福田信之先生 追悼の辞

  福田信之元筑波大学長の死を悼んで
      
      筑波大学名誉教授・鈴木博雄 (茨城県阿見町)


 街路樹の銀杏の黄葉が僅かに秋の名残を留める十一月の末日、練馬の愛染院で
は、故福田信之元筑波大学長の葬儀がしめやかに執り行われていた。祭壇の中央
には元気だった頃の福田さんの遺影が飾られ、今にも「よう!皆、集まっている
か」と声を掛けそうに見える。 江崎筑波大学長の理論物理学者福田信之の功績
を讃える弔辞(代読)に続いて「君が中心になって実現しようとした「国際A級の
大学の実現」という筑波大学の創設の理想は今、暫く日本中の諸大学で改革の気
運となって現れて来ました」という友人代表の宮島龍興元筑波大学長の弔辞は、
大学改革、そして筑波大学の創設に後半生を捧げた福田さんへの鎮魂歌のようで
あった。

 また福田さんと一緒になって筑波大学の創設に尽くした小西甚一さんは、名誉
教授の会を代表して「福田さん、筑波大学の創設になくてはならない働きをした
人を挙げるとしたら、必ずその一人にあなたの名前があるでしょう。大学が過激
な学生運動によって閉鎖され、研究と教育の機能が奪われた時、あなたは敢然と
それに立ち向かった数少ない大学人のひとりだった。

 あなたの呼び掛けで新大学創設を目指す同志が結集し、あらゆる不当な罵詈雑
言雑言を浴びながらも新大学創設に邁進出来たのもあなたが皆の中心にいて暴力
に毅然とした姿勢をとっていたからでした。……その過程のなかでは、時にはあ
なたに迷惑をかけられて腹を立てたことも幾度となくありました。

 しかし、大げんかをしたつぎの日にはケロリとした顔で親しそうに話しかけて
くるあなたを見ると、誰もが苦笑するよりほかはありませんでした。あなたには
そんな不思議な人徳がありました」 と弔辞を述べた。福田さんの憎めないヤン
チャぶりを指摘されて、遺影はかすかに苦笑したかのようだった。

 福田さんは七〇年代の日本が自由民主主義か共産主義かの二者択一を迫られた
危機の時期にマスコミのあらゆる中傷にも負けずに敢然と自由民主主義支持を表
明して物理学者らしい理論的な論法でマスコミや進歩的文化人が醸し出すムード
的な革新の幻想を激しく批判した。 このため、福田さんはマスコミから「タカ」
派の代表のようなイメージを与えられ、思想会での悪役を演じさせられたのであ
る。明敏な福田さんはそんなことは百も承知であえて危機に立つ日本のために産
経新聞の「正論」欄などで言うべきことははっきりと言っていた。 評論は時事
問題の解説ではなく、自己の言論的生命を掛けたぎりぎりの批判でなければ意味
がないというのが彼の信念であった。

 今日、日本の緊急課題として規制緩和や官僚主導の政治に批判が向けられてい
るが、二十年前はそんな声すら聞かれないほどの官僚大国日本だった。 そんな
状況下で、筑波新大学の創設は全国の大学や日教組、マスコミの一部が社共両党
と歩調を合わせて筑波新大学反対に血道を挙げ、国民世論を二分するかのような
政治的争点になっていた。自民党の一部にも世論の反発を気にして「票にもなら
ぬ大学のこと」で野党と対決する愚を指摘する声があったほどだった。

 しかし、時の総理田中角栄は混乱する日本の大学を正常化することは国家百年
の大計であるとして断固として法案通過に全力を挙げることに腹をくくった。今
なら官僚はこうしたマスコミの評判の悪い政治課題は敬遠するのだが、当時の文
部省の担当官も反対を気にせずに協力を惜しまなかった。財界も当時の経団連会
長の土光さんが筑波大学創設の意義をよく理解してくれた。私大連会長の故大浜
信泉早稲田大学総長も応援をしてくれた。

 このように政、経、官、学界の大物が挙(こそ)って支持してくれたのには、大
学紛争という社会的状況があったこともさることながら、福田さんが身体を張っ
て、これらの人々に理解を得るべく夜討ち朝駆けの獅子奮迅の活躍があったから
である。 東京教育大学というあまり政、財、官界にコネのない非力な大学が五
年間にわたって国立大学の建設予算の半分を投下して、七十万坪というかつてな
かった広大なキャンパスに新構想大学を実現できたのは大学つくりの困難さを知っ
ている人なら奇跡としか思えないようなことである。

 私は福田さんの遺影を前にして「ご苦労さんでした」と頭を下げた。その時、
「同志は逝きぬ」という実感がこみ上げて来た。



     福田先生のご霊前に

 福田先生、先生と最初お目にかかったのは、一九七〇年代初頭、東京教育大学の
筑波大学準備室でしたね。

 大学の事務所が家庭的な温かい雰囲気であったことは、筑波大学へ移転しても一
貫して変わらなかったことが印象的です。

 去る十一月三十日、先生の告別式には、筑波大学をはじめ、政・財・官の方々、
五百名が参列され、二四〇通の弔電、八八本の生花が寄せられ、先生とのこの世
のお別れを惜しみました。我々もあらためて先生が国家的にいかに大きな貢献を
されたかを再認識させていただきました。

 江崎学長は、福田先生の学問的業績、大学への貢献を冷静に評価され、小西先生、
宮島先生の友情溢れた弔辞には、涙を禁じ得ませんでした。

 先生は国家から惜しまれる有為の人であるだけでなく、我々にとっても貴重な方
でいらっしゃいました。

 先生自身は「一学者として米国に残れたものを、教育大のOBの財界人に頼まれ
て大学作りをするようになってしまった」とおっしゃっていましたが、憂国の情
が先生を学問の世界だけに閉じ込めておかなかったのだと思います。

 先生は筑波大学と同じように筑波大学を愛するが故に、なおさらそのよって立つ
日本の学術風土の改革に情熱を注がれましたね。

筑波大学創立の理念〝学問の国際性、学際性、社会性、未来展望性〟を民間で生
かすべく、機関車のような先生に導かれて、世界平和教授アカデミー、日本学際
会議、国際教育研究所、二十一世紀ビジョンの会(八十年代ビジョンの会)、新
しい文明を語る会、ナショナルゴール研究プロジェクト、グローバルゴール研究
プロジェクト等を次々と発足させました。

 先生のアイデアと情熱をフォローするには、何十人が束になってもフォローでき
ないくらいすさまじいものでした。

 朝となく夜となく遠慮なく完全主管をされる先生の御熱意に対して、奥さまに申
し訳ない気持ちもしました。

 私たちは先生から愛国ということを具体的な政策の中から学ばせていただきまし
た。時代のトレンドを鋭敏に感知され、いつもその的確さに感銘しておりました
が、これは、先生が他分野の最先端で活躍する数多くの人々との出会いの中で感
知されたもので、単なる机上の学問を教えている学者には決して真似のできない
ことだと思います。

 松下正寿先生を頭脳とし、福田先生を心臓とし、私たちが手足となって高麗鼠の
ように忙しく活動した在りし日のことが懐かしく思い起こされます。特に先生の
御本やナショナルゴールの報告書をまとめるに当たって、先生と何回も読み合わ
せをやりましたが、先生は数理的頭脳だけでなく、国語力、漢字表現力において
も勝れていらっしゃるのに驚いたものです。

先生は生地で生きられる方なので、当初「おれは無神論だからな。宗教のことは
よくわからんが…」とこぼしていらっしゃいましたね。又、先生が「痩せた尾崎
君の体で、どうしてこんなにエネルギーが出てくるのかなあ。神様はいるのかな
あ」とおっしゃったことを気恥ずかしくを憶えております。

その後、先生は「このように青年を献身的に奉仕せしめるように導いた文先生と
いう方は、教育者として立派だ」と文先生に対して尊敬心を持たるようになり、
直接文先生とお会いされ、その時代の洞察力、スケールの大きさに感銘されるよ
うになりましたね。

「文先生と比べれば自分の為していることは小さいことだ」と先生はよくおっしゃっ
ていましたね。

 「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」の諺の如く、我々には想像を越える世界です
が、先生は、文先生が世界的共産主義と対決し、平和への道を自力で開拓されて
いる姿に共通するものを見い出され、心を許せる同志として信頼と尊敬をされて
いたように思います。

 学長選の思いがけない人々の水面下の行動に「ユダに裏切られたイエスさまより
ましだな」と自らを慰められたこともありました。左翼的活動のレコードが米国
国務省に残っていて、ハワイで七十二時間も獄に拘束された時には、屈辱感で帰
国された先生は、車に這ってようやく乗られる状態でした。その後、「六回も獄
中で耐えた文先生のことを思わなかったら、とっくに死んでいたよ!」とおっしゃ
いましたね。

 人には傍若無人、何者も恐れない先生に思えたかもしれませんが、子供のように
無邪気で屈託のない先生でいらっしゃり、厳しい人生の局面において、イエスや
文先生を見つめるようになられたと思います。

 又、統一思想の研究会では、先生の専門の素粒子論の世界の話をされました。

 「真空状態にエネルギーを加えると、素粒子が飛び出す。それは非連続的整数で、
きれいな数式になる。神さんの知性とも言える神秘な世界だ」とおっしゃって下
さったことは、我々には、大変励みになりました。国内には誤解・中傷の多い嵐
の中にあって、物理学会の大先輩、U・ウィグナー先生、ワインバーグ先生がア
カデミー活動の背後にいらっしゃったことは、先生にとって大きな慰めだった様
です。又、先生は、アカデミーを通して韓国へ行かれ、日帝時代のこと、安重根
の存在等に驚かれ、このような事実を日本に知らせる一方、韓国の学者、留学生
を積極的に招聘し、新しい日韓文化交流の流れを作られました。

 そして誠実な人柄の尹世元韓国物理学会会長をはじめ、多くの親友を韓国の地、
アジアの各地にも得られました。ここ数年、会う人々から「福田君はどうしてい
る」とよく聞かれました。先生は六十代までに人の何倍もエネルギーを燃焼し尽
くされました。愛妻家であられる先生は、晩年には罪滅ぼしをするかのように、
奥さんの相手をしていらっしゃいました。最近奥さんの看護を兼ねて、養老施設
に入られたと伺っていました。

 去る十月、お電話をした折り、「尾脇君泊まって行けよ。夕方には練馬に帰るか
ら!」と張りのある元気な声でおっしゃるので「看護が行き届いて健康になって
いらっしゃるのかな」と思って安心しておりましたら、突然の訃報に本当に驚き
ました。

このような形で一カ月後に先生の言葉の如く、練馬のご自宅でお会いしようとは
夢にも思いませんでした。

 晩年の肉身の不自由な地上生活よりは、かえって肉身の殻を脱いで自由の天地を
闊歩されるのが先生らしいと思います。

先生、御生前、いろいろ、ありがとうございました。余裕がおできになったら、
どうか我々を見守り、お導き下さい。

平成6年(1994年)12月10日 追悼会   大脇 準一郎

敬愛する故福田信之先生 侍史

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福田・久保木記念対談