ人はいないという名曲中の名曲です。朝鮮近代音楽の父ともいえる洪蘭坡は、作曲家・ヴァイ
オリニスト・音楽評論家・指揮者・文学者と多面的な活躍をした人ですが、そんな彼は1919年の3・1抗日独立運動
を留学中の日本で聞き、居ても立ってもいられずに大切なヴァイオリンを質に入れてまでその独立運動を支援す
る活動を行ったのでした。ご承知の通りこの独立運動は実ることなく、また洪自身も学校を中退し帰国せざるを
えない羽目になりました。

その翌年、彼は短編小説集「処女魂」を発表しますが、その前書きに載せられた楽譜がこの曲でした。その時は
ヴァイオリン独奏曲で、題名も「哀愁」というものだったようですが、1926年に作曲者の友人・金享俊(キム・ヒャン
ジュン)が詩をつけ、現在知らている歌曲となりました。まるで演歌のような哀調あふれる旋律もそういわれてみる
とヴァイオリンにぴったり。まさに挫折の只中にあった彼の心象風景でしょうか、胸を打つメロディです。
詩は四季のうつろいを鳳仙花に寄せて歌っていますが、実は秋風吹いて以降の節は国を滅ぼされた民族の悲し
みを、そして厳しい時代にも負けない不屈の魂を陰に表しています。

この曲が広く知られ・歌われるようになったのは1941年、ソプラノ歌手の金天愛(キム・チョネ)が東京での新人音
楽祭でのアンコールで歌い、翌年帰国してからも各地で歌い続けるようになってからだといいます。警察から歌唱
禁止令が出たのもこの頃だと言いますからブレイクしたのもこの頃なのでしょう。

皮肉なことにこの少し前、作曲者の洪は度重なる官憲の圧力に親日芸術家の道を選んでいました(そうしなけれ
ば活躍の場さえも得られなかったのでしょうし、実は彼が40代はじめの若さで亡くなったのも官憲による拷問の後
遺症があったとも言われています)。そしてこの曲が広く民衆の間に歌われることを知ることなく世を去りました。

今でもそのときの対日協力活動をあげつらわれて反民族主義者として糾弾されることがあるそうなのですが、韓
国・朝鮮の多くの人たちはそんな政治的・イデオロギー的なこととは関係なく、彼の残した音楽を愛しているのだと
思いたいです。もう1曲大変有名な童謡「故郷の春(コヒャンウェ ポム)」共々、永遠に残る音楽を書いた人として、
そして当時の日韓関係の不幸な犠牲者の一人として日本の人にももっと知っていただく価値はあるでしょう。

クラシック音楽系の歌手で私が聴いたことがあるのは、ソプラノのスミ・ヨーがフィルハーモニア管弦楽団をバック
に故郷・韓国の歌を歌ったものくらいですが、金天愛につながるソプラノ歌曲の系譜として味わい深く聴けました。
むしろポピュラー系の歌手の方が取り上げることは多いようで、演歌歌手のヤン・スギョンや加藤登紀子の入れた
録音の方が日本では容易に聴けるでしょうか。確かに歌いよう・聴きようによっては演歌そのもののようにも、クラ
シック歌曲のようにも聴こえる不思議な曲でもあります。
参考文献に挙げた「韓国 歌の旅」では、やはり在日歌手の姜春美(カン・チュンミ)さんが歌った10曲の韓国歌
曲・歌謡が収められていて、韓国の歌を俯瞰的に知るという意味ではお勧めです。民謡の「アリラン」からこんな歌
曲、さらには「サランヘ」みたいな歌謡曲まで多彩な選曲です。              
参考文献:「鳳仙花―評伝・洪蘭坡」 遠藤 喜美子(著)
        文芸社 「韓国 歌の旅」 安 準模(著) 前田 真彦(訳)白帝社  
2018.4.15 


 文化・芸術に政治を絡める愚   

 「学内の親日派銅像は恥ずかしい撤去を要求する韓国の大学生」。韓国の大手紙・中央日報電子版に最近、
こんな見出しの記事が出ていた。名門私大・高麗大の設立者が「親日行為」を認定され、韓国政府が叙勲剥奪の
手続きを行ったことを受けて、同大の総学生会が校内にある銅像の撤去や記念館の名称変更を求める声明を
出した、という内容だ。同様の動きは、名門女子大の梨花女子大でも起きているという。

 戦後70年以上たった今も「売国・売族者」と先祖に遡(さかのぼ)って悪罵(あくば)を投げつけられ、財産や名誉
を奪われる人たち。一族が親日派のレッテルを貼られ、身を縮めて生きていかねばならぬ人たち。民族を日帝に
売り渡した親日派を正しく処断できねば、真の解放はありえない、だって? 到底理解できない恨みの強さ、ある
いは執念深さ、というべきか。

 文在寅(ムン・ジェイン)政権下で進む「反日ナショナリズム」の高騰は自国民向けにはなっても日韓関係の未来
にはつながりはしまい。日本人の心は離れていくばかりだが、親日派たたきは収まらない。特に文も政権幹部に
就いていた2000年代の盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権下の韓国社会で熱を帯びた追及は異様だった。


なぜ一転、親日派批判

 『鳳仙花(ほうせんか)』や『故郷の春』などの作曲者で、朝鮮を代表する音楽家、洪蘭坡(ホン・ナンパ)(1897~
1941年)も、その一人であるのは先週書いた。
抗日・独立のシンボルとされた『鳳仙花』を作曲した洪が、なぜ
戦後、一転して親日派として批判されたのか?

 2000年代に韓国で刊行された「親日人名事典」の記述を見てみたい。
 洪は、朝鮮正楽伝習所西洋楽部などを経て、日本に留学。大正7(1918)年、東京音楽学校(現東京芸大)予科
に入学、15年には、東京高等音楽学院(同国立音大)でバイオリンなどを学んでいる。昭和3年、東京のオーケス
トラで第1バイオリンを担当。9年には、日本ビクター京城支店音楽主任に就任。この間『鳳仙花』のもとになった
「哀愁」や『故郷の春』をつくっている。

 「親日派」として問題視されるのはこの後だ。
 抗日運動にかかわって検挙された後に転向し、12年「思想転向に関する論文」を提出。さらには、朝鮮総督府
の肝煎りで、組織された
親日文芸団体『朝鮮文芸会』に文学者の李光洙(イ・グァンス)らとともに加入。軍部の
宣伝に協力して「正義の凱歌(がいか)」「空軍の歌」などを作曲したという

声楽家で元聖学院大学教授の遠藤喜美子(90)は『鳳仙花 評伝・洪蘭坡』の著者。母校(国立音大)の先輩でも
ある洪を、日本の滝廉太郎や山田耕筰に匹敵する「朝鮮近代音楽の父」とたたえている。

 韓国で洪蘭坡の未亡人に会ったとき、住まいは小さなアパートで経済的にも困窮している様子に驚かされたとい
う。著書を手渡すと、「病床にあった奥さんが『日本人のあなたがこんな本を書いてくれるなんて
』と涙を流して
喜んでくださった」と話す。

 評伝を韓国で翻訳出版する話は、何度も持ち上がっては立ち消えになった。ようやく実現したのは生誕120年
に当たる昨年である。この間、訪韓した際に何度か韓国のテレビ局が取材に来たが、実際に放送されたことは一
度もなかったと振り返る。

 遠藤は思う。「反日教育を受けてきた今の韓国の若い人たちは、この偉大な音楽家について、本当のことを知ら
ないのです」

 もちろん韓国にも、この国民的音楽家を擁護する人たちは少なくはない。
 「親日人名事典」には収録されたが、その後、韓国政府が発表した名簿からは、元大統領の朴正煕(パク・チョン
ヒ)らとともに外されている。言論界にも、洪を親日派と決めつけて、その人生や業績の全てを否定し、歴史から消
し去ろうとするのは「極端な論理だ」とやんわり反論する主張も見られる。


有能だからこそ重用

 ところで、遠藤の著書によれば、洪と同時期に、東京高等音楽学院に留学していた朝鮮人の中には、後に韓国
の国歌と位置づけられる「愛国歌」を作曲した安益泰(アン・イクテ)(1906~65年)がいた。そのくだりを引いて
みよう。《日本全国はもとより朝鮮や台湾などからも優秀な学生がこうして参集した。(略)彼(洪)に続いて翌193
0年の韓国人卒業生の中には特筆すべき4人の逸材がいた
ピアニストの金元福、バイオリニストの洪盛裕、ピ
アノ科卒業の朴啓成、またチェリストで後に韓国国歌となる「愛国歌」を作曲した安益泰である》(『鳳仙花 評伝・
洪蘭坡』から)

 安はその後、欧米で活躍、世界的な名声を得たが、戦時中、満州国建国10周年祝賀曲に関わっていたことや
愛国歌の
流用疑惑まで問題視されて「親日人名事典」に名前を載せられている。
 だが、当時、才能に恵まれた朝鮮の若者が日本へ留学するのは当たり前のコースだったし、優れた音楽家だか
らこそ、時の政権や軍部に重用されたのだ。

「国歌」をめぐっては、北朝鮮にも別の愛国歌があり、晴れて統一がなった暁には新たな国歌を制定したいという
思いを描く人たちもいる。平昌五輪開会式で南北選手団が合同で入場したときに流されたのは朝鮮民謡の「アリ
ラン」だった。だが、日本統治時代に関わるものが全てダメなら、この曲も日本統治時代の同名映画から生まれ
たことをこの連載の1回目で書いた通りである。

 韓国の愛国歌は、凜(りん)として格調高い名曲だ。私が韓国で暮らしたとき、朝一番でラジオ放送開始前に必
ず流されるこの曲を聴くと背筋が伸びる思いがした。

 あるいは、哀愁を帯び、心に響く『鳳仙花』のメロディー、思わず口ずさみたくなる楽しい『故郷の春』を聴いてみ
ればいい。文化・芸術に政治を絡ませる愚かさが分かるはずだ。
=敬称略、

日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)   【海峡を越えて「朝のくに」ものがたり】より


日韓ふるさとの歌 2014.06.01 Sunday 20:00
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故郷を懐かしむ歌はどこの国にも存在するだろう。それはたいての場合、異郷に
あって、生まれ育った地に対する切ない憧れを込めて歌われるものだ。ふるさと
の山河や風物は、離れてこそ無性に恋しくなるものだから。僕が原語で鑑賞でき
るふるさとの歌は日本語の他にはドイツ語、英語、韓国語にほぼ限られる。フラ
ンス語や中国語は勉強不足でまだまだ胸に響くところまではいかない。今日はそ
の中で日本と韓国・朝鮮の代表的なふるさとの歌を取り上げてみよう。まずは韓
国・朝鮮の『故郷の春』、タイトルからも詞の内容からも4月に取り上げるべき
だったのに時機を逸してしまった。来年のその頃まで待ちきれないのであえて今
紹介する。原曲に合わせて歌えるように工夫した僕の翻訳だ。

      故郷の春    詞:李元寿  曲:洪蘭坡

   わがふるさとは山の村
   桃に杏につつじ咲く
   色とりどりの花の城
   友と遊んだ遠い日々

   花咲く野辺に鳥の声
   緑の野には南風
   川辺に踊るしだれ柳
   友と遊んだ遠い日々

その後いろんな場所で老若男女がこの歌を原語や日本語で合唱するのを見てきた。
僕もそのなかに加わって歌ったことも何度かある。特に、
時間的にも空間的にも故郷から遠く隔たった在日一世の方たちがこの歌を歌われ
るときは、聴く方もついもらい泣きしてしまう。原詞は一行が7音5音で構成さ
れているので、意味をあまり損なうことなく七五調で訳しておさまりがいい。各
節の最終行がリフレインになっているが、それ以外の詩句は自然の色彩と、風、
水、鳥の声に満ちていて美しい。

詞は後に児童文学者になった李元寿(イ・ウォンス)という人が、1925年、
馬山公立普通学校5年生(15歳)のときに書き、少年雑誌『オリニ(こども)』
に発表したものだ。それに洪蘭坡(ホン・ナンパ)が作曲して、1931年出
版の『朝鮮童謡百曲集』に収録された。この洪蘭坡という音楽家は朝鮮近代音
楽の祖とも言われ、作曲にとどまらず、ヴァイオリニスト、指揮者、音楽評論
家などきわめて多彩な才能を発揮した人だ。1898年に京畿道の華城(キョ
ンギド・ファソン)に生まれたが、その地名が「華の城」であるところが因縁
めいていて面白い。学校に上がる頃には祖国はすでに実質日本の植民地と化し
ていたので、音楽の勉強のためには日本に留学するのがいちばん手っ取り早い
方法だった。1918年に東京音楽学校に入学するが、翌年の3.1独立運動
への関わりから中途で帰国、再入学が叶わず、1926年に東京高等音楽学院
(現国立音楽大学)に入学して29年に卒業している。その後アメリカにも留
学し、帰国後の音楽活動はきわめて充実したものだった。しかし、1937年、
アメリカ留学中に独立運動家と交流があったとのかどで官憲に捕えられ、拘留
される。そして「転向書」を書かされた上で釈放となるが、結局このときに持
病が悪化し、44歳で他界する。このあたりの伝記的な事実と、彼のもう一つ
の代表作『鳳仙花』についてはまた別の機会に詳しく触れたい。今日は彼が同
胞の子どもたちのために心をこめて作曲した『故郷の春』を存分に鑑賞するに
とどめよう。

さて次に、日本の代表的なふるさとの歌を見てみよう。その名も『故郷(ふるさ
と)』だ。

    うさぎ追いしかの山
    小鮒(こぶな)釣りしかの川
    夢は今もめぐりて
    忘れがたきふるさと

    如何にいます父母(ちちはは)
    恙(つつが)なしや友がき
    雨に風につけても
    思いいづるふるさと

    こころざしをはたして
    いつの日にか帰らん
    山はあおきふるさと
    水は清きふるさと

日本人なら誰でも口ずさめるこの歌は、3番まである歌詞をよく見てみるとけっ
こうむずかしい。小中学生にはふつう何のことだかよく分からないのではないだ
ろうか。1行目を「かの山という名前の山で獲れたウサギはおいしい」という意
味だと思い込んでいたという笑い話すらあるほどだ。何しろ書かれたのがちょう
ど100年前、1914年刊行の『尋常小学唱歌(六)』に収録された文部省唱
歌で、作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一だ。このコンビは他にも数多くの愛唱歌
を作っている。僕らの世代には『春が来た』、『春の小川』、『朧月夜(おぼろ
づきよ)』、『紅葉(もみじ)』などみな懐かしい。

しかし『故郷』の歌詞をよく見ると、特に3番の最初の2行が気になる。「ここ
ろざしをはたす」とは成功すること、「成功したら帰ろう」とはすなわち、「故
郷に錦を飾る」ことだ。では、特に成功もしなかったら故郷には帰れないのか。
「ふるさとは遠きにありて思うもの、そして悲しく歌うもの」なのか。明治期の
文部省が作らせただけあって、立身出世を奨励する匂いが隠せないが、しかしそ
んなことにこだわらなければ、この歌は望郷の思いを歌った名曲として永遠に歌
い継がれるだろう。

実は僕がこの歌に勝るとも劣らず好きな望郷の歌がもうひとつある。それはス
コットランド民謡の≪Comin' Thro' The Rye(麦畑)≫に、『鉄道唱歌』の作
詞者として知られる大和田建樹が詞を付けた『故郷の空』だ。

    夕空晴れて秋風吹き
    月影落ちて鈴虫鳴く
    思えば遠し故郷の空
    ああわが父母(ちちはは)如何におわす

    澄みゆく水に秋萩垂れ
    玉なす露はすすきに満つ
    思えば似たり故郷の野辺
    ああわが兄弟(はらから)誰と遊ぶ

このスコットランド民謡は郷愁を誘う美しいメロディーなのに原詞は内容があ
まりにナンセンスだ。だから曲をパクって大和田のような詞を付けてもよしと
しよう。若い人にこのメロディーを聴かせると、「あ、横断歩道の曲だ」と言
う。僕などはまだ生まれ故郷で暮らしている中学生のうちから、この訳詩で歌っ
て「郷愁」に耽っていたものだ。いま倍賞千恵子の歌唱でこれを聴けば誰でも
望郷の思いに浸れること請け合いだ。

話が脱線してしまったが、『故郷』に戻そう。先に韓国の『故郷の春』を日本
語で歌える訳詩を紹介したが、次に日本の『故郷』を韓国語で歌えるように、
今度はその訳詩を紹介しよう。一番だけだが、韓国語にすると日本語の原詞の
音の数でもっとたくさんの内容が盛り込める。そのあたりのちょっとした工夫
に注目してもらいたい。韓国語訳を再度日本語に訳したものを並べてあげてみ
る。

ふるさと韓国語訳

        ふるさと

    ウサギを追いかけたあの青い山
    フナを釣ったあの清い川
    懐かしい夢は今も目に浮かび
    忘れがたいわがふるさと


これは僕の苦心の訳と言いたいが、実は「今も目に浮かぶ」のところは韓国の友人に助けてもらった。
韓国語勉強会の先生として長年参加してくれているその男性は日本のキリスト教会の牧師さんだ。
こよなく酒を愛し、自ら「破戒僧」ならぬ「破戒牧師」と名乗る人だ。

日韓の「故郷の歌」をそれぞれ、原語と訳語で歌い合って交流すれば格好のアイスブレーキングに
なると思うがどうだろうか。